カメラは知的な遊びなのだ。に関連して
カメラは知的な遊びなのだ。(アスキー新書)が出て1週間になる。
さっき、アマゾンのランキングを見に行ったらなかなか売れているようである。
この新書には、相当数のカラー画像が収録されいるが、その中で使用されなかった画像のひとつがこれである。
一昨年の今頃、パリからミラノに行った。ホテルはスカラ座のすぐ裏手であって、周囲には古美術商だらけである。ところがその時の自分の買い物の急務は、靴を買うということであったが、その界隈には靴屋は一軒もない。
それで、リビア砂漠のサンテックスではないが、「明日はオレンジ色の市電に乗って、どこまでもどこまでも命のある限り、走って靴屋を探そう」というので、悲痛な気持ちで出発の準備をした。
その前の夕食を買いにきたのが、モンテナポレオーネの近所のこの食品店である。これはどういう意味づけをしてよいのか分からないのだけど、ゲルマン系の国ではスーパーもあるので、その食品の買い方はアメリカ式というか、日本式になる。ただし向こうにはコンビニに相当する店はない。それに相当するのはtabakである。
イタリアのタバコやはそれともかなり異なっていて、ゆえに長く居たドイツ語圏と比較しても、そこに「異国情緒」を感じるわけである。
オペラの裏の界隈にはこういう地元の人しかこないような食品店がある。これはいい。イタリア語は駄目だけど、買い物には不自由はしない。
このカットは自分のあつらえた食品を店の人が、平らな厚紙の皿に綺麗に盛りつけしてくれているのを撮った。カメラはGRDだ。同時に自分は脇のワインの棚で今夜吞むワインを選定しているのである。
本当はバローロが吞みたいのだけど、その品質はかなり良いに違いないけど、その価格は東京のその手のワインショップで買うバローロに比較してかなり高い。それで躊躇した。
だからその日には我慢して、もっと安い普通の白のテーブルワインにした。
あつらえた料理は綺麗な包装紙に包んでくれて、そこに紙の紐がかけてあって、ちょうどぶらさげられるようになっている。その包装紙のイラストがお洒落であった。
その包みの存在感は大昔、父親が近くの寿司屋からおみやげにぶらさげて来たあの経木の折の感じとそっくりなので、洋の東西を問わず、こういう「善きもの」のラップ感覚は同じなのかと感心した。
上の画像は「カメラは知的な遊びなのだ。」には掲載されなかったが、今、この画像を見るとその店の午後の空気とか、店を出てホテルに行く左手に煉瓦造りの小さい感じの善い教会のあったこととか、さらにその先の右手には、カメラのプロ機材店があってそこに35ミリレンズ付きのライカM2があったことなど、この一枚の画像を鍵にして、その前後のことがずらずらと目の前に展開してくる。
それに、画面の右下にちょっとだけ写っている、あれは何と言うのか、ズッキーニを軽くいためた料理と言うにもあまりにもシンプルなのが、あれはどうもイタリアに来ると非常に食べたくなる一皿であったことなども思い出す。
最近ではあたしのリコーのR8の病気が感染して、福田和也さんもR8などを使っているようだけど、福田さんの話ではデジカメで撮影した画像を参考にして、文章を書くことがあるそうだ。
デジカメ、それもコンパクトなそれはこの意味で記憶できる視神経であるわけだが、その記憶できる視神経を今度は文字に翻訳して行くのが、なにか知的かつ冒険な作業なわけである。
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カラー版 カメラは知的な遊びなのだ。 (アスキー新書 51)
著者:田中 長徳 |




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