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2008年5月31日 (土)

西暦2008年5月31日

R1149337 5月31日は「ライカの詩人」木村伊兵衛先生のご命日。自分は大昔、ウイーンでその訃報に接した。
木村さんのウエッツラーのホテルであれは、ライツ社の見学に行った時であろうから、そのホテルは大体、特定できる。
恐らく、丘の上のウエッツラーホーフであろう。
2001年の秋、ナインイレブンの直後に同じホテルに泊まって、鏡の前でライカを構えて、真似をしたことがあった。

それで、あたしの誕生日でもある。
明日からの西安への「高飛び」の準備。ただしその準備は5分でできた。
持参するのは、
R8、R-D1s、ローライのミニデジカメ。それと借り物のD3。ただしレンズは自前のタムロンの28−200である。これを分解して本体とレンズとを別にして、デイパックに入れる。このやり方は2週間前に大阪からの戻り、羽田からの帰りに京急の向かいの座席に座ったカメラマンが、そのようにして真っ赤なライトウエアのショルダーから出して画像をチエックしていた、その真似である。

今回は銀塩カメラは持たないつもりが、それでは退屈であろうというので、目下、上の日経BPのウエブに登場のテナックス2を持つ。十数年前、マカオでこのカメラでまだポルトガル領だったマカオの最北の公園から、向かいの中国領を撮影したのがこのカメラである。
そしたらいきなり、シャッターが壊れた。撮ってはいけないものを撮影したのであろうか。
それ以来のリベンジというわけだ。

しかし、秦の始皇帝の時代からの古都であるから、東京などと言ってもそのキャリアは比較にならない。
何時ものことだが、フツーのツーリストさんの見る、テラコッタアーミーなどは見るつもりはない。もっぱら、城壁の内部を徘徊して、まだ壁のあった当時のベルリンを思いだしてみたい。
そう言えば、英国人の女性で、ベルリンの壁に性的な衝動を感じる人というのが、ウエブで紹介されていた。こういうのは本物である。

誕生日にいただいたプレゼントなど。
足穂が鍵型小路の先でお世話になった、S社のS誌のY編集長から、うおとかをいただいた。メモには「ロッカーから180プルーフのポーランド製のうおとかを出して、ソーダ割にて小休止。明かりのついた東京タワーが格好のつまみである」という文章を<かっこいいなあ!>と思い、印象深く記憶しておりました。
とある。

こういうのは嬉しい。しかも日本を代表する雑誌の編集長に誉められたのだから、ハイボールになりそうだ。
そのうおとかのボトルにはこういう窓があって、そのボトルの反対側に彫刻された「おとのさま」がうおとかを通して見えるという「どっかの銀座の高級文壇バー」の棚にありそうな高級品である。
まず、最高の誕生日になった。
感謝。

そのとなりの包みは、これはアメックスのPカードからの誕生祝い。これは会費を払ってあるのだから、有り難迷惑だ。毎年、このアメックスの誕生日プレゼントは「けったいな品物揃え」なので、最近ではその「シュールさ」に興味が行っている。今年は「特製くつべら」であった。
amexは会費10万のPカードよりも会費18万のBカードの方が、プレゼントは高級なのであろう。その方が実用性はありそうだ。

メトロの巴里

http://www.ratp.info/orienter/cv/carteparis.php

なかなか多忙なので、昨年の10月のプラハからパリ経由でセントレアから東京に戻ったのは、もう8か月も前の話だ。

欧州に行きたいのはやまやまであるが、この1月も予約をしておきながらそれをキャンセルした。例の「日本郵船氷川丸」あらための「チョートク 海をゆく」(1000ページ写真エッセイ集)にかかりきりであるから、それが出るまではなかなか欧州などは無理だ。

岩波書店から出そうと思っている、プラハのエッセイと、もう一冊、プラハの写真集のこともあるのだけど、まだ時間が足りない。

でも、あまり日本の空気を吸っているのも、どうかと思うので明日から1週間は西安である。とはいえ、高速インターネットが通じているから、環境が六本木ではなく西安の城内であるというだけの違いだ。

東京だと、アキバの西安料理店の「刀削面」を食いに行くのは面倒であるが、西安に行ってしまえば、周囲は全部が西安料理であるから、これは便利そうだ。

西安の気温は最高が37度、最低は11度で過ごしやすそうだ。日本の37度ではなく湿度がくいからマドリッドのようではないかと期待している。

持参のカメラは出発24時間前であるが、まだ決まっていない。ラインとしては、小さい方から、数えるとまずローライフレックスのミニデジカメ。それからリコーGRD2、エプソンR-D1S、それと借り物のニコンD3であるが、その予定は変わる予感もある。

いつも海外に行くときには、佃を出る1分前までカメラの入れ違いがあったりする。

ブックマークがうってあるのは、上のパリのRATPのページである。この4文字を見ると、女性のプロフィールにセーヌ川がオーバーラップする、例のトレードマークを思い出すのが常だ。

パリのメトロを本格的に撮影したのは、あれは1979年であったか。冬であって、2週間ほど朝、ムフタールのホテルを出て、夕方、ホテルに戻るまでずーーーーーーっとメトロに乗っていた。それも「財閥」だから、赤い車両の1等車に乗っていた。

この時の体験でパリのメトロは圧倒的に詳しくなった。当時の撮影カメラはミノルタCLには、40ミリ、ライカMDにはロシア製の20ミリ。フィルムはトライX。

自分はフランス語はだめだから、それぞれの駅名はドイツ語風に読んでいるのである。でもそれを口に出しては失礼であるから、発声したことはない。それでもパリのメトロには自分の40年の過去が凝縮されている。

マンハッタンのメトロも悪くない。あそこは「オフアワーウエイテイングゾーン」と「ガーデイアンエンジエルス」が、いかにも剣呑なマンハッタンの感じを盛り上げていた。

パリで撮影したメトロのスナップを8ページだか、10ページだか当時のアサヒカメラに掲載した。当時の自分はウイーン住まいであったから、タイトルとかキャプションはウイーンから手紙に書いて築地に送ったのである。

掲載誌が送られてきて、仰天した。「地下鉄のザジ」をひねって「メトロのパリ」としたのであるが、親切で真っ正直な編集者さんが、なにを思ったのか「パリの地下鉄」にしてしまったのである。

これでは「上野動物園のパンダ」みたいなもので、そっから先に行きようがない。

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2008年5月30日 (金)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラコラムMpx00056

デジタルカメラは低画質ほどかっこいい?

この3月にコンテナ船ライラの撮影で、名古屋から船に乗って遠州灘を越えて、海路から大井ふ頭に上陸した。その時はリコーのR7、R8それとソニーのα200と、ローライフレックスミニデジカメを持参した。合計4台であるが、その重さもかさも問題にならなかったのは、ソニーのα200を除けば、残りの3台の重さなどは「無いに等しい」からである。

今回の写真集「チョートク 海をゆく」の表紙は編集者さんとデザイナーさんが選んでくれたのだが、からっと晴れたエーゲ海クルーズのような縦位置画像である。実際にはエーゲ海ではなく、遠州灘であるが、同じ「エ」で始まっているから、同じ海でもあるしまあそれでよい。

今回の表紙の画像はリコーR7で撮影したものだ。世の中のデジカメ人類デジタル一眼レフ派というのは、なんでもRAWモードで撮影して、それを「創造的」な画像いじりをしないと、卸写真を撮影したような気がしない皆さんらしいが、デジタルカメラの使い方のこつは「時間意識の問題」であるから。せっかくお気楽に撮影しても、その画像に「つまらない絵ごころ」を加えていじくりまわしては、ダメである。

デジカメの画像の面白さは、たとえばフルサイズのデジタル一眼レフで撮影した画像には、「現実をそのままにコピーしてきたような感覚の視神経への刺激」が存在するのに対して、ローライフレックスミニデジカメのような小さいCCDで撮影した画像は逆に「そのカメラの存在感が正面に出てくる」ようなところがある。

だから、10年前に出した自分の写真集で「ウイーンとライカの日々」というのがあるが、その最後のセクションは当時はまだ出たばかりだった、リコーR1と言ったか(すでにその名前も失念している)35万画素のデジカメで撮影して、それをわざと見開きにしているのだ。

そういうデジカメのリアル感覚が魅力に思えてくると、現今の2000万画素などは面白くもななんともない。むしろ、35万画素が撮れる機構をフルサイズデジカメにつけてもらいたいほどだ。

上の画像はローライミニデジカメ。NYKライラ。

★加筆しておく。

上の画像をクリックして、実際の大きさの画面にして見て欲しい。思ったよりずっとシャープなのである。しかも「若干画像に滲みがある」のが好みだ。表現を目指すなら、フルサイズのデジカメよりも、こういうミニデジカメだ。

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★銀塩クラシックカメラコラムR1149326_8

懐かしの「銀座のバーでマッチ一本」

このテーマの「よた話」は何十回も書いたことがあるが、まだ描き足りない。

ようするに昭和30年代に日本のレンズメーカー(というよりもカメラメーカー)が、大口径レンズの競争に明け暮れていた当時の逸話である。

結論から言ってしまえば、ニッコール50ミリF1、1が当座の勝利を収めたのであるが、その直後にキヤノンが明るさ0,95という一般向けとしては世界で一番明るいレンズを出して、それに一矢を報いたのであった。

その当時の東京というのは今とは異なりかなりの暗さであったようで、まず木村伊兵衛さんの作品などでも、明るいレンズの作例はかならず銀座の夜景であり、どっかのバーの中のマッチ一本であった。ここらはすでに古典芸能化しているわけである。

それぞれのレンズの現代での中古相場がそのままレンズの評価に結びつくなどということは非常識であるが、ほかに手立ても何もないからこのクラシックな方法を仕方なく踏襲すると、まず、2008年では、明るさではキヤノンに水をあけられたかも知れないけどその市場価値はやはりニッコールの50ミリF1.1に軍配が上がるようである。

なお、ライカのノクチルクスF1に関してはここでは評価には入れない。このレンズは10年前までは安価であって、自分も15万ほどで銀座の店で買ったので、いつまでもそんな価格であろうと思っていたら、この前、レモン社でその値札を見てびっくりした。最低でも50万円台であって、上は天井しらずらしい。実際に使うのなら、キヤノン50ミリF1,2の方が良い。

さて、ここで登場のキヤノンF0.95は実はちゃんとした「まっとうな任務」をもっていたレンズである。某新聞社の夜間撮影用に使われたレンズである。説明不足になってしまったが、詳しく言えば、夜間の空撮用のレンズであった。こういうレンズでライカ用でもアメリカ海軍の特殊な撮影用で、最初から絞りのないF0.95レンズなども存在した。

このレンズのダイナミズムは、この画像のように上から見たところが良い。実に堂々としている。

まあ、このレンズは絞りはついているから、「一般撮影」にも使うことができる。その見どころは、やはり報道の第一線で使われただけあって、良い具合に手ずれがしていることだ。

こういうのが銀塩写真レンズの美学というのであろう。ただし、レンズの第一面にはでっかい傷がある。しかしそれで画質が落ちるというわけではない。

万年筆を買う

Img10252559241 拙ブログのトラックバックとコメントで、うちが大昔、万年筆製造所であったことは雑誌の対談やら、酒の席のつまみ話やらで、発言しているのだが、どういう万年筆なのかという質問があった。

その名を「スプリング万年筆」というのである。いわゆる戦争直後の零細万年筆製作所であって、轆轤でセルロイドやエボナイトをひいていた。
幼年時の大人の言葉の記憶が「ふわたりてがた」であるような町工場であった。

しかしながら全盛期には日本橋の高島屋で、スプリング万年筆はセーラーや、パイロットとウインドウを列べていたのだから、そういう時代もあったのである。

そのスプリング万年筆は軸にスプリングが入っており、インク壺の中で「きこきこ」するとインクが入る。まだカートリッジ以前の代物だ。
そのペン先は先が曲がっていて「曲がりペン」と言った。これでペンを逆手に持つと、太字がかけるのだ。

自分では長年ペンなど買ったことがなかった。それがえい出版のカメラ編集の人からラミーを2本もらって、それを使っていた。そのラミーを見たリコーの偉い人が(別に自分のラミーを見たのだけが理由でもなかろうが)GRDのプロモーション用に製作して、名前入りのを関係者に配ったのである。
そのリコーのラミーをプラハに持参して、マレスキンの手帳にスケッチしていたら、そのラミーをプラハの友人が所望したので、それは差し上げたのである。

そうしたら、えい出版の人がそれを気にして、1本プラスしてくれた。
だからラミー13fは2本持っている。

自分のカメラとレンズは何千あるか不明なのに、ペンの本数だけはちゃんと把握しているのが自分でも愉快だ。
万年筆のトラックバックを見て、そこにあった、イエローのラミーを注文した。

実は先週の大阪ニコンプラザでの講演会の後に、相当数のサインを頼まれたが、その中の紳士のお一人が、私の本にサインをするのにご自身のラミーを取り出したのである。
それが軸がオリーブとイエローのツートンであるが、なんでも修理したらパーツがなくて、そのような上下色違いになったそうである。R1149332

自分のラミーはグレーであるが、あまりに地味なので、机上で見失うことがある。それでイエローを1本買えば、その軸を使って、コンビのラミーが2本できるわけだ。

2008年5月29日 (木)

日経BPでクラシックカメラ特集

080528_top_main 日経BPのL-Cruiseであたしが登場するクラシックカメラ特集が今日から1週間公開されている。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover2/080528_camera/
なかなかの出来なのは、ウエブマガジンのプロが製作したから当然であるが、実に視覚的な刺激がある。
それに写真が良い。カメラマンの村田さんはあたしに良く似た「好男子」であって、その技は長年、カメラの撮影をしてきた自分にはすぐに分る。
これからは紙の媒体とこういうオンラインマガジンの棲み分けがどんどん進むのであろう。
単なるクラシックカメラの「分りやすい入門書」ではなく、かなりマニアックな内容だ。
必見。おすすめだ。

@@@@@お知らせ@@@@@@

何時も御世話になっております。メールをくださる皆様に申しあげます。

現在、西安市城内滞在中ですが、6月1日より、6月8日23時59分59秒まで

メールの年次休暇をいただいております。

皆様にはご不便をおかけしますがなにとぞよろしく御願いいたします。

田中長徳

水曜の朝7時の事件@隅田川

Dsc_4871 水曜の朝。
家人は新潟の別宅に行っている。
ライカインコはすでに起きて遊んでいる。

自分は寝室で寝たいた。
夢うつつで、臨港署のサイレンの音を聴いた。これは毎度のことであるから愕かない。

愕いたのは以下のパブリックアドレスだ。
「こちらは臨港消防署です。ただいま、男性一名、河に転落しましたが救助しました」

あわててバルコニーに出た。
眼下の隅田川に臨港消防署の「はるみ」が岸に直角になっている。
手前に救急隊とか、消防署員とか、オレンジのドライスーツのレスキュー隊員とか、機動捜査の私服の警官などが居るが、そこは桜の若葉で見えない。

あわてて、ニコンD3を部屋から持ってきた。
レンズはちょっと古いタムロンの28−200である。とりあえず3カットほど「状況」を撮影する。まるでパパラッチだ。

Dsc_4882 下の重要な部分は桜の葉で見えないのだが、しばらくすると若い男性が素足で隅田川のプロムナードを歩いている。腰には白いタオルが巻かれている。
これは川に落下した人を救助した第一発見者であろうか。
素足の青年はもどってきて、上着と靴を手にして、同僚らしい同じ年齢のスーツ姿の男性と一緒にちょっと冗談を言う感じで、うちのタワーに入った。

救急隊は空のストレッチャーを押して帰ってしまう。

自分の見たのはこれだけ。
川に落下した人は救助されたのであるが、くだんの素足の青年がまさか川に落下した人ではあるまい。この人は救助者であろう。Dsc_4877

10年前だったか、ビデオのプロモーション撮影で、若いミュージシャンがこの中央大橋から数人が飛び込んだ。これは演技のはずであったが、その数人はそのままあの世に行ってしまった。この時は大騒ぎになった。
それから毎年、そのファンがくだんのミュージシャンの命日に花を供えたり、らんかんに思いをマジックで書いたりしていた。
これは3年ほど続いた。

2008年5月28日 (水)

ぼろぼろのレクタフレックスローター

Rotor_08 レクタフレックスはローマ製の35ミリ一眼レフであって、1947年にプロトタイプができた。

1950年代の半ばで事実上、生産は終わりになるがその総生産台数は1万台以下である。その中には、このような三本ターレットモデルも存在した。

これをレクタフレックスローターという。このカメラにしても、ライツの作ったM用の3本ターレットのOROLFにしても、いつも思うことは何しろ大変な重量とかさになるから、単なるコレクターのアイテムであって、実際に使ったカメラマンは居たのか、という疑問だ。

だから、ライツのターレット装置などは、250ユニットだけしか作られなかったし、レクタフレックスローターに至っては、50台から70台の数である。

すでにレクタフレックスローターは2台持っている。それらはアメリカに輸出されたカメラで、代理店のデイレクターズという会社の保証書までついている。

最近、オンラインオークションに登場したレクタフレックスローターに興味を示したのは、それが「非常に使いこまれている」という点にある。つまりこの天狗のうちわを持ち歩いて、実際に撮影した勇者がかつて存在したのである。

その証は、ネクストラップアイレットを見るとわかる。これだけ真鍮が露出するのは、なまじな使い方ではない。

そういう戦塵に散ったレクタフレックスローターカメラマンの存在はなにか自分を鼓舞してくれる。

ローマのベネト通りの先にあった、シシリー通りのレクタフレックスの会社の建物をまた見て、近所で一杯やりたい。

2008年5月27日 (火)

ニッコールT350ミリとD3で遊ぶ

R1149287 R1149285 R1149284 年に二度、法令による火災報知器の点検と、ならびに室内のエアコンのフィルター交換に来る。
そういう年に二度というのは、まるで毎月に来ているような錯覚がもたらされる。このタワーマンションの管理はなかなか良く出来ていて、バスルームのバスタブの脇に非常用の押しボタンがある。数年前に風呂にはいって手足を伸ばしたら、いきなり警報が鳴り響いた。セキュリテイセンターの方で「いかがされましたか?」とインターフォンで連絡があった。
それに答えないとセキュリテイが2分以内に駆けつけるという具合である。

それで、定期点検に年二度くるわけだが、これが大事なことである。
要するに仕事場(というか、カメラ置き場)は、実に乱雑になっていて、部屋の奥に作業の人が来て、そこに脚立を立てて作業をする場所もないということになる。
それで年二回だけ、その点検の前に「獣道」を確保するのである。

うちの1f下に田原総一朗さんが居られる。時々、行き帰りにお辞儀をする程度である。田原さんのお仕事場は知らないけど、なにか大変な量の資料で埋め尽くされているのは想像できる。やはり定期点検の時には、道を確保するのではなかろうか。

先週、貸してもらったD3で遊んでいる。6月の西安には持参するかどうかはまだ決めていない。
普段のGRDとR-D1Sがあるからだが、ソニーのα200だって「大事な仕事の時」に使うくらいだから、D3のような「歩く52万円」(注 ヨドバシカメラHP調べ)を持参するのは、万一のことを思うと恐ろしい。

一方D3で楽しめるのは、家にある膨大なFマウントレンズ群である。
特に、ニッコールT350ミリf4,5が気に入っている。これはかつて田中光常さんがアフリカのゴロンゴロンで、ブロニカDにつけて、ライオンなどを撮影したレンズだ。当時は300ミリを越える6x6用のレンズなどはまだなかった。

上の2本のレンズの一つは、ニッコール250ミリf4である。

それと奈良原一高さんが、あれはアサヒカメラで「ヨーロッパ62」(確か、欧州のカラー作品でそんな意味のタイトルの連載)での、スペインの闘牛のシリーズであるが、その中で「僕は何時も闘牛場で一番長いレンズを振り回しているカメラマンだった」と書いていた。
これはニコンFに付けて使っているのだ。

350ミリという長いレンズであるが、「T」の表記の通り、トリプレットタイプだから見かけのわりには軽い。ニコンS用のニッコールT105ミリf4と同じ「小型軽量」である。

このレンズはもともとは、ニコンSPなどにミラーボックスを付けて使うレンズである。ただし1958年のニコンFの登場時の「端境期」に、ニコンF用としてもカタログに載っている。

自分のレンズはこれは数の少ないブロニカD用なのだ。
大昔、アメリカから購入したのだけど、アメリカ人は改造が好きだから、本来のD型のマウントにこれは純正のブロニカSに付けるアダプターが付属している。
それならそれで良いが、他にはニコンFマウントに使える、ステンレススチール製の「ハードフロント」とでも言いたい、実に工作精度の高いマウントアダプターも付いている。

さらにそれだけではない。このレンズには加工がしてあってレンズの真ん中から分離するような改造がしてあり、コパルの3番シャッターも付いているのだ。
つまり、そのままレンズボードにねじ込めば、即、4x5の大判レンズとしても使える構造になっている。
この改造は案外、当時の350ミリニッコールそのものよりも改造費にお金をかけているかも知れない。

追記。昔のニッコールはセンチ表示である。D3に付いてきた、14−24ミリズームはちゃんとミリ表示だが。

2008年5月26日 (月)

いよいよ木曜18時30分ゴング!

第148回 八重洲ブックセンター特別講座
田中長徳×福田和也氏 講演会

アスキー新書『カメラは知的な遊びなのだ。』(税込 \980.-)刊行記念

  • 日 時:2008年5月29日(木) 18:30〜20:00
  • 会 場:八重洲ブックセンター 本店8階ギャラリー
  • 募集人員:100名(先着順)
  • 参加費:無料
  • 申込方法:申込書に必要事項を明記の上、1Fレファレンスコーナーまで。 申込用紙は同コーナーに用意しております。また、電話 03-3281-7797 にても承 ります。
  • 主 催:八重洲ブックセンター /協賛:(株)アスキー・メディアワークス

月曜17時30分現在、若干空席あります。
お申し込みは上記まで。

束見本

R1149282 束見本は業界用語だ。
本を出す前に、実際の用紙で製本してその本のボリュームを確かめるための作業である。
これは本来、装丁をするデザイナーが手元に置いて、実際にああでもない、こうでもないと考える道具である。

だから、著者に関して言えば、これは無くても構わないはずであるが、新書とか文庫の場合にはどのような本が出来るかは予想がつくわけであるが単行本となるとやはりそれを実地にみて考えるのが得策である。

今度出す「チョートク 海を行く」(発行東京キララ社、発売河出書房新社)は日本郵船氷川丸とコンテナ船ライラをテーマにして、日本の海と、復活した氷川丸を撮影した写真集であって、その厚さは1006頁ある。
発売は7月だ。最初は6月に出すことになっていたが、諸般の事情でちょっと後になった。それでばたばたではなく、しっかりした本を作れることになった。

その束見本であるが、著者にしてみればこのダミーがある方がやる気になるのである。それで無理を言ってデザイナーさんのもとから取り返してもらい、それを佃の方に送ってもらった。
手にすると、そこに新らしい本が誕生するのであるという、実感がわいてやる気になってくる。

東京キララ社からは3年前に「wien monochrome 70s」という本を出した。この時も束見本を作って中村社長と検討したのである。当初の計画ではハードカバーの最初は1000頁の本であった、しかしそれではあまりに重くなるので、買って持って帰るのが一苦労である。
それで750頁と500頁の束見本を作って検討した。

その結果、分かったことが750頁の本でも重すぎて実際には携帯できないことが判明した。それで最終的には500頁に決着したのである。
その意味で束見本は重要である。

今回の1006頁写真集は、二つの命題がある。一つは頁を開くと、そこが氷川丸とコンテナ船ライラの仮想体験の現場として楽しめること。もう一つはそれを旅に持参して、旅先でつれずれにこれを開いて楽しめることにある。

つまり、仮想体験を完璧に展開するには最低1000頁が必要であるという点。
もうひとつは、旅に持参できるような小型軽量である点。
ボリュームがあってかさばらないという二律背反の条件である。

実際に手にとって見て、上の条件はまず自己診断で80パーセントが達成できたのではないかと自負している。

海の日の前日、7月19日にはこの本の出版記念講演会も開催の予定だ。

2008年5月25日 (日)

コーネル・キャパ氏の訃報で思いだしたこと

Capa_4501 ロバート・キャパの命日は5月25日。
私の母親の誕生日でもある。
一日遅れの朝日新聞夕刊(23日)で、ICPのコーネル・キャパの訃報を知った。
90歳。

パーキンソン病という。http://www.nytimes.com/2008/05/24/arts/design/23cnd-capa.html?_r=1&oref=slogin

1985年であったか、銀座の松屋で「コンサーンドフォトグラファーズ展」があった。あれはマグナムの写真展であったのであろう。
その会場でロバート・キャパの遺愛のニコンSを見たのである。それは皮ケースに入った50ミリf1,4付きのSだった。
そのニコンを欲しいと思った自分であって、そのボデイとレンズの製造番号をメモしてきた。

その後、そのカメラはどっかの機関の所有になってしまい、門外不出になってしまった。それ以来、革ケースにはキャパの血痕がついているとか、聖遺物扱いになった。
しかし、四半世紀前にウインドウ越しに見たカメラは別に血痕など付いていない。

その写真展のレセプションでコーネル・キャパ氏に会った。自分はマンハッタンから戻ってきたばかりだから、何かコーネル・キャパ氏と話をしたかも知れないが、それは記憶にない。
三木淳さんとDDダンカン氏とではダンカン氏との会話の内容を良く記憶しているのに、キャパの弟さんとの会話の記憶がないのは残念だ。

三木淳さんは、これは同じ時代にスノードン卿写真展(あの当時は外国の写真家の写真展が花盛りで、そういう不思議な展覧会が東京であったことが信じられない)では、私をスノードン卿の前で、「私よりもあそこに居る田中君の方が英語がうまいんだ」と言ったのである。これは個人的な会話ではなく、三木先生の挨拶の時の話である。
岡山出身の三木先生は、三田のお住まいで100パーセントの江戸っ子だから、時にこういうひやりとするような「諧謔」を弄するのである。冷汗三斗であった。

コーネル氏に比べて、グレーヘアのコーネルの奥さんが非常に元気であったことを良く憶えているが、その奥さんのお名前が出てこない。
これが四半世紀前だからあの時のコーネル・キャパ氏はあたしほどの年齢の筈だが、もっと年上に見えた。

マグナムがまだ社会的な使命を持っていた時代が80年代である。

金曜の午後、中国大使館前の事件

Epsn0105 金曜の午後3時30分ころであった。

ヒルズの49fのオフィスで原稿書きをしていたら、オフォスメンバーのアースナビhttp://www.earthnavi.com/の吉田さんが「チョートクさん、今、中国大使館前で事件、血まみれだった」という第一報。

ネットのニュースには出ていないが、2ちゃんねるの最初の書き込みが3時34分頃だった。
警備の警察官がやられた。というのである。
下ではかなりの数のサイレンの音がしていた。
4時半ころになって、吉田さんから「TBSの第一報では警察官に中国人がカッターナイフで斬りつけた。ただし軽傷」とのことだった。

現場に通りかかったご本人は「血まみれ」と言っていたのが、ニュースでは軽傷となっている。もっともその出血状態はなかなか素人判断では出来ないから、負傷の程度は分からない。

事件の第一報を知った、午後3時半に家人にこれこれの時間だから、TVをウオッチしておくようにメールした。
その日はエプソン関係者と「酒修行」があったので、夜遅くタクシーで帰宅したが、TVでは別にそのニュースは報じていなかったという。

ちょっと不思議である。最近の中国情勢を鑑みて、すわっ「報道管制」か、と邪推することもできる。

それとも、大使館前での刃傷事件はニュースバリューなどないのであろうか。

上の画像。「室内」

エプソンR-D1s スーパーロッコール50ミリf1,8

2008年5月24日 (土)

DONKEと銘酒・君萬代

R1149261 使っているエプソンRD-1sがかなり前から、液晶が見えなくなった。そのことはそこらに書き散らしているのだが、つまりフィルムカメラみたいであるというので気に入って使っていたのである。

しかし、来月から西安に撮影に行くので、オリンピック前の中国に「壊れたデジカメ」を持参するのは日本の国家的カメラの品格が落ちる恐れがあるので(追記する。冗談である。ときどきこういうのを本気で受け取る人がいるので)これはエプソンに修理に出すことになった。

このカメラは外見から判断するところでは、どうもcosina製のようだ。などと「台風何号は何時ころ、どこそこにあるものと推測されます」の気象庁の予報みたいなことを言わずとも、そうである。しかし、世の中の仕組み上、これをコシナに送るわけにはゆかない。

その逆のパターンもあって、これは福田和也さんから聞いたのであるが、銀座のソニーのサービスセンターでは、コニカやミノルタの修理を受け付けるらしい。

あたしのα200(今月号のアサヒカメラの連載では匿名カメラ●×▲号として登場)は、ごみがCCDに入っているので、それを銀座に修理に出したいのだけど、なかなか行く時間がない。en-taxiの田中陽子副編集長は、愛用のヘキサーRFが故障して、福田さんからそのことを聞いて、ソニービルに行ったらちゃんと修理ができたそうである。

それであたしの2台のRD1を西安行き前に修理に出すことになった。しかし修理に時間がかかりそうなので、代替機を貸してもらえることになった。それも3台。

普通なら修理機を送って、代替機を送ってもらえば済むのであるが、それではコミュニケーションがとれないので、エプソンの広報の鴨下さんにわざわざヒルズまでご足労願いことがあった。

まあ、機材の受け渡しは2分で済むが、そのあとに大事な「仕事」がある。いや、ここからは仕事は離れて、鴨下さんと「酒修行」をするのである。

酒修行に関しては、古文書に見えているが、江戸時代初期からあった、一種の「大酒会」であって、江戸初期には川崎の大師河原で行われた荒っぽいものであったようだが、江戸の後期になって、向島あたりで豪商がスポンサーになって、文人墨客を審判に招き、遊女のお酌で大酒家が万を引く、という文化行事となった。その記述は蜀山人の一文にもある。

その現代版とはいうもおろかであるが、いっぱいやりに行くというよりも「酒修行」の方がなにか聞こえが良い。

それで普段は洛北の大林などに行くのだが、今日は指向を変えて、親戚の田中酒造の君萬代の「利き酒」をすることになった。

田中酒造は取手の古い蔵元だ。

http://www.kimibandai.sake-ten.jp/index.html

20年前になにかの取材でそこに行って、当時のご当主と同じ田中だから、先祖は一緒かもしれないと冗談を言ったら、本当にそうであった。うちは昔は千葉の銚子でヒゲタという名前の醤油製造をしていたのである。

その田中酒造の清酒をJTBの忘年会に持参して、そこの日本酒の詳しい人に味見してもらったら、その人は黙った。これは大した酒だということになったのである。

エプソンの鴨下さんは新潟の出であって、なかなかの大酒家だからこの一升瓶を二人で開けてしまおうという怪しからん計画である。

こういう場合のつまみは「荒塩」で十分だが、そういうのは近所のコンビニには売っていないから、まあ、柿の種か。

問題はその一升瓶をもってくる方法である。昨日のニコンD3を持参した市場かごには入らない。それで使い古しのドンケを取りだしたら、実におあつらえ向きである。修理に出す、RD1も2台入れた。

本来は正式には一升瓶は風呂敷に包むのが本道であろうが、ドンケのカメラバッグは新発見だ。昨日の市場かごにD3,今日のカメラバッグに一升瓶というわけだ。

田中酒造のHPの右下の「謎の白黒ギャラリー」というのが見どころか。

2008年5月23日 (金)

「市場籠」とニコンD3

R1149249 関西方面から「帰国」。

帰りもJALのFに乗ってみた。快晴のニッポンであって、離陸後に大阪城がよく見え、遠州灘も笑っているように見えた。

ただし、座席は1kであって右側が見えるのだけど、富士山は左側なのでそれは見なかった。

不思議に思ったこと。

例のように、出発前にクルーが挨拶にくる。これがパリ行きの便なら12時間50分だから挨拶されてもうれしいけど、飛行時間が45分ではラッシュアワーの新宿駅のホームにいたら、目の前の通行人に名前を告げられたようなものである。

しかも専任アテンダントさんと、チーフパーサーさんのお二方が「時差攻撃」で挨拶に見えるので、ただでさえあわただしいテイクオフ前の時間がますますあわただしくなる。

まあ、これで飛行機気分を味あわせようというFクラスのサービスなのか。

飛行中にはあわてて、お弁当を食べて、森いぞうを2杯飲んだら、777-200はすでに最終アプローチで東京ねずみーランドを右に見て、この春にそこに着岸した、日本郵船の大井埠頭の上をかすめて、C滑走路に着陸した。

気になったのは、シートに遊びのあることだ。なんでもオーストリア製の革張りのシートであって、高級感はあるのだけど、座席のどの背もたれの位置でも、体重をあずけるとわずか(これは実はわずかではなく三分の一インチ)に、背もたれが後ろにずれるのである。

これは大変に不愉快なことだ。HNDITMでは3kに座って、帰りのITMHNDでは1kだったが、おなじようながたがある。ということは、このシートが標準なのだろう。

その「がた」がある理由を聞きたいものだ。これは普通に見過ごすことのできる、せもたれの遊びを超えている。

70年代のウイーンのアパートで、100年前のアパートに100年前のソファがあって、そのソファのせもたれが似たような状態であってそれに7年間何時も座る時に注意していたことを思いだした。

今、気がついたのだが、JALのFクラスのシートも、ウイーンのアパートのソファも同じ、オーストリア製である。

何か意味があるのかな。

佃に戻ったら、ニコンD3がニコンの宣伝広報から届いていた。ブログや雑誌や書籍などで、「フルサイズデジタル一眼レフは父の遺言で使わない!」などと諧謔を弄していたのだが、実際に使ってみて、いかに父親の遺言が正しかったか、それとも思わぬ新局面が開けるかの、これは実験なのである。

これはありがたい。

貸し出し期限は6月6日まで。

それで夜中にライカインコが寝ているダンボールの脇で、バッテリーをチャージしてライカインコにうるさいと叱られつつ、D3をセットアップした。

レンズは貸し出しには、その価格が怖くて聞けない、14-24ミリの実にプロっぽいレンズがついていたのであるが、それはあまりにも巨大豪華であって、先週、大阪ニコンプラザのまるで宝石店のようなショールーム(実際にここのインテリアは東京は銀座のお仏蘭西のお店の支店よりも格が上に見える)で見たコンフィギュレーションなので、それは遠慮した。

でもテストでその14−24ミリで感度を2000に上げて室内を撮影したら、眼に見えるものは全部写っているので、さらに吃驚した。大変な描写のレンズであるが、スナップショットには向かない。ちゃんとした仕事で使ったら「その威風辺りを払う」ものがあるだろう。

うちのFマウントレンズの使える在庫を調べたら、6年ほど前に日本カメラのタイアップ広告で、あたしがベニスに行って、タムロンの28-200ズームで撮影して、常用ズームは便利だねえ、という企画があって、その時に提供を受けたレンズを発見した。

これは普段はアルパアルネアにニコンレンズアダプタをつけてあるのだ。

それを利用することにして、装着したらちゃんと作動するので、お!不変のFマウントというので感心した。

実はD3のような超高級プロ機では、あまり交換レンズに凝ると、時代遅れな日本光学工業ジジイになってしまうので問題なのだが、まあ、この程度の古さのレンズなら許されるであろう。

それを市場かごに入れたら、実に収まりがよい。これは普段、河岸に買い物に行く時と、ヒルズに行く時に使っているのである。例の虫文庫の布の袋がその中に入っている。

フランスのグルノーブルにアトーンというプロ用映画機材の会社があって。そこの16ミリ機材AATON 16 LTRは自分も好きで持っているが、その会社で実に軽量小型なアトーン35という機材を20年ほど前に出した。

これを当時、ドイツのフォトキナでテストしたが、16ミリカメラなみのサイズでこれが35ミリ機材なのである。このカメラはあの名監督ゴダールが出資して試作させたものだ。

その最初のモデルは実に小型で。200ftマガジンしかつかない。これで120秒の映画が撮影できる。それがフランスで市場に買い物に行くときにだれでも使っている「市場かご」に、くだんのアトーン35がぽんと入っているのである。これはプロモーション用の画像なのだ。これは粋だなと思った。

ゴダールは「車でどっかを走行中に、素晴らしい雲と光に出会ったとする。その場合、監督自身がカメラを回すのが最上の表現だから、そういう目的にあう超小型な35ミリ映画カメラが欲しい」というのである。

ニコンD3を筑地の市場かごに入れたら、これが実に似合うので、ゴダールの言葉を思い出しだしたのである。

さて、D3の使用印象記はぼちぼち、拙ブログで書いてゆきたいと思う。

まず、D3は市場かごに似合う。これが大発見だ。そういうのはうれしいから、やれ性能がどうのこうのという気持はうせてしまう。

とりあえず、自分は4GBのCFカードは1枚しか持っていない。これで日本郵船の仕事をし、雑誌の連載の仕事をし、ウエブの仕事をし、すべての仕事をして、数年になる。

日本写真家協会に入会してすでに40年。このキャリアでCFカードを1枚しか持っていないことが協会に知られたら「会員の名誉を汚す行為」というので、除名にもなりかねない。

早速、価格ドットコムで、最安値のCFカードを買うことにした。

2008年5月22日 (木)

観音専用車

R1149016 きょうと。
鴨川のほとりの「方丈ホテル」から、どこに行こうと考えた。
七条からすぐの三十三間堂に行くことにした。

そこに行くまでには「五条楽園」とかなかなか渋い名所もある。

三十三間堂には始め、中学の修学旅行に行き、10年ほど前にそれを再確認しに行き、そして還暦になってまた行ったことになる。

最初の京都で、確か同行したのがNHKの取材班だった。修学旅行モノの取材であったようだ。NHKのカメラマンさんに、取材用のアリフレックス16stを見せてもらった。

そのカメラスタイルにしびれた。大きくなったら絶対このカメラを手に入れてやるぞ!と、決心した。アリstはその「猫がうずくまった格好」が魅力なのである。その夢の達成した時は嬉しかったけど、こういうのは2台に留めておくべきである。
それが「勝手に増殖」して、今、映画カメラ、スチルカメラ合わせて、無慮3000台。
これはよくない。ここの仏さんだって1001体である。
自分の場合には「後宮三千台」だ。

10年前はデジカメはたしかニコンクールピクスのあの首が回るやつだった。当時はカメラマン精神旺盛だから、撮影禁止にもかかわらず、1001人のほとけさんを「隠し撮り」した。
あれから10年、今ではそういう馬鹿はしない。
ただし、周囲の中学生の修学旅行のがきどもは、まったく無関係にデジカメを向けている。公共道徳ゼロを嘆くのではない。このルールのなさは、逆にたのもしいと思う。

その中の一人の男の子が堂内の案内を読んでいる。
「てんいをごらんください」と言って「それは天井とよむんだよ」と引率の先生に指摘されている。

危うし!文部科学省。

そのてんじょうと指摘したおやじさんが先生にしては着ているものが、どうも渋いなと思った。(修学旅行の引率の先生のファッションというのは、これは偉大な謎である。研究の余地大である)考えてみたらその人はタクシーの運転手さんなのだ。あとで気が付いたが、普通の大人は観光バスとか、あたしのように「日本を代表するカメラメカライター」は徒歩で四条の方丈ホテルから来ているのに、中学生はタクシーをチャーターしてそこらを廻っているのだ。

なまいきな連中である。
それ以前の問題として、若いうちから、運動不足。これは階級闘争に萌えるな。中学生相手の「五月革命」に燃える古参党員があたしである。

もらったパンフで、このほとけさんは観音さまであることを知った。単に並のほとけさんだと思っていたのだ。
「ほとけさーーん!」というのは最近、我が家で流行っていて、you tube の「着インコ」のホースケが、エンターテイメントでそう言うのである。(しばらく前の拙ブログにそのリンクあり)

そのオウムのホースケに曳かれて、今回、三十三間堂に来たようである。真ん中の中尊の左右の脇待が500人ずつで、合計で1001名になるそうだ。
仏の千夜一夜だ。

実に未来的な感覚だが、そのかなり剥げてくすぶった金色が良い。最新号のデザイン誌AXISで、ローマ法王に献呈された、黄金のレクタフレックスのことを書いているが、そのゴールドはあまりにも派手なのだ。1950年製と平安時代製の違いはある。ゴールドカメラも理想は平安時代の作が良い。まあ、大幅に譲歩しても鎌倉時代までの作か。

自分の持っているゴールドカメラと比較して言えば、ローライ3,5fのアメリカのカジノでカメラガールが使用して、お客の姿を撮影した、純正のゴールドローライがあるがその渋い金色に似ている。これは鎌倉時代の作である。

国宝というのは大抵、時代がかった冴えないのが多いが、この1001名の観音さまは豪華であって、世界に出品しても恥ずかしくない。
このプラモデルがあったら欲しいものだ。田宮あたりで出してないか。

浅草のご本尊は一寸八分の観音さんであるが、それは見たことがない。一方、ぶぶづけの「吝嗇なきゃうと」にこのようなゴージャスな観音さん連があるのは大したものだ。

眺めていて、思いだしたのは朝のラッシュの時の「女性専用車」のことである。
観音さんは男性か女性か知らないが、この三十三間堂はそのままに「観音専用車」なのである。未来仏行きの通勤列車。御京阪(おけいはん)の特急淀屋橋行きのテレビカーという感じだ。
ひとつの電車に1001人も乗車しているのだから、大変な乗車率だ。
ありがたや、ありがたや、、、、、

愚考するに観音カメラも、小田切さんとか、わたなべさんとか起用しないで、この1001名の観音さんの首からそれぞれ1台ずつ、観音デジタルカメラをぶら下げさせたら、三千大世界への大変な広告効果になるであろう。そのTVCMでは、その1001名がラインダンスを踊るというのはどうであろう。

キヤノンは是非、広告のキャラクターは、1001名の観音さんにしてほしいものだ。それなら創業者の精神を受け継いだことにもなる。

2008年5月21日 (水)

知り合いの白鷺

R1149003 しばらく前の拙ブログで「セカンドチャンスオファーの鷺」と書いたが、あれは電車の中の詐欺防止のキャンペーンで、そのキャラが「鷺」であったのだ。

実に本物の鷺に対して申し訳ないことをした。
ここに謹んで訂正し、鷺の皆様にお詫び申しあげる次第である。

きゃうとの鴨川のほとりにある、北京料理の店は堂々たるネオルネサンス様式(これはその感じを言ったので、あるいは様式は違うかも知れない)で、その5階のベランダからの眺望は京都ではトップである。そこで一杯やりにきた。

しかしながら京都に眺望を云々するのは、考えてみれば変な話なのである。
しばらく前に京都で高層建築の建設に関して、かなり問題が巻き起こった。四半世紀前にアメリカはニューヨークのカメラ雑誌の編集長だった、ケプラーさんのアシスタントで今、思うと実に不思議なのだけど、俵屋さんに「下宿」していたのだが、後年、あの旅館の東にマンションが建築されてなかなか新聞ネタになったこともあった。

愚考するに京都は路地の視点から見る街であって、京都ホテルの上階の角部屋から東山を眺めたこともあったが、そこには今ひとつ、感慨がわかなかった。
京都タワーが中学生の修学旅行のスポット以上の存在にならないのと同様に、ホテルの上階からの眺めはあまり感心しないのである。
せいぜいが、「ああ、ここは盆地だから、夏は暑く、冬は寒いわけだ」と納得するくらいである。これは駅前のグランヴィアから眺める時に何時もの印象だ。

定宿にしているビジネスホテルSはその四条大橋の西詰めにあって、東華菜館をちょっと下ったところにある。その前の路地はフー族店で、その名を「ジュリアナ京都」という。そういうお店の出来た年代特定が出来るのが面白い。でもその小路を見ないで眼を向こうに向けるとそこには南座も見え、比叡も見え、京阪に乗って浪速に通勤する人々も見え、という見所たっぷりの視点である。

そこの510号室に必ず宿泊して、そこから「知り合いの白鷺」に挨拶をするのも生活習慣である。

鴨川を挟んで、向かいは朝日麦酒の表現派めくビルであって、その上階がビアホールで、そこに並んだ提灯が、これは何というのであろうか、すでに京都の美学をとっくに超越してしまい、一種未来派めいた建物の佇まいを見せている。

510号室から知り合いの白鷺、知り合いの五位鷺、顔見知りのとんびなどに挨拶をする。そのためにツアイスの8x30のプリズム双眼鏡を持参している。持参のR8を双眼鏡の前に持ってくると、こういう白鷺のクローズアップが撮れる。

観察すると、四条大橋の下には、「ゼロ円ハウス」の立派なのがある。赤瀬川流に言えば、限りなく高そうなゼロ円ハウスだ。でも1円ハウスにはならないのがゼロ円ハウスの哲学だな。
これは知らなかった。そのひとつ下流にはゼロ円ハウスではないが、椅子が綺麗に並んでいて、そこでくつろいでいる数人の男性の姿が見える。こっちはゼロ円リゾートか。
こういうのも京都風情だ。

2008年5月20日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラDscn0258

ニコンプラザ大阪のD3

大阪のニコンプラザのオープンを記念してその基調講演をしたのが、5月18日。その次ぎの週の25日はロバート・キャパの命日でもある。その25日は真打ち、森山大道さんの講演がある。そのキャパが亡くなった現場にはニコンSが残されていたわけだが、それはデジカメコラムには関係ないので、割愛するとして、今回の最大の収穫は本物のニコンD3に触ったということだ。

いや、ニコンD3は至近距離で見たことはある。発売と同時に銀座のレモン社でこれを買っている最中の紳士をすぐ脇で見た。つまり「現行犯」というわけである。かなりの厚い札束が支払われていた。最近のデジカメは安くなっている。仕事に使っているソニーのα200などは57500円である。それでちゃんと写る。その話はアサヒカメラ6月号、今日発売の連載で書いている。

簡単に買えるデジカメが一般化しているのは、これは有り難いことだ。一方でなかなか買えない高価なデジカメはこれはなにかの人生のステップを記念して。さしずめ先の銀座でD3が売れた瞬間などは、超カメラ好きのお父さんが長年の会社つとめに終止符を打った、そのお祝いであったのかも知れないが、そういう人生の区切りにそういう高いカメラを手にするのはそれなりに、その人の人生のマイルストーンになるのであろう。

ニコンプラザ大阪で、会場内のD3デモ機を手にとって吃驚したのは、その質量がまるでプロ用の35ミリカメラ、アリフレックスを持ち上げた時の感覚であった。ようするに重量級なのである。ただしその重さの中には「伊達で重くしているのではないぞ!」というメッセージがあるのが信用できる。

前のD200の場合だと、あれは旧カメラ人類を喜ばせるためにわざと中に重りを入れてあるのではないかという噂が、デジカメ関係者の間でしきりに交わされたものであった。

D3で、びっくりしたのは、その連射速度がカラシニコフよりも速いことだ。宣伝広報さんに無理を言って、貸し出し機材のやり繰りをしてもらい、ちょっと貸してもらえることになった。
これは嬉しい。D3の未知との遭遇である。

フルサイズのデジタル一眼は「父の遺言」で使わないことになっていたが、ちょっと空模様が変わってきたようである。

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★銀塩クラシックカメラDscn0242

ニコンプラザ大阪のニコンSP

ニコンプラザ大阪でオープン記念の基調講演をするので、それならというので、持参の銀塩カメラはニコンSPにした。これはリペイントである。それにニコンF用のF36モーターを切りちじめたモーターが付いている。

ご存じのように、SPの内部機構にミラーボックスを付けたのが、ニコンFである。だからモーターもその長さを「調節」すればそのままに使える。
まあ、これはそういう論理であって、実際にそれを実行してこういうSPを製作してしまう人は凄いと思う。

このSPモーターはバッテリーは付けないで、手巻きで撮影している。ニコンF用の直結バッテリーを改造して、このSPに付けられるようになったのも持っているのであろが、どこかに仕舞い無くしてしまった。
それと、このカメラはコンパクトデジカメとコンビで撮影するカメラである。コンパクトデジカメは2GBでN1260あたりで撮影するのは、あとでウエブ用にリサイズしないでよいためであるが、これだと4500枚も撮影が出来る。

一方のSPは「ここぞ!」と思った時に撮影するのである。だからあまりモーターなどで速写されては逆に迷惑である。しかしSPにモーターを付けた格好はなんとも好きなので、そのカメラスタイルを楽しんでいるわけだ。

今回は50ミリF1,5のゾナーと、ニッコール21ミリのFマウントにアダプターを付けたのと2本のレンズを持参した。50ミリと21ミリは真面目なスナップをするときに欠かせないコンピである。

ニコンプラザ大阪では、歴代のニコンRF機が展示してある。
古い順に書けば
1型。M型、S型、S2型、SP型、S3型、S4型、S3−M型となる。時分などはその時代のカメラを未だに現役で使用しているわけである。
これらのカメラは20年後にはまだ現役で居られるであろう。
一方で今、最新鋭のデジタルカメラが20年後に現役でいられると思うのは幻想である。

ロバートキャパがインドシナで地雷を踏んで死んだ時のニコンSも、クラスメートの一ノ瀬がカンボジアでやられた時のニコンFもいまだにカメラの時間が現代につながっている。
それが銀塩を信仰にさせる最大の理由だな。

大阪ニコンプラザ

Nikonplaza_2 日曜は、大阪ニコンプラザで、基調講演「わたしとニコンのほぼ半世紀」。
午前と午後の各90分のセッションであったが、時間延長にてそれぞれ1時間45分ほどになった。
午前と午後では同じ内容では自分がつまらないので、微妙に内容を変えて話した。

大阪ニコンプラザはまさオープンしたばかりであるが、そのヒルトンプラザウエストというのは、モダンなタワーであった、入るといきなりLVのお店があったりするのである。
LVに関しては、まだ日本に支店がなかった当時。1970年代に人に買い物を頼まれて、パリは凱旋門のそばのお店(これを本店というのかな)に行った。

欧州の普通の専門店だから、入店からずっと係の人がついて世話をやいてくれる。その時、知り合いに依頼されたVLの他に、自分用にショルダーを買った。これはカメラをいれてずっと使っているが、40年経過してもびくともしない。ジッパーがYKKではないのがかっこいい。
しかし自分はLVのガラではないから、これを首から下げて自転車に乗って東京の裏通りを徘徊していると、長屋のおかみさんが「あ、新聞やさん、、?」と声がかかるのである。

ニコンプラザの13fに行くまでに、まずエレベーターホールが立派。ヒルズの森タワーでも比較にならない。かと言ってバブル時期のあの感じではないのが良い。
エレベータのカゴの行き先ボタンは、押しボタンでなく、巨大な液晶画面だ。こういうのは初めてきた。
ショールームは最新の展示と什器だから、快適。

展示スペースでは、木村伊兵衛さんの、パリを展覧中。これ1955年の作品だが、電子式に色彩を復元してあるのでかなりヴィヴィッドである。
ランチはニコンの広報宣伝部の皆さんと5Fのイタリアンで。日本のイタリアンには入るのは、かなり久しぶりだ。薄味で悪くない。

午後のセッションを終えてから、ニッコールクラブの面々の偉い人が淡路島での撮影会の戻りとかで、お目にかかる。

ニコンの西岡社長にごあいさつ。

この方のお名刺は取り締まり役社長 兼 ニッコールクラブ会長とあるのが凄い。あのNCのバッチは高校時代には憧れであった。
西岡さんの名刺が偉いのは、トップといえどもちゃんとメールアドレスが記載されていることだ。

こういう企業のトップの名刺には「セキュリテイ」の上から、メールアドレスは記載しない場合があるが、その意味でニコンのスタンスはフェアである。

大西みつぐさんには久しぶりにお目にかかった。ハナブサリュウさんなどは40年ぶりの再会だ。
みんな、偉くなったなあ。

感激したのは、1970年に銀座8丁目の東宝スタジオで、ニコン製品のカタログ撮影で一緒だった、現ニコン大阪支店長の宮崎さんと再会できたこと。あのスタジオのクラシックなオーチスのエレベーターを知っている「生き残り」なのである。あの当時、ニコンの星として、顕微鏡のカタログのモデルになったりしたニコンの宣伝の筒井さんのことを思いだした。

筒井さんは、ニコンFを構えた姿がTシャツになっていて、それを東京は中野かどこかの裏町の洗濯物として翻っていたのを撮影したのも懐かしの70年代の記憶だ。

思えば、1969、1970、1971と3年続けてニコンサロンで個展をしたのである。
ニコンサロンともすでに37年の御無沙汰である。またニコンサロンで個展をしてみたい。
タイトルは「東京ニコン日記」か。

450 画像は大阪駅前で撮影中のあたし。ニコンSP+21mm NIKKORである。撮影は講演会のお客さんの森田さん。

ニコンプラザ大阪のお話はこちらもクリック。

http://bisyamon.exblog.jp/

2008年5月19日 (月)

明石の海に落ちる明け方の月_

R1148802 R1148807 R1148810 日曜日。
大坂は梅田の朝。
今日、ニコンプラザで午前、午後の各90分ずつ、お話会あり。
「あたしとニコンのほぼ半世紀」というのである。それで長年愛用のニコンSPと知り合いのニコンのニコニコマートさんがその設計をしているクールピクス5100を持って大坂にきた。

ほぼ半世紀というのは、ほぼ日刊なんとか新聞のぱくりであるが、よく考えてみたら、あたしとニコンはほぼどころか完全に半世紀のお付き合いである。
今回は、あたしのアサヒカメラの連載記事でも、「かんれきニコンセンチメンタルジャーニー」というわけで、そのお話はアサヒカメラ7月号に掲載予定。

昨夕は梅田食道街を徘徊。

こういうすばらしい場所は東京にはない。メタボなんて最初から気にしていないおおらかさがある。

メタボは社会の悪。これはあの頃の黄色いユダヤの星みたいである。国民はメタボマークを胸に付けて歩くことになる。昨日の朝日の朝刊の都築響一さんの「メタボ記事」はよかった。あたしが日本メタボ党というわけでもないが、背後に薬業界の一大闇カルテルがあると邪推したくなる。

なにわの自由さは、第一、昼間から普通に吞んでいる。そのことだけ見ても大坂の街の文化程度が首都に比べて高いことが分かる。パリだってリスボンだってプラハだってウイーンだって、昼間から普通に吞んでいる。まあ東京よりも、大坂の方が欧州に近いから地理的に見ても当然か。

1970年頃と言えばすでに38年前だが、あの当時、ダイハツ(これを大阪発動機であることを知る人も少なくなった)の仕事なにわに来ていて、梅田のホテルの部屋から、ハッセルに150ミリで大阪郵便局をモノクロで撮影した。

それには煤煙に霞む午後の大都会のダイナミズムがあって、まるでシカゴのようであった。伊丹からのリムジンが着いた時、その懐かしの大阪中央郵便局が周囲のタワーに埋もれているのに吃驚した。

ちょうど、東京の霞ヶ関界隈で、文部省の赤煉瓦(というよりテラコッタ)の低層建築がうずもれているのと似ている。それはそれで良い感じなのである。

大阪駅に「駅」という名の巨大商業コンプレックスがあるのは、これは関西人の洒落であろう。仏蘭西人が見たら大笑いするのは必定だ。

ちょうど外人さんが「一番」というTシャツを着て自慢気に歩いているようなものだ。

早朝、といっても午前2時半ころ。ホテルの部屋は西向きなので、何夜の月かは分からないが、銅色に変色した遅い月がスカイラインの向こうにゆっくり沈むのが見えた。これは山姥の月、面白いの月、山遊びの月である。それに感動して持参の双眼鏡(ツアイスイエナdeltrintemの8x30)で、しばらく赤銅色の落月を愛でていた。

あの月の落下地点は、明石の海上であろうと予想を立てた。荒戎武蔵野に落ちる月は荒涼としているが、ここに落ちる月はみやびである。

これは文化の長さの相違というやつだ。

2008年5月18日 (日)

国内線のFクラスに試しに乗ってみる

R1148768R1148771_2R1148782 R1148783_2 土曜の朝JAL113にて大阪。
日曜の大阪ニコンプラザの講演会の用件である。
最初は新幹線のつもりだったが、ずっと乗っているとあれは米原あたりでたいてい飽きる。
「あ。飛行機があった!」ということを思いだして、そうそう最近はFクラスも出来たことも同時に思いだした。
たかだか1時間の飛行にFもないわけであるが、価格を調べたらフィックスのレートのが21100円である。これはバーゲンだ。それを買って、ウエブチエックインもした。

チエックインしたのだが、例のおさいふ携帯がないと、駄目のようで、それなら、プリンターでバーコードを印刷したのでも良いらしいが、ヒルズには優秀なプリンターがあるが、佃には長年使っていない(つまりないのも同様)プリンターがあるだけでこれは使えない。

それで、京急で羽田に行って、チエックインをもう一度して、発券してもらった。これからはおさいふ携帯のない人は「人間扱い」されなくなるようで怖いことだ。

Fのチエックインカウンターは、北ウイングのエスカレータを登ってかなり歩いた所にある。欧米のFのカウンターは入口から一番近くにあるのが定石だ。

それはYクラスのお客さんがその前を通って「いつかはオレもここでチエックインするぞ!」という夢と闘争心を燃やす気分になる、つまり潜在需要を喚起させる意味もある。

HNDのJALのFカウンターはその意味で分かりにくい所にあるから「秘密チエックインカウンター」のようで損をしている。
入ると、すぐに保安検査がある。いわゆるファストトラックである。これは便利だ。セキュリテイでHISのお客さんと並ぶのはちょっとご免だ。

そこを入るとすぐにFのラウンジ。
ここは狭い。シートはまず大昔の「国民休暇村レベル」だ。これは六本木ヒルズのアカデミーヒルズとクラブの家具と比較しているのである。
ラウンジは狭いと言っても777ー200だと14人分しか座席がないのだから、まあ、これでも大きくスペースをとってあるということか。

無線ランに接続しようとしたら、PowerBookがIDを聞いてきた。「信頼できるネットワークはひとつもありません。JALというネットに接続しますか」とPowerBookが聞いてくるほどに、セキュリテイがルーズなのに、IDを聞いてくるとは笑止であるが、アテンダントさんにリクエストしたら、ログインのカードをくれた。ログインIDがあまりの乱数なので、その入力に眼がいたくなった。

シートとかインテリアとかそれなりのクラスであるが、なんせ、個人のスペースが狭い。特にビジネスセンターなどはどっかの学習塾のようだ。
まあ、付加料金が8000円なのだから、価格相応か。

時間を無駄に使わないために、ラウンジでちょっと良い焼酎。ただし「森伊蔵」ではない。「尽空」だ。でもこれはなかなか飲める。炭酸水を所望したがなし。さくらラウンジにはあるそうだ。Fのラウンジでソーダウオーターが置いてないのは、世界でここだけではないか?

それとも宗教上の理由か。

バーのテイバックはあまり揃っていない。トレイになにか紙が貼ってあるな、と思ったら「お持ちだしはご遠慮くださいませ」とある。

この「ませ」がくせものだな。

最初からFクラスの客をみくびっている。(というかFクラスの客の吝嗇を知り尽くしている)でもこれでは折角のFクラスの広告イメージがぶちこわしだ。

大昔の航空会社間のICAO規定では、禁止されているのは「お客さまが持ち帰りたくなるような品物を機内にのせるのは禁止」となっているのだ。つまりお客が持ち帰ったグッズはそのまま宣伝効果になるから、これは不当な広告宣伝競走にあたるので自粛しようというのである。まるで逆である。少量の物品を持ち去られたらJALの損になるというようなこまい発想ではない。

持ち帰ったテイバックの紅茶がおいしければ、そのカスタマーの奥さんあたりが次回はまたJALのFを選ぶということになるわけで、これは実に大成功、立派な宣伝商材だ。それが目先の紅茶のパックの数を経営の損益スケールにいれていては駄目なのは言うまでもない。

「JAL自慢の紅茶をどうぞお持ち下さい」とやれば効果絶大である。
こうやられると、逆に持って帰らないものだ。

それでお客さんが増えればサーチャージなど不必要になるかも知れない。

これは多分現場レベルの「お仕事」であろう。これが上からのお達しなら実に恐ろしいことだ。Fクラスのラウンジの紅茶の数をカウントしているより、大事な事は沢山ある。この注意書きは早速撤去した方がよいと愚考する。

まあ、いい加減に文句を云ったところでこれより搭乗。
しかし飛行時間は50分だから、その短時間でお酒を飲んだり、モノを食ったりするので忙しくなりそうだ。

2008年5月17日 (土)

日経BPのウエブ

R1148761 真夜中に起きて、メールを見たら午前1時45分に日経BPからメールが入っていた。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover2/080507_record/

これは日経BPのかなり巨大なポータルサイトである。5月29日から一週間、このウエブマガジンでクラシックカメラの特集をするそうで、そのトップインタビューのご指名にあずかったわけである。

LPレコードの特集であって、ピーター・バラカンさんのインタビューが出ている。懐かしい名前だが、自分バラカンさんが来日した1974年の前の年にウイーンに行って80年まで戻ってこなかったので、いわば「行き違い」である。

そのバラカンさんのコメントの中で、以下のくだりが心にしみた。

以下、引用。

60年代半ばくらいは、ロンドンが音楽の流行の発信地で、格好いい音楽を生み出していたと思います。新しい音楽を生み出していった時代背景には、いろんな要素が絡んでいると思います。例えば、ビートルズはリバプールで育ったわけです。リバプールは港町なので、あの頃はリバプールからニューヨークまで貨物船がよく行き来していたんです。イギリスの船員たちが船に乗ってニューヨークに着くと、積んでいた荷物を降ろすのが波止場の黒人労働者たち。そこで、イギリスの船員たちが黒人の労働者たちと仲良くなって、黒人が聴いていたブラックミュージックを聴いて、レコードをイギリスに持ち帰った。それで、リバプール・サウンドと呼ばれる新しい音楽を発信していくことになったんです。リバプールで、ブラックミュージックが流行っていたのには、そういった背景があると思いますね。

引用おわり。

なるほど、ビートルズも港湾の沖仲師から生まれたのか。日本郵船のライラ(75000トンのコンテナ船)を取材したわけだが、今は沖仲師ではなく、ガントリークレーンが荷揚げをするから、そういう人間を「媒介」にした文化は「伝染」しないわけだ。これはさびしい。

それで15日の午後に日経BPのインタビューと撮影があった。15台ほどのカメラを佃から、旅行用バッグにいれて、タクシーで往復運搬した。

行きかえりの東京の風景というものをじっくり観察して、それが面白かった。

面白かった、その意味は東京の四季の移り変わりが目でわかるからだ。メトロだとそれがわからない。

「季節の感覚はとうに失われている」

このフレーズは明治時代以来、かなりの文豪ですら、この常套句を使っているのだが、このフレーズが自分は大嫌いである。大好きな作家もこの一節で大嫌いになる。

その「季節の感覚はとうに失われている典型的な場所」がメトロだけど、そういう常套句が嫌いだからと言って、生活のためとは言え、メトロに乗らないわけには行かないのがつらいところだ。

タクシーだと往復で6000円。ヒルズ行くのに一月で20万円弱となる。それもよかろうが、この場合、歩かなくなるのが大題だ。昨日の歩数は往復タクシーなので5360歩に過ぎなかった。これはよくない。

地下鉄がまだ、東京に2本しかなかったころには、地上の交通が当たり前だから、子供心に地下を行くという方法に、未来冒険活劇小説を感じて興奮したものだった。

その感激は今は失われているが、丸の内線が聖橋を超えるときなどは、少年のパッションが一瞬だけ再燃する。あの一瞬だけはこの世の記憶として来世まで持って行きたいアウゲンブリックである。

話を戻すと、日経BPのそのクラシックカメラ特集なのだが、インタビューは1973年生まれの人である。だから、われわれにとって周知のことも、わかりやすく説明した。

同時に、同行した日経BPの中田編集長が「かなりマニアックなお話も」というので、要するに坂崎さんと立ち話で30分かけるような、「日暮里とニッポール」のような高踏的カメラ話にも言及した。

今のクラシックカメラの新局面は、その担い手が、われわれのようなおやじ趣味から、知的冒険者に移行しているという点である。

例によって、福田和也一味と「あの写真部」を肴にして、話題を展開した。無論、福田教授は「反面教師」であって、手あたり次第、触るも恐ろしい高級カメラと高級レンズを買うのであるから、よい子の皆さんはそういうカメラ非行に走らないようにしましょう、と、「教育者の立場」から説教申し上げたのである。

福田さんの世代がわれわれ還暦世代に比較して、まだ救いがあるのは「写真の向上心の欠如」にある。

これは大事なことだ。われわれだと、すぐに写真を上達させて「二科写真部に出品」とか、「東京都写真美術館で個展」とか、「日本郵船氷川丸1000ページ写真集を出す」とか、そういうような社会を転覆させようという怪しからんことばかり考える。

福田教授世代は、その意味で「しらけて」いるので、12時間の撮影行で、6回も飲み屋に入るのはあまり感心できないけど、写真への向上心が欠如している点は評価できるのだ。

昨日のインタビューで、指導したのは「高級カメラよりも安いクラシックカメラにその存在の真実が宿っている」という点だ。

1936年製のアメリカのアーガスカメラなどは、完璧なアールデコデザインであるが、その価格10ドルで手にいれた。

日本郵船氷川丸の一等社交室はアールデコであるが、それが気に入ったからと言って、持ち帰るわけには行かない。

アーガスのアールデコなら「テイクアウト」自由である。ポータブルアールデコだな。

あの写真部に関して言えば、マドリストの和歌子とか、新潮45の編集部員(女性)あたりに、クラシックカメラの嗜好の未来形が模索されていると言ってよい。

マドリストは、おじいちゃんの遺品のマミヤ6だし、新潮45の編集部員はデジカメのクラシック化を模索しているようなのだ。

そういえば、新潮(あのメジャーな文芸誌)の編集長の矢野さんもかなりクラシックカメラ方面にいってしまっていて、ライツミノルタCLなんかを振りかざしている。この人とは、1月前に四谷の「いぬっころ」で福田さん一味とあったときが初対面だが、実際に非常に若く見える。黒ずくめのスリムな人で、文学志向青年という感じであるのが、その方面の「頭取」であるのがおかしかった。こういう意外性の一撃は本物のブラックユーモアだ。

自分が29歳のとき、映画の仕事で、フォルカー・シュレンドルフ監督とウイーン近郊で仕事をしたことがある。(映画:とどめの一発)

ロケ地について、朝にスタッフが準備している中で、監督に挨拶に行こうと思って、黒澤さんみたいな、いかにも映画監督、監督しているおやじさんの所に仁義を切りにいったら、その人は大道具の係りの人であった。

本物の監督は、払い下げのNATOジャケットを着た、実に頼りなさそうな青年であって、びっくりした。

上の画像はR8。実に久しぶりの使用。スナップにはやはりコンパクトデジカメがよい。

2008年5月16日 (金)

夕暮れのDSパラス

R0011771_2 R0011772_2 R0011774_2 いまさら、車の趣味もないが、乗りたいのはカブトムシ型である。

それもVWとかポルシエではなく、シトロエンDSパラスである。

自分が欧州にいた当時は70年代だから、このカブトムシもやや時代遅れというだけで、案外にたくさん見かけた。

マンハッタンの怪人、ちょーせいさんは若いころ、この車で、アメリカ大陸横断をしたらしい。でもDSはなにかアメリカよりもやはり欧州である。

パリの場末のどぶの脇に、腰をぬかしたような格好でだらしなく駐車していて、そのタイヤには犬のおしっこが、かかり果てたりしているのだが、ひとたびエンジンが回りだすと、まるでらくだのように腰をあげ、それから高速度で、コンコルド広場を経由して、オペラの方に疾走してゆくのが魅力である。

一本スポークのハンドルと、飛行機よりも複雑な油圧装置と、かなりわいせつな革張りのシートを持つ、どちらかといえば、都会のラグジャリーな車に見えるのに、これがまためっぽうラリーに強かったりしたのも懐かしい。

銀行強盗もこれに乗って逃走してもらいたいものだ。

今、このDSに似合うカメラを考えた。やはり時代は1968年のパリ。

5月革命の時期でなければならない。だからカメラは16ミリ撮影機のエクレールNPRにしよう。NPRはウイリアム・クラインがポリー・マグを撮った、かっこいい16ミリ撮影機だ。そのクラインがカメラを構えている姿に惚れて、6台のエクレールが今、ある。

エクレールと、DSとはそのデザインコンセプトが似ている。

DSにこれを積んで、サンルーフからデモ、でも撮影してみたい。DSには、ガブリオレはなかっただろうか。でもあのカブトムシスタイルがよいのだから、やはりサンルーフあたりに止めておくのがよいか。

学生がやる気になって、パリの路上の敷石を割って、投石を開始する。

「敷石をめくるとその下は砂浜だ」と、五月革命の闘士詩人が謳ったあの状態をエクレールで撮影しよう。

ここでシトロエンを運転するカメラマンの自分は無論、20代でなければならず、しかもフランス人であるのは必須だ。まあ、オランダ人なら許せるが、アメリカ人ではだめである。

さらに五月革命の気分を盛り立てるためには、自分はゴロワーズの両切りをくわえる、ヘビースモーカーでないといけない。

ここまできて、夕暮れの街角を曲がって行くシトロエンに乗るという自分の願望はもろくも挫折するのである。両切りのゴロワーズは、煙くて脂くさくていやだ。想像の上でもいやだ。

有楽町の夕暮れに見た、DSパラスは60年代の夢を撒き散らす。なぜ、あんなに未来志向の宇宙船みたいな車が存在したのであろう。

場所はプランタンの前だから、まあ、日本でフランスの空気が濃厚な意味では、フランス大使館の次かも知れない。

ちょっと周囲に東洋人が多いけど、パリのヴェトナム人街とか、チャイナタウンにいると思えばよいのである。あわてて、Gパンのポケットから取出した、キャぷリオR7で撮影した。こう書くと、リコーの広報さんはもう過ぎたカメラのことを書くといっていやがるのである。(昨日もGDD2とR8のことは書いてほしいがR7はほどほどにといわれたのだ)それが面白くてわざと書いている。遠くなるDSの姿をズームインして「追い写し」する。28ミリレンズだけのGRDではこうは行かない。R8よりもR7の方がわずかに薄いので、携帯はしやすい。

シトロエンは、波板鉄板でできた、2cvもあるけど、あれはあれでクラスの異なる車種だから、ここで同一に論ずるわけには行かない。

2008年5月15日 (木)

死すべき渋谷

Photo_2 Photo_4 Photo_2 東急Beのライカ愛好会の撮影会はこの前の土曜だった。
例によって、最初の30分は「座学」で、あとのセッションは60分の撮影である。

もともと自他ともに許す「渋谷嫌い」なので、講座の外題も「渋谷嫌い」とした。
15年前に4x5のカメラでその嫌いな渋谷をカラーで撮影した。
写真家にとって、好きなモチーフより、嫌いなモチーフの方が燃えるのである。だから渋谷は嫌いでも、渋谷が嫌いなその意味をカメラで解析するのは、ちっとも苦にならない。

12名ほどの参加者で、中には75歳で亡くなった父上のライカM6アンスラサイトを持参の青年がいる。「お父様の供養になります」と、申しあげた。

ライカMPの今のレプリカ(ライカ社製だから、レプリカは変か。別に国産のワインダーが付いていたって文句はいわないが)ではなく、1956年製造の「ほんまモノ」を持ってきた人も居る。
「歩く三万ドル」というところだ。

ヒルズの向かいのミッドタウンで仕事をしている、という紳士がいる。話をしてみたら、富士フィルムの広報さんだった。それで遅ればせながらごあいさつ。

こっちは、掛け値なしの田中長徳のはずでいるが、受講者さんはいずれも「身分を隠して」いるので怖い。

そういう怖い参加者さんの、ご機嫌を損ねてはならんと思い、まず撮影に行きたい方角を議会制民主主義の真似して多数決で決めたら、「西方10万億土」となったので、これは1時間では行けないから、西方1万歩」に負けてもらった。

この神泉、円山町あたりは15年ぶりに足を踏み入れたのだが、こんなに「写真のモチーフとして面白い」場所とは知らなかった。

こんなへんてこな街は世界のどこにもなかろう。

そういう環境で「お若い方々」は、それを普通に楽しんでいるのがかなり変に見える。

やはり若いもんにはついてゆけない。しかし思うに自分の1976年の夏、この時、一度だけウイーンから帰国して(現代日本写真家展の準備で)その時は渋谷のジャンジャンの先の渋谷東武ホテルに住んでいた。自分は「にわか外人」ぶっていたので、音羽の両親の木造二階建ての関東大震災の後に出来た仮普請などには住めなかった。それで渋谷を自分の街と思ってしばらく滞在していたのだが、その29歳当時、やはり渋谷は好きになれなかった。

だから自分の「渋谷嫌い」は40年来の筋金入り。

カメラはブラック(リペイント)ニコンS2で、ゾナー(戦前の沈胴のやつ)50ミリである。今週末の大阪ニコンプラザの講演会に合わせて、福田和也さんの50ミリf1、1とは無理ながら、山とある50ミリのニッコールをカメラジャングルに見失ったので、代打としてツアイスである。

時代はかわった。

40年前だと、お金持ちはコンタックスにゾナーを大事にして、雨の日には大事なコンタックスが濡れてはならぬ、というので雨に濡れてもおしくない、ニコンS2とかSPにニッコールを付けて撮影に行ったものだ。

ブランドの価値反転。やはりコンタックスブランドがなくなって、コンタックだけになったのもかなり効いている。

フィルムは下の55ステーションで買った、3本で799円だかのコダックの400カラーネガ。

「死すべき渋谷」とは50年前のアサヒカメラで、ペンタックスのブラックで森山大道さんみたいな、くろぐろ写真を撮影していたパリのカメラマンの「死すべきパリ」のぱくりである。
この渋谷は観察するに、充分に「死すべき」資格を持っている。
いや、「死の街ブルージュ」ではないが。

そのブルージュにはホテルアムステルダムという、ちょっと古いホテルがある。
創業17世紀。

家人の大学の歌の教え子で、ロータリーでイタリア留学して、そこでイタリア人のファゴット拭きと結婚した女性は、今、15世紀の教会の一部であった家を購入するそうだが、四川ではないが地震が怖いので、専門家に調査を依頼しているそうだ。

これが歴史だな。15世紀の建築に耐震基準があったかどうかは分らない。
でも、「死すべき渋谷」は100年前にはただの丘陵で、そこに独居する独歩を花袋が訪問して、丘の牧場からミルクを買って、それをココアにまぜて飲んでいる、
これが100年前。
今の渋谷で100年前はおろか50年前の建物も発見は困難だ。Photo_5 Photo_3

2008年5月14日 (水)

赤いBMWに「しろおけ」四匹

R0011711 今年は佃の住吉さまの本祭りである。それで例の如く、佃小橋の下に埋めてある、幟用の巨大な柱(水中に埋めるのが一番良いらしい)を、重機で掘り起こす大作業がある。そのぷーんと来る、川の泥のにおいをかぐと、ああ、本祭りだなあと思う。
ライカインコの先代が亡くなって、4代目のライカインコが来たのは、前回、つまり3年前の佃祭りの後であった。
その前の前、9年前の佃祭りに二代目のライカインコが昇天してその時も佃の幟の立っている時期であったので

飼い鳥も老いて佃の幟かな   長徳

昨日、雨の中をお祭りの打ち合わせをしている。その小橋の前に、真っ赤なBMWが停車して、そこに四匹の「しろおけ」が居った。
「しろおけ」とは過去三十数年、うちでだけ通用する用語なので、説明すると、白いプードルのことだ。
これはウイーン時代に作られた言葉であって、ウイーンの住まいの最寄り駅の前のニューススタンドに黒いプードルがいた。これがなかなかの器量良しで、「ああ可愛い、まるで犬のお人形みたい」と家人が言った。

犬のお人形は変である。人間を形どったのが、人形である。
それなら、犬なら犬形、つまり「お犬形」(おけんぎょう)である。
これは長いので、短縮形にして、おけんぎょう、が、たんに「おけ」になった。ただしその前にそのプードルの色を前置詞として使用するので、
黒いのは「くろおけ」
白いのは「しろおけ」
茶色は「ちゃおけ」
灰色は「ぐれおけ」
となる。

メタボリズムがメタボになったようなものか。

ゆえにプードルの子供が四匹では長いので、こしろおけが四匹となる。
こちとら、魚河岸の人間だから、長いこと言ってちゃ日が暮れるわけだ。

そのしろおけ4匹などは、ライカに真面目にトライXを入れて「コンポラ写真」を撮る芸術に萌えていては、絶対にこういうものは撮影しない。
しかし、Gパンの尻ポケットのR7なら、そういう抵抗感はまったくない。
ここら辺が、ライカの銀塩撮影と、コンパクトデジカメの国境である。
デジカメの撮影するものはその意味で節操がないが、それはそれで良いことにしよう。

2008年5月13日 (火)

赤フィルターは何処に売っている?

最近は、定時にヒルズに出社して定時に退社(でも最近は多忙なので退社は遅れぎみ)している。

たかだか佃からヒルズまで30分の通勤時間であるが、その間の観察が面白い。もう還暦なので、席があいていれば、しっかりシルバーシートに座っている。

ところでパリの地下鉄では、座席に座る順番が決まっていて、妊産婦とか老人は無論、権利があるのだが、その中に第二次大戦中に負傷した兵士という一項目があった。

もっともこれはそういう、ヴェテランがまだ矍鑠としていた、1970年代の初頭の話であって、最近はこの表示は見ないようだ。

だからこれはまだパリのメトロに1等と2等のあった時代の話だ。

朝の女性専用車も結構だが、国内線の空の便もファーストクラスがあるのだから、地下鉄にもファーストクラスがあってよい。いや、地下鉄は朝は通勤に使うのだから、これはビジネスクラスか。いや、そうなると、今ある普通のコーチはツーリストクラスになってしまい、不公平である。なにも朝のラッシュに乗っている皆さんは、これからパリに行って、エステをしてショッピングを楽しむわけではない。ちゃんとお仕事に行くのだから、やはり1等と2等のクラスか。

それR0011652 はともかく、目の前の女子高生が勉強しているときの、赤いフィルターが気に入った。昔なら、R60というフィルターであって、これは当時のニコンFに21ミリのレンズで撮影した記憶が浮上したが、そのフィルター枠はこれはマットブラックではなく、かならず、クロームの光っているやつでないと感じが出ない。

これは理由なんかじゃなく、そういうものなのだ。フィルターの枠は銀色に限る。

地下鉄の女の子の勉強フィルターは、これを重ねると、赤文字が見えなくなるのであろうが、これがかっこいいのは、それがプロの道具であるからだ。プロの女子高生という言い方は変かも知れないが、やはりユニフォームを着ている。そのユニフォームは伊達ではないのだから、やはり女子高生のプロか、、、、。

これは銀一にもレモン社にも、スキヤカメラにも売っていない。車内で「すみません、その赤いの、どこで売ってるの」と聞くのは迷惑防止条例になりそうだ。

まず、文房具店であろうが、近所のお店、銀座の伊東屋などでは売っていないだろう。やはり女子高の購買部などとなると、これはほとんど、入手困難。

YAHOOのオークションにあるかも知れないけど、その検索用語が不明である。

赤セルロイドではだめであろうし、案外に商品名があるのかも知れない。たとえば「天才君レッド」みたいに。

この赤いモノなら、プロ用のビデオカメラである、レッドシネマならオンラインで買えるのに、たった一枚の赤いフィルターが買えないのは、現代の不条理である。

今はあるのかどうか知らないけど、こういうモノが「ブルセラショップ」にあったら、自分などは興味を示すだろう。だって、女子高生何日ものの下着などは、えんがちょだから願い下げであるが、この赤いフィルターは、若い女性の記憶の意思を示す視神経の眼力を教科書の上からさえぎり続けて1年」というものである。

このフィルターには女子高生の知識欲のために無残にさえぎられた、神経エネルギーがセルロイド内に充満蓄積されて臨界に達しているわけだ。メルトダウン寸前の赤いセルロイドというのは、我々が赤旗のもとに集まらなくなって以来、久しぶりの興奮する、赤色だ。

凄い、、、。

ここまで書いて、仮にこのフィルターが手に入っても、自分にはそれを使いこなす、参考書がないのに気がついた。

まあ仕方ない。やはり、自分はこのレッドフィルターよりも、レッドシネマで我慢しよう。

上のショットは、R7で撮影した。これをフルサイズのデジタル一眼で撮影したら、即、検挙だな。ケータイのちゃんぽらん、だともっと危険。

2008年5月12日 (月)

電話嫌い

Sr_24680img600x4501208673380p101000 足穂によると、ビクトリア女王であったか、誰であったか、なんでも英国王室の偉い人が、電話嫌いで有名であったそうだ。
足穂がそれに同感して、ああいう機械に向かってものを言うことを強制されるという行為の不気味さについて書いている。

そして、なにか機械でもって、こっちから文字を送ったのがそのまま向こうに届くようなシステムの方がよほど理にかなっているとも書いている。

飛行機少年であり、パテの映画機材に憧れるキャメラおたくであった足穂が、唯一知らなかったのはインターネットであった。しかしその登場のずっと前にそれを予見しているわけだ。

自分が電話嫌いになったのはこの15年来であろう。以前、写真家名簿などに家の電話番号が記載されていたから、「熱心な読者さん」と自称する方からよく電話をいただいた。

時間があるときにはそういう相手を閑談していたいのはやまやまであるが、皮肉なものでそういう電話は忙しい時をピンポイントにしてかかってくるのである。

以来、電話を使わないことと宣言した。
だから、家人であれ、編集者さんであれ、浅田恵理子であれ、福田和也であれ、坂崎幸之助であれ(この間、敬称略)誰でもメール連絡である。

先日、神田明神脇のギャラリーバウハウスで展覧会の開催した榎本敏雄とは、日本デザインセンターを「卒業」以来付き合いがなかったが、38年ぶりに先日、トークショーで旧交をあたためた。

榎本はあたしが電話を使わないことは知らないから、昔の写真家協会かなにかの名簿であたしにごく普通に電話してくる。
しかしこの場合、電話に出ないというわけにもゆかないからその時には電話口(これは死語であるが、昭和20年代にはでんわぐち、という呼び方をした)に出て、トークショーの打ち合わせをした。その時、今後はメールにしてくれと言ったかも知れない。
しかし電話が普通の連絡手段と思っている「現代人」にそんなことを言っても無理であるのは承知の上だ。

その後、留守電で榎本から「5月30日にパーテイをやるので来てください」と入っていた。
それには仕事で出られなかったが、電話は「その場かぎりのもの」であるから、用件はメールの方がはるかに良い。

だから電話は今後も使わない。

しかし、電話でないと用の足りない部署がこの世界には何件かある。
それは、航空会社の予約のシートアサイン(もっともこれは最近ではオンラインで出来るようになった)京橋税務署(インターネットで個人課税課の人とか管理課の人には連絡ができない。イントラネットはあるそうだ)それと六本木ヒルズクラブのダイニング予約である。

この三カ所が電話をかけないと用の足りない三冠王だった。
そのうちの航空会社は先に書いたように、今はオンラインで出来るから電話はよほどのことでないとかけない。
京橋税務署は年に数回の連絡だからまず良いとして、六本木ヒルズクラブはメールでの予約が出来ないので面倒だ。

49fのオフィスから51fのクラブに電話をかけて予約をとっているのである。
まあ、考えかたによっては自分の唯一の社会との接点のある「有線連絡」だからこのくらいは仕方ないと考えている。

2008年5月11日 (日)

ニコンS2に付けるレンズ

R0011673 今度の日曜には、大阪ニコンプラザでのオープニング記念の基調講演があるので、実にひさしぶりに大阪。一泊2日。
ニコンプラザでの話だから、ニコンを持参するのは当然ながら、それならクラシックなFを持参しようと最初は考えた。

1966年に手に入れた、21ミリf4は今でも使っているが、すでに42年愛用しているわけで、こういうのはあまりニコンの販拡にはならないのは確かである。
自分の場合、たしか、ニコンの新品を買ったのは、10年前のニコン登場50年記念の時の、F5に例の「ぐにゃりとしたNのロゴ」の入ったのを買った。
本当はそういうのは禁じ手らしいのだが、ニコンの本社から買ったのである。その時の「正式な領収書」はチエックライターで印刷した「本物」であった。
ニコンの出したすべての生産物をオリジナルと見るのなら、F5のぐにゃりロゴよりも、ニコン本社の領収書の方がコレクターアイテムだ。

それでニコンFを持参しようと考えたのだが、そうなると交換レンズ、まず21ミリと28ミリ、55ミリマクロ、250ミリ(これは珍品)それに200−600ミリズームなども持って行きたくなる。しかしアフリカにフォトサファリに行くのではないから、重さが問題であって、結局はS2の塗り直し1台だけ(あとはcoolpix 5100)にしようと思い直した。

西成の古物商。それと、恐怖の学帽、という日本カメラショーでの名物人物がいて、それが日本光学の人の間で、話題になったのは、更田さん時代であろう。このニコン伝説を、今度の日曜にお話しようと思う。

ところで、42年前に買った、その21ミリレンズであるが、本来はFマウントのニッコール21ミリにcosina製のF−Nアダプターが良いのだけど、他にも普通の35ミリレンズを持って行きたい。
それなら、ニッコール35ミリf1、8である。ところが、この銘レンズを佃のカメラジャングルの中で行方不明にしてしまい、発見できない。
それで代打として、カールツアイスイエナのビオゴン35ミリのさらに代打として生産された、ジュピター35ミリをとりあえず装着した。
まあ、これはウイーン時代に圧倒的に愛用したレンズであって、そのコストパフォーマンスはクラシックビオゴンなのだし抜群である。

2008年5月10日 (土)

ハーゲンダッツの限定アイス

R0011674 R0011675 この3月のんNYKライラの乗船で、7000個のコンテナを見て回ったわけだが、その中に冷凍コンテナというのがある。

アイスクリームのハーゲンダッツなどは、その冷凍コンテナで運搬されているという。知らなかった。その話を今度の1000ページ本「チョートク 海をゆく」(「日本郵船氷川丸からタイトル変更。そのいきさつにかんしては、この本の中で詳しく触れている)の中で、コンテナ船のお話を書いているのだ。

そういう事情のところに、朝日の朝刊で前代未聞の「アイスのオンラインの限定販売」の広告である。

やじうまじじいなので、早速アクセスして、あわよくば買い物しようと思った。ところがアクセス集中にてまったくつながらない。

思うに、これはアイスの末端価格である。大変な値段である。2500セットとか3500セットというのは、この新聞の広告代も込みだから高価になるのはわかるが、それでも高い。

アクセスできたら買おうと思っていたが、アクセスできないので冷静になった。明日は築地の開市日である。

5個で6000千円のアイスよりも、6000円を投じるなら、場内でかなりの買い物が可能だ。まず、危ないところであった。

2008年5月 9日 (金)

八重洲ブックセンター5月29日

【福田和也さん友情出演のあたしの新刊トークショーのお知らせです】

http://www.yaesu-book.co.jp/events/index.html

最近、文学界を「あの写真部」で騒がせている、福田和也さんと
都内をデジカメとクラシックカメラでジグザグ徘徊しております。

その福田さんが、あたしの新刊「カメラは知的な遊びなのだ。」
になにやらご意見、ご賛同があるというお話なので、
それなら、いっそ、トークショーを開いて皆さんの前で白黒をはっきりしようということに。

銀塩カメラと、デジタルカメラの30年戦争の決着がいよいよ明らかに。

場所はカメラジャーナル時代から御世話になっている、八重洲ブックセンターさん。
隅から隅まで、ずずーーーいっと、ご参加ください。
あ、でも先着100名様だから、お急ぎ願います。

チョートク

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★『カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。』刊行記念 トークショー

田中長徳&福田和也講演会

タイトル「カメラは知的な遊びなのだ。」

・日時 2008年5月29日(木)18:30〜20:00(会場18:00)
・会場 八重洲ブックセンター 本店8Fギャラリー
・募集人員 100名様(先着順)
・参加費 無料
・申込み方法 八重洲ブックセンター1Fリファレンスコーナーもしくは電話03-3281-7797

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51) Book カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

著者:田中 長徳
販売元:アスキー
Amazon.co.jpで詳細を確認する


ニコンSPのセカンドチャンスオファー鷺

465b★日録

本日も終日、ヒルズ。今度の1000頁本の編集作業。

終わるまで帰宅できないのは、どっかの学習塾なみ。

すでにebayは10年。ヤフオクはそれほどではないが、結構長い間、かかわっている。

ネットオークションの醍醐味は、家人から頼まれたコシヒカリとか、はちみつとか、あるいはデリーのカシミールカレーを買うためではない。

こういう実用主義は面白くもなんともないが、不必要なものを買うのは、実に面白い。普通の不必要な品物とはライカM3にノクチルクス50ミリf1,2が、その最右翼と目されているが、自分の場合にはもう少し、上昇してしまったので、たとえばタルコフスキーがソ連を脱出する前に映画を製作していたソ連製の35ミリミッチエル撮影機(と、同型の)とか、NASAが使用した100インチの反射望遠レンズとか、世界に60台しか存在しない16ミリカメラとか、ローマ法王がもらったのと同じ、金メッキのレクタフレックスとか、ともかく「面倒な物」それに「業物」が多い。まあ、頼朝公六歳の時のしゃれこうべ、のたぐいである。

要するに市場価値はないから、これをわれわれ、同業者は「再販不可商品」と呼んでいる。

ところで、そういう業物ではない、誰でもほしがる商品にこの前、ビッドした。

ニコンSPだけど、あまり状態がよくないので最低落札価格はなし。というやつだ。こういうのは、別に自分がほしいのではなく、ご祝儀で出品者さんにお金がもっと入るように、高値をつけるのであって、それでその価格でその品物が買えるなら、ハッピーという程度である。

それでめでたく、あたしは誰かに高値更新(これをアウトビッドされたという)されて、オークションは終了した。

日本郵船氷川丸の本の追い込みで、ヒルズでしゃかりきになって仕事していたら、以下のようなメールがきた。

@@@@@

私、ヤフーオークションで
☆☆ニコン SP ジャンクボディ最低落札無し!☆☆
を出品しましたxxxx と申します。

実は今回のオークションで落札した方からキャンセルをしたいとの連絡が入り話をしたところ、オークションの評価に悪い評価を付けないでもらえるのなら、今回のオークション手数料とキャンセル料という形で代金の一部は負担しますとの話をもらいました。

もし、まだあなた様に購入の意思があるのであれば再出品することなく、このまま取引が出来ればと思い連絡しました。

評価等は付けられませんが、その分キャンセルされた方から代金も一部頂けるので、入札額よりも多少の値引きをさせてもらいます。

商品の金額ですが、送料込 61,000円ではいかがでしょう?

発送は 東京都 からです。

あなた様以外にも同様のお話をしていますので、購入の意思がありましたら、お早めにお返事下さい。
@@@@@
ああ、またきたな、と思った。差出はp;;;;;;;;rとある。
これはセカンドビッダー狙いのオークション鷺である。
だいたい、コピーアンドペーストで大量のメールを送るのであろうから、数週間前に来たのとまるで同じである。
この前は無視したが、あまりに勉強不足なので、上の商品がすでに到着して、その買い手からのフィードバックのメールを添付して返送してやった。
評価:  非常に良い 非常に良い出品者です。 評価者:xxxxx   
☆☆ニコン SP ジャンクボディ最低落札無し!☆☆ (終了日時:2008年 4月 30日 20時 13分)
コメント 無事届きました。説明文にあるとおりの状態で大変満足致しました。外観は予想以上に良かったです。送料もご負担頂き感謝の気持ちで一杯です。本当に良いお取引ができました。大変にありがとうございました。 (評価日時 :2008年 5月 3日 10時 47分)
二番手のビッダー狙いのこの手の鷺は、伝統芸能であるから、腹もたたないが、タイミングが悪すぎる。
二番手が、ほしいものを買い逃して、欲望沸騰中にメールを送ってこないと意味がない。
ネットオークションのもっと笑える話はたくさんあるので、そのうち、本にしようと思う。

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その続編。
今朝、以下のメールに接した。

内容:
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本日の記事を見て吃驚しました。そのSPを落札した者です。以前
、同じようなメールが来て危うく購入しそうになりましたが、やはり詐欺なのですね。長徳さんには、うつわアートで一緒に写真を撮って頂いたり、前所有者が長徳さんだったというM5を所有している旨、連絡させて頂いたことがありますが、今回、このような形で記事にして頂き、嬉しいような不思議な感じが致しました。更なるご活躍に期待しております。大変ありがとうございました。

@@@@@@
上の鷺メールの人p;;;;;;;;rからは深夜にまたメールが2通きたようである。内容は見ないで、迷惑メールフィルターでゴミ箱に入れた。
これはかなり組織的な犯罪ではないか?被害が小額だからそのまま横行するケースが多いのであろう。
なお、このSPのハイビッダーはあたしの知り合いであることが分って愉快だった。
これは良い買い物だ。

2008年5月 8日 (木)

フォカの軽さ

R0011654 フォカとはいまさら言うまでもないが、フランス製ライカコピーである。

つまり自分流に言えば、それは「らいか」である。らいかとは以前は国産ライカコピーに関して使っていた用語であったが、もうその範疇を広くとっても良いであろう。

うちの前の隅田川にはそこらじゅうにパリの記念物がある。中央大橋の上の銅像は、パリのシラクから送られたものだし、親水公園のステップのぼっくいには「姉妹河川」とか言うので、セーヌ川と隅田河の名前が並んでいる。

古来、そこを流れているのに、セーヌはその水系をパリ市内では利用できなかった。にもかからわらず、水害は常に起きている面倒な河だ。

だから、パリはセーヌに浮かぶ船である。魚はヒエログリフでは死の象徴だから、水が出れば魚はよろこぶ。しかしセーヌに浮かぶ船たるパリもやられてしまう。

ブレッソンのような、フランスの巨匠がなぜ、純粋なフランス製らいかを使わないのかは長年のなぞである。アンリはユダヤ人とは思わないが、フリッツの象徴たるライカをあそこまで使うというのは、なにかくれた主義主張があるのであろうか。

そのブレッソンはある時期には、キヤノンの4sbなんかを使っていた。しかしフランスらいかを使ったかどうかは確認できない。

だから、というわけでもないが、あたしは最初のフォカを1980年のリスボンで買って以来、フォカファンなのである。

数年前に、黒田慶樹偽ライカ同盟会員から、フォカの大口径レンズ(と、言っても明るさはf1,9)のオプラレックスをもっと世の中に知らしめようというので、オプラレックスクラブを旗揚げした。会員は黒田さんと、あたしの二名のみ。

ようするに、そういうレンズブランドに夢を見ることこそがMTF曲線を云々するよりもずっと大事なのだ。

フォカのよさは、そこそこの写りをして、同時に非常に軽量という点にある。勝間光学の双眼鏡の6x30はヒルズのロッカーに入っているが、そのケースには雑品を入れている。

それが一昨日はフォカユニバーサルRCに28ミリと135ミリのレンズをつけて、双眼鏡ケースに入れて佃からヒルズを往復した。

そのまま、取り出すのを忘れて、今日、またそのケースをヒルズに持参した。ほかには24x24のテナックス2も持参しているのだ。

こういう軽量な機材はよい。

フランス海軍がこのカメラとレンズの5本つきのセットを軍用に指定しているが、まんざら理由のないわけでもあるまい。

★日録。

真夜中の地震にて、寝不足の気味あり。

午前9時すぎに、佃を出る。しばらく、佃小橋の脇の水路のベンチに憩う。

最近の行動はあまりに定番化しているので、今日のことが昨日のことか、それとも明日のことか、ちっとも区別つかず。

月島の6番出口にて、うちの隣のレストランのソムリエさんと今朝も遭遇。

あいさつ。

午前10時より仕事開始。現在、午後8時になろうとする。調子が出てくると、とまらなくなるので、ロッカーから180プルーフのポーランドのうおとかを出して、ソーダ割りにて小休止。明かりのついた東京タワーが格好のつまみである。

R0011670_2

2008年5月 7日 (水)

KCチョートクカメラコラム

★デジカメの正方形フォーマットR1147935

ローライフレックスミニデジカメ

有史以来の絵画の構図というのは、いつごろから発生したものなのかは、それは知らないけど、ラスコーの有史以前の壁画などでは、紙ではなく洞窟の一部に描かれているのだから、この意味では地の大きさは最初から規定されていないところに、図が描かれているわけだ。

ここがその後の長い絵画の歴史(それと写真の歴史)の状況と異なる点であろう。

その意味でダゲレオタイプなどはしっかり現代絵画なのであって、そのフォーマットはちゃんと矩形になっている。

欧州のミュージアムなど、走り見ていて、ルーベンスの大作であろうが、ゴッホの小作であろが、それらは矩形の画面であるから、縦位置か横位置かなのだ。なるほど、ナポレオンのアルプス越えなどは、あれは縦位置でないと収まりが悪いであろうし、人物は縦位置、風景は横位置をいう定番はなかなかに崩れない。

自分の記憶の中で、正方形の絵画の名作を思い出すに、唯一のその実例はウイーンの歴史美術博物館に収蔵のきわめて小さい、フェルメール(これをウイーン人はフェアメーアと発音するのも懐かしい)の小品である。

たしかアトリエの画家の姿がガラスに反射している室内を撮影、じゃなかった、描いたものであるが、そういう内容はすぐに自分の頭から出て行ってしまうので、あるいは記憶違いがあるかも知れない。

デジカメの正方形画面は自分は気に入っている。その最初は自分の知る限り、リコーのGX100である。この正方形の画面は、まさにそのスタイル(カメラの)こそ異なるが、ローライフレックスであり、ハッセルブラッドなのである。

正方形の画面には、従来の構図を破壊するところがあるし、NASAの発表している宇宙写真もそうであるが、宇宙の上下のない空間ではこのほうがカメラが使いやすいのは確かだし、そこにはなにやら、宇宙的な郷愁とでもいえる感覚が流れている。

そこが正方形画面のよさである。

正方形画面でかなりシリアスだと思えるのは、例の駒村商会扱いのローライフレックスミニデジカメである。このサブミニチュアデジカメの面白さは「最初から正方形の画面以外には撮影ができない」というところにある。これはある意味での「カメラの思想が正しい」ということになるのだが、まさかそこまでは設計者も考えてはいないであろう。

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★銀塩カメラの正方形フォーマットR0011653

テナックス2

フィルムカメラの正方形のフォーマットといえば、ハッセルとローライフレックスをその二大巨頭としよう。

これに国産外国の各種の中判カメラ、つまり戦後のあらゆる歴史上の中判写真機が加わるわけだ。

ところで、正方形のフォーマットにはなにも120とか220フィルムを使用する機種だけではない。135のフィルムを使用する正方形のカメラには有名どころなら、ドイツのロボットがある。これは24x24のサイズである。

ロボットはもともと、ドイツの空軍機に積まれて、その戦果を記録する目的で製作された。空中戦の場合、なにも構図にこだわる必要はないし、モチーフがちゃんと写しとめられているほうが重要である。

その意味で正方形の画面はロボットカメラの基本であった。

一方でツアイスイコンのテナックス2がある。これは戦前のカメラであって、言ってみれば、コンタックス2型は24x36であるが、それを正方形の24x24にしたらこんなカメラが出来ました、という感じだ。

ウイーンに居住していたかなり初期にウイーンの古いカメラ店のウインドウにこのカメラを発見して、その軽快さと描写のよさに感激したのを今でも思い出す。

最近では、まだマカオが香港に返還される前(だから最近でもないが)に、マカオの一番北にある公園から、このテナックスで「人民中国」を撮影したらその場で巻き上げの壊れたことがあった。

今、もっているのはそれとは異なる固体であるが、この調子はすこぶる良い。

困るのは、これでカラーネガを撮影して、森タワーの6fの55ステーションに持参したらCDに焼いてもらえなかったことだ。ようするに、フルサイズとハーフサイズしか受けないのだ。店長が「CDには焼けないフォーマットです。なにかトイカメラかなにかで撮られたんですか」と聞いてきた。

ツアイスの天下のテナックスがおもちゃのカメラとはけしからんが、まあ、これを愛玩しているのだから、トイカメラには違いない。

佃のレストラン

連休の最終日はそれなりの好天で良かった。
終日、佃にて本の仕事。
12時前に思いついて、家人とタワーの隣にある、レストランに行く。ここは我が家から一番近いレストランなのである。ようするに、徒歩で30秒もかからないのが良い。家人などもヒルズのクラブは出来た当初は行きかがったが、地下鉄に乗って行くのが面倒なので、最近はもぱらここである。
毎朝、最近は7時台に家を出るが、これが9時台だと、このレストランのソムリエさんに月島の駅に行く途中で遭遇する。
一昨日は9時台の出勤であったから、ソムリエさんに挨拶して、「近々に行きます」と言った。
最近のヒルズのランチはサンドイッチで、買う銘柄もきまっている。千葉のくぬぎ台というところで製作のなんとかデリカのサンドイッチである。これを11時半に食べて、午後4時頃にはスープを飲む。または食べる。
その食生活がずっと継続していたので、今日はそれを乱拍子にする意味で、ランチに来た。
明るいパテイオの眩い反射を見て、20年前のパレルモのどっかのレストランでこれと同じ光があったのを思いだした。

そのパテイオであるが、もう10年以上前に、浅田恵理子とあれは荻窪のオリエンタルグリーンという、かなり変わったレストランで会食したが、そこには店の奥に広大なパテイオがある。
いや、そう思うのはまったく自分の思いこみに過ぎないのだけど、そう思わせるような店の造りであった。
パテイオというのがレストランにあれば、それに越したことはない。
ただ、この佃のうちの隣のレストランみたいに、実際にあればそれが最高だけど、客としてそこに行くのは、パテイオに立ち入るわけではないから、先のオリエンタルグリーンの場合、実際にはパテイオは存在しないのだけど、それを存在すると思えば、存在するわけである。
まあ、パテイオは一種の信仰だな。

実は一昨日のヒルズの49fでのランチは、サンドイッチを食べつつ、アメリカの「グルメ」とか言う雑誌をめくっていたのだ。アメリカのグルメ雑誌も最近では、めたぼ怖いの健康志向であって、その特殊はローマの近郊の鄙びたレストランに行くとか、同じく、かなり辺鄙なイタリアはどっかの村の肉屋のハムがどうとかとうような、嗜好である。

そのカット写真は、例によって、飛行機のビジネスクラスの広告みたいな軽い食事の写真であった。それはまあ、以下のような画像とも共通点がある。こういうカットもR7で十分だな。

終日、佃で仕事。

今度の本(表紙のデザインとタイトルは変更になる可能性大)の為の実際に使用したカメラの話を書く。まあ、タイトルに関しては自分は一度も口を出したことはない。
なぜならこれはかなり高度な政治的なレベルの話であるからだ。版元の東京キララ社と日本郵船と博報堂に属する高度レベルなのである。

時折、バルコニーを散策。

家人は買い物に行くとき、戻ってきた時、田原総一郎さんに二度もタワーの入り口で遭遇して挨拶。田原さんはこのタワーの住人である。

本日、散髪。1年ぶりか、、、。

R0011625 R0011632

2008年5月 6日 (火)

ニコンS2のアメリカでのプロモーション絵葉書

1174102552422_p1010003 232139_p1010004 ニコンS2使いは、自分の周囲で見れば、最初にこのカメラを使っていたのは、岡山の戸倉元である。1960年代後半の日大の写真学科の学生であったから、申し合わせ事項のように、Tシャツのタンガリーシャツベルボトムジーンズという中で、戸倉は一人、ストレートのジーンズという孤塁を守っていた。

その戸倉の肩からはすかいに下がっているのが、ニコンS2のクローム仕上げにこれもクローム仕上げの50ミリf1,4であった。

自分は1年先輩で、すでにM2のブラックを持っていたから、

Guen Tokuraquesなにするものぞ、と思ったのだが、戸倉はその翌年だかに、「退光現象」というタイトルで、個展をニコンサロンで開催した。たしかこれが。あたしに続いて日大写真学科で学生の「分際」で個展を開催した、第二例目であったようだ。

その影響で、戸倉はただ長髪なだけではなく、写真の方もなかなか挑発的であることが判明して、それから親交が深くなった。その後、30年ほどは離れていたのが、数年前にあたしが戸倉のスタジオの一角に「チョートク岡山固執堂」を開館した縁などで、最近はまたぼちぼちお付き合いがある。

上の1955年のニコンS2のアメリカのカメラ店のプロモーション絵葉書を見ると、当時、この無名の極東の敗戦国の目の釣りあがった連中の作った写真機をアメリカ人は別段「人種差別」をすることもなく、ちゃんと受け入れているのがえらい。

戸倉のもっていたニコンS2は実に金属的なシャッター音がした。それが当時の自分にしてみると、スナップ写真はスニーカーで歩行する必要があったほどだから、その甲高いシャッター音が腑に落ちなかった。

今でも、チタン幕になる前の布幕のシャッターがなぜにあれほど「乾いた金属的な感覚の音」がしたのか不明である。

当時のフォークソングエージの連中には、車は肩遅れVWのビートルであり、カメラも型おくれのS2が理想であった。

ただし、当時のVWは、日本ではあまりにも高価だった。だからスバルでもよいというわけでもない。

島尾伸三が椿さんの家に寄宿していたのは、あれはいつであったか、その前の旦那が椿方に時々現れる。その人の愛車はVWなのだが、家のがきはそれをスバル、スバルと言っていた。これは島尾本人から聞いた。

この舞台は、西武線の清瀬かどっかのはずであって、島尾は父上からもらったか、あるいはまきあげたかしたリコーワイドを通学中の女子高生のスカートの中にいれて撮影をした時代である。(これも本人談だから、そこには小説的な脚色がありそうだ)

そのリコーは、島尾敏雄氏の友人の吉行淳之介が島尾家には写真機がないので、それを「哀れんで」くれたことになっている。(島尾伸三談)

自分はその父親のエイスケの方がどちらかといえば好きだ。そのご近所で生まれたのが、岡山出身の百鬼園というのも、縁というものだ。

最近、我が家が大ファンなのは、エイスケならぬ、鸚鵡のホースケ(10日ほど前にそのリンクあり)である。

思えば、迷惑防止条例もない、平和な時代だった。

日録。月曜日も終日ヒルズで仕事。

紙数約50枚。以前、「ライカを買う理由」(東京書籍)を書いた時も日に50枚になったことがある。この領域になると、書いたから疲労するということはない。

もう、永遠に書き続けられる感じになる。これはやばいなあ。

しかし還暦過ぎて徹夜は似合わないから、そういう馬鹿はしないつもり。

2008年5月 5日 (月)

あたしのホテルの選び方

今日も、ヒルズの49fで「日本遊船氷川丸田中長徳」(日本郵船氷川丸ではない。このタイトルについては仔細あり。まだ発表できる段階ではないので未定)の仕事に忙殺されている。

こういう密度の高い仕事でしかも時間が限られている場合には、これは忙しいというよりも、「とんでもない暇ができたなあ」という感じで仕事しているのだ。

まあ、仕事を楽しんでいると説明ができようが、その心理はもう少し上の方向に高揚しているのであって、あれは「戦う操縦士」であったか、アラスかどっかの上空に死ぬ気になって偵察飛行に行った、サンテクスが「戦いの三昧境」といっている、大げさに言えばその方向の高揚感だ。もっともこれは堀口大学の訳であって、その原文は仏文だから想像のしようもないが、このくだりが半世紀来、気に入っているのだ。

オンラインで仕事をしている場合、gmailの下書きをフルスクリーンにして書く。これだと100字にやや足りないほどの行数になるので、勝手がよい。

実は昨夕は五時に佃にもどって、ライカインコの様子を家人から聞いたりして、それから晩餐をして、その後、もう寝ようと思って、西安のホテルがまだ予約していないのを思い出した。

JALのHPでリンクしている、ホテル予約をサーチすると、各社のオンライン予約がずらずら出てくる。ただしそれは見るだけで、そのサイトから予約はしない。大昔はそういう予約サイト、つまりレッドアップルとかオクトパスとかで予約したのだが、こういうサイトは変であって、クレジットカードで決済してバウチャーを持参するのである。

バウチャーというのは実に危険な存在であって、ちょっと見ると安い広告のチラシのように見える。だから間違って捨てやすい。これが40年前のインツーリストのバウチャーになるともっとすごくて「浅草紙にガリ版印刷で、そこに豚の枝肉に押す、紫のスタンプ」のようなプアな紙質である。

よくフロントでそのバウチャーをなくしたアメリカ人が、鉄壁のKGBとも思われるレセプションと戦っていたのも今は懐かしい。

第一、ホテルにとまるのに、前払いとは人をばかにしている。日本の場合、「プリペイドカード」の普及で「政府に骨抜きにされて」いるから、前払いになれているようだ。自分の仕事の場合、昔、欧州でやった仕事では「着手料」というのがあったが、この30年は出来高払いのそれも忘れたころの支払いである。よくこれで生存していられると思う。

プリペイドはいやである。それでこの数年はイタリアに本拠のある、なんとか言う予約システムを使っていた。これは当然ながら、24時間前までにキャンセルができるし、到着時にカード決済だ。

それで西安のホテルは適当なのを日本語サイトで探す。それからそのホテル名を googleでサーチしたら

http://www.sinohotel.com/english/hotelinfo/xian_city_hotel.html

というのを発見した。英語のサイトがよいのは、ツーリストが気になること(そのくせ、どうでもうよいホテルの情報)が実に細かく出ていることだ。

このホテルの名前はまず忘れがたいところがよいが、自分の外国のホテル選びのポイントは3つ星以下を狙うということだ。昔、ホテルインスペクションで5つ星のホテルを何ダースも見た経験で、もうああいう場所はたくさん、という背景もあるが、中国のホテルで最近にできた、豪華ホテルだと「そこに到着できる唯一の交通手段はリムジンしかない」というとんでもないことにある。北京なら釣魚台迎賓館にも泊まってみたいが、交通が不便である。第一、昼間、食堂で食べてその残りをお土産にした包みを、補充した「二鍋火酒」をぶらさげて、レセプションを通るのは、われながら気が引ける。

自分のような日本路地裏学会会員には、旧市街の中心部にある安ホテルがよい。パリだと、三つ星の「プリンスアルバート」というのに宿泊する。ここもとんでもないホテルであって、スーツケースと一緒にエレベータに乗れないほどにリフトの箱は狭い。

でも、酒が飲みたければ、そっから徒歩3分のリッツに行けばよいのである。安ホテルに泊まって、その近所の高級ホテルのカフェとかバーを使う。

まあ、これはパリの話であって、大体、飲み物などはそこらにいくらでもカフェがあるからその時々で十分なのだが、あたしの場合、それよりもなによりも重要なのは、インターネット環境だ。

パリの場合、安ホテルだと電話も造りつけだから、それはあきらめるしかなくて、近所のモダンな場所でwifiを頼むことになる。

中国の場合は、この数年行っていないが、3年ほど前、北京飯店はまだダイヤルアップであって。ADSLの使用にはかなりの料金をとられた。

その一方で、リコーの工場のある、広州の最近できたホテルなどは無線ランであった。

上の今回とまる西安のホテルは、例のオクトパストラベルなどで見ると何も触れていない。だが、上のサイトで見たら、ちゃんとハイスピードインターネットアクセスとあるので、それで予約した。

ただし、インタネット環境というのは実際にそこに到着するまで、まったく不明であって、話が違うという場合もある。これが旅の楽しさである。

本日はリコーR7を佃に忘れてきた。それで画像はお休み。

2008年5月 4日 (日)

黄金週間はヒルズで仕事中

R0011604_2 ゴールデンウイークはもともと関係なし。雑文書きを長年やっていると、世の中の皆さんが遊んでいる時こそ、書き入れ時である。特に、年末年始、黄金週間、お盆の時期には仕事がやりやすい。

自分のような雑文でも、それはやはり一人になっていないと周囲の雑音が入ってくるとやりにくい。それだからと言って、騒がしい場所で原稿がかけないというわけではない。

空港のロビーなどはその意味で格好の場所である。いつだったか。たまたまJALのFクラスだったので、CDGの上のロビーで原稿書きをしていたら、いきなり目の前に兵士が立った。

これは仕事の邪魔をするけしからんやつだと睨んだら、なんでも空港に爆発物をしかけたという脅迫電話があったので、すぐに避難しろという。それでその若い兵士は、そこらに広げた仕事の資料やらカメラやらをまとめるのを手伝ってくれた。

結局は何もなく、そのまま1時間ほど時間をつぶして、搭乗ゲートに向かったのである。

ヒルズではほかの人は居るには居るけれど、その人は自分の仕事には関係ないから、通行人と同じである。それで気にならない。

一昨年の今ころであったか、思いついて、手帳を持って東京の北辺に行き、そこで本のプロットを書いたりしたものだった。本当はそういう場合には、常用のmoleskinではサイズが小さいのであまり適しない。

大学ノート、つばめノートあたりがよい。それのグリッドのあるのが使いやすい。東京拘置所で接見禁止になった佐藤さんの「獄中記」の中で、購買でコクヨの100枚つづりのノートを買うのに興奮するくだりがあって、それを読んでまた、感動した。

そういう下書きは、本来ならば、ノートパソコンに書いたのをあとでこぴぺすれば便利と考え勝ちであるがそうなると、もともと回転しない頭がますます回転しなくなる。

下書きはそのまま「フリーハンド」で書くのがよい。万年筆は人からもらった、lamyの13fというのを2本持っている。インキのカートリッジは、なくなると銀座の伊東やに買いに行く。なんでもそれ専用のやつで互換性がないそうだ。ここらが万年筆業界は世界が狭い。うちのじいさんのやっていたスプリング万年筆は60年前のブランドだけど、インク壺だから問題なし。しかも軸にスプリングが入っていて、インク壺の中に押し込んで、ぎこぎこやるとインキが入った。

一時はモンブランとか何かをほしいと思ったが、自分のようなユニクロ実存主義ファッションには似合わないことおびただしいので、ああい黒いクラシックな万年筆は買わない。

この訂正されたメモ(それは悪筆なのでほとんど判読できないことが多いが)を元にして、それをPCに打ち込んでしまえば、後はそれをイーストを入れて膨張させるだけである。

だから本を1冊書くにしても最初のワンフレーズが大事なのであって、それを膨らませたものが本になるわけだ。

ヒルズで一番困るのは朝8時から夕刻5時まで居ても、その時間経過はたかだか4時間ほどにしか感じられないことだ。

朝の光りが逆光でまぶしいと思っていると、あっというまに、夕日になって、森タワーの長い影の中に東京タワーが入りそうになっている。時間は伸び縮みする。

人間の一日にできる仕事の量はなんと限られたものであろうか、という感慨がある。

最近の自分の還暦の進化といえば、上の画像でごらんのように、デルのふつうのPCが使えるようになったことだ。もう愛用のマックが5年落ちであるから、考えながら仕事をしている遅さである。

しかしインテルインサイドのマックとか、マックブックとか言うマックは、なにかヨックモックみたいでその名前が気に食わない。

ちなみに、この書いてるPCはヒルズライブラリの貸し出しである。二台体制のPowerBookの方はもっぱら、DVD焼きに使用。

仕事進行。R0011606

午後2時半になってだんだんと天候回復。奥の方に日が当たって見知らぬ極東の都市の風景が立ち上がる。

午後3時20分。

R0011609 asahiじゃがポタ「ポタージュ」というインスタントスープを飲む。

カップを開けて、粉と野菜のフリーズを開封して、マシンの湯を注いぐ。

毎日の連続行動。まるでアトス山の勤行みたいだ。

午後4時すぎ、ようやく天候回復する。R0011610

2008年5月 3日 (土)

戒厳令発布!ただしヒルズライブラリの窓際のデスクのみ

R0011600 R0011602 本日0時に偽ライカ同盟共和国全土に「戒厳令」が発布された。ただし、ヒルズの49fのライブラリのあたしの仕事しているデスク上だけなので、レストオブざワールドには影響はない。

1981年だったか、すでに時代は正確には記憶していないが、秋にポーランドのクラコフの「連帯」を取材した。それから年を越してから、ある朝、朝日新聞の朝刊の「ポーランド全土に戒厳令」の文字を見たのである。

ようするにいきなり鎖国状態である。その年の春、戒厳令が解除になった最初のLOT(ポーランド航空)の便でワルシャワに入った。

これは一種のせこいテクニックであって、普通は戒厳令の解除直後にツーリストにヴィザなんてだしゃしない。

それはわかっているから、まずウイーンのポーランドの国営旅行社で、ワルシャワの最高級ホテルのバウチャーを買った。これは前払いであるから、ヴィザを発給しないわけには行かない。

ワルシャワ行きのLOTは外交官関係、報道関係で満員だった。ただし機内の前半分が人間の混載であって、後ろ半分は、あれは援助物資であろうか。薬品とかなにかで満載であった。

戒厳令下の夜のワルシャワ。

これにあこがれていたわけが、上の表記はうそである。

戒厳令解除直後のワルシャワが正しい。

午後8時30分から、外出禁止令はまだ生きているから、ホテルの部屋のばるこんから、ストリチナヤのグラス片手に無人の街路を見下ろした。その先の広場で戦車の移動するような音が聞こえるのも、格好の酒のさかなである。これを機会に自分は本場でウオッカの手を上げたのである。

ナトリウム燈の明かりがどこまでも街路を照明していた。その後のいきさつを手短に言うと、5日後にワルシャワ空港を出国しようとして、自分は「あげられ」たのである。

テーブルの上に広げられたカメラとフィルムを前に、あたしは「ツーリストだ!」と弁明した。

机の向こうに制服は「ばーか、ツーリストが5日で、50本もフィルムを撮影するか!」と言った。うまいことを言うなあ、、、と感心した。

結局、共同通信の知り合いに、そのフィルムを預けて、自分は出国ということになった。ウイーン行きのオーストリア航空のMD80は、すぐそこに待っているのだ。

大使館にも電話連絡した。

「なにも助けてくれないですよね」とあたしが聞くと、「残念ですが、お手伝いできません」と、電話の向こうの「慇懃無礼氏」は答えた。

今、思うと「犯行現場」で当事者に理解できない日本語での電話を当局が許可したのだから、あたしはたいした「魚」ではなかったのである。

それでもしゃくだから制服が向こうを向いている間に数本の撮影済みフィルムを見えないようにポケットにねじこんだ。その数本のフィルムで週間朝日か何かの仕事をしたのである。それで目出度く出国になった。

ゲートに向かう前に、その数本のフィルムが見つかるとまずいな、、、と、思っていたが、飛行機の出発時間が迫っていたので、それはなかった。これはセキュリテイチエックのマシンに電気代がかかりからスイッチを切っておく、というような、9.11のずっと以前の平和な夢の中のお話である。

オーストリア航空の機内に入ると、ウインナワルツがなっていた。緊張が一気にほぐれた。シュベヒアト空港に着いたら、アパルトマンには戻らすに、出所祝いにそのまままっすぐに行き着けのワイン酒場(1683年からあるやつ)に繰り込もうと決めた。

以上が1982年春の戒厳令解除直後のワルシャワ行きの話だ。

そして、四半世紀の時を隔て、今また、偽ライカ同盟共和国に戒厳令発布。

今度の「日本郵船氷川丸」の1000ページ写真集のための鎖国である。実は上の一枚の絵葉書が今度の仕事のキーになっている。

横浜の日本郵船歴史博物館の収蔵物を撮影中に、これに出会ったのである。昨年の12月21日の午後4時過ぎだった。その絵はがきの時代はいつか不明だが、モノクロだから案外に戦後のものかも知れない。

それが真っ二つに破られている。

それをセロファンテープで補修してある。セロテープでの補修という事実は実用主義であるが、この場合は象徴主義だ。

自分は昔人間だから、象徴主義には弱い。

それで目下、戒厳令を発して、1000ページのレイアウトの片っ端から、それに文章を流し込んでいるわけである。

ポーランド国歌は「われらあるかぎり、ぽーらんどいまだほろびず、、、」であるそうだ。

氷川丸のセロテープの補修には、ポーランド国歌と共通項がありそうだ。

上のカットはいずれも、リコーキャプリオR7。今度の写真集のメーンカメラでもある。

2008年5月 2日 (金)

ニコンプラザ大阪トークショーのお知らせ

ニコンプラザ大阪オープニング記念トークショーがあります。

http://www.nikon-image.com/jpn/event/plaza/index.htm

■5月18日(日) 11:30~13:00 / 15:00~16:30
 タイトル:私とニコンの「ほぼ半世紀」 、出演:田中長徳(写真家)


ニコンプラザ大阪 オープニング記念トークショー

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出演者プロフィール

田中長徳


60年代、中学時代最初のニコンFを手にして以来、

ほぼ半世紀のニコンライフ。

70年代、ニコンFとニコンF2の広告製作現場を体験。

69年日大写真学科の学生では初めてのニコンサロンで

「TODAY-TOKYO」でデビュー。

最近は肩からクラシックニコンSP,ポケットに

コンパクトデジカメの撮影スタイルで、

世界中を徘徊。

写真集「東京ニコン日記」はじめ約120冊の著書。
最新刊ぐぐっと厚い千頁の写真集「日本郵船氷川丸」
(タイトルは予定)

(河出書房新社・東京キララ社刊)は、
2008年6月1日の写真の日に刊行予定。

デザイン誌AXISのR8の記事

R0011593 デザイン雑誌AXISに連載を開始してから、何年になるであろう。
AXIS会長の石橋さんから「カメラデザイン論」の連載依頼を受けて、事務所に行った当時、まだヒルズは出来ていなかったから大昔である。

当初はカメラデザインであったが、数年後には編集部の指示にて工業デザイン一般を論じ、それから石橋編集長(同姓だがこの人は石橋会長とは別人)から「またカメラの話でお願いします」というリクエストがあって、この数年はまたカメラの話に戻っている。
自分の多くもない雑誌の連載記事で一番「格式の高い感覚」で書いているのだけど、それは他でもない。本音で書けるという意味だ。

最新号では「ライカ250のデザインとカラシニコフの100ショットの半円形のマガジンのデザインの共通点」などという現代のデザイナーが誰も問題にしなうような、怪しからんことを書いている。R0011594

その最新号を開いてびっくりしたのが、リコーのR8の小特集記事である。
R8は自分の周囲でも愛用者が多い。新潮45の中島編集部員などは、自分が買って、父上にも買わせている。それは自分の分は父君に取られたので、父上からお金をもらってそれで自分の分を買った。

その価格5万円というのだから、これは父上がカメラの値段を知らないのをいいことに「老人を欺す商法」である。まあ、父娘の関係だから、犯罪にはならないか、、、。それはそれで良いのだけど、そのAXISの記事は売れっ子カタカナ職業の佐藤某さんにインタビューという形式のR8記事なので、最初はこれはステルス広告、あるいはタイアップ広告なのではないかと怪しんだ。

佐藤さんの場合はあまりにもカリスマなので、ちょうどパナソニックの広告にあゆが出たり、ニコンの広告にきむたくが出たりしているのと同様な「大衆性」をそこに感じてしまう。

佐藤さんが言っていることは、通常はかなり批判的なのに、この記事だけは「諸手を挙げてR8に賛成」であるのが、不思議なのだ。
佐藤さんのこれが本気ならすばらしいことだし、仮に100歩ゆずって、これがステルス広告であっても実に大したものだと思う。

その中で佐藤さんが言っている、「カメラのシズル感」という誉め言葉の文字列を見て思わず笑ってしまった。
というのはこの「シズル感」という言葉は、我々、1970年代に広告に携わった連中、つまり還暦世代にはすでに死語であり「ビッグジョーク」になっている言語なのである。

「おっと、これはシズル感があるね」
というのはそのデザインが駄目であるという意味のすでに隠語化した用法であるからだ。別に古今集までは遡らないにせよ、古文化しているのである。
佐藤さんは若い世代だから、どうもこのシズル感を本来の「額面通り」にお使いになっているようで、それが逆に新鮮だ。

自分の場合、この前、リコーR8がCCDにゴミが入って、先日修理に出したのだがそのとどいたパッケージはまだ開封していない。手元のR7はやはりGパンのポケットにすっぽり入るのでそれを愛用している。(R8だとちょっと厚みがあるので駄目)

このAXISの記事を見て、ようやく手元のR8のゆうぱっくを開けようと決心しているところだ。

明日から開始される恐怖の氷川丸編集バトル(東京きらら社ではすで極致的クロスファイヤで死体累々のようだが)前に思うのは、今度の1000頁本でも、そのほとんどをR7で撮影しているという事実である。

2008年5月 1日 (木)

日本郵船氷川丸一等喫煙室で

R0011553 火曜は午後に横浜。

写真集「日本郵船氷川丸」に収録する、福田和也さん、金谷船長との対談である。

普段の金谷船長は作業服で首にタオルであるから、普通のおっさんであるが。氷川丸の第二進水式以来、そういう格好でうろうろすると沽券にかかわるので、ちゃんと4本線(これは現場では四本半と呼ぶらしい)の制服である。

しかも、氷川丸の最大の人気者は船長であるから、普段の作業業務を遂行しようとしても、来館者さんの握手とか記念写真とかそういう大事な業務もあるので大変だ。それで金谷船長は改装前よりもはるかに多忙のようである。

午後3時から福田さん、博報堂の阿部さん、氷川丸少年、ライブラリメンバーの小西さん、それに東京きらら社の皆さんと氷川丸入り。

休日というので大変な乗船者だ。特別一等船室などは観覧に渋滞するほどであった。でもブリッジに登って、周囲のさわやかな風を顔に受けると、気分はすでに船旅である。

午後5時の閉館の後、一等喫煙室にて上のような按配にて対談をした。

船長の氷川丸と海の男についての「生き様」のお話を横糸に、福田さんの日本近代史の視点から見た氷川丸のお話を縦糸にして、なかなかのつづれ織りが、そこに現出した。

終了後、この前の神事で氷川神社さんからいただいたお神酒を酌み交わした。

酌み交わすとは、上品な言い方ながら、総勢8名ほどで1時間ほどで2本の一升瓶が空になったから、別の言い方がありそうだ。

それから、ニューグランドの脇にある、海岸沿いのクラシックなバーに入ったら、カウンターに美女が座っていて、福田さんに挨拶している。こっちは、すわっ!と思ったが、聞いてみれば福田ゼミのメンバーにて、間取リストさんと同級生のafter tomoさん(別に外人さんではない)という人だった。

福田ゼミは人材豊富だなあ。福田教授はニコンSPに「触るも恐ろしい」50ミリf1,1である。ヒルズの脇のグランドハイアットもそうだが、高級なバーはどういうわけか、電気代を節約しているのである。まるで戒厳令下のワルシャワみたいだ。

しかし福田さんは、そのくらい地明かりで、あたしを撮影するのだと言って、カメラを構えた。構図をとりなおそうとして、ソファを30センチほど移動したのだ。さすがにその身のこなしは迅速で、ライフの往年のカメラマンもかくや、という様子であった。

とことが残念なことにソファはそこで終了していたので、福田さんの姿が床の方向に崩れた。脇のafter tomoさんにかろうじて支えられた。

やはり持つべきものは教え子である。

あたしはひやりとした。別に福田和也の身を案じているのではないのは当然である。彼が取り落としそうになった、50ミリf1,1付のニコンSPにもしものことがあっては、と思ったのだ。これはカメラ人類の文化遺産であるからだ。

それでも対談は全部終了しなかったので、水曜の夕刻に今度はヒルズに福田さんに来てもらって「船上カメラ放談」というのの続きをするのである。

実際には船上ではなく、地上220メーターなのであるが、その程度の「誤差」はまず仕方がない。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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