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2008年8月 7日 (木)

祭りのあとの寂しさは

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ここのところ、朝のヒルズへの「通勤」は、通常の駅への最短コース(これは日本路地裏学会でも評価の高い、「靖国の家」などの前を通る模範コース)ではなく、隅田川ぞいの公園を行って、住吉様の前の鳥居をくぐるルートである。 火曜はその前の晩に例大祭はおわっているので、着々をその後片づけをしていた。御神輿などはユニットになっていて分解が出来ることが初めて理解できた。これだけコンパクトになるから、大きいとは言えない倉庫に格納できるのであろう。 神社前からカナルの脇を歩行し、小橋から昨日まで大にぎわいであった、佃囃子の仮設舞台の前を通る。団扇が茣蓙の上に散らかっているのも、祭りの後の寂しさで良い感じだ。 どうも、自分の場合、例大祭はそのお祭りの後の「寂しさ」を鑑賞してその風情を楽しんでいるようなところがある。そのお囃子のその先の「獅子頭」の置かれている葦簀張りの小屋の真ん中には、昨日まで賑わいの中心だった、獅子頭が薄墨色の闇の中に安らいでいた。 祭りの後の寂しさは、、、というのは、1975年頃、ウイーン時代に知り合いの日本人から借りて聞いた吉田拓朗である。それまでの1973年までの「日本滞在」では忙しくて「不良少年の聞くフォークソング」などは聞く暇もなかった。ただ、新宿駅西口のフォークゲリラの撮影に通っていたばかりである。 ウイーンで聞いた「祭りの後の寂しさ」は、実に刺激的であって、自分はこんなにも「日本人」であるのかとその事の方にびっくりしてしまった。むろん、借りたのはカセットテープである。 上の画像は、ポケットの中からR8を出して撮影したのだが、日常使いのデジカメはコンパクトデジカメ以外にはちょっと考えられない。さらに上の画像はその望遠系の焦点で撮影しているのだ。GRD2も良く使うのであるが、200ミリまで引っぱれるレンズはやはり便利である。其の理由は別に遠方の被写体をクローズアップするというのではなく、前景から目的のモチーフまでの空間を圧縮して描写することにある。 望遠系での撮影はいわゆる「空気感」がそこに出やすいのも面白い。

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コメント

祭りのアト・・・・本当になにか感じますね。
中間試験をおわって家に帰る中学生の心境に近いです。大祭は3年後か!!

投稿: 周徳古 | 2008年8月 7日 (木) 07時02分

長徳先生は写真家であり文筆家であるわけだから、なるほど、過去に膨大な著作を著しているわけだ。
過去に・・・というのは、その時代々々の証言者あるいは記録者あるっていうことだよね。長徳先生はカメラを手にしてからずっと間断なく時代を撮りつづけてきたわけでしょ。
時代と言うのは時の流れなんだろうし、あるいは時代は繰り返すっていうことも言えるのかも知れませんね。

これは私自身の問題なんだけど、70年代に写真を一杯撮っていて、その時代の写真の基準というのが自分なりにあるわけなんで、しかしながら悲しいかな、その若かりし頃の自分の写真のレベルっていうもの(もしくは写真への充足感かな)に、現在の自分の写真が達していないっていう不満足感が付きまとっていたんですよ。(あーっ、下手で長い文になってしまった)

それで、その不満足感というもの。それが付きまとっているっていうのは、それは自分の撮影技術とか意欲とかが不足しているのじゃないか、あるいは使っているカメラとかが自分に見合っていないのではと、そういうように長らく考えていたんですよ。

しかし最近になってそれは間違いであるのだ、と考え直すようになりました。
不満足なのは私の腕と写真への意識が未熟なのではなく、カメラが変わったからでもなくて、何となればその不満足感とは、私がちっとも変わらずに、逆に一方的に時代の方が変わってしまっていたからだと気づいたわけです。(笑)
私は70年代に写真を撮っていた。しかし80年代に入って完全に写真から足を洗って、再開したのはデジタル時代の2000年になってから。実に20年間も休止していて、いきなり過去から2000年の現在にワープしたんだよね。(SFみたいだ)

だから使っていたカメラも60~70年代のメカニカルカメラから、いきなり吹っ飛んでAE・AF・オートローディングのデジイチなんですよ。
これって写真的には浦島太郎の世界なのかなって思いますね。(笑)
自分の脳味噌の中は70年代の写真世界なのに、現実の被写体世界は2000年代。これはギャップが大きい、とてもじゃないけれど満足感が得られるとは思えませんよ。

ところが不思議に上手く撮れる、写真として満足感が得られる場合もあるわけですね。
それは何かと言うと、「祭り」なんです。祭りの写真です。商業主義のイベント祭りなんかじゃなくて伝統的な、しかも地元でしか知らないような氏子祭りですね。
たぶんそういう祭りには、時代の流れなんか止まってしまっていて、二十数年前の過去からやって来た浦島太郎にも優しい世界だったということでしょう。でも時代が止まったのが祭りではなて、時代の流れなど超越しているのが祭りなのだということかな。

もうひとつ私が満足して撮影できたのが過疎の島々です。これは時代に置いてきぼりを食らっているから当然ですよね。そこには60~70年代らしき世界が今も静止してひっそりと息づきながら現存しているからです。
まあ、こういうのは今のカメラマンが国内の被写体に満足できなくて、リアリティを求めて海外に撮影場所を得ているっていうのと同じですよね。

もう今の街並みは昔とはぜんぜん違っているんです。こう書くと昔を懐かしむジジイな奴だなって思われるかも知れないんだけど、地方は実は案外に変わっていないんですよ。立派な道路は変わりましたが。(笑)
変わったのは街並みではなくて、本当に変わってしまったのは其処に住んでいる人間達ですよ。この国に住んでいる人達です。無意識に時代に流される多くの人々が変わったんですね。

私もカメラを再び手にするまでは、そういう時代の空気の変わりように気がつかなかったんですね。この国は(日本だけじゃなく全世界が)変わってしまった。そういうことに気がつくようになるには、実際に今の時代の写真を撮って、それと自分の脳内の過去の写真記憶と見比べて、そして違和感を持ち初めて、それで初めて気が付いてしまったということです。

ところで私は美人しか写真に撮りません。(笑) 美人とは無論心の美しい人ですね。上辺だけの見せかけ美人なんて撮った時にはカメラは不調を起こしてしまいます。どんな人でも写真に撮れば、その人の心の中を垣間見ることができます。
その手の軽い能力がある人ならば、今の時代、よっぽどの吟味した撮影場所、被写体の選択をしなければ、写真は上手く撮れない、満足感は得られないという筋合いになりますよね。(笑)

写真と言うのは、実に驚くべきことに時代の軽重を如実に写しとる、そういう不思議な鏡のようですね。実に敏感でセンシティブな計測器だと思います。(そういえば流行歌なんてのもそうですよね)
そういうことがだんだんと解って来始めると、写真ってけっこう面白いじゃないかと思えるようになりました。
そういやあ、カメラにしても時代が確りしていた時に作られたものが良いですね。それで2000年以降のカメラも悪くないと思いますよ。えー、リコーのコンデジも優れていると思います。私も使っていますから。(笑)

投稿: さぬき | 2008年8月 8日 (金) 00時58分

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