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2008年4月30日 (水)

PATHEのフィルムマガジン

Patherbtl16mm1 Patherbtl16mm2 シャルル・パテは映画製作の草分けである。

実家はもともとは鳥料理の店だった。それでおんどりの時をつくる姿をそのまま流用した。もっとも雄鶏はフランス王のヒエログリフでもある。

実際にはルミエールよりもやや後になるが映画産業が一斉に花開いた19世紀末のその新時代に向かっての感覚は、今、想像するだけでどきどきする。

映画を「その脚本だけに興味がいって、そのストーリーに涙している大衆」を批判しているのが映画機材少年の稲垣足穂である。

小説を「活動写真に仕立てる」ことについては、荷風も批判している。荷風によれば、フランス文学を訳文で読むなどは「到底成功の見込みのない輩」であるわけだから、いわんや、小説をわかりやすくした活動写真などは唾棄する対象であったのだろう。

以前、調布の多摩川住宅に居住していたのは30年前であるが、同じ居住区につげ義春さんがいた。電話をかけて、日時を示し合わせて、「住宅中央」というショッピングセンターの中にある喫茶店で待ち合わせてカメラの話をした。

大漫画家に「紅い花」とか「ねじ式」の話を聞けなかったのは残念であるが、そういう話だったら、つげさんは自分の誘いには乗ってこなかったのは確かだ。

もっぱら、あたしがつげさんに「ライカ」を薦めたのに対して、つげさんは国産一眼レフに固執していた。ニューヨークでつげさんから依頼されたミランダTを買って、翌年、帰国してからつげさんのお宅をたずねた。

例の3畳の仕事場には大昔の本棚があって、そこにはカメラが充満していた。持参したミランダTの値段が2万円というと(これはマンハッタンで買った価格なのだ)

「やすいよなあ、、、どうしようか、、、」と隣室の奥さんを振り返った。

「お安いからいただいておいたら、、、」と奥さんの返事でつげさんはほっとしたような表情だった。それで現金は奥さんの財布から出たような気がする、

そのつげさんをテーマにした映画が封切られて、それは見る時間がなかったが、後になって、そのビデオを買って、私は腹をたてた。

つげさんの「不安な多摩川の風景」がそこに生きていないのはもちろん、その映画のラストシーンは「ハッピーエンド」になっている。

とんでもない話であって、ここら辺が「小説を活動写真にする無意味さ」と荷風が指摘するゆえんだ。

足穂がマニエリズムとして指摘したのは、初期のパテベビーの手回し式9,5ミリ小型映画カメラである。それを赤貧の足穂が買えるわけはない。

ケプラーが貧乏で天体望遠鏡のレンズが買えなかったのとここには共通項がある。ゆえにい光学器械への信仰と直感がそこに生じる。

いったいに、光学器械はそれを手に入れるのが、一生の夢であるとか消費生活にかなりの無理を生じされるくらいの方がよい。

「ライカの天国の扉は狭い」方がよいのだ。

映画撮影機のフィルムマガジンのダイナミズムを日本で最初に発見したのは、言うまでもなく足穂である。この光学機械学は当時は誰も理解しなかった。

足る穂のよき理解者だったはずの朔太郎ですら、望遠鏡の話を持ち出すと「僕はここに寝転んでいて、向こうの原っぱにいる少年なんかが見えるようなのがひとつほしい」というような日常的な必要の範囲なのである。

光学機械が日常の必要で購入するのは、実に退屈のきわみである。

パテの1970年代の16ミリカメラは、すでに映画が誕生した時期から80年は経過しているうのであるが、そこに初期の映画機材の名残をよくとどめている。

手回し式のクランクのある箱の本体にファインダーをつけ、フードをつけ、上部にマガジンんをつけたら、こんな格好になりまりた、というわけだ。

そこには機械学の「蛮勇」がある。

パテの16BTLにはこのような400ftマガジンがつく。これは前に置いてあるマガジンに400ftのフィルムを入れて、それを後部のマガジンが巻き取ってしまうと、前のマガジンを後部に装着して、新たに装てんしてあるマガジンをカメラの前につけるという仕組みだ。

そこに映画撮影のダイナミズムがある。映画というのは10万フィート撮影したとか、20万フィート撮影したとか、その尺数がカメラマンの「意気地」なのであった。

レッドデジタルシネマもいいけど、あれは8GBのCFカードである。だからカメラの上のマガジンというのはない。それが不満である。

ソニーのプロ用デジタルシネマは本体の上にレコーダーを乗せて、そのデザインはなにかムービーカムとかパナフレックスのマガジンのデザインに似ているのがよかった。

2008年4月29日 (火)

さいたま蒸留運動

R0011472 この前、四谷のだーしえんか(チエコ料理の店)で「あの写真部がらみ」の無届集会のあった時に、新潮45の中島さんという女性がいて、その人のデジカメへの考えがなかなか戦闘的なので記憶に残った。

その中島さんは最近、ご結婚なさったというので、そのオンラインアルバムを当方に送ってきれたので、それを見てびっくりしたのは、式場が東京大神宮というのである。

これは雑誌「東京人」の編集部近所にある。

「東京人」の編集部はこれも不思議な近代建築物件であって、そこから坂をくだった左手に大神宮はあって、その「淫祠邪教」っぽい感じが、なかなか決まっているので30年来気になっていた。

その結婚式の送られてきた様子を見るに実に「犬神家の人々」っぽいインテリアなのでますます感心した。

中島さんはこの前の土曜の「あの写真部」にも参加していたのだが、5軒飲み屋を回って、最後の銀座のおでんやにて開陳されたのが、この「さいたまの視力検査表」である。

なんでもさいたまを明るくする「さいたま蒸留運動」を(本当の活動名を忘れたので、これは仮の名前である)しているそうだ。http://ameblo.jp/saitamania/

世の中、中華オリンピックの「聖火さわぎ」がマスコミの暇ネタになっているが、いたずらにチベット問題ばかりに目を向ける前に、汝の足元、さいたまを見よ!

というわけだ。そのTシャツがいかすので、早速、注文した。

さいたまとニュージャージーは実に渋いキャラという意味でこれは姉妹都市になるとよい。これが実現すれば、東京とパリの姉妹都市関係などは早晩、霞んでしまうであろう。マンハッタンから西を見て、ニュージャージーの有名都市はアトランテイックシテイであるが、これはマンハッタンからはかなり離れているし、カジノだからまあ認められている。

一方、マンハッタンの対岸のホボーケンは、なにかと謂われなき「差別」を受けてきた。かのフランク・シナトラですら、その自分の出身地がホーボーであることを気にしていたそうだ。

自分の場合は、そのホボーケンのレンガつくりの建物と低い家並みが魅力で、撮影によくでかけたものだった。

上のさいたま視力検査表などは、さしずめ格好な意識改革になるであろう。

何事も、禍は眼からなのである。

2008年4月28日 (月)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

入門機を使いこなすのがデジカメの達人である

R0011486 ゴールデンウイークのしょっぱなに、福田和也一味の「あの写真部」に参加した。えんえん12時間の長征であって、まあその間に飲み屋が5件入るという「ハードスケジュール」であった。

興味があったのは、やく25年ぶりに江戸時代からの旧跡(であろうと思う)の堀切菖蒲園に行ったのである。

周囲の風景は一変してびっくりしたが四分の一世紀経過したのだから無理もない。

菖蒲はまだだけど、藤の花は満開であった。しかし「ネーチャーフォト」(この言葉、最近死語だな)は自分の目指すところではないから、藤の花を見て2年前の同じ季節のころのローマを思い出したりしていた。

藤の花は、日本的なものではなく、かなりラテン的な存在感があって、ローマに遺跡などにはまず一番似合う花である。

しかしいつまでも藤の花を見てローマを思い出していてもらちがあかないので、時間つぶしに周囲のカメラ状況を見渡すと、まず普通の人はケータイで花を撮影している。それは撮影時に「ちゃらんぽらん」という音がするのでわかるのである。

次にコンパクトデジカメが圧倒的に多い。

見ていたら、30代後半の半ずぼんのスポーツウエアの若者が来て、背中には巨大なリュックを背負って、大型三脚。手には某メーカーのフルサイズデジタル一眼レフで登場した。

こういう風流な場所には弁慶の七つ道具は実に似合わない。なにか武士が大小をたばさんで来たという感じがする。

それでどういう撮影の仕方をするのかと見ていると、結局は藤の花の一枚撮りで満足していて、次のモチーフを探している。これだけ万能機材を山のようにしょって、菖蒲園で1枚きりというのは、なにか大金持ちがスーパーでたらこを買うのに1円の差が気になって、あっちこっちを周回しているようで、それはその人のライフスタイルと言えないこともないが、周囲からみているとなにか心苦しい。

一夜明けて今朝のことだが、9時前に出勤のため、佃キャナルの脇を通っていたら、長身の男性が立って、デジカメで撮影している。こっちはどのブランドであろうか思ってすれ違ったとき、向こうから「たなかさんですか、、」と声がかかったので、そのままデジカメ立話になった。

そのデジカメ人類紳士は、α100が登場した時、「1000万画素でこれこれの機能がついているからこれが自分には一番」というので買ったそうだ。

こういう見方でのデジカメ買いは正しいのであって、自分の周囲のデジカメ一眼レフ人類はすべて、やれフルサイズだ、やれM8だと、メーカーの「策略に踊らされているやから」であるから語るに足らない。

各メーカーの普及機といわれる安デジカメにこそ、機材の真実が宿っているというので、「入門機デジカメ談義」になった。

その紳士によれば、ソニーのα100よりもα200の方は「作り方の合理化」が見られるという。すなわち「カメラつくりの手を抜いている」わけだ。

あたしもその話はアサヒカメラの次号でやるのであるが、たとえばα100についていた、M42などのマウントアダプターでオートで撮影できる機能がα200ではついていない。これでは定点式の露光決定になるので不便だ。

またコマンドダイヤルが1個減ったので、設定がいろいろと面倒である。

そのデジカメ達人を見ていて、あたしは急にα100がほしくなった。要するに、過去の遺産である、「高いカメラ持った人がすぐれていて、安いカメラ持った人はだめ」の構図はすでに完全崩壊である。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@

★銀塩クラシックカメラ

ニッコール50ミリf1、1の品格

R0011328 なんとかの品格というタイトルの本が横行しているが、品格という言葉は品格のないクラス位が使う用語だし、品格のないクラスが品格を得ようとしてそういう本を買うという悪循環になるわけだ。

福田和也とその一味の「あの写真部」の長征というのはすごくて、集合が朝の10時とか111時でいきなり路地裏学会をやって、飲み屋に突入するのだ。

その品格のなさが、品格と言えそうだ。

あの写真部のよく利用するのは、東京の周辺に点在しる「ときわ食堂」である。昨日も参集した面々は町屋の駅ビルの地下にある「ときわ」に陣取って、麦酒ジョッキを前に部活を開始したのだが、その話題の内容はたぶんに知的冒険の品格ある内容であるから、そういう高等な話題はここに記載するまでもない。

福田さんが最近手にいれたという、その価格を聞くのが怖くてためらわれる、例のニッコール50ミリf1,1を示したので、それを持参のあたしのニコンS2につけて撮影した。

この場合、ニッコール50ミリf1,1の「品格」を保持させるためにはある種の作業が必須である。つまりケンコーのフィルターを最初に撤去して、そのレンズの表面を露出させたのである。

なぜケンコーのフィルターがまずいのか?

ようするに、これは高価なレンズに傷をつけてその価格の下落を防止しようという「カメラ屋根性」なのだ。

かのゲバラの偉いのは、愛用のカメラがニコンS2に50ミリf1,1であったことだ。それは旧型の内爪なのも奥ゆかしい。自分が1976年のウイーンから日本への一時帰国で手にいれた50ミリf1,1も同じレンズだった。

ゲバラは革命の父であるばかりではなく、カメラ人類の父でもあった。

あたしが福田さんに提案したのは、まあ、こういうご時世だから、フィルターなしで50ミリf1,1を使うのはあまりにも危険だから、フィルターは許すとして、ケンコーのやつはよくない。せめて50年代の銀色の枠のフィルターを御使いなさい、と「指導」したのである。

あたしは福田和也のカメラ道楽の「師」ということになっているので、そういう指示が可能なわけだ。

それにしても大ジョッキと大口径レンズの存在はお隣同志という感じでよく似合う。

RED DIGITAL CINEMA @ GARAKUTAYA

R0011301 R0011300 土曜は恒例のシドニーである。
東京は四谷荒木町のがらくたや特設リンクはカメラ人類で満員であった。
ただしここで展開する「辻説法」は、誰にでも分かる入門編ではない。

あたしのクラシックカメラの無意識の領域を掘り起こす作業なので、まず最近、カメラの楽しみを知った人はすぐにはそのカメラとレンズの話が分からない。
要するに中古カメラ市で坂崎幸之助さんに遭遇して、坂崎さんと銀座の松屋デパートの階段の踊り場で、ニッコールならぬ、ニッポールの話をするクラスでないと話題にとけ込めない。

こう書いておかないと、これ以上観客さん増えると危険な状態になるので、すでに満員状態である。

ところで、マンハッタンの怪人、チョーセイさんからMIXIの書き込みで、あたしがRED GISITAL CINEMAのTシャツを着た、その後ろ姿が見たいというリクエストがあったので、さっそくアップしておく。
THE RED ONBのオンラインショップで買ったTシャツである。ここのサイトは2万ドルに近いRED CAMERAもクリックで買えるので、要注意だ。

http://www.red.com/

この来年に出るという「スカーレット」を手に入れようと思っているのだ。

こういう風に狭い空間で麦酒ケースの上に乗ってカメラの話をすると、その反応がびんびんと伝わってくるのが痛快だ。ここでの口から出任せのカメラ漫談をしながら、後でその内容を思いだして、今度、筑摩新書から出す、ちょっとマニアックなカメラ本(タイトル未定)のプロットを立てたりしている。こういうフリートークは自分の頭脳のカメラジャングルをスキャンするには格好である。

二番目の画像が例のTシャツだ。これはアローカメラの「二代目」が撮影した。店内の蛍光灯のカラーバランスはなかなか優秀である。

2008年4月27日 (日)

ニッコール21ミリとの「ほぼ半世紀」

Dscn0118日本カメラに連載中の「一眼レフの王国」はカラー見開きであるがもうかなり長いことの連載である。ノンブルを見たらすでに52回を数えていた。

本当はレンジファインダーの話の方が得意であるが、それをやろうと思ったのであるが、わざと「変化球」で行って、自分の苦手な一眼レフ方面に行ったのである。

その日本カメラの5月号では、ニッコール21ミリfマウントを取りあげている。当時はそういう時代であって、まだ光学設計が未熟であったから、21ミリのような「超広角」をレトロフォーカスで実現するのにはまだ駄目であって、緊急手段として、ミラーアップしたニコンFに、ニコンS用と同じ光学系の21ミリを突っ込んだという格好になった。

これは戦闘的な組み合わせであって、当時のニッコールクラブの会報でも細江英公さんが作品を示して、その短いレンズをニコンFに付けた時のバランスの良さを絶賛している。
その後、東松照明さんが、例の沖縄を撮影して(これは復帰前の)40頁だかのモノクロの特集を当時のアサヒカメラに掲載した。

大昔のカメラ雑誌というのは、そのように思い切った仕事を掲載したものである。
その東松さんは、沖縄で下駄ばきで、21ミリ付きのニコンFで撮影していたという、ゴシップが東京にまで流れてきて、我らニコン青年の血を沸かせた。

当時は一眼レフと言えば、それはニコンFのことだった。

あたしは当時すでにニコンFを2台(しかもブラック)もっていたニコン青年であったが、日大の写真学科の入学祝いに父親にこのレンズを買わせたのである。

池袋の光進堂という店で買った。確か3万円にやや欠ける価格であったから、大変に高価な買い物だった。

最初はそれをニコンFに付けていたが、その前後にこれも父を「脅迫」してライカM2のブラック仕上げを買わせた。この価格は12万5千円。
これは新宿のラッキーカメラで買った。

大変な散財であるが、ライカM2と21ミリニッコールで父親は息子を「売れない写真家」にしたのだから、その教育費としては安いものであったかも知れない。
今にして思えば、父はカメラ好きであったから、母の手前、息子への出費というので自分のカメラ買いの満足という意味もあったのかも知れない。

そのニッコール21ミリをライカMマウントに使うアダプターなどは当時はどこにも売っていなかったので、それは父の知り合いの機械屋さんにひいてもらった。
それは真鍮むきだしの金色のアダプターであった。
その21ミリレンズがこのレンズである。

このアダプターの方はそれから20年ほど経過して、世の中にそういう品物が流通するようになってから買った。

だからレンズに関してはすでに半世紀近く使っているわけである。
1966年に「楽園」と題して東京をモノクロスナップしたシリーズ(これは日大の卒業制作でもある)から開始されて、その後、東京ニコン日記と題した800頁ほどの写真集(新書サイズ)でもこの21ミリを多用した。

ウイーンでの7年半の間に憧れのスーパーアングロンも手に入れたが、比較して見ると、ニッコールと変わるところはなかったので、ウイーン時代にもニッコールは愛用した。

それからすでに30年が経過して、まだ使っているのである。
先日、アサヒカメラのインタビューでニコンの大井町本社に行って、光学設計の皆さんと対談した時も、ニコンにはこのレンズのファンが多いそうで、そう言えばその場で見せられた、あれは朝日ソノラマのシリーズであろうか、ニコンFが登場するムックの表紙には同じ21ミリニッコールであった。

このレンズには、コシナがF-Sアダプタを作ってくれたので有り難い。
本当は21ミリのSマウントが欲しいのだけど、かつては100万もするレンズで最近、50万で出ているので、怖くてその店には接近しないようにしている。

誘惑に負けて「カードの麻酔」など打ったらそれこそ「百年目」である。

2008年4月26日 (土)

氷川丸78歳のお誕生日

Dsc01698_5 氷川丸78歳のお誕生日。

日経には、全面広告。それとヒルズの創立5周年の全面広告も出ていた。

新聞の全面広告のモチーフをあっちから、こっちに移動するのはなにか不思議な感じだ。

早朝7時半に佃を出て。90分かけて氷川丸前。

博報堂の阿部さんと午後9時半前に氷川丸前の約束であったが、乗継がよいので早く到着。

天候はやや怪しいが最初はぱらぱらと降っていたのだが、のちにはまずまずの天候。この前の神事のときには「氷川丸への信仰が試されるほど」の荒天であったから、それに比較すれば実におめでたい。

テレビ関係も多数。
NHKはちょっと型おくれのソニーのベータカム。KTVはかなり形遅れの池上であった。別に三管式のドッカブルではない。プロ機材は「型遅れ」に限る。

新聞系は、やはりニコンD3を両方の肩にかけて、「武装」している人が多い。それと黄色のプロストラップである。

こっちは「通りがかりの越後のちりめん問屋のじじい」という設定だから、まずアマチュアの入門機のソニーα200、価格どっとこむ、にて57500円(送料込、消費税別)で購入の機材にて撮影。

レンズは17-70ミリなので、遠方を撮影するときには、尻のポケットからリコーR7を出して撮影。こっちは200ミリ相当まで寄れる。まずは「完璧プロ」の2台体制。

氷川丸船内の歴史的記念物の展示にはおおいに興味を持った。戦後の小学校教育で日本の輸出品は「生糸」と教えられた。

それがどのような梱包だったのか、想像もつきかねていたのに、その実物の模型あり。うちで、ウイーンのネガを1000本保管してある、柳行李は、家人の両親が新京から引きあけてきたときに持ち帰ったものだ。

引き揚げ船で日本についたのだから、案外、氷川丸のお世話になっていたかも知れない。その柳行李にそっくりのものであった。

午前11時過ぎに横浜を出て、六本木。仕事。

2008年4月25日 (金)

3刷り決定!「カメラは知的な遊びなのだ。」

@@@@@@3刷り決定!「カメラは知的な遊びなのだ。」@@@@@@

ご愛顧感謝!!

ぼちぼち売れてます!!!

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

買ったきっかけ:
書いたきっかけ、というか語ったきっかけですが、初心者さんの素朴なデジカメの疑問にあたしが答えるという方式です。

感想:
「知的な興奮」をもたらしてくれるのが、現代のカメラの楽しみです。それをステップバイステップで教えます。

おすすめポイント:
銀塩カメラは凝ったものを。
デジタルカメラは安物でも十分。
(註 ここで紹介されているデジカメが安物という意味ではありません)

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

著者:田中 長徳

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

ハリネズミのショッピングバッグ

R0011276 R0011245 4月23日の東京大周遊での「成果」がこれである。

舎人ライナーの「荒野」駅から歩行して、ジグザグ路線をとって、わざと足立区は西新井本町の迷宮に迷うように歩行していた。

ただし、道に迷う楽しさというのは、「見知らぬ街区」が延々と続いて、その最後に「見覚えのある街角」が登場しないと意味がない。

さもないと「本物の迷子」になってしまう。

つまり、正義はかりそめにも最後に勝利を収める必要があるわけで、そこらへんを考えるに「日本路地裏学会」でも、ひこうきの中で見せる、オンデマンドの三流映画でも変わりはない。

このような「学術的探求」は、本当は何の報酬もないばかりか、逆にその事業に携わっていた本人にひどい仕打ちで報いるのが本物であろうと思われる。

西蔵学の開祖、河口彗海が、あれだけ雪山ダウラギリを死線を越えて踏破したにもかかわらず、昭和20年の河口の晩年、灯火管制の真っ暗闇で、そこらに掘られた穴に落ちてそれがもとで、落命するというのも、その意味では神仏の意思なのであろう。

すでに数年前だが、東儀秀樹さんのコンサートがアンコールワットであったとき、自分は行けなくなったので、家人がその代わりに行った。

東儀さんのコンサートの大成功はともかく、家人の土産話で面白かったのは、その町の5つ星のホテルに宿泊したのに、その町には信号が2つしかなかったということだ。

信号などは交通事故の象徴のようなものだから、本来はないに限るのであるが、夜間に歩行する時の注意事項をツアーコンダクターから受けたそうである。アンコールワットの日の出を見るツアーであるから、まずは暗闇を歩行せねばならない。

その暗闇の危険とは、野犬でも強盗でもなく、そこらにあいている、路上の穴ぼこであってそこに落ちる危険があるそうだ。これが面白かった。

ただし、おとといの東京の北辺の探検では、真昼であったので、穴ぼこには落下しなかったが、段差はあったし、後方からくる車両の危険は身にしみた。

真昼の舎人ライナーの駅前のロータリーが春爛漫の日差しで、うららに無人なのを見て、さて、これは以前、どっかで見たような気がするな、、と思った。

おととしの11月、インドはデリーの青い路線の地下鉄の西の終点の駅の実に空虚意外はなにもない、誰もいない広大な駅前ロータリーに似ていたのだ。ただし足立区は気温25度、デリーは気温35度の違いはあった。

でたらめに歩行した道の先に、4月の初めの週にやはりこの界隈を歩行して、100円ショップ「シルク」でナイロンの100円のショッピングバッグを買った。その同じ店にこのような、ハリネズミのバッグ(これは正しくは、バックと言いたい)があったので、店頭の在庫を4個買ったのである。

これはこの1年の自分の買い物の中でなかなかにレベルが高かったと自慢できそうだ。

ああ、それからクイズ。上の価格表はいったい何でしょう?回答はコメント欄にお願いします。

★続々と回答ありがとうございます。しかもマンハッタンの怪人さんまで。

なるほど、マンハッタンは食肉が安いから、馬肉ねえ。ヒントは「外人さん向けのアド」であることです。ただし、普通のヒントを理解するとほとんど方向違いの答えになります。

2008年4月24日 (木)

4.23東京大周遊

R0011134 R0011162 R0011178R0011144R0011217 あまりヒルズに籠もっていると、エアコンの空気ばかり吸っていて、思考がエアコン化してくる。それで晴れ間を狙って、東京大周遊。

薄墨色の東京北辺こそ、我らの目指す風景である。これこそ21世紀の郷愁だ。

これをフォトショで直してはいけない。

カメラはイカレックス35CSと、35ミリと135ミリを持つ。
西日暮里から、舎人ライナーにて「こうや」(例によって荒野ではなく、高野なのが残念)まで行き、前回の記憶の糸をつなげて、勘で歩行する。

ほどなく、環七の西新井本町に出る。
この前、そこでナイロンのショッピングバッグを買った100円ショップの「シルク」前にいきなり出たのは、我ながら生理的なGPSが優秀なせいである。

そこでハリネズミの模様付きのショッピングバッグを4個も買う。

まるでバイヤーの買い付けである。

暑くなってきたので、そのショッピングバッグに着てきたジャケットを入れ、イカレックスを入れ、銀塩とR7とで(最近、R8からまたR7に戻った。この方がポケットが膨らまない)わざと足立の道に迷うように、ジグザグに興田とか扇あたりを徘徊。

ちょうど、日本郵船のタンカー「高山」(12万噸)が、海賊の砲撃を回避する行動に似ている。

このあたりの醍醐味は一度通過した道を次回にトレースするのは実に困難であることだ。
そこが町歩きの醍醐味だな。

昼食は例の「ラッキー」で980円のランチ。いつも195円のローソンのサンドイッチだから、大変な贅沢だ。お店は今日は旦那だけである。おかみさんは女子医大に行っているとの地元の常連さんと、旦那の話。ここらはすべてがおおらかで昔の東京というか、まるで昭和30年代の松竹映画である。

ここのメニューはマグナカルタめいている。これはR7の書類をまっすぐに矯正するソフトで撮影。

勘定を払って店を出ようとしたら、「病院混でて、おくれちゃった、、」とおかみさんが下手から登場。この老夫婦のTV(主にNHKの昼の語るに落ちた番組)を二人で感嘆の声を上げつつ、しかも論評しつつ楽しんでいる。なにか昭和20年代のテレビジョンの実験放送時代に戻った感があって、脇でその話を聞いてると逆に新鮮だ。

また歩行を継続して、一日乗車券の威力に任せて、舎人ライナーを行ったり来たり。
まず舎人ライナーの最前部の関に争って座ってるのは、「後期高齢者」ばかりである。

最終的に日暮里に出て、都バスで浅草。ちょっと徘徊してから、大林。
あわもり2杯。
金太郎鮨にて折りを買って佃に戻る。

帰宅するに、ライカインコ体調不良と家人いう。あわてて段ボールから出して、本式のカゴにいれて、暖房をいれて看護。

ライカインコ、すぐに回復。しかし思うにあまり多産系なのでその影響なるべし。もう産卵させないように、巣箱から遠ざけることに意見一致する。

この日、撮影は135カラーネガは3本。R7が300カットほど。

2008年4月23日 (水)

50ミリf1,2の光と影

16360013 フォトポエムというのが嫌いである。

一昔前、大塚ねねさんとTVのカメラ番組に出演したとき、あれはさらにそのずっと前のこと、雑誌PENでやはりクラシックカメラ特集があって、その当時はフォトポエムは大塚ねねさんが所属していた、日大写真学科のサークルであったと思うが、ようするに写真を「美しい一片の詩」である(これを詩をうたと読むようになると、アレルギー)と認識しているようなでは、はなもちならないと思っていた。

ところが、その雑誌PENに登場した大塚ねねさんの作品は別に女の子趣味ではなく、ハーフサイズのペンFTかなにかで撮影した写真で、なかなかストレートフォトの息吹をそこに感じたので、それ以来、見直したのである。

それから数年後にテレビマンユニオンの企画した、初期のハイビジョン番組で40分ものであったか、大塚ねねさんとあたしがメーンの展開で、なにかクラシックカメラにかんする番組をやった。

これは「二代目ライカインコ」(歴代の転生ライカインコの中で一番の哲学者。地元の佃ペット出身)が昇天した前日に収録があったのだから、実に9年ほど前である。

スタジオはかなりのセットの建て込みであってその中央のテーブルに自分の持っている、各種のがらくたカメラが並んだのだが、そういうTVのセットで見ると、(それをモニタに映すと)なかなかの存在感に見える。

この実物の画像の電子化というのは、「物事の判断を狂わせる視神経のトリック」であって、そのためにインターネットオークションなどで、登場したカメラに思い入れをかけすぎて、それで毎回、失敗し、反省しているのだけどその「電子画像の神格化」は別の時に論じるとして。大塚ねねさんの持参したライカ1gに35ミリ広角レンズにライカビットつきで、なかなか渋かった。

きけば、父上のカメラであったそうで、その前後、カメラジャーナルとか、どっかにねねさんのことを書くと「愚娘ねねのことをとりあげていただきありがとうございます」という丁重なお手紙が父上から来たのも懐かしい。

自分の嫌いなフォトポエムなるものは、ようするにソフトフォーカスで、アウトフォーカスであって、そこに提唱される画像は、三流のカラオケビデオの画像のようなものである。

写真画像はパンフォーカスが一番という固定観念は過去40年にわたって、それを保持してきた、かなり古びた、われわれの世代の「デラシネの旗」なのである。

そのデラシネの親方も最近は古事巡礼とか、後期高齢者の生きかたの教師めいているのは、「焼きが回った」とも酷評できようが、世の中はもともとそんなめぐり合わせなのであろう。

ゆえに、自分の価値観ではすべての現代的な写真はパンフォーカスでなければならないという「国是」があったのだが、最近、発掘したキヤノン50ミリf1,2を仕事の合間にヒルズのショッピングセンターで開放で使用してみて、いささかその考えが変わった。

つまり裸の視神経が漫然と見ている生の視覚の記憶をそのままに、平面化し、展開図に図式化したのが、50ミリ開放の画像ではないかと思い当たったのだ。

このレンズはもう何年も前に、曙橋のがらくたやで手にいれた。キヤノンVTについていたレンズで、この当時の神の眼は、たいていはレンズが曇っているものであるが、このレンズもそのとおりである。

もっぱら、エプソンRD1sにつけて使っていたのは、そのバランスがよいせいもあるが、その描写が面白いわけである。

今回、それを初めて、キヤノンVtデラックス(上のキヤノンとは別で、これはデラックスモデル)につけて撮影した。

案外にこういうのが「日常の視神経のこう着状態」から離脱可能なレンズであるかも知れない。

2008年4月22日 (火)

ブラックNikonのNがぐにゃりとする

R0011091 780951576_175 アサヒカメラの6月号は、ニッコールレンズ誕生75周年記念というので、その記事のインタビューに先日出かけた。

弟、田中茂徳が、コーテイングの会社(レンズに皮膜を作るのではなく、その皮膜を作る機械を作るメーカーである)をやっているので、大井方面にはなんとなく近親感がある。

10年ぶりに大井町から、なつかしの「光学通り」を歩行した。この前、ここを歩行したのはまさに一昔前であって、そのときはニコンから借りた、ニコンS3Mでこのあたりを撮影した。

それから10年たって、この界隈はほとんど変化がないのにびっくりした。ニコンに行く途中の土地の収用問題でもめていた、変な格好の4差路もそのままだし、その先の小野学園はきれいになったが、日本光学工業株式会社の、戦中は迷彩塗装だった例の古ビル(これは構成主義建築だな)は、そのままの威容である。

その先に、新しいニコンのビルがたっていて、そこで関係者さんからお話を聞いた。その内容は6月号のアサヒカメラをごらんあれ。

帰りは、編集部の野本さんと、横須賀線で都心に戻った。電車の中で、10年前のこの界隈の話をした。当日は大雨であって、かさを持たずに六本木から大井町に来た自分は、かさをコンビニで買おうして、そのコンビニがないので苦労したという話を、車中、野本さんに話した。

雨の中をずぶぬれになって、歩行してようやく、ニコンが近くなった場所にローソンがあって、そこでかさを買ったが、お屋敷町とか、東京拘置所の近くにはコンビニのないのはわかるが、ここは普通の城南の町である。

これが実に不思議であった。ニコンやニッコールはそういう不思議な街区で作られているのだ。もっとも、ウエッツラーも、オーバーコッヘンもある種の「変な町の共通項」があるから、この町の気分(赤瀬川さんは、これをブラック仕上げの光学通りと、言い当てている)は、レンズメーカーには必須なことなのか。

野本さんと別れてから、新橋のホームで、こようやく小降りになった雨を見つつ、ニコンSとかS2とかは、そのNikonのロゴのNの文字がぐにゃりとしていて、粋であったなあ、、などととりとめもないことを考えていた。

その数日後、久しぶりに銀座に夕刻に行った。レモン社でくだんのニコンのNのぐにゃりのリペイントが、あたしを呼んでいたので、手にいれたわけである。そのNの文字を強調するには、やはりブラックボデイだ。

それと前後して、マイミクのシモさんが、40年ほどまえの撮影会に友人が持参した、これはオリジナルのSの写真を掲載していた。(上の画像)

こうしてみると、オリジナルのブラックであれ、塗りなおしであれ、ブラックニコンは、SかS2であって、S3もSPもあまり格好はよくないことがわかる。

それはそのNのぐにゃりとした、あのロゴのスタイルにあるわけだ。

2008年4月21日 (月)

ライカインコの「偉業」

http://jp.youtube.com/watch?v=h2LOjuuaTmA&feature=relatedR0011088

この間、mixiの書き込みで、youtubeに「着インコ」というのがアップされているというそれを見てびっくりした。

グレーのオウムが、お歌を歌うのである。最初に深呼吸してから

「、、、ことりはとっても、うたがすき、、、、かあさん、よぶのも、うたでよぶ、、、」

と始まって、それからため息をついて、舞台の下手方面にむかって、

「ほとけさーん、、、」と言ってかごの上によじ登ったりするのだ。それから、えんえんとエンタメが4分ほど継続する。

これが実によい。最初は「吹き替え」かと思ったほどだ。

町を歩いていると、自然にその「ほーすけ」(くだんのオウムの名前)の歌を口ずさんで、それに歩調を合わせていたりするので怖いものである。

ほーすけに比較して、うちのライカインコは何もおしゃべりをしないのは、親心としてなさけないと思って考えてみたら、ほーすけはアンゲバンデクンストであるのに対して、ライカインコの場合には、ビルデンデンクンストであることが判明した。

歌は歌わないが、彫刻をやるわけである。

おととしの秋からの多産系にて、ひいおばあさんは「白色レグホン」ではないか、、、と、悪口をいったこともあるが、これはそういう繁殖系ではなく、芸術系なのだ。

ここにある彫刻は、さしずめ、イサム野口好みであろうか。塗りのお盆の上の作品の数を数えたことはないが、これのほかに20個はさらにプラスする数である。

つい、先日、NHKラジオで、どっかの町で「大正琴」を何百人かが一緒になって、連続して5分以上演奏して、それが世界記録になったというつまらないレコードを本気で放送していた。NHKのすごいのは、そういうのをユーモアとしないで、本気で放送するのがえらい。

以前、原平さんが、NHKのTVにて、「路上観察」の話をしたとき、スタジオのクルーが笑っているので、これは自分の路上観察の話が面白いので、笑っているのかと、思ったら、そうではなく、なんでも原平さんのなにかがおかしいので、それで笑っていたそうである。

インプットの結果としてのアウトプットは、一見してその現象が同じでも、その内容は正反対であるという、これは一例だ。

さらに原平さんの例だが、例の「老人力」の件で、長島監督と対談かなにかしたとき、長島さんは「ぼくなんか老人力なんてありません、、、」と、謙遜したそうだ。

老人力を長島さんは老人パワーと勘違いしているのである。

長島さんは国民的な英雄、原平さんは贋金つくりの誤記悪人であるから、そのような思想のすれ違い、意識のバーチカルセパレーションがおきる。

それで、上の「大正琴」の世界記録であるが、外国にそのへんへこな楽器が存在するとも思えないし、これはどっかの田舎町の青年商工会議所が思いつきで、開催する、地元起こし、村起こし、雷おこしのようなもので「世界一の長さのある鉄火巻きに挑戦で、ギネス登録」と変わることはない。

その意味での「通俗化感覚」からすれば、上のライカインコ彫刻群も、どっかの世界記録に挑戦してもよいのではなかろうか。

まあ、これが有精卵で、全部が生まれたら、飛蝗の大発生である。黙示録である。最後の審判である。想像するのも恐ろしい。

一方、イサム野口好みの彫刻と思えば、実に優雅かつ理性的な存在だ。

2008年4月20日 (日)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

ローライフレックスのミニミニデジカメのリアルさ

最近、デジカメにも飽きてきた。

ようするによく写るという以上の機能がないのである。こういう意見は「罰当たり」であることを十分に承知の上で言っているのであるが、この半世紀以上にわたって、日本のカメラメーカーが営々努力したその成果は、見事に花開いたのはよいが、すでに誰でも、いつでも、どこでも、最高の画質の画像を得られるような時代になってしまった。

マルコ・ポーロの東方見聞録であったか。憧れの富貴の国、ジパングはその道の敷石は黄金でできているが、地元民は誰もそれを持ち帰ろうとはしない、というような意味のことが書かれていたのを思い出す。

今のデジカメも同じであって、われわれ、銀塩時代のカメラマンには、必殺業であったところの「色温度の管理」などもいかにも簡単にできてしまうのである。

何のためにラッテンフィルターの「ゼロ25R」(これはほとんど見えないほどのレッド系のフィルター)の、ありなし、を4x5で撮影したのか、あの当時の苦労は今のオートホワイトバランスで水泡に帰したともいえる。

そういう機能万能のデジカメの中で、これは個性的と思うのが、ローライフレックスの二眼レフをそのまま半分のサイズにしたローライフレックスのミニミニデジカメだ。

自分の使っているのは、真っ赤なモデルであって、これは遊びでそういう色彩なのかと思ったら、そのモデルとなる。原寸大の真っ赤なローライフレックスの二眼レフが存在するようである。

このミニミニローライフレックスが面白いのは、まったく本物のローライフレックスのように使える点にある。つまり上から覗いて構図を決定できる。先月、3月に 日本遊船のライラに乗船したとき、最初はあそびのつもりで撮影していたのであるが、「帰国後」にその画像を調べたら、なかなか使えることが判明した。

その意味は、1000万画素以上のデジカメは「あまりに写りすぎ」であるのに対して、これは何と言えばよいのか、つまり「ややそのシャープネスを手控えているところがよい。

フルサイズのデジカメなどは、現実をそのままひっぺがしてきたようなシャープさであって、最初はそれに感心していたのだけど、それが当たり前になってしまうと、もう誰もデジカメのシャープさには感動しない。満たされすぎると、心がしぼむ、といいう例のやつである。

ローライフレックスのミニデジカメ(に限らず、このクラスのあまり画素の多くないデジカメは)何にか、画像のリアリテイと言った、画像の存在に必須なある要素を余計に感じさせるようだ。

かしましい、デジカメの開発競争もこれから、性能のダウングレードが開始されたら、これは本物であろう。

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銀塩クラシックカメラ

★銀塩カメラ愛好者の若年シフトが顕著である

銀座の中古カメラ店などを歩行していると、否応なく、2人以上で歩行している、お客さんの声が聞こえるわけである。

この場合、中古カメラ店で一人でウインドウを覗きつつ、何か自分に向かって話しをしている人は本格的に危ないのであって、そのことも書きたいのだけど、それは今日の本コラムの題材ではないので、割愛する。

昨日の午後5時前に銀座はレモン社のキヤノンRFが並んでいるウインドウの前で聞いた会話の大要はこうである。

「なんや、こう、最近では若いもんがフィルムカメラに興味をもってるそうやな。カメラ店に来てえらい高いカメラこうて、それで120のフィルムなんかで撮影して、それで失敗してそれが満足なようやな。これはあきまへんな」

関西弁は専門外なのでわからないが、大体上の意味のような会話から開始されて、以下、関西弁による「最近の若い人の銀塩カメラブーム」の話がおおそよ、3分30秒ほどに渡って展開された。

その前の日に神田明神の脇の、ギャラリーバウハウスで開催された、榎本敏夫の個展の「いろもの」として榎本とギャラリートークをしたのだが、満員の会場のほぼ半分ほどは、かなりの若人であった。

これは、60歳の自分から見て、55歳以下が若人に見えるというような「狂った年代の距離感」ではなく、実年齢が20台から30台であると理解してもいたい。

そのトークショーの最前列の若人の写真機はみな、ライカM2とかM4とかM6であった。自分の目の前にいる若いカップルの男性の方が、あたしを至近距離で撮影したので、お世辞に「おお、いい、M6だね」と言ったら「これはM7です」ときっぱり言われてしまった。往年のライカ名人も形無しである。

列の後方には、キエフのメカニズムをそのまま、コンタックスのカバーに入れ羊の皮をかぶった狼、いやこの場合は、逆だから、「狼の皮をかぶった羊」か、ともかくそういう変なカメラで、あたしを狙う青年もいた。

後で聞いたら、これはキエフとコンタックスのハイブリッドだから、コンタッフと呼ぶのだそうだ。

1970年代にウイーンで、やはりキエフの機械をコンタックスのカバーで包んだカメラで遊んでいた時代が自分の20代にもあったことを思い出した。

そういう銀塩カメラの若年シフト化が顕著である。

銀座のカメラ店に行くと、そこの店主に「中古カメラはうれまへんな」と、そのぼやきを聞かされる。どうもあたしなどは中古カメラ業界の「走狗」であると思われているようだが、とんでもない。

あたしは常にカメラ買うほうの味方である。最近では往年の銘機が値崩れしているので、実に買いである。今、買いなのはドルと中古カメラがあるばかりだ。

ebayのスナイパーで伊太利カメラをゲット

Cacf_3 もう10年近くやっているので、ebayの落札の腕も上達した。

つい最近ゲットしたのはイタリア製の唯一の一眼レフ、レクタフレックスである。1947年、すなわち自分の生年から、7年ほど生産された伊太利の唯一の35ミリ一眼レフだ。その全生産台数は1万台に足りないのだから、まずは稀少カメラだ。

でもそのことよりも回顧して今昔の感のあるのは、インターネットのブロードバンド化と、自分の入札の技の上達である。

すでに10年近くebayをやって、大事なジャパニーズ円を「ドブに捨てて」きたわけだ。

もともとリスクの大きい買い物であるだけ、その楽しみも大きい。自分の湯唯一の道楽である。ただしそこで買ったモノが数年後にハイリターンになることもあるので、そういう時には配偶者に積極的にアピールすることにしている。ここらが「技」ですね。

それにしても、オンラインオークションは、大昔のダイヤルアップの頃は速度が出ないから、締め切りの10秒前にビッドして、それが簡単にアウトビッドされてしまったものだった。

それが今では「光」があるからその速度は劇的に向上して、数日前に落札したこのレクタフレックスなどは、オークションの締め切りの1秒前に入札して、ハイビッダーになった。

ヤフオクの場合は、あれは「陰険」であって、自動延長という怖いルールがあるのでやっかいだが、ebayは締め切りの時点の価格が勝負である。

だから、締め切りの直前にビッドする、技を皆さん磨いているわけである。そういう人、つまり駆け込みでビッドする人を「スナイパー」という。実に剣呑な名前であるが、別段、人をあやめるわけではない。自分がゴミを落札して落胆する、そのような浅はかな人間のこれは総称なのだ。

要するに、早撃ちである。だから何か西部開拓史の「拳銃の決闘」みたいなところもある。この金鍍金のレクタフレックスは、そのオリジナルは10台ほどで、羅馬法王ピオ12世とか、アイゼンハワー大統領とか、チャーチルに贈呈されたカメラである。

1950年代に、かのイタリアは、そういうことに長けていたから、当然のこととしてそのフェイクというか、レプリカが極少数生産された。当時はこれを本物と偽って、法外な値段をふっかけていたのであろう。

その一台をゲットしたわけだ。あたしはレクタフレックスコレクターなので、一眼レフの中で一番数を持っているのは、このブランドなのである。

2008年4月19日 (土)

アリフレックスのファインダー

R1148432 映画撮影機のファインダーは人間工学的に実によくできていると思う。

まあ、その価格は小型乗用車の3台分はしたのだから当然といえばそうなのだが。

すでに映画がフィルムからビデオになって久しいが、欧米ではまだフィルムカメラが使われているのは、なにか奥ゆかしい感じすらある。

最近のプロ用ビデオカメラはどうであるか知らないが、以前jは池上とかパナソニックとかソニーのベーターカムを長年覗いていたカメラマンが職業病で目が悪くなったという話もよく聞いた。

それとフルカラーの液晶ではなくモノクロームのファインダーがごく普通であった。そのほうが「目にやさしい」というのである。

プロカメラマンがファインダーを覗いている時間は、これは一般のアマチュアさんとは比較にならない。30年前のフォルカー・シュレンドルフ監督の映画を手伝ったときにも痛感したが、カメラマンはもうアリフレックス35BLのファインダーをずっと覗きっぱなしである。おそらく睡眠時間よりもファインダーを覗いている時間の方がずっと長いであろう。

それはスナップショットの場合、ブレッソンではないが、撮影の一瞬だけに付き合えばよいのに比較して、映画カメラマンの方はその映画の時間をずっと監視していなければならないからだ。

映画撮影機のファインダーはそれなりに工夫がこらされているのは当然である。その中でもアリフレックスのファインダーは格段に見やすい。その見易さというのは見え方が自然であることが第一であって、そこに見える被写体をクリアに見せたり魅力的に見せてはいけないのである。

それと、ファインダーのボケがはっきり見えすぎるのも考えものであって、ごく自然にアウトフォーカスを見ることができることも必要だ。

視野があまり広すぎるのも考えものである。目が疲れるのだ。

アリフレックスとエクレールを比較すると、後者はフランスのエスプリのせいであろうか、ファインダーの外部まで視野が広く見えて、同時録音などではマイクが「見切れて」しまうのを事前にチエックできるが、映画の道具としてのファインダーとしては、アリフレックスの方がいい。

グルノーブル製の同じくプロカメラである、アトーンは上の二機種よりも後発であるから、ファインダーはさらに明るくなっているが、その明るさは逆にカメラを操作する側からすると、どうも見えすぎて迷惑なところがある。

そういう各種の映画のファインダーの見え方は「人間の英知」を集めたような知的存在であるのはうれしいことだ。

それに比較すると、デジタル一眼レフの「ライブビュー競争」などはどうも子供っぽくてよくない。

これは一時的なもので、かつてコンパクトカメラが全部、パノラマ機構を常備していたのと同じことで、数年が経過したら、もう誰も話題にしない機構になるかも知れない。

2008年4月18日 (金)

「カメラは知的な遊びなのだ。」重版発売!

R0011046 「カメラは知的な遊びなのだ。」重版御礼!

日曜日午前11時現在Amazon.co.jp ランキング: 本で1,441位

1位 ─ > エンターテイメント > 写真家 > た・な行の写真家 > 田中長徳
2位 ─ > アート・建築・デザイン > 写真
3位 ─ > アート・建築・デザイン > 作品集

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

買ったきっかけ:
書いたきっかけは、楽をして知的な視神経の冒険をしたい、、、ということです。

感想:
いつものチョートク本よりも、わかりやすい、読みやすい、と好評をいただいております。

おすすめポイント:
連休のツアーに持参したい1冊というのが、おすすめポイントです。

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

著者:田中 長徳

カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51) (アスキー新書 51)

氷川丸の第二進水式@山下公園

Pic03769 Dsc00628Dsc00834 16日の水曜は横浜の氷川丸の「第二進水式」であった。

第二進水式などという言葉はなくて、ほんの1分前になんとなく心に浮かんだのであるが、なかなかよい名前だ。

第二の船の人生の進水式というわけだ。

16日は朝の9時前から、ブリッジに制服でスタンバイしている金谷船長を訪問した。

金谷船長は普段は作業服で首にタオルを巻いている、実務派だけど、今日の晴れの舞台では、4本線の金モールも輝いてみえる。

4本線の制服は以前は航空会社の仕事をしていた当時、コックピットに立ち入ってそこではおなじみであったが、考えてみればその四本線の制服は、空より海の方がずっと古いわけだ、と改めて感じた。

晴れやかで荘厳な式典のしだいはまた明日にでもご紹介するが、ここで話題にしたいのは、われわれ「裏方さん」の仕事である。

式典の進行の組織図は知らないけど、広報室長の星野さんとか、博報堂の皆さんとか、それから実際の進行にあたるスペシャリストの皆さんのご苦労はいかばかりであろうが、それ以上に裏方さんの仕事の大変さを見学した。

会場は氷川丸の船尾の前の広場にしつらえられている。その船尾は華麗に装飾されている。自分はオフィシャルカメラマンという役割で、写真集の記録のためにあらゆる方向から撮影するという任務がある。裏方のさらに裏方面なのだけど、会場の受付で渡された、薔薇の造花を見てびっくりした。

上の図がそれであるが、お隣の偉いかたがたと同じクラスのグレードなのである。ははあ、ここには主催者側の「深い配慮」があるなと思った。

厳粛な式典の時に、変なじじいが「安いデジカメ」をもって、そこらをうろうろしていては参会者の皆さんに「変なやつ紛れ込んでいるな」と一種の危機感を持たせる。

これはおめでたい席ではマイナスである。

しかし、ヴィップなみの薔薇の造花をつけていれば、その疑問は解消するわけだ。

午前10時前に、あたしは氷川丸の船尾の一番上に陣取った。ここからだと、会場の全景をカバーすることができる。本来はアメリカなどなら、氷川丸のセレモニーに大統領が来るのなら、この位置には狙撃銃を持った警備の警官が陣取るところだ。

3年前、ハッセルブラッドのスエーデンヨーテボリでハッセルブラッドさんの生誕100年の記念式典があったとき、やはり同じように一番高い場所から撮影をしたことを思い出した。

式典開始の10時半になる。

甲板から観察すると、幔幕の裏側には一個小隊ほどのスタッフが匍匐の格好で待機している。無論、会場からは姿が見えない。なにか「西部戦線異状なし」という感じである。

あたしも変に姿を見せて、会場不安を与えてはいけないので、姿勢を低くして幕の下に隠れた。

この横断幕は「二引き」の郵船マークであるが、同時にオーストリアの国旗でもある。それが愉快だ。

式次第が進行して、まず上の真ん中の白い薔薇の方の挨拶。それから左の赤い薔薇の方の挨拶があった。

それから、主賓の市毛良枝さんが、中央に進み出て、氷川丸の第二進水式、あれは専門用語で何と言うのであろう、一種の斧で、台上のロープを切断する、同時に船尾のシャンペンの瓶が、本船の英国製の鉄板にぶつかって、シャンペンが花開く。

ここで初めて、上の図の右のじじいが立ち上がって会場の全景を写した。それですぐに隠れた。古い話だが1964年の東京オリンピックの時、聖火が代々木で点火されるとき、カメラマンは目障りで式典の厳粛を壊すから、聖火台の後ろには立ってはならん、とお達しがあった。

でも、聖火が点火されるとき、聖火台の後ろから数本の長い竿が延びてきた。上にはモーターつきのニコンSPとかニコンFがついている。各新聞社はそれで紙面を飾ったのである。

あのシャンペンのふりかけセレモニーのことは、内田百鬼園も体験している。こっちは進水式ではなく、進空式であって、彼は法政大学の航空部の顧問であった。その飛行機は学生が操縦して、何度も不時着しつつ、ウラル山脈を超えてフランスに飛んでいる。

ホテルニューグランドで、数ヶ月前に馬車道のクラシックな洋酒バーの20周年だかの記念式典が盛大にあったと知り合いのジャズシンガー浅田尚美さんから聞いた。その人はニューグランドで司会をしたのである。そこでシャンペンサーベラージュという、シャンペンをサーベルで叩き割って開栓するという、日本の鏡開きのような古式の作法があったらしい。

これは日露戦争の勝利を祝って、戦艦の館内で士官が実際にやったらしい。そのことは郵船ゆかりの、内田百鬼園が随筆に書いている。

この進水式のシャンペン割りの儀式の正式名称を知りたいものだ。

シャンペンが割れると、横浜消防署のブラスバンドが勇壮な「錨を揚げて」を演奏し、同時に「くすだま」が割れ、五色のテープが乱れ飛ぶ。このテープは環境を保護する素材でできているという司会者の説明も今の時代である。

そこからワンテンポ呼吸を置いて、後部甲板に用意された1000個の風船が一気に空に放たれた。こういう本番の裏方さんのスタッフの作業は見ていて、感激する。

世の中には「進水式のスペシャリスト」が存在するのである。

2008年4月17日 (木)

鞄を持ち替える

R0011028 この2年ほどは、トートバッグをもちあるいていた。最初は倉敷の「むしぶんこ」の図書舘用のトートバッグであって、それから1年ほどしてそのトートバッグをさらにリコー製の黒い大きなトートバッグにいれた。
それを使っているうちに、荷物が多くなったので、人からもらったやや小型のトートバッグを連結させた。それを「振り分け荷物」にした。

これはすこぶる具合の良いものである。うまく肩に載るし、かなりの収容力がある。この振り分け荷物は、35年前、トルコの羊飼いから教わった。彼らは杖をもって犬を連れているから、手に荷物が持てない。

ところが沢山入るというのは逆に問題であって使わないモノまで運搬してしまうことになる。

昔の人がどのようなバッグを持っていたのか、内田百鬼園のことを目下、写真集「日本郵船氷川丸」の為に調べている。百鬼園は昭和15年から20年まで郵船の嘱託であった。
昭和19年に、それまで使用していたバッグを止めて、「この頃、はやりの手のついた布の袋」を使いだした。「おかみさんの持ち物ときまったようなものだが、今時そんな体裁は言っていられない」と外見を気にする百鬼園らしくもないことを言っている。

それでその前まではどのようにしてモノを運搬していたのかと言うと「鉄兜の中にいれて」ぶら下げていたのである。これはかなりシュールなバッグであるから自分も真似してみたいが、そういう戦闘用のヘルメットは実に重いであろう。

ハノイに行った時、向こうの緑色のヘルメットを買った。これは旧南では誰もかぶっていないが、北ではいかにも「北ベトナム軍」という感じがして趣のあるものだ。
しかし東京では目立つのでついにこれを被って街を歩くことはしなかった。

新年度になったので、装備を軽量化しようと思った。それで手元にある、ローライの小型のバッグを用意した。1台だけ銀塩35ミリカメラが入る。
昨日は二眼レフのコンタフレックスを持参した。今日はニコンSPにモーター付きのカメラをいれてある。明日は旧式のキヤノンの予定だ。

他にサイドポケットにフィルム2本と、ミノックスのモノキュラーが入って、さらにR7が入っている。
R8は修理中である。ああ、それとモレスキンの手帳も入っている。大体、これで問題なしだ。
ケータイは持っていない。
これだと、身のこなしは非常に軽くなる。
当分はこの装備で佃と六本木を往復するつもりである。

2008年4月16日 (水)

事情が複雑なニコンSP

R0010894 学生時代は、ライカが最高であって、ニコンなどはライカを買えない連中の使うカメラということだった。これはレンジファインダーの話をしているのである。

青山学院大学の写真部が有名をはせたのはその当時であった。そこの写真部にはスナップショットの達人が多かった。

その青山の写真部卒業の人が、早稲田大学の闘争を撮影にきた。メーンカメラはライカM3であって、これはクローム。サブには105ミリレンズをつけたニコンFのブラックなのである。

その人の後輩で、もう名前を忘れてしまったが、三木淳さんにライカM3をゆずってもらえることになった人がいて周囲をうらやましがらせた。その人はそれまでニコンSPに25ミリから105ミリまでの各種のS用交換レンズを持って、それをニコンSPのブラックに使っていたのである。

三木先生はM3の本体を5万円でよいというお話で、その受け渡しの銀座はニコンサロンの現場に自分も居合わせた。ところが、その青山の人は手渡されたM3を手にとってチエックしたのが、三木先生のご機嫌をそこねた。

そういうやつには売らない。というのである。夢のライカを手にするつもりでその青山の人はすべてのS用レンズが使えるように、オリオンのS-ライカマウントアダプターも用意してきたのに、結局はM3を手にできなかった。

どうも両方の思惑が行き違いになってしまって、実に残念なことである。三木先生にしてみれば「世界的な三木ライフ」が愛用していた、M3をゆずってやるのにそれを調べるとはけしからん、とお怒りになったわけだし、青山の人は最初から三木先生のM3を疑うのではなく、うれしさのあまりにM3に触っただけなのに、これは感情と行動と理念の行き違いである。

これが1969年当時の事件だからすでに40年前の話だが、当時のM3はそれほどに高価であって、SPは安価だった。最近ではそのSPも限定版の復刻をニコンがやってから若干、安価になったようである。

尊敬する先輩、高梨豊さんもM3を手にする前は、SPのブラックであった。それに25ミリをつけてのショットで「tomorrow」という題の銀座でのスナップは都会写真の傑作だと今でも思っている。コカコーラの瓶の配達車が逆光になって、コカコーラの瓶の林立が光っているのだ。それをまねして、似たようなスナップをとった。当時の売れっ子高梨がどのようなスーパースターであったか。どこそこで高梨を見た、ということがそのままゴシップになるのである。日本のゴシップ写真家は当時はタッド若松もいたが、知的なクラスとしては、高梨さんの方がずっと上だった。

思えば、あの当時はニコンSPは本当の写真家の道具であった。最近のSPがもっぱら「愛玩犬」になっているのは残念なことだ。

このSPは塗りなおしであるが、奇態なことに、ニコンF用のモーターを切断して、SPのモーターのサイズにしたのがついている。それで動作は本物のSPモータと変わるとことはない。

バッテリーをつけて、連射しようとすると、リレーがいかれているのであろうか、連射してとまらなくなる。だから手巻きで撮影する。

似たようなことが1973年にあった。到着したばかりのウイーンで、当時、有名な美術評論家と面識を得た。その関係で、その後に欧州を1976年に巡回した「現代日本写真家展」などのつながりができたのだが、その評論家に最初に会ったとき、一緒に町を歩いていて、あたしのニコンFに250こまのモータードライブが撮影を開始したら、こっちは1枚でやめようと思ったのに、リレーが故障してしまったのか、一挙に250枚を連射しそうになった。

連射が50枚ほどになったが撮影はとまらない。当時のニコンF250モーターは、コードでj本体と連結されていたから、そのコードを引き抜いてようやく、撮影はやんだのである。

それを見ていた、同行の美術評論家はそうは思わないから、日本のチョートクという若造は、あんなに連射する、パフォーミング写真家だと勘違いされて、それからあたしの「値段」が急上昇したのであった。

いわゆる「怪我の功名」というやつである。

2008年4月15日 (火)

駅貼りの「日本郵船氷川丸」ポスターにはなぜ日の丸がないのか

R0010892 R0010893 Dsc00693 明日はいよいよ氷川丸のリニューアルオープンセレモニーの日だ。(一般公開は25日の氷川丸の77歳の誕生日)

この数日の「通勤」で、佃から六本木に来る間に、駅でポスターを見かける。

かなり派手なポスターである。こういう駅貼りのポスターの「芸術的価値」を言っても意味はないが、こういうポスターは案外に半世紀後にはアートとして価値が出るかも知れない。

今度の「日本郵船氷川丸」の巻頭には戦前の乗船記念の豪華な絵はがきのレプリカを添付しようと考えている。これは出航の時の五色のテープが乱れ飛ぶ実にゴージャルな光景を油絵にしたもので、さらにその絵はエンボスになっている。

まあ、印象派めくなかなかの良い絵はがきだ。こういう絵葉書である。001

その絵はがきにも劣らない、ポスターなのだが良く近寄ってみて何か変である。自分は何度も改装中の氷川丸に乗船し、2008年のカウントダウンもそこで経験したが、その翌朝の元旦には早朝に金谷船長は氷川丸の船尾に日の丸をかかげた。

自分は日の丸愛国主義ではない。

むしろその反対方向に居るものだが、これが船となると別だ。その国の国旗を掲げるというのは国粋ではなく、国際交通上のルールである。

だからこの公式の晴れがましいポスターに日の丸がないのはなんとも変である。ポスターによく接近して観察したら、これはもともと写真をイラスト参考用にしてあるから、旗のポールは見えている。

さらに接近して見ると、旗は巻かれているようにも見えるし、切断されてるようにも見える。きっとこのポスターを製作した時、日の丸はどうするかでかなりの論議があったのであろう。

そういう想像をするのも愉快である。

このポスターには日の丸があった方が良い。その国旗がこれである。氷川丸の最後部のデッキからの「実写版」である。これは元旦に日本郵船氷川丸の金谷船長が掲揚した。

2008年4月14日 (月)

森田ふみこさん帰天す

R0010882R0010881 森田ふみこは、母の妹、あたしの叔母である。

母がなくなってから、あたしの両親の家に住んでいた。10日ほど前にen-taxiを送って、そのお礼のはがきが来たのが、1週間前である。

おふみおばさんは、あたしの小学校時代には、よく日比谷の映画館につれていってくれたものだった。

そのおばが、詩吟の帰りに心肺停止となった。「なくなったお姉さんと同じ年になりました」というはがきも最近きたばかりである。

ふみこおばさんは、アルフィーのごく初期の売れなかった当時のことを知っていて、会場でメンバーがパンを配ったという、伝説的な事件を埼玉のどこかの公会堂で目撃している。その話を最近、坂崎さんにしたばかりであった。

このはがきは先週、つまり死の数日前に投函されたものだ。en-taxiの記事を受けて、「拓郎」とか「滝野川」あるいは「芥川の自殺」などの文字が散見される。

おばの告別式は、4月16日の水曜に自宅近くで、キリスト教で執行される。その日は日本郵船氷川丸の77歳の誕生日。おばは氷川丸より3歳年上であった。

四ッ谷の「犬っころ」であの写真部の例会

R0010864 プラハでよく行く(というかほとんど毎日)バーというかカフェはプラハの旧市街にある文学カフェだ。

ここは週末は休みだが、ようするにアトリエから出て、ここでランチを食べてカメラ店をはしごしたり、ラビリンスで道に迷ったりしてまたこの店に戻って来たりする。

そこで午後の思索をするわけであるが、思索と言っても、先週はフォクトレンダーのクラシックな二眼レフのsuperbを買ったが、あれはカラースコパー付きであった。もう一台が別の店に出ていて、これはヘリア付きだが、この方も買っておいた方が自分の為には良いのではなかろうか、、、などと、どうでも良いようなことながら、本人にとっては実に重要な哲学上の思索をする場所、そしてその思索の助けにpivoを傾ける場所というわけだ。ここのブランドはツーリスト好みのピルズナーではなく、玄人好みのガンブリヌスであるのも良い。

そういうプラハのカフェに良く似たカフェが3月に四ッ谷三丁目にオープンして、そのことを外神田のぽん工房から聞いた。ぽん工房は日本に数台しかないという、ブゲッテイとか言う屋根もなければ、ラジオもヒーターもない素朴なクルマで、近所に暖房用の灯油を買いに行くという「非国民」なのである。

そのぽん工房の友人の出した店なので、これは悪いわけがない。それで1週間ほど前に、浅田恵理子を連れて、四ッ谷三丁目から徒歩1分、ラーメン大陸の2fにある、だーしゑんか(一名、犬っころ)に行った。http://dasenka.jpn.org/bar/profile.htm

まず内装はプラハのあまり流行らないカフェのそれのようで、そのリアル感が気に入った。しかもプラハのカフェでも、座席が8つにカウンターが4席ほどのこれほどに狭い店はないわけであるが、その狭さが逆に心地よい。

最近では一大観光地になってしまったが、プラハの王宮の中に「黄金の小路」という狭い小路があって、宮廷の召使いなどが住んでいたらしいが、そこのお長屋は実に狭い。

カフカはそこで小説を書いた。その長屋の一室みたいな狭さなので、それが気に入った。プラハあたりの価値観だと、広い部屋よりも狭い部屋の方がそのステータスはずっと高い。

「犬っころ」の食い物は向こうの普通のカフェで出す食い物であってごく普通なのだが、その普通さ加減が良い感じだ。

大帝国のウイーンからするとかつての属国のベーメンなどは、ウイーンのランドストラーセを超えるとそこから、スラブ圏が始まり、パンは黒くなり、スープはどろどろになると言うのであるが、これはかつての為政者の勘違いであって、そういう黒パンとかクネドリーキに真実の味わいがあるのは間違いがない。

ここの「犬っころ」の名物はクネドリーキであって、これはプラハ風のビーフシチューのようなものだ。クネドリーキは日本語で何と言うのか知らないが、一種のダンプリングであって、本来はこれを山のように皿に持ってそれにわずかの肉汁を浸けて食べるのである。

ところがここは飽食の東京であるから、その主食たるクネドリーキはわずかで、副食たるビーフシチューの方の圧倒的に量が多い。つまり現実が「逆転」しているわけだ。

これは向こうのクネドリーキを生まれた時から食っているチエコ人はその豪華さに驚くであろう。

そういうプラハの旧市街のカフェとカフカの小部屋みたいな、お店に「あの写真部」の面々が集合して例会をやったので参加した。このすぐ近くに(昨夜は福田さんを連れて行けなかったが)アローカメラがあるのは実は重要である。
というのは、プラハの行き着けのカフェからも、プラハの中古カメラ店は大体が徒歩で3分ほどなのだ。

これは重要なことだが、それよりも重要なのは、ご存知のようにアローカメラの物品の並べ方は、あたかもプラハのカメラ店のようでもあるからだ。

昨夜のメンバーは、常連の石丸元章さん、間取りストさんの他には、「あの写真部」のメンバーでは初対面の新潮の編集長の矢野優さん、それと新潮45の中島麻美さん。

矢野さんは40ミリレンズの付いたエプソンRD1を示す。矢野さんはアローカメラがらくた屋にも行くそうである。聞けばモノクロプリントなどにも造詣が深い。(福田和也主将談)

中島さんは若い女性としては、カメラの形而上学に覚醒しているのが手がらである。この人のデジカメの画質に評価の話は、世の中の「スペック信者のデジカメライター」に聞かせたい。

ローライフレックスのミニミニデジカメか、ライカM3のミニミニデジカメか、熟考した結果、後者を手にいれたというので中島さんはそのカメラを示した。

間取りストさんは、例のごとく、キヤノネットの斜めがけであって、PIVOを飲んでいる時もその姿勢をくずさないのは、すでにカメラがファッションの領域に到達している証拠である。

その向かいに座っている元章さんは、なんでも知り合いからもらったオートボーイで建国記念日の本郷行きでは連射していたのであるが、それを配偶者さんに奪われたとかで、空手である。

自分などは何千台、配偶者に写真機を奪われても、そのおかわりはいくらでも存在するわけだが、元章さんの「カメラ一台こっきりライフ」は、凛として良い感じだ。

例によって、福田和也さんはこの前はニコンSPにニッコール25ミリだったが、今回はもっと普通なニッコール28ミリレンズに「転移」している。なかなか病気の回復の兆しがない。
それで今朝ほど、福田さんに以下のメールを発したのだ。

★福田さま

昨夜はありがとうございました。
あの写真部は、なかなか凄いレベルだと思いました。

特に、中島さんの「デジカメへの直感的考察」は本物です。
日本のスペック信仰のデジカメライターを教育してもらいたいものです。

矢野さんのライカCLから発した40ミリをエプソンRD1に付けるというのはデジカメの保守本流であろうと思われます。

間取りストさんのキヤノネット斜めがけが、ファッションに到達している反対側で、元章さんの「かみさんにオートボーイを取られた」という状況が向かい合っているところなど、そのままそれぞれに「カメラ小説化」しておりました。

福田さんのお持ちの28ミリニッコールは、昔、カメラジャーナルで取り上げたことがありますが、まずあのレンズは老舗の名品の味といいましょうか。
しっかりした存在感のある描写をします。

DDダンカンがケサンの死闘でメーンに使ったのが、このレンズで(ただしライカMPなのでライカマウント)
しかもあの雨期のジャングル戦で、ダンカンはなぜかオレンジフィルターを使っていたのが記憶に残っています。
当時のライフの報道写真は全部、モノクロであるのも古雅なものです。

この時の写真は写真集「英雄なき戦争」に掲載されております。

ーーーーーー

福田さんからの返信によれば、上のダンカンの写真集を早速注文したとか。実に「ご精進」で感服。

そのダンカン氏には都合、3回合っている。

1度目は、1971年のニコンF2の発表会で、新宿の京王プラザ。その時の記念品にサイン入りの上の写真集が来賓に配布された。

2度目は三木淳さんとダンカン氏と、銀座は銀一で遭遇して談笑した。ダンカン氏は仏蘭西に長年住んでいるのに、ボンジュールくらいしか言えないと、笑っていた。このカットは「東京ニコン日記」のどっかに掲載されている。

3度目は三木淳さんの葬儀が千日谷で挙行された時。

2008年4月13日 (日)

大江戸線の靴の広告

R0010802 R0010804 毎週、土曜の朝は筑地の河岸に行くことにきめている。
まぐろの切り落としを買いに行くのである。師匠である「ぼうずこんにゃく」さんに教えられたのが昨年の3月であった、それ以来、河岸通いをしてようやくどこに何があるのか、大体のことは分かるようになった。

それで買うのはまぐろの切り落としであるが、これが安くてうまい。しかし1年もいるとそのクラスがだんだんに分かってきて、我々のような素人の買う店では、あまり感心できない店もある。そういう店は我々観光客が通るメーンの通りの一番人通りの多い場所にあるということも分かったから、そういう場所には接近しないようにする技も憶えた。

今日の買い物はブツのパックが630円。ウニの大箱と赤貝が各、1000円だった。

帰りに筑地から都営線にのって感心したのが、この広告である。一般に車両全部を使用するこの手の広告はもっぱら暴力的になってしまい、感心しないものがほとんどである。

これは身近な靴をテーマにしているので、上手い手である。

ようするに女性から見ると、靴に意識のない男性は女性になめられているわよ、という広告コピーなのである。そういうコピーを言っている車内のポスターの女性がこのところ、一緒に仕事している博報堂の阿部さんにちょっと似ているのも、なにか知り合いから言われているようで、また興がある。
じじいの自分であるから、いかに異性になめられても別段、構ったことではないが、この広告は青年には効果があるであろうと思った。最初から男性だけをターゲットにしているのも面白い。

これは「逆・女性専用車」なのである。こういう箱は最初から男性だけを乗せるようにしたら、また面白いであろう。

痛快なのは、電車の床に貼ってある、靴の広告とそのコピーである。いかに良い靴(この場合はスニーカーだけなのがちょっと残念だが)を履いていても、乗客の靴は全部が例外なく「中古品」であるわけだから、広告の写真の靴に比較して、いかにもみずぼらしく見える。
ここが技の決まり手だな。

自分の知る限り、電車の床の広告を見たのはこれが初めてである。

70年代初めだが、写真家で映画作家の金坂健二さんが銀座のニコンサロンの個展で写真を展示したとき、床にも写真を貼り付けて、ニコン側とすったもんだになったことがあった。

もともと金坂さんはアメリカ直帰の活動家めく思想家であるから、そういう前衛的な展示になったのであるが、その床に展示された写真は、別に福田和也さんが文春に連載の「彼の人」関係ではなく、普通の風景であった記憶がある。

ようするにニコンサロンが当時の日本の現代写真を代表するという自負(この自負がこの30年間でカメラメーカーのギャラリーが喪失したものの一つである)が、本来、壁面に展示するべき写真を床で足蹴にするということへの反発であったのであろう。
そこがまた金坂さんのつけめであったのであろう。
その金坂さんの亡くなったことを知ったのも昨年であったか。

2008年4月12日 (土)

横浜ニューグランドの夕べ

R0010768_4 R0010751 製作中の写真集「日本郵船氷川丸」の中に掲載する予定の、ホテルニューグランドでの氷川丸の講演会と戦前の秩父宮様の航海された一夜のメニューの再現デイナーがあった。

ニューグランドに行くのは、実に10年ぶりではきかないかも知れない。その10年前は昼間からナビゲーターで飲んでいた記憶しかないのであるが、その記憶しかなくてしかも誰か、話し相手が面白くて、興に乗って実に楽しい午後をすごしたことだけが記憶に残っている。

その前後の関係を忘却しているのは、それだけバーで過ごした時間が充実しているわけで、それはそれで実にたいしたことである。

ホテルのバーでの記憶というのは、そこで「不愉快な思い」をしたことの方が記憶に残るのは皮肉である。80年代に帝国ホテルでブレックファストの時にボーイさんの手が滑ってコーヒーを袖口にかけられたこととか、やはり80年代にラッスルズ(まだ新館のタワーができる前の)で、ガーデンで食事していたら、名物のシンガポールスリングスを肩からざんぶりとやられたことがあった。

もっともその後者は、暑い午後であったからむしろ快適だった。ホテルのアーケードのショップで、マネジャーが「どれでもお好きなTシャツをお選びください」というので、ショップに入った。そのときの記憶、つまり本格的なホテルのショッピングアーケードの中のショップは狭いのが「本格派」であるという考えも、昨夜のニューグランドの天井の低い通路の脇のショップが小さいので、「ああ、ここは本格ホテルだな」と感心した。

ホテルのバーというもの世界中に共通な存在で「ぼられる」ことがないから、若いころから40歳くらいまではよく行ったものであった。

ホテルのバーは自分が日本人で日本のホテルのバーに行く場合、ちょっと改まった感じで行くわけであるが、ホテルのバーの「正しい使い方」は、やはりそこにお客として滞在していて、ちょっと何かアルコールがほしくなったときに、ぱっと入ってビールの小瓶だけを頼めるようになるのが、本道であろう。

しかしそういう「場なれた使い方」ができるようになるのは、やはり時間がかかる。自分などはこれは大きな声ではいえないが、四半世紀前に仕事で世界中のホテルを回った。その意味は世界中のホテルのバーを巡ったことになるわけであるが、これはよい経験になった。

マンハッタンの高級ホテルのバーとか、パリのリッツのバーとかも悪くないのであろうが、ああいう世界的に突出している場所は、やはりその空気が派手すぎてなかなか落ち着けない。

リッツのヘミングウエイゆかりのバーであったか、かのメカスがそこで友人とカクテルを飲んでいるショットが、彼のムービーにあるが、あそこはもともと「撮影禁止」なのである。お客が自主的に撮影をしないようにするのは、パブリックスペースでは当然のことであり、それは知的なことでもあるが、ホテル側が撮影禁止を謳ってしまうと、どっかのアジアの軍事政権めいてしまう。きっとアメリカの団体さんとか日本の団体さんが、なにかやったのかも知れない。すなわち、ぶち壊しである。

長年、ウイーンにいたからウイーンの肩を持つというわけでもないが、ウイーンのインペリアルホテルのバーはよい。今は一般化して変わってしまったかも知れないけど、かつてのここのホテルの格式はロビーのないことであって、ゲストはバーに行くのが自然の流れであるが、そのバーが狭いのもよかった。

話を戻すと、ニューグランドは、その10年前以来、行っていなかったのだけど、昨夜の体験でエントランスからバーに行く途中の通路の天井が非常に低いことも記憶に甦えった。

ただしその天井の低さは感じの悪いものではなく、いかにも隠れ家感覚なのである。そこを通ってメーンの階段を上ると、オーチスのクラシックなエレベータがある。晩餐会はその左手の広間で行われたのだが、そのことよりも自分が興味を持ったのは、そのエレベータである。

ゆきつけの月島の立ち飲みやに似つかわしくないのだが、天井近くに巨大なオーチスの正方形のカレンダーが貼ってある。その今年の1月だかの写真が、ここニューグランドのエレベータなのだ。

このカレンダーは2月でひとめくりなので、今、かかっているのは、京都は東華菜館のエレベータとその室内である。

その東華菜館で飲みたいために、わざわざその裏手のビジネスホテルに泊まるのが最近では常である。これはそこで飲むという行為の前の段階で、そこのクラシックなエレベータに乗りたいというのが本音のようだ。

これはもうなくなったオーチスで、いまだに記憶の中に深くしまい込まれているのがある。ひとつは、銀座8丁目のバー街の古ビルの最上階にあった、写真スタジオで東宝スタジオといったが、そこのエレベータはクラシックなオーチスであって、ドアは二重になっていて、蛇腹であって、自分でその二つの扉を手で閉めないと動かない。

二つめは、これも数年前になくなったのだけど、かつてのシュミット商会であって、日本橋十軒店(じゅっけんだな)にあった。これは6階建ての赤レンガビルでその2階によく通ったバーがあって、そこには階段もあるけど、わざわざ真鍮がピカピカ光る蛇腹のドアを開けてそのエレベータに乗るのがすきだった。

バーに飲みに行くことよりも、オーチスのクラシックエレベータに乗るのが本来の目的であったかのような感じがした。

ホテルとかバーへのエレベータのほかに、いかしたエレベータは国会議事堂の内部のエレベータである。これはそのメーカーは不詳だ。

2008年4月11日 (金)

磨り減った皮ケースに美学を

R0010666_2 カメラがすきでこういう具合に長い間、カメラとそのカメラスタイルと遊んでいるわけであるが、自分の意識下に潜在している(と、書くと大げさであるが)カメラとそのカメラを使っての行動様式で、普段は意識に浮上してこないものがある。

それは「使い込んだカメラの速写ケース」なのである。これだけでは何のことか分からないであろうから、ちょっと説明すると、しばらく前に本ウエブで紹介したような「半世紀前の茶色のキヤノンの皮ケース」のようなものを指しているのではない。

何であるかというと、まずこの潜在意識下の皮ケースが散見されるのは、マンハッタンのツインタワーとかエッフェル塔とか、ローマのスペイン階段とかの、ようするに「あまりにも通俗極まりない観光地」であって、そこに観光にくる、主に中国系のツーリストさんの上に、独特の雰囲気を持っている皮ケースの所持者が存在して、自分などはその皮ケースを感嘆の面持ちで長い時間観察してことがある。

それは80年代の安物の一眼レフの皮ケース、というよりも合成樹脂の速写ケースなのだけど、その色はブラックであるが、その黒い樹脂はとっくに剥離してしまい、あれはどういう素材なのか知らないけど、要するに樹脂の本体の白いような素材がところどころから、見えるのである。

ようするに白黒まだらの速写ケースの中に三流の35ミリ一眼レフ(おっと、ここで実名を挙げてしまうとまた問題が生じたりするのであえてブランド名は秘す)が入っているという寸法だ。

そのような古典的な白黒まだら文様の速写ケースは、20年近く前の天安門広場でも見たことがある。

いったいに、あの手の合成樹脂の皮ケースは、頑丈なものであるが、それがいかなる風雪と時間と、日光の照射の結果として、あのような「文物」の味わいが生じるのであろうか。

そのような「素敵な皮ケース」もデジカメの一般化とともに、もはやフィルムカメラを使うカメラ人類は存在しないも同様であるから、すっかり記憶の果てに忘却していた。

それが最近。手に入れたキヤノン7sとそれを収納してある速写ケースを見ていたら。これは合成樹脂ではなくて、本皮なのであるがその皮ケースのほつれ具合を見ているうちに、往年の懐かしい視神経の記憶が蘇ってきたのである。

ただし、上の皮ケースの画像と、自分の意味する「文物としての、合成樹脂の皮ケース」とはかなり違いがある。上のケースの半分の表面積が剥落していて、その白い樹脂がそれを持ち歩く歩行者に合わせて、はらはらと周囲に落ちるような風情がまずは理想的なのである。

そういう「白黒まだらのぼろぼろの速写ケース」というのが実に懐かしい。こうい照相機的
文物はebay でもyahooでも登場することはないであろう。

2008年4月10日 (木)

同窓生の榎本君とトークショーのお知らせ

東京は神田明神の脇のギャラリーバウハウスで、日本デザインセンターの同級生の榎本と38年ぶりにトークショーを開催。4月18日の金曜の夕刻。

榎本は日本デザインセンターの同級生である。ただし榎本は1年でやめて、自分は3年がんばったのである。

実は榎本の写真家としての活躍はかねがね尊敬していたが、過去40年近く、まじめにカメラとか写真の話しをしたことがない。

それが今回のトークショーで実現することになった。

おそらく、70年代のカメラの話から、モノクロームのテクニック。それにデジタルとアナログカメラの戦国史など盛りだくさんの話になると思う。

榎本の今回の作品は「京都」であるという。自分も京都には過去40年来の思い入れがある。そこらも楽しみだ。

http://www.gallery-bauhaus.com/top.html

榎本敏雄×田中長徳対談

写真展に合わせて、榎本敏雄と田中長徳の対談開催。
日 時 / 2008年4月18日(金) 19:00~21:00(当日は18:00閉廊)
参加費 / 2000円
申し込みは上のHPから。

10年ぶりにコンタフレックスを使う

R0010636 R0010635 二眼レフは120フィルムを使うカメラばかりで、35ミリフィルムを使う二眼レフのないのは、考えてみれば不思議なことである。

もちろん、歴史からみれば、アグファも、それからアイレスのヤルーフレックスも、そのタイプの二眼レフの35ミリカメラであった。
イタリアにはラッキーフレックスという名前の35ミリ二眼レフもあった。

しかしそれらはマイナー系であり、亜流であって、やはり二眼レフの35ミリカメラはコンタフレックスである。
その名前が混乱するのは、戦後になってツアイスが安価なレンズシャッター式の一眼レフを同じ名前で出したりしたので、向こうではコンタフレックスTLRと呼んでいる。

ライカMPと言えば、最近のナイロンのベルトのついた、三脚のネジ穴が変な場所についている「らいか」が、本当のMPであると思う若いライカ人類が登場したりで、正規のコンタックスやライカのブランドには混乱が起きているのは、なかなか面倒だ。

このコンタフレックスTLRはワンオーナーであって、戦前の内務省のお役人が愛用していたのをそのお孫さんからゆずってもらった。
ボデイの底部には名前が刻印されていたのであろうか、その部分が削りとられているのも、想像をたくましくさせてくれて楽しみなものである。

この前、福田和也さんが、ご実家から発掘した戦前の写真雑誌の付録の当時のカメラの一覧と、その価格表をいただいた。その価格を見ると、コンフレックスTLRはやはり高価であろうとは予測してはいたものの、非常に高い。ダントツ高い。それは驚愕するほどの値段であった。

戦前に梨園の名優がこのカメラを「富と道楽」の象徴として持っていたという神話も理解できる。
このカメラはデータによれば、1、3キロほどのものであるから、最近のデジタル一眼レフよりは軽量なはずだが、ずっしりとしてなかなかに面倒である。

確か15年ほど前にアサヒカメラの対談で、赤瀬川原平さんと何かを話した時に、コンタフレックスTLRを持参した。対談の後に銀座の中華屋さんで、赤瀬川さんを2、3枚撮影した記憶がある。

二台のコンタフレックスTLRは革ケースに入れたまま、そのまま長年部屋のドアストッパーになっていた。それが昨年の夏のヒルズの「チョートククラシックカメラ展」に並べて、そのカメラを引き取って、それがそのまま木箱に入っていたのを「発見」したのが昨夜であって、それでむらむらと撮影がしたくなった。

まずは佃界隈で数カット。Fh000015 レンズはゾナー50ミリ。Fh000022

Fh000028 ヒルズの49fに行く直通エレベータは、天井がミラーである。それでこんな写真が撮れた。ローライフレックスのミニデジカメと、このカメラを2台持参すれば、楽しい散歩カメラになりそうだ。

コンタフレックスTLRでこの前、撮影したのはプラハであって、それが6−7年前のことになる。
このカメラは戦前の独逸のエッセンスを蒸留したようなカメラデザインで特に電気露出計のバカラめいたカットが美しい。
世界で最初に電気メーターを装備したという意味では、コンタックス3型よりもこのカメラの方が前である。

そのシャッターは案外に堅牢であって、良い造りである。コンタックスの方はよくシャッターが故障するが、コンタフレックスTLRはその構造が異なるのであろうか。

ファインダーレンズに、星が輝いている。これはカビではない。長年の間に自然発生で人工の皮膜が出来たものだ。このカスタム化が気に入っているのだ。これぞ、本物のTスターツアイスである。Fh000029_2
R0010637

2008年4月 9日 (水)

きやのんぶいていでらっくす

Dscn0113 昭和30年代の東京の街並みは軒並みバラックだててあって、そこにオート三輪が走行していたような時代である。つまり、戦後ではなく、あの戦争がすぐ脇にしゃがんでいる、というのが少年時代にも実感であった。

無論、戦争を知らない子どもたちなのであったが、防空壕とか隣組とか、灯火管制とかストライキとか、停電とか、外食券とか、そういう過去の時代の空気がまだそこかしこにあった。

その焼け野原のひろっぱ、というかはらっぱで、三角ベースのまねごとをしてそれにも飽きたころ、晴れた空がトーンダウンして、その背景にこうもりが飛ぶようになり、白い月が出るのと前後して、三角ベースをやめにしたわれわれ、少年団は「一番星みっーーつけたあ!」の競争を開始したのである。

不思議だ。
実際にそんなドラマの中のようなことをしたのであろうか?

今にして、あの少年時代がやけにドラマめいていることに気が付くのだ。

昭和31年の8月に出た、キヤノンVTはその価格が新鋭レンズ50ミリf1,2をつけて11万5千円もした。それまでの底から装てんする方式を脱して、モダンな裏ぶた開閉式になり、巻き上げはトリガーレバー式になった。

昭和31年にこんなモダンなカメラが存在したことが驚異である。

無論、当時、そんなカメラを周辺で見ることも不可能である。もっぱら、その雄姿を父の買ってくるアサヒカメラの誌上の広告に見ていた。

そんなカメラがほしいなどと想像することも困難である。ようするにエアバスのA380には乗りたいけど、それをほしいなどとおもわないのと同様な次第で、そういうカメラこそは形而上学的な存在なのであった。

この場合、物欲を止揚して、存在学に通底しようとしているのだから、少年のカメラへ感覚はさらに研ぎ澄まされることになる。

カメラ雑誌の広告をみていて、一番好きなのは、f1,2の付いたVTであった。正面から見ると、レンズの直径が強調されて、そのままにそのサイズがライカマウントの直径ではないのか、と錯覚させられるのが好きであった。カメラとレンズの美学。

そのV型を改良したモデルが、翌年の登場のVT de luxである。

少年(実にまだ9歳である)の自分はそのカメラを「きやのんぶいていでらっくす」と呼んだのである。それがローマ数字の5であるなどとはまだ知らなかった。

先週、銀座のレモン社で遭遇した白髪のカメラ紳士もやはり、自分がそのキヤノンを示したら「ぶいていでらっくす、、、ですね」と言った。この間違いはもう間違いではないであろう。

たしかに我が家にあった古い掛け時計には似たようなVの字がついていてけど、そこまでは頭は回らなかった。

デラックスというのはあの当時、昭和30年代のキーワードになりそうだ。

トヨペットだって、ダットサンだって、スタンダードよりもデラックスが格が上であった。とはいえ、その格上の車は単に、フロントウインドウの枠のリムに金属がまいてあったり、カーラジオとヒーターがついている程度の差であったわけだが。

そのデラックスの方はその前のモデルのVT型よりも定価は低下したのである。その価格、f1,2レンズが付いて97000円。無論、それだって十分に高価であるが、デラックスの方がスタンダードよりも安価であるという、これは世界唯一の実例なのではなかろうか。

f1,2のレンズをつけた、デラックスはその威容、堂々とあたりを払う感がある。当時、売れっ子のフォトジャーナリスト、ユージン・スミスは特製のブラック仕上げのVTデラックスを構えて、マンハッタンの街角で社会派のこわもての「怖い顔」をしていたのも懐かしい。

当時はグラフジャーナリストは社会に警鐘を鳴らす偉い人、という役割を持っていたのだ、と説明しても。今の若人には理解不能であろう。

一方で、ウイリアム・クラインの方は、まだ精神が柔らかであるから、これも70年代のアルルの写真祭りで、一緒にゲストに呼ばれた。アンドレ・ケルテスを21ミリスーパーアングロン付きのVTデラックスでノーファインダーで撮影したりしている。

そのカットは当時のオリジナルプリントの専門誌「プリントレター」(スイス)に小さく掲載されたのだが、そういう小さい写真でも我々、カメラ小僧は見逃さない。

クラインのVTデラックスはスミスのそれと異なり、「町に潜んで怖い顔をする必要がない」であろうから、それはごく普通のクローム仕上げであった。

★日録(火曜)

早朝に横浜の氷川丸。朝9時には到着の予定が、大暴風にて駅を出てからニューグランドの脇の遮蔽物にかくれたままで、一歩も先に進めない。

氷川丸は目の前に見えているのに、無限の距離にあるように感じる。
意を決して飛びだしたら、雨つぶの一斉射撃にあって身体中ずぶ濡れである。
雨滴が痛いという初めての経験だ。

船内に逃げ込んだら金谷船長が真っ白なタオルを貸してくれたので助かった。

午前10時より神事が一等の食堂であり。
天候がますます悪化する。博報堂の阿部さんは朝8時半に山下公園を歩行中に落雷にあったよし。危ない、あぶない。

昼前にヒルズに退避。東海道線は不通。その影響にて福田和也さんは藤沢の大学にゆけず、市営地下鉄からキャンパスに進軍するとのメールに接する。
自分の経験でもまず、この季節の春の嵐としては「ファーストクラス」である。

2008年4月 8日 (火)

長野重一写真集「東京1950年代」を旅する

Dscn0112 岩波写真文庫の復刻版の田中長徳セレクションの中の5冊のタイトルの一冊が「本の話」というのである。

1950年代の岩波書店の実際の本の制作現場の記録であるのが興味津々だが、その中で名取洋之助塾の中の新鋭写真家が長野重一さんであった。

「本の話」を開くとライカを構えている長野さんのびっくりするほどの若い姿が散見できる。その長野さんの写真集で最近に発行されたのが「東京1950年代」である。

このハードカバーの写真集を仕事の合間にヒルズの49fで拡げて見るのを楽しみにしている。ここに紹介するのはその中からの数葉であるが、そこで驚嘆するのはこれがもしウイーンの1950年代とかパリとかプラハの同じ時代に撮影された画像であったら、こんなには驚かないであろうということだ。

同じ、岩波写真文庫の復刻版の「パリの素顔」にもあたしは一文を寄せているのであるがその中で、「パリは自動車と歩行者のファッションだけは変わっているが、町そのものは変わっていないのでは」と書いている。

その中で大発見であったのは「実存主義ファッション」というので、男女ともパンツルックでブルゾン姿というのがあって、これは1950年代にはかなり「異様な姿」に見えていたようである。

ようするに、現代にはその精神が変貌してその外見だけなら、これは自分の得意な「ユニクロファッション」に他ならない。現代のカジュアルウエアの開祖は、実存主義に発していると考えるのはちょっと痛快だ。

ところで、写真集の作者の長野さんは写真界でも白川義員さんと並んで、そのままでどこの外交官と言っても通用するような背広にネクタイ姿なのである。

長野さんの「東京1950年代」をめくって行くと、自分の物心ついた当時の記憶とオーバーラップしてそれが面白い。

しかしこの同時代感覚というのは、土地の古老である自分が感じるだけであって、この写真集を20代の人に見せたら、やはり面白がった。その理由は「まるで映画のセットみたい」というのである。

そういえば、この写真集の中に写っている人物群はいずれも実に生き生きとその50年代を生きている。その表情が実によい。

こういうポジテイブな表情の市民をこの日本ではついぞ見たことがなくて、自分の記憶をあらいざらい探しても、そういう生き生きした人物を撮影したのは、数年前のハノイがあったばかりである。

昔の写真と今の写真とを対比させて、そこに「今昔」を見るのは、フランスの古い絵葉書と、今の同じ場所の写真とを対比させてそれを売り物にする本の企画は向こうにはたくさんある。

写真家の大島洋さんが、ATGETの分厚い写真集をもって、その本には撮影場所と撮影方向が同じく記録されているので、現実の20世紀と撮影された20世紀初めとを見比べて「何も変わっていない!」と面白がるくだりは、みすず書房から出た、本に記載されているとおりである。

Dscn0110 Dscn0111 一方で、長野さんが撮影した写真集59ページの六本木通りの拡張工事の写真は1951年であって、この俯瞰画像を見る限り、麻布市兵衛町の断腸亭の住まいが閑静なところであったことがしのばれる。

画面の右下に見えているガソリンスタンドのCALTEXのマークなどは、そのままウオーカー・エバンスの名作「アラバマ1939」に直結してゆくのである。

思いついて、今、自分のいるところが、この長野さんの撮影の地点であることに(ただしその高度は長野さんのは地上10メーター、自分の場合には地上200メーターだが)気がついて、ほぼ同じアングルをデジカメで撮影してみた。

その位置関係は長野さんの撮影の国会議事堂で確認できるのである。ヒルズからも同じアングルで議事堂は見えていたが、昨年、新しいタワーができて、その半分は隠されてしまった。

まあ、その今昔の差異はここで嘆いても仕方ない。

われわれは東京の未知の風景に踏み込んでいるのだ。ゆえに半世紀前の長野さんのローライとライカのカメラワークが一層、その存在を増すのである。

東京1950年代―長野重一写真集

買ったきっかけ:
ローライフレックスとライカが趣味の哀願物ではなく、道具として輝いていたから。

感想:
東京人の表情がはればれしている。
美人が多い。

おすすめポイント:
写真集を手にして、2008年の同じ場所を訪問するのも面白い。

東京1950年代―長野重一写真集

著者:長野 重一

東京1950年代―長野重一写真集

2008年4月 7日 (月)

リコーR8で新緑を写した

R1148713 発売以来、こればっかり使っていたリコーのR8である。
日常の視神経の記録の代用に使い、連載のカット写真を撮影し、氷川丸の1000頁写真集の撮影に使い、、、、、アサヒカメラの5月号にライカM2で撮影した「パリ・リスボン」の作品を掲載するのであるが、直前に編集部から顔写真をもとめられた。その撮影にもつかった。

酷使したので、R8は調整に出すことにした。

Chotoku_tanaka その顔写真もR8で撮影したのだけど、締め切り急である。
こういう時は、ヒルズの49fのトイレに駆け込む。そこの蛍光灯の照明がちゃんとしているので、鏡に向かって35ミリ換算で85ミリあたりのズーム域にして撮影すればオーケイである。
これがGRD2のような「真面目なライカ代用写真機」だと、ズームではない広角画面だから鏡に映った自写像は、60年代のリー・フリードランダー撮影の「セルフポートレート」みたいになってしまい。あまりに「芸術写真」になるから使えない。以前はGRDで撮影した「締め切り直前の顔写真」は、だから大抵、トリミングして使った。

GRDのオムニバス写真集「GRDボックス」は、一昨年に森山さん、坂崎さんとか東儀さんらと出したGRD本であったが、あの中のあたしの顔写真はGRDで撮影してトリミングしてある。

このように四六時中愛用のR8であるが、1月前にバッテリーのフタがとれてしまった。それでガムテープで補修して使っていた。

目下、うちの前の隅田川は桜の満開であって、花見客さんに占拠されている。下からの歓声が凄い、そういう音は上昇してくるのだけど、それは「税金」と思って諦めていた。

今朝、バルコニーに出たら、眼下の桜よりもその脇の一連の樹木の若葉が萌えるような明るい若草色なので視神経が感動した。
それを撮影するつもりで、R8を向けたら、画面の上の方に「飛蚊症」が生じているのが分かった。CCDにごみが入ったのだ。

自分の眼も同様である。この状態を飛蚊症という。
自分の飛蚊症は2000年の12月にベトナムの激戦地、ダナンにある観音様をまつった霊場に行った時のおみやげだ。

そのダナンの霊場の霊域に沢山のクロアゲハのいるのを見た。
それから例のぼろぼろのハイエースに乗ってそこを出発したら、1匹のクロアゲハがどこまでも付いてくる。

そう思ったのは間違えであって、左目の視野に飛蚊症が生じたのであった。これは越南みやげが出来たと喜んだ。だから今でも左の目に、自分はクロアゲハを飼っている。

そのベトナム帰りにホーチミンの空港のラウンジで、沢木耕太郎さんが立ちあがってラウンジ内の蚊を手で打っていたので、そこでライカの話とレニ・リーフェンスタールの話と飛蚊症の話になった。
沢木さんは、初ベトナムであって、サイゴンはバイクが多いですね、と感心していた。
自分はダナンで観音霊場の御利益で飛蚊症をおみやげにもらってきたと話したら、沢木さんは飛蚊症については知らなかった。

沢木さんは透明な水晶体の持ち主なのだ。

そういう過去8年の事情もあって、自分の視神経の一部たるR8が飛蚊症にやられたのは、これは隅田川鍵型桜の霊験かも知れない。
でも日常業務には差し支えあるので、これはリコーのF森さんにカメラを送って直してもらおうと考えている。

画像は眼下の若葉の一群とR8の飛蚊症である。

★昨日、日曜の行動。日曜は出勤日でたいていヒルズであるが、例外として佃で静養。これから「日本郵船氷川丸」の1000頁写真集のラストスパートなので、その前の弛緩である。

午後に散歩。携帯したカメラはキヤノンVT de luxにスコパー25ミリ。2本撮影する。

デジカメはわざと持たず。

相生橋を渡って商船大学の中の明治丸を初めて見る。キャビンで「うみのますらお」という戦前の商船学校の記録映画をVTRで上映している。それを見る。

これはクラシックな映画だから、帆船の話に実にあう。おそらくパルヴォかなにかの手回しのクランクで撮影されたのであろう。

丸山薫が戦前に練習船に「便乗」した当時の感覚が覚醒される。

明治丸は19世紀の英国製の帆船である。ライラに乗って、氷川丸に乗って、それで明治丸となると時間の進行は逆であるが、まるで船舶の進化のタイムマシンであってそれが妙だ。

それから、門前仲町から永代橋に来て、橋の上からRC21を眺める。ここに来るのは今年になって初めてか。それほどヒルズ方面に捕まっているわけである。

約2時間の散歩で佃に戻る。

2008年4月 6日 (日)

勝間光学の新しい双眼鏡GLORY6x30

R1148446 物を買う動機というのは、広告ではないのは確かである。広告に関しては我々は慣れているから、そこに展開している真実はそのままの価値とは信じていないのは当然だ。
だからステルス広告などといって、ちょっと目には広告と分らないような広告がもてはやされている。しかし、広告の受け手の我々の感覚は敏感だからそれも見破ってしまう。
販売促進力のあるのは、それよりもメールの書き込みのようだ。

拙ブログで、コンテナ船ライラの艦橋で使われている双眼鏡の話を書いたら、それに読者さんの書き込みがあった。自分はシュタイナーのM22とケルンの8X30を使っていると書いたのであるが、読者さんは勝間光学の双眼鏡を手にいれたとある。

さっそく、勝間光学をググってみたら、なんと板橋は常盤台のこの2月に一度休業したパブシャーロックホームズの近くのメーカーさんであった。東京光学が発祥した時も少なからぬ関係があるらしい。
その楽天のオンラインショップを見た。どうもニコンのOEMもしているようである。
そのショップで6X30のモデルが「あと一個」というので、それに乗せられて購入した。

新しい双眼鏡を買うのは、中学製の時に買った5X15のニコンのプリズム双眼鏡以来だ。
この勝間光学のモデルは自衛隊も使っているそうである。なかなかに見えは良い。自分の持っている数ある双眼鏡の中でM22は湾岸戦争の放出品であって、被覆のゴムははがれてべたべたしているし、ケルンのそれは1971年製である。
どちらも優秀で、そのオキュラーの大きさは勝間のそれよりもずっと大きいから、視野はその独逸製とスイス製の方がずっと見やすい。
でも新品の双眼鏡にはおろしたてのシャツと同様なフレッシュ感覚がある。
この6X30モデルはもともとローデンシュトックの流儀を真似たものであろう。

最近のモダンデザインの双眼鏡は嫌いだけど、このモデルはクラシックモダンと言うべきか、伝統のプリズム双眼鏡のプリズムのカバーをやや曲面にしてあるので、手のひらによくなじむ。
それが良い感じだ。

この中東某軍隊に納入の1500台という画像を見ると、それが「軍用」というので物欲が沸くわけだ。詳しく見ると、あたしの先日、手に入れたのと刻印など同じに見える。

http://www.rakuten.co.jp/glory-k/1871520/

その6x30で49Fの仕事場から見るに、皇居は吹き上げ御所の手前になにやら土砂の堆積のようなものを認めたのは先週の雨の日であった。さて、何であうと分らなかったのだけど、翌日晴れた日に見たらそれは皇居内の桜の盛りであった。

あと、仕事場から佃のタワーも良く観察する。
それから、森ビルの隣の米軍のヘリポートを着発の軍用の大形ヘリである。目の前を通過して行くと、外人パイロットの顔まで見える。
今朝見た、海軍のヘリはそのテールに日本軍の「旭日日章旗」をパターン化したのをペイントしていた。
ここらが「外国が見ている日本の本物のシンボル」なのであろうか。

2008年4月 5日 (土)

KCチョートクカメラ日記

★桜の季節の万能デジタルカメラ

家の前が桜並木である。これは今を去る20年前、リバーシテイ21ができた時に製作された桜並木であるから、古いものではないが、もともと桜並木とは人工的に作られた人造自然である。江戸時代の向島の桜もしかりだ。
今年の桜はその色合いといい、その花の勢いといい、この10年来の最高の咲き具合であると思う。大地震の前触れではないのか?

朝のヒルズへの出勤時にGパンの尻ポケットに入っている、GRDではなく最近はこればっかりのR8を取りだして、その桜を気まぐれに撮影したりする。もともと桜の花を撮影するのには「気まぐれ」が良いのであって、その撮影目的に「日本の美学」を見たり、桜をライフワークにしたりすると、写真表現の勘違い迷走が始まって始末が悪い。

だから桜は気まぐれに撮影するのが最高だ。
気まぐれに撮影するには、デジカメが一番だ。もっと気まぐれ度を高める為には、今やはりの新世代のケータイが良いのであろうが、自分はケータイは使わない主義である。あのカメラと合体した無線電話はどうも使う気にならない。電卓と一緒のそろばんみたいな感じである。

しかもその使い道が怪しからんというので、「お上」がチエックして、撮影すると「ちゃらんぽらん」というシャッター音が鳴るのは実に怪しからん次第である。

そのうち、日本政府はさらなる「便利主義」を発揮して、「小型電子カメラのシャッター音に関する暫定立法」などで、デジカメ、それもコンパクトデジカメにあの「ちゃらんぽらん音」を不可せよなどと言ってくるかも知れない。

そうなると、佃の桜の花見の席ではそこらここらから、妙なる「ちゃらんぽらんのシャッター音」が聞こえてきて、その音が実に音楽的効果を生み、さらにはそれが季語になったりするのであろうか。

この場合、デジタル一眼レフはでっかいし、シャッター音は「どじゃぴん」というから、規制の対象外であるが、もともと視神経の記録という意味では、デジタル一眼レフの重さ大きさよりも、コンパクトデジカメの方がずっと良いのに決まっている。

真っ盛りの佃の桜の土手を撮影している、デジカメを持った善良なるカメラ市民を見て、自分が感激するのはそのように撮影されて桜の画像はどれも失敗はなくて、それらは永くそれぞれの人々の記憶に残るであろうと言うことだ。

その意味で、デジカメメーカーさんの長年の桜の夢はここに解決されたわけだが、、、、

どうも、腑に落ちないのは、「誰でもどこでもいつでも完璧な桜の写真が撮れてしまうこと」

なにか幸せ過ぎて不幸せとでも言うべきか、、、。

あ、そうそう、ローライ二眼レフのミニデジカメは桜の撮影にはぴったりである。首を痛くしないでも桜の花のアングルが自由自在だ。なにもデジタル一眼レフの「リアルビュー」が出る幕でもない。

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★桜の季節のクラシックキャノン+ダンカン好みのニッコール135ミリ

この60日ばかり、戦後すぐのキヤノンカメラが気に入って、その理由は自分でも良く分からないのだが、朝、バッグに入れるのが、そういうクラシックキヤノンなのである。もっとも何台も似たようなカメラがあるので、それぞれの違いをそれなりに理解している中で、持参する一台を決める。

大抵はキヤノン2bか、3型であって、これらのカメラは日本の講和条約以前のカメラ、つまり昭和27年以前に製作された占領国下で生産のキヤノンであって、自分の年齢が5歳までに作られたカメラでもある。

それらのクラシックキヤノンを手にして感じるのは、敗戦国日本の当時の写真機は実にその製作の「志」(こころざし)が高かったということだ。

これはボデイが真面目に生産されているとか、仕上げが良いとかいうような細部のことではなくて、もう少し別なところが異なっている。言い換えればその「写真機度数」が高いとでも言うべきか。

アルコールの度数の高い飲み物は酔っぱらう。

それと同様に写真機度数の高いカメラも酔っぱらうのである。

その酔いは悪くはないので、ヒルズに向かう途中の最近の撮影地は佃の土手の桜くらいしかないので、それを撮影するためにレンズに凝ったりする。

机の上のレンズのジャングルから発掘したのが、ニッコール135ミリf3,5だ。これはニコンのベストセラーレンズであって、かのDDダンカン氏も数台のライカと一緒に朝鮮戦争には50ミリと135ミリのニッコールを持参した。

不思議なのはダンカン氏は最初の、これは歴史的な訪問となっている、日本光学工業株式会社に行って、そのレンズの性能に感激したとあるが、三木淳さんが最初にダンカン氏に見せたのは、ニッコール85ミリで撮影した、彼のポートレートであった。

だから本来ならば、85ミリを戦場に持参するべきであったのだが、これは何故であろうか。

思うに、戦争写真家の良く使うレンズは50ミリが一番多く(この数字は60年代のアメリカの写真雑誌のアンケート調査で見た)それに135ミリ。この2本は戦争写真家にとって必携のようである。

危険を伴う撮影でやや距離のある所からカメラマンの安全を確保しつつの撮影では、135ミリは有効である。澤田教一のピューリッツアー賞受賞の戦争写真も135ミリで撮影されていた。

135ミリは最近ではあまり人気がないのであるが、そのような歴史的レンズなのである。そういうレンズで桜を撮影できるのは、平和な日本の今の状況に感謝するべきであろうが、久しぶりに135ミリのレンズで撮影して、その描写が現代のレンズにいささかもひけをとらないことを発見したのは嬉しかった。

このレンズは4年前のちょうど今頃に、マンハッタンで99ドルで買った玉なのである。

ただし総真鍮造りであるから、その携帯にはそれなりの覚悟が必要だ。

クラシックキヤノンの革ケース

Canonsiioutfit10 こういうケースである。これは1947年ころのモデルS2用のやつだ。Cの文字がはねているのが、なかなか元気で良い感じだ。

この時代のキヤノンはまだネックストラップアイレットがないので、革ケースでストラップを下げるようになっている。

これは一般に言えることだが、カメラの革ケースがそのちゃんとした用向きに作られたのはどうも1960年代の後半までのようである。

70年代のカメラケースはどうも合成皮革の中途半端なものになり果ててしまった。

キヤノンのクラシックモデルに興味が行くうちに、その革ケースを集めだしたという格好になっているが、当時のキヤノンの革ケースは皮の材質と、その縫製にはあたりはずれがあって、ダメなのはすでにバラバラになってしまっている。

イタリアのレクタフレックスは羅馬のカメラであるが、その皮ケースは上質でどうみてもこれが半世紀以上前にできたものとは思えない良さである。

やはり皮製品はイタリアなのであろうか。

言うまでもないことだが、クラシックキヤノンを皮ケースに格納すると、無駄撃ちをしなくなる。

しっかりとレンズが覆われているので、これを撮るか、撮らないかの決断が決まった後で初めて速写ケースのふたを開く。

今のデジカメユーザーに見習ってもらいたい撮影態度である。

2008年4月 4日 (金)

都営の舎人ライナーで東京大周遊

R1148481 R1148490 R1148499 R1148503R1148573 このところ、ずーっっとヒルズに「捕まって」いるので、これではいかん、人間が駄目になると気が付いて、今日は古いキヤノンのVLにニッコール21ミリ(Fマントだが、コシナ製のF-Sアダプターを付け、さらに山製作所製のS-Lアダプターを付けてある)を持って、9時すぎには佃を出た。

en-taxiの連載のロケハンも兼ねているので、まあ単なる仕事中毒である。

行き先を考えて、都営の舎人ライナーが昨日から開業しているのに思い当たって、西日暮里に向かった。
舎人方面は2年ぶりである。その2年前には日暮里から都バスで行って、なんとか親水公園というところまで行った。
舎人ライナーの凄いのは「無人運転」であることだ。石原さんはそれまでして人件費を浮かしたいのであろうか。この界隈の少年の夢、つまり「大きくなったら舎人ライナーの運転手になる」というような危険思想は最初から摘まれてしまっているわけだ。
無惨。

終点の長毛川(この名前がいいねえ)のそばに、コンテナの倉庫あり。コンテナを見ると「ライラ」を思い出すのが常である。自分はそれなりのコンテナ通になったので、近くに寄ってそのサイズと容量と重さをチエックする。
「ライラ」は目下、欧州に向かっている。もうインド洋を越えたであろうか。コンスタンチン船長はお元気であろうか。

舎人ライナーの終点からはもう「東京埼玉国境」が眼前であったので、歩いて国境を越えて、彩の国に1分だけ立ち入ってそのまままた東京国に再入国した。
7年ほど前だったか、用事でプラハから独逸に向かう時に、ただ独逸に行ってもつまらないので、ちょっと遠回りしてチエコ、ポーランド、独逸の三国が国境を接しているポイントまで行き、数秒だけポーランドに立ちよった。
陸路、国境を越えるのはあれ以来であろう。

それと前後関係は忘れたが、2000年にハノイからぼろぼろのハイエースで旧南ベトナムのHUEに行った時、この時はわざわざかつての南北ベトナムの非武装地帯であった小川の前で、ハイエースを止めて、その川にあたしと、ガイドの1977年生まれ(つまりベトナム戦争終結の年生まれのヨンさん、それとかつて北ベトナム砲兵隊の兵士だったドライバーのソンさんと並んで小便をした。
それからまたハイエースに乗って夜遅く古都HUEに着いた。
その時はハッセルブラッドSWを持って大量の撮影をした。その一部は2002年に出た「チョートクのぼくのレンズたち」(WPP刊)に掲載されている。
その膨大な写真は4年前に捨ててしまったので、今は手元にない。

あれも徒歩での国境超え(いや旧国境超え)になるのであろう。

舎人ライナーで「荒野」(こうや)という所まで戻った。なにか駅名がビートニクしているなあ、と感心したのだが「高野」であったのでちょっとがっかりした。
それで足立区の奥地を縦横に探査して、満足した。

R1148570 ランチは、寂び王の側の洋食屋「ラッキー」にて。ここの洋食はうまい。脇の青年が自分がランチを食べている間、自分よりも前に店に入ったのに料理を待っている。彼が注文したのはグラタンである。これはお若いのに上級の洋食使いである。池波なみだな。

以前はこの界隈に来るには、日暮里から扇大橋まで都バスでそこから徒歩、あるいは大師線で行ってそこから南下というのがルートだったが、かなり便利になった。

欧州にゆくのに、アンカレッジ経由だったのがシベリア経由になった以上の便利さである。

撮影はキヤノンで2本。
舎人ライナーで日暮里。それから都バスで浅草に出て、花見さかりの土手を歩行して徒歩、数ヶ月ぶりに大林。

あわもり2杯。
金太郎鮨にて1,5人分を2つ買う。(1500円なり)
早めに帰宅。
バルコニーに鮨折りと麦酒を持ち出し、眼下の花をみながら夕食。しかし寒いのですぐに部屋に引っ込む。

2008年4月 3日 (木)

日本郵便のシステムがよう分らん

R1148444 六本木ヒルズのエレベータは、LVの革張りであるのに、森タワーのの4fにある郵便局のポストは受付の右側にある、「適当な段ボール箱」であってそれにどうした理由だか分らないが、ピンクの紙のはってあるやつだ。

その落差が森タワーの名物とも言える。

自分の記憶では、以前はここの郵便局にはポストはなかった。郵便局内に投函ポストが置いてないのは、かなり不親切ではあるがそのようなことは案外に外国にもあって、プラハの中央局なども広い局内には投函のポストはなくて、建物の外に規定の金属製のラッパのマークのついたいかめしいのがある。

こういう郵便事業はその投函の箱がちゃんとしていないと、信用できないものなのに、森タワーの6fの郵便局のは、言ったように「局員が局内の歓送迎会の何かの余興の小道具の為に造った」ようなべこべこな感じが「我が国の郵政事業への多大の不信感」を抱かせる。
これは民営化の現代、マイナスイメージで実に損である。

日曜もヒルズの49fにて仕事していて、書類を送ることになり、郵便局は日曜で休みだから、つくづく面倒だと思っていた。
メール(e mail)に慣れてしまうと、今、ここ、が郵便局のようなものであるが、紙の郵便を出そうと思うとこれがポストがなかなか発見できない。

先日、JNBのトークンを紛失して、すぐに口座を止めたのだがそれを発見して、解除しようとしたら、ケータイでまず、そのキーとなる8桁の番号をもらって、その後にPCからアクセスして解除するという大変な面倒であることが分った。
それを文書でやる方法もあるので、ヒルズでそれをPDFでダウンロードしたら、書式の他に封筒までついている。
それを鋏で切り取って、のりで貼ってという作業は55年ぶりに図画工作をしているようで、楽しかったのは良いがその夕刻から高校の同窓会があって、池袋方面に行った。
まず、JNBにその通知の封書を出そうとしたが、ポストが見当たらない。そのまま佃に持ち帰って翌日にRC21の管理事務所にある「かかりつけのポスト」から、ようやく投函した。

それで今日(日曜)の話だが、消費税の確定申告を出すのに、近所にポストがない。郵便局は休みだ。考えを巡らしたら、下の4fのローソンに確か民営化の赤いポストがあったような気がして行ってみたら果たして、ブリキ細工の立派な赤いポストがキャッシャーの前にあった。
そこに持参のex-packを投げ込んだら、目の前のお店のカウンターの人が何も言わないからそれで安心して戻ってきた。これは京橋税務署行の書類である。

午後になって、別の書類をやはりex-packで送るのに、また4fのローソンに行って、くだんの赤いブリキの箱に入れようしたら、お店のお兄さんが「あ、ちょっと待ってください」という。それでそのex-packの封筒をスキャンして、受け取りをくれた。
と、なると、午前中の京橋税務署に出したex-packの方は単に赤いブリキの箱に投げこんだだけであるから、これはゴミとして扱われるのであろうか、とつまらないことが気になった。

つらつら考えるに、日本郵便の会社の人のユニフォームはどうも変である。真っ黒に黄色い線が入っているのはどこかあまりレベルの高くない国の「傭兵」みたいだし、その黒ずくめの服装は昔、ウイーン年末によくご祝儀をもらいに来た「煙突掃除人」(独逸では煙突掃除人は幸運のシンボル)みたいにも見える。
その煙突掃除人を独逸語で何と言ったか、今、のどの先まで出ているのにそれを思い出すことが出来ないのも、しゃくである。

こういう日常に使わない言語は日本語であれ、独逸語であれ、どんどん忘却してゆく。

2008年4月 2日 (水)

隅田川鍵型桜

Fh000022 Fh000023 R1148477 桜の花というのはやっかいなもので、単なる灌木の開花にすぎないのに、極東の果ての島国ではそれが政治的になったり、独自の美学になったりする。
1983年のニューヨークでは、ニューアークに花見に行ったのであるが、そこでは純粋に桜の花を楽しめた。
もっともそこの桜も戦前に日米友好でここに贈られた桜の子孫であるということだった。その時に、外人(というのも変だが)連が日本のお花見のようなことをしているので、へえ、と思った。

今年の佃の土手の桜がその出来がどうなのかは、素人目には分らないが先日、家人のお弟子さんが遊びに来て、家人に告げたところでは、佃の遊歩道をあかちゃんと散歩するのは、若いママさんのそれなりのステータスに最近なりつつあるようだ。

ウイーン時代もやはりドナウ運河の側に棲んでいて、何時も居室から眼下の河の四季を見晴らしていたものであるが、あそこはポプラとタンボポが名物だ。

河には渡し船があって、50セントで客を渡した。オスカー・ココシュカが1947年だかに描いた、その渡しの淡彩をほどこしたスケッチをどこかで見た。

そこからやや川下にあまり大きくない一重の桜があって毎年、その花を見るのが楽しみだった。ほとんど白い桜花であって、これが復活祭のずっと前、つまりウイーンがまだ冬の季節に咲くのである。

佃の名物桜には「隅田川鍵型桜」がある。これは新川の普通の空き地にずっとあった。自分がすみだがわに棲むようになった20年前からあった。文字通り、樹体が鍵型になっているのである。その一本桜の前に工藤ゆきを立たせて撮影した写真は「ちょーとくの東京散歩カメラ」に掲載されている。

隅田川鍵型桜は、周囲の空き地がどんどんマンションになる中で、そこだけが桜の守護神に守られて永遠にそこに咲き続けるのではと思った。

あれは4年前の4月だったか、パリから戻って人形町のTcatからタクシーで佃に戻る時に、進行方向の左方向の風景になにか欠落感があった。
鍵型桜は切り株だけになっていた。それでもその翌年にその切り株から健気にも、新しい枝が出て、そこにたったひとつの花を咲かせた。

それからどれだけ経ったか、やはりプラハからの帰りに人形町のターミナルからタクシーで戻る時に、今度は切り株も撤去されてしまった。

今はその上にマンションが建っている。そこの住人はまさか桜の下に埋まっている死骸は見ないであろうが、夢にすみだがわの桜の精霊が登場する夢くらいは見なければ桜は浮かばれまい。

ベンジャミン・ブリッテンの[SUMIDAGAWA]をはじめて聞いたのは、1975年であったか、場所はウイーンのゴシック教会「岸辺のマリア教会」であった。この旧市街のこのあたりまで、当時はドナウが来ていて、そこが川岸であったのだ。

先週に新宿のマップカメラで買った、キヤノン3(オキュパイド時代)に、DDダンカン氏愛用の135ミリニッコールを付けて、佃の遊歩道の桜を撮影した。
どうも遊歩道の桜には、隅田川鍵型桜のような「生命の燃焼」は見られない。
つまり安全圏に居るのである。
だから、桜の花がなにか造花のように見える。

2008年4月 1日 (火)

月刊「デブシロ」4月号本日創刊!

90cca29f28d335b44eb7e30786050f74 東京の北辺でその人気絶大なカリスマ猫の「デブ白」(女性・本名ミンク、体重10キロ)の存在は、数年来、右のブログでよく知られているが、4月からいよいよ月間でフリーペーパー化した。

版元は、筆者も数多くの出版でお世話になっている、あの岩波書店。

印刷はゼロックスコピー、製本はホッチキスとじなので、おかれているスタンドは限られているが、おもにR25のスタンドを勝手にスタンドジャックして配布。

ただし、本日の配布分は首都圏の5670箇所のR25のスタンドではすでに持ち去られたので探しても無駄である。

本日の朝日新聞朝刊の岩波書店の全面広告で、岩波の山口社長の「月刊デブ白」創刊のステートメントがある。

岩波書店の長い歴史の中で、社長自ら登場するのは前例のない歴史的なことだ。

山口社長は「人に読まれ、猫にも読まれる本を今作る。それが編集者の使命」と創刊の決意を語っている。

R1148469 月刊デブ白の発刊を祝い、今日はデブ白デーとしてゆかりの地元商店街では、猫の提灯行列、猫缶の無料配布、猫の大声コンテストなどで、地域の活性化、猫の町おこし、町の猫おこしを図る。

地元の駄菓子屋さんでは、雷おこしの向こうを張って、猫の恰好の「でぶしろねこおこし」を売り出したら一挙にブレーク。注文がさばききれないそうだ。

フォカな幸せ

R1137665 focaはフランス製のライカコピー機であるが、その人気は今ひとつである。最初にフォカを手にしたのは、1980年の秋の終わりのリスボンのカメラ店で、今はそのカメラ店はないけど、リスボンのアウグスタ通りの、その店の前の縁石を黄色い市電が削って角を曲がって行くほどの狭い通りと狭い道の、いぶせく煙った狭い狭いウインドウの中にフォカを発見したわけである。

そのカメラの存在感は、これこそラテン系のカメラ店であって、日本とか独逸とか北アメリカには絶対に存在しないカメラの展示の仕方で、それはその店の数軒先のポートワインの老舗のウインドウに時代物の瓶がずらりと並んでそれぞれに埃だらけであるのと何かよく似ていた。

そのカメラの存在感にしびれたわけだ。
その時、フォカのレンズが5本セットになったのが欲しかったのだが、これを買ってしまうと、もうリスボンに居る資金がなくなってそのまま当時棲んでいたウイーンに直帰せねばならなかった。

クレジットカードなんてない時代。

そう、当時はまだクレジットカードなどない時代だ。アメックスのゴールドカードなど、その翌年にモダンフォトグラフィのケプラー編集長が来日した時にその極東通信員としてお手伝いしたわけだが、彼の持っているアメックスゴールドは珍しがられた。

ケプラーさんに、ホテルオークラのベルエポックを教えられて以来、ワインに目覚めたわけだが、当時のアメックスゴールドはケプラーさんのように、ニューヨークで白いロールスロイスのオープンカーを乗り回すような人物のカードであった。
これが30年前の話。

リスボンに話が戻るが「現金主義」の自分であったから、そのレンズが5本付きのではなく、50ミリf2、8のレンズ付きのフォカ★★(この★で表現するのがいかにもミシュランの国だな)を今のお金で5千円ほどで買って、その時にはライカD3のブラックしか持って来なかったので、2台目のカメラとしてこのフォカが大活躍したのである。

旧市街のアルファマから上のお城に登る急な坂の夕暮れをフォカで撮影した。
坂は目の前で2つに枝分かれしているので、消失点がふたつあるのがリスボン都会写真の魅力であって、その写真は写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)のポルトガルのセクションにも掲載されている。

以来、その消失点がふたつある坂道が好きで、一昨年だかにリスボンに行った時もそれを撮影した。その時はフォカではなくライカM2にズミクロン50ミリだった。
アサヒカメラの4月20日発売の5月号に「パリ・リスボン」というタイトルの口絵を掲載する。その見開き頁の作品が、やはり30年前に最初にフォカで撮影したのと同じアングルなのだ。

フォカで撮影しても、ライカで撮影してもまずその描写は変わらないわけだが、30年の時間の経過がその街角の樹木の生育で分るのも面白い。

ライカもいいけど、フォカは軽量なのでこのようにカメラと28、50、135ミリを持ってもあまり負担にならない。
この画像は昨年の4月に撮影したものだが、昨年はよく「東京大周遊」をしたのに、今年は気がつくと、ずーーーーーっと、ヒルズの49fで仕事している。

そういうのが体に良いわけはないし、en-taxiで「カメラと歩く/東京周遊日誌」という連載も開始したので、それは取材には「例の写真部」と行くわけだが、その前のロケハンでせいぜいフォカで遊ぼうと思っている。

偽ライカ同盟に黒田慶樹さんが加わったのはすでに4年の昔であるが、黒田さんは当初、フォカの50ミリf1、9のオプラレックスに多大の興味を示した。それで「オプラレックス愛好会」を結成した故事なども懐かしい。

自分のロケハン好きについては、福田和也さんの「贅沢な散歩」(雑誌GQの連載エッセイ)の今、発売中の162頁に掲載されている。

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