PATHEのフィルムマガジン
実家はもともとは鳥料理の店だった。それでおんどりの時をつくる姿をそのまま流用した。もっとも雄鶏はフランス王のヒエログリフでもある。
実際にはルミエールよりもやや後になるが映画産業が一斉に花開いた19世紀末のその新時代に向かっての感覚は、今、想像するだけでどきどきする。
映画を「その脚本だけに興味がいって、そのストーリーに涙している大衆」を批判しているのが映画機材少年の稲垣足穂である。
小説を「活動写真に仕立てる」ことについては、荷風も批判している。荷風によれば、フランス文学を訳文で読むなどは「到底成功の見込みのない輩」であるわけだから、いわんや、小説をわかりやすくした活動写真などは唾棄する対象であったのだろう。
以前、調布の多摩川住宅に居住していたのは30年前であるが、同じ居住区につげ義春さんがいた。電話をかけて、日時を示し合わせて、「住宅中央」というショッピングセンターの中にある喫茶店で待ち合わせてカメラの話をした。
大漫画家に「紅い花」とか「ねじ式」の話を聞けなかったのは残念であるが、そういう話だったら、つげさんは自分の誘いには乗ってこなかったのは確かだ。
もっぱら、あたしがつげさんに「ライカ」を薦めたのに対して、つげさんは国産一眼レフに固執していた。ニューヨークでつげさんから依頼されたミランダTを買って、翌年、帰国してからつげさんのお宅をたずねた。
例の3畳の仕事場には大昔の本棚があって、そこにはカメラが充満していた。持参したミランダTの値段が2万円というと(これはマンハッタンで買った価格なのだ)
「やすいよなあ、、、どうしようか、、、」と隣室の奥さんを振り返った。
「お安いからいただいておいたら、、、」と奥さんの返事でつげさんはほっとしたような表情だった。それで現金は奥さんの財布から出たような気がする、
そのつげさんをテーマにした映画が封切られて、それは見る時間がなかったが、後になって、そのビデオを買って、私は腹をたてた。
つげさんの「不安な多摩川の風景」がそこに生きていないのはもちろん、その映画のラストシーンは「ハッピーエンド」になっている。
とんでもない話であって、ここら辺が「小説を活動写真にする無意味さ」と荷風が指摘するゆえんだ。
足穂がマニエリズムとして指摘したのは、初期のパテベビーの手回し式9,5ミリ小型映画カメラである。それを赤貧の足穂が買えるわけはない。
ケプラーが貧乏で天体望遠鏡のレンズが買えなかったのとここには共通項がある。ゆえにい光学器械への信仰と直感がそこに生じる。
いったいに、光学器械はそれを手に入れるのが、一生の夢であるとか消費生活にかなりの無理を生じされるくらいの方がよい。
「ライカの天国の扉は狭い」方がよいのだ。
映画撮影機のフィルムマガジンのダイナミズムを日本で最初に発見したのは、言うまでもなく足穂である。この光学機械学は当時は誰も理解しなかった。
足る穂のよき理解者だったはずの朔太郎ですら、望遠鏡の話を持ち出すと「僕はここに寝転んでいて、向こうの原っぱにいる少年なんかが見えるようなのがひとつほしい」というような日常的な必要の範囲なのである。
光学機械が日常の必要で購入するのは、実に退屈のきわみである。
パテの1970年代の16ミリカメラは、すでに映画が誕生した時期から80年は経過しているうのであるが、そこに初期の映画機材の名残をよくとどめている。
手回し式のクランクのある箱の本体にファインダーをつけ、フードをつけ、上部にマガジンんをつけたら、こんな格好になりまりた、というわけだ。
そこには機械学の「蛮勇」がある。
パテの16BTLにはこのような400ftマガジンがつく。これは前に置いてあるマガジンに400ftのフィルムを入れて、それを後部のマガジンが巻き取ってしまうと、前のマガジンを後部に装着して、新たに装てんしてあるマガジンをカメラの前につけるという仕組みだ。
そこに映画撮影のダイナミズムがある。映画というのは10万フィート撮影したとか、20万フィート撮影したとか、その尺数がカメラマンの「意気地」なのであった。
レッドデジタルシネマもいいけど、あれは8GBのCFカードである。だからカメラの上のマガジンというのはない。それが不満である。
ソニーのプロ用デジタルシネマは本体の上にレコーダーを乗せて、そのデザインはなにかムービーカムとかパナフレックスのマガジンのデザインに似ているのがよかった。
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