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ロック ユー

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2008年7月31日 (木)

夏の思い出コンタックス

R1156793
昨年の8月にプラハのフォトシュコダで買ったコンタックス3型だ。
レンズはゾナー50ミリf2の枕胴、それにゾナー85ミリ、ゾナー135ミリとソ連製のユニバーサルファインダーが付いて、価格は幾らか忘れたけど、自分が思い付きで手に入れるのだから大した価格ではない。
この画像ではレンズはソ連製の50ミリf1、5が付いているが、これは1970年代のウイーンから持ち越しのレンズなのである。最初に買ったキエフ(ソ連製コンタックス)に付いていたレンズで、その本体の方はすでにどっかに行ってしまったけど、レンズの方が描写が良いので、未だに手許にある。こういうのは稀な例だ。1951年生産のレンズだ。

こういうことを云っても誰も信用しないのであるが、戦後の西ドイツの同じタイプのゾナー50ミリf1、5よりも優れている。
この言い方がツアイス関係者(サードパーテイ関係も含む)からクレームが付くのなら、自分にはこのレンズの描写が好みに合うのだと言い換えても良いのだけど、本家のオプトンゾナーより気に入っているだけだ。
その古井戸を覗いたようなレンズの色がまた良い。

このレンズはその理由は不明ながら、エプソンRーD1sにマウントアダプターを付けて撮影した時の描写が気に入っている。銀塩フイルムならばさらに妙である。

思うに戦前のツアイスのカタログを見ると、ゾナーの50ミリのf2とf1、5とではその価格は超絶的に異なっている。だから同じレンズがソ連の采配で登場したときには、ソ連レンズに狂喜してこれを愛用する西側の「知識人」は多かった。

家人がウイーンのアカデミーに留学したとき、音楽アカデミーの個人レッスンについたガースリー教授はアメリカ出身であるが、大のカメラ好きであって、アカデミーの家人のレッスンの後に、そのガースリー先生とツアイスVSソ連製レンズ談義をしたのも懐かしい。彼はゾナーコピーの85ミリf2ジュピターの大ファンであった。

当時のライカM3の固定ズミクロン50ミリf2と、キエフに付いていたジュピター50ミリf2とを同じ条件で撮影して、これを11x14インチモノクロに伸ばして、そのプリントをドナウ運河の隣の住まいにアトリエのある、プロカメラマンのヘルムーとに見せたらその画質の区別が付かなかったという逸話は、確か昔の銘機礼讃の1に書いた記憶もある。

ツアイス愛好家になると、本家ツアイスよりもソ連製のそのコピーを愛するようになるのは、かなり病状が進んだ印である。つまり「価格の安い代用品」ではなく「ツアイスのレンズの本質をついているコピーレンズ」に惹かれるのだ。

ツアイスの現象学はやはりその本家のかつてのドイツ東部の区々にその存在の影が深く射しているようだ。
ドレスデンやイエナは云うまでもないが、ワイマール、ハレ、ライプチッヒ、カールマルクスシュッタット、デッサウなどなど。思えば、これらの地域には2001年の9月11日前後以来、行っていないのである。

★まだ、福田和也さんと広州香港漂流中。


2008年7月30日 (水)

気の利いた「大学広告」

R1156778 仕事がら、通勤途中に広告を見る。
大学とか短大の車内中吊り広告は「ピントのはずれた広告の最たるもの」であって、最初から見るのも「しんどい」のであるが、逆にその「変な広告を見ることが楽しみ」になってしまうと、それはそれで面白いものだ。
たいていの大学のオープンキャンパスの広告はそこらに居合わせた、学生を適当に配して、撮影したカットに「若さ」とか「未来」とかのあくびの出る常套語句を組み合わせたものだから、そういうのを通勤途中に見ると、披露が蓄積するわけである。

思うに、大学の広告の退屈さは、コンペなどなくて、何十年も同じ小規模な会社がこれを延々と受注しているような気がする。だから型にはまった場所から脱出は難しい。

そういう凡百の大学広告の中で、これは目が醒める。
もっともその理由は実に瑣細な個人的事情なのだ。カブトムシの兜を男の子にかぶらせたり、アゲハ蝶を男の子の頭上に止まらせたりも面白いが、中央の女の子の頭上に白鳥の乗っているのは、意表をついている。

うちの前の中央大橋の上には、シラク前大統領がまだパリ市長時代に、東京とパリが姉妹都市のよしみで(恐れ入ったことに、セーヌと隅田とも姉妹河川という)贈った、巨大なブロンズ像がある。ナビゲーターというタイトルの名作なのであるが、古今、どのような偉人の銅像の上にも、カモメとかハトぽっぽがぞの頭上に載って、ふんをするわけである。

世界の偉人の偉業も鳥にはかなわないだけだ。拙宅のライカインコもそのまねをして、あたしの頭に載ったるするわけであるが、インコ愛好家の間ではこれを専門用語で「頭乗り」になるというらしい。

その「今ならどんな人にもなれますよ」のコピーは秀逸である。
もうひとつ、この車内広告に惹かれたのは、その三人の若者の背景の空の色彩だ。
これはルネサンスの宗教画のマリアと幼きイエスの背景によく使われるところの「永遠の午後」の空の色である。
その色彩が気に入った。
その色合いは例のジャガールクルトのレベルソの金時計のベゼルの背景で、太陽と月の出ているミニチュアールな宇宙の空の色彩でもある。
国士舘大学、見直した。

上の画像はリコーR8で撮影。こういう資料撮影には実に便利だ。GRD2だと、周囲の乗客まで画面に入ってしまう。

2008年7月29日 (火)

香港広州に持参のデジカメ

好評発売中の「チョートク 海をゆく」では、コンパクトデジカメ、レンジファインダーデジカメ、そしてデジタル一眼レフを用途に応じて使い分けている。
その使い分けのやりかたは、本書を読んでいただくとして、最低限の機材ということを考えてみると、やはりコンパクトデジカメなのである。
つまり「日常使用しているデジカメの延長線上に仕事のデジカメがある」という認識である。

出た本は普通の書籍サイズであるから、まずそこに使う画像を撮影するカメラはコンパクトデジカメで十分だ。商売のカメラマンはそういう風に最終的にどのようなサイズを要求しているかそれを確認してから撮影するのは当然だ。

知り合いのプロカメラマンで膨大なオンラインのファッション撮影をしている人から聞いたが、川崎の倉庫の中に特設のスタジオを造って、そこで一日1000カットの撮影をするという。画像は無論、WEB上で必要なサイズであるから、せいぜいが3000pxクラスで十分である。カメラはキヤノンのD40だそうで、これはメンテナンスなど考えずに「使い捨て」にするそうだ。

ライカを40年使っている身にしてみると、なんだ、勿体無い!と思うのであるが、自分にしてもデジカメは新型が出たら持ち替えているから、これは事実上の「使い捨て」である。

デジカメのクラシックカメラは果たして将来に登場するであろうか、とデジタルカメラマガジンの連載「デジカメ風雲帳」(今回で連載77回を数える)にかなり前に書いたことがある。でもやはりデジカメはクラシックデジカメにはなれない。
単に「型遅れのデジカメ」になるだけである。

さて現在3泊4日で香港、広州方面に福田和也さんと旅行中。この記事の出ている頃は広州で福田さんと名物のうなぎならぬ、へびでも食べているであろう。リコーのデジカメ工場の見学もある。これは4年ぶりであるが、どのようにモダン化されたのか、それも興味がある。
それで持参のデジカメであるが、紛失していたリコーR8のチャージゃーも発見されたので、G8を持参。他にサブとしてGRD2も持つ。他にはローライミニデジカメが市場篭に入っているから、計3台。かなりのプロ機材だなあ。

今回の「新機軸」はPowerBookを持参しないことにある。過去7年間、世界の何処でも必ずPowerBookを持参していた。それが今回はそこからちょっと離れてみようと思った。

PCに関する考えもこの数年でかなり変わった。最近ではヒルズの仕事場で画像を扱うのには、2台のPowerBook(ただしかなりの型遅れ)と、dellの貸し出しのPCをつかっている。
それでメールとかブログはデルでやっている。
世界各国の空港の貸し出しのPCに日本語の環境が備わるのはまだ先のことであろうがそうなれば、PCを持参する必要もなくなるかも知れない。

2008年7月28日 (月)

先週のシドニー

7月26日の土曜はシドニーであった。
毎月の第四土曜の午後2時から新宿は荒木町のアローカメラの特設スタジオの麦酒箱の上でのカメラ時事放談がシドニーである。これをもう10年以上やっているのだから、シドニーオリンピックなどよりずっと歴史は古い。

前回は猛暑の中に30名さま近い参加があった。さして広くない店内であるから、クーラーがその運用限界を超えている。しかもお客さんは皆、あたしと同じに立っているのである。カメラの荒行である。ようするにクラシックカメラへの愛がなければ不可能である。

ここではかなりのマニアックな話しをすることにしている。先週の氷川丸の講演会ではお客さんから「脱線」を叱責されて、すぐに本題に戻ったわけであるが、シドニーの方はマイナーな個人的な集会であるから、脱線は大歓迎である。
シドニーの会場に先週の氷川丸の文化講演会に参加した人も二名いた。それで氷川丸講演の時の軌道修正の話しをしたら、一堂大爆笑。

もとより、シドニーは脱線路線が正統とは言え、ただよた話しをしているわけではない。実は幾つかある雑誌の連載記事などでは、あまりにマニアックでちょっと触れられないような話しをここで開陳しているのであって、言い方を変えれば「クラシックカメラの引力圏のぎりぎりの空域での最近発見された宇宙ほたる」の研究発表会なのである。

この前、取り上げたのはイタリア製のしかも唯一の一眼レフカメラ、レクタフレックスの話しだ。
ただし、レクタフレックスの話しなら、連載中の雑誌に掲載しても一向に差し支えないが、ここではその先の引力圏の話しだ。
つまり、レクタフレックスのボデイキャップと、交換レンズのリアキャップのベークライト製の現象学とそのユニークなRectaflex のロゴの形而上学について、麦酒箱の上で講議しているのである。
まず、中古カメラ店のフッサール気取りである。
ちなみに世界に数あるレンズのリアキャップの中で、このキャップほどの名品はちょっと見当たらない。

★今週は香港から広州方面を旅行中。帰国は木曜の夜。01

追記。

成田の1ターミナル。アナのラウンジ。

数年ぶりだが巨大なラウンジに改造されていた。ただしシャワーはついていない模様である。

同行の福田さんR社のトップの皆さんとここで待ち合わせ。

あまりに広大なので、遭遇できるか。ラウンジの一番奥に日本酒と焼酎のバーあり。福田さんを待ちつつ、そこで一杯。午前8時20分。
R1156792

2008年7月27日 (日)

チャージャー発見の「朗報」

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銀座のカメラ屋さんに各種マウントアダプターが並んでいて「カメラファンに朗報」などと手づくりの看板が添えられていたのを視たのはしばらく前のことである。それを視て一種、変な懐かしさにうたれた。
同様の似た次第の印象では大衆食堂のHPで「たぬき食堂再開の朗報」というのもあった。

この「朗報」問いう言葉を使う人は還暦以上の年代であるが、そこにはさらに戦前の懐かしい「商業主義」の薫りがする。しかしそれは良い感じというよりも実に古臭い一種の風情がただよっているという意味だ。

自分で使いたくない「ステレオタイプ言葉」が何個かあるが、この朗報はそのトップ3である。
ほかのトップ3をあげると「一期一会」とか「xxの目線に立って」とかいうのがそれである。

しかし今回はその使いたくない「朗報」という言葉を使わねばならないほどの「朗報」なのである。
言うまでもないが愛用のリコーR8のチャージャーが行方不明になって久しかった。6月に西安に行った時には持参していた記憶があるので、旅行鞄の中を捜索したが発見できなかった。
GRD2も良いけど、ぶつを撮る時にはR8のような長焦点のズーム域があったほうがいい。だからR8がないと実際日常の業務に差し支えるのである。

先週の木曜には佃の大テーブルの上を全部捜索したがやはりなし。
そのことを昨日、晩餐の席で家人に説明したら、何のことはない。家人が一まとめにしてクローゼットに収納していたのである。

家の中ではどこになにがあるかは、乱雑とは謂え、大体は把握しているつもりであったが、R8のバッテリー関係にかんしては「全く記憶がない」のでこれはいよいよ老人力かと思っていたのである。

ついでにエプソンRーD1用のチャージャーとバッテリーも発見した。これで来週からの広州行にはR8を持参することができる。

発掘品は早速に「チャージャーとバッテリー用のおばかな色彩のハローきてい」のバック(これはバッグでないところに価値あり)に収納した。

朗報の影で今度はまた面倒なことになった。リコーのGX200にはこれは大きいカメラなのでGパンの尻ポケットには入らない。それでGX用のストラップが佃の大机から出土したので、それをGX200に付けた。ところが机上を整理している間に今度はそのGX200をどっかに仕舞いなくしてしまった。

この世の中はなかなかうまく行かない。

R1149437 ★作例はそのR8で撮影。

6月1日の西安行きの日航機から撮影。この画像は発売中のデジタルカメラマガジンにも掲載されている。

これは200ミリ相当のズームで撮影。このようにR8は最近ではGRD2と同様に自分の必須デジカメである。

バッテリーチャージャーがないと、こういう富士山も撮れないわけだ。

2008年7月26日 (土)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

32GBのCFカード

2年前にソニーα100が出た時、それまでCFカードを持っていなかったので秋葉に行って、4GBのCFカードを買った。当時、価格は2万円以下であったので大変な安い買い物をした気分だった。4GBというのが一生使いきれない膨大な空間に思えたのである。1MB(1GBではない!)のカードが25000円もした10年以上昔の往事を知っている者としては、これは破天荒であった。

この5月に西安に行く時には、ニコンからD3を借りたのである。その時、オンラインショップで32GBという桁外れな容量のCFカードを買った。これは衝動買いというやつだ。
その価格はやはり2万以下なので、一体、こういうメモリというのは一体どこまで安くなるのであろうか、とちょっと心配になった。

西安で撮影した5000カットだか7000カットだかの画像はちゃんとエプソンのP5000に格納したけど、もとの画像はそのままにCFカードに残してある。なにかそれを消去するのがもったいない気分である。
もうひとつの理由は、これだけ小型なCFカードにそれだけのデータが格納されていると、やはり携帯には便利だ。他にも書きかけの原稿やらなにやらが、そのCFカード32GBの中にはいっている。

HDの場合、2ー3年、いや遅くとも5年ほどでクラッシュするのは、最近では常識であるらしい。この前も、3ー4年使用したPowerBookのHDが死んで、そこに収蔵されていた画像はなくなった。
それに対して、回転する部分のないCFカードは、専門のことは分からないけどHDよりは大分長く持ちそうである。
もともと、デジタル画像というのは、「夜の湖面に映った月の反射に過ぎない」というのは、自分のデジタル画像への感覚であるが、そのような儚い存在であるとは謂いながら、やはり画像はちゃんと長く保存された方が良いに決まっている。

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★銀塩クラシックカメラ

ライカM5の70年代スタイル

この前、北井一夫さんの「ドイツ表現派」の展覧会が中野のギャラリーであったわけだが、実に28年ぶりに北井さんとお話をする機会を得た。
1978年だか79年に北井さんの助手兼通訳兼コーデイネーターとして通算、約2月の長旅をしてドイツ、オランダ、スイス、ポーランドを周遊したわけである。

当時の北井さんのライカはM5であった。これに35ミリのズミルックスを付けて、大変な数のショットを撮影するのである。レンズはそれ一本のみであった。時代がくだって最近の北井さんの愛用レンズは戦前のエルマー35ミリとか50ミリなのも面白い。

そのショットの方法はあたしのようなライカ小僧なら「犬のおしっこ」みたいに、あっちへちょん、こっちでちょん、と街角へひっかけてやるわけだが、北井さんの場合には道のど真ん中の一ケ所に腰を据えてしまうのである。まあ、例えれば「犬のうんこ」か。

このシリーズは1970年代後半の撮影だから、まだ西側と東側に世界が分割されていた時代の記録であることがすごい。

そういう撮影で北井さんの手の中に握られていたのが、ライカM5であった。当時、ライカM5はすでに現役ライカではなかったけど、2台持参した北井さんのM5(どうも一台はシュミットの明石さんから木村伊兵衛先生の遺愛のライカM5を借り出したようである)のうちの1台を貸してもらって、そのホールデイングの良さにびっくりした。外見は大きいけどバランスが良いのだ。

それ以来、自分もライカM5を使うようになった。そのデザインは非常に70年代的であるわけだが、両側の丸い歴代のライカの中でこれだけが「弁当箱」のようなユニークなスタイルであるのが、立派だ。

デジタル一眼レフなどは、その銘板をテープで隠してしまえば、どれがどれだか分からないのと好一対である。
これがM5のデザインの優位性だと思う。

20世紀末の観音カメラ印の浴衣

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室内の大整理で各種の物品が発掘される。その中で本は有り難い。着るものもありがたい。古い酒が出てきたりすると、もっと有り難いが今回はそういうのはなかった。

目下、3本を交代で使用しているGパンもひざが抜けて、付け根の縫い合わせがほころびてきた。町のおにいちゃんのはいているのは、それよりもずっと「破壊されたGパン」であるが、還暦すぎのじじいはすでに身体がすり切れているのだから、Gパンのあまり擦り切れたのもどうかと思う。
しかし風が入るのでこれはこれで涼しい。

そこに大昔に買って、そのまま「デッドストック」になっていた、薄手のデニムのパンツが出土した。週末からの香港広州行にぴったりなので喜んでいる。

それだけではない。
1997年のキヤノン創立60周年の時に関係者に配付した「ゆかた」も出土した。角帯付でその結び方まで図が付いている優秀品だ。
御手洗さんの60周年のあいさつも付いているレアものである。
創業当時、下丸子の川べりで納涼盆踊りをした優雅な時代がキヤノンにあったと書かれている。

自分の愛用のキヤノンは2bとか4sbであるから、まさにその時代の精機光学が偲ばれる。

2008年7月25日 (金)

7月の「部活」

Fh010004 しばらく前のことになる。

7月5日の土曜だ。午前11時に川崎の大師河原に集合。今では別の京急の駅名のようだが、自分には大師河原である。
ここではかつて4世紀前に武蔵の国の大酒呑みが酒合戦をしたと古文書に見える。炎天下の死の行軍であるが、こういうハードな撮影行は、10年前の東京カメラクラブでの死の行軍以来、その伝統が絶えている。その理由は参加者の高齢化であって、今の東京カメラクラブのメンバーはとっくに還暦超えになってるから、そういうバカをすると「老人ゲートボール練習中に熱中症」
と類似な状況になるから、自粛していたのだ。

しかし、あたしは夏の部活に備えて、6月は中国の西安で城壁を一周するなどの「強化合宿」をしてきたので一向に平気である。
大師前から大師前のあれは何というのか、だるまと飴とくずもちの店が団子状態になっている、生活道路を徘徊した。途中で「くずもち工場」を見る。
長い写真家の経験でも、くずもち工場は初めて見た。

「くずねつおふ」というのはあたしの好きなソ連製飛行機のエンジンの名称である。それで暑さの為、脳内が短絡してソ連のJETエンジンの会社と川崎のくずもち工場が脳内一体化した。

間取りスト/佐藤和歌子せっこう兵が事前調査のそのくずねつおふ通りにある、天ぷらやにくりこむ。親の遺言でてんぷら屋は禁忌なのだが、入ってみたらこれがなかなかうまい。無想庵がマルセーユのユダヤ街で一文なしで、中国人のやっている天ぷらやに入ろうか、入るまいか逡巡していたシーンを思い出した。
なんでもその天ぷらやの狭い店内のあたしと福田和也さんが背にした壁紙は立派な富士山の図柄であったそうだが、背中に目はないのでそれは気がつかなかった。

昭和30年代の市場を経由して、本物の川崎工場街の始まった角のところで、アルコールをコンビにで手にいれた。

そこから「川崎臨港バス」に乗る。

あたしは川崎で一番すきなのが、臨港バスである。バスそのものが好きなのではなく、その名前が好きなのだ。この臨港という形容詞が川崎を指針している。

Fh010008 海底トンネルをバスは潜って、扇島という一大フェリー埠頭につく。そこのバーベキュー場で持参のアルコールでホームレス酒修行。これはかつての大師河原での酒合戦のオマージュである。
佐藤間取りストせっこう兵は、管理事務所から人道地下トンネルへの秘密の「絵図面」をもらってきた。こういう図面がないと、ここらで人は道に迷って散歩者は白骨累々になるものと見える。
その海底トンネルに行くまでが、なかなかの死の行軍でこれがよかった。

ようするにニンゲンを相手にした縮尺でこの界隈は制作されていない。コルビジエならば、一応人間のサイズで町を設計してくれるわけだが、ここ、ラワン材とコンテナの王国では、その尺度はもっぱらコンテナの大きさが尺度になっている。
あたしの場合、この春にNYKのコンテナ船に乗っているのでそれが逆に懐かしく思えた。

こういう無人地帯を徒歩で歩行している怪しい連中を見ると、なにか「経費を思い切り削ったロードムービー」の中にいるような気分になるのも変なものである。

ようやく、秘密の地下トンネルの入り口に達する。周囲は草ぼうぼう。トンネルの中は気温が低いけど、湿度はかなりある。しかも一本道であるのがかなり不気味だ。
ウイーンの地下下水道には2度ほど取材で入ったことがあるが、あれよりも寧ろ怖い。ウイーンの地下下水は普通のニンゲンは入れない。あたしはウイーン警察の下水道のパトロール隊と入ったのである。ゴム長をはいた、ヘッドランプの特殊部隊の警官と一緒だった。

ここ、扇島の地下の一本道は向こうから危ないやつが「殺すなら誰でもよかった」というので文化包丁など持って向こうからこられた日にはそれこそ百年目である。

たかだか1キロの地下道をい歩行して「本土」に出たら、ほっとした。かのエルベトンネルを歩行した時でも、これほどは怖くはなかった。

Fh010003 それから国道をバスに乗って、まっすぐな道を30分は走行した。西日に向かってバズは走る。窓からは石油の蒸留塔とか見えて、おあつらえ向きの川崎ランドスケープが展開するので、川崎ツーリストであるあたしは満足した。

夕暮れ迫る川崎駅前で名もなき、餃子屋にちん入。それから方向を転じて、駅前のスーパーの屋上に展開する、ビヤホールにいったのである。二時間指定で飲み食べ放題が3500円とかいうのである。屋上ビアガーデンはミュンヘンにもプラハにもダブりンにだってない、日本麦酒文化の象徴である。

さらに京急で北上して銀座のおでんやにて「反省会」。
あたしはクリストの梱包アートめいた和光を見るので午後10時にはおでんやを辞したが、福田和也本隊はそれから銀座のTHONETにまた繰り込んだようである。
さて、月末は福田さんと今度は広州、香港方面でリコーGRD2ツアーがあるのだ。

「あの写真部」の先が思いやられるわけである。

★上の作例はいずれも、ライカM4(オリーブ塗り)レンズはスナップショットこしなの25ミリF4。これは優秀レンズ。距離計に連動しないのが「本物志向」だ。

2008年7月24日 (木)

トポゴンORニッコール25ミリ

R1156759 ★お知らせ 「カメラは知的な遊びなのだ」(アスキー新書)おかげさまで4刷りになった。 初版は3月25日だから、ほぼ毎月のペースで重版を重ねているわけなり。 皆様に感謝! @@@@@@@@@@@@@@

1974年頃、ウイーンのカメラ店フォトオラーターで、トポゴン25ミリF4を初めて買った。
価格はとっくに忘れたが、当時の清貧生活の経済状態で買えたのだからたいした値段ではない。

それに70年代のウイーンというのは「西側世界の最前線」の役割を持っていたので、東側(この場合は東ドイツのイエナのツアイスのレンズ)を高く評価しないのである。
確か2万円はしなかったであろう。

その当時、この本家であるトポゴンのほかに、ソ連製のトポゴンである、オリオン15(これは形式名)の28ミリF6を持っていた。そのオリオンレンズはあまり出来のよくないアルミ製のバレルであったのに対して、イエナ製のトポゴンの方はかなり仕上げはよかった。しかもそのレンズ異は大柄なのである。これを1950年製のキエフ2に使っていた。つまりキエフの名前の本物のコンタックス2型である。

一方で当時愛用していたブラックコンタックス、つまり1932年に最初に登場した、コンタックス1型にはそのレンズのバレルの直径が大きいので、脇にあるフィルムの巻き上げノブと干渉してしまい、レンズを装着することができないのである。

トポゴン25ミリが現役時代の1950年代、ドレスデンではレンジファインダーのコンタックスは生産していなかったから、これは西ドイツはシュッツガルト製のコンタックス用なのである。つまり宿敵の西側のコンタックス用に用意された「戦略的レンズ」であった。

あたしのトポゴン25ミリはレンズの調整が不十分であったせいか、周辺部がどうも流れるのであまり使う機会はなかった。もっぱら安くて良く写る、ソ連製の28ミリの方を愛用したのである。

1970年代の終わりに北井一夫さんがウイーンに来た。北井さんの手伝いでその年の5月と翌年の冬と、ドイツ表現派建築の撮影で方々旅行した。その時、北井さんからもらったのが、かの「村へ」を撮影したキヤノン25ミリである。これもトポゴンタイプのレンズである。このレンズは当時、北井一夫が愛用しているというので、一時は中古カメラ店でその価格が高騰したこともある。

さて、これはニッコール25ミリF4である。1982年頃。このレンズを良く使った。このレンズもトポゴンタイプであって、そのレンズの長さは極端に短いのがチャームポイントだ。
初代の25ミリニッコール(Sマウント)は、今は岡山の十文銭銀水のもとにある。

その後、90年代になって、同じニッコール25ミリのこれはライカマウントのレンズを使うようになった。単にSマウントとLマウントの違いである。

これが歴代3本目のニッコール25ミリである。なにか番号が下3桁が00で終わるのと、これはレアな純正キャプがついているので手に入れたのである。

Fh000014 作例は「準備中の本祭りの幟」@佃

ニコンS3 ニッコール25ミリ 2008年7月23日

2008年7月23日 (水)

スーパー暗愚論なはなし

21ミリは最初に東京の町に「切り込んだ」レンズであって、この話しはそこらに書き散らしているがまだまだ書きたりない気がする。

最初に手にした広角レンズは28ミリのニッコールであって、これはニコンF用だった。当時の28ミリの広角レンズとしては優秀な出来であって、特にレンズの前枠ぎりぎりにレンズがはまっていて、レンズの名前を書き込む場所がないので、レンズ名はバレルの脇に刻印してあるのは、良い感じだった。

これを高校生の時代から愛用して、さて日大の1年に入学した当時に父親を脅迫して、21ミリのニッコールを買ったのである。F用であるが、もともとはS用の21ミリのレンズをそのままFマウントにしたレンズである。だからミラーアップをしてカメラ本体の中にレンズの後端が深く入り込むような構造になっていた。

レトロフォーカスのレンズに比較して、その像面の平たんさと歪みのなさは写真学生の自分でも分かりもっぱら21ミリニッコールを愛用したのである。

そのうち、ライカM2を手にいれて、FマウントとLマウントに変換するアダプターを造らせた。当時はそんなアダプターはまだどこにも売っていなかった。
そのレンズはいまだに使っているが、最近ではレンズが「白内障」になって、ハイライト部分に良い感じのフレアが出るのである。それはそれでまた気にいっているのだ。

21ミリのニッコールに飽き足らずにウイーン時代にウイーン人の友人とトレードでスーパーアングロン21ミリを手にいれた時には「天に昇る気分」であった。

子細にニッコールとスーパーアングロンとを同一条件で撮影してみたが、別にドイツ製が優れているわけでもなく、どっちも似たような性能だった。それで長年の夢が醒めたわけであるが、スーパーアングロン21ミリが魅力なのは、その角形フードにある。これは歴代のライツレンズの各種フードの中でズマロン28ミリ用の角形フードと並ぶ傑作だ。
最近、サードパーテイのレンズメーカーが似たようなのをコピーしているが、やはりオリジナルとは格段の差がそこには感じられる。

21ミリスーパーアングロンのF3、4の方の欠点は絞り羽根が4枚なので、逆光だとゴーストが四角になってしまうことだ。一方で、その前のモデルのスーパーアングロンのF4の方は円形絞りだからこの問題からはフリーである。

6月の岡山行きの時、21ミリF4の方を持参したけど、岡山路のドピーカンの太陽だとレンズの仕上げの良い光沢のある銀色の仕上げ面が太陽光をギラギラと反射して、絞りの設定が困難になった。

この前、中野で手にいれた、スーパーアングロン21ミリF3、4はブラッククローム仕上げなので、そういう問題は起きない。

作例はライカM2ーM スーパーアングロン21ミリ 東京有楽町にて。

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2008年7月22日 (火)

花火嫌いの花火見物

R1156639

佃に寓居してもう20年になろうとするが、最初は東京湾華火大会が面白く、友人知人を招いて、37fのベランダから観賞したこともあった。
この20年来の何回かは強風などで中止になっている。
そのうちに、家で花火を視ることのつまらなさに気が付いて、止めにした。それだけ大人になったのである。
それ以降は、隅田川の花火大会の時、本所の「牧野」に行って、花火の音をききつつ一献傾けた。これは人情話かなにかにある、昔の粋がり人間の真似なのである。

以来、花火大会の時は「もの忌み」にて自宅に引きこもるようになった。まず外出したら帰りに月島駅で大混雑なので、そこでパニックになってしまう。
それで、家に居ることにした。ただし花火忌みでもあるから、花火は見ない。仕事をしつつ音を聞くのみである。
大体が、ライカインコはああいう音は鉄砲系で嫌いなのだ。

一昨年の8月。ヒルズの仕事場の50階の方がもうクローズになるというので、ライブラリメンバーの有志で、最後の花火見物をした。その時は友人知人などを招待したが、ヒルズの50fは東京湾に遠すぎて花火は迫力不足。あたしはアリフレックスSR2を持参して、コマ落としで花火の炸裂を撮影したが、レンズは10ー100ミリのズームレンズを使って一番望遠サイドだったのだからその遠距離がわかる。

それで三連休の中日は横浜国際花火大会。昨年は雨で中止になったそうだ。ただし花火見物より、某酒亭に近海もののうまい蛸に結構なお酒があったので、もっぱら花火よりも、その方面に多忙だった。

それでもフィナーレの大花火をかろうじて撮影したのがこれだ。カメラはGRD2である。帰りの元町中華街からの電車は各駅であたので、佃に戻ったら0時を過ぎていた。
周囲はゆかた姿の女の子ばかりである。さしずめ、竹久夢二の現実版と言いたいが、全員がケータイをいじくっているのは興醒めである。


2008年7月21日 (月)

三連休の氷川丸講演会

001 自分のスケジュールは自分で管理しているから、世の中の休日などは自分には無関係である。
世の中、梅雨明けの三連休である。土曜は氷川丸に「チョートク 海をゆく」の講演会。

午後3時に佃をでた。氷川丸に到着したのが午後4時15分。博報堂のA部さんに会って、船内。今度の本は博報堂の広報さんから社員は匿名で頼むという、お達しがきたので、校了直前に名前を本名から、「匿名」にした。

それでデイレクターのX村さんはM村さんとなった。それは良いが、X部さんがA部さんではなにかすぐに名前が判明してしまう。
まあ、それはそれでよい。本名が分かって本人が困ることもない。これは広告代理店のお得意様への配慮というやつだ。

講演会は80名定員のところ、100名の満席にて後の申し込みはお断りしたそうだ。
ありがたい。
もともと脱線路線が得意技なので、おおいに話題脱線させていて、1時間ほど経過したら、前列2番目の品の良いご婦人から「あまりに脱線しすぎ、氷川丸のことを聞きにきたのだから、、」、とクレームがつく。

長年、講演会とか馬鹿話の会をしているが、軌道修正を要求されたのは初めてだ。
ちょっと感動する。

そのご婦人は本気で立腹なさっているようなので、申し訳なく思った。
顔見知りのカメラ人類の連中が多いのでいつもの「アローカメラシドニー」とか「大阪ニコンプラザ」ののり、あるいは国立近代美術館(竹橋)での基調講演の感じで話したのがよくなかった。
氷川丸上のは文化講演会なのだ。

普段、坂崎さんと一緒に対談などさせてもらっていると、坂崎さんが脇で軌道修正をしてくれるのだが、坂崎さんの代わりに、観客席からご指導があったわけである。

感謝。

_rim0168 講演後に、「チョートク 海をゆく」の販売。これにはエプソンが協力してくれた。大正4年の1万噸船舶の断面図のカラーリトグラフ(のコピー)が付録の特典でついている。
本は25部も売れた。動員数の25パーセントが買ってくれたのは良い数字だ。これも感謝。

講演のラストには昭和5年発行の中央公論社のアンデパンダン小説集の中の巻頭の「都会の国際娘」のトップの当時の横浜港の出航風景を活写した部分を朗読した。

この本は先日の佃古墳の発掘にて出土した本である。その巻頭に掲載されていた一文が横浜港の出航風景なのである。

五色のテープが乱れ飛ぶ光景がまさに眼前に見えるようである。
目を閉じて、往時の光景を脳裏に浮かべるお客さんもいた。

その光景は今度の本の巻頭にNYKの絵葉書の複製として、原色版が「貼りこみ」となっている。英国本のワルタースコットの詩集は天金の立派な本であるが、その巻頭に「カラープレート」としてきれいなリトグラフが貼ってある。そのまねを一度、自分の本でやってみたかったわけだ。

さらに詩人丸山薫の「点鐘鳴るところ」(航海詩集)の話から、カメラ人類向けにはリコーR7とR8を今回の撮影でどのように使い分けたのかとか、エプソンR−D1sの使い方から、ソニーα200を価格ドットコムで手にいれた話まで、これを1時間25分に組み込んだのだから、まず大変な講演会だった。

土曜は金谷船長の話では、満月とかで氷川丸の位置は満潮にてかなり高くなっているそうだ。そのためにボーデイングブリッジが急坂になっているのである。
月はどっちに出ている?
と、思ったら、想像もしないスターボード側に赤銅色の満月がまだ地平線を離れたばかりであった。

実は家人の薦めにより、昨夜から今朝にかけて、ニューグランドに宿泊しているのである。
日曜の夕刻に横浜の花火大会があるので、わざわざ、東京に戻るのは面倒であろうという予定であった。
ーーーーというのはウソである。「一休」のホテル予約で見たら、土曜は空いている部屋はニューグランドの旧館は86000円のしかない。せっかくの機会だから、家人に一泊するか、と聞いたらライカインコの世話があるから無理と言われた。
それで、土曜はNYKの星野広報室長の案内で講演終了後、野毛の中華料理店に行く。
入店が8時55分でラストオーダーが9時15分。つまり20分しかない。

こういう20分間に想定される料理と酒を注文する小説を前に読んだ気がして、記憶をたどると内田百鬼園の「一本七勺」というのがあった。

内田先生、東京ステーションホテルに泊まって、レストランに行くと正月の早仕舞いにて、時間は30分しかないという話である。内田嘱託は郵船に通っていた。土曜の夜のラストオーダーの件はなにか百鬼園のことを思い出した。

2008年7月20日 (日)

佃古墳机上の出土品

Mpx00031 木曜日。
家人はレッスンで不在なのでその隙を狙って、佃の仕事場の大机の整理をする。
ヨセフ スデクは敬愛するプラハの写真家であるが、彼の仕事場は作者自身「写真家の迷宮」と命名した11x14インチの巨大密着プリントがあるが、これが写真家の机上を撮影したものである。

スデクは終生、モルダウ川の裏手のアパートの中庭の「ほったて小屋」で仕事をして
、それが尊敬の対象にもなっていたのであるが、彼の70年代の死後にそこは数年後には差更地になった。
ただしその中庭の木々とか花壇などは手入れをしないままにそこに残り、建物だけが撤去されたのである。ただしスデクが印画紙の水洗に使用した、岩石をそのままに刳り貫いた水槽だけはそこに放置されていた。
コレクターからすれば「世界的写真家がその水洗にしようした岩石のブロック」なら、尊敬と信仰の対象になろうがそれはそのまま、遺跡が風雨にさらされるようにそこに存在したのである。

ある年の復活祭の朝、そのかつてのアトリエの庭に佇み、復活祭の朝の教会の鐘の音を聞きつつ、今昔の感を催したことがある。その次第は日本カメラの連載に掲載したが、かなり前のことなのと、バックナンバーは今手元にないので細かいことは不明である。

それはともかく、チエコの人の居住空間の散らかし方の粋さ加減をスデクから教わったわけだが、要するに机上はすべて物の集積堆積であって、わずかにその机の中心部にマグカップと半分に切った黒パンが置かれるスペースが残されているだけなのだ。

まるでギリシャ奥地の原始キリスト教の修道院(この場合、修道院のそれは物質がからっぽであるが、スデクのアトリエの充満した物質の具合は、逆に閑散とした印象を与える)みたいだ。

しかし佃の部屋の机の上の乱雑さは、スデクのラビリンスとは異なり、単に乱雑で使いたいものも発見できないので、家人の留守の間に「えい!やっ!!」とばかりに整理したわけである。机上のカメラは例のプラスチックの「ばったんこ」の箱2箱に収納して、不要な資料などはそのままに捨てたら、驚いたことに、巨大机の「地」が見えたので、非常に驚いた。

20年来、そのデスクの中央にパワーブックを置いている。そのパワーブックの発熱で、そのデスクのその場所はすでに変色しているのだ。大変な発熱度である。

結局、発見したい物(リコーR7のチャージャー)とかニコンの関係資料とかライカフレックスSLモータとSL2モータは発見できずに、発見する必要のないものを発見したりして、まあ考古学というのはいきなり兵馬俑が出土するのだから、思惑とおりには行かないものである。

昨日のブログで登場したレクタフレックス用の専用フードが出土したり、こういう百鬼園論が発掘されたりしたので、まあそれなりの成果はあったわけだ。

画像は発掘された本とレンズフード。カメラはローライフレックスミニデジカメ。

チョートク 海をゆく の中ではこのローライミニデジカメで撮影した20ページほどのライラ船上撮影した画像を「個人的アルバム」として掲載している。

こういう画像はどこか、個人的な視線が感じられ、そこが面白い。

2008年7月19日 (土)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

HDのクラッシュ

使用している4台のPowerBookのうち、3番目のPowerBookのHDがクラッシュしたのは1月まえのことだ。以前なら書きかけの原稿はそのHDの上に置いてあったから、大慌てにて出版社に出版をのばしてもらい、その原稿を書くのに「自主的かんずめ状態」になって、イスタンブールのホテルに隠ったこともある。

最近の仕事はサーバー上に置いてあるし、そのバックアップもサーバー上にあるから、手許のPowerBookのHDがクラッシュしてもなんと言うこともない。

唯一、問題なのは例のI PHOTOとかいう大して便利でもないソフトがついているので、その上に2万カットほど画像を置いてあったことだ。2万カットもおいてあると、ソフトは遅くてほとんど動かないのである。これらはすべて失われたわけだが、逆になにかすっきりしたような気分である。

というのはデジタル画像というのは「その場かぎりの実用画像」であって、後年にこれを発掘して感慨にふけるというものでもないようである。

デジタル画像は「流れ行く画像」であるから、HDがクラッシュしたらそれでおしまい、これで良いのではないかと最近では考えるようになった。世の中が分かる年代になるとそういう諦観が生まれてくる。

ゆえに現在の自分のデジタル画像のストックというのは、まったくなくて、まず5年以上前に遡れるということはない。

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★銀塩クラシックカメラ

1988年のミシガンの4X5フイルム


20年前、あの当時はアメリカの東側の各州は創立150周年とか言うのでそれぞれにイベントがあった。、その関係で、ミシガン州商務省が招待のプレスツアーがあった。当時は銀塩カメラしか存在しない世の中であって、35ミリから6X6、6X7、そして4X5と各種のフイルムを持参した。

20年前はフジフイルムのプロビアが出る前のことで、その発売前の試作フイルムも試写を依頼されて大量に持参した。その135タイプの試作フイルムはカモフラージュの為にフジカラーのパトローネに入っていた。

それには連番がふってあって、確かその中の一本を紛失したので、始末書を書いたか、それとも当時のフジのプロ部長に陳謝したか、それは旧いことなので忘れた。

その時、撮影した4X5のフイルムが大量にある。ミシガン州の各地の風光明媚な箇所を4X5で大量に撮影した。それはそのまま20年ほど保管されているが、デジカメのデータが今から20年後にちゃんと読めるかとうかは保証の限りではない。

デジタルデータよりも、アナログの銀塩フイルムの方が実は長い時間に渡って保管が可能であること。これは最近の発見だ。そのフイルムからプリントした2枚の画像は昨年の東京ミッドタウンでのフジフイルムのギャラリーのオープニング展でも展示された。

最近では4X5カメラが異常な安値だけど、高価なデジカメよりもこういう4X5カメラを手にして、フイルムで撮影する方が気が効いているのでは。Sdim0021

RectaflexのTシャツ


レクタフレックスはほとんど知られていない一眼レフである。

1947年に最初のプロトタイプが出た。それからアメリカの市場を中心にメーンな売れ筋のカメラになって行くのであるが、1950年代の半ばに日本製の一眼レフがアメリカ市場を席巻にすることになってそれ以来衰退したのである。

コレクターに人気のアルパはその生産台数は五万台だが、レクタフレックスの場合にはたったの1万台である。

しかし地味なカメラであるから以前は人気がなかった。
それが6年程前にイタリアの書店からレクタフレックスの豪華本が出て、国際的にはかなりの高値になった。それぞれのカメラはそれぞれのコレクターの所有になってしまったわけで、最近ではその流通量はめっきり減少している。

このカメラの構造はあまり複雑ではないので修理が今でも可能であるが、なにしろ半世紀以上前のカメラであるので、本体のアイピースが欠損していたりすることがままある。
本物のコレクターはそれに備えてジャンクのカメラを他に探したりする人もいる。
このカメラの魅力の理由はやはりそのデザインにある。ペンタプリズムの高さを押さえているデザインは初期のツアイスのコンタックスSでも共通しているが、実に良いデザインだ。

1950年代のライフの写真家がメーンカメラはライカで、サブに望遠レンズを付けたレクタフレックスを携えているのもなにか良い感じだ。

ただし、フィルムの巻き上げの方向はライカと逆なのでライカとの混成撮影には注意が必要だ。レンズはツアイス、アンジエニュー、シュナイダーなど名品が選べる。ノボフレックス用のマウントもある。

レクタフレックスの最大のシリーズはアメリカ軍用として納品された約2000台である。これにはシュナイダーのクセノン50ミリが付いている。別にアメリカの軍用という刻印もなにもない。現在、アメリカで発見されるレクタフレックスはほとんどがこのモデルであることが多い。シリーズ25000と呼ばれるモデルだ。一種の隠れ軍用カメラである。

そのカメラデザインも良いけど、さらに良いのはそのロゴである。日本のカメラメーカーなどは遠く及ぶところではない。
そのロゴデザインのTシャツをebayで手にいれた。これでこの夏はレクタフレックスで乗り切って行こう。R1156538

2008年7月18日 (金)

フェアメーア ヨリ アムステルダム

Mpx00027また、フェアメーアがやってくるらしい。こういう夏休み企画というのは、 日本の伝統芸というか夏の風物詩というか、実に不思議である。

フェアメーアとはフェルメールのウイーン訛りである。

ウイーンの美術史博物館の2階の奥のギャラリーで、そのフェアメーアの小品を幾度も見た。それは暗い小部屋でだいたいが、その絵の題材が室内の光景なので、二重に暗い部屋の中でそれを見ているような気になる。

とばりの奥のかすかな光だが、その中に一本だけ真摯な光が部屋に射し込んでいるのだ。

それからその狭い部屋がテーマの絵が置かれた狭い展示室を出て、ブリューゲルの大作の並んだ、大展示室の前のベンチで休んだ。

フェアメーアに比較すれば、ブリューゲルなどは「風呂やのペンキ絵」みたいなもので感心しないと思った。これは比較の問題なのである。だから、こういう高等な比較の場からみるとルーベンスの大作などは、あれは美術館の壁紙である。べロット(カナレット)は17世紀の観光ポスターか。

もう10年前か、やはりフェアメーアが来日したときに極東は騒ぎになった。東京の編集者さんが羽田から午後遅くの飛行機で、大阪かどっかに飛んで、その足でミュージアムに駆けつけて、閉館ぎりぎりでフェアメーアを観ることができたと自慢していたが、それが不思議であった。
なにかフェアメーアはスポーツとかゲームの一部であるかのような口ぶりなのである。

日本のアートの鑑賞はいずれも「癲癇体質」であるのは、世界に例がない。

ああいう絵は、日々の欧州での暮らしが退屈で退屈で仕方ないときに、「やることもないから、今日は例のワイン酒場が開くまで、フェアメーアでも暇つぶしに見ようか、、、。
というような性質のものである。

それになれているので、やはり20年ほど前に欧州の南から北まで縦断して、フェアメーアを「はしご」した時には、それ取材の仕事とは言え、どうもフェアメーアに対して、申し訳ないような気持ちになったものだ。

ましてや、1万キロの西から運ばれてきたフェアメーアなどは見たくもない。秘仏の出開帳ではないのだから。

上の画像はローライミニデジカメで撮影したが、ぴんぼけのところにリアルさがある。
オランダの3世紀前の町並みが今に変わらないのは、これはなにか時空間に不思議な仕掛けがあって、あれは時空のゆがみであって、オランダの今の運河沿いのリアルな光景というのは、実は3世紀前のそれに体が間違って迷い込んでいるのだと思いたくなるような不思議空間である。

フェアメーアの出開帳よりも、KLMでオランダに行って、デジカメもってふらふらするほうが性格にあっている。

新聞のとなりの「青男」はこれはピカソへのパロデイーであろうか。

2008年7月17日 (木)

7.14東京大周遊

月曜である。

そのままヒルズに行くと仕事モードになってしまうので、ライカM4にスーパー暗愚論21ミリf3、4をつけて出かける。
先週の土曜に中野のFカメラで68200円で発掘したレンズである。さっそくジャンク箱の中からそれ用の角形フードを探しだす。

この21ミリは石元先生や高梨先生ご愛用の名品である。むろん先生連はこれが現行商品であった1960年代から愛用されていたわけだが、自分などは「プアマンズスーパー暗愚論」という意味でFマウントのニッコール21ミリにアダプタをつけて使っていた。

それが1977年であったか、ウイーンのカメラマンと何かのトレードで21ミリのスーパー暗愚論を手に入れた。これはブラック仕上げのほうだから、例のその前のクローム仕上げのレンズのような無限遠のストッパーがない。

俗なライカ人類はそのクローム仕上げのほうの暗愚論を尊重するようであるが、クローム仕上げのほうはそのレンズの基部がフラットなのに対して、ブラック仕上げの方は縦のローレットがついている。レンズの操作としてはその方がよいのである。

そのM4と21ミリを持って

「デジカメはわざと持たず」

に、東京を徘徊した。こうすれば現今の世間の風潮、デジカメの原理主義(これはイスラム原理主義の反対位置に存在する危険思想)からは幾分、自由になることができるし、機材の気分の時代考証は完全に1967年のそれになるわけだ。その先に「新宿が燃えている」わけである。

大江戸線にて若松河田に行く。歩行しつつここに入院していた黒川紀章さんを偲ぶ。黒川さんは銀座八丁庵の「大立て者」であった。

Fh010023 女子医大の裏手を通り「神経精神科」と書かれた白地に黒文字の裏通りの巨大看板をみる。これは自分のようなやや精神を病んでいる健常者でも精神的にかなりへこむ看板であるから、心の病気を持っている人にはさぞかし、よくないであろう。これが病院の残忍さというやつか。

大体、女子医大というのは人間の気持ちを凹ませるような不便な場所に存在するのが不気味である。その点、同じ「女子」で始まる、女子ライカ部は健全だな。

久しぶりに曙橋のシダークにてラムカレー680円(ただしナン付き)
徒歩、坂を上って、アローカメラ。
スーパー暗愚論のフィルターとして、シリーズ7を探し出す。1000円。コダック原理主義のスカイライトフィルターだがこれは安い。

ライツの製品にいにしえの趣きを求めるのなら、フィルターはねじ込み式ではだめである。クラシックなレンズに新品のケンコーのフィルターをつけている人を見るとぞっとするのはそのためだ。シリーズフィルターか、締め付けフィルターに限る。

ただし、ズミタール50ミリに39、3ミリ径のワルツフィルターをつけている人はこれは例外であって、これこそ本物だ。女子ライカ部長大橋がそうなのである。

新宿から副都心線で、雑司ヶ谷。つまり先週の日本路地裏学会と同じコース。
都電荒川線にて、飛鳥山近辺の停留所を「一個ずつ下車」して撮影。60年代の「引っ越し屋さんの古い看板」はまだ存在したのでそれが夢のようだ。21ミリは40年来自分の視覚になっているので、フィルムがどんどん巻き取られてゆく。というよりも、自分のライカが世界を後方に巻き取って行くわけだ。

飛鳥山の商店街「競争横町」の跡を偲ぶ。都内の商店街の名前ではこれがダントツであろう。今は「競争に負けた横町」なのがまた落魄した風情あり。

再び都電で梶原銀座。都電もなかを見る。

買わず。

Fh030037 モノレール舎人線に「搭乗」して午後のいぶし銀のような空のしたを「あらの」(本当は荒野ではなく高野)方面を徘徊。小林秀雄は嫌いだが、認めるのはランボーだな。ランボーの世界の果て感覚よりも、舎人線の「荒野」の方は正統派の21世紀の世界の果てではないのか。

往復、一番前の座席。気がついたら本当にここには操縦席がない。一体、どのように運転しているのであろう。Fh030020

面白いのはM4だと、「デジカメのように犬のおしっこ撮り」をしなくなることだ。ちゃんと「これは撮影に値するか」を考えて撮らない機構が働いているのである。

日暮里に戻る。かのドルカについていて、坂崎さんとその話で半時間を費やした「ニッポール」に思いを致す。

錦糸町往きバスにて竜泉で下車。真四角な通りが規則正しく無限に並ぶこの台東区界隈の真夏の午後はなにか「キリコの絵の中の斜光線」を思い出させるのが常である。

一葉博物館の前に出る。月曜なので休館。まことによくしたタイミングである。
歩行中、大昔の音羽の家(すでに存在しないわけだが)に似て、大谷石を並べた体内くぐりサイズの路地を発見。Fh040016
というよりもその先がどこに通じているのか自分は知っているのが残念だ。
二十一世紀湯の脇に出るのである。取り壊し物件の札が銭湯に張られていたのが無惨。

日本堤1−36先。

Fh040027 マンモス交番の脇をくだって、4か月ぶりに大林。
冷房などないがらんとした店内に涼風吹き渡る。角のテーブルで勤務途中らしい営業さん2人。上役がなにの話のはずみかマレーシアの首都のことを話して、下役がそれをケータイで検索して「あ、クアラルンプールです」
自分にはあのホテルから見た「濁った河」が脳裏に浮かぶ。

この前のen-taxiで小林秀雄の酒は2本めから人にからむ酒であったことが福田和也さんの、小林ゆきつけの寿司屋の大将へのインタビュ−で判明した。それで小林秀雄がちょっとだけ好きになった。

小林秀雄の時代は幸せだ。

まさか福田和也は2本目から人にからんだりはしない。それだけ「優雅さに欠けて」いるわけだが、これが時代の位相の違いというやつだ。

あわもりの酔いにまかせて、大林店内「隠し撮り」である。戒厳令発布前のワルシャワに取材に行った時のことを思いだしてしまった。自分の長年の東欧撮影経験は自分に隠し撮りの技を身につけさせたが、これはまず無形文化財だ。

都営線の若松河田駅には、「盗撮は犯罪です。出来心ではすまされない」と怖い怖い張り紙がしてある。ようするに、エスカレータの下からケータイで上を行く女子のスカートを狙ってはいけないという意味らしいが、そんなことを禁止せねばならないのはなさけない。ついでにその女子がやってる「車内でのお化粧」も禁止にしてもらわないとバランスが悪かろう。どこの中間管理職のアイデアだか知らないが、実に大変な時代になったものだ。

ここ、大林の撮影禁止は、単なる店主の好みである。しかし東京散歩の連中が今の佃みたいにNHKドラマの影響で流れてきて、会いフォンなどで記念撮影をやられたひにはたまったものではない。
我々、寄留地なき難民酒飲みの行く先がなくなってしまう。

それにしても、この店内は「凛」としている。これで冷房がなくて庭の涼風が吹き込むのだから、そのステータスはヒルズの51fの比ではない。

都バス東日本橋行。これは不親切なラインにて、乗客はいきなりリビアの砂漠に不時着したようなものだ。通りがかりのペドウインの助けを借りて、三つ先の交差点を右折して別の停留所から東京駅往きのバスに乗り換える。
晴海埠頭行のバスに再度乗り換え、佃に戻る。

撮影ライカで3本。カメラはライカM4オリーブ風味(昔、これを持って初めてアテネに行った)に、62800円のスーパー暗愚論。フィルムはコニカのなんとかいう感度200のやつ。女子ライカ部長もこれを使っているから、女子ライカ部公認フィルムか。実によく映る。

★追記 デジカメを持参しなかったというのは誤り。ローライミニデジカメはトートバッグに入っていた。しかしあまりに軽量なので忘れていたのである。

2008年7月16日 (水)

北井一夫さんの講演会

土曜日。

例のごとく、魚河岸に買い出し。まぐろのパック2個で1260円。むきほたてがパックで1000円。賢い主夫の買い物。市場はあいかわらずであるが、夏休み前の社会見学というわけか、しろうとさんが掛りの人に誘導されて一個連隊も入ってくる。売り場は狭いから現場の人にはたまったものではなかろう。それと買い物をしない見物だけの外国のお客さんで大にぎわいも困ったものだ。
帰宅するに汗だくだく。

午後、中野。
北井一夫さんのギャラリー冬青社で開催中の「ドイツ表現派」の講演会。これが午後3時からなのだが、15時を午後5時と勘違いしていて、家人に指摘されたのでおくれずに済んだ。
中野中央5丁目の住宅街の奥にある、立派なギャラリーだ。1978年の創立というが、自分は知らなかった。

あたしにはこの界隈は四半世紀前には「明暗交錯する一大ラブストーリーの舞台」あってそれぞれのランドマークが記憶に残っているが、このギャラリーだけは記憶にないのが不思議である。

北井さんの講演会(というかトークショー)では、当然ながらあたしが唯一の1979年のドイツ表現派撮影の生き残りなのである。なにか中国の「長征」の体験者のような感じがする。
それで講演の半ばから館長の高橋さんの招きに応じて、机上にて北井さんと話しをさせていただいた。28年前の「長征」が2008年にこのような形で結実するとは、予想もつかなかったが記憶の旧いところにあるしわなのでどんどん忘れていた取材の細かい箇所を思いだしてそれが嬉しかった。北井さんとは5年前にドイツを旅した感覚なのだが、それはすでに昔を3つも積んだ大過去なのである。記憶の距離感というのは、別に世界史年表みたいに時間順にはなっていないわけだ。

だから写真は面白い。
冬青社はギャラリー活動のみならず、かなりのタイトルのシリアスな写真集も出しているのである。そのタイトルを売り場で見る。写真集というのは、自分も「チョートク 海をゆく」でまた一冊出したばかりであるが、紙モノというか、紙の伝達手段はこれだけインターネットが普及した時代であるからこそ、重要だしこれからますます注目されることは間違いない。
オンラインの写真というのは「湖面に写る満月」のようなものだ。
柄杓で酌み出せばその水の中には反射したままの月を取り出すことは出来ようが、それを手にとることは出来ない。
紙モノ(写真集や書籍)は、その月を実際に手にとれるわけだから、そこが凄い。

帰路、中野の町を撮影。
JRを超えて、Fカメラに行く。店長さんの話しでは、例の老舗ラーメン店「平凡」が新装したという。ただし30年来食い慣れた例の味は先代が亡くなったので、もう味わえないという。

スーパー暗愚論の21ミリF3、4が68200円ぽっきりで出馬していたので、北井一夫さんとドイツを1979年に旅をしたその記念にがゲット。これはこのレンズの買い値のレコードローである。
無論、レンズの表面のピンポイントの傷があるのだけど、「レンズは傷ものに限る」という父親の遺言がここでも活きている。

東西線を茅場町で降りて、中央大橋を渡るに、驟雨の去った後にて、東側の空のみ夕焼けになっている。
なにかバルビゾン派の絵の中に居るような気分にて、徒歩、佃に戻る。Sdim0102

カメラはシグマDP1。

2008年7月15日 (火)

ゆきちゃん、くにちゃんの披露宴

Img_74262 日曜。まずまずの天候。ただしかなり暑い。

有楽町電気ビル北棟20階にある外人記者クラブは、1945年にダグラス マッカーサーの指示で出来た占領軍の報道関係のクラブでその歴史は長い。かのキャパだって、日本滞在時には行っているであろう。

工藤ゆきから「やっと結婚できることになりました!」との添え書き付きの案内状が来たとき、興味を引いたのはその会場が外人記者クラブであったことだ。Img_751721

もう四半世紀前だが、アメリカの雑誌の極東特派員をしていた当時、このクラブにはよく来た。その後、日本に滞在していたニューヨークの写真家とよくここで呑んだりもした。ここは飲み物が200円だったりで安いのである。「外人」は理不尽な金は出さないから、これは当然か。ここは日本外国特派員協会クラブメンバーでなければ入れない場所だから、へえ、すごいなあ、と思った。

定刻に会場に行ったら、平服でどうぞという誘いに騙されて、RED CINEMAのTシャツで出かけたら(その前に渋谷で東急BEのライカ愛好会の講議があった)新婦の御両親などはちゃんとした服装なので、恐縮した。六本木ヒルズクラブに入場するときの、一張羅のジャケット(マンハッタンで1982年に20ドルで買ったやつ)を着てくればよかったと、思ったがもう遅い。

披露宴は実に立派であった。

ゆきちゃんの両親のマスターと中島さん(これニックネーム)には常盤台の有名スナック、シャーロック時代に御世話になっているのである。ゆきちゃんの父上に「新婦の父上は新郎新婦の花束贈呈でかならず金屏風の前で泣くものです」と言ったら、くだんのマスターはすでに泣きそうであった。ただ、実際には花束贈呈はなかったので安心した。

工藤由起には10年ほど前、雑誌財界の表紙撮影などで助手を頼んだ。政財界のかちかちの撮影現場では、工藤の天然ボケ状態の独自キャラクターは撮影現場の空気を軽くするのに効果があった。元祖「おばか」なのがこの人の魅力である。
「チョートクのとうきょう散歩カメラ」はA4サイズのカラー写真集である。この中のモデルは全編、工藤ゆきなのである。これは8年くらい前の出版。

新郎、田中邦彦は、長身のイケメンであって、紅いシャツが似合うレアなキャラクターでもある。この前、田中邦彦に会ったのは7年ほど前だったか、あの当時は「長髪のプーさん」という感じであったが、実に立派な青年(39才までは青年)になったわけである。
めでたし、めでたし。。。。。。

会場でスピーチを依頼されたが、自分は土地の古老だから、外人記者クラブのレセプションに四半世紀前には掲げられていた、黄ばんだ写真の事を話した。

Img_75282 例の有名な「硫黄島にアメリカ軍が星条旗をたてる瞬間の写真」である。それがレセプションに見えなくなったので、掛りの人に聞いたら「重要な資料なのでミュージアムに移動」したとのことだった。

宴たけなわの時、掛りの人が案内してくれて、別室に飾ってある「硫黄島に星条旗をたてる瞬間の写真」を見せてくれた。ただしその写真は昔、掲げられていたオリジナルではない。これは複製なのである。サイズもオリジナルよりも大きい。なにか上に外人のサインがされていたが確かめる時間はなかった。

さすがに戦後60年以上が経過して、日本の外人記者クラブにそういう日本に勝利した瞬間の写真をかかげるのはどうかというので、不適当となったのか。

Img_75302 ロビーには歴代のメンバーの活躍した当時の写真が壁をうめるほどにかかっている。その一番、左上にはこれはまだお若い昭和天皇御夫妻とどっかの外人記者らしい人が写っていた。まずはマッカーサーを撮影した「ジエネラル!スマイル!!」の大竹省二先生の世界である。
Sdim0164

2008年7月14日 (月)

シグマDP1を使い始める

Sdim0018 このシグマDP1は福田和也さんからの拝借品である。
桜の季節にお借りしてそのまま借りたままになっている。非常にけしからん次第であるが、最近の周囲ではそういうことが普通になっていてまあ、一種の「原始共産制」と言うべきか。

手元にあるライカM3のオリーブは数年来野々宮BMWから我が社に「出向」しているのだ。そのかわり、我が社のライカ3cグレーモーター付きなどが、向こうに出向しているのである。
これはカメラの共有財産。これはカメラ人類には有利であるが、販売の方にしてみればたまったものではない。
とは言え、まあ、それで良いわけだ。銀座界隈にカメラ屋さんに行くと「ちょーとくさん、最近、売り上げ悪いよ、、、」などと、クラシックカメラの売り上げの低迷がまるで、あたしにあるような口ぶりである。

なにか、あたしはカメラ屋さんの味方のような口ぶりである。こっちはライカにせよ、ニコンSにせよ、以前の3割方安くなっているので、もっぱら買い方にいそしんでいるのだ。

上のクレームへの言い訳でもないが、アサヒカメラ連載の「かんれきからの写真楽入門」の8月号は「銀座カメラ店、フォトギャラリー一筆書き」と題して四半世紀ぶりの自分の銀座地図の改訂版を制作。

ところで、シグマDP1を使い始めるきっかけはまことに奇態なことであって、まずこの半年以上愛用したリコーR8とR7(今度のチョートク本ではほとんどをこれで撮影している)のバッテリーが周囲に見当たらない。
バッテリーというやつはマーシーの法則の支配されている重要な物件のひとつであって、要らない時にはそこらに目障りに有り余っているのに、いざ!となると全部が姿を消している。

それなら方向を転じて、これもライラの撮影ではミノルタの100−200ミリ(カメラの北村で2000円で買った例のレンズ)でライラの勇姿を撮影した、α200を使おうと思ったら、そのバッテリーチャージャが雲がくれである。

かくなる上はと、修理が上がってきたばかりのエプソンR−D1sを取り出したが、そのバッテリーとチャージャーは用心の為の2セット用意してあるのに、これも神隠しなのだ。

そういう場合に備えて、全部のバッテリーとチャージャー関係は見分け易いように「おばかな色彩」のバッグ(ハローきていのピンクのやつ)に入れてあるのだが、上記の3機種関係のバッテリ−もチャージャーも「拭ったように」存在を消している。

その中で、福田さんから拝借したDP1のバッテリーとチャージャーは、なくしてはならんと思っているから、ちゃんと上のおばか色のバッグの中に入っていた。

そういう実に複雑な事情を経て、この前、桜の咲いた時期以来のシグマDP1の登場となった。この前、佃の桜をDP1で撮影したが、同じ場所にはもう住吉さまの本祭りののぼりの「抱き木」が建っている。

このカメラ、DP1の画質の良さは各誌の認める所であるが、この場合、他のデジカメを持って歩くのは一番いけない。他の機種とその速度を比較するようなカメラではないからだ。

自分にとって、DP!はなにか1967年に最初に手にしたライカM2に付けたズマロン28ミリf5、6のような操作感覚がある。(ライカとDP1が似ているというわけではない。その空間の撮影方向が似ているという意味)

つまり28ミリのレンズ単体で東京の街をどこまでも歩行した記憶に連結してくるのだが、この場合、正しくはモノクロで撮影することが肝心なのである。

2008年7月13日 (日)

ライカM2-M 最後のショット

57390014 ライカM2MはライツがM2を大改造して製作したモーター化されたライカである。その数は200余台にとどまり、しかもその大半はアメリカ海軍で使用されたので、まともなボデイがないというので「有名」だ。

今まで、ライカM2Mは何台も買った。これはその最新の一台であって、昨年の秋に買って、それを銀座の某カメラ店に修理に出したら、半年後に「修理不能」で戻されたのを、そこから徒歩200メーターの別のカメラ店に修理に出したら、2週間で直った。

それで6月にモーター付で岡山に持参して、向うのカメラ人類を煙に巻いたわけである。岡山のペン他ハウスという店で、ズマール50ミリf2を1,5万で買ったら、そのレンズには珍しいワルツ製の専用フィルターがついていた。さらに39ミリの広角用フードもついていたのでそれは愛用のスーパーアン愚論21ミリf4にそのまま流用している。

もともとはその21ミリf4専用のフードは持っていたのであるが、いつもレンズを売る時に一緒に売ってしまって、今はオリジナルのフードはもっていない。

「カメラは売ってもアクセサリーは売るな!」という父の教えを守らなかったので、今、苦労しているわけだ。

それはともかくとして、この空母の上で艦載機の着発をたくさん撮影したであろう、M2Mで岡山を連射したのだから、岡山の大路や小路や犬や猫や市民もさぞかし迷惑したことであろう。

M2はそのまま、何も付けないで撮影するのが最上なのだけど、なにかとライカビットとかライカモーター、あるいは水ぐも(これは業界用語にてベンザーのレンズホルダーをさす)さらに、天狗のうちわ(これはライツ製のレンズターレットを指す)などは本当は使ってはいけないものなのである。

岡山の戻りには、日本アジア航空のパイロットのストライキがあって、自分の岡山羽田の飛行機(午前11時5分発)だけが欠航したので、仕方なく岡山駅から新幹線で戻った。

57390021 でもそれがよかったのは、名古屋駅を発してすぐに左手に見える、小さな船会社のドックを撮影できたことだ。

実はこのドックは1970年当時、仕事でよく通ったトヨタの行きかえりにニコンFにモーターつきのカメラでモノクロのトライXで撮影した記憶のある、懐かしい原風景なのだ。

それを今回はライカM2Mで連写したのである。

東京は浜松町の手前では「玉の肌石鹸」の広告を連写した。

これも昔から撮影して置きたかったモチーフだ。ところがその連写がたたったのであろう。ライカM2Mのモーターは前回、修理したのだけど今度はシャッターのリボンが切れてしまった。

だからこのショットは「ライカM2M最後のショット」になるわけだ。この修理は修理名人で偽ライカ同盟の公式メカニックの「要職」にある、りょうげんさんに頼もう。

追記 上の2つのショットはいずれもズミタール50ミリ。これは女子ライカ部長愛用のレンズでもある。

2008年7月12日 (土)

OH!!Bon!!

R1156527 お盆の季節感がいかにもモンスーン帯のそれも極東(この国がラサより、平壌よりも東の世界のはてにあることに今更ながらびっくりしている)の年中行事にふさわしく思うのは、極東のお盆に対抗する西欧のお盆である、アラハイリゲン(万聖節)が、11月1日にあたる点だ。

ウイーンの中央墓地などでは万物枯れ果てて世の無常観を感じさせる。
ローマ法王の死亡時の式典の最初に一束の藁が燃やされ「すべての栄光は儚し」とラテン語が唱えられる、その季節感はやはり初冬でなければならない。

一方で、日本のお盆は確かに卵塔場に土葬された棺桶の腐敗は速いであろうが、その背景には稲は育つし、鳥は巣立ちするし、そこには収穫を前にした、死の反面の生の輪廻の感覚が旺盛である。
これが東西の感覚の深いところに影響を与えるのであろう。

なぎら健壱さんのデビュー35周年のコンサートは坂崎さんも加わって、フォークジャンボリーズというので、読売ホールで開催されたのは4年前であったか、その会場でお得意の「放送禁止歌」の中に「竹田の子守唄」があった。

盆がきたとて何うれしかろ、、、

なわけであるが、それがたたって、京都に行くと自分は竹田行きのメトロに乗ったりする郷愁習慣ができてしまった。

この4月16日には叔母が亡くなって、その葬儀のその日は、氷川丸の公式オープニングの撮影で(今度の1000ページ本で)叔母の葬儀には参列できなかった。
福田和也さんの話では、いやしくも週刊誌の編集に携わったら、両親の臨終には会えないものと思えとのことで、事実そういう例は枚挙に暇なしらしい。

家人が向かいのスーパーで買ってきたのはお盆のセットである。

叔母はキリスト教徒であったのだから、こういう異宗教の祭りごとをされては、大宗教戦争にならないのは実に不思議というものであるが、これが世界の極東のおおらかさということだ。

それよりも、感心したのはこの「お盆セット」が実に日本の昔のお盆のある感じをよく捕まえているのであるが、その実、製造国は中国なのである。それが実に面白い。

お盆セットを鑑賞して、ヒルズに向かう時、六本木の裏町を歩行していたら、鼻に昔のお盆のにおいがしてきた。自分は花粉症で春は臭覚を失っているが、夏にはそれが回復するのだ。
その鼻腔のにおい、そのお盆のかおりが何であったか、それを分析したら、なんのことはない「草いきれ」のにおいである。
でも、草いきれのにおいが現代の都心で体験可能なことは、これは大発見とせねばならない。

2008年7月11日 (金)

佃六本木通勤時間4時間

R1150490 水曜。不出社。

こういつも書いていたのは、内田百鬼園の「東京焼尽」日記である。内田先生は土曜は出勤したけど、水曜はお休みであった。

古文書を見ると、内田嘱託室は日本郵船ビルジング443号室でご本人は「獅子山房」と当て字して喜んでいたが、借金と錬金術の人間国宝の百鬼園先生のことだから、周囲では「無資産房」ではないかと言ったそうである。

最近の自分の行動パターンを見ると、水曜ヒルズに行かないのは、どうも無資産房のまねをしているような気持ちもある。

先週の水曜は殺気だって墨東を超え、さらに荒川を超え、江戸川近辺まで出撃したら、お目当ての小岩のカメラ店は水曜で定休だった。

その轍を踏まないように、今日は注意して出かける。月島から大江戸線で東新宿。副都心線に乗り換え、まず池袋。

そこから丸の内線に乗り換えようとしたら、あまりに混んでいるので、肝を冷やして、池袋からスキップする急行にて渋谷。

渋谷からバスでヒルズに向かおうとしたら、これもかなり混んでいる。

それでバスは諦めて、半蔵門線に渋谷から乗ったら、これも大変な混雑である。ところが次の駅、表参道で車内はがらがらとなった。それほど多数の日本人が表参道に用事があるらしい。

そのまま半蔵門線に乗って、押上のスカイツリーの製作現場を見ようと思ったが、まだ鉄塔はできていないのを見ても面白くなかろうから、途中で気が変わって、その手前の住吉で降り、都営新宿線にて西に向かい岩本町で下車。

R1150498 ヨドバシカメラ秋葉に行く。8fの西安にて「刀削面」700円。

カメラ売り場にて各種双眼鏡の品質を調査。

書籍のコーナーを見る。かなり昔の自分の本に書棚で再会して、びっくりしたりする。

某社発行の写真関係のデータベース雑誌をぺらぺら見る。写真関係者名簿に自分の名前がでているとまずいな、と思い田中の項目を繰ったら、幸い掲載されていなかった。数年前、このシリーズ初年度版が出たとき、データ掲載を求められたが面倒なので放っておいたから名前が抜けたのである。

20歳当時、そういう名簿に名前が掲載されているとなにか嬉しいような気持ちであったが、今はその逆である。こういうのを元にしてしょもないメールや郵便物を送ってくる連中がいるから迷惑だ。

フィルム売り場にてスーパー8の在庫の確認をする。別に買うわけではない。

日比谷線で銀座経由で、六本木。

佃をでたのが午前9時であって、ヒルズについたのが午後1時だから都合実に4時間を通勤に使っている豪華さである。

本日、水曜は不出社というつもりでもなかったが、結果として4時間かけてヒルズに着いてしまった。自分はヒルズ勤務が今年で6年目である。

だから、勤続30年の人が明日から会社に来なくてよいと言われて、それはなかなか大変なことであることが、なんとなく理解できる。

若い頃、ヨーロッパでユーレールパスで欧州中を日本人が旅するのが流行した。自分もそういうことをしていたのであるが、車内で遭遇した日本人の「猛者」の話を聞くと、「もう2か月もホテルに泊まっていない」という車中泊勇者もいた。列車がホテルになっているのだ。

さらに偉い人になると、行き先など定めないでなんとなく、サイコロふって行き先決めて欧州の鉄道をさまよっているのである。ユーレイルパスホーボーである。

あたしも今日のチケットは東京メトロ都営レールパスであるから(一日乗車券)あたり一面、方々をホーボーしていてよいわけだ。

2008年7月10日 (木)

あたしの「犬Yノート」

R1150361 1980年の始めのころ、マンハッタンはタイムススクエアの安ホテルに棲んでいた。

オフオフオフブロードウエイに売り込みに行くような連中の宿である。週末はでっかい「がたい」の黒人が銀色のレボルバーを光らせてホテルの入り口に陣取っているようなホテルである。

近所の42丁目と8番街の角に非常に剣呑なバーがあって、(名前は忘れた)そこに地元民のような顔をしてビールを呑みに行き、その勢いで10番街であったか、プロ用の映画機材の店のウインドウに陳列されている、アリフレックスSTのフルセットを見てはため息をついた。その価格6000ドル。ドルが288円の時代だ。その店はCINE60といい、いかにも1960年代のシネマ機材屋の感じがでている。後年、この店が日本人のツーリストマップに登場したのを見て、びっくり仰天。誤植にてCINEbOとなっている。6とbの読み違いだ。それで仲間内ではこの、シネボーというのはかなり有名である。

その剣呑なバーをちょっと北に行った店で一冊1ドル以下のこの手帳を買った。
都合6冊ある手帳には自分の「犬Y」の歴史が書き込まれている。要するにノートの「一冊買い」である。

街中をスケッチし、近代美術館の写真コレクションを調査したときのは、鉛筆で書いてある。これはミュージアムではインクが使えないからだ。

ほかにメキシコを旅行したときのメモとかスケッチも入っている。これが1982-83の記録であるが、こういうアナログデータの方が四半世紀を経過してもちゃんと手元に残っているのは実に不思議だ。

この前、パワーブックのHDがクラッシュして数年来の画像が一瞬にして「ぱあ」になった。そんなのは別段、惜しくもないけど、アナログの方がデジタルよりも長生きするのはどうも事実のようだ。

自分ではすでに忘れていた、昔のカメラジャーナルの本を四谷のがらくた屋さんで発見した人がいた。そこには1988年当時のあたしの「東京自転車日記」が収録されている。これはごく初期のキヤノワードで書かれたものだが、これが出版された1998年にはすでにそのワードプロセッサーは読めなくなっていた。それをFDに入れたのをどっかのその手の専門店に頼んでかなりのお金を支払って「翻訳」したのである。

今ではもうFDだってないし、こういう古文書は完全に翻訳不可能であろう。あたしはその読者さんの手に入れた本をデジカメで複写したのである。その自転車日記は目下計画中の「分厚い日記」(今秋刊行予定)に入れるつもりであるが、その前の1982-83年の犬Y日記も収録しようかと考えている。ここらは編集者さんとの相談だ。

犬Y とは、数年前に出したニューヨークの文庫本(カラー版)の中で触れているが、これは真夏のニューヨークはソーホーで、あまりの暑さに(その年はニューヨークで100年来の暑さだった)駐車場の番犬が、さかさまになって前足をYの字にして横倒しになるほどの暑さの象徴なのだ。

それで「犬がYの字になる」ので、「犬Y」となった。NYとは古風な言い方ながら、日大の横須賀功光さんの仕事場が「ルームNY]であって、その影響でもある。70年代にはNYとは一種の魔術だった。そのNYという言葉は正しくはなくて、本当はNYCであることを知ったのはずっと後のことである。

目下、その「犬Yノート」を通読している最中だ。ここにいるのは自分ではないような気がするのは不思議である。爬虫類の皮を脱ぐような感じでどうも人間も脱皮しているのではあるまいか、、、というのがその印象だ。

火曜の午後、その犬Yに40年以上在住の佐々木健二郎画伯がヒルズに來。

聞けば、自分のなずけた「犬Y」犬はとうに亡くなったそうだが、そのワン公が番犬をしていた、ソーホーの駐車場もすでにビルが建ったそうだ。

2008年7月 9日 (水)

7.7トウキヨウダイシュウユウ

R1150369 R1150430 R1150461 七夕の日は昔から雨と決まっている。その悪天候をついて7.7東京大周遊を決行。

日本路地裏学会の桃木会長とはこの3月に路地調査をして以来である。

やはり副都心線関係の路地調査はかかせないので、ヒルズから渋谷。

そこから副都心線のスキップをしない各駅停車にて雑司が谷。

雑司が谷駅のホームのアクリルの椅子はかなりいい。これはかなりほしい。おそらく、都内にあるメトロの構内の椅子ではトップであろう。

前から雑司が谷のいったいどこに駅ができるのか、それがもっぱら興味の中心であった。出てみてびっくり。とんでもない予想もしなかった場所に出口ができていた。周囲にはまだ何もない。それよりもさらに驚いたのは、石丸元章邸のすぐ近所が出口であったことだ。

石丸さんはケヤキの大樹のある私邸を出てコンクリートの細い塀の左右に熊笹の茂った奥の細道をとおり、この駅から仕事に行くのかと思うとまことに、作家の理想の境遇である。

ようやく秘境雑司が谷に帝都高速度交通営団の光が当たったわけだ。

雑司が谷はご縁日であった。まだ誰も客はいない。

われわれ、日本路地裏学会雑司が谷調査団のみ。

歩行、谷の上から高田方面の実に急な坂を下りる。近辺の公園で、彫刻家の桃木会長に先週の土曜に川崎は扇島で拾ってきた、金属の切削辺を示す。

それが公園の遊具のわにさん、と似ているというのでさっそくこういう状況が記録された。

高田の裏手にある、偽ライカ同盟の黒田さん邸の前を通過して、ファミリーマートの前を右折して目白に向かう坂を上っていたら、路傍に巨大な石の帽子が落ちている。

あたしは目が乱視なのでわからなかったが、視力20の会長はその巨大帽子に詠んだ句のサインにnagai kafuと読んだ。

考古学上の大発見か?

目白駅から大塚駅にJRで移動し、午後5時正時開店の江戸一に繰り込む。知り合いの編集者さんに遭遇したりする。奇遇。(というわけでもないが)

その勢いにて、月島の立ち飲み「越後屋」さんに行き、桃木会長ファンクラブの面々と歓談。

2008年7月 8日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

ライカM8の世界で一番、使い込まれたやつ

辻堂という駅には初めて降りた。その印象は一昨年の11月、印度のデリーに竣工したばかの地下鉄東西線(本当に地図のラインの色が青)の一番、南西の終点駅である。辻堂は目下、駅前が広大な空き地であって、なにかが建設中だがその空間感覚がデリーの終点なのだ。デリーではリキシャが列を作っていたのに大して、辻堂はタクシーだけどこれはたいした違いではない。

その辻堂からタクシーで20分ほど行ったポイントに慶応大学環境情報学部のキャンパスがあって、その感じはバウハウスの「写し」なのである。そこで2時間ほど話をした。

参加者の学生諸君の中で、前列にいた青年のカメラが講演中、気になっていたのである。ライカM6であろうと思っていたが、講座が終わってそのカメラを見たらM8であった。

M6ではなかった。その意外性がかなり面白かったのである。50万円のM8を買える慶応の学生さんに驚いたのではなく、そのM8が非常に擦り切れていたのが気に入った。

こういうM8ならぜひほしいと思った。なんでも購入して1年余、つねに携帯しているので角々が完全に擦り切れたのだという。思えば、往年の(この場合は1960年代をさす)の写真家の道具というのは、擦り切れているのが普通の状態だしそれがプライドというものであった。

カメラの表面にそのユーザーの活動時間の痕跡がそのままに残されているのである。デジカメが一向に面白くないのはそこに個人の軌跡が記録されない点である。

その持ち主の学生さんの仕事はまだちゃんと見ていないけど、M8の擦り切れ具合だけでこれは立派に尊敬に値する。たとえば、ファッション業界は「常に表面のみてくれを扱っている」という意味で商売になっているのと同じように、擦り切れたM8にはユーラシア大陸の果ての物神崇拝のアウラがそこに読み取れるようなのだ。

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★銀塩クラシックカメラ

辻堂という駅には初めて降りた。その印象は一昨年の11月、印度のデリーに竣工したばかの地下鉄東西線(本当に地図のラインの色が青)の一番、南西の終点駅である。辻堂は目下、駅前が広大な空き地であって、なにかが建設中だがその空間感覚がデリーの終点なのだ。

デリーは不思議な町であって、地下鉄構内車内では撮影禁止なのである。あたしは地下鉄の高架線から撮影していたらお掃除の哲学者然としたおやじに注意を受けた。

その辻堂からタクシーで20分ほど行ったポイントに慶応大学環境情報学部のキャンパスがあって、その感じはバウハウスの「写し」なのである。そこで2時間ほど話をした。

講義の時にライカM8を持っている学生さんがいたので、自分は持参のライカM4を並べてみた。M8は2006年の登場であるが、M4は1967年の登場だからその間に約40年の時間差があるわけであるが、二台のカメラを並べてみると、その間にはそんな時間の差などは一向に感じられない。要するに、アナログ銀塩写真もデジタル写真もそのいずれもが40年の時間差の許容範囲内に飲み込まれているのが分かり、それはそれなりに痛快なことなのである。

自分の持参したM4だが、これはもともとクロームであったのを素人さんがオリーブに再塗装したのである。

この前の、ギリシャはアテネのオリンピックの前年だからもう5年前であるが、このオリーブ風味のM4にタンバール90ミリだけを付けてアテネに行った。ほかには駒村商会のスペシャルレンズ、プラナー80ミリも持参したが、これはアサヒカメラの連載のショットだけを撮ったのでメーンはタンバールである。

タンバールはすでにエナメルがぼろぼろであって、M4の塗りもぼろぼろであり、そういうぼろぼろコンビでパルテノン神殿とかゼウス神殿のような「ぼろぼろ遺跡」を撮影するには実にふさわしい気がしたのである。

アテネの時代にライカが戻るのは不可能ながら、やはりライカはM8でもM4でも「ぼろぼろ方面」が好きだ。

北井さんのドイツ表現派

北井一夫さんの写真集で最新刊、ドイツ表現派が出た。

http://www.tosei-sha.jp/gallery-top.htm

googleで検索したら「70年代の終わりに写真家北井一夫さんの助手で、欧州のドイツ表現派建築の撮影をかなりしたことがある。建築が面白いのは、モニュメントや庁舎ではなく、集合住宅であることを教えられたのはその時の重要な体験だ。 」
...
とでた。1978年から79年だったと思うが北井さんとドイツ、オランダ、スイス、オーストリアなどを助手と通訳をしながら周回したときの一連の写真はアサヒカメラに連載されたが、今回29年ぶりにそれが写真集になったわけである。
まず本物の写真家の仕事はそうあるべきもので、軽佻浮薄にその時代の最先端の表現を追っているようでは最初から写真家としての大成の望みのないものと思わねばならない。
連載の一部のプリントは北井さん自身がウイーンのあたしのアパートのキッチン暗室でプリントしたものであるから、もはや貴重なアーカイブである。
たしか5月と翌年の2月だかに撮影に行った。最初にポツダムのアインシュタイン塔に行ったときには、中の取材が許可されなかったので、その翌年の冬にまたいったのである。
雪の中に立つアインシュタイン塔は忘れられない。
北井さんのカメラはライカM5にズミルックス35ミリの一本やりであった。
今回の表紙の写真はなんと劇場の緞帳に煙もくもくの大工場街がモチーフになっているのだ。こういう意匠はもう未来にわたってないであろう。
これはベルリンのフリードリッヒパラストである。北井さんの撮影ぶりを背後から見ることが出来たのは写真家冥利である。
当時の自分は一種、象徴主義的なモノクロスナップで表現の袋小路に入っていた。要するに、鉛筆の先を尖らせる行為である。
それが北井さんにもっと大きな視座を持つように教えられたわけだ。
実際、北井さんと表現派巡礼をしてから、自分の写真は鉛筆の線が太くなったようだ。

余談だが、北井さんは大の空港音痴なのである。当時はまだ不便なのでパリの空港(しかもオルリー)までウイーンから迎えに行った。北井さんが心ぼそい表情で空港にあらわれた、あの表情がなかなか良かった。

R1150467

2008年7月 7日 (月)

勝間光学=ライカブランド

R1146524 R1146525 オンラインで注文したら、すぐにその後に売り切れた勝間光学のGLORY10x40が届く。

パッケージを開けると新茶のようなかすかな香りがあるのがうれしい。これは溶剤か何かの香りなのであろうが、足穂言うところの光学ガラスの香りと同一事項である。

ただし、そのストラップとか皮製の軍服のボタンにかけて、行動中の双眼鏡のぶらつきを防止する(あれを何というのか知らないが)仕掛けに関しては、勝間は比較にならないほどプアだ。まあ、3万円以下の価格でもうこれ以上に付属品に文句を言える筋合いはないが。

手元にある6x30に比較すると、やはり遠景を眺めるにはこっちの方が効果がある。普段はシュタイナーM22を使っているが、これはスナイパーからのレーザープロテクションのピンクフィルターがついているので、桜の季節以外には使うには勇気がいる。

奇態なのは8x30と10x40とではGLORYのロゴの厚みがまったく異なることだ。まるで別の会社の製品である。そこらにこだわないのが、軍用双眼鏡メーカーなのか。

10x40だとヒルズの49fから浜松町のやきとり屋、秋田屋の看板が読み取れる。

6x30は佃のヴェランダにおいておこう。

勝間光学のウエブを見ていたらhttp://www5.ocn.ne.jp/~glory-b/book.html

というのがあった。

ライカ=勝間光学という構図である。もっともOEMに関しては先年亡くなった、ニューヨークのケプラーさんの助手で日本のその手のメーカーさんを巡回したことがある。ちょっとびっくりするような、OEMプロダクツのクロスオーバーがあって面白かった。

手前でニッコール75-150ミリが流れていると、向こうからライカR3用のズミクロン50ミリがこっちにやってくる。そういうブランドの素粒子状態を知っているから、もはやブランドの引力からは脱することができたのだ。(とは言え、ライツの双眼鏡を作っていたという事実で勝間を尊敬するようになったのも事実である。

月曜の朝、ヒルズに来て以下のメールに接する。上に疑問を呈したロゴの件だ。

以下、引用。

田中 長徳 様


いつもお世話になっております。
GLORY 勝間光学機械株式会社の久米本と申します。
この度は弊社商品をお買い上げ頂きまして、誠にありがとうございました。
 
遅ればせながらブログを拝見させて頂きました。
7月1日に10×40を取り上げて下さった効果でしょうか、
3台あった在庫はその日の夕方までに完売致しました。
 
また、7月7日の記事にございますロゴのお話ですが、
10×40に用いている字体が正式なデザインとなっております。
こちらはロゴの入る部分が別体のプレートになっているため、
ロゴを印刷で処理しているのですが、
6×30のような一体のカバーではすべて彫刻で処理してしまうため、
まったく異なる字体となっております。
微妙なコストのバランスでこのような違いが生じているようです。
以前は彫刻でも正式なデザインを再現していたようですが、
やはりコストがかかるとのことで現在は行っておりません。
 
私事ではありますが、自分用の6×30では
正式なロゴの入ったプレートを彫刻の上に貼り付けています。
当然プレートは出っ張りますが、雰囲気は悪くありません。
 
弊社がライカに供給していたのはかなり昔のことなのですが、
この事実は弊社のような無名の企業にとっては品質の裏付けになるものです。
一昨年の某国におけるxxxxx台の入札においても、
これが勝てた要因のひとつであったとのことです。
 
今後もお客様に満足して頂けるような商品を送り出してまいります。
しかし現場(一連の組み立てから楽天の運営まで)をわずか6人で回している
現状では限界もあります。
海外向けがメインであり、その部品調達との兼ね合いで数台の商品を販売する
というスタンスは当分続きそうです。
 
それでは今後とも宜しくお願い致します。
どうもありがとうございました。


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 GLORY 勝間光学機械株式会社
 〒174-0072 東京都板橋区南常盤台2-18-7 プレミスときわ台103
〔TEL〕 03-5995-2241 〔FAX〕 03-5995-2242
〔E-Mail〕 katsuma-optical@biscuit.ocn.ne.jp
〔URL〕 http://www.rakuten.co.jp/glory-k/
 店長:久米本 浩司

★筆者注
一昨年の某国におけるxxxxx台の入札
はあたしの判断で伏せ字。

2008年7月 6日 (日)

「チョートク 海をゆく」出帆す

R1150356

Title 「チョートク 海をゆく」が出帆になった。これは変換間違いではない。
出版ではなく出帆なのである。http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309907772

昨日「あの写真部」の連中と川崎に撮影に行った。川崎の扇島の下の海底トンネルで肝試しをしてきた。これは文字どおり、海の底の歩行者用トンネルである。ああ自分の頭の上を船が通っているのだと思った。

川崎のてんぷら屋、公園の飲み会、餃子屋、ビヤホール、銀座のおでんやを経由して、夜、佃に戻ったら、「チョートク 海をゆく」の見本が版元の東京きらら社から10冊も届いていた。発売は河出書房新社。

本の出た時、見本を手にした瞬間ほど嬉しい瞬間はない。大満足で昨年、パリから帰国するとき、飛行機の中でもらった持ち越しのシャンペン(ただし小瓶)をあけてひとりで乾杯した。家人もライカインコも寝静まった深夜のシャンパンは最高だった。

この本は各種のカメラで撮影されているが、一番使っているのが、本の脇に置かれているリコーR7である。この本の表紙もR7の撮影だ。こういう「アマチュアのカメラ」で仕事のできる時代になった。

「チョートク 海を行く」はアマゾン系のネットでも無論買えるが、19日の日本郵船氷川丸の講演会では大正4年刊行の豪華客船を断面にして、細かくイラストした巨大なカラーリトグラフの複製をエプソンに造ってもらったので、その講演会では本お買い上げの方にプレゼントする。そのままマットに入れるとなかなかのグラフィックである。講演会の詳しい情報は下をクリック。

http://www.nykline.co.jp/rekishi/exhibitions/event/chotoku/index.htm

危険物につき火気厳禁!!

プラハのバーツラフ広場の根元に昔からある食品店があった。そこでキューバのバガンデイラムを買って20数年になるのに、その場所はビロード革命の後にはアデイダスの店になってしまった。最近のプラハではかつての東側時代のように、飲みつけのスピリッツが手に入らないのが問題だ。

アトリエの向かいにある。24時間営業のビラスーパーマーケットでは3年前までは、プラハ市に昔からある古風なウオッカメーカーの瓶を置いていたのが、昨年の秋の店舗の合理化と同時におかなくなったので困った。その代わりに置いてるのは、マスプロ生産でまずいどこでもかえる大メーカーの低級ウオトカである。

当ライブラリは昔から、飲酒はオーケイであって、3年前、まだ49Fと50Fの2フロア時代(その上に上がる階段を天国への階段と呼んだのも懐かしい。最近の会員さんはその間の事情を知らないであろう)には50Fに立派なパーがあって、アルコールが並んで、それは会費に含まれていた。

51fのクラブでワイン好きの友人をワインを飲んで、49fのバーに戻ったら、予算の関係でクラブではあまり上等なワインは頼めなかったのであるが、下に戻ったらそこそこの高級なワインがあるので、うれしくなった。

今ではアルコールはライブラリに装備されていない。問題なのは、この巨大な森タワーでコンビニは4fの1軒しかなく、そこにはアルコールは置いていない。なにか岡山の禁酒会館に匹敵しそうな「森禁酒タワー」なのである。

それでアルコールは六本木の町に徴発に行く。この数年、ロッカーに装備しているのがポーランド製の96パーセントアルコールボリュームのウオトカだ。ロッカーのサイズは限られているから、この瓶が一番保管がしやすい。

明治屋でその価格1500円。

しかしその強烈さは相当なもので、いつだったか福田和也さんと対談の後、これを応接室でやったのだが、かなりの量のソーダで割らないと飲めないのである。福田さんはその後、ほかの用事があったのだけど、ヒルズの49fで飲まされた怪しい酒でその後の記憶がまるであいまいになったそうである。

先週の金曜に打ち合わせの後にエプソンの大酒家で名高い鴨下さんにこの96パーセントのウオトカの味見をさせた。かの酒豪も飲みあぐねるほどの火気厳禁であった。

そのときは新潮矢野編集長からいただいた、銀座の高級文壇バーにありそうな、ガラスの裏面にどっかの「お殿様」がエングレービングされている高級ウオトカの封をきった。これは大体2時間で空になったから恐ろしい連中である。

IC関係はファイルを圧縮するのが普通だけど、アルコールは圧縮はできないもののようである。圧縮可能なら、狭いロッカーに保管も楽で便利であろう。

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2008年7月 5日 (土)

辻堂川崎

金曜は慶応大学福田ゼミの特別講座にて、辻堂の先まで行く。

大学はバウハウス風のなかなかのキャンパスだ。プラハのアトリエの脇にある、プラハ大学工学部のキャンパスは、これは構成主義であるが、スタイルは慶応の方がお洒落(建築をお洒落感覚を尺度にする時代だ)である。
ただし、そのサイズは「本物」より小さいので徒歩の移動も楽である。プラハの大学のキャンパスはうんざりするほど、道を歩かねばならない。

その後、2時間かけて新宿に来て、福田ゼミの学生OB諸君30名ほどと歓談。これが午後9時開始なので、まるでイタリアである。かんれき代表のあたしは11時前、早々に辞す。

土曜(今朝)はこれから川崎方面にて、「あの写真部」の部活あり。辻堂に比較すれば「すぐ近く」である。

「チョートク 海をゆく」の見本が昨夕にあがったそうだ。東京きらら社さんに会う時間がないので、見本は郵送してもらう。深夜に関係者さんから続々メールあり。見本詩の感想だがかなり好評。
一安心。
河出書房新社のHPにも紹介が掲載されている。R1150218

五位鷺君

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R1150195すずめとからすと、はとの違いはわかるが、鳥に関してはまったく知識がない。

うちのライカインコはインコであって、本名はバジエリガーという。これは出身地のオーストラリアのアボリジニの言葉である。

着インコの「ほーすけ」は、あれはヨームという種類のようだが、これは日本語であろう。本名は何と言うのであろうか。

要するに、琴欧州の向こうでの本名みたいなものか。

これが語彙詐欺(ウィンドウズの変換はシュールだねえ)もとい、五位鷺となると、もう見当がつかない。

ちょうど2年前の今頃であったか、一人京都に遊んだ。と、言っても加茂川の西詰めのビジネスホテルにいて、天使突き抜け町とか、目川探偵の広告を地下鉄の中に鑑賞する程度の話だが、雨の朝、ホテルを出て高瀬川の小橋の絵にこいつが立っているのはかなりの粋さ加減だった。

その時にはGRDしかもっていなかったので、遠距離から撮影してそれを縦位置にて連載のデジタルカメラマガジンのページに載せた。この撮影はリコーR8であるから、こういう近接のショットが撮影できる。

こっちも暇であるから、お互いに若五位鷺と老サピエンスが見合ってそれで20分ほどが経過したのである。五位鷺は雨のブルーの色彩の中で見るのが正しい鑑賞方法であると認識した。この五位鷺君は数日前、ヒルズからの戻りに、うちの近所の佃小橋の脇の、住吉様の幟の材木が生めてあるところに立っていたのである。

その日の朝にこの泥の中から今年の本祭りの準備で柱を掘り出すためであろう、数人の男性が働いていた。この水中の小魚が出てきたのを狙っているのであろうか。

背景のブルーはそこにもやってある小船の反射なのであるが、なかなか効果的な色彩だ。

五位鷺は京都ではなかなか悪さをするようで、知人の京都の老舗の箔屋野口の家には結構なお庭があるがそこに五位鷺が池の鯉を捕りに来たそうだ。

店主の野口は100vの電線を張り巡らして、次回にやってきた五位鷺を「感電」させて、それ以来、こなくなったそうだがこれは荒療治だなあ。動物虐待にならないのか。

2008年7月 4日 (金)

7ー2東京大周遊

空梅雨のようなので、ヒルズには行かず、東京大周遊。

その時の「心掛け」で大事なのはヒルズのロッカーの鍵とカードキーのついている、あれは何というのか、例の「インテリビルに管理されている羊」連中が首から下げているひも付カードは持参しない。

あれは危険であって、自分のような「貧乏性」は、東京大周遊の最中のついつい、首にあれがかかっていると、ヒルズに行ってしまう。
それで水曜日は最初から玄関にカードを捨てて出かけた。
これはものの例えであって、本当に捨ててしまったわけではない。玄関のハンガーにぶら下げたという意味だ。大昔の映画「イージーライダー」で若者二人がアメリカ南部を目指すのに、最初に道に時計を捨てて行くのである。

高校生の当時、その意味がわからなかった。時計は高価な品物である。アメリカはお金持ちだなあ、と感心した。

大江戸線にて森下乗換えで、瑞江に行く。周囲を撮影。南口には七夕の飾り付け。小岩行き10時46分のバスにのる。おととい、このロータリーでタクシー同士の事故があったと地元の老紳士がこれまた地元の老淑女に話をしているのを、なにか日本の30年代の邦画を見るような気分で聞き、眺めていた。

この人たちは江戸川清掃事務所行きのバスに乗って行った。

小岩行きのバスに乗るのは実に2年ぶりである。名主屋敷とか二枚橋とか由緒ありそうなバスストップを行く。

R1146461 R1146471 小岩にて例のカメラ店に出かけたら、(そこに展示してあるトヨフィールドが見たかったため)定休日。そうだ、隅田川の東側は水曜が定休の店が多かったのをまたも忘れていたのである。

この前の岡山行きで、行く店、行く店が休みで最後に飛行機がストライキで完全にやられた、その影響がまだ出ているのである。

R1146469 小岩から京成小岩駅まで歩行する。だんだんにここら辺の「土地勘」が戻る。この界隈にある、朝10時からやっている「銚子屋」という飲み屋のおやじさんは、もと国鉄の機関手で、山の手線にまだ蒸気の貨物が走行していた当時の釜炊きの苦労話を酒のつまみにしたのはちょうど2年前の今ころであった。

渋谷、新宿、池袋とあの界隈は案外に勾配があるので苦労するということなり。

京成小岩より都営にて新橋。そこからJRの赤レンガの高架線の下を帝国ホテルまで歩行。この赤レンガの構築物は自分にはローマ時代の水道橋を思い出させるのが常だ。

ビックカメラに120フィルムの現像だし。その足でレモン社の8fに行く。カメラの在庫、レンズの整列を眺めて、ほしいものを勘案するが今月はもう目いっぱいに買ったので、8月の購入計画を練る。レモン社の北の窓辺(ここはセルフサービスの喫茶コーナー)に憩う。

売り場面積最優先の銀座でこれだけのスペースを客に提供しているのはえらいと思う。まあ、この場所で冷静になって心つもりのカメラの購入を断念することはなくて、ここでカメラの購入欲望が膨張するのだから、あんがいに重要な商売のスペースか。

実に久しぶりに月島の越後屋(実は月曜にも来ているが)に行く。

まだ明るいうちに佃に戻る。

2008年7月 3日 (木)

リコーキャンデイッドフォトノート

先週、リコーgx200の発表会が汐止めシオサイトのイタリア村であった。ここに行ったのははじめてだが、3年前にそのビルの向かいのカフェでエスプレッソとソーダ水を前に、土台ができたばかりの建物(になる予定の構築物)を見ていた。

その次に、イタリア村に行ってその建築し始めたばかりの建物がすでに建築として機能しているのが実に不思議だった。

GX200の発表会はそのキャパは300はあろうと思われるが、5分後れていったのにすでに会場は満員だった。たいしたものだ。

横木あらおとマンハッタンの建築家瀧浦さんがトークをしたのだけど、時間がなくて最初しか見れなかったのが残念だった。そのゆたかTさんとは会場で1秒握手しただけであったが、トークショーが開始されてから、ゆたかさんが一度も発言しないうちに自分は退場になってしまったのである。

その時、感じたのは司会者さんが両巨頭の対談を前にしてつまらないことを言うので、ちょっとしらけた。女子供のギャグを人間国宝のお二人の前で言うのはどうかと思う。

横木のgx200で撮影した画像を見て「まっすぐに写ってますね」とか「かわいい猫ですね」などはいわずもがなである。黙っていたほうが絶対におしゃれだ。

司会者さんのランクでこういうプレス発表は価値がきまる。びっくりしたのは「この発表会のためにわざわざニューヨークから駆けつけてくださった瀧浦さん、、」の紹介には汗が出た。いまやHISのお力で、ニューヨークは駆けつけるほどの遠い場所ではない。岡山の奥地のたぬきの出る山奥から駆けつけたのならわかるが。

以上はマイナスポイントだが、プラスポイントはモレスキンのノートブックが各人に支給されたことだ。プレス発表会の「まきもの」は実に難しい選定であるが、これはヒットエンドランという感じがする。

2年前のGX100の時にはラミーの万年筆だった。ラミーにモレスキンはあたしが普段使いの道具である。

そのモレスキンにはRicoh Candid Photo Projectとエンボスされている。発表会に参加したジャーナリストがモレスキンを開くたびに、キャンデイッドフォトの文字が脳裏に浮かぶのはうまい効果である。この言葉はスナップショットより、パワーを感じる。この用語が全盛だったのは、1950年後半の石元泰博先生がニューバウハウスから来日した当時の用語だ。しかし古めかしいという感じはなくて、逆にその印象は新鮮である。

帳面はSQUERED REPORTERで方眼紙の罫線がひいてある。あたしの一番の好みのタイプである。ただしこれは縦使いのノートだから、よく外国の記者さんが使っている縦スタイルだが、この2年間ほど同じスタイルのを使っているけど、どうも日本語環境だと、横に広げるスタイルの方が使いやすいようである。このノートを開いて、北千住の公園とか、リスボンの坂道の途中のバーとか、あるいは乱気流の欧州線で、プロットをひねくるのは楽しいものである。

このノートは「ブランドもの」であって、以前はなかなか手に入らなかった。自分が持っているのはローマのパンテオン前の文房具屋でまとめ買いをしたものだ。今ではヒルズのタワーの6fの本屋でも売っているが、価格1980円はかなり高価だ。

1冊のモレスキンに書き付けた、あたしのわかりにくい「みみず象形文字」が活字になって、今、1000ページの本に印刷されつつある。

「チョートク 海をゆく」は実は1冊のモレスキンの手帳が全編のキー的存在になるのである。その内容はここで書いてしまうとつまらなくなるので、秘密にしておく。

ところで、たった今、出版社から金曜の夕刻、見本が届くとのメールあり。一番うれしい瞬間だ。ただし明日は慶応で福田和也研究会ゲストレクチャがあるので、直接には受け取れない。

福田教授から送られてきた、ゼミの皆さんのレポートを見ていると、なかなか面白い。

「ミーハーなので写真家の名前は岩合光昭さんしか知らない」

「六代目の白黒写真は、ブロマイドには無いまろやかな天然の美に彩られている。」

「私の撮る写真にはいつも青海苔ぐらいの存在感で、ひっそり異物がこびりついていることが多い」

などなど。なかなかよい言葉がちりばめられている。かの飯沢耕太郎がまだ暇だったころ、彼を誘ってシンガポールに行った。飯沢はほとんど失業者だったから、そういう真似ができた。現今の飯沢先生はえらくなりすぎ、その後の写真評論の畑は立ち枯れている。こういうレポートの中から新時代の写真評論家が出ないとは限らぬ。

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2008年7月 2日 (水)

キエフ5の正しい思想的使い方

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Fh000035Fh010031 Fh010002 2001年に発行された「チョートク@ワーク」は、毎日コミュニケーションから出た、真面目なカメラと作品の「因果関係」を探る写真集である。
その巻末に「カメラのよた話」が何編か書いてあるが、その「よたカメラ」のひとつがこのキエフ5であった。

ちなみにこの「チョートク@ワーク」は最近では古書店にもあまり見掛けないので、自分などは資料として必要なので、日本の古本屋のサイトで「高値」で購入したものだ。

そのキエフ5の話は「ロシアカメラがむせぶ夜は」(グリーンアロー出版)にも登場するが、時間的な前後関係はちょっと忘れてしまった。言うまでもないがキエフ5は、その大本はコンタックス2型の正確なコピー(というよりもコンタックス2型の名前をキエフに打ち変えて出したモデル)であって、これが1947年のことだ。キエフ5は1968年にプロトタイプが出ていて、この写真のカメラはそのプロトタイプなので、そんじょそこらのキエフを一緒にされては困るわけである。
コンタックスは2Aと3Aでついにレバー巻き上げとクランク巻き戻しにすら進化しなかったわけだが、キエフ5の場合にはちゃんと進化しているのがえらい。しかもそのレバー巻き上げもクランク巻き戻しも実にスムースな高級機の感覚がある。

ようするにオリジナルのコンタックスにサモワールとバラライカとレーにン、スターりんの染色体を詰め込んだらこういうロシアンカメラスタイルになりました、という結果であるがそのカメラスタイルがあまりに個性的なので、その好き嫌いの評価ははっきり別れるのである。でもカメラデザインとしての思想は正しい。

つまり、あたしにしてみれば、これは「ロシアカメラのリトマス試験紙」であって、なまじライカM3がどうの、ローライがこうのと言っている人に、このキエフ5を黙ってみせて、彼がこれが気に入ったのなら、話しができる人。全然興味がないのなら、「単なるブランドカメラ好き」というわけでもう話しもしたくないということ。その意味では怖いカメラだ。

キエフ5の問題点はそのストラップアイレットがとんでもない変な場所についているので、カメラにストラップをつけると革命的に「天を向いて」しまうことだ。
このバランスの悪さが大問題だった。そういう問題はコルホーズとかソホーズでもないがしろにされていたようだ。ソ連崩壊の間接の原因はあんがいに、キエフ5型のネックストラップの位置をないがしろにしたからかも知れない。
50ミリレンズでもその重さが足りないのであって、キエフ5をバランス良く使う為には少なくとも500グラム以上ある、ヘビー級レンズが必要なのである。重いレンズをつけてはじめて「革命的写真」が撮れる。

実際にそういうレンズはなかなか存在しなくて、さしずめニッコール50ミリF1、1などが、ほとんど唯一のバランスの良いレンズである。
ついでにそこまでやるなら、巨大なレンズフードもこんな感じで付けたくなる。ただしこのレンズは武者の旗指物であるから、実際には使わない。実際に使うレンズフードはこの前、荒木町の我楽多屋さんで200円で買ったサイズ62ミリのフードだ。

キエフ5による「実写」の作例(なにか写真工業誌めいていて、この言い方はいいねえ)

上から

ニッコール50ミリf1、1 (アースアート)月島越後屋酒店先。絞りf5、6

同上 (小学生)月島駅。絞りf2、8

同上 (夜間室内)絞り開放

2008年7月 1日 (火)

スカイツリーはどっちかな?

Factory002 R1150138 R1150137 ヒルズの向かいの防衛庁の跡に、ある日、テントが張られた。そこで数人(いやもっとか)の男性が集まっていたのは、あれは古墳調査ではなく、地鎮祭であったはずである。

それから、ほぼ1年ほどは見かけの進化はなかった。これは東京ミッドタウンの地盤を整備していたのであろう。1年ほどしていきなり巨大な構築物が眼前に天に向かって伸び始めた。それが出来上がって、ミッドタウンの完成までさらに1年ほどが経過した。

しかし都合、3年弱の短期間でこういう東京名所ができてしまうのである。5年前に出した「チョートクX六本木ヒルズ」では、まだ向かいは更地なのである。

それで自分は警戒しているのだ。

まだ知らないうちに、夢見やぐらだか、スカイツリーだか変な名前のTVタワーがそれこそ植物の岩波映画の名作みたいな速度で天にそそり立つのであろう。

もう基礎工事はできているのであろうか、とか。

もうやぐらを組み始めたのではなかろうか、とか、想いは千路に乱れる(というほどの大げさではないが)のである。

この前、京成押上の現地を「視察」したのがおととしの今頃であったから、もう油断は禁物だ。すでに2年が経過しているのだ。それで押上方面に行く時間がないので、49階からせめてもの対抗策として、勝間光学の6x30の双眼鏡で「索敵」をしているわけだ。

おおよそ、この「うんこビル」の先あたりに、「空樹」が生えるんであろう。画像は勝間6x30にリコーR8を押し当てて撮影。

ところで、最近、世の中、オリーブ色ブームとかで、我が中近東某国と同じ仕様の勝間双眼鏡もオリーブ色なのであるが、この製作所の商売っけのなさは尊敬に値する。もともと双眼鏡などは一家に一個あれば用た足りるのであるが、この勝間のHPは、何千個を外国の軍隊のために製作しているので「一般小売」などはまったく興味がないらしい。

われわれ、買い手としては、その商売っけのなさに実にしびれるのだ。その性能は手元のkernスイス軍用などと比較するのは野暮というものであるが、オキュラーの口径が小さいので、逆に視野が広角過ぎないという「欠点がそのまま利点」になっている点がある。

視野があまり広くないので逆に使い勝手がよい。

この勝間のHP(というか楽天ショップ)は、よくチエックしている。というのは3台とかそこらの製品が売りに出るのである。しかも勝間双眼鏡は隠れ人気ブランドらしく、すぐに売れてしまう。

新たに中近東に出荷した300台の画像が1月前にアップされた。その「余剰分」というのであろうか、サープラスであろうか、4台だけがオンライン販売されているので、さっそく1台注文した。(現在は残りは3台。27日日本時間午前11時16分現在)

これは10x40である。手元にメオプタ製の10x40をもっている。この前、西安に行ったときにはこれを持参して、案外とバランスと倍率がよかった。

つまり、ライカM2-Mのproperty of US NAVYの刻印入りを持ちたがる気持ちと一脈通じている。

現代に浮世離れした、こういう商売もあるのか、と感心しているのである。http://www.rakuten.co.jp/glory-k/index.html

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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