フォト

オンラインギャラリー

バナー

無料ブログはココログ

チョートクカメラ塾ブログ

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月31日 (日)

日本路地裏学会リスボン調査

R0027121

日本路地裏学会は、日本の路地だけではなく、世界じゅうの路地を調査しているわけだが、昨日は桃木会長の指導のもとに、佃島路地裏調査を行った。ちょうど9月末放映予定のNHKのハイビジョン番組の取材も兼ねていたので、それなりに「力」(りき)が入った。

路地裏の防火用水の上に展開する、箱庭はそのまま、制作者の心理状態をそこに表現した心の鏡であるのかも知れない、などと勝手ので放題を、もさもさ毛の生えた、ライコスのショットガンマイクに向っていいながら、それぞれに路地の箱庭やら、東京ガスの表示やら、マンホールの蓋や、雑草とか苔とかを観察した。
こういうのはハイビジョンでその細かいデテイルがでているようになると、かなり面白いであろう。

苦節数年。日本路地裏学会にもようやく表通りの日ざしがあたってきたわけであるが、そうなると路地裏ではなくなるわけで、これが新たな階級闘争の火種になりそうだ。

一方で日本路地裏学会リスボンレコンキスタ調査団は目下、アルファマ、バイロアルト方面を鋭意、調査中である。アルファ魔の路地などは、その歴史からすれば、佃などよりその時間は段違いである。
さきほど、本部に入電したリスボンレコンキスタ調査団長からの報告によれば、気温24度の快晴で、実に路地裏日和であるとのこと。

残念ながら、あたしの10数年のなじみであった、カルロスのやっていた中古カメラ店(いわゆるリスボンの見えないカメラ店)は閉店になっていて、かわりにこのような看板がかかっているそうである。
この画像が現地からの第一報。日本路地裏学会リスボンレコンキスタ調査団代表撮影。

見えないカメラ店はもう無くなったと思うと感慨深い。この店ではライカM2のブラックとか、M2ーMとか、M5とか、ワイドローライとかかなりの散財をしたのである。最初はエスクードスで買い物をして、ユーロになってからも財布に無理をさせて、いろいろと買い漁った。そのせいで、品物が無くなり閉店したのではとちょっと反省。

古いカメラ店がインターネット関連のショップになるのは時代の趨勢である。一方でインターネット上での中古カメラの通販は好調である。
この型遅れのPowerBookが世界の中古カメラ店に通じているのは便利だが、一方で、飛行機で20時間かけて出かけるリスボンのカメラ店への道は永久に閉ざされてしまった。
パソアのリスボン案内にも中古カメラ店のことは出てこない。

下の画像は、路地裏学会佃調査。青トタンをバックに竹箒の軸が地球の自転軸と同一であることを調査中の桃木会長。ユーラシア大陸の西の端のリスボンと、東の端のさらに東の倭の国で路地裏調査が同時進行しているわけである。
Rimg8133

2008年8月30日 (土)

ハイビジョン

Rimg8098 ハイビジョンのテストの放送を見たのはすでに何時のことか忘れたが、その当時の視神経の震えは今でもよく記憶している。

そのリアルな感覚は現実よりも見る人をして、その視野を方向づける意味でさらに強烈である。

ハイビジョンは人間の眼よりもよく見ている。

NHKで9月末に1時間55分のハイビジョン番組をちょっとお手伝いすることになって、2日ほどカメラクリューと仕事をした。11年前に大塚ねねさんと45分のハイビジョン番組に出た以来だから11年ぶり。

佃のカメラ倉庫とか、ヒルズの仕事場とか、日本路地裏学会推薦小路とか、月島の立ち飲み屋なんかを回った。

感心したのはそのハイビジョンのカメラである。80年代にウイーンを散歩していたら、NHKのハイビジョンのカメラクリューが世紀末建築の撮影をしていた。カメラからケーブルがつながっていて、その大本には大型のバンが停まって、それの全部でハイビジョンシステムを構成しているのだ。

10年ほど前、日経BPが佃の37Fに取材に来たとき、ハイビジョンカメラは小型のべ−カムなみになっていたのでびっくりした。それが今度はさらに小型になったので、さらにびっくりした。

カメラマンさんに聞いたら、今でもプロ用カメラのファインダーはモノクロのブラウン管であるそうだ。もうとっくに液晶のカラーになっていると思っていた。まあ、現場ではモニタを使用するから問題ないのであろう。

サウンドマンさんの持っているライコスのウインドジャマーのついた、ショットマイクは同形のやつを持っているので、撮影現場(うちのこと)で、それを見せて呆れられた。でも、往年のサウンドマンは、ナグラの録音機であったが、最近では録音はハイビジョンカメラでやっているから、鞄の中はシグマのミキサーが入っている。

それがちょっと寂しい。クリューはすでに仕事を開始した20年前にはアリフレックスもナグラもなかったそうだ。これが時間のスケールというやつだ。

2008年8月29日 (金)

森伊蔵

Img10211826432 今でもそのようなやり方なのかどうか、それは分からないが、数年前まで森伊蔵は日本航空の4月の欧米便で免税販売していた。価格は忘れたが2000円台であったろう。この瓶は免税仕様なので、その容量がちょっとだけ多いのである。

免税販売は前の方からカートが回ってくる。だからたまたまマイレージ特典などでFに座っているときには最初に買うことができた。

しかし普段、Cに座っていると、Fのよくばり客が全部買い占めてしまうのではなかろうか、と余計なことに気を使ったものであった。

記憶がはっきりしないが、公平を期するためにお客に1本ずつの販売であった記憶もある。それでありがたいのはFクラスだと、森伊蔵を食事の時に飲ましてくれることだ。Cクラスは普通の尽空と、吾空だ。

しかし森伊蔵はだから特別にうまい焼酎であるはずもなく、自分は人間が安上がりだから、一番に愛用しているには、宝のカップである。

それでもせっかく、機内で買ったわけだから、マンハッタンのエンパイヤのすぐ南のホテルにチエックインして、近所のデリカテッセンに行くのはめんどうだし、ホテルの下、五番街の角に十年一日のごとく店を出している、あれはケバブ屋なのだが、そこのチキンコンボかなにかを買ってきて(6ドルくらい)それを肴にして森伊蔵の1本もあければ、そのまま時差でよい睡眠に入ることができた。

帰りの日本航空でも1本の森伊蔵を買って戻った。しかし日本では飲むべき焼酎はたくさんあるので、口のかわった森伊蔵よりもいつもの宝カップに手が出るので、そのままニューヨークから持ち帰ったビンのことは忘れてしまう。

それから半年経過して、たまたま焼酎のきれた時などに、戸棚の中から忘れた森伊蔵が出てくるのはうれしい。

これが楽天の通販などだと、300ドル以上するのは異常である。

おそらく、贈答用などに使われるのであろう。

2008年8月28日 (木)

D700でISO6400

9月になったら、ロシアに取材に行く。

その行き先はレニングラードだ。レニングラードは以前からその上空をたびたび飛行していて、それはたいていは夕刻なのである。これは自分の乗るエアラインの関係で行きも帰りもそうなっているのであるが、いったんそういう経験が前頭葉に貯えられると、レニングラードは常に永遠のたそがれと思えてくる。
そのレニングラードに着陸したいと思っているうちに、クレムリンから赤旗が下りてぼっとしている間に、すでに20回近く地球が自転(ごめん、公転の間違い)してしまった。

それで町の呼称は以前に戻って、サンクトペテルブルグとなったが、これはコンタックスがキエフになって、それがまた元のコンタックスに戻ったような次第だから、別に気にするまでもない。

今回の撮影には●×▲カメラ、つまりアサヒカメラの連載とか、本、ブログでおなじみの覆面をしたソニーα200に高倍率のタムロンレンズ(まあ、OEMだからソニーもタムロンも同一である)と、もう一台はニコンの新鋭機D700を借りて、さらに広角系の12ミリなどが使えるように、エプソンR-D1sと、リコーのコンパクトカメラを数台という陣容の予定だ。
各種のカメラととっかえひっかえ使用するつもりはなく、なにしろ「ロシアの奥地」に行くのだからバックアップの意味もある。

ソニーα200の前のα100は仕事で使用していたが、カメラに詳しい編集者さんだと「そんなアマチュア向けの一眼レフで大丈夫ですか」という。
デジカメのクラス分けへの不思議はそこにあるのであって、これがリコーGRD2だったりすると、逆に信用される場合があったりするのだから、奇態である。

こういう場合、そういう連中のためにニコンD700を借りて彼らを沈黙させようという計画だが、編集者さんの中には自分などよりずっとデジカメおたくがいるから、「D700はあれはアマチュア用です。なんでD3じゃないんですか」という意地悪な質問をしてくる人間も居そうだ。そういう悪意の質問は一切無視することにしよう。

冗談の与太話はさておき、この前の土曜の荒木町のアローカメラシドニーの常連さんで、ニコンの開発の人がいる。帰りがけに「D700は感度6400以上で使えますから、、」との話だった。昔のデジタル一眼レフにはそういう高感度のがあったが、その画質は荒れ荒れであって、まるでデジタル写真の森山大道みたいでそれはそれなりに感心した。

ところがD700を感度6400で撮影してみて、これはかなりすごい。すごいというのは、普通の雑誌などが要求する夜景の条件を完全に満たしているのである。

下の作例はD700に大昔のオートニッコール200ミリf4をつけた撮影だ。サンクトペテルブルグのネバ川にかかるなんとか橋の夜景はカット表に入っている。規模は比較にならないがそのテストのつもりだ。
この永代橋はすでに20年近く昼夜に撮りつくしたものだが、大昔8x10カメラでこの橋を撮影する時にはf64で3分というのが基準であった。だから大型三脚は不可欠だったが、夜景が手持ちで撮影できて、しかも画質が乱れないのはすごい。

それで最近では海外ロケには三脚は持参しないのだけど、今回も三脚は持参しない。
それと大昔のニコンF時代のレンズがそのまま使えるのがいい。手元の20、28,35、85.105、135.180、200、250、300、350、400、500、600.800ミリがそのままD700に転用できる。ただし、ゴミの乱入があるのであまりレンズ交換はしたくないが、D700はあまり埃は入らないらしい。撮影のごみテストではかならず空を撮影してみるのである。それでゴミチエックをする。

実はどんなゴミが付こうが、それは印刷段階で消してもらえるのだけど、納品したDVDの画像の数千のカットに全部ごみがついていたらこっちも100万円の請求書はちょっと書きにくい。

Dsc_1149

2008年8月27日 (水)

ライカM8の宣伝戦略

R1157908この前の土曜のシドニーは面白かった。
ダライラマを撮影した高校生でスナップの巧い青年が彼の北海道旅行のモノクロスナップを見せてくれたり、ライカMP突撃隊長が、救出したニコンSのブラック(リペイント)を持ってきたり、日本の広告写真家のパイオニア、ギブン岩佐さんの甥御さんにあたる紳士が超珍しいパノラマ365度カメラを持参したりであった。
その中でこの前のシドニーのスナップをくれたカメラ人類さんがいたが、(それは奥様が単身赴任の旦那を九州から激励にきた、その時のスナップである)そのプリントを風変わりな小さいパンフレットに挟んでくれたのである。

それは小形な40頁ほどの、ライカM8のセールスプロモーション用の小冊子である。そのデザインは独逸で製作されたもので、なかなかにレベルが高い。もともとドイツ語版であるのを英語版、フランス語版があって、ついでに日本語版も製作したらしい。

表4を見ると、右下に小さく0807-FE10Kとあるのは旧ライツ時代からの管理番号である。すなわち2007年8月印刷でその後のFEというコードは不明だけど(まさか極東の意味ではあるまい)10kとあるのは、1万部刷ったという意味であろう。

このパンフの偉いところは、独逸人のライカM8への考えの基本を述べたものだから、jもともと独逸的なものに対してのコンプレックスという感覚がない。同様なパンフをもし日本で製作したら、とてもへんてこなライツの光と影と伝統の礼讃というようなものになってしまうであろう。
それが一皮むけていて、粋なパンフである。このノーフラッシュの撮影の長所を示す見開きなどは、同じカメラ作りをしていても、日本と独逸とではその考えがいかに異なるかが良く分る。

M型でしかなし得ない描写という見開きのセクションでは、「M8では一眼レフには一般的にそなわっている、ローパスフィルターをあえて採用していません」とある。これが元凶で、紫かぶりが出て、その為にリー社長はお詫びの手紙に4000部サインしてとこぼしていた。これが当時のM8の販売実数に近いのであろう。それでマルミのフィルター(ブランドはTIFFEN)を世界中に発送したわけである。

ライカM8は相変わらず高価だから手が出ないけど、このパンフは無料でヨドバシなどに置いてあるらしいから、手に入れるとライカM8の神髄が分り、買わないためのお守り、あるいは買うための背中押しの効果がある。

想えば、昨年のちょうど今頃にライカ社のステーブリー社長以下、トップの3名様がヒルズの49階を訪問したのである。その当時の社長の話では、今度のフォトキナでは世界がびっくりすることが3つあるという話だった。

当のリー社長がすでに辞任してしまった事実をその「三つの吃驚」に入れて良いのかどうか、それは分らないが、いい加減な刺激にはもはや興奮しないライカ人類を吃驚させる3つの要素とはさてさて何であろう。

あたしが愚考するに、
その1はフルサイズのライカM8−2の登場。
その2はノクチルックスの新レンズ50ミリf0.90の登場。
その3はちょっと思いつかないが、ライカ社が再度どっかの巨大メーカーの傘下になること。

ここらへんなら、充分に吃驚だ。
何時も、ライカ社のフォトキナ新製品には期待を裏切られたこともあった。今回も、予言された3つの吃驚が、双眼鏡のラインナップの充実とか、ライカマークの付いた、日本製デジカメの新製品とか、ライカマークのついた高い日本製交換レンズの登場程度でないことを祈るのみだ。

2008年8月26日 (火)

ムターx0、7

Dscn0362ebayとヤフオークションのことを発売中のアサヒカメラ、「かんれきからの写真楽宣言」に書いている。

そこでは先輩めかした各種の心得を伝授しているのであるが、さて実際にebayの危険な物欲のるつぼに投げ込まれるとその物欲引力圏から脱出するのは容易ではない。欲望のブラックホール。

独逸語でムッターはお母さんである。そのムッターを亡くしてから10年近くなるのであるが、このローライのコンバージョンレンズは一字違いのムターである。

亡き母を想う鎮魂レンズ。これは美代子さんの供養になるから買いですね。

 

これはマスターレンズの前に装着して、75ミリの標準レンズに広角レンズのまねごとをさせようという「こしゃく」なレンズでもある。80ミリのマスターレンズなら、56ミリ相当。これはワイドローライよりも1ミリ長いレンズになる。75ミリのマスターレンズなら、52.5ミリになってもっと広角だ。これはフジタ66用広角レンズの52ミリよりコンマ5ミリ長いわけになる。

まあ、どうでもよいか。

こういう「ゲテもの」には誰も真面目なカメラ人類はひっかかることはないであろうと思っていたら、昨年の渋谷の漂流者のルデコでの写真展の中に、赤城耕一百貨店の店長がこれを付けたローライを肩から下げている、そのカメラ部分のクローズアップの画像があって、なかなかいいなあ、ほしいなあ、と思っていた。

自分はワイドローライを持っているので、こういう「反社会主義的アクセサリー」は本来は糾弾すべきなのであるが、カナダのセラーが出していた、このレンズは0ビッドで誰も入札者はいない。

それで締め切り1秒前にビッドしてゲットしてしまった。また無用の物を買ったわけであるが、オークションはもともと無用の物を買う場所なのである。

ムターの0x7倍はその周辺が流れるのでつとに有名なレンズであるが、そういうやくざなレンズほどむしろ好ましいのは言うまでもない。

9月のカメラ補正予算はこれで使ってしまったので、もし可能なら年末までカメラとレンズは購入しない予定だが、さて年末まではまだ4か月もあると思うとはななだ心もとない。

2008年8月25日 (月)

金曜のロケハン

R1157827 金曜日。
26日火曜の扶桑社の季刊文芸誌エンタクシー連載記事「カメラと歩く」のためのロケハン。

本番前の調査である。場所は次回の正客である、平カズオさんのライカM3とこの界隈を歩くのだ。
2006年6月に亡くなった平さんが、小石川区林町の出身であることは、奥様からお聞きするまで知らなかった。つまり小学校も中学校も音羽から丘をふたつ、谷を3つ隔てたお隣なのだ。その間のお茶の水に通っていたのが、福田和也さん。

平さんの背景を知らなかったのは、別に自分の怠慢ではなく、平さんともっぱらドイツはケルンの写真機見本市であって、取材をしている仲なである。
だからケルンのカメラ店のライカの在庫に関しとかデジカメの未来に関しては意見を戦わしたけど、小石川区のことはついぞ話題にも出たことはない。

最後にケルンに行ったのは自分の場合、1998年であるからすでに10年前だった。実は今回も9月にドイツに行くスケジュールであったのが、事情によりサンクトペテルブルグとモスクワに同じ時期に行くことになった。

まず、半径50キロの土産もの店から、ゾーリンゲンのナイフとオーデコロン4711が売り切れて一斉に姿を消す、この日本人の大移動の時期にわざわざ、ケルンの狭いホテルの部屋で寝ることもない。

平さんの仕事を再認識したのが、この前のニコンサロン銀座のベルギーの写真展だった。そのモノクロの大型プリントの優秀さについては、また書くこともあろうが、写真家はいなくなってから、作品で勝負ということを実感した。

平カズオさんの幼年時にこの中山道と白山通りの町並みはいったいどのように彼の目に映ったのであろうかと歩行して、(ここから食い物モードに急激に変化するのだが)最近、辛物好きの間でわだいになっている食堂「大沢」のドアを開ける。

ときに午前11時40分。
「いちばん辛いの」とお店の女性に注文したら「辛いですよ」と云われたので「あたしは、インドに辛いのを食いに行ってるから」と弁解した。
この弁解は事実ではない。インドにカレーを食う行脚に行ったのは一昨年の11月のことで事実だけど、それは「本場インドより日本のカレーの方が超絶的に辛い」という事実を結果として発見したのだ。

それでごく普通のカレーに紅ショウガのついているカレーは食品の存在を超えていた。自分で食える辛いライスの限界。涙総動員令。
せっかくのカレーの香味が唐辛子の辛さで圧殺されてしまったのは残念だ。

それから、カレー酔い状態で本郷通りを超えて駒込病院の裏手のかぎ型小路がカレーカラーの黄色である。それは幼稚園だった。そのクランク小路をすり抜けて、そのまま不忍通りに抜けようとしたが、これがうまくゆかない。その方面に抜ける道は存在せず。本駒込2丁目(ここは非常に広い街区)をたどっていったら、知らぬまにまた本郷通に出て白山上に戻されてしまった。バミューダトライアングル。
まるで手品だ。

本番の日の行程は本駒込から不忍通りに出て、最終目的地は藍染川の根津の甚八である。
航路を再点検しないと遭難の恐れあり。

2008年8月24日 (日)

視界良し

Dsc_0984

佃の部屋の眼前は隅田川である。
隅田川はこのタワーに向って真直ぐに流れてきて、そこでわずかに右に屈曲する。それで部屋から見るに隅田川の真上に部屋があるように空間認識できるのも一興だ。

隅田川から下って、眼前北側には亀島川がそそいでいる。その亀島川水門の先は南高橋だ。荷風が墨東を徘徊して亀島川の土手で月を愛でた名所がここだ。
これは戦前のことであるが、自分の20才当時でもここは都電が水路の脇を狭そうに通り、その前は荷揚げ場であった。そこには世界の果て感覚があった。

その荷風の月を見た方向に、今は高層マンションの林立があって、荷風が見た明月の下の「むらくも」が存在したその空のあたりに自分が居住しているのも、時代の変化というやつだ。

ベランダからの視界で残念なのは、その亀島橋の水門はあまりに頑丈なので、亀島橋を含めて亀島川を見渡すことができななった点だ。視界のすべてが水門で隠ぺいされてしまうのである。
それが最近では、水門の工事のおかげで、右側の大水門は下がっている。下がっていると川面が全部見えることに気がついた。
ずっと見晴らしが効くのは視神経の快楽だ。

注意して見ると、手前の隅田川の上の台船にはクレーンが乗っているにはともかくとして、そこには作業小屋がある。その作業小屋を見ると、プロパンの設備もある。そこで寝起きができるわけで、まるでアムステルダムである。こういう暮らしも悪くないなと思った。

河の折れ曲がる所が亀島橋だ。その先の水路の行方は知っている。
河はそのまま北西に流れて新川になる。
そこの古いビルの2fについ最近まで存在した画廊男のギャラリーに自ら持参したういすきを呑み交わしつつ、(この画廊にはちゃんとシングルのういすきグラスが用意されていた)画廊男相手に芸術、世の中一般の話しを興に任せてしたのも忘れられない。この2fの窓からの眺めはキャナルグランデからちょっと横に入った、あまりツーリストの来ないベニスの運河に面したルネッサンスの建物であるという見立てをしたら、画廊男は賛成の意を表した。

大杉栄の話しになり、それから派生して大杉の野枝さんの前のだんなの辻潤の話しになり、そこから無想庵の話題になった。画廊男が大杉に傾倒していることを知ったのはその昨年の秋の終わりのことである。日本脱出記(岩波文庫版)は岩波書店での書籍の打ち合わせの帰りに神保町の店で150円で買った。そこから大杉の話しになったわけだ。彼がこの1月に自死したのは、これは大杉にぞっこんだったせいではないかと、川面を見つつ思った。

画廊男が開催した彼のギャラリーでの寸劇で彼が「ここは昔、、海だった」というあの語りの言葉を思いだす。
画廊男と新川の記憶がいきなりフラッシュバックしたのは、亀島川水門が開いたおかげなのである。

@@@@@@@@@@@@

カメラの話し。上の画像はニコンD700で撮影。それには高価な24ー70ミリレンズが付いているのだけど、仕事カメラとしては高倍率のズームの方が楽だ。それでタムロンの28ーー200の型遅れモデル(この前、D3につけて西安に持参したレンズ)で撮影。これで200ミリの撮影。
発売中のデジタルカメラマガジンの連載で、そのD3で撮影した西安の写真を掲載している。画質だって印刷にするのならこれで十分だし、第一、レンズが軽量なのはありがたい。

2008年8月23日 (土)

おむすびがみっつ

R1157815

ヒルズで仕事していて困るのは時間経過の速さだ。 朝、到着して原稿2本書くと11時過ぎ。12時になると下のコンビニが込むのでその前にランチを買いに行く。森タワーの下のレストランで「ランチ」を買ったこともあるが、新宿中村屋のカレーなど1000円近いのに、これは高い不味いという感じで懲りてしまったので、もう行かない。 中国にひとりで撮影に行っていると、そこらの飯屋に入ったり、おかずが5品ついて5元というテイクアウトを買ったりして楽しみなものだが、そういうのは団体行動では許されないわけである。 昨年の7月、博報堂の広告の仕事で、上海に行った時は30名からの大部隊であるから、お昼はそこらの食堂の弁当であったが、これはなかなかのうまさで今でも思いだす。 その前の6月の上海へのロケハンでも、スタジオでのモデル選びが遅くなった関係で、そこらのセルフサービスの飯屋に入った。これも良かった。 ようするに、自分の舌は観光客ではなく、現地人のように出来ているのだ。 ヒルズでのランチは1軒しか無いコンビニでないとすると、51fのクラブである。そこの和食で旬膳というのが1980円で、サービス料は10パーセント。デザート付き。数年來いつもそれなので、こっちの顔を見るとその旬膳が出てくるのにあと一歩という状況である。 お客さんがきたときには、そこに行く。これは好評であるが、お客さんをお連れする方の自分は常に同じ自分でであるから、飽きてくる。 それでたいていは、4fのコンビニ生活だ。考えてみれば不思議なことであって、クラブのランチに飽きるのに、コンビニの同じようなサンドイッチとかおにぎりにはなぜ飽きないのか。 ライカインコが毎日食っているのは、鳥のマメである。それを飽きずに食っているのを見ると、鳥の方が食に関しては大悟しているのではと思う。 最近の定番はこのようなおにぎりが3個。 ランチに2つ食って、お茶を呑む。午後4時頃に空腹になったら、残りの1個を出して、エスプレッソをつくる。エスプレッソとおにぎりの出会いというのは、想像の他であったが案外にいけるものだ。 そのおにぎりを食いつつ、みしゅらんの東京編を讀むのが楽しみである。東京のレストラン案内を見て、おかずにするのではない。おいしいおにぎりを味わいつつ、みしゅらんの東京編の内容の空虚さに感心するのだ。 みしゅらんの赤本は愛読書であったのに、東京編の登場でそれまでの100年の偉業が全部ぶちこわしになってしまった。

2008年8月22日 (金)

アメックス

Mpx000431981年、アメリカのカメラ雑誌のボスのアシスタントをしていた時、編集長のケプラーさんはアメックスのゴールドカードを持っていてそれはお金持ちの象徴のように見えた。
彼の住まいはアッパーステートの豪邸だし、白いロールスロイスのオープンカーも所有している。
80年代初期、30代の自分のあこがれのステータスはこれを語呂合わせで言うなら「アメックス、ロレックス、ファイロファックス」だった。その三位一体を手に入れた時には、これで本当の大人になれたと思った。

アメックスの機関誌に無理してエッセイを掲載するようになったのはその当時の話だ。ウイーンのフンデルトワッサーの珍奇建築などを原稿にまとめて、それをプラハからフェデックスでFDを編集部に発送した。そのフェデックス代は何と100ドル(そう、FD1枚の送料が!)したのだから、今にして思うと驚きである。その代金はアメックスカードで支払った。まだインターネットなどない時代の優雅な話だ。

アメックスで決済を続けて、すでに20余年だ。だいたい、欧州とかインドとかにビズネスクラスで往復の航空券になるほど決済しているのだから、まず半端ではない。それで一回も支払いを怠っていないのは、当たり前とは言え、我ながらたいしたことだと思う。
何年か後にゴールドカードになって、ケプラーさんと「同格」になれたと思ったのは勘違いもはなはだしい。
要するに「貧乏人のゴールドカード」なわけで、員数あわせのメンバーである。いっそのこと、それを自慢にしていたのだが、数年前にプラチナカードの会員を大増員する計画があったようで、今度は「貧乏人のプラチナカードホルダー」にグレードアップした。インターネット時代以前なら、専用のトラベルセンターのコンシュエルジエと24時間電話のつながるのが売りであったようだが、自分は電話で他人と会話はしないことにしているし、そういう雑事はオンラインでホテルからエアチケットまで全部とれるようになったのだから、今のサービスはあえていえば「単に会費が高いだけがステータス」というのがサービスとも言える。下のスーパーでチリ産の800円のワインを買って、プラチナカードでそれを払うというような、「ドブ板プラチナカード」なのだ。

いわゆるブラックのセンチュリオンカードの存在が噂されるようになった。
その会費が20万とか言うので、本当のセレブにはこれは安すぎるのではと不公平感を感じていたら、知り合いのブラックカードホルダーさんの話では、今年から36万だかに年会費が値上げになったそうである。プラチナカードが年会費10万円だから、これはフェアであろう。

そのブラックカードホルダーはそんな高額な会費は支払えないと、プラチナカードに「ダウングレード」してもらったそうだ。
自分などはプラチナの年会費の支払い時期がくると、その支払いにあたふたする方なので、アメックスのカードで一番、トラッドでかっこいい、グリーンカードにダウングレードしたいので前から調べているが、そういうことをされると向こうはご商売にならないから、その方法は教えないようになっているらしい。

佃から通勤路で、有楽町線から日比谷線への乗り換えのコンコースにアメックスのカウンターが出来て、通行人をキャッチするようになったのは数ヶ月前からだ。
だいたいが、みんなが急いでいる乗り換えの通勤路でキャッチセールスをやるなどはかなり気の利かない管理職の頭脳が考えたのであろう。しかも通勤客はそれがそういう商売なのを知っているわけだから、顧客の獲得率はかなり低いであろうと他人のビジネスの心配までしている、心配性のあたしだ。

ここは場所が悪い。
この勧誘方法は通行人にくじを引かせて、それが全部当たりくじで、カウンターに誘導して勧誘するというギリシャ時代からの古典的手法だ。以前、秋葉のヨドバシでこれにひっかかって、賞品のポストイットをもらった。これが案外に使いやすいのも皮肉である。

アメックスは四半世紀前なら一種のステータスの幻想もあったが、今はだめだ。同様にダイナースも今年からマスターと相乗りの大衆カードになってしまった。

★上の画像の撮影は、ローライミニデジカメだ。今日は佃を出るときに急いでいたので、R8を机の上に忘れてきた。このローライミニデジカメは常に築地の市場かごに入っているから、忘れるということはない。

2008年8月21日 (木)

ベランダから星を見る

R1157813 先々週の水曜の午前2時であったか、珍しく星影澄んだ夜があった。それで双眼鏡を持ち出してベランダで星を見たのである。佃に住むようになって20年近くになるがこんなことは初めてである。

見たと言っても日本の東京の中央区の星空のそれであるから、星座の形などは見えるはずもなく、かろうじてはくちょう座の形をきれぎれに認めただけであった。あとは木星。この「きぼし」は大東京のような世界最悪の場所でも星の存在の代表になっている。

他の恒星は町の明かりで全滅であったとしても、この遊星だけはちゃんと見える。それにしても東京の星空というのはその状況を云々する前に星空を見る時間が東京人には与えられていないのだから、最初から問題にはならない。

外国の夜でふと気がつくと満天の星である。それがたそがれた町はずれであったりすると、そこの人々の暮らしぶりは、ラスベガスなどよりずっとゴージャスに思えるものだが、そういう鄙びた村とか町の人の暮らしは星空などは興味がないのにきまっている。

サウスモラビアの古都テルチエに最後に行ったのは昨年の1月のことであるが、凍結したクリスマスのデコレーションがまだそのままに残されていて、そのルネッサンスの広場の上には豪華な冬の星座が展開していた。

しかし犬も歩いていないような寒夜に星空に感心するのは、自分のような天空がしらっちゃけた場所に住んでいる時代錯誤のロマンチストばかりというわけだ。

マンハッタンの場合、あの長い島の上空の星空は望めないが、ロングアイランドでもホボーケンでもひとたび「本物のアメリカの領土」に移動すれば星空は望める。

長く住んだ、123w48stの名前ばかりが立派なプレジデントホテルは最近は豪華ツーリストホテルに格上げされてしまったが、四半世紀前にはそこらでウエルフェアのお世話になっている連中の住処であった。自分も週明けにはかならず、20ドル札の束を握って、フロントまでその週の部屋代を払いに行ったが、それが半年だか経過した後に、数百ドルのキャッシュバックがあった。ようするにそこを住処としている「貧民」を憐れんで、税金をバックする、仕組みらしい。当時のニューヨーク市長は凸凹の道路を修理しないことで、自分の歳出の少なさを自慢する、白いセーターを着た白熊みたいな、コッチだった。

おととしの信州と甲州の境で見た降るような星空は忘れられない。人里離れた一軒家の旅館には、小学館の取材で行った。自分が取材される側だったが、薪で炊いたお風呂に感心して、庭から夜空を仰いだら宝石箱のひっくり返しであった。

昨年の今頃、プラハのアトリエで床に大の字に成って見た天頂の星も優秀なスペクタクルである。プラハのアトリエは家主が室内の大改修をして、まるで3流のデザイナーズマンションみたいになってしまったのだが、唯一の利点は6個ある天窓がクリアガラスになったことだ。1930年代にできたこの本ものの貧乏人の画家のアトリエは、天空の散光を取り入れるためにスリガラスになっていたのである。

それが80年ぶりかに、クリアなガラスになって、しかも天窓だから虹も白鳥の飛行も、星もようするに目の上、頭の上でおこっている事象が全部見える。双眼鏡で星座を見るには、アトリエの床に横になって天に顔を向ければよいのである。

2001年、欧州からの戻りにタイ航空がインドとバングラデシュのナトリウム灯でえんえん数百キロにわたって照明された明るい国境に見た地平線近くにまたたかない、黄色い星があった。最初は何かわからなかったのだが、これはカノープス、老人星なのである。飛機が南方のそれも1万メーターを飛行していたから、見えたわけだ。老人星は昔から見ることがむずかしい星といわれ、それを見た者は幸せになるともいわれる。

今の「幸せ」とは、あの時のカノープスの瞬視のおかげなのだ。

2008年8月20日 (水)

レクタフレックス20000B

R1157792 レクタフレックスは伊太利亜のカメラであることはいうまでもない。初期の一眼レフはどうしてこうも美しいのかとほれぼれするデザインだ。同様の次第は同時代のコンタックスSにも感じられる。無論、ライカやコンタックスのRF全盛時代だから、あたまでっかちのペンタプリズムはなるべく軍艦部には突出させないという、デザイン上の暗黙の了解があったものと思われる。
実際、1947年製(自分の生年だ)に生まれてきた一眼レフは美しい。
レクタフレックスは伊太利亜で生産された空前絶後、唯一の35ミリ一眼レフだ。そうそう、英国製の唯一の35ミリ一眼レフには、レイフレックスがある。これも美麗なデザインである。

一眼レフは紆余曲折を経て、カメラ人類の大半の尊敬するデジタル一眼レフに「進化」したわけであるが、その「ロゴを見るまでどこのメーカーの製品か不明である」というのは、まったくいただけない。
レクタフレックスもコンタックスSも、そしてレイフレックスも、時代をもっと最近にシフトさせるのなら、ミランダだって、ニコンFだってキヤノンフレックスだってペンタックスだってミノルタSRだってペトリペンタだって、それらのカメラを100分の一秒だけ瞬視しただけで、それが何であるのかわかる。
一方で、最近のデジタル一眼レフはそりゃフルサイズで画像の乱れもなしに6400まで無理なく撮影できるのは偉いと思うけど、カメラを見て、そのロゴを見て、初めてそのメーカーがわかるのははなはだ残念だ。

プロ用の映画機材、アリフレックスとかアトーンとかいう70年代の値段は天文学的な数字であったが、あの手の世界じゅうで3000台とか2000台とか少数が生産されたプロ機材は実に美しかった。それを手に入れるためにはまさか悪いことはしないにせよ、万難を排してでもそれを入手しようと思った。
今になって、経済的にかなり無理をしてそれらの世界の銘機が佃の部屋にがらくた同然に並ぶ光景を見て、人生の夢が実現したという感覚はなく、「手にしてみると大したものではなかった」という軽い失望感の方が先にたつ。
それでもそのデザインを鑑賞するに、アリフレックスはそのように、アトーンはこのようにそれらのデザインのラインをうたっている。他にデザインで勝利しているのはフランス製のエクレールとか、同じくフランス製のパテ(足穂の御贔屓なパテベビーだが、自分の好きなのは70年代のパテ16BTL)などなど。

R1157788 レクタフレックスのこのモデルは10年以上前に坂崎さんの友人から買った。坂崎さんがそれを持参してくれて、銀座8丁目の並木通りであったか、まだ坂崎さんの車が黒いジープであった当時の話だが、ボンネットの上に各種のカメラを並べてカメラ談義となった。まるでモスクワのイズマイルスカヤパークの蚤の市状態だ。
坂崎さんの友人から託されたそのレクタフレックスを手にして、坂崎さんに何枚かの万円札を渡した。まるでモスクワの青空市だ。

それから7年ほど経過して、レクタフレックスの本がイタリアから出た。この本はイタリアがグラフィックの本家であることを標榜しているような、美麗なハードカバーだ、
英語版であったがその本は数年前に土浦のさかい写真実験室にあずけてしまったので、手元にないから、あらためてもう一冊、買った。これはイタリア語版なのである。
やはりイタリアのカメラの話だから、言語はイタリア語に限る。
その本を見ていて、譲り受けたレクタフレックスは20000Bという、製造台数が200から300というレアものであることが判明した。レクタフレックスはその製造番号でモデルを特定するのである。

レクタフレックスはデザインもさることながら、専用ケースなど革製品の作りは非常に良い。レクタフレックスローターという50-75台の製造記録のある、ターレットで3本のレンズを交換する特殊カメラ(1950年代にはまだズームレンズは一般的ではなかった)についている革製のストラップなどは、半世紀経過しているのに、先月に工場から出荷されたかのようなフレッシュさである。

一方で、レクタフレックスのアメリカでの輸入代理店がアメリカでしつらえた、レクタフレックス用のセットケースなどは、すでにその縫い目がばらばらになっている。無残。

レクタフレックスの中身がデジタルであったらよいのに、、、、と妄想しているのである。

2008年8月19日 (火)

Dell vs Powerbook

R1157786ヒルズで仕事をするようになって、満5年は過ぎて、6年目になった。その間に本も20冊以上は出ている勘定になる。

最初のうちは、本のあとがきに「49fの暮れなずむ東京を見つつ、著者」などと気取っていたのは良いが、それがそのあとの数冊のあとがきで、ソナタ形式で繰り返されるようになるとどうも鼻につく。それで最近では他の言葉を選んだりしているのだけど、それが何であったのかは記憶にない。

あたしの場合、あとがきというのは一種の宣戦布告だから、一番最初に書いたりするものであって、出版社の編集者さんは最初にそこだけを見たり、また書評を書いてくれる先生方はまずそこから読み始めるので気が抜けない。だからもう少し、まともなあとがきを書こうと思っているのだが、思うにまかせない。

先週は家人は新潟の「別荘」に行っていたので、おもに佃でライカインコの飼育掛を拝命しつつ、仕事をした。佃にはシステム9−2−2の旧式のパワーブックしか置いていない。
その理由は、フレッツとかいうブロバイダーの光接続がそれにしかセットされていないのだ。
パワーブックのタイガーから接続もできたのであるが、それはこの前、HDがクラッシュしてしまい、そのままになってしまった。要するに、セットアップのとき、付属のCDで助けを借りないとマンションの光は接続できないという面倒がある。

持参のパワーブックで世界のどこでも、ホテルの部屋でもいきなり無線ランに接続できるのが普通なのに、フレッツとかいうのはその間にワンクッションあるのは理解できない。やそれでYAHOO BBに乗り換えようとしたら、うちのタワーはフレッツだけの独占らしくて申込自体ができない。なにか裏カルテルでもありそうだ。

ヒルズで使っている型遅れの2台のパワーブックはそのまま無線につながるのだが、佃はその面倒がある。その接続のアシストのCDがどこで手に入るのかもわからないので、実に困っている。フレッツなんとかのHPでも調査したが、こういうHPは知りたくもないことばかりで、知りたいことが出ていないのは他社のサポートと同じである。

それで佃ではメールをチエックしたり日記の更新くらいなものである。システムが古いからエアチケットなどもPCで買えないわけだが、考えてみればそれを佃でやってしまうと、わざわざヒルズに来る意味もないので、考え方によっては佃のPCはあまり万能ではない方が良いのである、と、思いこむことにした。

ヒルズではまるで4流の為替業者のように3台の電子計算機を並べて仕事をしている。この中で一番に速いのは、言うまでもなく右端のデルである。これはライブラリの貸出マシンだ。

まずヒルズの5年間で自分にとって何が教育されたのかというならば「ウインドウズを使えるようになった」という一点に尽きる。使えこなすなど最初から望んでいない。退屈なパワーポイントなどは間違っても使う気にならない。

第一、新型カメラの発表会でパワーポイントを使っての暗い場でのプレゼンは眠気を誘うから、ほとんど寝ているようである。

しかしPCはやはり新しい方が高速なのであって、5年型遅れと7年型遅れのパワーブックはどうも安物のデルの相手にもならない。最近のデジカメと同じであって新しさはそのままに価値であるのだが、それならデルをを一台買おうなどという気分には絶対にならない。

かつて、ネクストなどには確固たる物欲を刺激するところがあった。それがマックでもパワーブックG4などは物欲を刺激してそれを手に入れることが、人生の一部の目的にはなった。そのパワーブックもマックブックという変な、よっくもっくみたいな名前になってから、すっかり物欲が萎えてしまった。これも年のせいであろうか。

10数年前、秋葉に意を決して、30万円ほどのマックを買いにゆくことがあった。でも、その売り場で躊躇してしまうのである。同じお金をライカに投資した方が良いのでは、と、賢いユーザー気取りの自分は思いとどまった。

あの判断は今でも正しい。PCの方は処分するのにもお金がいる。ネクストのカラーステーションなどは、モニタとマシンを捨てるのに1万円もかかった。

2008年8月18日 (月)

ライカとエクレールに亡き人を偲ぶ

ギャリーウイノグランドは例のコンポラ写真家の数人のスターのひとりである。コンテンポラリイフォトグラファーズトワードアソーシャルランドスケーブという、じゅげむのようなタイトルの四角い、白い、ハードカバーの写真集を60年代の半ばに銀座のjena洋書店から買ってきて、われら写真学生はこれをバイブルにしていた。
その中の4名だかの、メンバーはいずれも健在だけどただひとり、ウイノグランドだけは早くガンで卒している。彼の愛用のライカM4は普通のクローム仕上げであるが、彼のストリートスナップのその激しさがそこにあらわれていて、ベトナム取材でもないのに、こんなにカメラがやれれるのか、、、と思った。そのカメラはそ後、他の写真家の手に握られて今でも作品をものしている。
人間の命に比較すると、ライカの命はながい。

連載の扶桑社の文芸誌en-taxiでの次回「カメラとあるく」のために平カズオさんの奥様のまどかさんに過日、お目にかかって平さん遺愛のライカM3を拝借した。この前のニコンサロン銀座での平さんの作品が秀逸であって、それはそれまでの自分の平カズオ像を一掃したのである。撮影のため、拝借したライカはオリジナルのブラックペイントだが、すでにすべての塗料がはがれている。次回の連載のタイトルはそれで「平カズオさんのライカと歩く」となるであろう。

せっかく、ヒルズにご足労いただいたので、クラブで平さんを偲んで、献杯をしようと思った。ところが御盆の数日はクラブはずっとお休みなのだ。それで49fのゲストルームで赤ワインを献杯した。そのワインは有楽町のビックカメラの酒売り場で買った。そこでワインを買ったのは初めてである。

平まどかさんは、木村伊兵衛さんが愛用していた、ライツ製の28ミリのクロームファインダーを示した。そこには革ケースの内側にIHEI kとある。記憶にあるマヌスクリプトでインキ書きだ。平さんは木村名人に可愛がられた。木村さんのミュージアムが出来たら、そこに寄贈するのに、まだ出来ないのでしょうか、とまどかさんは言った。
これが金曜の夜。

土曜の夕には別の来客が2名。チエロのもときち、と、kataoka yukikoである。
もときちもkataokaも実に久しぶりに会った。そのきっかけは、この1月にビッグバンをした新川の画廊男の縁なのである。
4個のグラスに赤ワインを注ぎ、その1つを「お誕生席」に置いて献杯。画廊男の思いで話しなどをぼつぼつしていると空はフェードアウトして東京タワーの背後の夕焼けの積乱雲がわだかまって凛としている。

時が移って、複雑にからんだ空のはるか上の方で雷の電光が走った。それが実にドラマチックなので、3人で観賞した。遥か東の地平線に見事なエクレールの痕跡はまるで、スケッチのように見えた。
これは画廊男が我々に見せているパフォーマンスなのだと、3人でうなずきあった。R1157777 画像はリコーR7で撮影。

2008年8月17日 (日)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム
★デジタルカメラ VS 銀塩クラシックカメラ
ニコンFに付いていたレンズをちょっと借りて、ニコンD700で使う

R1157785

ニッコール350ミリというのはトリプレットタイプであるから、SPファンには人気のTニッコール105ミリf4と同様な構成だ。小型軽量の先細りレンズの105ミリf4がそのまま大きくなったと思えば良いのである。
だから、350ミリf4、5は「大形軽量」という変な言い方もできる。

60年代に「スペイン偉大なる午後」を撮影した、奈良原一高さんはもっぱら闘牛でこのレンズを使っていた。「ぼくは何時も闘牛場で一番長いたまを振り回しているカメラマンだった」と往時を一高さんは追想している。
一高さんは、あまり腕っぷしの強いタイプではないが、大形軽量だからT350ミリを愛用したのであろう。

あたしのレンズはもともと、ブロニカD用なのを、コパルの0番を付けて、4x5にも使える。
急に冷涼になったので、その反動でちょっと夏ばてにて、寝室で横になって、柳田国男校定の「紀行文集」(昭和5年博文館)を見ていた。これは江戸時代の諸国の紀行文の集成だ。

川面に大勢の人間のおたけびが聞こえてくる。北京の馬鹿騒ぎがここまで聞こえるわけはない。
バルコニーに出たら、永代橋の上は人で埋まっていた。

革命か!?
いや、3年に一度の深川のお祭りのみこしが小雨にけぶる永代上を渡っているのだ。この間、やっていたと思ったらもう3年が過ぎたのか。まったく油断もすきもない。

これは撮影しようと思って、手許のニコンD700の24ー70ミリを外し、ベランダに出て、オートニッコール200ー600F9のレンズで連続して撮影。ライカインコが勢いにて、脱走してはならぬと気を使う。

すぐに部屋に戻って、PowerBookで結果を見たら、どうもシャープさが欠けているのは、この長いズームの癖玉のせいである。すぐに350ミリF4、5に付け替えて撮影した。こっちはなにしろ玉は3枚なのだから、抜けは良い。シャープさも満足できる。
それがこの画像である。

御覧のように、350ミリはニコンFに付けていつも見える場所においてある。それにはフイルムが入っているが、日曜の午後ではラボはお休みだしいかんともしがたい。こういう「お祭り写真」はやはり速報性であろう。D700の勝ちである。

D3を使い慣れた指先には、D700のシャッターストロークがやや長く感じるので慣れるまでにちょっとまごついた。

銀塩カメラの銘機、ニコンFのレンズがそのままに使えるのは、やはり大したものである。
その使い勝手は、ライカのレンズをそのままエプソンで使えるようなものだが、フルサイズの画面がやはりこの場合には相当効果的だ。

永代橋上のみこしの行列は気温22度の霧雨に濡れてなかなか進まない。
芥川が「本所両国」の中で、明治時代にまだ残っていた、隅田川の河を船で流す「水売り」のことを書いている。その売り声が水面にずーーーっと響いて、それが無気味であったと。

永代橋上の「わーーーーーーっつ」という閧の声も無気味である。

画像はベランダから永代橋を望む。
ニコンD700 ニッコールT350ミリF4、5
Dsc_0846

ebayでRolleflex Standard をゲット

229a


229b

まだ東西ドイツが対立していた当時、ローライのセンター、ブラウンシュバイクは東ドイツの国境に近いさぶざむとした街であった。ローライの工場も閑散としていて、ラインが稼動しているのは一本くらいではなかったか。これは1970年代後半の話なのである。
工場を案内してくれた広報部長さんが、これは個人的な意見と前置きして「今でも自分の一番愛用しているのは、戦前のローライスタンダード、それとライカ3aです、と言った。今のマニュアル以外のことは口が裂けても言わない広報関係さんに比較すると、30余年前の広報担当はかなり自由な意見が言えたものだと感心せざると得ない。

その後にブラウンシュバイクに行ったのは90年代のことでたしか、当時のローライは韓国資本が入っていた用に記憶する。その後のブラウンシュバイク行きは2001年9月のことであって、その時にはパナソニックの広告の仕事で行ったのだから、むろん、ローライに行く時間はなかった。

その時には、旧東と西のドイツの地図を持って、昔の国境に沿ってドライブしたのである。すでに統合から11年が経過していたから、以前の東と西の差というのはその風景が「薄められて」しまい、ほとんど区別が付かなかった。
ブラウンシュバイクからそれほど遠くない所にあるのが、ルネッサンスがそのままに活きている、古都クエッテインブルクなのである。夢のような古都であった。

そのかつての西と東の領域を認識する方法はドライブ中にすぐに発見した。旧西と旧東とでは高圧の送電線のスタイルが異なるのである。いかに旧東の街が西側のお化粧をしても、その背景の鉄塔を見ると、その土台が分かるというわけである。

そのローライの広報部長さん、お勧めの戦前のローライスタンダードだが、これは軽くてシンプルで実によいカメラである。しかも大成功したカメラであるから、市場には潤沢にあってその中古価格も安い。
ebayで手に入れたのは、f3、5付ではなく、人気のf3、8付の方である。別にテッサーの暗いレンズの方が優秀というわけでもないのだが、これは「気分」の問題なのである。

その価格は160ドルほどであって、アメリカのセラーから買った。送料を加えて199ドルあまりだった。
嬉しいのは、箱型のケースが付いていることだ。
目下、えい出版から「ローライフレックスワークショップ」を執筆中だ。このローライを持って38年前にジャンプして、かの豊田とか名古屋とか常滑などを撮影に行く予定だ。

NDCの「三馬鹿アシスタント」とは、あたしと青山達雄とLAの遠藤知有であることも、すでに30有余年が経過して忘れられている。その前の初代の「三馬鹿アシスタント」は沢渡さん、有田さん、野沢さんであって、これはもう人間国宝に属する。

2008年8月16日 (土)

8月15日の憂鬱

昨年はこの日はプラハに居た。一昨年はどこに居たか忘れたけど、それは日記を見れば分かる。ただしそれを調査するのも面倒である。

63年前。
1945年の8月15日の古日記は、散見するにそれぞれに面白い。足穂は居候から居候の宿無し暮らしでこの日は引っ越しをしていた。その中でお昼のラジオのことにちょっと言及している。

荷風もこの日の記述に関しては淡々としている。内田百間の場合には、正午より重大放送ありというので、小屋から出て、母屋の二階の受信機の前に正座して、玉音放送を聞いた。涙が出てとまらなかったが、何の涙であるのか、それを考えることが出来ない、と記している。
陛下のお声は録音だが、終戦の詔であると記しているのはさすがだ。一般には漢文体の言葉だから、何を言っているのか分からないというであった。

当時のラジオは音ではなく「声」なのである。今のラジオ体操の歌の「ラジオの声に」という歌詞がかろうじてその生き残りである。
当時のラジオは文化であると同時に市民が最初に経験した暴力でもあった。犀星とか、足穂の記述の中に隣で一日中なりっぱなしのラジオの声に激怒して、ステッキでそれをたたき壊したり、どなり込んだりの話しが出てくる。今の時代は騒音の中でラジオなどは小さい声の方である。いちいちステッキで「ちらちら行灯」(これは犀星のラジオ嫌いが当時の受信機を呼んだ言葉)を打ち壊していては、それこそステッキが何本あっても足りない。

8月15日の憂鬱はそのラジオ放送関係のことではない。

昨日、夕刻、ヒルズに客があった。東京カメラクラブの旧友のおーにょさん(仮名)である。おーにょさんとのつきあいは実に古くて、あたしが日本カメラのフォトこんの審査をしていた当時、おーにょさんはライカで図マールで撮影したモノクロ写真を応募してそれが佳作に入選した。
それ以来、彼は東京カメラクラブの重鎮であった。そのおーにょさんと10年ぶりに会ったのは、民放でクラシックカメラのシリーズの番組を開始するので、その相談である。この番組は今朝からクランクインしているはずだ。

それは良いのだが、久しぶりの旧友を歓待しようとおもった。49fから一番近い飲み屋は、51階のクラブである。そこで麦酒でも一杯やろうと思った。

ちょっと厭な予感がした。あたしはお目当ての店に行くと、かならずそこは休みなのである。そういうジンクスがある。行き着けの店が閉店になると言うジンクスもある。その事情を知っているのは、おつきあいの長い浅田恵理子くらいのものだが、実際、浅田の荻窪在住時代には、ここで馴染みになった三軒の酒亭、つまりオリエンタルグリーン、荻の茶屋、それにウイスパーズカフェが閉店している。

工藤ゆきの実家のシャーロックホームズも閉店、最近では月島の西仲通りのたまやも閉店してしまった。どんどん行く場所がなくなってくる。先週、NHKに見学にいって、「瞳」のセットを視たら、そのたまやの前の紅いポストがTVのセットでもそのままにあるので、まるでたまやで呑んで、そのまま佃に戻るような錯覚がもたらされた。

そのいやなジンクスが適中した。ヒルズクラブは14日から17日まで改装のためお休みであるのだ。以前、やはり客がきて、これはお正月のことであるが、上に行ったらお休みだった。正月の3日にクラブが開いていると思うほうが思想が間違っているのであろうが、クラブに御盆休みがあるとは思わなかった。

それでおーにょさんに非礼を詫びて、ロッカーから出してきた、96パーセントのポーランド製のウオッカに氷りをいれ、ソーダを満たし、それで乾杯した。

憂鬱はそれで去ったわけではない。金曜と土曜の夕刻にまた客がヒルズに来る。自分の知っているヒルズの店は51fのクラブしかない。どうせ、ヒルズの中の他のレストランは御盆休みのお客で山盛りであろう。
それでまたあたしの来客に非礼を詫びなければならぬことになる。

画像はおーにょさんの愛機、ローライSLX。背景はきぬかつぎ。おーにょさんは「理科系」なので、自分でこういうカメラのメンテナンスができるという。すごい。カメラはR7。
R1157772

2008年8月15日 (金)

雲の日記

R1157750

改造社の昭和4年刊の円本のルビ付き文の中に、子規の一冊があり、その中に「雲の日記」という小品がある。4段組みで半頁もないような短い記述だ。その円本は今、プラハのアトリエと、佃に1冊づつあるが、佃のそれが見当たらないので記憶だけであるが、晩秋から冬にかけての雲の観察だ。
これが好きである。

似たような天然自然の記録には、独歩の武蔵野の中、あるいは足穂の「横寺日記」にもある。独歩のは雨や嵐のことを日記風に記述しているが、足穂のそれが灯火管制下の横寺町の袖擦坂の崖上から視た、星座観察なのだ。

佃の仕事場の大机の上は数年来、乱雑を極めてレンズ1本を置く余裕もなかった。それを決心して机上のがらくたを他に移動したら、PCを置くスペースができた。
この言い方は実は正しくはなくて、PCの周囲にスペースができたのである。

もっと凄いことは、PC(片遅れのPowerBook)を机の下に格納すると、そこに飛行機のFクラスのデスクの8倍はありそうな広大な平面が出現する。

普段、隅田川の川面を視て、窓際に勝間光学とkernの双眼鏡を備えて、一杯やるのであるが、席を大机の前に移動すると、眼下の隅田川は視野に隠れるけど、無限の距離の空と雲が見えることに気がついた。
それで最近では夕刻の良い時間までにあわててヒルズから走って戻ってくる。

積乱雲の奥行きを勝間の6x30で観察してついでに、R8を接眼部に押し付けてこういう画像を撮る。手前のシルエットはライカインコのパレスである。

勝間のレテイクルはkernのそれに比較して「写真映り」が良い。実際にこの十字線はスイス製のkernや、バイロイト製のシュタイナーm22の方が見えは良いのだけど、勝間のは文字がでっかいので、いかにも映画の中のワンカットという感じだ。

積乱雲は飛行機の中から視るのが最高だ。それが機体を墜落させる暴力そのもので、シップへの脅威がそのまま眼に見えているからだ。
だから亜細亜線などを飛行するのは興味深い。下の画像は同じカットだが、勝間双眼鏡はなし。

終戦50周年のその日に台北から成田にJALで飛行した時、はじめて副操縦士が左席(つまり機長席)に座った。その時の機内アナウンスはまだ慣れていない感じであったが「左側にかなり高度のある積乱雲が見えていますが、飛行には影響はありません」とあった。
やはり左席パイロットになってはじめての飛行では巨大積乱雲が気になるのである。その雲はまさにこの雲をずっと高くした感じでそれは左の窓から1時間以上も見えていた。

あの下は豪雨で強風が舞っているのだなと思った。


R1157726

2008年8月14日 (木)

KCチョートクカメラコラム

R1157764 ★KCチョートクカメラコラム
デジタルカメラVS銀塩クラシックカメラ
二台のNikon
------------------
普段はこのコラムはデジタルカメラと銀塩クラシックカメラに稿を分けて記しているのであるが、今回は「五輪特番」というわけでもないが、たまたま2台のニコンが手もとに集まったので、それをコラムにする。

登場するのは、ニコンS2と最新モデルのニコンD700である。
6月の西安行きではほぼ1週間、毎日、ニコンD3を片手に徒歩で西安市内を闊歩したので、大分体力は鍛えられた。その時に思ったことは、D3のような大きい、重い機材でもそれがいったん撮影体制になってしまうと、カメラという存在は「自己に対立する存在」ではなくて、逆に視神経の延長、自分の身体の一部と誤認されるようなところがあって、その重さはほどんど気にならなくなる。

ようするに、この30年で自分の体重が20キロ増えたけど、それは一応、日々の暮らしにはそんなに負担になっていない(だからこそ、心臓などに負担がかかって成人病上問題なわけだが)ということだ。
ただし、D3のカメラサイズはいかにもものものしいので、これが新華社のオリンピック取材班ならともかく、自分のように西安の裏道、横道、獣道を闊歩するにはちょっと目立ってしまう。

いきなり登場したD700の場合、その重さはたかだか200グラムほどの軽量化なのであるが、サイズが小さくなったので、競合機のEOS5とどっこいどっこいの大きさだから、これは街ち歩き用の一眼カメラの大きさのとしては有り難い。

そのD700をニコンから8月末までかり出したので、それを肴にしてこの残暑を乗り越えようという魂胆である。

こなた、ニコンS2は1955年の登場である。D700との、その時間差は半世紀以上あるのだが、こうしておじいちゃんと孫ほどの年齢差のつ2つのカメラを並べてもあまり違和感は感じないのが愉快だ。寧ろ、NikonのそのNの斜めの線がぐにゃりとしているのが、現代的な今様のNIKONのロゴよりもかっこよく見える。

それにS2だって、見方によってはこれもk一種の疑似デジカメであって、CCDはフィルムが代用しているものの、その後、画像をCDに記録しておけば、それなりに便利である。

ニコンD700とS2の最大の違いを書き出すのなら、D700の方は撮影枚数が撮り放題で材料費はほとんど無料なのに対して、S2の方はどんなにがんばっても撮影枚数は36枚、つまり3ダースであることだ。

タバコをすっていないので、1箱に入っているシガレットの数は知らないけど、仮に24本としても、タバコとか撮影とか「身体に害のあること」の回数はせいぜい、2ダースとか3ダースとかの数にとどめてその数に見当をつけておいた方が体にも精神衛生上でも良いのに決まっている。

D700と、S2の最大の相違点はS2にはドラマがあるが、D700には高性能しかない、という皮肉な見方も可能だ。
かの、ゲバラは大のカメラ好きであって、クローム仕上げのS2に50ミリf1、1をつけたのを持っていたらしい。革命の父がf1、1付きのニコンを持っていたというのは、これはすでに神話に属するが、さて、D700の場合には登場したばかりであるし、神話というのはある程度、それを醸す時間がかかるものだから、D700神話が醸される前に、次のD800とかD900に登場されては困るわけだ。

700と言えば、ちょうど1年前、ソニーのα700が登場して話題沸騰になったが、最近はあまりソニーの新型爆弾のうわさもない。ソニーのフルサイズも待たれる。
D40とか40Dとか、700とか、メーカ−によって同一の型番なので混乱する。

1985年8月12日

23年前、その日は家人とウイーンは3区のサレジアナガッセ33番地にいた。1980年11月にウイーンを引き上げて東京に居たのだが、その翌々年、1982年から83年はニューヨークに棲み、そこでニューヨーク近代美術館の写真コレクションを研究した。そのあおりで、なんとなく日本に居るのがおっくうで、大体、2け月程度のスケジュールで何度もウイーンに行っいたのである。

ウイーンのアパートはかのウイーン工房のヨセフ ホフマンがかつて棲んだ住居であって、ユーゲントシュテイル風の立派な建物だった。その最上階からは南側にあるベルベデーレ宮殿の庭が良く見えた。

ジャンボ機墜落のニュースはアパートの古いモノクロTVで視た。世界の果ての航空機事故という感覚をもつのは、欧州では地理的感覚で当然のことであるが、あまりの大惨事なのでTVでは繰り返し、詳しいニュースを伝えていた。それは恐らく、翌日の夕方のニュースであったろう。

アパートは裏庭に面していて、3階だった。空は四角を斜にしたような感じにかなり上の方にあった。いきなり日航機の悲報を視ている時、にわかにかき曇り、猛烈なシャワーがきた。これはウイーンの真夏には珍しいことではない。毎日、この夕立ちは癖になっていて、旧市街にまるで市街戦の迫撃砲よりもっと高いごう音を響かせる。
ただしその夕刻の雨の音が何時も異なるので、窓から中庭を窺ったらそれは、巨大な雹であった。そのサイズが実際、ピンポン玉めいた大きさなのである。

日航機のニューズに接したウイーンの午後とその雹のサイズは今でも忘れない。

その3年後であったか、中央公論のグラビアの撮影で、ミネベアの社長さんを撮影した。軽井沢のゲストハウスに向うという設定でヘリで軽井沢に新木場のヘリボートから向った。その時、パイロットさんが日航機が墜落した地点を通過して界隈を見せてくれた。非常に険しい山の中でとんでもない場所に墜落したものだと思った。当時はまだ日航機の事件はつい最近の大ニュースであった。
大形のヘリは上昇気流で激しく揺さぶられた。

航空機は日常の足である。その安全性はいささかも疑問はない。この世のありとあらゆる交通手段で自分の経験した一番危険な乗り物は、「自分のよっぱらい運転の自転車」である。1991年頃よく自転車に乗っていた。午前中に佃を出て、夜、戻ってきた。慣れた構内だから何時も同じコースである。唯一異なったのは朝にはなかった中央分離帯が夜には突貫工事で出来ていたのである。
身体は3メートルも先に飛んだ。自転車にからまっていたら恐らく骨折していただろう。散らばった携帯電話のバッテリーを拾い集めて、家人に電話して救援にきてもらった。その日は大丈夫だったが、翌日は打撲傷で起きあげれなくなった。

そういう交通機関に比較するまでもなく、一番安全なのは飛行機だ。にもかかわらず、周囲にはあの日航機の事故でなくなった人を個人的に知っている人が案外に居るのも不思議である。
30万回に一度と言われる航空機の事故だが、1983年に知り合いのN(銘機礼讃1に登場する女性)は、マンハッタンから東京に戻る時になにかの理由で(それが個人的な理由かそれとも航空会社のそれかは聞き漏らした)出発を一日ずらして、大韓航空の撃墜事故には遭わなかった。
人間の運というのはそういうものなのであろう。R1156711

2008年8月12日 (火)

シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー

シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー

月曜の朝。
大江戸線の8時40分のやつで、六本木に向かう。世の中、お盆になるので当方は仕事のやりどきである。
家人は今日から新潟の「別荘」に10日ほどゆくので、鬼の居ない間に洗濯ではなく、家人のいない間はちゃんとTシャツやらパンツやらの洗濯をせねばならない。
ライカインコのシーツも取り換えねばならない。ごはんもやらねばならない。

それをやりつつ、数冊の本とかなんとか、同時進行である。

ヒルズ行きは本来は9時半ころの地下鉄がすいているのだけど、週明けであるからちょっと早めに「出社」するのであるが、大江戸線の月島から勝鬨はまさに「通勤地獄」だ。
その1駅だけが超満員なのである。
到着した電車に無理に乗り込む。
周囲であたしを圧迫してくる「通行人」も、ただの一駅の辛抱と知っているからかなりの暴挙に出る。
還暦人間の「押し花」ができそうだ。

シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー

という音がする。電車は猛スピードで勝鬨に車輪を軋ませながら、いやな音をたてて驀進しているから、車内は160DBでは効かない騒音だ。
その中でシャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
なのだ。

向いの若いサラリーマンさんのipodの音だと思った。給料の安い会社の社員のipodの音量はそうじて高い会社の社員のそれよりも高い、という学説がありそうだ。

その男性は隣の勝鬨で下車。やれやれ、とあたしはシルバーシートに座った。メトロが動き出したらまた
シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
なのである。それも轟音の電車の中だ。周囲を見回したが、耳にラッキョウを詰め込んでいるような乗客はいない。

R1157755 見るとずっと離れた電車の進行方向の右手、ドアのそばに立つ長身の美女が耳にラッキョウを詰めている。

シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー
シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘー

ここが爆心地であった。ちょっと信じられない遠距離だ。自分はカメラマンだから目視で距離を測るのはなれている。その距離は4メーターはある。しかも轟音の車内だ。

それでシャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘーが一般乗客の我慢の限度の臨界点になっているのである。

その長身のおねえさんの親の顔が見たいなどとは言わないが、この人は確実に難聴になる。いや、もうなっているか、、、、。

滅私報国。 大和魂。 なでしこあいぽっど。 難聴やたがらす。

四半世紀前、まだマンハッタンで黒人さんがラジカセの巨大なのを肩に乗せて、ソウルを演奏しつつ歩行する古きよき習慣があった。これは3ブロック先からでもはっきり聞こえる。でも当時はメトロの中でipodをやるやつはいなかった。
ジョブスも罪作りだ。

ヒルズのエレベータの中で、一度、のぼりだかくだりだけ忘れたけど、日本人の女性がやはり大音量で箱の中でシャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘーをやっていた。隣にいたかっこいい渋さのワスプの男性が身振りで音を下げるように指示した。女性はそれに従った。これは毛唐が言うから効果がある。還暦の日本じじいが言っては逆に叱られそう。

轟音の中で、シャカシャカシャカシャカ、、、ホヘッツホヘーをやっている美女にそういうお願いをすると、逆にめいわく防止条例でこっちがやられそうである。

日本の地下鉄はマンハッタンのメトロよりも怖い。

1983年、マンハッタンのTSQからRRでダウンタウンに向かうとき、ジャンキーめいた黒人のおっちゃんが、パンツの前からだらりと「一物」を出して車両に乗ってきた。それを見たドアのそばの男性が「プル ユウア パンツ!」と注意したのである。おっちゃんはそれに従った。
日本のメトロであたしは「あの、あのまことにおそれいりますが、もうすこし小さい音でお願いできますか」とはとてもこの人には言えない。

第一、聞こえない。

あ、上の画像は旧型のリコーのR7である。これはGパンの尻ポケットにすっぽり入る。R8はかくかくする。 R8の次ぎは順序から言えばR9だ。これは是非、もっと滑らかにしてもらいたい。 まさか、R9ってライカ社から、クレームなんてこないだろうな。 1970年代にオリンパスがM1でライツに虐められた故事がある。でもライカ社はもうそんな往年の元気はないであろう。いや、元気がないから文句を言ってくる可能性もあるか。などと妄想するのだが、いけない。ライカR9とリコーのR9(そういうのが出るとして)では「カメラ格」が違い過ぎる。

2008年8月11日 (月)

民生食堂@うなぎかばやき

Epsn0746
Epsn0765

土曜日。
「あの写真部」の部活。
11時半に高円寺。そう、、、あの拓朗の「君はどこに棲んでいるのですか/高円寺じゃないよね」のあの高円寺である。
大昔、カメラジャーナルが高円寺にあった当時、例のあわダンスで中川編集長とか浅田恵理子となぜか見物にきてそのカオスに度胆をぬかれた。以来、十数年は行っていない高円寺。

駅の中のコンビニに杉並区の証明書の自動交付機というのがあるので、感心した。単に端末が出張所の中ではなく、駅の中にあるだけなのだが、それがえらいと思う。
杉並区民になりたい。

間取りスト和歌子のガイドさんが高円寺経済特区を案内してくれる。この人は優秀な俳人であるばかりか、なにかピョンヤン観光のガイドさんめいた、思想の正しい感じがするのでよい。もっともこれはピョンヤンハイで著作のある作家石丸元章さんが部活に参加したので、その方面への思い込みがあるのだ。

駅から「らくだ」で20分行った場所に「民生食堂」があった。看板には並んで「うなぎかばやき」とあるのが、ダダである。高円寺経済特区を象徴している。電話番号局番は3けた。そこを酒保がわりにして写真論。

新潮45の中島さんが民生食堂のご主人の猫を誉めている。ジャーナリズム関係者はまず原稿をもらいに行った作家の家の犬、猫、金魚、インコ、ノミ、しらみを誉めよという業界の鉄則がある。立派だなあ。福田さんの話しでは実話として、作家の家のスリッパから誉めはじめる名人もいたそうだ。人間国宝。

高円寺を訪問。こんなに静寂なお寺とは知らなかった。自分の高円寺は関東バスの白い車体に紅いライン。そのバスの行き先の表示のことであると思っていた。これはまだ「犬バス」時代の、行き先表示は長い布であって、クランクを廻してその表示を変える時代のそれのことだ。

呪いの中央線を南に縦断してその界隈の商店街を歩く。2軒目のおめあての酒保は午後3時前なので開いていない。こういう時間に高円寺で呑もうという方がまず思想が間違っている。
粛正が必要だ。

その手前のカフェに入る。コーヒーアイスというのを呑む。丸く凍結したコーヒーにミルクをそそいで呑むのだが、レモンサワーなどより身体によさそうだ。

そこから環七を超えて、JRの線の北側を中野のサンプラザ方面に歩む。おばけ屋敷めいた豪邸があったり、大昔の国鉄の駅構内の貨物置き場のような視線が拡散する風景があったりで、興味津々。
中野駅北口の午後2時からやっているという飲み屋で継続して決闘写真論。こういう店を福田教授は実によく知っている。

欧米だと時間に関係なくアルコールはどこのカフェでもバーでも摂取できるが、本朝は儒教の影響でそれが困難である。革命が必要だ。
白線通りを縦断して早稲田通りの田晴坂に行く。馬さし、さしみ盛り合わせ、煮込みはんばーぐ、餃子のなんとかなどなど、食い合わせ悪し。

JRにて四ッ谷。
タクシーで赤坂を経由して銀座7丁目のやすこう。そこで午後7時から反省会あり。あの写真部員の作品に短評を加える。藤原会計担当の「病んだ視神経」を評価。
午後9時すぎ佃に戻る。風が変わって冷涼。


★画像説明。カメラはエプソンRーD1s

民生食堂は説明不要。
路地の奥の奥に紅い話が咲いている。つげ義春さんとカメラ談義をした四半世紀前の調布の染め地にもこんな花が咲いていた。つげさん元気だろうか。
高円寺アイってのはかなりいけてる。
やぶからし、と布団。やぶからしは、ヒルズの49fのオフィスにも「生け花」としてある。この前、大田区山王2丁目の山口邸でも大谷石の崖に生えていた。

ツアイスの28ミリはデジカメに向いている。f11に絞るとぐっと細かい描写になる。イエナからドレスデンまでぐぐっとパンフォーカスになるわけだ。

一番、下。中野のカメラ店で、福田さんが買ったニッコール135ミリf3、5のブラック仕上げ(通称からす)をさっそく、エプソンにつけて、バーTHONETのマスターを撮影。いいレンズだ。ダンカンが朝鮮戦争で愛用しただけのことはある。


Epsn0882
Epsn0969

Epsn1046

2008年8月10日 (日)

松本さんと浅田さん

R1157699 木曜。

ヒルズで仕事。えい出版の「ローライフレックスワークショップ」を書く。仕事に熱がはいると、人間嫌いになるのであろうか、雑文にせよ集中するとヒルズの49Fで見る熱帯モンスーンの太陽はうなるような高速で西の地平線に突入してゆく。

それを見ていると、仕事場は東に向いているので落日そのものは見えないのだけど、森タワーの影がどんどん東に延びてゆく。

ここで仕事を開始した5年前にはそのことが面白くて、よく夕刻になると仕事の手を休めて、その森タワーの影が向いの東京タワーに向かって伸びてゆくさまを見ていた。

ちょうど、プラハの旧市街の日時計の針みたいなものだが、あれが垂直に石の壁に固定されているのを、そのまま水平に置きなおしたのが、森タワーの日時計である。来客あり。

午後3時から5時まで筑摩書房の松本さん。今度の筑摩新書の内容の打ち合わせ。松本さんとは昨年の11月に最初の打ち合わせをした以来だから10か月ぶり。当初の方針をさらに進展、蒸留させて「カメラのブランド論と写真機の機械学」のような方向にゆくことが決まる。

午後5時に浅田恵理子来。

これも2月以来の面会。浅田の関係で徳間書店からカメラ本を出すのであるが、しばらく前、力石編集長と橋上編集部員がいらして、その時の打ち合わせが済んだのであるが、まだ一字も書いてない。これも進行させねば。

浅田の姉上がジャズシンガーの浅田尚美さんであるが、仕事上、六本木には詳しい。良いお店もたくさん知っている。その関係で浅田恵理子が教えてくれたのが、龍土町にあるなんとか言うビストロである。東京ミッドタウンの脇の道を入った、天祖神社の向いの2fの店で、まあパリの場末のビストロという風情だ。パリの場末のビストロらしいのは、テーブルに何も敷いていないのであって、それが気に入った。

フロイラインがNOKIAのTシャツでサーブしてくれるのは、マンハッタンはSOHOのそこらのネーバーフッズカフェという感じである。

芽キャベツの炒ったの、いわしの揚げたの、プロシュートなどで、スペイン産の「あまり知られていない」重い赤を1本飲んだ。はなはだ可なり。HISの安ツアー、マドリッド1泊2日の旅という気分。

龍土町には明治時代には有名な龍土軒があった。

硯友社とか明治時代の文士、絵描き連中が「派閥」を超えて洋食を喰い、歓談したことは藤村、小山内とか田山、それに独歩も書いている。月一で龍土会というのをやった。

「紅葉山人の白骨」という料理を食ったと小山内は大東京繁盛記かなにかに書いている。その店の主人は外国人の家のコック経験者で、なかなかの料理人でその料理の名前にも凝っていた。その明治の店がまだそこにあるような気分になったのは、うれしい。

龍土町の迷宮を通って、またヒルズに戻り49fの会議室で浅田恵理子と歓談。部屋の明かりをつけているとユウミンの歌の文句ではないが「窓には部屋が映る」ので、明かりを消したら、東京タワーの本物が目の下にいきなり浮かびあがった。

60男と40女が明かりを消した部屋にいるのはかなり怪しい状況だな。

そこでそれぞれに亡くなった両親の話とか、浅田が亡き母上を送るときに着せた高級な和服と帯の話にとかになった。その帯は東京カメラクラブが大撮影会をした20年前に、にわかモデルの浅田が着た着物と帯なのである。母上はその時、ステージママで浅田に付添っていたのだ。

浅田恵理子と姉上はこの前のあつい盛りに池で死んだ鯉のお墓を作るので、60センチの深さに庭を掘り返して、姉妹で熱中症になりかかった。

7月20日の横浜の花火大会では庭から花火がよく見えた。足元にうずまき蚊取りをぶらさげて缶ビール片手に花火見物したそうだ。

お盆を前にこれはよい供養になった。

東京タワーの先をHNDにアプローチする飛行機の明かりはまるでひとだま。眼前の東京タワーはまるでお盆ちょうちんだ。

2008年8月 9日 (土)

テッサー28ミリf8は偉大なり!

R1157689 コンタックスRF用の1930年代当時、もっとも広角だったのが、テッサー28ミリf8である。
1930年代初期のコンタックスのカタログ資料を見ると、二人の男性が正装して、1台のコンタックスで遊んでいる。これは当時のプロモーション写真なのだ。そのレンズはテッサー28ミリのように見えるが、その前後に掲載されているたぶんドレスデンかどこかの巨大な駅構内の写真はダゴール28ミリというデータがついている。これは無論、市販されずにそれがテッサー28ミリとして世の中に出たわけである。Epsn0514

この前の広州旅行で、福田和也さんが「テッサー28ミリf8」を買ったというので、「ああ、もうそこまで病気が進行していたのか、、、と、暗然たる気持ち」になった。

このレンズは以前持っていたが、ともかく癖玉の極地である。画面中央はシャープだけど、周辺はまったく結像しない」のである。あるいは偏心しているのか、それとも収差がひどいのか、レンズ光学の素人には判断がつきかねるが、当時はこのレンズを1930年代と同様にフィルムで撮影していた。(まあ当然のことだ)

それが福田さんの影響で最近、ebayで手にいれた。価格は295ドル。それが先日届いた。洋服を入れるような巨大な箱の真ん中に小さい小さいレンズはちょこんと入ってアメリカから到着した。

ためしに、これをコンタックスライカマウントアダプターでエプソンR-D1sにつけて撮影してみたら、思いのほかにちゃんと写るのである。フィルム面に画像を投影するのが当然であったこのレンズが実はCCDと案外に相性が良いのに驚いた。Epsn0607

ただし超癖球である。これは「逆さ富士」ならぬ「逆さタワー」。

ツアイスイエナがこういうレンズをやめにして、ちゃんとした描写をするトポゴンを開発したのはむべなるかな、、、と納得がゆく。
さらに戦後になって、ツアイスのオーバーコッヘンが「20世紀にペニシリンと並ぶ偉大な製品」と自画自賛(これは本来3つの偉大な発明として、本当はロスアラモスも入れたかったのであろう)していた、ビオゴン21ミリf4,5が登場したその意味もよくわかる。

だから、そのビオゴン21ミリをさらに進化させた、京セラの21ミリとかコシナの21ミリなどはさらにすばらしいレンズであるのは言うまでもないのだけど、どうも最近のわれわれは蒸留水のような素晴らしいレンズを欲しているのではなくて、かなり癖のあるワインを嗜好するようなところがある。

Epsn0573 テッサー28ミリが素晴らしいレンズであるというのは、そういう意味であるから、早速手にいれて、「これは最新のビオゴンの描写には及ばない」などとわかりきった事はお互いに言わないようにしよう。

作例はいずれもテッサー28ミリ。
フォトショップは使用せず。

2008年8月 8日 (金)

新潮のむかし

1945年から47年当時の新潮を数冊持っている。
京都の遅日草舎という古書店から以前買ったものだ。むさうあんものがたり、の全四十何巻もここで買った。
日本の古本屋サイトだったと思うが、内田百鬼園とか足穂などの当時の作品を捜索するのには、実に便利である。

新潮1946年5月号は、まだ白表紙の「白書」めいているのがお洒落だ。墨一色のところに、SHINCHOと五月号の文字だけが、朱で印刷してあるのも粋である。
表1は表2の青い印刷がそのまま透けて見えるし、表4の広告では「眠る預金を保険で生かせ!」とある。これは富国生命の広告でいわゆる封鎖預金対策である。

もうひとつの表4の広告は千代田生命。

へ設建の本日新

とある。何のことかと思ったら、書体は右書きなのである。

新潮の当時の広告にはなんと「覚醒剤」の広告まである。当時は禁止されていなかったのだから当然な次第であるが、安部公房の戦後の一文で「ジーーーッツ、ジーーーッツ、ヒロポンが効いてくる」というくだりがあった。

小学校の行き帰りには「ヒロポンはやめましょう」という青いホーロー引きの広告板が街の角角にあったのを記憶している。
大変な時代であった。

新潮46年5月号には内田百鬼園の新方丈記が掲載されている。後に「東京焼尽」になった日記のその端緒である。63年前ではなく「つい昨年の夏の日記」であることが、新潮のむかしの紙面から感じられるのに一種のシズル感覚がある。

これは1945年5月末の家を焼かれたその翌朝の話しである。飲み残しの一升瓶に入った酒を夜通し持ち歩いた内田は「家内」と自宅焼け跡から当時嘱託をしていた丸の内の日本郵船まで徒歩で行くのである。そのくだりは実に優れたドキュメントだ。しかし4階に自室のある郵船は停電で、そこを仮の住まいとすることはかなわないので、また「家内」を励まして、元の自宅跡まで歩いて戻る。

気象庁で空き瓶に水を補給して、その先で空襲の影響か大量のさくらんぼが落ちている。その部分は後年には「家内がさくらんぼが落ちている、さくらんぼが落ちている、と言った」とあるが、初出の新潮にはその部分はない。単に桜の実が沢山落ちている。とだけ記述している。

ここらも面白い。
その日から、百鬼園の有名な「小屋暮らし」が始まるわけだ。Dsc02928

2008年8月 7日 (木)

祭りのあとの寂しさは

R1157643 R1157654

ここのところ、朝のヒルズへの「通勤」は、通常の駅への最短コース(これは日本路地裏学会でも評価の高い、「靖国の家」などの前を通る模範コース)ではなく、隅田川ぞいの公園を行って、住吉様の前の鳥居をくぐるルートである。 火曜はその前の晩に例大祭はおわっているので、着々をその後片づけをしていた。御神輿などはユニットになっていて分解が出来ることが初めて理解できた。これだけコンパクトになるから、大きいとは言えない倉庫に格納できるのであろう。 神社前からカナルの脇を歩行し、小橋から昨日まで大にぎわいであった、佃囃子の仮設舞台の前を通る。団扇が茣蓙の上に散らかっているのも、祭りの後の寂しさで良い感じだ。 どうも、自分の場合、例大祭はそのお祭りの後の「寂しさ」を鑑賞してその風情を楽しんでいるようなところがある。そのお囃子のその先の「獅子頭」の置かれている葦簀張りの小屋の真ん中には、昨日まで賑わいの中心だった、獅子頭が薄墨色の闇の中に安らいでいた。 祭りの後の寂しさは、、、というのは、1975年頃、ウイーン時代に知り合いの日本人から借りて聞いた吉田拓朗である。それまでの1973年までの「日本滞在」では忙しくて「不良少年の聞くフォークソング」などは聞く暇もなかった。ただ、新宿駅西口のフォークゲリラの撮影に通っていたばかりである。 ウイーンで聞いた「祭りの後の寂しさ」は、実に刺激的であって、自分はこんなにも「日本人」であるのかとその事の方にびっくりしてしまった。むろん、借りたのはカセットテープである。 上の画像は、ポケットの中からR8を出して撮影したのだが、日常使いのデジカメはコンパクトデジカメ以外にはちょっと考えられない。さらに上の画像はその望遠系の焦点で撮影しているのだ。GRD2も良く使うのであるが、200ミリまで引っぱれるレンズはやはり便利である。其の理由は別に遠方の被写体をクローズアップするというのではなく、前景から目的のモチーフまでの空間を圧縮して描写することにある。 望遠系での撮影はいわゆる「空気感」がそこに出やすいのも面白い。

2008年8月 6日 (水)

また9月がやってくる

Fh000024 「東京ニコン日記」はちょうど10年前に出た新書版の800ページほどの写真集だ。
1964年当時から1998年頃までのニコンとライカとニッコールの東京のスナップである。これは実はこれから出す「東京1960」(仮題)の大部の写真集の検索図録という意味で出し合た。それから7年後にこれから出す上の写真集の「予告編」という意味で出したのが、「東京今昔」(岩波書店刊)である。これが2年前のことで、その写真集には東京に縁の深い、片岡義男さん、坂崎幸之助さん、なぎら健壱さんとの「東京対談」を収録している。実際、あたしの写真などよりこのお三方の談話の方がずっと面白い。

数年来の計画を実行に移そうと、上の写真集の原稿をそろえている。出版社は最新刊「チョートク 海をゆく」や、「WIEN MONOCHROME 70s」や写真集「GRボックス」や「チョートクX六本木ヒルズ」の実績をもつ東京キララ社。

今年後半には某出版社から「チョートク佃日記」(仮題)も刊行予定。2001年以来の佃日記をまとめたものだ。時代が激変していると、その原稿を拾い読み(なにしろ編集部でチエックしたら8千枚あるそうだ)しているのであるが、2001年は旧世界の感がある。 この日記では2001年の9月10日にアフガニスタンカブールの上空を経て、翌日の夕刻、ドイツのフリードリッヒハーフェン(例のグラーフツエッッペリンが1900年にボーデン湖に浮かんだ場所)の宿屋でそのアタックのライブを見た記述が全体のキーになっている。

同行者のプラハの老ジャーナリスト、彼はプラハの春であの8月にソ連の戦車がプラハに侵入したその目撃者なのだが、その彼の「これは戦争だ、、、、!」と言わしめたその絶句がいまだに耳から離れない。

その意味で「チョートク佃日記」は、2001年の9月のドキュメントでもある。その時はパナソニックの新型デジカメのカタログ制作とプロモーションの仕事で、ドイツを1週間で5000キロ走行した記憶も今は懐かしい。

その9月がまたやってくる。

ナインイレブンの前と後のあたしの生活感覚の違い。

前には欧州行きのジャンボのコックピットによく遊びに行った。これがなくなった。
前には空港でちょっとのチエックインの遅れでもいらいらした。これが後にはなくなった。
前にはマンハッタンにアプローチする前のマンハッタンのスカイラインでWTCを無意識に探した。これが後にはエンパイヤだけしかスカイラインに見えないので、それが悲しかった。
前にはまったく縁のなかったセブンイレブンによく行くようになった。その理由はなにか深層心理でナインイレブンとセブンイレブンは関係があるのかも知れない。

画像はヒルズの49fに行くエレベータの中で撮影。ニコンSPに50ミリf1、1。
この癖玉は画面の中間部分が画質低下して、また周辺で持ち直すのである。それが魅力だ。

2008年8月 5日 (火)

8日ぶりのヒルズ回帰

R1157526 今回の広州、香港のツアーの最終日飛行機搭乗前の午前の2時間だけ「市内観光」をやった。こっちは四半世紀前に取材で羽仁未央さんに案内していただいた「クラシック香港」の記憶しかないので、実に案内人としては心もとない。それで銅鑼湾から北角のマーケットに行くのに、市電の乗る方向を間違えたりして顰蹙をかった。
Y浅プレジデントはこれだけ、香港に来ておられるのに、市電には初搭乗という。まあ、VIP連は会議とか視察でその寸暇がないのは理解できる。いっそのこと、会議を市電を借り切ってやるのはどうであろう。これなら、秘密も守れるし、情緒も満点だし暑いし。

それで同行の福田和也さんにいろいろ香港について教えていただいたので助かった。地獄で仏、香港で福田。

ちょっとびっくりしたのは、同行のR社のF森さんが実に香港慣れしていていることだ。そこらの乾物屋にいきなりはいって干し貝柱の値段を聞いて、価格が折り合わないとそのまま、貝柱をひとつ、口に放り込むような旅慣れた人なのである。あたしなど気が弱いから、たとえ30年来のおなじみの店でもそういうのは出来ない。

大昔のアメリカ映画などでどっかのアジアの市場で映画の主人公のかっこいい親父がそういう市場をひやかして、積み上げた果物を一個とってそのまま歩きだすというシーンがあったが、まさにそのノリである。

感心していたが、3分後に奥歯に貝柱が挟まって、爪楊枝のお世話になったのは、われわれ、還暦時代としてはこれは致し方ない。そこだけ編集段階でビデオをカットすればよいのだけの話である。

今回の3泊4日の理光ツアーでは万事快調だったのが、旅程は順調に過ぎて、最後の最後の自由行動の時に疲労が出た。
ようするに暑さに強いはずの自分が水を浴びたように汗をかいたのである。早々に2時間でホテルにもどって、Gパンとシャツを交換したのだが、これが汗でまるで水に落ちたような犬の按配である。ホテルのランドリーバッグにいれて、それをスーツケースに入れたが、あまりのずっしりの重さに還りのANA910便は離陸が出来ないのではと心配なほどであった。

木曜の晩に帰国して、佃で4泊してほとんど外出せず。せいぜいが住吉さまのお祭りを見に行く程度。それで疲労は完全にとれたようである。いつまでも30代の当時と同じ体力であると過信するのがいけない。
もっとも老酒の飲みすぎか。

老人と老酒。
これは文学的テーマで、いいかも知れない。

今回の理光ツアーの話はアサヒカメラの9月20日発売の10月号に書くので、ここでは抑えておくが、その収穫は「デジカメは人間が造る」という今更ながらの一事である。これだけでは意味が通じないけど、デジカメは機械が生産するのではなく、まさしく人類が生産するものである。

1500名の中国女子が人民大会堂のような食堂で日本風のお米のご飯を一斉に食する。そのエネルギーがそのままリコーのGRD(とか、R8とか、GX200とか)に転化するのである。
これが新発見だった。

それで今日は住吉さまの本祭りの最終日だ。

朝9時に本殿の前を抜けて、駅に向かうときにすでに6人のガードマンさんが立っている。鳥居を潜るとき、「おはようございます」と挨拶をされた。

年恰好からすれば、あたしは祭りの世話役世代には違いないが、これでも一応、20年来の朦朧地元民で四方田犬彦さんほどではないにせよ、一応、垂直長屋の町会費も払っているのである。
例の「市場篭」を見て、ガードマンさんは魚河岸関係者と勘違いしたのかも知れない。

数年前、北区滝野川の道路工事中の脇を歩行中に、ガードマンさんから「もしもし、、」と声をかけられた。こっちは舗装したてのアスファルトの上を歩いたと思って、謝罪したら「チョートク本の愛読者です」とのこと。

10年前、ヨドバシの地下売り場で警戒中のガードマンさんに「もしもし」とやられた。万引きの現行犯かと思ったら「チョートク本はカメラジャーナル時代から読んでます」であった。

3週間前、有楽町のビックのB1のフィルム売り場で10本2300円の工事用カラーフィルムと正規メーカー品のどっちを買おうかと「怪しい行動」をしていたら、店員さんに声をかけられた。この人がまた読者さんだった。

なんでも内規では「その手の怪しい人間には声をかけてはならぬ」というのがあるらしいが、そんなルールはへったくれ、である。請われてその店員さんの手帳にサインをさしあげた。

そういう「声かけ運動」が還暦カメラ雑文書きをの士気をどれだけ鼓舞してくれるか知れない。小学校などで子供の殺傷事件があった後など、校門に校長先生が立って、声をかけるなどはおせっかいの極みだけどあたしはこれで救われている。
謝々!!

★画像は広州。R8で撮影。

日録。

終日、ヒルズで仕事。午前11時NHKの二紳士来。打ち合わせ。クラブレストランに上がった頃から雲行き怪しく、サンダーストームとなる。眼下に稲光が走るのは絶景だ。

R1157658

2008年8月 4日 (月)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラコラム

デジカメ用の大口径レンズMマウントに期待する

小形のデジカメはその焦点深度が深い。
だから、大昔にスタジオを借りてライトを案配し撮影していたような「ぶつ撮り」がコンパクトデジカメなどでは簡単に撮影できてしまう。自分の場合などは、もともとぶつ撮影をするがらでもないので、ブロンカラーを始めとする大形ストロボは数年前に全部処分してしまった。
今は大抵の「イラスト用の物写真」なら、そこらの自然光が充満している部屋の角などで撮影してしまう。
実に便利なデジカメ時代だ。

ところで一方で明るいレンズの要求というのは従来市場に根強く存在する。これは銀塩時代の「暗い場所を明るいレンズで撮影する」という目的からなのではない。

デジカメの感度は自由に変えられるからむしろ、明るい絞りで撮影してモチーフの被写体深度を浅くしてそこに「芸術的テースト」を加えようというものである。前後がピントがぼけている画像が果たして芸術的であるかどうかの高度な写真論はひとまず置くとして、交換レンズで大口径の玉が停滞している潜在需要を掘り起こすのは確かであろう。

とくに、ライカM8とかエプソンR−D1sのような「自然なスナップショット」を撮影するカメラ用のレンズでは、明かるさがf1、4とかf1のようなレンズの人気が出ている。

この前、六本木ヒルズのVIPの皆さんを撮影した。その時はエプソンにニッコール50ミリf1、4を付けて人物撮影レンズとして非常に便利であった。レンズがフルサイズの75ミリ相当になるので、人物鏡玉としては最高である。他にはキヤノン50ミリf1、2、ゾナー50ミリf1、5、タナー50ミリf1、5もよくエプソンと組んで使うレンズだ。

キヤノン50ミリf0.95のMマウント改造レンズをM8につけて、昨年のアサヒカメラのM8の記事で使用したこともある。

ライカ社などは最近、中古市場で払底しているノクチルックス50ミリf1のリニューアルモデルなどを出せば「お金をライカに消費したがってうずうずしているライカリッチマン」などは喜ぶであろう。

ただしその場合、額面通りの50ミリf1ではなく、往年のキヤノンの業績を百分の一は超える意味でf0、94くらいにしてもらえば、さらに妙であろう。別にライカの工場で生産する必要はなくて、どっかのOEM工場に出せば良いのは当然の話だ。

いえ、あたしはキヤノンf0.95とかニッコールf1、1があるし、当然、もしそういうレンズが出れば、当然ステータスのある「ライカ価格」であろうから、そういうレンズが出ても購入神経をすり減らす心配はない。

@@@@@@@@@@@@@@

ライカ250のフィルム問題で悩む

ライカ250というのは、ライツ社が報道関係者など、多量の撮影カットをこなすスペシャリストの為に生産した両方がふくれた恰好の特殊ライカである。戦前に900台余が生産された。

つまり戦場の弾丸飛び交う環境下で、あの面倒なライカのフィルム交換をしている間に「流れ弾」に当たっては元も子もないから、フィルム交換の手間を省き、同時に撮影隊員の生命安全を守るという大義名分のライカなのである。

この両側の膨らんだライカはいかにも魅力的なので、自分も以前、無理算段をして手にいれた。問題はそのフィルムである。もともと往年にはそういう長いフィルムを現像する為の現像のリールというのが、アメリカのナイコールあたりから出ていた。しかしこれだけデジカメ全盛の時代にはもう生産していないようである。だいいち、モノクロのトライXを自分で現像するということもしなくなった。

ゆきつけのプロラボに聞いたら、カラーネガなら長尺のフィルムを連続的に処理してくれるそうである。もっとも35ミリフィルムというのはもともと、映画用であるから、そういう長いフィルムを処理するのが本来のやりかたであったわけだ。

上の話をラボで聞いたのがすでに10年の昔であって、そのラボのチエーン店で銀座にあったそのお店も統合化で今はないのである。
そのような込み入った事情で、長尺のカラーネガはストックを持っているのだけど、それを出すラボが見当たらない。

しかし、せっかく持っているライカ250を死蔵しておくのは残念なので、普通のパトローネを入れて工夫をして撮影に使っている。ただしライカ250の構造上、巻き戻しはできないので1本、36枚撮影すると持参のダークバッグの中でフィルム交換をする。これは4x5のカットフィルムも同じ次第だから、面倒なことはない。でもせっかくの特殊ライカがその性能を充分に発揮出来ないのは残念だ。

もっとも、あたしの2GMのSDならそれだけでデジカメは4000枚撮りなのである。ライカ250などはあんなにグラマーなのに250枚撮りだけ、というのもどうもねえ。

住吉さまのお神輿 隅田川をゆく

Dsc02857

日曜日。
寝ていたら、河面から「こちらは臨港消防署消防艇はるみです。午前7時から神輿渡御があります。本艇は放水を行います。付近を航行中の船舶はしぶきに十分注意して航行してください」と放送あり。時に午前6時。
下をみたら、消防艇はるみ、と、もう一艇、これより小さい消防艇が見える。この小さいほうが「しぶき」という名前だが、これは変というか、「飛沫」の意味であるから非常に存在学的でもある。

この2つの船は昨日、土曜の午後に同じ海域(というか水域)に来て「放水練習」をしていたのである。放水するのは大きい船のはるみの方である。
視ていたら、最初は「真っ赤な水」が出た。これは出初め式の「色水」かと思ったら、単にポンプを最近使っていなかったので、管内の赤錆が出ただけのようである。そのうち普通の色の水が4つの放水銃から発射された。

それで今朝のことである。
良い気持ちで寝ていたら「こちらは臨港消防署消防艇はるみです。これより放水します」の声がする。
あわててベランダに出てみたら、目下のはるみが五色の色水を放水する前を、台船に乗った神輿が神官、関係者とともに岸をゆっくりと離れた所だった。時に午前7時。

もともとは隅田川が「かみそり堤防」になる前は、住吉さまの正面の鳥居から、神輿は河に入ったようである。
それが長らく中断していたのを、たしか9年ほど前から、今のような台船の神輿渡御になった。

クラシックな極東の民俗学的な行事がドライな巨大な鉄の台船の上で行われるのは、なにか実にモダンアートしているのが妙である。
手許のα200で撮影する。

また寝室で寝ていたら、今度は上流から佃囃子が聞こえてきた。
さっきの台船の出発は午前7時だったが、それから75分でお神輿は朝汐運河を経て、月島、新佃方面を廻ってきたようだ。
またα200で今度は例の2000円の80ー200ミリレンズで撮影。1時間以上、河の上に居たせいか、神官以下、大分リラックスしているのが良い感じだ。

上の画像は出発の時の撮影だが、良く見ると、神主さんと巫女さんをデジカメでスナップしている。

以前、ラサで行われたチベット仏教の法要で、ラマ教の坊さんが例のどてらのような袈裟の中からカメラを取り出した。それがコンパクトカメラであって、それで例のラマ教の旗を撮影しているのをTVで視た。なんとも不思議な光景だった。もともとダライラマさんがカメラ好きなのは分かるけど、もともと写真機などない時代の宗教行事で、そこに「身内のカメラマン」が登場するのは、時代劇の映画のロケの時に背景のカットが見切れて、そこに駐車禁止の標識が映ってしまうようなものである。

だから、神聖な「お神輿渡御」の時の仲間内での記念撮影はあまり感心しない。もっともそれを視ていたのは恐らくあたし独りであるからまあ良いか。


2008年8月 3日 (日)

嗚呼、亜細亜の夏

R1156773

六本木ヒルズには先月の26日以来、行っていないのであるが、これはその時に撮影した画像だ。 退屈なケータイの広告とかがずらずらと地下鉄の駅からヒルズのメトロハットのエスカレータに行くまで、通路の右側に並んでいる。これは古い言い方だと「電飾看板」である。 きむたくのどっかのケータイの広告とか、ソニーのえいちゃんの広告とか、それらに興味を持てないのは、それらの有名人に興味がないだけの話しであるが、目下の広告はもっぱら有名人に頼りきりなのもなさけない。カメラの広告もその例外ではないが、まだ救いがあるのはその回転のサイクルがまだゆっくりしているせいであろう。 上の広告パネルはヒルズの夏のイベントという「ローカル」なものだけど、その視覚効果ななかなかで、通過しながら、シルエットになっている漢字を拾い讀みしたり、読めない文字が読めなかったりして楽しいものだ。 唯一、気になるのは、亜細亜の夏という視座なのである。ここはユーラシア大陸のはしっこの、その先の「東海」の先の列島であって、その東にはもはや陸地はない。その意味ではリスボンと似たような感じがあるかも知れないが、葡萄牙はかつての大繁栄の後に没落の美学があるわけであるけれど、日本のそれの場合にはたかだか60数年前に「没落」したわけなので、情緒に乏しいのである。 マカオの島の奥を歩行していると、そこにまるでリスボンの裏町を歩行しているような懐かしさがもたらされるのは、何も、我々、モノ好きの好奇心を満足させるためのマカオ政庁の観光局の思惑ではなく、かつてここがリスボンの飛び地であったからだ。南海に上がる白い月が、そのままアルファマの海の上の明月のように感じられるのは、情緒でもなんでもなく、権力が製作した[vater land]の意志の反映なのだ。 一方、極東の日本のかつての世界観はどうも昭南島の先の「遥か印度洋」あたりがその限界なのである。

2008年8月 2日 (土)

佃月島

香港広州から戻って、金曜は静養。
PCを持参しなかったので、連載のアサヒカメラのキャプションがまだであった。それで明日が校了というので、あわててその部分を書いて送る。
あぶない、あぶない。

朝、銀行に用事。
その足で佃月島のお祭りの様子を見物に行こうと思ったが、老人が生活費を路上に落としたりする可能性があるのでいったん家に戻る。
そうなると、書きかけの原稿をまた書きたくなる。要するにPowerBookは「開けてびっくり玉手箱」であって、開いたらそこには自分よりももっと真実の自分の存在が待っているから、面倒なことになる。

3泊4日家を開けていた間にライカインコの卵の数は五個から七個に増殖していた。めでたし。
午後、広州などに比較すればはるかに涼しい街を佃小橋の側の「住吉さまの幟」を視に行く。

今はタワーが立ってしまったけど、江戸時代までは遡らないにせよ、1966年当時にここのお祭りをライカM2にニッコール21ミリを付けて撮影に来た時だってその幟の高度感覚は実に天を突くようであった。

前、37階に棲んでいた当時は、その幟ははるか下の方に見えたのである。ベランダからその光景をAaton LTRの16ミリカメラで撮影した。まず幟のはためく様を150ミリで撮影しておいて、そこからゆっくりとズームバックして、カメラはややパンアップして、聖路加とか大川を全景として撮影するのである。
まず、文化映画の退屈な常套テクニックだがそれを真剣に撮影させるほどに、住吉さまの幟は威容を誇っているのである。

そう云えば代々のライカインコが亡くなる時期は、偶然ではあるが、3年に一度の住吉さまの例大祭の時期にあたるのも不思議である。
三代目のライカインコが昇天したのも3年前のこの時期であったし、その前の二代目もそうであった。

小橋を超えて、月島には入る。
路地、路地を徘徊すると、あれは何の鳥なのか白鷺とも見える鳥の意匠のちょうちんが路地にずらりと並んでいるのは良い感じだ。
1966年当時、そのちょうちんの路地では路地裏のがき連中が大騒ぎをしていたが、2008年の路地裏はひっそりとしている。思えば当時10才の子供は今は52才である。すごいねえ。

ただちょうちんを軒にぶら下げている家。
雨を用心してビニールでカバーしている家。
半ずぼんのお父さんが、家の中からコードを引いて明かりのつくようにしている家。

それぞれのちょうちんの使いかたも視ていると面白い。

月島の店で、めじ、真鯛、あおやぎなど買う。これで加茂錦を「ひや」で一杯やる予定。

道を北にとってまた小橋のそばのお神輿の飾ってある場所と、獅子頭のある蘆張りのお神酒所の前を通る。
あたし年令の男性がライカM6を持っている。連れの女性はmoleskinmの手帳で何か記録している。外見からは
今風の「民族学」であるが、男性が何を撮影するのか、注意してみていたら獅子頭をクローズアップしているので、ちょっとがっかりした。
いや、そういうつまらない撮影方法だから、案外「柳田民俗学」に肉迫しているのかも知れない。

小橋を渡って、「人間国宝」のうるしやの先のクラシックな瓦屋根の前でTVクルーが撮影している。
NHKドラマのせいで佃月島が有名になるのは、地元のもんじゃ連には良いかも知れないが、あたしのような偏屈には迷惑なはなしだ。
R1157574

2008年8月 1日 (金)

夏の思い出/コンタックスフード

「R1156794.JPG」をダウンロード

レンズフードという存在はカメラの形而上学の本質に触れるような所がある。そこを見抜いているから、カメラ屋さんはズマロン28ミリとかスーパー暗愚論21ミリとかのフードに高い値札をつけるのである。

以前、何かの小説かエッセイで讀んだが、ストリートガールのお値段はその時代、時代の手に入る紳士靴のかなり良い品物の価格に等しいというのである。
そんな統計もあるのかも知れないが、その伝で行けば、この手のレアものフードのお値段はストリートガール二名様分と云ってもよさそうだ。

中にはニッコール50ミリf1、1用のオリジナルフードというのもあって、これは実物は視たことはないが、その関係のニコン研究の第一人者団体が、そのレプリカを製悪して、これがまた大変な価格で銀座のお店に出ていた。
それは買えないので、yahooオークションに出ていた、金属製の削り出しのレプリカを手に入れたけど、これでも2、5万ほどする。
しかしレンズフードというのは、戦国武士の旗差しものにも似て、そのカメラ人類の存在感を強調するものであるから、やはり「かなりいってるカメラ人類」は、無理算段をしてでもそういう象徴的な物品を手にいれることになる。

ここに登場するのは昨日の続編というわけだが、コンタックスに付けた、折り畳み式のフードだ。何時、どこで幾らで手に入れたのか、その記憶の飛んでいるのがなさけないが、これは三段式に伸びるフードである。しかもプラスチックではなく、軽金属製であってかなり細かい細工がなされている。
そこいらのカメラ店で売っている、500円均一のサード会社製のそれとは段が異なるのは云うまでもないことだが、これを持つと自然に50ミリレンズが使いたくなるのが妙である。

このフードはコンタックスの外つめに連結するのでコンタックスの内つめに連結するのは、自然、50ミリレンズだけ、というわけだ。

幼稚園の遠足であったと思うがたしか、同じシステムの携帯式のコップとううのを持たされた記憶がある。これは粗末なプラスチックなので、その水密性が低く、水筒の水がこぼれ出た。
こっちのフードの方が数段上等である。フロントのzeiss ikonの文字は本物だ。
@@@@@@@@@@@@@@
昨夜、香港から帰国。
ANAの進路は行きは台風で上海経由だったが、帰りは普通の台湾を斜に突っ切るルート。
成田からのリムジンが都心に入った時、第一印象は「実に地味な街だな」である。
広州の歩行者天国のネオンの濫立とか、香港の「百万元の夜景」を視なれてしまうと、実に寂しい夜景だ
そこに極東の果ての果てにある都会の滋味がある。

今日から住吉さまの本祭である。午前10時には20メートルある幟(のぼり)がそこらここらに立つ。例の佃小橋の泥の下に埋めてあったやつだ。

飼い鳥も老いて佃の幟かな   長徳

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30