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チョートクカメラ塾ブログ

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2008年6月30日 (月)

談志の「間」談春の「芸」歌舞伎座親子会

R1150185R1150004 土曜日。

午後2時から恒例の荒木町の「シドニー寄席」。

満員のお客様である。アローカメラの1fの我楽多屋の売り場の奥のクーラーの利く場所にアサヒビールの中ビンの箱を据えて、その上にのっかって、1時間45分の「高座」を務める。

シドニー寄席は10年以上毎月開催しているが、この「倫敦はグリーンパークの演説者」方式になったのは、4月ほど前からだ。

無論、お客は立っているのである。まず満員の朝の中央線というところだ。大変な忍耐だ。壇上(というよりビールのケース)の上から見ると、実に四方が見晴らせる。

遠くもよく見えて、前の外苑東通りを行く通行人が何がおきているのであろうと、足を停めてこっちを見ているのも面白い。

洞爺湖サミットで都内はポリスだらけ。地下鉄の駅にもポリスが箱の上に立っているが、これがかなり全体の様子を把握できる高さであることは、自分のビールの箱でも明らかだ。

アローカメラのがらくたの中から、あたしの1998年ころの本に「東京自転車日記・抄」が掲載されているのを発見。これは1986年当時、自転車で東京を徘徊していた記録である。シドニー寄席のお客さんが手に入れて、あたしに示したものだ。さっそくR8にて全ページを複写させてもらう。これは計画中の日記本に収録したい。

シドニー寄席が終わって、ライカMP突撃隊長の若い衆の軽自動車で銀座に行く。突撃隊長は通りに5分軽を停めただけで、1万円の罰金をくらった。彼が新宿で買ったソ連製カメラの3倍の罰金である。銀座への同行者は他には若い衆の友人の「車のハンドルのデザイナー」である。彼はアローカメラで駒村ホースマンのルーペを買っていた。4x5の撮影に使うのかと思ったら、ハンドルの皮の品質の調査に使用するらしい。車内でハンドルの木製のは今、流行っているのかなどの面白い話になる。

半蔵門から銀座に行く間は「検問のオンパレード」であって、都合6組くらいあった。戦前のカフェのように「雪組」とか「花組」みたいに検問は各組に分かれて成績を競争させるのであろうか。その旗は「止まってください」である。これでは警察の威信が落ちる。独逸だって検問のサイン(これは旗ではなく、ペドル)は単にHALT!!だ。止まれ!でないとダメだ。変なところに気を使うものだと感心する。

洞爺湖サミッット。
あれは北海道の話である。考えて、ああ、談志・談春親子会@歌舞伎の警備をしているのだな、と気がついた。談志・談春親子会へ向かう方向が全部検問であるから、これは右翼左翼ならびに親子会を爆破しようというテロリスト対策である。

思うに警備は国会でも歌舞伎座でも「同じこと」であるから、警察警備はごくろうさまである。

歌舞伎座の緞帳を見て驚いた。この前、西安と岡山に行った時、飛行機の上から見た光景がそのまま緞帳になっている。凄い。

午後6時開演。

歌舞伎座は実に40年ぶりだ。学生当時は50円の一幕見物で主だった舞台はほとんど見た。それに払う50円はまだ大型コインで真ん中に穴の開いてるやつであった。

その時、天井桟敷に駆け上がる体力をつけたのが、後年、ウイーンのオペラで天井桟敷にいち早く駆け上がる技術を付けたのである。リハルト チュトラウスもギャラリー駆け上がりの常連であったそうだ。

日本の劇場をつくずく見るに、欧州とは異なっているのが面白い。まず最大の違いは花道があること。なにか工事中の足場という風に見える。オーケストラボックスがなくて、「ちょぼ」があること。バルコンは2fまでしかないこと。

舞台の奥行きがないこと。提灯がぶら下がっていること。などなど。実にエキゾチックだ。

奈落から談志談春親子が「せりあがって」きたのも度肝を抜かれた。20分の休憩を挟んで3時間堪能。

談志は「間」で談春は「芸」だなあ、と思った。

高座の談志の目の前に蠅が飛んできた。それが「間」で芸術になってしまう。地と図の関係で言えば、「地」の生かし方がすでに極限まで洗練されているわけだ。

談志が花道から登場して、七三で大見得をきったのは強烈なパロデイかと思ったが後で考えるとあれは偉大な芸である。いや、両者は同一物である。

談春の「芝浜」よかった。土曜の朝はあたしも魚河岸に行ったのである。フリーの写真家は「棒手振り家業」である。だから身につまされた。これは怖い話である。こういう幸せな時代がすでにわれわれの時代には存在しないことが怖いのである。

持参のミノックスの単眼鏡でずっと高座を観察した。談志が「TVは嫌いだが、朝鮮放送の女アナウンサーは好き」というのと「wow wow」のスクランブル画面が好きというくだりは特によかった。

談春の革の財布に二分金で四拾弐両というくだりで、財布から二分金を出してそれを数えるところは、実際に目の前に二分金があるように見えた。二分金が八十四枚あってその重さに手が応えているのがよくわかった。

終演して福田和也さんが石原都知事と歓談しているのを眺めて、夜の街に出る。同伴の家人と「これはまるでウイーンのオペラのはねたような気分だからうちまで歩こう」という諧謔を弄した。

歌舞伎座をウイーンオペラとすると、リング通りを反時計周りに歩行すると、最初にカールス教会がライトアップされている。これが見立ての本願寺である。その先はドナウ運河であって、プラター橋がある。これは勝ち鬨橋の見立てである。その手前を北上して、聖路加の教会は、まさに位置関係としてショッテントアのホテーフ教会である。そこをリング通りをさらに行くと、ドナウ運河のかどにウイーンで一番高いタワーの高層建築がある。その位置に建っているのが、聖路加タワーである。

ウイーンならそこからドナウ運河のアウガルテン橋を超えるのであるが、その位置にあるのが佃大橋。

それを超えて川の左岸を北上すると長年棲んだウイーンのアパートがあった。同じ位置関係にあるのが、今棲んでいる佃のタワーだ。

ようするに1970年代のウイーンのオペラからの夜歩きをそのまま、土曜の歌舞伎座の帰りに完全に重ねあわすことができたのは、地理上の「暗合」とは言え実に不思議な晩であった。

落語はウイーンにはないわけであるが、あのような話術のエンターテイメントは「ヴァリエテ」でやるものであろう。そういう場所でする出し物をオペラとかブルグテアターにかけることはない。

それが昨夜の最大の収穫か。

ちなみに自分が最後に寄席に行ったのは、まだ都電が走っていた1960年代に人形町に行ったのが最後である。夢見るほどの大昔だ。

2008年6月29日 (日)

KCチョートクカメラコラム

☆デジタルカメラ

エプソンR-D1sに50ミリ沈胴レンズを使う

この間の西安行きでは、エプソンR-D1sに21ミリの広角を持参。これは小型軽量はカラースコパー21ミリだ。同様に個品製(こしな)のレンズにスアイスブランドのビオゴン21ミリもあるが、厳密な解像力の数値からすれば、当然、ブランドのツアイスが上位なのであろうが、こっちはそんな上等な仕事をしたり「光と影の芸術」と戯れるほど暇なわけでもないから、ブランドよりも小型軽量が第一主義である。

もう1本。トプコール50ミリf3,5も西安に持参した。これはエルマーコピーであるから、レンズの前の枠は完全に沈胴してぺったんこになる。

注目すべきはこれがエプソンR-D1sで完全に沈胴が可能な点だ。同じタイプのレンズではM8では完全に引っ込めることができない。

沈胴したカメラはその形態性に優れること、固定鏡胴のレンズに比較して数段上である。APS-CタイプのCCDをして、広角レンズは1、5倍になって使いにくいとの意見をたびたび聞くが、自分はそうは思わない。

むしろ、画角とレンズの焦点距離の関係は、シングルフレーム、つまり35ミリの映画のサイズとそのレンズの関係に近いものがあるので、逆に直感でわかりやすい。

100年前の35ミリの映画撮影機は50ミリが標準レンズであったものだが、幾分長めの、つまりやや狭い角度の画像は初期の手回し映画の時代にはお馴染みのものであった。その「やや狭い50ミリ」のフィルムのサイズの方がそのまま2倍になって、その画面を90度転回させてフィルムを縦走りから横走りに変更したのが、現今の35ミリのライカサイズである。

その意味からすると50ミリレンズでやや狭い撮影画角というのは映像の本質に戻ったという感じがするものであり、なにか好ましく感じられる。

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☆銀塩クラシックカメラ

カラーネガの1本買いの魅力

ライフの写真家三木淳さんであったか、何かのインタビューの中で「写真家たる者、仕事のためにはカラーフィルムの発色の特性を揃えるために同じエマルジョンのフィルムを何百も買うのは当然。フィルムの1本買いをするようなやつは写真家の風上にもおけぬ」という意味のことを語っておられた。

当時(四半世紀前)には、まことに当然なことであるというので納得していたのであるが、最近、気がついてみると「フィルムの一本買い」をしている自分に気がついて、これはまずいなあ、と思うことがある。

要するにデジタルの時代になって、カラーの按配はどうにでもなるから、フィルムを入れて撮影するライカなどは趣味カメラであるので、発色などはかえって「へんてこな色」が出たほうが遊びとしてうれしいのである。

でも、あたしは三木先生の弟子ではないにせよ、ニューヨークに文部省の派遣を決めてくれたのも三木先生だし、ちょっと気になることもある。最近のライカ遊びでは(というより、35ミリフィルムを使うクラシックカメラ一般)コンビにでのフィルム1本買いとか、安い逆輸入だかなんだかのフィルムをバルクで買って使っているのであるが、その時の心構えは「なるべくフィルムで沢山撮影しないようにしよう」なのである。

このネガカラーで撮影して、いにしえの「ニューカラー時代」を懐かしむという遊びも度が過ぎるとそれに熱心になってしまい、昨年も数百本のカラーネガを消費した。その保管場所がないから、数年前からデジカメをメーンにして仕事はそれでやっているのに、カラーネガの保管で困るというのでは元の木阿弥である。

これからは意識して「フィルムの1本買い運動」を推進しようかと思案中だ。

蟹道楽

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土曜日。
ほぼ一月ぶりに魚河岸に行く。
何時もの店で、ほんまぐろのパック630円。面倒なので650円払ってそのまま歩き出したら、店のお兄さんがおかけて20円戻してきたので恐縮。
1月前は同じ店で、同じパックを2個買って、その時は10円玉が数個足りなかったので少なめに払った。自分はそれで調整しているつもりであったが、日本の小売り業は実に正直である。

何時もの店にて、ずわいが3杯入ったとろ箱を買う。2000円。
家に持って帰ったらまだ活きているほどの活きの良さであった。
家人は新潟だから「ずわいのゆでかた」に熟知している。それで湯上がりの「ずわい三兄弟」を金屏風の前に並べた。

40年近く前、家人とデートしたとき、白山上かどこかのかにやに行ったのである。こっちは子供だからそれを「二で割って」もらった。無論勘定のことだ。
それで感情を害したということを、爾来、40年に渡って言われ続けているのだから、始末が悪い。

市場で見たかには、はさみがなかったりするはんぱ商品であるから、そのような安価なのだけど、実質上では何の問題もない。レンズに傷が付いているとか、レンズのバルサムが来ているが、ピントに問題はないのと同じである。

この前、修理したM2ーMは岡山に持参して沢山撮影をしたのだが、いきなりシャッターのリボン切れになった。また修理代がかさむわけだ。
ライカを沢山持つのも考えものである。順番に順よくどっかしらが故障する。

土曜なので、午後2時より恒例のシドニー。夕刻から福田和也さんの御招待にて、歌舞伎座で立川家の親子落語会。

2008年6月28日 (土)

東京の金曜

週末。

共同ビルクリニックに行き、投薬を受ける。

亀島橋上から、かつてのギャラリーノットイコールギャラリーの4つの窓を観望する。その中の画廊男が事務所に使っていた一番南の窓だけブラインドは半開きになっている。そこから画廊男があたしに気がついて、今にも手を振りそうだ。

この1月はじめには画廊男こと、佐藤陽一はまだこの世にあって、そのときには会う機会を逃したけど、昨年は何度か、近所のスーパーでサントリーの安ういすき「北杜」を持参して、飲んだ。

昨年の今ころは、佃から紹興酒の20リッター入りの古酒をタクシーで持参して、大勢で飲んだ記憶もある。

2fのギャラリーの窓辺からは亀島川の対岸にボートがもやってあるのが見え、初夏の午後などは、実にキャナルグランデから一本、脇の水路に入ったルネッサンスの館の二階から運河のよどんだ水を見下ろしつつ飲んでいる気分になった。

これは実際に自分の思い込みではなく、画廊男にその話をして彼も同意した一事だった。

まず、ういすきソーダを飲むに格好なベネチアの場所のまねをするなら、街中のごみごみした界隈のハリーズバーなどよりも、実際にはそういう場所での経験はないのだけど、大運河の脇の中運河の古風な部屋の一室から水面を見下ろすという場所遊びの方が格段に上級である。

もっとも、亀島橋がベニスに思えるのは、ういすきの3杯目あたりからであるから、酒精の力を借りていることにあるのは言うまでもなし。

昨日、木曜は「会社を早退」して、まずニコンサロンの平カズオ展にまた行った。

二度目。

その理由は初日はレセプションでまじめに写真が見れなかったことにある。しかも平まどかさんから「挨拶」をおおせつかったので、そうなると「社交神経」の方か活発になって、視神経は緩慢になる道理である。その時の司会は青山達雄。NDC時代の「三馬鹿アシスタント」の一人だ。

この集会で30年前にザルツブルグのフォトワークショップに参加していた、吉村朗に実に久々に遭遇したのも一大成果。日本カメラ元、前編集長とか、アサヒカメラ現編集長なども「駆けつけ」で大盛況だった。

木曜の二度目の観覧では、田村東京カメラクラブ代表にも会場で遭遇。彼は授業で学生を連れてきていた。

平さんの仕事で発見したのは、そこで展開しているショットは「お祭り写真」であることだ。

このお祭り写真というのは、自分の嫌うところであるのだが、仔細に観察するにクリスマスの前のお祭り(これは画面中に登場するフラマン語がドイツ語と同様な言葉なので理解できる)とか、カーニバルとかの撮影なのである。

そういう「お祭りイヴェント写真」は嫌いであったのが、平さんの作品を時間かけてみていると、その自分の「お祭り写真嫌い」がゆっくりと氷解してくるのがわかった。

人間嫌いな自分が平の撮影したスナップショットの中の人物像を認めるようになるのである。

以上は木曜の午後の印象。

その後がふるっている。急に銀座1丁目の裏のもう30年来行っている蕎麦屋にて蕎麦と酒をやりたくなった。

ところが清水商会の角を曲がって、その先の左にあるはずの蕎麦屋がない。ついに空間認知失調になったかと思って、周囲を何度も徘徊したがない。

老舗の蕎麦屋がなくなるような怖い時代だ。

代案として、銀座裏の酒亭に飛び込むに、午後4時半にて客はあたし一人。

酢の物、酒二合。鳥豆腐。この鳥豆腐のつゆはそのまま「てんぬき」代用になる。

帰宅。

2008年6月27日 (金)

銀座ニコンサロンで開催中の平カズオさんの仕事

通常は写真展のオープニングに行く機会はない。それが先週金曜にたまたまアサヒカメラの連載記事の取材で銀座のフォトギャラリーを巡った。

銀座のニコンサロンで開催中の浜昇さんの1000ページある東京の写真集とそれに関連した1980年代の「地上げ真っ只中」の東京をメタフィジカルに撮影した写真の展示を見て、その3キロはありそうな写真集をさっそく注文した。これが先週の金曜のこと。

その分厚い本は今、手元にあって佃の明け暮れに、まるで革命史をひもとくような気分で眺め明かしているのである。

目下最新刊1000ページの本「チョートク 海を行く」が印刷中なので、厚い本には興味がある。

この秋にはあたしの日記をまとめたそれより分厚い本の出版計画もありすでに原稿は手を離れた。これは1500ページほどか。

そのような本との出合いとか、オリジナルプリントとの出会いというのは、これはオンラインではなかなかに遭遇不可能なもので、先週は「写真のつき」がいいな、と思っていた。

その予感のせいであったか、おととしの6月に亡くなった平カズオさんの写真展が25日から7月8日まで銀座ニコンサロンで開催されている。

http://www.nikon-image.com/jpn/activity/salon/exhibition/2008/06_ginza-2.htm

あたしと平さんとのお付き合いは濃くはないが、長い。

1970年代初頭からであるから、これは長い。平さんと奥様のまどかさんは1995年から長くベルギーのブリュッセルに住んだ。平さんは写真家にしてジャーナリストであることは言うまでもないが、まどかさんは欧州伝統の製本工芸のスペシャリストである。

ご夫妻と会ったのは、ドイツが多かった。90年代後半、ドイツはケルンのカメラ見本市 フォトキナで平さんとよく日本のカメラ雑誌のために取材をした。

そのはるか以前、1984年ころ、平さんが某カメラ雑誌のためにあたしをインタヴューしてくれたことがあった。これはロングインタビューであって、神保町の1947年創業の喫茶店キャンドルで行われたのである。

後年、キャンドルはその南のタワーマンションの1fに移動した。その「新」キャンドルで片岡義男さんと雑談中にあたしは、平さんと会話した旧キャンドルの話題を持ち出したのである。そうしたら片岡さんはそれに呼応して、植草甚一さんと会話した当時のキャンドルの話題を持ち出したのだった。

平さんのあたしへのインタビューはあたしがデビューする前の決意みたいなものを語っているので、今となっては貴重である。当時の平さんはあたしなどよりずっと活躍していて、木村伊兵衛さんと親交があったり(というより、可愛がられたり)さらに伊兵衛さんのお弟子さんだった佐々木昆さんの助手を(これは当時のオリンパスの広告にお二方が登場した)したりしていたようだ。

平さんとのコネクションはともかくとして、25日にニコンサロンの会場で自分が何に驚いたかと言うと「これが平カズオの仕事の真骨頂であったか!」という一事に驚いたのである。

ゆえにこれは平カズオ展であって、平カズオ遺作展ではない。ここが重要である。

今回の展示は10年前にベルギーの日本大使館で開催されたかなりの量のプリントである。最初にプリントを見たときの印象は「リプリントなのにすごい。いったいどこで誰がプリントしたのであろうか?」だった。それをまどかさんから10年前の平さん自身のプリントとお聞きして納得したのである。

ここには平さんの仕事がある。

同業者だからよくわかるのであるが、今回の大型のプリントはライカからの伸ばしであるが、一番、プリントが難しいサイズだ。

空気感のあるそのプリントはそれ自体が自立した存在であるのが発見だった。昨年の今頃、国立近代美術館でブレッソン展があって、そこであたしは基調講演を試みたのであるが、その膨大なプリントの中で、ブレッソン自身がプリントした30年代の一連の作品に何かを覚醒させられた思いがしたのを今でも、鮮明に記憶している。そのブレッソン自身のプリントの透明感と類似のものを感じた。

あれから1年、自分は眠っていたわけではない。自身で神田明神の脇のギャラリーバウハウスで個展もしたのであったが、もともと自分のプリントには覚醒させられる道理はない。

思えば、写真家の仕事とはその個人の生存の終点から作品が独自に歩き出す点にある。平カズオの仕事の本質が発見できたのは大収穫だった。

この展示がモノクロームなのは、彼がすごしたブリュッセルの光への反応であろう。自分の場合にはそれがウイーンであるが、ウイーンはモノクロ写真の世界であるとハースが指摘していたのも懐かしい。カラーの魔術師の異名を持つハースにしてウイーンはモノクロの街なのだから、平カズオをして、ブリュッセルをモノクロで撮影せしめたその精神の方向の「正しさ」は容易に同感できる。

平さんの仕事を羨むのは、実はあたしはその10年前にベルギーで仕事をしているのだが、それはベルギー政府観光局の仕事だった。ゆえに名所旧跡シメーの修道院のビール工場から、ワーテルローの古戦場から、クノッケンハイストのカジノ、フランダースの犬からアントワープのダイヤモンド、昭和天皇が訪問された動物園のオカピまで見ている。

アルデンヌ地方を訪ねて、国境の反対側とは言いながら、かのランボーの故郷の暗さ、湿っぽさはランボーを極東、中東、アフリカに行かせる十分な理由であったろうと納得もした。

それらはすべてカラーで撮影された「観光局のアサイメント」であるから、すべて捨ててしまった。生活者としての平さんの仕事はちゃんと存在して発言しているのだ。

これは銀座に足を運んだら見てもらいたい写真展ではない。遠回りしても見に行く価値のある写真展、すなわちミシュランの赤本☆☆☆クラスである。

2008年6月26日 (木)

東京再周遊 副都心線

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水曜日。
東京大周遊。
10日前、渋谷に行った。例の副都心線の初日であったが、物見高い家族ずれなどで、混雑してホームにも入れなかったので、今日、改めて行ったのである。

この場合、ヒルズから渋谷に出るのが常套であろうが、自分にはこのヒルズ渋谷は魔のバス路線である。10分で着いてしまうかと思うと、40分かかったりする。
ヒルズと渋谷の距離がその日の磁場の状況に応じてフレキシブルに延びたりちじんだりする。これは迷惑である。東京パリの飛行時間は12時間から13時間ということであって、安定しているから良いのである。それが1/4になったりはしない。
移動する時間が読めないのは一番困る。

それで、今日の東京大周遊はまず「六本木にゆかないこと」。
これが基本方針。
大江戸線にて、春日に行き、丸の内線で池袋。
そこから副都心線の南行便に乗る。乗るまでこれが都営とばかり思っていたのが、営団、じゃなかった、東京メトロなのであった。
池袋から各駅にて、雑司ヶ谷系結にてまず渋谷まで。、雑司ヶ谷は一体どこに出口があるのか、それが興味があるが、それは後日のお楽しみだ。

渋谷到着。しかし元祖渋谷嫌いの自分が駅から上に出てしまうと、どうしてもヒルズの引力圏でまずいので、そのまま池袋に引き返す。今度は急行なので、新宿三丁目の次ぎは池袋だから、マンハッタンの地下鉄なみのエクスプレスだ。
タイムススクエアの次は、125丁目みたいなものだ。駅をスキップするのである。

その勢いで小竹向原まで行って、調査するに、この副都心線はもともと埼玉方面からの通勤者のバイパスなのである。それを西武線と東上線のクロスポイントの小竹向原で整理して、銀座と渋谷に乗客を割り振るのである。
羊の大軍の移動を仕切るような場所だ。

ゆえに、日暮里からモノレールが荒川の向こうの荒野を目指すような「ランボー的なダイナミズム」はここにはない。
がっかりしてこの前、西安で悔い損なった「刀削面」がいきなり食いたくなって、有楽町線で飯田橋乗り換えで、茅場町で日比谷線乗り換えにて、秋葉原。
ぽん工房の近所に例の殺傷事件の献花台があるはずだが、そこには行かず。

ヨドバシカメラの8fの「西安」はスタッフが総入れ替えになっていた。派遣会社の関係か?
12時前というのに「西安」はすでに行列である。
他の店はがらがらである。意味不明である。西安ブームか?そのわりにはこの前のジャルはがらがらだったが。

辛い面を食って考えるに、本当の西安で毎日食っていた面に比較すると「味が頑張り過ぎて」いる。
おそらくこの濃い味では、西安で向こうの人が連日食べるには不向きである。

それから、下のフイルム売り場にて各種のフイルムを買う。フイルムをどっさり手に入れると「撮影の欲望沸騰」する。これがSDメモリではこうは興奮しない。なぜであろう?


フイルム売り場にポスターが貼ってある。ローライフイルムフォトコンテストの審査があるのを思いだした。審査員は田中長徳と書いてある。おれのことだ。ああそうか、と思いだした。昨年に続き、今回は第二回だ。
前回のレベルはなかなか良かった。自分がそのおかげで銀塩モノクロ方面の引力をもろに受けたのだ。


2008年6月25日 (水)

隅田川百本杭

R1150148 R1150152 R1150156 月曜の夕刻はどんよりした、モノトーンの風景だったが、東の遠い空は晴れているので、そこから到来する光が暗い雲の下に回り込んで、中央大橋だけが、くっきりと白く見えた。

角部屋でくつろいでいたら(ということはウイスキーソーダを手にして)警察のポリスボートが来た。向いのタワーの脇で川に落ちた人を救助しているのである。

タワーとタワーの間から、ちょうど東京水辺ラインの越中島の停船所のあたりで警察官が救助された人に心臓マッサージをしている。

そこに臨港消防署の赤い消防艇「はるみ」が到着して、オレンジ色の制服のレスキュー隊員がバトンタッチして心臓マッサージと人工呼吸をほどこした。その一部始終をKERNの8X30でワッチしたのである。

総勢、30名ほどの警察官、消防署の特別救助隊、それを臨港署の救助隊が救急隊のストレッチャーを中心にして、周囲にグリーンの布で「目隠し」をしつつ、しずしずと救急車の方に移動するのは、なにか厳粛な儀式、あるいは前衛劇のパフォーマンスである。

こと、人命にかかわっているのであるから、その慎重さは当然である。一人の人命を救助するのに30名というのは現代警察と現代消防のレスキューの進化の極みである。

上空を30分以上も東京消防庁の救難ヘリ(例の赤白だんだらに塗装してある、自分のヒルズのヘリ見物では立役者の)が頭上を旋回している。そのヘリの音というのは、音を聞いているだけで、なにか大事件発生という感じがする。

見ると、すでに救助された人は搬送されたのに、今度は相生橋の上にたくさんの見物人である。まだ他にも事故があったようだが、それはタワーの陰で見えない。そのうち午後6時になりいきなりの驟雨である。しかし土手の上の見物人は立ち去ろうとしなかった。

今朝になって、部屋で寝ていたら、午前6時40分ころ、窓の下の隅田川がかしましくなった。部屋からみると、ちょうど警察のボートが水に浮いている男性を収容するところであった。

江戸時代なら、大川端の百本杭の世話物に出そうな感覚であるが、現代の隅田川にはそのような情緒はない。

ワイシャツ姿の男性(まだ若そう)が、半分水の中でうつぶせになっている。警視庁の「かわせみ」上の警察官が2名で白い棒のようなもので、男性を引き寄せておいてその体の下に「プラスチックの笊」のようなものを差し込む。

そこに昨夜、活躍した水上署の「はるみ」が接近したが、この場合には心臓マッサージの必要はもうないようで、男性は水上警察のグレーのボートの船尾に乗せられたまま、隅田川のこっち側の岸に運ばれ、そこで救急隊員にバトンタッチされた。

30名ほどのスタッフが効果的に迅速に動く。警察官が上流と下流の遊歩道で素早くポリスラインを張る。

例の如く、グリーンのシートを周囲に張り巡らす。昨夕の「救助」はしずしずと進行したけど、今朝のは「収容」であるから、あっという間に男性は救急車に運びこまれた。

死は肉体の最大のイヴェントである。

だからその手前の状態では、30名の救助隊は命を必至にこっち側につなぎ留めようとする。

自分には収容されたワイシャツ姿のうつぶせの男性の姿が忘れられない。

2008年6月24日 (火)

東京の月曜

R1150136 R1150135 先週の月曜は岡山に行ったのである。

離陸直後、眼下に実に立派な富士山をみた。ただしほとんど富士山の上であったから、その対地速度は相当なもので、あっと言う間に富士山は背後に運び去られてしまった。これが16日のことであって、その前、6月1日にもこのときは成田から西安行きの飛行機で眼下に富士山を見ている。この飛行は前のブログにも書いたが、実に立派な富士であった。

この飛行ルートはかなり北なので、対地速度はゆっくりだから、落ち着いて観察することができた。ただし距離は遠いから、持参のR8で200ミリの望遠で撮影した。

それはそれでよいが、これを西安に着いてから、フォトショップで自動補正したら、なにかコントラストがつき過ぎて、木版画の夏の富士のようになってしまった。

その画像は8月号のデジタルカメラマガジンの連載「デジカメ風雲帖」に掲載。

画像補正も考えものである。

6月は都合、10泊11日も「非東京環境」にいたので、仕事が遅れてしまった。

ーーーーと、書きたいのであるが、インターネット環境にいるから、そういうことはない。西安であろうが岡山であろうが、パリであろうが、どこに居ようとお構いなしである。

業務連絡のメールには、わざわざ@西安とか、@岡山などとは書かない。仕事の相手はそんなメールがどこから発信されているかは、最初から問題にならないからだ。

しかし、思うに生活上で問題なのは、確実に「東京の待ち歩きの時間が減少」しているという事実である。昨年と一昨年のデジタル画像を調査するに、実に多種多様なところに出かけていることがわかった。

大体、都バスの最前列に乗って、始発から終点まで乗っている「偏屈」がこのあたしなのだ。

それが今年は確かにヒルズで仕事をしている時間が圧倒的に多い。生活改善の要あり。なにも退屈なパリリスボンプラハウイーンに行こうというのではなく、興味深深の南砂阿佐ヶ谷千住大崎広小路志村坂上京島あたりをフィルムカメラを持って徘徊したいというささやかな希望の意味である。

ここ、ヒルズの49Fは仕事には便利であるが、いったんここに入ってしまうと、タワーの4fのコンビニも6fの郵便局もそこに降りて行くのに、多大の精神的な意思の強さを奮起こす必要がある。

だから、出勤から退社までずーーーーーっとここに居て、帰りに「外気の自然な風」に吹かれてよい気分になる。

そう言えば、昨年から一昨年は週に2度は通った、大林行きも最近はとんとご無沙汰だし、1月に偽ライカ同盟員の坂崎さんといった、土浦酒井邸の暗室にも半年来行っていない。ダークルーム方面のするべきことも山である。

佃ヒルズ往復なので、せめて、街歩きの気分を味わおうと、岡山で紛失したシニア帽の代わりを手にした。9年前のアテネの気分を味わおうと思って、使い古しのライカM4オリーブも用意した。持ち歩きは、例の築地の市場かごである。

2008年6月23日 (月)

のぞみの中で書いたメモ

★以下は、西暦2008年6月19日の午前8時4分、岡山発ののぞみの中で書いた雑文。

一部重複するが。


JAL
が欠航にて、8時24分発ののぞみにて東京。

この区間を新幹線で走るのは実にひさしぶりだ。新神戸には阪神淡路大地震の前に降りて、足るゆかりのトアロードを歩行し、街角の三角形の角地にある飲み屋に飛び込んだ。先客が生きの良い「たいらぎ」をわざわざ焼かせているので、その食文化に感心した記憶あり。

今回の岡山でも感じたのは、普通の市民がおこぜを造りにしてその後、それを赤だしにして普通に食っている。大体、白身の刺身を普通に食べているのは食レベルの高い証拠である。

近海魚を食うのはみやびだなあ、と想った。

一方で、常にうまい魚を食べて、うまい酒を呑めるような地域でも、それが「日常になってしまう」とその価値が分らなくなってしまうから、ある意味で不幸である。

新幹線の東京行きの進行右側で新大阪を出てすぐにある赤い看板で「コリスガム」というのが前から気になっていた。

これは昭和30年代の「ハリスガム」のパクリであるように思える。

これはラジオ放送で、腹話術のハリス坊やというのが出てくる、子供向けのショーである。ほかにも、トニー谷の「アベック歌合戦」というのもあった。これは青年向け番組。これは桃谷順天堂がスポンサーだった。例の「算盤節」である。


うろ覚えで、そのハリスガムのCMソングを思い出すに

♪♪「ひとつハリスをかみました

ハリス良い味、夢の味

明日の元気を作る味

ちゅ、ちゅ、チューインガム、ハリスガム」♪♪

というのである。


昔のコマーシャルソングはいいねえ。


面白いのはそこでは「味」だけが問題になっている点だ。甘いものに飢えていた戦後の生活状況が良く出ている。少年時代に愛用した「風船ガム」は2個で5円だったか。

あれはピンク色で、変に甘い味だった。甘さに飢えていたのである。

甘いピンク系のガムから「解放」されたのは、ロッテのクールミントである。

案外に歴史は古く、小学校の時代にはもうあったような気がするが、南極の氷山の上にペンギンの並んでいるのには感心した。

まだ、夏などに一般家庭に冷房などない時代だから、その視覚的な効果「南極の夜にペンギン」は絶大だった。


内田百間ですら、日本郵船から近くの明治産業の中川さんを訪問して、キェラメルを数個もらってそれを味わいつつ、郵船の部屋に戻る時、「キャラメルは何年ぶりか、、、こんなにうまいものとは思わなかった」と感激しているほどである。

新幹線の窓から見える広告で気になるのは他には、727化粧品。これは今回も確認できた。1967年だかに羽田沖に墜落した飛行機である。クラシックだなあ。


五木寛之がこの飛行機のお尻の出入り口から登って行くのを、撮影した高梨豊の傑作は「ハイキー」で好きだった。画面はやや

右上がりになって、つまり水準がとれていないのである。それが当時の「街に戦場あり写真家」の共通な言語である。東松照明さんの「東松照明日録」でその「傾いた地平線」は最高期を迎える。


当時NOWというタイトルのファッション誌があって、高梨さんはそこの寄稿者だった。ページの原稿料が8000円と聞いて、その高額に驚いたことがある。


新幹線の車窓は、それから品川を出て左側に見える、「玉の肌石鹸」。

この広告はいい。

もうないであろう、撤去されたであろうと思いつつ、いまだに存在している不思議がここにある。

それらをライカM2モーターで連射したのだが、まだ画像は見せられない。フィルムは現像中であるのだ。

そのM2には亜米利加合衆国海軍所有と刻印がある。

しかもその刻印は「さかさま」なのである。

2008年6月22日 (日)

くだもの

R1150130
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くだもの
とは、子規のエッセイの中に出てくる(出典は、改造社の円本昭和3年)タイトルである。
鳥居峠で桑の実を喰ったとか、奈良は東大寺の宿で美女に御所柿をむいてもらっていると、東大寺の「初夜の鐘」がなるというような、実に雅びな話しだ。

最近ではそういう優雅な話しはない。
西安ではさくらんぼが街のどこでもうっている。一番、良く売っているのは、すいかであるが、これは独り者の旅行者には量が有り過ぎる。それでもカットしたのを喰ったらうまかった。
さくらんぼは、高いという先入観がある。西安の西羊大市でおばあさんから500グラム買って、どんなに高いことを言われるかと思っていたら、12元だった。邦貨170円相当だから、向こうの物価に慣れてしまう自分にしてみれば、実に高価な買い物である。
それをリュックの中に入れたまま忘れてしまい、東京に戻ってからそれを発見した。それで家人は「昔のさくらんぼの味がする」と感激していた。
これは植物検疫違反なので、いけないことである。

数年前、某書籍で、欧州からりんごを一個持ち帰って、それを家人が喰って、「昔のウイーンの味がする」と書いたら、それは問題だから止めてくれ、と編集サイドから言われたことがある。それでウイーンで喰ったりんごの味の話しを帰国して家人に話したら、家人はそれを懐かしんだ。という話しに書き換えた。

この日記に毎年、今頃、家人の教え子の千葉在集の人が「琵琶」を大量に送ってくれる。
岡山から「帰国」したら今年も届いていた。毎年、錦手の大きな鉢に入れて観賞するのだが、今年は、岡山のカフェギャラリーグロスから買ってきた、大きめの「かたくち」に琵琶を少量盛ったらそれが良い感じであった。
100個の琵琶を自分が喰うのは1個である。残りは家人が貪り喰う。それで腹をいたくしておる。
これは日本語で自業自得という。

2008年6月21日 (土)

日本郵船(株)主催講演会のお知らせ

お知らせです。

昨年から製作中だった氷川丸リニューアルをテーマにした「チョートク 海をゆく」は7月初旬に堂々、1000頁の写真エッセイ集として、刊行されることになりました。

カメラのダイナミズムと海のロマンと日本郵船のグローバルな活躍がクロスオーバーする、かつてない、
「カメラエッセイ航海日誌」です。

その刊行を記念して日本郵船主催の記念講演会が7月19日に、今回の本の舞台となった、氷川丸上で開催されます。

「氷川丸と海とカメラ」のお話。

「NYKコンテナ船ライラの冒険」。

是非、御参加ください。

詳しくは、以下の日本郵船歴史博物館のHPまで
あるいは「日本郵船歴史博物館」を検索!!

http://www.nyk.com/rekishi/
exhibitions/event/chotoku/index.htm

http://www.nyk.com/rekishi/
exhibitions/event/chotoku/index.htm

Title

KCチョートクカメラコラム

★銀塩クラシックカメラ

ライカM型に「沈胴レンズ」

沈胴レンズをペニスの勃起と似ていると大発見をしたのは、40年も昔のことである。まあ、通常使わないモノは格納しておくのが便利である。艦載機なども翼を折り畳んでそのスペースを稼ぐようになっている。小学校の時にアメリカ製の艦載機でスカイレーダーという飛行機のモデルを製作した。その仕上げは散々であったが、その飛行機の翼が上に降り曲がるのに感心した。小学生機械学に目覚めるの図であったわけである。
だから、ライカのレンズがそのまま凹んで、携帯しやすいサイズになることは、理想の小型カメラのスタイルであると思った。

似たようなのに、子規が記している、明治30年代の隅田川の川船がある。
これは資材の運搬用であって、「むしろ」とか布を帆掛けにしているのだが、隅田川はもともと橋が低い。それで帆柱の高さは極めて低くしてある。それが「滑稽ではあるが、その中になにか感じの良い所がある」と子規は看破している。

その隅田川の帆掛け船であるが、あたしもそのセレクションを担当している、岩波写真文庫の復刻版の「隅田川」を見ていたら、これは昭和20年代の後半の撮影であろうが、その帆の低い船がちゃんと写真になっているので、一興を喫した。明治以前から昭和20年代まで生き残っていたのである。

50ミリの沈胴レンズにはそのようなダイナミックな感じがある。枕胴レンズの使い手と言えば、ブレッソンである。かれはエルマーから使い出して、初期の沈胴ズミクロンをずっと使用している。もともと、ライカM3用の標準レンズは沈胴50ミリズミクロンであった。それをブレッソンは80年代のライカM6になっても使っている。ここには写真家の世界への視線の磐石な基盤がある。

この前、岡山のペンタハウズという店で、ズミタール50ミリの初期モデルを手に入れた。これをライカM2に付けたらかなりの先鋭デザインになったので感心した。

ライカM型には沈胴式レンズが似合う。

@@@@@@@@@@@@@@@@@

★デジタルカメラ

コンパクトデジカメの「沈胴レンズ」

愛用のデジカメはリコーのR8である。
これは七倍だかの高性能ズームレンズが着いてしかも沈胴にしておけばポケットに入る。なにもR8だけの特徴ではなく、世の中のすべてのコンパクトデジカメはこのシステムである。一般にこの凹むレンズを今では何と言っているのかは知らない。沈胴レンズは戦前のレンズ用語であるから、今ではもっと気の効いた言葉があるのであろう。

普段は何気なく使っている、そのR8であるが、こういう高倍率のズームの光学系はレンズが沢山あるから、それを何個かのレンズユニットに分けておいて、レンズが本体から出る時にそれぞれの部所から登場してレンズをその場で組み立てるのだとリコーの人から聞いたことがある。

要するに、それぞれのコンパクトデジカメの中にはレンズ工場というか、レンズサービスセンターがあるようなものであって、撮影の時にレンズを組み立てて「出荷」して、撮影が終了するとまた分解して「格納」しておくという実にサービス満点なことをしている。

大昔、まだICなど存在しない時代には「中に小人さんが入っているんだよ」などと冗談を言っていたのも懐かしい。大量の小人さんがサービス残業でコンパクトデジカメの中で仕事をしているわけだ。

コンパクトデジカメはそれで良いけど、フルサイズのデジタル一眼レフなどになると、当面の問題は「いかに常用のズームレンズを小型にするかであろう。
メーカーさんにも撮影者にも「パンケーキ愛好家」が居るようで、確実なお客が見込めるからすぐに「パンケーキレンズ」を出す「悪癖」があるが、自分はあれが嫌いだ。
意識してのパンケーキレンズが大嫌いなのである。だから一眼レフ用で認めるパンケーキレンズは、意識せずにそうなってしまったという、アルパ用アルフィノン38ミリがあるばかりだ。

常用のズームで小型というのは、これからのデジタル一番レフでは必須なものだ。明るさはそんなに望まない。この前の西安では、数年型落ちのタムロン28ー200を便利に使った。トータルでは6000ショットくらい撮影している。無論、黄砂の国だからレンズ交換などしなかった。
ニコンの14ー24ミリがD3の貸し出し機材に付いていたのだが、その豪華さと重さを尊敬して、これは佃に置いていったのだ。

帽子をなくす。爪が伸びる。

600x40120060611000202 東京の金曜。

岡山で帽子をなくした。日記で調査するに、火曜日の倉敷の蟲文庫訪問まではかぶっている。その後、斜向いのさくら蕎麦に入った。満員であったからカウンターに座った。すなわちちゅう房が丸見えである。

バルセロナでは、上客はキッチンにいれてくれて、ストーブの前で食事をとることができる。これはかなり金を使わないとできないことで、以前、広告の仕事でバルセロナにいって、その様子をキッチンで撮影したのである。
上客にしては名誉なことではあろうが場所はストーブ前である。ともかく暑い。

それと同様な暑いカウンターで「天抜き」で酒を2杯呑んだから、汗は三斗でた。その発汗の勢いにて帽子を忘れた。忘れた帽子はいつも同じyahooのセラーさんから買う。これが1000円である。またなくしそうなので、もう1個、画像のを買う。2100円也。

また注文した。これはブーニーハットであるが、この手の帽子はかつての越南戦争で解放戦線の若い兵士がかぶっていたのは良い感じだが、われわれが冠ると、なんとも爺くささが加速するものである。
ゆえにこの帽子を「シニア帽」と呼んでいる。

そのシニア帽の同じのを昨年の夏には人形町の眼科で忘れた。その前は4年ほど以前に新宿のホテルで忘れた。この時は片岡義男さんと会っていた。

その前は10年以上であって、パリのオペラの前の風の強い春に帽子をさらわれて、アベニューの先に吹き飛ばされた。

風が吹くと桶屋が儲かる
ではなく、
帽子屋がもうかる。

では、あまりに単純で悲しくなる。

良い猫の写真を撮影するには、その猫の性格を知るのが大事と、最新号のデジタルカメラマガジンに書いてあると家人が感心していた。それはそうでもあろうが、結果とその手段がさかさまである。
これからこういう恐い世の中になってゆくのだな。
目下、大流行の「脳科学」も自分にはきもちが悪い。脳を分析解析して、頭が良くなるはずもなし。

空港のセキュリテイチエックにて、爪きりは持ち込めない。

それで外国行きの際にはスーツケースに入れているわけであるが、この前の岡山行きでは、それが面倒なのでキャリーオンだけだから爪きりは持参しなかった。
ところが3泊4日だと、爪はじりじりと伸びてくる。

カメラを扱うと爪が荒れるのである。坂崎さんが話をしている時に、常に自分の爪を見ているのは、かっこいい芸術家であるが、我々、カメラ商売はもっと良く爪が割れる、というか角が欠けるのでる。その時に手を入れたいのだが、爪きりは600キロ離れた佃の引き出しの中である。

この場合、下のコンビニに行くのも面倒である。
どうするかと言えば、前歯で噛み切る。

爪きりが発明される以前、有史以来、わが人類は全員、前歯で爪を噛んで切っていたのであろう。

午前11時に、和光前でアサヒカメラ野本さんあって、8月号の連載分の銀座取材。銀座にはクリエイトにフィルム現像を出さなくなってから、何年も行っていないという感じがする。(実際にはあの写真部の福田和也一味とか、レモン社参りもあるので、これはその感じを言っているのだ)

なかなかの発見あり。

日本デザインセンター当時とあまり変わらないのは、銀座1丁目の「青写真屋」とその先のテアトル東京(と、書いも誰もわかるまい)の近辺のタイガー食堂くらいだ。

久しぶりにタイガー食堂の630円のランチ。38年前におにいちゃんとおねえちゃんが、やっている店であったが、それから時間が経過したので、おじいちゃん、おばあちゃんの店になった。その時間経過には何の不思議も隠されてはいない。

タイガー食堂は立派な銀座の「老舗」である。

Epsn0073 この画像はエプソンRーD1。レンズはカラースコパー21ミリ。 この前、西安でもこの組み合わせだった。西安でもちょっとこういう青写真屋はない。 青写真と言えば、小学校の帰りにかならず寄って「社会見学」をするお店でもあった。あれはアーク灯であろうか。その光りの質は、太陽光でも電燈光でもない魅力を感じていたわけだ。

2008年6月20日 (金)

岡山東京の木曜

岡山から東京にもどる。

JALの岡山羽田の11時5分発が欠航。どうもこの欠航便の機材は那覇鹿児島、鹿児島岡山、岡山羽田という経路のようだ。7ー8年前、この路線で機内に沖縄の新聞を発見したのを思いだした。
8時24分発の「のぞみ」で戻る。
東京には11時59分着。
都バスにて佃。

思うにこの新幹線代が22600円で、飛行機の特割1が15000円で7千円も列車の方が高いというのは、 日本の不思議な現象だ。
欧州だと、特急料金は非常に安い。だから列車も安い。航空機は「その上のクラスの人」の乗る乗り物だから、かなり高いのである。

戻りの新幹線の中から、ライカM2ーMにて路上の光景を連写する。1970年にトヨタの仕事で名古屋に通っていた当時、ニコンFにモータードライブをつけて、やはり窓からの光景を沢山撮影した記憶蘇る。

東京駅新幹線改札にて、アカデミーヒルズの米倉先生に遭遇。これから大阪という。講演会であろうか。
飛行機で羽田に着いて、ヒルズに廻るつもりであったが、新幹線で東京駅でバスで佃に戻ったので、今日はヒルズには行かず。

今回の岡山は連日、トラブルあり。
月曜=ギャラリーグロスの隣の「おとこうどん」の店が臨時休業。
火曜=倉敷の藤戸まんじゅう屋が定休日。
水曜=岡山の東湖園が休み。
木曜=JALの岡山東京便がストライキ。

いやはや、実に大したものである。
岡山の丸善。百合以下。じゃなくユリイカ。
やはり映画カメラは、戦前の箱型のやつでこのようにフイルム面を直接にルーペで覗くのが本筋だ。あたしの持っている、PALVOもそうだが、これはフイルムを裏側から覗くので、ハレーション防止の膜があるのは、光を透過しないのでだめ。

「銘機礼讃3」は「ATGETのパリ」の脇に「平積み」になっていた。これも有り難い。
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2008年6月19日 (木)

岡山の水曜

R1150111 駅前のグランヴィアで目が覚める。
完全空調なので佃のように窓をあけて新鮮な空気を入れることが出来ないのは問題だ。世界的な歌手で世界公演の時に、ホテルの窓の開く条件を第一にしている人が居る。
歌手ではなく、路地裏学会会員であるがやはり生の風が入ってこないと困る。この間の西安の69ドルのスイーツの方が上のクラスだ。
蠅もモスキートも双子の雀も部屋に入ってきた。ホテルはそうでなくてはならない。

岡山徘徊。

午前10時。岡山駅にて新幹線きっぷ売り場あたりを「流す」。東京までの運賃はググリーン車とクラスJとを比べても、特割り1なら断然、非行機の方が安い。不思議な時代だ。

市電の140円区間にて駅前から東山まで。

R1150082 そこから駅に向けて歩行。小堀遠州ゆかりの名園、東湖園を訪問したら、またもお休みであった。「行くと休み」に縁のある週だ。

R1150086 その近くの「なんとか屋敷」という交差点の横断歩道橋から見える、幅が2間ほどのコンクリ住宅の4階建てがなかなか良い。特にその4階の高度感は、ヒルズの51Fなどよりも高い感じがする。ああいう部屋に棲んでみたい。まあ、1月でいいが。

小橋と京橋の間の中州のあたりをうろうろする。カメラはライカM2−Mに済みタールである。撮影フィルム4本。

丸善にて自著の並び方を見る。銘機礼讃3はあまり売れ行きは良くないのだが、いい場所に平積みになっていた。ありがたい。

R1150103 岩波写真文庫の復刻版がしっかり展示されている。赤瀬川セレクションとあたしのセレクションがそれぞれにスペースをとって並んでいる。これも有り難し。

不思議なのは原平さんとあたしの顔写真が並んでいるのである。原平さんのは、どっかのウエブから拾ってきたと思われる、普通の「作家の顔」であるが、あたしのはどっかの飲み屋にて、ビールの大ジョッキを持ってヨッパラテいる構図である。何時、どこでそういう写真を撮影されたのか、とんと見当がつかない。

R1150113 丸善にて、中国のプロパガンダポスターをまとめた英独仏文のカタログのようなのを手に入れる。その本物のポスターを1982年の夏に広州に行った時、あたしは実物を何十枚も買っている。

その事実すらもう大過去になってしまうほどの中国の加速度ぶりだ。

R1150109 禁酒会館に入る。1fのカレー屋で1日10食限定のカレーを食うためだ。先客に独逸人が居るな、と思ったらなんのことはない、寿カメラの岸本社長であった。雑談。

夕刻は壱拾文銭銀水と空港の近辺にて、すっぽん鍋。京都のあれは何と言ったか、某有名店と比肩できるのではないか、というクラスのすっぽんさんであった。

勢いがついて、いのしし鍋も完食。
ホテルに戻ったら、明日のJALの羽田便が欠航という。まあ、パイロットさんもあたしも同じアルバイタークラスだから仕方なし。文句は言えない。

新幹線でゆっくり戻ろう。

2008年6月18日 (水)

岡山の倉敷の火曜

2_044 昨日、月曜は岡山のフォトギャラリーglossにて、岡山カメラ人類連と歓談。
酔って、ホテルグランヴィアにもどる。

真夏日。

今朝は、朝10時に開店早々に岡山のカメラ店「ペンタハウス」に乱入。
委託品にあった、ズミタール(つまり、ほとんどズミクロン)を「旅の記念」に買う。旅の記念とは大げさながら、西安ではそのような品物がなかったのでその反動。しかし旅の記念で買ったガラクタが3000件以上になり、その一部が岡山のチョートク固執堂に集積しているわけであるから、岡山の藤田のM2スタジオは環境汚染の中心であろう。旅の記念も積もり積もると山となる。「愚公山を移す」となる。注意が必要だ。

そのズミタール50ミリはカメラ店泣かせの39、3ミリという変なフィルター径なのだ。それようのワルツのフィルターが付いていた。これはレンズよりそのフィルターに価値あり。
今まで、ズミタールは本気で使ったことがないので、これは楽しみ。店主は「これは傷が沢山ついていて、曇ってますよ」と言うが、自分の乱視の視界では「クリスタルクリア」である。

壱拾文銭銀水のクラウンのロイヤルワゴン(ただし3萬円の値打ちもの)の方向を転じて、昨日、ブログに書き込みのあった、大手饅頭と人気を二分する、倉敷の藤戸まんじゅうのお店に行く。これは「三丁目の夕日」でもロケ地で撮影されたという。

2_024 なかなかのロケーションにて、感心したが、またも「定休日」。昨日の岡山のうどんやに続いて、ツーストライクである。

その脇にある、源平の合戦場であった「経塚」というのを見る。ワーテルローの古戦場の日本版である。那須与一が海峡を渡ったというその銅像が河に中央にあったが、観光案内を見たら、那須与一ではなく他の人であった。まあ、自分は歴史音痴だから、その名前はジンギスカンでもナポレオンでも差し支えなし。

倉敷市内に入る。

29歳の時、現代日本写真家展の時に、初めてここに来て同行の壱拾文銭銀水に記念写真をとってもらった。

29歳の私の持っていたライカはM2であって、スーパー暗愚論21ミリ。今とほとんど同じ。肩からスイス軍の瓦斯マスクのズックの袋をさげていた。

2_035 歴史的倉敷の町並みにある、蟲文庫に行く。http://homepage3.nifty.com/mushi-b/店主のお下げ髪の田中さんとは初対面だが、以前から通販で「蟲バック」(これはバッグではなくバックという感じ)を買っているので、初対面という感じはなし。HPでは、顕微鏡を覗くお下げ髪と、猫と亀がイラストでシルエットになっていたが、実物の店主は透明な感じのする美女。

2_042 お店は想像以上に大きく、間口は2間半はある。しかも店の背景は阿智神社の石垣である。これが実に渋い。一種の能舞台だ。

岡山の禁酒会館と似た舞台装置になっている。禁酒会館は背景はお城の石垣。蟲文庫は普通の石垣。そこにトップライトの6月の倉敷のお昼の白い陽射しが当たって、日陰の羊歯やら日向のすみれやらが風にゆれている。二階には12畳の「和室」もあるそうだ。そこでmixi友の某さんから、預かっているという「藤戸まんじゅう」を田中さんは冷蔵庫から出して渡してくれた。自分には昔から変なジンクスがあって、「行くお店が必ず定休日」というのである。

それで、買えなかった藤戸まんじゅうが入手でき、感激。

蟲文庫では例のトートバック(亀のマーク付き)を求める。1800円。やはり通販より、その本場で買うのが良い。

ついでに店番猫のミルさん(2階で寝ていたのを持参してもらう)と、これもスタッフの某亀さんにご挨拶。

その向かいのそば屋「さくら」に入る。天抜きがメニュにあるのは珍らしい。しかも安い(570円)それを肴に地酒を冷やで2杯。良い気持ちになる。もりを2枚。

安路、岡山に戻って、グランヴィアにてシエスタ。

夕刻から、寿カメラの主催にて「鯛の皮煎餅」の夕べ。

倉敷方面にR8を持し忘れたので、画像はなし。持参のライカはM2−Mであった。

★追記 画像はM2の戸倉元撮影。

2008年6月17日 (火)

岡山の月曜

R1150004 なにか、この前の「西安の月曜」と似たようなタイトルであるが、東京に7日滞在して、岡山という感じである。

東京から西にあれば、岡山も西安もパリも自分にはあまり違いはない。

朝9時5分発のJAL1683は、エアバスのA300だった。朝のラッシュにて前に10機ほどがつかえているので、テイクオフは10分遅れ。それで65分の飛行にて10時25分に岡山着。
実にオンタイムである。

5年ほど前に、トルコ航空でイスタンブールーウイーンで、パーサーが遅刻したので、55分出発が遅れたことがあった。まさに前代未聞だがまさかパーサーを乗せないで離陸することもできない。

今回の自分の岡山行きの「犯行の動機」は、無論、内田百鬼園の旧跡を訪問したり、ペンタハウスのミーちゃんの店に行ったり、ペンタックスSLを買って、そのカメラで「禁酒会館」を撮影するなど、山とすることがある。加えて、岡山名物の「鯛の皮せんべい」を賞味したりというのもあるのだが、その前に、犯行の最大の動機は、新システムである、タッチアンドゴーというのをやってみたかったのだ。これはJALのウエブチエックインをした後で、いきなり空港で入場できるのであるが、その時にセンサーにICカードをかざすとそのまま通行が出来るのだ。これはワオンカードというのである。プリペイド機能もあるらしく、これで買い物をして、端末にかざすと、「ワオン!」と犬が鳴くらしい。自分の好みとしては「ニャオン!」の方が好みであるが、その使い道はほとんどない。イオンとか言う名前のスーパーは都心三区にはないのである。だから使いたくても使えない。

羽田の5番ゲートで、これをセンサーにかざす時「ワオン!」というかと思ったが犬は黙ったままであった。機嫌が悪かったのか。

R1149997
そのワオンの為に飛行機に乗りたかったわけであって、思えば変ではあるが、そういう変なことをする大先輩には岡山の阿呆列車の先生がいるわけである。

タッチアンドゴーとは、我々の世界ではミュンへン製のプロ用三脚である、ザハトラが有名だ。このカメラのベースは、三脚の雲台に接触させると、パチンと留め金がかかってそのままゴーできるのである。すまわちクイックレリーズであるが、これがタッチアンドゴーの元祖である。

今日の岡山の航路上は穏やかであって、ほぼ快晴というのも珍しい。梅雨はどこに行ったのか。
今日もマウント富士が奇麗に見えた。この前の西安線よりも、富士に近い航路である。
クラスJというのに初めて乗った。これは不思議なクラスであって、Yより1000円高いだけなのに、疑似Cクラスが味わえる。だから、ビジネズマンさんで満員。1000円追加しただけで、「田中さま」とか名指しで言われるのは実に迷惑である。個人情報を漏洩されては困る。それでおせんべいとジュースなどもらって、それを食っていると、またシートベルトのサインが付く、まあ子供騙しだ。

空港で十文銭銀水氏が、フルストレッチの白いリンカーンのリムジンでピックアップする予定であったが、そういうクルマは嫌いなので、スタジオM2のロケクルマのハイエースに替えてもらう。R1150041
さっそく、今回の主要目的である、「男うどん」の店、これが知る人ぞ知る、カフェギャラリーグロスの隣にあるのだが、残念ながら16日は臨時休業だった。この界隈の文化は不思議で、休業のうどんやなのに、ちゃんとのれんが出ているのは紛らわしい。
なんでも、気まぐれで不定期に休むお店らしいが、こっちだってきまぐれに4年ぶりに来たりする客であるから文句は言えない。

その4年の歳月の変貌はかなりのものだった。ギャラリーの先にある肉屋の看板も好きなモチーフなのだけど、経時変化で「肉」の下側が剥落して「内」になっていた。かのランボーも敵わない現代詩だ。

すごい。

マスターがフライパンでコーヒー豆を煎るので、中国方面ではつとに有名な、ギャラリーグロスではたまたま来合わせた関係者2名がそれぞれにGRD2を持っていて

GRD2のニアミスがあった。これはリコーのF森さんに知らせてあげたい。岡山でも良く売れているようである。
他には、エプソンのRD1Sを今のうちに買っておいた方が良いのでしょうか。などという質問も受ける。
巡回カメラ買い方指南相談所の感あり。常連さんの一人はつい最近、蛍をデジカメで撮影したそうだ。一体、蛍の明かりのホワイトバランスはどうとったら良いのか、というかなり高度な話題になる。R1150034

ホテルに午後1時に入って、仕事。インタ−ネット環境があれば仕事になる、「お気楽家業」である。

2008年6月16日 (月)

α200にテッサー50

ニコンD3をニコンに返却して、また「安価なカメラ生活」が戻ってきた。

「チョートク 海を行く」の目下、青焼き待ちであるが、その中の目玉は福田和也さん、氷川丸船長金谷さんとの氷川丸対談である。これは氷川丸を軸とした日本近代史の講座をあたしが聞くという恰好になっている。
近代史は、高校の時に午後1時からの授業でたいてい寝ていたので、これは参考になった。

もう一本は、ヒルズの49Fに場所を移して、そこでカメラ対談をしたのである。これはじつに興奮した。銀塩カメラとデジタルカメラの過去と現在が火花を散らしている。

そのゲラを見て思ったのは、やはり普通の仕事には、入門機で十分であるという事実であった。エプソンにしてもα200にしても、コンパクトデジカメにしてもそうだが、シャープさの観点から見れば、これ以上の性能は要らない。
D3のような高級機は先鋭さよりもそのスピードが評価されるわけだ。

机上のがらくたの中から発掘したαーM42レンズアダプターで大昔のクラクチカに付いていた、テッサー50ミリF3、5をα200に付けたら、そのバランスが非常に良い。コンパクトなのである。
50ミリレンズでAPS−Cサイズであるからちょっと長めに視点なのであるが、なにか撮影して見ると映画のワンショットのように見えるのも面白い。

月曜(今日から)からちょっと岡山、倉敷方面に行くのである。岡山の十文銭銀水などは、あれを持ってこい、これを持ってこい(つまり、ライカM3の塗り直しオリーブとか)とうるさいので、こういう実用機でその「うらをかいてやる」予定である。

今回の岡山行きは、百間川の調査。大手まんじゅうの買い付け。ならびに岡山のチョートク固執堂の「査察」である。
里芋の葉っぱと、ECLAIR 16 NPRの作例はα200にテッサー50ミリF3、5


R1149967
Dsc02731

2008年6月15日 (日)

ライカ ノ ツキ

先週の今頃は、西安で細い月を眺めていた。
これは遣唐使の望郷の月である。

昨夜、仕事が遅くなって佃の路地裏を歩行していたら、それよりかなり太った月が出ていた。
あの西安の月とこの住吉さまの月とは「同一月」とは思えない。

それで頭に浮かんだのは以下のようなフレーズである。

ライカ エム ノ エム ハ ムーンシャイン ノ エム
ライカ エム ハ エム ツー ニ カギル
ライカ エム ツー エム ノ エム ハ ムーンロケット ノ エム

ライカM2ーMとは「月から月へ」の暗示であるとは発見であった。
大事な忘れものを、思いだしたのである。

それで金曜は超スピードで、「チョートク 海をゆく」の1000頁の校正を済ませて、午後の銀座に行った。
初夏の銀座は湿度が低くて、どっか北ドイツの小都市のショッピングモールのようである。

大事な忘れものとは他でもない。
すきやカメラに修理に出しておいたライカM2ーMのピックアップに行ったのだ。

このカメラの修理に関しては実に不思議であって、昨年の11月に他のカメラ店に修理に出したらそのまま年を越し、5か月も経過した時に「電気系統がダメなので修理できない」との連絡があった。
それで、その店からM2ーMをピックアップしてそのまま、すきやカメラに修理に入れたら10日もしないのに修理が完了のメールが来たのである。
修理代金3万7千余円。

その最初の店も自分は、二眼レフのコンタフレックスなどを良く修理に出したりしているのであって、そこと契約している数件の修理屋さんは優秀なのである。しかし修理屋さんにも得手不得手があって、機械式のカメラは得意だけど、ちょっと電気の入ったのは(ライカM2ーmなどは今の感覚からすれば純粋な機械式カメラに思えるが)弱いとか、そういうのはあるのでろう。
これは病院の選び方みたいなものなのか。

それで、すきやカメラに修理の上がったM2ーMを取に行こうと思ったが、なにしろ多忙でずっとヒルズで仕事のセルフかんずめになっていて、その直後に1週間も西安の城壁の上を巡回するという任務があったので、修理のあがった連絡をうけてから、1月も後にM2ーMをピックアップしたのである。

週末は渋谷で「ライカ愛好会」もあるので、西安で触発されたライカM2ーMを持参しようと思う。
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2008年6月14日 (土)

路地裏学会と窓拭き学会

R1149930_2 先週の西安では、まさに街のど真ん中に宿泊していたのだけど、そこは路地裏であるので一向に都心居住感覚はなかった。

それがよい感じであった。

ホテルの北側歩行1分の場所に鐘楼があって、その西に鼓楼がある。ともに一大観光名所である。東京タワーなど比較の対象にならないほどの歴史がある。

鐘楼はつまらないから行かないけど、鼓楼は下をくぐってその先には、羊屋街が広がっているので、羊の串焼きを食いに14世紀にできた巨大な楼閣を何度もくぐった。

こういう堅固な歴史的な建造物の下を通って、1本一元の羊の串焼きを食いに行くのは、文化というものの程度の高い証拠である。

そこに至るのには、メーンストリートを通っても行けるのだけど、それよりも路地裏を通って行った方がはるかに野趣がある。建物の前で日永一日歓談しているお年寄り(つまりご同輩ですね)とか、その前にずらりと並んだ鳥かごの中では小鳥がさえずっている。

その先には屋台が並んでいる。生活用品を並べた小店が場所を取り合っている。

そこを抜けるといきなり、高級ホテルの前に出て、そこから空港行きのバスが出ている。その前のアヴェニューが西大街であって、地下通路をくぐると羊市である。

羊市のメーンストリートはツーリストで大混乱なので、たいていは適当な角を西に曲がって、イスラムのモスク清真寺の裏手の路地を徘徊する。日本路地裏学会西安調査はこうして粛々と進められたのである。

西安と東京の佃を比較しようにも、これはツアイスと日本のカメラメーカーの歴史を比較するような具合で、時間スケールでは最初から相手にならない。佃の路地裏も時間ではかなわないので、ほかのチャームポイントの方に目が行く。

すなわち、野の花ならぬ、路地裏花壇である。この花は木造の工作所の住居部分にある入り口脇の花であって、こういう可憐ななおかつ、微妙な色彩を呈する。この色彩はかなり少女趣味だけど、自分のような高齢者も好きな色だ。確か、秋には青い実が成るのであった。

それをR8で適当な距離から撮影する。

R1149926 ヒルズ。

毎朝、地下鉄の改札に並んでいる私服の皆さんは今朝は一人も居らず。ほかの警備に配置換えになったか。ちなみに3名の私服の皆さんのうち、自分が顔を識別できるのはお二方である。プロフェッショナルな視線というのは、われわれとは異なり視線はスキャンするのである。つまり一点を見ているのではなく、目が走査されているのだ。これも長年の訓練なのであろう。

午前11時に東京キララ社の中村さん來。ゲラを渡す。この二日でかなり手を入れたのである。

R1149934 仕事をしていたら、窓の外、地上220メーターをスパイダーマンがゴンドラでゆるゆると上昇してゆく。この職場もなかなかかっこいい。

日本路地裏学会に対して、こちらさんは窓拭き学会だ。

2008年6月13日 (金)

コンパクトデジカメvsフルサイズデジタル一眼レフ

R1149598 コンパクトデジカメとフルサイズデジカメは別に不倶戴天の敵同士ではない。これが先週の西安の1週間でわかったことだ。

こんな簡単なことでも、実地に体験してみないとわからない。すなわち世の中のスペック信奉主義のカタログデータを「解析」しているようなデジカメおたくさまには、そこら辺は理解しがたいところがある。

両者の画質が同じであるというと、とんでもないやつと批判が出そうであるが、自分があいてにしている媒体、つまり雑誌とかこのブログとかならフルサイズのデジタル一眼レフでも、コンパクトデジカメでも「同じこと」なのである。

「いつかカメラマン」というのがいて、いつかの個展とか、いつかの写真展のためにフルサイズでしかもRAWでしか撮影しないという人がいる。これを政治宗教の自由と言ってしまえば、それまでだがそういう人にその「何時か」は本当に来るのであろうか。フルサイズのデジタル一眼レフで撮影して、使う画像は自分のブログだけというのは、実にこっけいなわけだ。

自分が考えるに、この対照的ね2機種の異なるのはその撮影速度が段違いに高速であるから、いざ!

という場合には、自分のような老化した視神経と運動神経を超えて、カメラが勝手に撮影してくれる。これはありがたい。その反面でフルサイズデジタル一眼レフの重さと大きさはあるが、それがいったんデジカメを自分の体重の一部に算入してしまえば、それほど困難の困難はないのである。

目下、最終の校正をしている「チョートク 海をゆく」では、その表紙はコンテナ船ライラの上で、リコーのT7で撮影したのであるが、そのときの心理状態は別に1000ページの写真集の表紙を撮影してやろうというような、気張った状況ではなかった。実際には非番の時に、ライラのブリッジで弥生の風に当たって、天気はよいし、富士山はきれいだしとのんびりしていて、何の気もなくポケットからコンパクトデジカメを取り出して撮影したのが、後で編集者の目にとまって、それが表紙を飾ったというだけの話だ。

この場合、フルサイズデジタル一眼レフをそこにもっていたら、やる気まんまんで、また別の表紙展開になっていたかも知れないし、案外にそうでもないかも知れない。

ひとつ、発見したことは、自分の場合、25年前にニューヨークの近代美術館で1年間、カメラのフォーマット論というのを研究していたのが今にして役にたったことだ。これは銀塩写真におけるネガフィルムの大きさとその表現の連関構造についての研究であって、そのための近代美術館の膨大な銀塩プリントをいやと言うほどに沢山見たわけである。

それぞれのフィルムサイズの表現には固有の個性があって。ライカサイズと6x6サイズと4x5サイズと8x10サイズでは、同じモチーフを撮影しても、そこに表出する表現はまったく別のものになる。その事実は石元泰博さんがもう40年も前に、どこかの印刷物で実験していて、これは同じ環境の下の人物のポートレートなのだけど、1枚はライカで、もう一枚は4x5カメラで撮影しているのだ。

普通の愚にもつかない写真教室の本なら、「ライカサイズよりも4x5の方がシャープですから、優れたカメラです」ですんでしまう。これは現今のデジカメおたくさんの「やっぱりAPSサイズのCCDよりもフルサイズ!といっているのと同じで退屈のきわみである。

石元さんのその2つの作例のコメントはここではわざと伏せておく。石元さんはシカゴの名門学校の出であるから、さすがそんなメカニズムライターさんみたいなことは言わないのである。

そのときの体験から、現今のデジカメのフォーマットの違いを検証するに、どうも銀塩写真のカメラではそのフィルムの大きさというのは表現の決定的な違いを決める要素になっていたのが、デジタルカメラの場合はそのCCDのサイズというのは、シャープさの決定要因とはちょっと異なったところにある、ということである。

2008年6月12日 (木)

身辺

R1149909_2 R1149907 西安で毎日使っていた、パワーブックの調子が悪くなった。ブートしないのである。これなら以前はパニックであったが、この数年は書類はオンラインにおいてあるから、問題はない。思えば、今あるパワーブックは佃にある2台、ヒルズにある2台でどれも5-10年落ちの「最新モデル」である。

それをだましだまし使っているのだ。もう買い替えかと思うのだけど、ヒルズには貸し出し用のdellがある。それを使ってこれを書いているが、winが登場した当時は、まったく使う気にもならず、ネクストステップ3の入ったネクスト(当時はブラックネクストと言った)で本を書いていた。

ヒルズに来るようになった5年前から、「仕方なく」窓屋のPCを使っているのだが、最近では人間ができてきたせいか(というより自分のようなテキストとブラウザーだけなら)窓屋のマシンでも困らない。というよりも自分の10年落ちのパワーブックより比較にならないほどの高速である。

そういう時代がこういう時代なのか?

つまりPCは個人に属する存在ではもはやなくて、パブリックな存在になったわけだ。これはまさに新時代なのであろう。

PCに物欲を感じなくなった新時代である。これがカメラに飛び火すると怖い。デジカメメーカーが一番恐れるのがこのパターンだ。これからはいかにして「物欲」をデジカメに付加するかが一大問題だ。

それの答えが「高性能化」ではないのは明らかであるから、ますます厄介である。

身辺雑事のその一。

寝室で長年使っていた、イサム野口風の紙の行灯のランプがきれた。深夜、ベッドでアルちゅーの乱暴の本を見ていて、その中に「写真機は1800フランはする」というくだりがあって、へえ、あの乱暴者がカメラをほしがったのか、と大発見だった。

時代は1880年当時だから、その機種はライカやニコンではないにせよ、大体が特定できる。

乱暴がキプロスの石切り場で監督をしていたときの給料は200フランで不平をもらしている。これが「派遣社員」の給与の20万と仮定するなら、1800フランのカメラはその9倍の180万というわけだ。かなりの高価な買い物だ。

そこのくだりを読んでいたら、枕元のランプがいつもの倍は明るいので、本が読みやすかった。キッチンに中国茶を作りにいって、寝室に戻ったら真の闇である。ランプは有終の美を飾ったわけだ。

寝室にはそれきりランプがないから、代替のハロゲンランプをグラフファイバーで光を導いて照らすほかのランプを用意するまでに混乱した。

その100v40wの豆電球はどこで売っているのか見当もつかない。この偽ノグチ行灯は銀座八丁庵時代のものだ。一度も玉は交換していなかったのだから、これはパワーブックのHDなみの長寿命だ。

今朝(水曜)は、目覚めたら午前10時前であった。

今日から、「チョートク 海をゆく」の校正の最終段階である。

あたふたと駅に急いだら、いつも気に入っている、段差のある石段が中央区のお情けによって、モダンに改修されている。以前の石を積み上げたのがよい風情であったのに残念だ。ただし、その囲いこみかたには、モダンアートがある。

(上の2点の画像)

数年前に京島の裏手の電気のランプの街灯が次々に蛍光灯になって行ったのと似ている。その墨田区は「スカイツリー」ができて「勝った勝った」の戦勝騒ぎの提灯行列か。

追記。1000ページの本のゲラを格闘中。

終わらないと帰れないという、どっかの塾みたいなものだ。まだ午後7時半だけど。

2008年6月11日 (水)

無意識の領域のちょっと手前

東京。

梅雨の晴れ間。

などと書いてみる。

先週の1週間の西安体験は実にデジタルカメラによる、無差別歩行のレンズの先にオートマチックに写しこまれた風景の群れという感じがして、それが面白い。

持参したコンパクトデジカメ、RFデジカメ、そしてデジタル一眼レフの三種類の生理的な機械体験はこれからゆっくり分析して行きたいのであるが、ひとつの発見は、世の中で言うところの高いデジカメというのは、なにも画質とかなにかが優秀というのではなく、街を摺過してゆくときのそのレスポンスが速いということなのだ。

つまり、高速なデジカメで撮影していると、歩行中の無意識の領域の限界点の近くまでが、視神経の守備範囲に入るという意味で、その代価としての「高級デジカメ」なのである。

一方で、カメラマンは大きい、重いという「代価」も支払わねばならないが、150グラムのデジカメでも2000グラムのデジカメでも、普段、それを手にしているときには、その重量感とか大きさは、自分の肉体に対立する物体という認識があるのだけど、ひとたび、これを手にして撮影の状態に入ってしまえば、その大きさとか重さは(確かに腕には抵抗はくるのだけど)あまり気にならないものである。

これも発見だった。

言い方を変えれば、過去30年の間に自分の体重は58キロから不幸にして20キロも増加してしまったのだけど、そのことはそのこととして自己の肉体化してしまっているのと似たような感覚なのである。

意識と無意識の国境上で撮影するのであるから、フルサイズのデジタル一眼レフなどでは、膨大に撮影をしてしまう。

撮影の現場の感覚は第一義的なもので、かなりあやふやな気分で、いえ、そのような気分の方が撮影体験としては充実しているのだけど、これが「高いデジカメ」になると、カメラがどんどん撮影カットを「勝手に」稼いでくれるので、その分、それらの膨大な画像の選別がまた一仕事になる。

安すさにつられて、32GBなどという大容量のカードを買ったので、その「つけ」をはらっているわけだ。

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2008年6月10日 (火)

佃ーヒルズ

Dsc_7437 月曜。
8日ぶりのヒルズである。
その前に銀行に寄ったりしたので、午前10時半頃の「重役出勤」だ。

さっそく、PCを二台前にして仕事。
思い出すに、外国から戻ったその翌日の都市感覚というのが実に面白い。外国に行くのはその国の体験ではなく、そこから戻って来た直後にこの東京の「へんてこ」なことに吃驚する楽しみがあるわけだ。
まず、月島の駅に行くまでに、一軒も「清真屋」の店を見ないのは実に当然のこととは言いながら自分には不思議なことである。思えば、自分の8日間の町歩きのエネルギーはもっぱら、清真屋さんの牛肉面とか、あれは何というのか、パンを細かくちぎってそれをスープで煮た食い物に負っていたことになる。
一粒も米は食わなかったし、高越機関にも乗らなかったと言うのは貴重な体験だ。

そう言えば、西安は目下、地下鉄の建設中である。

上のような都市のカオスになれてしまった後では、この東京のシンプルさがどうも刺激が足りないように感じる。
まあ、物事になれやすい自分であるから、明日にはすぐに東京人になってしまうのであるが、今朝のヒルズの49fでの最初の仕事は例の如く、室温の設定されている25.5度を2度下げることであった。
これが東京での初仕事。

午後は早退して、佃でライカインコと歓談。
今日は「ノーカメラデイ」というので、一切カメラは持参せず。

2008年6月 9日 (月)

KCチョートクカメラコラム

デジタルカメラコラム

★撮り過ぎるデジタルカメラ

西安の7泊8日の撮影行。持参のデジカメは総数4台でR7、R−D1s、D3、それにローライミニデジカメである。ミニデジカメはこれは実にプライベートなカメラということであるから、個人的アルバムというか「人間の集まっている場所での話題造り」のような存在であるからあまり数を撮るというわけではない。

R8とR−D1sは、これはスナップショットカメラであるが、R7は「一般記録用」というわけで、食堂のメニューから、食ったものから、バスの時刻表まで撮影するのである。つまり記憶できる視神経だ。
R−D1sには21ミリレンズをつけてもっぱら「本格的なスナップショット」に使用。それぞれに2GBのメモリが入っているのでまさに「撮り放題」であった。ただし途中からでっかいゴミが空に浮遊しているのを発見して、それで使用を中止。

しかし今回、それより怖かったのは、D3(今朝、ニコンに宅配便で返却)に入れて使った32GBのCFカードであった。これは通販で安かったので思いつきで買ったのである。132倍速というから、この手のものとしては「普及品」というとことらしいが、スタンダードの画質で12000枚も撮影できる。
往年の特殊カメラ、ライカ250だって250枚でそれが破天荒のことであったのだから、この撮影カット数は超絶的だ。

D3の連続撮影にものを言わせて、連日500枚以上撮影したので、その整理が大変である。というよりもエプソンのP5000の容量はもうわずかしかないから、これをHDに落とすのはあまり感心しない。結局32GBのまま保管しておくのが自分の場合、得策のようだ。
撮り過ぎるデジカメ。データが膨張し過ぎるデジカメの方向はこれからどんどん加速するのであろうか。この前、撮影に来た「プロのカメラマン」は、テラバイトのHDを三連にして画像をバックアップしているそうだが、恐ろしい時代になったものだ。

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銀塩クラシックカメラ

★撮らなさ過ぎるフィルムカメラ

ちょうど25年前、まだデジカメのなかった旧カメラ世界での海外撮影が懐かしい。一回に持参するフィルムは135が約300本。それがすべてではなく、他には120と220と、さらにさらに4x5まで持って行ったのだから、それなりのフィルムが必要になる。つまり機材とフィルムの量だけで「もはや一人では移動不可能」な状態だった。

それを現地で撮影して、ちゃんと写っているかどうかが心配なので、まず現地でテストフィルムを1本流して「ああ、ちゃんと写っていた!」などと安心したものである。この帰国して現像してみないと果たしてどう写っているか、分らないというのが当時の仕事の最大のストレスであって、これで当時のカメラマンはみんなビョーキになったものであった。
しかも空港でX線対策で、鉛の袋を持ったりしたのである。

そういう怖い時代はすでに過去になって、そういう危険負担はデジカメがやってくれるようになったから、現代のフィルムカメラの存在は実に気楽なもので、悠々自適にライカM3も、ニコンSPも、ローライフレックスもただただフィルムを装填して、撮影を遊んでいれば良い時代になったのは、予想も付かなかった「銀塩カメラ時代理想的生活」である。その理想はデジカメの社会奉仕の上に成り立っているのを忘れてはいけない。

それで、純粋に銀塩カメラと「たわむれる」為に西安行きでは、1台の戦前のツアイス製のテナックス2を持参した。フィルムはTマックスを7本。

帰国して一体何本撮影したのか、チエックしてみて驚いたのは、最初の1本を装填して、それでホテルの部屋の中を撮影し、窓から下の路地を撮影し、正方形の画面は面白いというので、バスルームの鏡で自分のセルフポートレートを撮影し、それで10枚くらいしか撮っていないのである。

テナックス2は24x24サイズの50枚撮りであるから、昔のフィルムカメラ全盛時代の感覚からすれば「怠けている」のであるが、一方で今の自分のフィルムの理想の消費量を考えると実は「あまり大量に撮影するとネガの置き場に困る」というのが本音なのである。ここ一番という場合にだけ銀塩で撮影して「カメラの操作の楽しみを知る」というのが一番だ。

西安>東京の日曜

Dsc_7617Dsc_7521Dsc_7516 日曜。

昨夜、午後10時半ころ、さらに細くなった新月を見ようと窓の外を見たら、西に沈む月の上に、ちょうどほうずきに火の入ったような浮遊物、巨大な提灯のようなのが、北西の空から天頂に都合、順次に10個ほど登ってゆくのを見た。

昨年の10月の終わりのプラハ滞在の最後の夜の「偽のお月様」以来だ。

持参のメオプタの10X30双眼鏡で観察するに
ほうずき提灯の中に実際に火がともっているようだ。それが熱気球の原理で上昇するらしい。ただし途中でその火が消えてしまいだんだんと高度が下がってくるのもあった。

こういう「光り物」は見たことがないので神秘的であった。午後11時過ぎには止んだようだ。

@@@@@@今回の西安での決算書@@@@@@@@@

失ったモノ。体重3500グラム。

得たモノ。デジタル画像約3500カット。

これで帳尻はあっているわけだ。

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JAL600便にて西安成田。シートは3A

午後3時5分初の予定がそれより早く出発できた。しかもテールウインドなので速いはやい。あっと言う間に山東半島。ここの烟台の赤ワインがなかなか飲めることを発見した。と、まもなくイエローシーで、すぐに朝鮮半島。持参のJEPPESENのフライトマップを見ると、この南北境界空域は不審機は一回だけ威嚇射撃。それに答えないとすぐに撃墜だそうである。

チーフパーサーの白石さん、アテンダントの石橋さんと歓談して、シャンペンやらコニャックやらやっているうちに、767は小松上空。長野、前橋と通過して定刻よりかなり早く成田。

リムジンの渋滞もなし。帰宅した家人からアキバ通り魔事件のことを聞く。この現場は思えば「ポン工房」の真ん前である。南北朝鮮の空域よりもアキバの方が怖い。

2008年6月 8日 (日)

西安の土曜日

Dsc_7252 Dsc_7259Dsc_7192 西安。
冷涼。
曇り。

昨日の城壁ツアーが面白かったので、今日は城市の右半分を歩行しようと思ったが、城壁上の通路の歩行は快適ながら街の暮らしが見えないという欠点がある。

昨日の城壁の歩行で四角になっている、2時の方向、つまり西安駅の部分の城壁が切りかけになっているのではないかと想像していたわけである。
数日前に西安駅の近くまで歩行した時に、なにか駅の手前に高速道路のような陸橋がかかっている視覚経験があり、それを確かめにいった。

あ、その前に名物というか観光スポットの「鐘楼」に27元払って登る。これは「くわせもの」である。ちょっと高めの「交通監視台」という感じで何の感動もない。

西安駅の城壁調査委とは、日本路地裏学会西安城市調査には充分は目的であるが、それだけではつまらないので、まず省政府の建物を見に行く。広場には五星紅旗の掲揚台があり、ミニ天安門というところか。その一番目立つところに、キヤノンの一大ネオンあり。ここは広告料が高そうだ。

政府の建物の裏手は実にさびれている感じの街区である。西五路まで行きそこから北新街を北上、突先の城壁の右手、西七路に八路軍西安辯事所記念館を探すが発見できず。かわりにその大きさが日本の和室6場分はありそうな、プラスチック容器を自転車で運んでいる「同志」に会う。さっそく撮影。自転車といえばライト兄弟の実家が自転車屋であったが、デートンのサイクル店は21世紀に自転車での物品の運搬がこれほど発達するとは想像外であったろう。

それで、西安駅前に立って、自分では切りかかれていると思いこんでいた、西安城壁はちゃんと存在して、ただし交通の便の良いように、その間口がかなり広げられていた。
それが一見すると「高速道路」のように見えたわけである。

600年前の記念的構築物と現代の交通をこのように「バーチカルセパレーション」するのは実に英知である。見直したぞ、中国4000年。
東京五輪で水系に高速道路でフタをしたのとはかなりクラスがことなる。
昨日は途中で城壁が切れていることを予想して中途で「勇気の撤退」をしたわけだが、あのまま「長征」を続けていれば、城壁一周ができたわけだ。

西安駅で青年がインコを小さいお散歩用のかごに入れているのを発見。それを撮影。
「いいかごですね。うちのライカインコのおみやに買いたいんですが、どこで売ってるんでしょう」と聞いたが、言葉が通じない。北京語の駅前留学が必要だ。もう手遅れか。

例によって、イスラム街を突っ切る。土曜だからこれがイスタンブールなら午前11時にいっせいにメッカの方向をむいて、路上で礼拝が開始されるから、期待していたのだが、何事も起こらず。もっとも西羊市街は週末の大混雑だから、ここで「五体投身」が開始されたら、さらに混乱に拍車をかける。

清真屋では「よーかん、よーかん!」と叫んでいる。羊の肝臓はこんなに大きいのかと感心する。虎屋の羊羹のもとである。

帰宅。

1週間いると、ここ、ホテルの1泊69ドルのスイーツが我が家になる。

午後8時半ころやってくるオート三輪。どっどっど、という2サイクルの音は少年の記憶だ。
それを心待ちにするようになる。そのオート三輪は共通してブルーに塗装されている。市内のあちこちえ見かける、農家からスイカを売りにきたオート三輪がこれである。
午後8時前には向かいの大きい樹で騒がしかった雀連が寝てしまう。
午後8時10分には路地向かいの四川料理屋のネオンに明かりがはいる。そこらに「川風味」などとあるので、日本人の感覚からすると、川魚料理、つまり柴又あたりを想像してしまったが、これは四川の「川」なのであった。

1970年代のウイーンではまだ四川料理などは誰も知らない。それを北京飯店で「四川風」とやったら、商事会社の日本人の駐在員さんに好評だった。ランチに「おれ、あのしかわ、あの辛いヤツ」と注文していたのも懐かしい。その「しかわレストラン」のネオンのその反射がホテルの部屋の白い高い天井を照らす。

2008年6月 7日 (土)

西安の金曜

木曜の晩に大雨。一気に冷涼。16度ほどか。

今朝、仕事をしていたら、部屋に雀の若い衆が2羽飛び込んできた。鳥類の部屋に飛んで入るのは吉兆だ。

日本から送られてくる、「チョートク海をゆく」のデザインをチエック。入稿前に大激戦がありそうだが、そういうことは梅雨のニッポンでやるとして、ここ、西安に居ると気分はシルクロードだ。
20年ほど前、神田の古書店でまとめ買いした改造社の円本の中に(今回、西安に持参した子規集もその中の一冊)これは紀行文集を集めた一冊で「成都道中記」というのがあった。
日本政府のそれなりの役人が、輿に乗って西安から成都まで、「いぶせき旅館」に旅寝を重ねる面白い日記である。日記、自叙伝は面白い。

佃のカメラジャングルの何処に保管されているか不明なので、日本の古本屋のサイトで検索したが、ヒットしなかった。佃に戻ったらあらためね捜索してみよう。

旅の楽しみは、持参の「地球の迷いかた」を旅寝のベッドの上で読むことだ。西安から西には実に膨大な観光スポットが広がっている。
それらに行きたいとはまったく思わないのである。自分は歴史ファンではないので、歴史上の重要スポットを見に行く人々のその熱意に吃驚するだけだ。
だから、ガイドブックがあらゆる情報を網羅していること、それ自体に脅威を感じる。

夕刻の晩酌で、ちょっとした発見は、ムスリム街で買った、羊の串焼きとホテルの下の「超市」で買った、大豆蛋白で出来た偽羊の串焼きの食い合わせである。これをちゃんぽんにやる。

本物は確かにうまいが(中国通の博報堂の増村さんが、羊が駄目なのが残念だ。家人も駄目。片岡義男さんはひつじ大好き)それを大豆蛋白で作った「偽手掻羊肉」はなかなかいける。中国製のロレックスみたいな存在である。

最初の味わいは本物の「しつじ」の方が上であるが、かみしめると大豆蛋白の方のが後味が良い。
四半世紀前、マンハッタンのチャイナタウンで、その手の「偽肉類」を真剣に味わったことがあった。もともとは禅寺の和尚が肉食を禁じられているので、大豆で製作した食い物なのだが、なにか本物を越えて本物の味わいの不思議な所を掴まえている。

複製のジョコンダが本物を越えているのと似たところがある。

Dsc_6868 日本の大豆ハンバーグなどは「メタボ役人」の貧困なるアイデアの限界を示しているが、禅寺の坊さんが肉を食いたいという食欲一心で工夫したバーチャルな肉にはなかなかの味わいがある。

金曜。

午前中は原稿書き。

12時に南門から城壁に登る。入場料40元。どうせ観光用だから門の左右の数百メーターだけが開放されているのであろうと思って、登ってみて驚いた。

視線の尽きる所まで延々と石畳が続いているのだ。日本の優しい街作りなどではない。専制国家でないとこういうダイナミックな構築物は作れない。ベルリンの壁などはまるで紙細工だ。結局歩行4時間。

南門から南西の城壁の角を曲がり、安定門から玉祥門を北上、昨日来た、ラーマ寺の応仁寺角が城壁の北西角である。そこから下に降りられれば昨日来た、猛虎麺店に行けて便利なのに降りることはかなわない。ここらが昔のベルリンの壁めいていてチャームポイントだ。すぐそこに目的地が見えるのに到達できないという、ベルリンの壁気分をじっくり味わう。

そこからさらに東向きに歩行。北門の先まで歩く。途中で何度も雨に遭う。

そこで、城壁の全部の半分以上を歩行したことになる。そこで考えたのはそのまま時計廻りに行けば、一周になるのだが、あぶないあぶない、その先に西安駅とバスターミナルがあって、そこだけ城壁は切りかかれて繫がっていないのだ。

そこから降りられるのなら良いが、そこここに出入り口はあるけど全部封鎖されている。そこから反時計回りに最初の南門に戻るとなると、チベットに潜行した河口彗海もかくやというような「遠回り」(あまりに変な比喩だが)になってしまう。

それでまた元の地点に戻る。万歩計は持参せず。推定で20キロは越えたな。

実に良い運動だ。テラコッタアーミーを見ない日本人はあたしだけだが(日本路地裏学会会長桃木も、昨年は西安まで来ながらテラコッタアーミーだけ見て退敗している)西安城壁をまるまる一周分歩いたのも、自分だけかも知れない。

ここを二周するとかなりのマラソンコースなる。西安国際マラソンはいかがであろうか。

2008年6月 6日 (金)

西安の木曜

昨夜も涼しい風が吹き込んで快眠。
日没は7時52分というから、欧州なみだ。その永い日没を楽しむ。

持参した子規の「病床六尺」の第七十九(明治35年7月30日)に
夏の長き日を愛すといへる唐のみかどの悟りがほなりにひきかえ我はかび生ふる寝床の上にひねもす夜もすがら同じ天井を見て横たはることのつらさよ。
とある。
そのからのみかどの街に居るわけである。
この国際都市感覚は、極東の日本などではなかなか真似が出来ない。
ケバブ売りはファッションをして、東京の繁華街にはあるであろうが、街の西半分がムスリム街というのは、駄目であろう。

清真大寺は西安最大のイスラム寺院であるが、その建物は中国のお寺を変わらないのが、面白くない。むしろその西の方向にある、清真西寺がいい。これは鍵型小路の狭い奥に、モスクが見え隠れしてそこに新月のシンボルが掲げられている。
建物は、内容よりも、その様式が重要だ。
とは言え、日本のそこらここらに点在する、イタリア剽窃の商業建築(そのもっとも醜悪なのは、田園調布の駅間の一連の建物)の一群を言うのではない。あれはラスベガスのシーザーズパレスの真似である。

これから、城内散策+撮影。
無論、地図は持たず。城壁まで到着したら引き返せば良い。
ここに来るまではベルリンの壁と兄弟のようなのが、西安城壁であると勘違いしていた。とんでもない話である。
ベルリンの壁とはその高さ、頑丈さは比較にならない。

1970年代のまだ東ドイツだったころ、東ベルリンブランデンブルク門を見下ろ広場に友人いて、よく遊びに行った。彼は東ベルリンで当時250名しか居ない、建物の爆破専門家である。
「自分の技をもってすれば、ベルリンの壁などすぐに吹き飛ばせる」と豪語していた。
しかしその彼でも、西安の城壁は難問であろう。

Dsc_6187 Dsc_6188 午前10時半から午後2時まで撮影。

鐘楼の角、場所から言えば、中央通りと晴海通りの角、和光に相当する場所に豪華カメラ店あり。その店先のD3の広告でわかったのだ。

鐘楼とD3とが並ぶとは想像の他であった。さっそく店員さんとD3を通じた「国際交流」となる。店員さんに撮ってもらった、あたしの記念写真は西安の思い出になるであろう。

ただし、グリップにボタンが3個ついているので、シャッターがどれだけわからず、あたしは一番奥のを押せ!と叫んでいるのである。それがこの間抜け顔。

北大路を北進して北門まで行き、左折して城壁の内側をずーーーーーーっと歩いて、北西角のラマ寺院まで行く。その2キロほどの道で一人の人間にも出合わなかった。ここは人間の歩く場所ではないらしい。

西安市内のタクラマカン砂漠か。

ラマ寺に詣でて、月曜にも行った面屋(これは城内の最北西の面屋)にてヨウポーメンを食う。それから西羊市街から北院門街を経て、一分利小吃城にて、カオヤンロウ(羊の串焼き)を10本。@1元とはちょっと高いが、これはツーリスト価格か。

持ち帰って、麦酒のつまみする。

歩数計を持っていないので歩数は不明。

2008年6月 5日 (木)

西安の水曜

Dsc_6140 今日も快晴。
気温は38度ほどになるらしい。
まだ、朝の時だが、5fの北向きの部屋の窓をいっぱいに開けると、乾燥した涼風が部屋に入ってくる。
はなはだ可なり。

朝は10時半に出かけて、午後2時すぎに戻ってくる。
それからシャワー、洗濯。
原稿書き。
夕刻の6時に麦酒を飲み始めて、それから午後9時ころまで、だんだん暮れて行く空を見て、時間経過とその色彩の変化を楽しむ。
想えば、プラハのアトリエでしていることと同じである。

このホテルの一泊69ドルのスイートは、町のどまんなかの鐘楼から1分の距離だが、路地裏なのでそれが見えないのが取り柄だ。
向かいには黄河台地のほこりを被った、アパートの窓が見える。このほこりを被った住居というその色彩のグレートーンは、デリーでも、アテネでも共通の街並みの色彩のキーとなる色相で実に趣がある。

アテネでは毎朝9時にホテルパルテノンの名ばかりのペントハウスから観察すると、向かいのアパートのおばあさんが、インコの籠をベランダに出すのを見て時間を知った。
その街の生活を肌で感じるのが旅行者には格好の娯楽である。だから、小路から出た所に櫛比する一大ショッピングセンターは自分には用はない。

ここ、西安では午前10時になると、向かいのアパートの主婦が洗濯物を干しに出てくる。それを合図に自分はデジカメのカードとバッテリーを確かめて、靴をはき、帽子をかむり、サングラスをかけて下に降りて行く。

向かいのアパートに「おきゃんちゃん」(小型犬)が居て四六時中鳴いている。そのきゃんきゃんの連続鳴きが特技のようで、勘定したら50回の連続鳴きを達成していた。これはオリンピック記録か。

他に聞こえるのは、下を自転車で流して行く、物売りとくずやおはらいの声、である。
街のど真ん中の「鐘楼」の鐘の音は街の雑音にかき消されて良く聞こえない。その音色が「仏教めいた低音」であるせいだ。これは欧州のカテドラルの鐘の高音でなければならぬ。

西安城内の地図を漫然と見ていて、何か分からないが無意識の領域で発見があったと想っていたのが、それが何なのか、さっき判明した。
この城壁は東西が約6キロ、南北が約4キロ。

つまり3対2の比率である。つまり34x36のライカサイズの横位置画面にほぼ等しいのだ。
これは大発見であると、自負している。

朝は冷涼であった市街は昼間になると、熱風が吹き抜けるが、日陰は涼しい。
だから通行人アカシアの大樹の下を選んで通行する。歩道アカシアのない場所では、中央分離帯の樹木の下を歩行する。自分も知らずにその行動パターンをとっている。

午前10時半にホテルを出る。カメラはD3。

城内の様子は分かったので、イスラム通りを撮影。D3は重いし大きいが「見てその瞬間に撮影できる」のが良い。

撮影カット数は500ほど。カメラのレスポンスが速いので、フィルムカメラのような撮影になる。つまり1枚撮影してステップバックしてすぐに次ぎのカットを撮る。

イスラム街から北西の角のラマ寺院に行くので、酒金橋(いい、名前だねえ)でスナップしていて、アングルを変えようして、右に一歩踏み出したらそこは凸凹道だから、変なコンクリの段差があった。これは路面のでっぱりなのである。秦の始皇帝時代のものかも知れない。

あの写真部の福田和也さんは横浜のバーでアングルを変えようとして、そこに椅子がなかったので、脇の教え子に助けられたが、こっちは単独撮影なのでそのまま横転。4000年前につまずいたと理解してもよい。

倒れる瞬間は、いきなり地球が迫ってくる、この快感は、6年前にエプソンRD1の写真集で、羅馬はサンタンジエロ城を撮影中にやはりステップを踏んだら、そこには敷石がなくて、同じ目にあったことあり。

これが身体的快感なのは、それが一種の自由落下の速度に近いせいであろう。幸い、左の膝にあざの出来たくらいであった。

D3は倒れた1メーター脇に転がっている。一種のクラッシュカメラテストであるが、何ともなかった。これが銀塩のライカM3だったら、大変な損傷であろう。

そう言えば、300頁以上あるD3の説明書にも「ショックに強い」とあったのを思いだした。

それからは地面の凹凸に気をつけて歩行。レスポンスの良いデジカメは、逆に周囲に注意をしなくなるので、要注意だ。

北東の城壁から南下して南の城壁の朱雀門まで行き、近所で露天の焼きそばを買い、ホテルに戻る。量が多いのでそれがランチで、のこりはデイナーである。

自分の歳になると、どこそこの名物料理というのはかえって迷惑である。若い当時にミシュランの星付きレストランの梯子を10日やって(これは仏蘭西政府観光局のプレスツアー)もうそういう方面は卒業だ。

上の画像はD3、レンズはタムロン28−200(6ー7年前のかなりの型遅れのやつ)

2008年6月 4日 (水)

西安の火曜

西安の火曜日。快晴。気温36度。

朝、家人からのメールにて、柳沢信さんの訃報に接する。

  写真家

       
            2008年6月3日 02:06             カテゴリー:社会  > おくやみ        
       

 柳沢 信氏(やなぎさわ・しん=写真家、本名やなぎさわ・まこと)2日午後4時、こう頭がんのため神奈川県鎌倉市の病院で死去、71歳。東京都出身。葬儀・告別式は5日午前11時から神奈川県逗子市新宿1の5の5の自宅で。喪主は妻義子(よしこ)さん。


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柳沢さんには、古い話だが、1976年の欧州での「現代日本写真家展」に出品していただいた。すでに32年前のことになる。神奈川県の山と谷の多い、奥まった場所のご自宅にお伺いした。帰りにちゃんと帰宅できるのであろうかと心配になった。
その時に訪問したのは、写真家の中川政昭さんと、デイレクターのオーストリアのブライヒャア博士だった。このお二人もすでに故人である。

カメラ毎日でのシリーズ「二つの町の対話」はモノクロームの知的な視点の作品だった。
雑誌の見開きを使って、右と左にそれぞれ、異なる都会の光景を一点ずつ掲載したのである。
それは実に斬新だった。
これには背景に山岸章二さんの方向つけもあったのであろう。

カメラ関係では、柳沢さんは当時、ニッコール21ミリf4のSマウントにアダプターで、それをライカM2に装着するというスタイルだった。
当時は21ミリのスーパーアングロンを持っていたのは、石元さんと高梨さんくらいであったから、こういう処置がとられたのである。
今なら、大した豪華版というわけだ。

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Epsn0542
日本路地裏学会西安調査委。
城壁の南から、その南東の角まで行き、解放路を今度は北に向かう。バスターミナルから方向を転じて北大街を横断して、イスラム街にて「牛肉面」5元。
まったく金がかからないわけだが、そういう安い店に「野趣」がある。
一昨年のデリーの菩提樹の樹下の野点カレーほどではない。自分の店には天井がある。でもそれでは「野趣」がないので、わざと路上のテーブルで食べた。

15000歩。11キロ。カメラはR-D1sにコシナの21ミリf4(例の軽いやつ)。撮影カットは約500。

2008年6月 3日 (火)

西安の月曜

西安城内。

気温33度。快晴。
夕刻から雲出るが、遅くなりまた晴れる。

午前10時半にホテルを出て、ひたすら、北西を目指す。

徒歩4時間。

回教地区の狭い小路を何度も折り曲がる。日本路地裏学会、西安城内路地調査。

回教は酒はだめなはずであるが、イスタンブールでうまいピルゼンを吞んで、西安でまたうまいチンタオ麦酒が飲めるのはありがたい。その真ん中の「濃いところ」には踏み込む勇気はない。
東京では一切麦酒は飲まない。
こっちで思考するに、あれは健康のためというよりも日本の麦酒がまずいという理由であったことを思い出す。

R1149685 城壁の西の角のラマ教寺院に入る。
無人。
快晴。
赤い花が微風に揺れて、まるでアンダルシアの真夏。
千手観音はこんなに未来的なスーパースターとは知らなかった。

その角の麺店で麺を食べる。周囲は労働者ばかり。連帯の感覚を持つ。自分などは古参の写真機労働者(しかも労組なしの)なのである。

そこからひたすら歩行して、また鐘楼のホテルに戻る。

カメラはR8で、400ショット。
明日はD3か、R-D1sを持参しよう。
一昨年のデリーでは、毎日カメラを持ち替えていた。
その持ち替えで、カメラの身体性と視神経の反応がよく理解できた。

日替わり定食ならぬ、日替わりカメラ。

2008年6月 2日 (月)

NRT-XYI JAL609

月曜。
ホテルは南大街の鐘楼のそばの三つ星であるが、スイーツである。理由はSINO-HOTELでチエックしていたら、このホテルが安そうだったので決めようとしたら、宿泊者のレビューでシングルは狭いから止めた方が良いという記事が載っていた。
それでスイーツにした。ただし69ドルの値段であるから「西側帝国主義」の価値観でそのつもりで、ひどい場所であろうと思ったら、確かに路地裏で、向かいは安い飯屋が櫛比している場所だが、天井が高い。
ウイーンのぼろアパートは何の取り柄もなかったが、天井の高さが売りであった。実に久しぶりに天井の高さを満喫。
もっとも、ヒルズの49Fは2f分のぶち抜きだから、天井は高いけど、仕事場で天井の高いのよりも、寝る所で天井の高い方が良い。
1973年に初めて宿泊したモスクワのメトロポールなどはあまりに天井が高いので、空と間違えるほどであった。
2週間前の三十三間堂で「天井」を「てんい」と読んだ修学旅行生は元気だろうか。

TCATから佃のタワーを出がけに見て、デジカメで一枚撮影するのは常のことだけど、無意識にR8で望遠にして撮影したこの一枚があって、西安への飛行中のJALの機内誌はその日から6月であるから、新しくなって、そこの三井の広告に「三井に住んでいます」とあって、1頁ものだけど、これと同様なショットがあった。
ただし、自分がそこを馴染みにしているから言うわけでもないが、カメラアングルの選択は自分の方が上のようである。飛行機に乗る方は、6月号のJALの機内誌をご覧あれ。

R1149345 その機内誌の三井の広告で嬉しかったのは、自分の住むタワーの我が家の窓の明かりが写っていたことだ。これは夕暮れの撮影なのである。明りというのは暗いものでも、夕暮れになるとその威力を発揮する。角部屋の天井に据えてある明かりは、無印良品の安物であるが、カメラの眼でちゃんと識別できる。

JAL903の座席は3A。進行左側だ。これは一種の賭けのようなもので、離陸直後に大東京を鳥瞰できるかどうかの賭けなのだ。飛行コースによって、窓の右か左かを判断するわけだが、掛け率1/2というのは案外に難しい。
今回は佃の真上のや北側を離陸後13分に通過。最初はR8を200ミリ相当にして、今出てきたばかりのタワーを写して、それから余裕で28ミリ相当にズームバックして大東京の全景を撮影。
R1149388 中央の川の上の陸地が佃と月島。その下の緑地は皇居。画面の右下には六本木ヒルズのタワーが光ってみえる。

駿河湾の北にキリマンジャロが見えてきた。
黒い土台と雪のコントラストが本当にそういう風に見えたのだ。

それから天橋立を飛び越えて、朝鮮半島をぶった切り、イエローシーから、中国大陸。
飛行時間4時間48分。
ほぼ定刻。
乗客はCYともで、30名ほどか。
ちょっとかわいそうな不採算路線だ。
博報堂の松村さんは乗り物研究家である。この便は西安で2時間停止してトンボ帰りである。
だから機長がデッドヘッドで搭乗しているので、それを見極めてこいという宿題であった。
Cクラスのお客を探査したが、該当者なし。アテンダントさんは5名が制服のままで仮眠をCクラスでとっている。欧州行きのデッドヘッドさんなら私服であるから見分けにくい(とは言えすぐに判別できるが)けど、東京西安便は時間がないから着替えをする時間もないのであろう。
そのまま、帰りの勤務はちょっとつらそうだ。

それでモノ好きにも、デッドヘッドの機長を捜索にYクラスにまで散歩に行った。Yの乗客は20名ほどで一番奥のキャビンは1名のみ。そこで座席を横に使って寝ている男性がいた。
あれが機長のデッドヘッド氏かと思ったがまさかね。

恐らく、操縦席に居るのであろうか。ただしオブザベーションシートは狭いから疲れる。
トランスコンチネンタルの路線だと見えないところに仮眠室があるものだが、案外にそういう部屋があるのかも知れない。機材は767。

R1149486 大きく、旋回して西安長安空港に。その直前に搭乗機の影に追いつく。
着陸とは自分の操縦する機体の影に追いつくことだ。
とは、サンテクスの言い分だ。然り。

ブロニカデラックス

R1149340 この前にも記したが、年に二回の電気関係のサービスで、メカニックが来るので、佃のカメラ倉庫に「獣道」を作った。その時、カメラ棚の奥にブロニカD用のセットケースを発見して、内容を確認したら、ブロニカDとマガジンが5個ほど入っていた。
ブロニカDは1957年だから、ニコンSPと同時代に登場したカメラであるが、あの当時の国産カメラは実に本気で製作していたことが分かる。
もっとも、その価格は10万円はしたからそういう大金に見合うだけの精度が出ていたのだと考えることも出来る。
ブロニカDは都合3台あって、レンズはニッコールが40ミリから600ミリまである。
1200ミリのニッコールはマウントがS用なのでDには付かない。

このDシリーズをあつめたのは、10年ほど前だ。当時、EBAYで買いまくったものである。そのステンレスの造りの良さはスエーデンのハッセルの及ぶところではない。

その中の1台はシャッターが1/30以下で「ひっかかる」のであるが、他の2台はちゃんと作動するのが凄い。もっとも大昔に早田カメラ名人の所で修理を頼んで、これはもう持ってこないでよ、、、と言われたような記憶がある。ようするに面倒なカメラなのだ。

ブロニカDにニッコールのクラシックな250ミリとか350ミリを装着したスタイルは、以前から好きであって「チョートクの僕のレンズたち」(ワールドフォトプレス)に掲載したこともある。

EN-TAXIの取材で先週木曜には田村東京カメラクラブ会長を「正客」に迎えて、四谷のアローカメラから、六本木のヒルズまで「死の行軍」を挙行したわけである。
その時、田村代表の持参したのが、世界最初のセミ版カメラ、ローランドであった。
その田村さんの言うには「光線漏れがするので布で包んでる」とのことだが、その布とは、普通のシリコンクロスなのである。
これは論理的な矛盾であるが、だいたいクラシックカメラは信仰であるのだからそれはそれで良い。
自分のブロニカDもマガジンとの間に光線もれがある。
まず、イタリア車のオイルもれと同じで、クラシックカメラは「明るい暗箱」でなければ使う気にならないのは事実だ。

2008年6月 1日 (日)

NRTサテライト3Fさくらラウンジ

日曜日。
午前5時に起きて、午前6時に佃を出る。
tcatからリムジン。
葛西で工事中のため、やや渋滞あり。
7時15分に第二ターミナル。

この前、ここに来たのは昨年の10月かと思っていたら、昨年の10月はセントレアからパリに行ったのであって、その前のNRTはなんと、昨年の8月だった。
ほぼ1年ぶりである。
それほど日本で頑張っているわけなり。

R1149359 ターミナルに日本郵船の「二引」の広告を見る。コンテナ船ライラで見慣れたマークなので、親しみを感じる。

サテライトのさくらラウンジは、最近、改装された筈だが、仕事の出来るデスクは2つしかない。一番目の客としてそれを確保。
どうも変である。
ラウンジ中、捜索したのだが正に2つしかデスクはなかった。
ここのバーにはテイバックの「お持ち帰りはご遠慮ください」の表示はなかった。

R1149360 サテライトにて「チョートク 海を行く」の最後の章「あたしの郵船お宝グッズ」を書く。
昔の物書きだと、サテライトでぎりぎりに仕事してそこからファックスで原稿を流すようなのが「かっこよかった」ようであるが、ブロードバンドでどこからでもアクセスできるようになると、締め切りがルーズになる。

自分は携帯は持たないので、携帯を使っている子どもの「ああ、あたし、今、ついたとこ。ちょっと遅れるけど」の用法を馬鹿にしていたのだが、同じことをブロードバンドでやっているわけなり。
9時25分の搭乗までにどうも間に合わない可能性あり。
「チョートク 海をゆく」の最終稿の原稿は西安のホテルまで引き伸ばし。「江戸の仇を長安で討つ」わけである。

R1149361 それで「仕事さぼって」こんな真似をしている。これは「あの写真部方式」(福田和也とその一味の)である。

飲み物は「尽空」である。Fではないので「森いぞう」はない。

何か忘れ物をしている気がして、さくらラウンジからサテライトに出る。

ベトナム航空のアテンダントさん数人と擦れ違う。例の臙脂色のアオザイのユニフォーム。これを見ると、越南に行きたくなる。

8年ほど前、広州から河内越航空で飛行したとき、そのフライトのアテンダントさんが、機内誌の表紙に出ている人で、それで、フライト中に話が盛り上がった記憶あり。

越南航空のアテンダントさんの数は知らないけど、5人や10人ではないのだから、これは奇遇というべきか。

サテライトを歩くに、北京経由成都行きのJALの中国人のツーリストさんは、免税店で山のように買い物をしている。かつての日本の団体さんを思い出す。

こっちは「尽空」を1本。1500円。

ついでに、旅行保険をスタンドでかける。

R1149366 持参のローライミニデジで撮影する。画像をアップしようと思ったら、カードアダプタを家に忘れてきた。

これよりJAL609に搭乗。

中山式

R1149338 中山と書いても小夜の中山でも孫中山の話でもない。
これは中山式快癒器の話だ。
中山式は大昔は海外留学に欠かせない必需品だった。これには二つの意味がある。ひとつが言うまでもなく、脊柱の矯正だが、もう一つは「その中山式を見るとその人が外国に来た年代が分かる」というものである。
自分の世代のはすでにプラスチック製で金属のぐりぐりの玉が付いていたが、もっと前のその前の世代になると、瀬戸物になるのだ。
ウイーンに1960年代に来た人とか、マンハッタンに同時代に来た人で、ずっと滞在しているような人は、まず物持ちが良いから、最初の故国から持参した、中山式がそのまま保管されてしまうことになる。

その中山式が昔はどのような存在であったのか、それを家人と回想してびっくりした。
家人の回想では、金沢の諸兄の官舎に住んで居た当時、隣のおじさんが胃腸が弱くて、その家に行くとおじさんのベッドの上のその「子どもがあれは何であろうか?」と不思議がる機具があったのを思いだしたという。
つまり中山式はこのの段階ですでにメランコリーなオブジエになっているのだ。

自分の記憶では、少年雑誌ではなかったであろう。もう少し上の総合雑誌の表3あたりに、青の一色刷りで出たいた1頁広告であった。
ようするに、胃弱の人が中山式を使ってそれで食欲が増して、ごはんをもりもり食べて、健康になったというのが「証拠写真付き」で掲載されていた。
その写真の記憶をたどるに、使用前の写真では「げっそっと痩せてい人」が、使用後の写真では腕組みをして、まるで相撲取りのような体格になっていたのである。
思えば、あれは健康ではなく、「メタボ」である。
「中山式メタボ発生器」か。

かくもある商品の時代、時代による変遷は続くのである。
その中山式は、自分の場合、すでにメタボは達成していたから、単なる脊柱矯正に使っていたのだが、最近では海外に行く時にこれを持参することはなくなった。
10年前までは、かなりの腰痛に悩まされていたのでパッキングリストの上位になっていたが、最近はそれを忘れている。
久しぶりに中山さんを取りだしたら、部品が分解していたので、ナイロン紐で補修した。これでまずこの先、20年は使えるであろう。

ちなみに中山式快癒器のあれは本社だか、倉庫だか知らないが千住の建て込んだ住宅街にいきなりそそり立つビルがあって、それが中山式の本山であった。
そういう地域にあると、中山式はなにか存在感が増してくる。

この「何々式」という言い方は明治めいているが、好きである。中根式なんかは良い感じだ。荻野式というのもあったな。今でも航空機の日本での型式書類などでは、「ボーイング式」とか「エアバス式」とか言っているようだ。

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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