« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月31日 (土)

西暦2008年5月31日

R1149337 5月31日は「ライカの詩人」木村伊兵衛先生のご命日。自分は大昔、ウイーンでその訃報に接した。
木村さんのウエッツラーのホテルであれは、ライツ社の見学に行った時であろうから、そのホテルは大体、特定できる。
恐らく、丘の上のウエッツラーホーフであろう。
2001年の秋、ナインイレブンの直後に同じホテルに泊まって、鏡の前でライカを構えて、真似をしたことがあった。

それで、あたしの誕生日でもある。
明日からの西安への「高飛び」の準備。ただしその準備は5分でできた。
持参するのは、
R8、R-D1s、ローライのミニデジカメ。それと借り物のD3。ただしレンズは自前のタムロンの28−200である。これを分解して本体とレンズとを別にして、デイパックに入れる。このやり方は2週間前に大阪からの戻り、羽田からの帰りに京急の向かいの座席に座ったカメラマンが、そのようにして真っ赤なライトウエアのショルダーから出して画像をチエックしていた、その真似である。

今回は銀塩カメラは持たないつもりが、それでは退屈であろうというので、目下、上の日経BPのウエブに登場のテナックス2を持つ。十数年前、マカオでこのカメラでまだポルトガル領だったマカオの最北の公園から、向かいの中国領を撮影したのがこのカメラである。
そしたらいきなり、シャッターが壊れた。撮ってはいけないものを撮影したのであろうか。
それ以来のリベンジというわけだ。

しかし、秦の始皇帝の時代からの古都であるから、東京などと言ってもそのキャリアは比較にならない。
何時ものことだが、フツーのツーリストさんの見る、テラコッタアーミーなどは見るつもりはない。もっぱら、城壁の内部を徘徊して、まだ壁のあった当時のベルリンを思いだしてみたい。
そう言えば、英国人の女性で、ベルリンの壁に性的な衝動を感じる人というのが、ウエブで紹介されていた。こういうのは本物である。

誕生日にいただいたプレゼントなど。
足穂が鍵型小路の先でお世話になった、S社のS誌のY編集長から、うおとかをいただいた。メモには「ロッカーから180プルーフのポーランド製のうおとかを出して、ソーダ割にて小休止。明かりのついた東京タワーが格好のつまみである」という文章を<かっこいいなあ!>と思い、印象深く記憶しておりました。
とある。

こういうのは嬉しい。しかも日本を代表する雑誌の編集長に誉められたのだから、ハイボールになりそうだ。
そのうおとかのボトルにはこういう窓があって、そのボトルの反対側に彫刻された「おとのさま」がうおとかを通して見えるという「どっかの銀座の高級文壇バー」の棚にありそうな高級品である。
まず、最高の誕生日になった。
感謝。

そのとなりの包みは、これはアメックスのPカードからの誕生祝い。これは会費を払ってあるのだから、有り難迷惑だ。毎年、このアメックスの誕生日プレゼントは「けったいな品物揃え」なので、最近ではその「シュールさ」に興味が行っている。今年は「特製くつべら」であった。
amexは会費10万のPカードよりも会費18万のBカードの方が、プレゼントは高級なのであろう。その方が実用性はありそうだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

メトロの巴里

http://www.ratp.info/orienter/cv/carteparis.php

なかなか多忙なので、昨年の10月のプラハからパリ経由でセントレアから東京に戻ったのは、もう8か月も前の話だ。

欧州に行きたいのはやまやまであるが、この1月も予約をしておきながらそれをキャンセルした。例の「日本郵船氷川丸」あらための「チョートク 海をゆく」(1000ページ写真エッセイ集)にかかりきりであるから、それが出るまではなかなか欧州などは無理だ。

岩波書店から出そうと思っている、プラハのエッセイと、もう一冊、プラハの写真集のこともあるのだけど、まだ時間が足りない。

でも、あまり日本の空気を吸っているのも、どうかと思うので明日から1週間は西安である。とはいえ、高速インターネットが通じているから、環境が六本木ではなく西安の城内であるというだけの違いだ。

東京だと、アキバの西安料理店の「刀削面」を食いに行くのは面倒であるが、西安に行ってしまえば、周囲は全部が西安料理であるから、これは便利そうだ。

西安の気温は最高が37度、最低は11度で過ごしやすそうだ。日本の37度ではなく湿度がくいからマドリッドのようではないかと期待している。

持参のカメラは出発24時間前であるが、まだ決まっていない。ラインとしては、小さい方から、数えるとまずローライフレックスのミニデジカメ。それからリコーGRD2、エプソンR-D1S、それと借り物のニコンD3であるが、その予定は変わる予感もある。

いつも海外に行くときには、佃を出る1分前までカメラの入れ違いがあったりする。

ブックマークがうってあるのは、上のパリのRATPのページである。この4文字を見ると、女性のプロフィールにセーヌ川がオーバーラップする、例のトレードマークを思い出すのが常だ。

パリのメトロを本格的に撮影したのは、あれは1979年であったか。冬であって、2週間ほど朝、ムフタールのホテルを出て、夕方、ホテルに戻るまでずーーーーーーっとメトロに乗っていた。それも「財閥」だから、赤い車両の1等車に乗っていた。

この時の体験でパリのメトロは圧倒的に詳しくなった。当時の撮影カメラはミノルタCLには、40ミリ、ライカMDにはロシア製の20ミリ。フィルムはトライX。

自分はフランス語はだめだから、それぞれの駅名はドイツ語風に読んでいるのである。でもそれを口に出しては失礼であるから、発声したことはない。それでもパリのメトロには自分の40年の過去が凝縮されている。

マンハッタンのメトロも悪くない。あそこは「オフアワーウエイテイングゾーン」と「ガーデイアンエンジエルス」が、いかにも剣呑なマンハッタンの感じを盛り上げていた。

パリで撮影したメトロのスナップを8ページだか、10ページだか当時のアサヒカメラに掲載した。当時の自分はウイーン住まいであったから、タイトルとかキャプションはウイーンから手紙に書いて築地に送ったのである。

掲載誌が送られてきて、仰天した。「地下鉄のザジ」をひねって「メトロのパリ」としたのであるが、親切で真っ正直な編集者さんが、なにを思ったのか「パリの地下鉄」にしてしまったのである。

これでは「上野動物園のパンダ」みたいなもので、そっから先に行きようがない。

@@@@@@@@@

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月30日 (金)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラコラムMpx00056

デジタルカメラは低画質ほどかっこいい?

この3月にコンテナ船ライラの撮影で、名古屋から船に乗って遠州灘を越えて、海路から大井ふ頭に上陸した。その時はリコーのR7、R8それとソニーのα200と、ローライフレックスミニデジカメを持参した。合計4台であるが、その重さもかさも問題にならなかったのは、ソニーのα200を除けば、残りの3台の重さなどは「無いに等しい」からである。

今回の写真集「チョートク 海をゆく」の表紙は編集者さんとデザイナーさんが選んでくれたのだが、からっと晴れたエーゲ海クルーズのような縦位置画像である。実際にはエーゲ海ではなく、遠州灘であるが、同じ「エ」で始まっているから、同じ海でもあるしまあそれでよい。

今回の表紙の画像はリコーR7で撮影したものだ。世の中のデジカメ人類デジタル一眼レフ派というのは、なんでもRAWモードで撮影して、それを「創造的」な画像いじりをしないと、卸写真を撮影したような気がしない皆さんらしいが、デジタルカメラの使い方のこつは「時間意識の問題」であるから。せっかくお気楽に撮影しても、その画像に「つまらない絵ごころ」を加えていじくりまわしては、ダメである。

デジカメの画像の面白さは、たとえばフルサイズのデジタル一眼レフで撮影した画像には、「現実をそのままにコピーしてきたような感覚の視神経への刺激」が存在するのに対して、ローライフレックスミニデジカメのような小さいCCDで撮影した画像は逆に「そのカメラの存在感が正面に出てくる」ようなところがある。

だから、10年前に出した自分の写真集で「ウイーンとライカの日々」というのがあるが、その最後のセクションは当時はまだ出たばかりだった、リコーR1と言ったか(すでにその名前も失念している)35万画素のデジカメで撮影して、それをわざと見開きにしているのだ。

そういうデジカメのリアル感覚が魅力に思えてくると、現今の2000万画素などは面白くもななんともない。むしろ、35万画素が撮れる機構をフルサイズデジカメにつけてもらいたいほどだ。

上の画像はローライミニデジカメ。NYKライラ。

★加筆しておく。

上の画像をクリックして、実際の大きさの画面にして見て欲しい。思ったよりずっとシャープなのである。しかも「若干画像に滲みがある」のが好みだ。表現を目指すなら、フルサイズのデジカメよりも、こういうミニデジカメだ。

@@@@@@@@@@@@@

★銀塩クラシックカメラコラムR1149326_8

懐かしの「銀座のバーでマッチ一本」

このテーマの「よた話」は何十回も書いたことがあるが、まだ描き足りない。

ようするに昭和30年代に日本のレンズメーカー(というよりもカメラメーカー)が、大口径レンズの競争に明け暮れていた当時の逸話である。

結論から言ってしまえば、ニッコール50ミリF1、1が当座の勝利を収めたのであるが、その直後にキヤノンが明るさ0,95という一般向けとしては世界で一番明るいレンズを出して、それに一矢を報いたのであった。

その当時の東京というのは今とは異なりかなりの暗さであったようで、まず木村伊兵衛さんの作品などでも、明るいレンズの作例はかならず銀座の夜景であり、どっかのバーの中のマッチ一本であった。ここらはすでに古典芸能化しているわけである。

それぞれのレンズの現代での中古相場がそのままレンズの評価に結びつくなどということは非常識であるが、ほかに手立ても何もないからこのクラシックな方法を仕方なく踏襲すると、まず、2008年では、明るさではキヤノンに水をあけられたかも知れないけどその市場価値はやはりニッコールの50ミリF1.1に軍配が上がるようである。

なお、ライカのノクチルクスF1に関してはここでは評価には入れない。このレンズは10年前までは安価であって、自分も15万ほどで銀座の店で買ったので、いつまでもそんな価格であろうと思っていたら、この前、レモン社でその値札を見てびっくりした。最低でも50万円台であって、上は天井しらずらしい。実際に使うのなら、キヤノン50ミリF1,2の方が良い。

さて、ここで登場のキヤノンF0.95は実はちゃんとした「まっとうな任務」をもっていたレンズである。某新聞社の夜間撮影用に使われたレンズである。説明不足になってしまったが、詳しく言えば、夜間の空撮用のレンズであった。こういうレンズでライカ用でもアメリカ海軍の特殊な撮影用で、最初から絞りのないF0.95レンズなども存在した。

このレンズのダイナミズムは、この画像のように上から見たところが良い。実に堂々としている。

まあ、このレンズは絞りはついているから、「一般撮影」にも使うことができる。その見どころは、やはり報道の第一線で使われただけあって、良い具合に手ずれがしていることだ。

こういうのが銀塩写真レンズの美学というのであろう。ただし、レンズの第一面にはでっかい傷がある。しかしそれで画質が落ちるというわけではない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

万年筆を買う

Img10252559241 拙ブログのトラックバックとコメントで、うちが大昔、万年筆製造所であったことは雑誌の対談やら、酒の席のつまみ話やらで、発言しているのだが、どういう万年筆なのかという質問があった。

その名を「スプリング万年筆」というのである。いわゆる戦争直後の零細万年筆製作所であって、轆轤でセルロイドやエボナイトをひいていた。
幼年時の大人の言葉の記憶が「ふわたりてがた」であるような町工場であった。

しかしながら全盛期には日本橋の高島屋で、スプリング万年筆はセーラーや、パイロットとウインドウを列べていたのだから、そういう時代もあったのである。

そのスプリング万年筆は軸にスプリングが入っており、インク壺の中で「きこきこ」するとインクが入る。まだカートリッジ以前の代物だ。
そのペン先は先が曲がっていて「曲がりペン」と言った。これでペンを逆手に持つと、太字がかけるのだ。

自分では長年ペンなど買ったことがなかった。それがえい出版のカメラ編集の人からラミーを2本もらって、それを使っていた。そのラミーを見たリコーの偉い人が(別に自分のラミーを見たのだけが理由でもなかろうが)GRDのプロモーション用に製作して、名前入りのを関係者に配ったのである。
そのリコーのラミーをプラハに持参して、マレスキンの手帳にスケッチしていたら、そのラミーをプラハの友人が所望したので、それは差し上げたのである。

そうしたら、えい出版の人がそれを気にして、1本プラスしてくれた。
だからラミー13fは2本持っている。

自分のカメラとレンズは何千あるか不明なのに、ペンの本数だけはちゃんと把握しているのが自分でも愉快だ。
万年筆のトラックバックを見て、そこにあった、イエローのラミーを注文した。

実は先週の大阪ニコンプラザでの講演会の後に、相当数のサインを頼まれたが、その中の紳士のお一人が、私の本にサインをするのにご自身のラミーを取り出したのである。
それが軸がオリーブとイエローのツートンであるが、なんでも修理したらパーツがなくて、そのような上下色違いになったそうである。R1149332

自分のラミーはグレーであるが、あまりに地味なので、机上で見失うことがある。それでイエローを1本買えば、その軸を使って、コンビのラミーが2本できるわけだ。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年5月29日 (木)

日経BPでクラシックカメラ特集

080528_top_main 日経BPのL-Cruiseであたしが登場するクラシックカメラ特集が今日から1週間公開されている。
http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover2/080528_camera/
なかなかの出来なのは、ウエブマガジンのプロが製作したから当然であるが、実に視覚的な刺激がある。
それに写真が良い。カメラマンの村田さんはあたしに良く似た「好男子」であって、その技は長年、カメラの撮影をしてきた自分にはすぐに分る。
これからは紙の媒体とこういうオンラインマガジンの棲み分けがどんどん進むのであろう。
単なるクラシックカメラの「分りやすい入門書」ではなく、かなりマニアックな内容だ。
必見。おすすめだ。

@@@@@お知らせ@@@@@@

何時も御世話になっております。メールをくださる皆様に申しあげます。

現在、西安市城内滞在中ですが、6月1日より、6月8日23時59分59秒まで

メールの年次休暇をいただいております。

皆様にはご不便をおかけしますがなにとぞよろしく御願いいたします。

田中長徳

| | コメント (1) | トラックバック (1)

水曜の朝7時の事件@隅田川

Dsc_4871 水曜の朝。
家人は新潟の別宅に行っている。
ライカインコはすでに起きて遊んでいる。

自分は寝室で寝たいた。
夢うつつで、臨港署のサイレンの音を聴いた。これは毎度のことであるから愕かない。

愕いたのは以下のパブリックアドレスだ。
「こちらは臨港消防署です。ただいま、男性一名、河に転落しましたが救助しました」

あわててバルコニーに出た。
眼下の隅田川に臨港消防署の「はるみ」が岸に直角になっている。
手前に救急隊とか、消防署員とか、オレンジのドライスーツのレスキュー隊員とか、機動捜査の私服の警官などが居るが、そこは桜の若葉で見えない。

あわてて、ニコンD3を部屋から持ってきた。
レンズはちょっと古いタムロンの28−200である。とりあえず3カットほど「状況」を撮影する。まるでパパラッチだ。

Dsc_4882 下の重要な部分は桜の葉で見えないのだが、しばらくすると若い男性が素足で隅田川のプロムナードを歩いている。腰には白いタオルが巻かれている。
これは川に落下した人を救助した第一発見者であろうか。
素足の青年はもどってきて、上着と靴を手にして、同僚らしい同じ年齢のスーツ姿の男性と一緒にちょっと冗談を言う感じで、うちのタワーに入った。

救急隊は空のストレッチャーを押して帰ってしまう。

自分の見たのはこれだけ。
川に落下した人は救助されたのであるが、くだんの素足の青年がまさか川に落下した人ではあるまい。この人は救助者であろう。Dsc_4877

10年前だったか、ビデオのプロモーション撮影で、若いミュージシャンがこの中央大橋から数人が飛び込んだ。これは演技のはずであったが、その数人はそのままあの世に行ってしまった。この時は大騒ぎになった。
それから毎年、そのファンがくだんのミュージシャンの命日に花を供えたり、らんかんに思いをマジックで書いたりしていた。
これは3年ほど続いた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月28日 (水)

ぼろぼろのレクタフレックスローター

Rotor_08 レクタフレックスはローマ製の35ミリ一眼レフであって、1947年にプロトタイプができた。

1950年代の半ばで事実上、生産は終わりになるがその総生産台数は1万台以下である。その中には、このような三本ターレットモデルも存在した。

これをレクタフレックスローターという。このカメラにしても、ライツの作ったM用の3本ターレットのOROLFにしても、いつも思うことは何しろ大変な重量とかさになるから、単なるコレクターのアイテムであって、実際に使ったカメラマンは居たのか、という疑問だ。

だから、ライツのターレット装置などは、250ユニットだけしか作られなかったし、レクタフレックスローターに至っては、50台から70台の数である。

すでにレクタフレックスローターは2台持っている。それらはアメリカに輸出されたカメラで、代理店のデイレクターズという会社の保証書までついている。

最近、オンラインオークションに登場したレクタフレックスローターに興味を示したのは、それが「非常に使いこまれている」という点にある。つまりこの天狗のうちわを持ち歩いて、実際に撮影した勇者がかつて存在したのである。

その証は、ネクストラップアイレットを見るとわかる。これだけ真鍮が露出するのは、なまじな使い方ではない。

そういう戦塵に散ったレクタフレックスローターカメラマンの存在はなにか自分を鼓舞してくれる。

ローマのベネト通りの先にあった、シシリー通りのレクタフレックスの会社の建物をまた見て、近所で一杯やりたい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月27日 (火)

ニッコールT350ミリとD3で遊ぶ

R1149287 R1149285 R1149284 年に二度、法令による火災報知器の点検と、ならびに室内のエアコンのフィルター交換に来る。
そういう年に二度というのは、まるで毎月に来ているような錯覚がもたらされる。このタワーマンションの管理はなかなか良く出来ていて、バスルームのバスタブの脇に非常用の押しボタンがある。数年前に風呂にはいって手足を伸ばしたら、いきなり警報が鳴り響いた。セキュリテイセンターの方で「いかがされましたか?」とインターフォンで連絡があった。
それに答えないとセキュリテイが2分以内に駆けつけるという具合である。

それで、定期点検に年二度くるわけだが、これが大事なことである。
要するに仕事場(というか、カメラ置き場)は、実に乱雑になっていて、部屋の奥に作業の人が来て、そこに脚立を立てて作業をする場所もないということになる。
それで年二回だけ、その点検の前に「獣道」を確保するのである。

うちの1f下に田原総一朗さんが居られる。時々、行き帰りにお辞儀をする程度である。田原さんのお仕事場は知らないけど、なにか大変な量の資料で埋め尽くされているのは想像できる。やはり定期点検の時には、道を確保するのではなかろうか。

先週、貸してもらったD3で遊んでいる。6月の西安には持参するかどうかはまだ決めていない。
普段のGRDとR-D1Sがあるからだが、ソニーのα200だって「大事な仕事の時」に使うくらいだから、D3のような「歩く52万円」(注 ヨドバシカメラHP調べ)を持参するのは、万一のことを思うと恐ろしい。

一方D3で楽しめるのは、家にある膨大なFマウントレンズ群である。
特に、ニッコールT350ミリf4,5が気に入っている。これはかつて田中光常さんがアフリカのゴロンゴロンで、ブロニカDにつけて、ライオンなどを撮影したレンズだ。当時は300ミリを越える6x6用のレンズなどはまだなかった。

上の2本のレンズの一つは、ニッコール250ミリf4である。

それと奈良原一高さんが、あれはアサヒカメラで「ヨーロッパ62」(確か、欧州のカラー作品でそんな意味のタイトルの連載)での、スペインの闘牛のシリーズであるが、その中で「僕は何時も闘牛場で一番長いレンズを振り回しているカメラマンだった」と書いていた。
これはニコンFに付けて使っているのだ。

350ミリという長いレンズであるが、「T」の表記の通り、トリプレットタイプだから見かけのわりには軽い。ニコンS用のニッコールT105ミリf4と同じ「小型軽量」である。

このレンズはもともとは、ニコンSPなどにミラーボックスを付けて使うレンズである。ただし1958年のニコンFの登場時の「端境期」に、ニコンF用としてもカタログに載っている。

自分のレンズはこれは数の少ないブロニカD用なのだ。
大昔、アメリカから購入したのだけど、アメリカ人は改造が好きだから、本来のD型のマウントにこれは純正のブロニカSに付けるアダプターが付属している。
それならそれで良いが、他にはニコンFマウントに使える、ステンレススチール製の「ハードフロント」とでも言いたい、実に工作精度の高いマウントアダプターも付いている。

さらにそれだけではない。このレンズには加工がしてあってレンズの真ん中から分離するような改造がしてあり、コパルの3番シャッターも付いているのだ。
つまり、そのままレンズボードにねじ込めば、即、4x5の大判レンズとしても使える構造になっている。
この改造は案外、当時の350ミリニッコールそのものよりも改造費にお金をかけているかも知れない。

追記。昔のニッコールはセンチ表示である。D3に付いてきた、14−24ミリズームはちゃんとミリ表示だが。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月26日 (月)

いよいよ木曜18時30分ゴング!

第148回 八重洲ブックセンター特別講座
田中長徳×福田和也氏 講演会

アスキー新書『カメラは知的な遊びなのだ。』(税込 \980.-)刊行記念

  • 日 時:2008年5月29日(木) 18:30〜20:00
  • 会 場:八重洲ブックセンター 本店8階ギャラリー
  • 募集人員:100名(先着順)
  • 参加費:無料
  • 申込方法:申込書に必要事項を明記の上、1Fレファレンスコーナーまで。 申込用紙は同コーナーに用意しております。また、電話 03-3281-7797 にても承 ります。
  • 主 催:八重洲ブックセンター /協賛:(株)アスキー・メディアワークス

月曜17時30分現在、若干空席あります。
お申し込みは上記まで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

束見本

R1149282 束見本は業界用語だ。
本を出す前に、実際の用紙で製本してその本のボリュームを確かめるための作業である。
これは本来、装丁をするデザイナーが手元に置いて、実際にああでもない、こうでもないと考える道具である。

だから、著者に関して言えば、これは無くても構わないはずであるが、新書とか文庫の場合にはどのような本が出来るかは予想がつくわけであるが単行本となるとやはりそれを実地にみて考えるのが得策である。

今度出す「チョートク 海を行く」(発行東京キララ社、発売河出書房新社)は日本郵船氷川丸とコンテナ船ライラをテーマにして、日本の海と、復活した氷川丸を撮影した写真集であって、その厚さは1006頁ある。
発売は7月だ。最初は6月に出すことになっていたが、諸般の事情でちょっと後になった。それでばたばたではなく、しっかりした本を作れることになった。

その束見本であるが、著者にしてみればこのダミーがある方がやる気になるのである。それで無理を言ってデザイナーさんのもとから取り返してもらい、それを佃の方に送ってもらった。
手にすると、そこに新らしい本が誕生するのであるという、実感がわいてやる気になってくる。

東京キララ社からは3年前に「wien monochrome 70s」という本を出した。この時も束見本を作って中村社長と検討したのである。当初の計画ではハードカバーの最初は1000頁の本であった、しかしそれではあまりに重くなるので、買って持って帰るのが一苦労である。
それで750頁と500頁の束見本を作って検討した。

その結果、分かったことが750頁の本でも重すぎて実際には携帯できないことが判明した。それで最終的には500頁に決着したのである。
その意味で束見本は重要である。

今回の1006頁写真集は、二つの命題がある。一つは頁を開くと、そこが氷川丸とコンテナ船ライラの仮想体験の現場として楽しめること。もう一つはそれを旅に持参して、旅先でつれずれにこれを開いて楽しめることにある。

つまり、仮想体験を完璧に展開するには最低1000頁が必要であるという点。
もうひとつは、旅に持参できるような小型軽量である点。
ボリュームがあってかさばらないという二律背反の条件である。

実際に手にとって見て、上の条件はまず自己診断で80パーセントが達成できたのではないかと自負している。

海の日の前日、7月19日にはこの本の出版記念講演会も開催の予定だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月25日 (日)

コーネル・キャパ氏の訃報で思いだしたこと

Capa_4501 ロバート・キャパの命日は5月25日。
私の母親の誕生日でもある。
一日遅れの朝日新聞夕刊(23日)で、ICPのコーネル・キャパの訃報を知った。
90歳。

パーキンソン病という。http://www.nytimes.com/2008/05/24/arts/design/23cnd-capa.html?_r=1&oref=slogin

1985年であったか、銀座の松屋で「コンサーンドフォトグラファーズ展」があった。あれはマグナムの写真展であったのであろう。
その会場でロバート・キャパの遺愛のニコンSを見たのである。それは皮ケースに入った50ミリf1,4付きのSだった。
そのニコンを欲しいと思った自分であって、そのボデイとレンズの製造番号をメモしてきた。

その後、そのカメラはどっかの機関の所有になってしまい、門外不出になってしまった。それ以来、革ケースにはキャパの血痕がついているとか、聖遺物扱いになった。
しかし、四半世紀前にウインドウ越しに見たカメラは別に血痕など付いていない。

その写真展のレセプションでコーネル・キャパ氏に会った。自分はマンハッタンから戻ってきたばかりだから、何かコーネル・キャパ氏と話をしたかも知れないが、それは記憶にない。
三木淳さんとDDダンカン氏とではダンカン氏との会話の内容を良く記憶しているのに、キャパの弟さんとの会話の記憶がないのは残念だ。

三木淳さんは、これは同じ時代にスノードン卿写真展(あの当時は外国の写真家の写真展が花盛りで、そういう不思議な展覧会が東京であったことが信じられない)では、私をスノードン卿の前で、「私よりもあそこに居る田中君の方が英語がうまいんだ」と言ったのである。これは個人的な会話ではなく、三木先生の挨拶の時の話である。
岡山出身の三木先生は、三田のお住まいで100パーセントの江戸っ子だから、時にこういうひやりとするような「諧謔」を弄するのである。冷汗三斗であった。

コーネル氏に比べて、グレーヘアのコーネルの奥さんが非常に元気であったことを良く憶えているが、その奥さんのお名前が出てこない。
これが四半世紀前だからあの時のコーネル・キャパ氏はあたしほどの年齢の筈だが、もっと年上に見えた。

マグナムがまだ社会的な使命を持っていた時代が80年代である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

金曜の午後、中国大使館前の事件

Epsn0105 金曜の午後3時30分ころであった。

ヒルズの49fのオフィスで原稿書きをしていたら、オフォスメンバーのアースナビhttp://www.earthnavi.com/の吉田さんが「チョートクさん、今、中国大使館前で事件、血まみれだった」という第一報。

ネットのニュースには出ていないが、2ちゃんねるの最初の書き込みが3時34分頃だった。
警備の警察官がやられた。というのである。
下ではかなりの数のサイレンの音がしていた。
4時半ころになって、吉田さんから「TBSの第一報では警察官に中国人がカッターナイフで斬りつけた。ただし軽傷」とのことだった。

現場に通りかかったご本人は「血まみれ」と言っていたのが、ニュースでは軽傷となっている。もっともその出血状態はなかなか素人判断では出来ないから、負傷の程度は分からない。

事件の第一報を知った、午後3時半に家人にこれこれの時間だから、TVをウオッチしておくようにメールした。
その日はエプソン関係者と「酒修行」があったので、夜遅くタクシーで帰宅したが、TVでは別にそのニュースは報じていなかったという。

ちょっと不思議である。最近の中国情勢を鑑みて、すわっ「報道管制」か、と邪推することもできる。

それとも、大使館前での刃傷事件はニュースバリューなどないのであろうか。

上の画像。「室内」

エプソンR-D1s スーパーロッコール50ミリf1,8

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月24日 (土)

DONKEと銘酒・君萬代

R1149261 使っているエプソンRD-1sがかなり前から、液晶が見えなくなった。そのことはそこらに書き散らしているのだが、つまりフィルムカメラみたいであるというので気に入って使っていたのである。

しかし、来月から西安に撮影に行くので、オリンピック前の中国に「壊れたデジカメ」を持参するのは日本の国家的カメラの品格が落ちる恐れがあるので(追記する。冗談である。ときどきこういうのを本気で受け取る人がいるので)これはエプソンに修理に出すことになった。

このカメラは外見から判断するところでは、どうもcosina製のようだ。などと「台風何号は何時ころ、どこそこにあるものと推測されます」の気象庁の予報みたいなことを言わずとも、そうである。しかし、世の中の仕組み上、これをコシナに送るわけにはゆかない。

その逆のパターンもあって、これは福田和也さんから聞いたのであるが、銀座のソニーのサービスセンターでは、コニカやミノルタの修理を受け付けるらしい。

あたしのα200(今月号のアサヒカメラの連載では匿名カメラ●×▲号として登場)は、ごみがCCDに入っているので、それを銀座に修理に出したいのだけど、なかなか行く時間がない。en-taxiの田中陽子副編集長は、愛用のヘキサーRFが故障して、福田さんからそのことを聞いて、ソニービルに行ったらちゃんと修理ができたそうである。

それであたしの2台のRD1を西安行き前に修理に出すことになった。しかし修理に時間がかかりそうなので、代替機を貸してもらえることになった。それも3台。

普通なら修理機を送って、代替機を送ってもらえば済むのであるが、それではコミュニケーションがとれないので、エプソンの広報の鴨下さんにわざわざヒルズまでご足労願いことがあった。

まあ、機材の受け渡しは2分で済むが、そのあとに大事な「仕事」がある。いや、ここからは仕事は離れて、鴨下さんと「酒修行」をするのである。

酒修行に関しては、古文書に見えているが、江戸時代初期からあった、一種の「大酒会」であって、江戸初期には川崎の大師河原で行われた荒っぽいものであったようだが、江戸の後期になって、向島あたりで豪商がスポンサーになって、文人墨客を審判に招き、遊女のお酌で大酒家が万を引く、という文化行事となった。その記述は蜀山人の一文にもある。

その現代版とはいうもおろかであるが、いっぱいやりに行くというよりも「酒修行」の方がなにか聞こえが良い。

それで普段は洛北の大林などに行くのだが、今日は指向を変えて、親戚の田中酒造の君萬代の「利き酒」をすることになった。

田中酒造は取手の古い蔵元だ。

http://www.kimibandai.sake-ten.jp/index.html

20年前になにかの取材でそこに行って、当時のご当主と同じ田中だから、先祖は一緒かもしれないと冗談を言ったら、本当にそうであった。うちは昔は千葉の銚子でヒゲタという名前の醤油製造をしていたのである。

その田中酒造の清酒をJTBの忘年会に持参して、そこの日本酒の詳しい人に味見してもらったら、その人は黙った。これは大した酒だということになったのである。

エプソンの鴨下さんは新潟の出であって、なかなかの大酒家だからこの一升瓶を二人で開けてしまおうという怪しからん計画である。

こういう場合のつまみは「荒塩」で十分だが、そういうのは近所のコンビニには売っていないから、まあ、柿の種か。

問題はその一升瓶をもってくる方法である。昨日のニコンD3を持参した市場かごには入らない。それで使い古しのドンケを取りだしたら、実におあつらえ向きである。修理に出す、RD1も2台入れた。

本来は正式には一升瓶は風呂敷に包むのが本道であろうが、ドンケのカメラバッグは新発見だ。昨日の市場かごにD3,今日のカメラバッグに一升瓶というわけだ。

田中酒造のHPの右下の「謎の白黒ギャラリー」というのが見どころか。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年5月23日 (金)

「市場籠」とニコンD3

R1149249 関西方面から「帰国」。

帰りもJALのFに乗ってみた。快晴のニッポンであって、離陸後に大阪城がよく見え、遠州灘も笑っているように見えた。

ただし、座席は1kであって右側が見えるのだけど、富士山は左側なのでそれは見なかった。

不思議に思ったこと。

例のように、出発前にクルーが挨拶にくる。これがパリ行きの便なら12時間50分だから挨拶されてもうれしいけど、飛行時間が45分ではラッシュアワーの新宿駅のホームにいたら、目の前の通行人に名前を告げられたようなものである。

しかも専任アテンダントさんと、チーフパーサーさんのお二方が「時差攻撃」で挨拶に見えるので、ただでさえあわただしいテイクオフ前の時間がますますあわただしくなる。

まあ、これで飛行機気分を味あわせようというFクラスのサービスなのか。

飛行中にはあわてて、お弁当を食べて、森いぞうを2杯飲んだら、777-200はすでに最終アプローチで東京ねずみーランドを右に見て、この春にそこに着岸した、日本郵船の大井埠頭の上をかすめて、C滑走路に着陸した。

気になったのは、シートに遊びのあることだ。なんでもオーストリア製の革張りのシートであって、高級感はあるのだけど、座席のどの背もたれの位置でも、体重をあずけるとわずか(これは実はわずかではなく三分の一インチ)に、背もたれが後ろにずれるのである。

これは大変に不愉快なことだ。HNDITMでは3kに座って、帰りのITMHNDでは1kだったが、おなじようながたがある。ということは、このシートが標準なのだろう。

その「がた」がある理由を聞きたいものだ。これは普通に見過ごすことのできる、せもたれの遊びを超えている。

70年代のウイーンのアパートで、100年前のアパートに100年前のソファがあって、そのソファのせもたれが似たような状態であってそれに7年間何時も座る時に注意していたことを思いだした。

今、気がついたのだが、JALのFクラスのシートも、ウイーンのアパートのソファも同じ、オーストリア製である。

何か意味があるのかな。

佃に戻ったら、ニコンD3がニコンの宣伝広報から届いていた。ブログや雑誌や書籍などで、「フルサイズデジタル一眼レフは父の遺言で使わない!」などと諧謔を弄していたのだが、実際に使ってみて、いかに父親の遺言が正しかったか、それとも思わぬ新局面が開けるかの、これは実験なのである。

これはありがたい。

貸し出し期限は6月6日まで。

それで夜中にライカインコが寝ているダンボールの脇で、バッテリーをチャージしてライカインコにうるさいと叱られつつ、D3をセットアップした。

レンズは貸し出しには、その価格が怖くて聞けない、14-24ミリの実にプロっぽいレンズがついていたのであるが、それはあまりにも巨大豪華であって、先週、大阪ニコンプラザのまるで宝石店のようなショールーム(実際にここのインテリアは東京は銀座のお仏蘭西のお店の支店よりも格が上に見える)で見たコンフィギュレーションなので、それは遠慮した。

でもテストでその14−24ミリで感度を2000に上げて室内を撮影したら、眼に見えるものは全部写っているので、さらに吃驚した。大変な描写のレンズであるが、スナップショットには向かない。ちゃんとした仕事で使ったら「その威風辺りを払う」ものがあるだろう。

うちのFマウントレンズの使える在庫を調べたら、6年ほど前に日本カメラのタイアップ広告で、あたしがベニスに行って、タムロンの28-200ズームで撮影して、常用ズームは便利だねえ、という企画があって、その時に提供を受けたレンズを発見した。

これは普段はアルパアルネアにニコンレンズアダプタをつけてあるのだ。

それを利用することにして、装着したらちゃんと作動するので、お!不変のFマウントというので感心した。

実はD3のような超高級プロ機では、あまり交換レンズに凝ると、時代遅れな日本光学工業ジジイになってしまうので問題なのだが、まあ、この程度の古さのレンズなら許されるであろう。

それを市場かごに入れたら、実に収まりがよい。これは普段、河岸に買い物に行く時と、ヒルズに行く時に使っているのである。例の虫文庫の布の袋がその中に入っている。

フランスのグルノーブルにアトーンというプロ用映画機材の会社があって。そこの16ミリ機材AATON 16 LTRは自分も好きで持っているが、その会社で実に軽量小型なアトーン35という機材を20年ほど前に出した。

これを当時、ドイツのフォトキナでテストしたが、16ミリカメラなみのサイズでこれが35ミリ機材なのである。このカメラはあの名監督ゴダールが出資して試作させたものだ。

その最初のモデルは実に小型で。200ftマガジンしかつかない。これで120秒の映画が撮影できる。それがフランスで市場に買い物に行くときにだれでも使っている「市場かご」に、くだんのアトーン35がぽんと入っているのである。これはプロモーション用の画像なのだ。これは粋だなと思った。

ゴダールは「車でどっかを走行中に、素晴らしい雲と光に出会ったとする。その場合、監督自身がカメラを回すのが最上の表現だから、そういう目的にあう超小型な35ミリ映画カメラが欲しい」というのである。

ニコンD3を筑地の市場かごに入れたら、これが実に似合うので、ゴダールの言葉を思い出しだしたのである。

さて、D3の使用印象記はぼちぼち、拙ブログで書いてゆきたいと思う。

まず、D3は市場かごに似合う。これが大発見だ。そういうのはうれしいから、やれ性能がどうのこうのという気持はうせてしまう。

とりあえず、自分は4GBのCFカードは1枚しか持っていない。これで日本郵船の仕事をし、雑誌の連載の仕事をし、ウエブの仕事をし、すべての仕事をして、数年になる。

日本写真家協会に入会してすでに40年。このキャリアでCFカードを1枚しか持っていないことが協会に知られたら「会員の名誉を汚す行為」というので、除名にもなりかねない。

早速、価格ドットコムで、最安値のCFカードを買うことにした。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月22日 (木)

観音専用車

R1149016 きょうと。
鴨川のほとりの「方丈ホテル」から、どこに行こうと考えた。
七条からすぐの三十三間堂に行くことにした。

そこに行くまでには「五条楽園」とかなかなか渋い名所もある。

三十三間堂には始め、中学の修学旅行に行き、10年ほど前にそれを再確認しに行き、そして還暦になってまた行ったことになる。

最初の京都で、確か同行したのがNHKの取材班だった。修学旅行モノの取材であったようだ。NHKのカメラマンさんに、取材用のアリフレックス16stを見せてもらった。

そのカメラスタイルにしびれた。大きくなったら絶対このカメラを手に入れてやるぞ!と、決心した。アリstはその「猫がうずくまった格好」が魅力なのである。その夢の達成した時は嬉しかったけど、こういうのは2台に留めておくべきである。
それが「勝手に増殖」して、今、映画カメラ、スチルカメラ合わせて、無慮3000台。
これはよくない。ここの仏さんだって1001体である。
自分の場合には「後宮三千台」だ。

10年前はデジカメはたしかニコンクールピクスのあの首が回るやつだった。当時はカメラマン精神旺盛だから、撮影禁止にもかかわらず、1001人のほとけさんを「隠し撮り」した。
あれから10年、今ではそういう馬鹿はしない。
ただし、周囲の中学生の修学旅行のがきどもは、まったく無関係にデジカメを向けている。公共道徳ゼロを嘆くのではない。このルールのなさは、逆にたのもしいと思う。

その中の一人の男の子が堂内の案内を読んでいる。
「てんいをごらんください」と言って「それは天井とよむんだよ」と引率の先生に指摘されている。

危うし!文部科学省。

そのてんじょうと指摘したおやじさんが先生にしては着ているものが、どうも渋いなと思った。(修学旅行の引率の先生のファッションというのは、これは偉大な謎である。研究の余地大である)考えてみたらその人はタクシーの運転手さんなのだ。あとで気が付いたが、普通の大人は観光バスとか、あたしのように「日本を代表するカメラメカライター」は徒歩で四条の方丈ホテルから来ているのに、中学生はタクシーをチャーターしてそこらを廻っているのだ。

なまいきな連中である。
それ以前の問題として、若いうちから、運動不足。これは階級闘争に萌えるな。中学生相手の「五月革命」に燃える古参党員があたしである。

もらったパンフで、このほとけさんは観音さまであることを知った。単に並のほとけさんだと思っていたのだ。
「ほとけさーーん!」というのは最近、我が家で流行っていて、you tube の「着インコ」のホースケが、エンターテイメントでそう言うのである。(しばらく前の拙ブログにそのリンクあり)

そのオウムのホースケに曳かれて、今回、三十三間堂に来たようである。真ん中の中尊の左右の脇待が500人ずつで、合計で1001名になるそうだ。
仏の千夜一夜だ。

実に未来的な感覚だが、そのかなり剥げてくすぶった金色が良い。最新号のデザイン誌AXISで、ローマ法王に献呈された、黄金のレクタフレックスのことを書いているが、そのゴールドはあまりにも派手なのだ。1950年製と平安時代製の違いはある。ゴールドカメラも理想は平安時代の作が良い。まあ、大幅に譲歩しても鎌倉時代までの作か。

自分の持っているゴールドカメラと比較して言えば、ローライ3,5fのアメリカのカジノでカメラガールが使用して、お客の姿を撮影した、純正のゴールドローライがあるがその渋い金色に似ている。これは鎌倉時代の作である。

国宝というのは大抵、時代がかった冴えないのが多いが、この1001名の観音さまは豪華であって、世界に出品しても恥ずかしくない。
このプラモデルがあったら欲しいものだ。田宮あたりで出してないか。

浅草のご本尊は一寸八分の観音さんであるが、それは見たことがない。一方、ぶぶづけの「吝嗇なきゃうと」にこのようなゴージャスな観音さん連があるのは大したものだ。

眺めていて、思いだしたのは朝のラッシュの時の「女性専用車」のことである。
観音さんは男性か女性か知らないが、この三十三間堂はそのままに「観音専用車」なのである。未来仏行きの通勤列車。御京阪(おけいはん)の特急淀屋橋行きのテレビカーという感じだ。
ひとつの電車に1001人も乗車しているのだから、大変な乗車率だ。
ありがたや、ありがたや、、、、、

愚考するに観音カメラも、小田切さんとか、わたなべさんとか起用しないで、この1001名の観音さんの首からそれぞれ1台ずつ、観音デジタルカメラをぶら下げさせたら、三千大世界への大変な広告効果になるであろう。そのTVCMでは、その1001名がラインダンスを踊るというのはどうであろう。

キヤノンは是非、広告のキャラクターは、1001名の観音さんにしてほしいものだ。それなら創業者の精神を受け継いだことにもなる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

知り合いの白鷺

R1149003 しばらく前の拙ブログで「セカンドチャンスオファーの鷺」と書いたが、あれは電車の中の詐欺防止のキャンペーンで、そのキャラが「鷺」であったのだ。

実に本物の鷺に対して申し訳ないことをした。
ここに謹んで訂正し、鷺の皆様にお詫び申しあげる次第である。

きゃうとの鴨川のほとりにある、北京料理の店は堂々たるネオルネサンス様式(これはその感じを言ったので、あるいは様式は違うかも知れない)で、その5階のベランダからの眺望は京都ではトップである。そこで一杯やりにきた。

しかしながら京都に眺望を云々するのは、考えてみれば変な話なのである。
しばらく前に京都で高層建築の建設に関して、かなり問題が巻き起こった。四半世紀前にアメリカはニューヨークのカメラ雑誌の編集長だった、ケプラーさんのアシスタントで今、思うと実に不思議なのだけど、俵屋さんに「下宿」していたのだが、後年、あの旅館の東にマンションが建築されてなかなか新聞ネタになったこともあった。

愚考するに京都は路地の視点から見る街であって、京都ホテルの上階の角部屋から東山を眺めたこともあったが、そこには今ひとつ、感慨がわかなかった。
京都タワーが中学生の修学旅行のスポット以上の存在にならないのと同様に、ホテルの上階からの眺めはあまり感心しないのである。
せいぜいが、「ああ、ここは盆地だから、夏は暑く、冬は寒いわけだ」と納得するくらいである。これは駅前のグランヴィアから眺める時に何時もの印象だ。

定宿にしているビジネスホテルSはその四条大橋の西詰めにあって、東華菜館をちょっと下ったところにある。その前の路地はフー族店で、その名を「ジュリアナ京都」という。そういうお店の出来た年代特定が出来るのが面白い。でもその小路を見ないで眼を向こうに向けるとそこには南座も見え、比叡も見え、京阪に乗って浪速に通勤する人々も見え、という見所たっぷりの視点である。

そこの510号室に必ず宿泊して、そこから「知り合いの白鷺」に挨拶をするのも生活習慣である。

鴨川を挟んで、向かいは朝日麦酒の表現派めくビルであって、その上階がビアホールで、そこに並んだ提灯が、これは何というのであろうか、すでに京都の美学をとっくに超越してしまい、一種未来派めいた建物の佇まいを見せている。

510号室から知り合いの白鷺、知り合いの五位鷺、顔見知りのとんびなどに挨拶をする。そのためにツアイスの8x30のプリズム双眼鏡を持参している。持参のR8を双眼鏡の前に持ってくると、こういう白鷺のクローズアップが撮れる。

観察すると、四条大橋の下には、「ゼロ円ハウス」の立派なのがある。赤瀬川流に言えば、限りなく高そうなゼロ円ハウスだ。でも1円ハウスにはならないのがゼロ円ハウスの哲学だな。
これは知らなかった。そのひとつ下流にはゼロ円ハウスではないが、椅子が綺麗に並んでいて、そこでくつろいでいる数人の男性の姿が見える。こっちはゼロ円リゾートか。
こういうのも京都風情だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラDscn0258

ニコンプラザ大阪のD3

大阪のニコンプラザのオープンを記念してその基調講演をしたのが、5月18日。その次ぎの週の25日はロバート・キャパの命日でもある。その25日は真打ち、森山大道さんの講演がある。そのキャパが亡くなった現場にはニコンSが残されていたわけだが、それはデジカメコラムには関係ないので、割愛するとして、今回の最大の収穫は本物のニコンD3に触ったということだ。

いや、ニコンD3は至近距離で見たことはある。発売と同時に銀座のレモン社でこれを買っている最中の紳士をすぐ脇で見た。つまり「現行犯」というわけである。かなりの厚い札束が支払われていた。最近のデジカメは安くなっている。仕事に使っているソニーのα200などは57500円である。それでちゃんと写る。その話はアサヒカメラ6月号、今日発売の連載で書いている。

簡単に買えるデジカメが一般化しているのは、これは有り難いことだ。一方でなかなか買えない高価なデジカメはこれはなにかの人生のステップを記念して。さしずめ先の銀座でD3が売れた瞬間などは、超カメラ好きのお父さんが長年の会社つとめに終止符を打った、そのお祝いであったのかも知れないが、そういう人生の区切りにそういう高いカメラを手にするのはそれなりに、その人の人生のマイルストーンになるのであろう。

ニコンプラザ大阪で、会場内のD3デモ機を手にとって吃驚したのは、その質量がまるでプロ用の35ミリカメラ、アリフレックスを持ち上げた時の感覚であった。ようするに重量級なのである。ただしその重さの中には「伊達で重くしているのではないぞ!」というメッセージがあるのが信用できる。

前のD200の場合だと、あれは旧カメラ人類を喜ばせるためにわざと中に重りを入れてあるのではないかという噂が、デジカメ関係者の間でしきりに交わされたものであった。

D3で、びっくりしたのは、その連射速度がカラシニコフよりも速いことだ。宣伝広報さんに無理を言って、貸し出し機材のやり繰りをしてもらい、ちょっと貸してもらえることになった。
これは嬉しい。D3の未知との遭遇である。

フルサイズのデジタル一眼は「父の遺言」で使わないことになっていたが、ちょっと空模様が変わってきたようである。

@@@@@@@@@@@@@@

★銀塩クラシックカメラDscn0242

ニコンプラザ大阪のニコンSP

ニコンプラザ大阪でオープン記念の基調講演をするので、それならというので、持参の銀塩カメラはニコンSPにした。これはリペイントである。それにニコンF用のF36モーターを切りちじめたモーターが付いている。

ご存じのように、SPの内部機構にミラーボックスを付けたのが、ニコンFである。だからモーターもその長さを「調節」すればそのままに使える。
まあ、これはそういう論理であって、実際にそれを実行してこういうSPを製作してしまう人は凄いと思う。

このSPモーターはバッテリーは付けないで、手巻きで撮影している。ニコンF用の直結バッテリーを改造して、このSPに付けられるようになったのも持っているのであろが、どこかに仕舞い無くしてしまった。
それと、このカメラはコンパクトデジカメとコンビで撮影するカメラである。コンパクトデジカメは2GBでN1260あたりで撮影するのは、あとでウエブ用にリサイズしないでよいためであるが、これだと4500枚も撮影が出来る。

一方のSPは「ここぞ!」と思った時に撮影するのである。だからあまりモーターなどで速写されては逆に迷惑である。しかしSPにモーターを付けた格好はなんとも好きなので、そのカメラスタイルを楽しんでいるわけだ。

今回は50ミリF1,5のゾナーと、ニッコール21ミリのFマウントにアダプターを付けたのと2本のレンズを持参した。50ミリと21ミリは真面目なスナップをするときに欠かせないコンピである。

ニコンプラザ大阪では、歴代のニコンRF機が展示してある。
古い順に書けば
1型。M型、S型、S2型、SP型、S3型、S4型、S3−M型となる。時分などはその時代のカメラを未だに現役で使用しているわけである。
これらのカメラは20年後にはまだ現役で居られるであろう。
一方で今、最新鋭のデジタルカメラが20年後に現役でいられると思うのは幻想である。

ロバートキャパがインドシナで地雷を踏んで死んだ時のニコンSも、クラスメートの一ノ瀬がカンボジアでやられた時のニコンFもいまだにカメラの時間が現代につながっている。
それが銀塩を信仰にさせる最大の理由だな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大阪ニコンプラザ

Nikonplaza_2 日曜は、大阪ニコンプラザで、基調講演「わたしとニコンのほぼ半世紀」。
午前と午後の各90分のセッションであったが、時間延長にてそれぞれ1時間45分ほどになった。
午前と午後では同じ内容では自分がつまらないので、微妙に内容を変えて話した。

大阪ニコンプラザはまさオープンしたばかりであるが、そのヒルトンプラザウエストというのは、モダンなタワーであった、入るといきなりLVのお店があったりするのである。
LVに関しては、まだ日本に支店がなかった当時。1970年代に人に買い物を頼まれて、パリは凱旋門のそばのお店(これを本店というのかな)に行った。

欧州の普通の専門店だから、入店からずっと係の人がついて世話をやいてくれる。その時、知り合いに依頼されたVLの他に、自分用にショルダーを買った。これはカメラをいれてずっと使っているが、40年経過してもびくともしない。ジッパーがYKKではないのがかっこいい。
しかし自分はLVのガラではないから、これを首から下げて自転車に乗って東京の裏通りを徘徊していると、長屋のおかみさんが「あ、新聞やさん、、?」と声がかかるのである。

ニコンプラザの13fに行くまでに、まずエレベーターホールが立派。ヒルズの森タワーでも比較にならない。かと言ってバブル時期のあの感じではないのが良い。
エレベータのカゴの行き先ボタンは、押しボタンでなく、巨大な液晶画面だ。こういうのは初めてきた。
ショールームは最新の展示と什器だから、快適。

展示スペースでは、木村伊兵衛さんの、パリを展覧中。これ1955年の作品だが、電子式に色彩を復元してあるのでかなりヴィヴィッドである。
ランチはニコンの広報宣伝部の皆さんと5Fのイタリアンで。日本のイタリアンには入るのは、かなり久しぶりだ。薄味で悪くない。

午後のセッションを終えてから、ニッコールクラブの面々の偉い人が淡路島での撮影会の戻りとかで、お目にかかる。

ニコンの西岡社長にごあいさつ。

この方のお名刺は取り締まり役社長 兼 ニッコールクラブ会長とあるのが凄い。あのNCのバッチは高校時代には憧れであった。
西岡さんの名刺が偉いのは、トップといえどもちゃんとメールアドレスが記載されていることだ。

こういう企業のトップの名刺には「セキュリテイ」の上から、メールアドレスは記載しない場合があるが、その意味でニコンのスタンスはフェアである。

大西みつぐさんには久しぶりにお目にかかった。ハナブサリュウさんなどは40年ぶりの再会だ。
みんな、偉くなったなあ。

感激したのは、1970年に銀座8丁目の東宝スタジオで、ニコン製品のカタログ撮影で一緒だった、現ニコン大阪支店長の宮崎さんと再会できたこと。あのスタジオのクラシックなオーチスのエレベーターを知っている「生き残り」なのである。あの当時、ニコンの星として、顕微鏡のカタログのモデルになったりしたニコンの宣伝の筒井さんのことを思いだした。

筒井さんは、ニコンFを構えた姿がTシャツになっていて、それを東京は中野かどこかの裏町の洗濯物として翻っていたのを撮影したのも懐かしの70年代の記憶だ。

思えば、1969、1970、1971と3年続けてニコンサロンで個展をしたのである。
ニコンサロンともすでに37年の御無沙汰である。またニコンサロンで個展をしてみたい。
タイトルは「東京ニコン日記」か。

450 画像は大阪駅前で撮影中のあたし。ニコンSP+21mm NIKKORである。撮影は講演会のお客さんの森田さん。

ニコンプラザ大阪のお話はこちらもクリック。

http://bisyamon.exblog.jp/

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月19日 (月)

明石の海に落ちる明け方の月_

R1148802 R1148807 R1148810 日曜日。
大坂は梅田の朝。
今日、ニコンプラザで午前、午後の各90分ずつ、お話会あり。
「あたしとニコンのほぼ半世紀」というのである。それで長年愛用のニコンSPと知り合いのニコンのニコニコマートさんがその設計をしているクールピクス5100を持って大坂にきた。

ほぼ半世紀というのは、ほぼ日刊なんとか新聞のぱくりであるが、よく考えてみたら、あたしとニコンはほぼどころか完全に半世紀のお付き合いである。
今回は、あたしのアサヒカメラの連載記事でも、「かんれきニコンセンチメンタルジャーニー」というわけで、そのお話はアサヒカメラ7月号に掲載予定。

昨夕は梅田食道街を徘徊。

こういうすばらしい場所は東京にはない。メタボなんて最初から気にしていないおおらかさがある。

メタボは社会の悪。これはあの頃の黄色いユダヤの星みたいである。国民はメタボマークを胸に付けて歩くことになる。昨日の朝日の朝刊の都築響一さんの「メタボ記事」はよかった。あたしが日本メタボ党というわけでもないが、背後に薬業界の一大闇カルテルがあると邪推したくなる。

なにわの自由さは、第一、昼間から普通に吞んでいる。そのことだけ見ても大坂の街の文化程度が首都に比べて高いことが分かる。パリだってリスボンだってプラハだってウイーンだって、昼間から普通に吞んでいる。まあ東京よりも、大坂の方が欧州に近いから地理的に見ても当然か。

1970年頃と言えばすでに38年前だが、あの当時、ダイハツ(これを大阪発動機であることを知る人も少なくなった)の仕事なにわに来ていて、梅田のホテルの部屋から、ハッセルに150ミリで大阪郵便局をモノクロで撮影した。

それには煤煙に霞む午後の大都会のダイナミズムがあって、まるでシカゴのようであった。伊丹からのリムジンが着いた時、その懐かしの大阪中央郵便局が周囲のタワーに埋もれているのに吃驚した。

ちょうど、東京の霞ヶ関界隈で、文部省の赤煉瓦(というよりテラコッタ)の低層建築がうずもれているのと似ている。それはそれで良い感じなのである。

大阪駅に「駅」という名の巨大商業コンプレックスがあるのは、これは関西人の洒落であろう。仏蘭西人が見たら大笑いするのは必定だ。

ちょうど外人さんが「一番」というTシャツを着て自慢気に歩いているようなものだ。

早朝、といっても午前2時半ころ。ホテルの部屋は西向きなので、何夜の月かは分からないが、銅色に変色した遅い月がスカイラインの向こうにゆっくり沈むのが見えた。これは山姥の月、面白いの月、山遊びの月である。それに感動して持参の双眼鏡(ツアイスイエナdeltrintemの8x30)で、しばらく赤銅色の落月を愛でていた。

あの月の落下地点は、明石の海上であろうと予想を立てた。荒戎武蔵野に落ちる月は荒涼としているが、ここに落ちる月はみやびである。

これは文化の長さの相違というやつだ。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年5月18日 (日)

国内線のFクラスに試しに乗ってみる

R1148768R1148771_2R1148782 R1148783_2 土曜の朝JAL113にて大阪。
日曜の大阪ニコンプラザの講演会の用件である。
最初は新幹線のつもりだったが、ずっと乗っているとあれは米原あたりでたいてい飽きる。
「あ。飛行機があった!」ということを思いだして、そうそう最近はFクラスも出来たことも同時に思いだした。
たかだか1時間の飛行にFもないわけであるが、価格を調べたらフィックスのレートのが21100円である。これはバーゲンだ。それを買って、ウエブチエックインもした。

チエックインしたのだが、例のおさいふ携帯がないと、駄目のようで、それなら、プリンターでバーコードを印刷したのでも良いらしいが、ヒルズには優秀なプリンターがあるが、佃には長年使っていない(つまりないのも同様)プリンターがあるだけでこれは使えない。

それで、京急で羽田に行って、チエックインをもう一度して、発券してもらった。これからはおさいふ携帯のない人は「人間扱い」されなくなるようで怖いことだ。

Fのチエックインカウンターは、北ウイングのエスカレータを登ってかなり歩いた所にある。欧米のFのカウンターは入口から一番近くにあるのが定石だ。

それはYクラスのお客さんがその前を通って「いつかはオレもここでチエックインするぞ!」という夢と闘争心を燃やす気分になる、つまり潜在需要を喚起させる意味もある。

HNDのJALのFカウンターはその意味で分かりにくい所にあるから「秘密チエックインカウンター」のようで損をしている。
入ると、すぐに保安検査がある。いわゆるファストトラックである。これは便利だ。セキュリテイでHISのお客さんと並ぶのはちょっとご免だ。

そこを入るとすぐにFのラウンジ。
ここは狭い。シートはまず大昔の「国民休暇村レベル」だ。これは六本木ヒルズのアカデミーヒルズとクラブの家具と比較しているのである。
ラウンジは狭いと言っても777ー200だと14人分しか座席がないのだから、まあ、これでも大きくスペースをとってあるということか。

無線ランに接続しようとしたら、PowerBookがIDを聞いてきた。「信頼できるネットワークはひとつもありません。JALというネットに接続しますか」とPowerBookが聞いてくるほどに、セキュリテイがルーズなのに、IDを聞いてくるとは笑止であるが、アテンダントさんにリクエストしたら、ログインのカードをくれた。ログインIDがあまりの乱数なので、その入力に眼がいたくなった。

シートとかインテリアとかそれなりのクラスであるが、なんせ、個人のスペースが狭い。特にビジネスセンターなどはどっかの学習塾のようだ。
まあ、付加料金が8000円なのだから、価格相応か。

時間を無駄に使わないために、ラウンジでちょっと良い焼酎。ただし「森伊蔵」ではない。「尽空」だ。でもこれはなかなか飲める。炭酸水を所望したがなし。さくらラウンジにはあるそうだ。Fのラウンジでソーダウオーターが置いてないのは、世界でここだけではないか?

それとも宗教上の理由か。

バーのテイバックはあまり揃っていない。トレイになにか紙が貼ってあるな、と思ったら「お持ちだしはご遠慮くださいませ」とある。

この「ませ」がくせものだな。

最初からFクラスの客をみくびっている。(というかFクラスの客の吝嗇を知り尽くしている)でもこれでは折角のFクラスの広告イメージがぶちこわしだ。

大昔の航空会社間のICAO規定では、禁止されているのは「お客さまが持ち帰りたくなるような品物を機内にのせるのは禁止」となっているのだ。つまりお客が持ち帰ったグッズはそのまま宣伝効果になるから、これは不当な広告宣伝競走にあたるので自粛しようというのである。まるで逆である。少量の物品を持ち去られたらJALの損になるというようなこまい発想ではない。

持ち帰ったテイバックの紅茶がおいしければ、そのカスタマーの奥さんあたりが次回はまたJALのFを選ぶということになるわけで、これは実に大成功、立派な宣伝商材だ。それが目先の紅茶のパックの数を経営の損益スケールにいれていては駄目なのは言うまでもない。

「JAL自慢の紅茶をどうぞお持ち下さい」とやれば効果絶大である。
こうやられると、逆に持って帰らないものだ。

それでお客さんが増えればサーチャージなど不必要になるかも知れない。

これは多分現場レベルの「お仕事」であろう。これが上からのお達しなら実に恐ろしいことだ。Fクラスのラウンジの紅茶の数をカウントしているより、大事な事は沢山ある。この注意書きは早速撤去した方がよいと愚考する。

まあ、いい加減に文句を云ったところでこれより搭乗。
しかし飛行時間は50分だから、その短時間でお酒を飲んだり、モノを食ったりするので忙しくなりそうだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月17日 (土)

日経BPのウエブ

R1148761 真夜中に起きて、メールを見たら午前1時45分に日経BPからメールが入っていた。

http://trendy.nikkeibp.co.jp/lc/cover2/080507_record/

これは日経BPのかなり巨大なポータルサイトである。5月29日から一週間、このウエブマガジンでクラシックカメラの特集をするそうで、そのトップインタビューのご指名にあずかったわけである。

LPレコードの特集であって、ピーター・バラカンさんのインタビューが出ている。懐かしい名前だが、自分バラカンさんが来日した1974年の前の年にウイーンに行って80年まで戻ってこなかったので、いわば「行き違い」である。

そのバラカンさんのコメントの中で、以下のくだりが心にしみた。

以下、引用。

60年代半ばくらいは、ロンドンが音楽の流行の発信地で、格好いい音楽を生み出していたと思います。新しい音楽を生み出していった時代背景には、いろんな要素が絡んでいると思います。例えば、ビートルズはリバプールで育ったわけです。リバプールは港町なので、あの頃はリバプールからニューヨークまで貨物船がよく行き来していたんです。イギリスの船員たちが船に乗ってニューヨークに着くと、積んでいた荷物を降ろすのが波止場の黒人労働者たち。そこで、イギリスの船員たちが黒人の労働者たちと仲良くなって、黒人が聴いていたブラックミュージックを聴いて、レコードをイギリスに持ち帰った。それで、リバプール・サウンドと呼ばれる新しい音楽を発信していくことになったんです。リバプールで、ブラックミュージックが流行っていたのには、そういった背景があると思いますね。

引用おわり。

なるほど、ビートルズも港湾の沖仲師から生まれたのか。日本郵船のライラ(75000トンのコンテナ船)を取材したわけだが、今は沖仲師ではなく、ガントリークレーンが荷揚げをするから、そういう人間を「媒介」にした文化は「伝染」しないわけだ。これはさびしい。

それで15日の午後に日経BPのインタビューと撮影があった。15台ほどのカメラを佃から、旅行用バッグにいれて、タクシーで往復運搬した。

行きかえりの東京の風景というものをじっくり観察して、それが面白かった。

面白かった、その意味は東京の四季の移り変わりが目でわかるからだ。メトロだとそれがわからない。

「季節の感覚はとうに失われている」

このフレーズは明治時代以来、かなりの文豪ですら、この常套句を使っているのだが、このフレーズが自分は大嫌いである。大好きな作家もこの一節で大嫌いになる。

その「季節の感覚はとうに失われている典型的な場所」がメトロだけど、そういう常套句が嫌いだからと言って、生活のためとは言え、メトロに乗らないわけには行かないのがつらいところだ。

タクシーだと往復