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チョートクカメラ塾ブログ

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2008年2月29日 (金)

ポラロイド

R1146943  日本ポラロイドは2月21日、インスタントフィルムの生産を2008年夏までに終了すると発表した。カメラのデジタル化が進み、フィルム需要が減少したため終了を決めた。

以上が、ニュースのタイトルである。

ポラロイドが生産中止になると、また人気になって、在庫分を競走で購入する動きが活発になりそうだ。

1980−82年に日本ポラロイド社とタイアップして、一連の活動をしたことが思い出される。8x10カメラでポラカラーを撮影した。なかなか温度管理と色のコントロールが難しくて、かなり青い方向にシフトした。

当時はそれがポラロイドの欠点であると思っていたのだが、それから25年経過して、その8x10プリントを今見ると、これはこれで良かったと言う理解に至った。

ポラロイドの画像は案外に安定していて(もともとポラ色というような不思議な色彩だった)今でも鑑賞に耐える。

8x10は他に医療用のモノクロの8x10フィルムも使用した。これはトーンカーブが長くて、間延びした画質というか、誉め言葉で言えばプラチナプリントみたいなトーンになる。

仕事では、4x5のポラは良く使った。これを業界用語では「ポラを引く」というのである。

ピールアパート式だから、ロケに行くとそこら中が「ポラ殻」でいっぱいになる。自分はちゃんと始末して持ち帰った方であるが、トヨタのロケなどで、富士山の周辺の「ロケ地」に行くと、前のロケ隊の仕事の残骸がそこらに散乱していて困ったことがあった。
まだ、そういうマナーなど無かった「広告戦国時代」の話だ。

R1146941 ★日録
例の如く、ヒルズ。
今日は、8時半には49Fにあり。じじいは朝が早いからという意味でもない。
来週は水曜から、日本郵船のコンテナ船「ライラ」に便乗取材するのである。便乗というのは、戦前に詩人丸山薫が、練習船(帆船)にやはり便乗して太平洋を45日航海している。
丸山薫の航海の詩「點鐘鳴るところ」はいい。
そう、ライラの冒険なのだ。ライラとライカは一字違いである。

AXISの連載で、カメラデザイン論を一気に書く。ライカ250には、カメラの美学があるが、撮影が250枚撮りのライカ250に比較して、その10倍の2500枚も撮影可能な現代のデジカメにはなぜ、カメラの優雅さがないのかという話から展開して、ソ連製のカラシニコフのドラムマガジン(100ショット)の話に展開する。

2008年2月28日 (木)

KCチョートクカメラ日記

R1146874 ★(デジタル)カメラは知的な遊びなのだ。

上の括弧をとったテキストが3月10日に、アスキー新書から出る、最新刊のタイトルになる。

デジタルカメラが実用化して、それまでの銀塩カメラにとってかわって、一時代が経過したわけであるが、現代は過渡期の状況であるというので、将来はデジカメの天下になって、銀塩は衰退して行くものと従来は考えられていた。
デジカメに関わるほとんどの人々がそう思い、銀塩に関わっていたすべての人々がそう考えていた。

ところがこの2年くらい、新しい動きが生まれてきた。
それはデジタルカメラと銀塩カメラの新たな共存なのである。あるいはそれぞれのカメラの分業化と言っても良い。

過去のカメラならそれしか存在しなかった銀塩時代には「記録のあらゆる目的の雑多な映像」は、もっぱらフィルムに記録されてきたわけであるが、銀塩カメラは世界に存在する、実に多用な視神経の記録業務のすべて引き受けねばならなかった。

一例を上げると、電話局の度数の記録である。
電話代をチエックするために、ライカの改造型を電話局内のずらりと並んだ度数計に向けて、全部撮影し、現像し、それをルーペで見て、手入力で請求書を制作していたわけだ。
そういう「社会を動かすのに必須な業務」はデジタルで行われるようになった。(今の通信会社がデジカメで度数を記録しているという意味ではない)

デジタルカメラはそういう映像の基本的な業務を全部銀塩時代に比較して、実に楽に引き受けるわけである。

一方で、デジタルカメラのデザインには魅力がないし、それを購入するために貯金をするような、物欲の対象としての魅力にどうも欠けるようなところがあると、延々と書いて来た。

今度のアスキー新書の執筆で判明したことは、確かにデジカメは物としての魅力には乏しいかも知れないけど、その撮影した膨大な映像を駆使して、自分の視神経の迷宮に分け入るような、そういう知的視座の遊びと視ることの冒険こそが、デジタルシステムでこそ、構築可能であるという、この一点に気がついたのである。

これを最新刊では、仮に「第三信号系視神経」と呼称しているのだけど、デジタルカメラが切り開く新しい映像の地平というものをようやくにして確認できたと感じている。

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R1146603 ★(銀塩クラシック)カメラは知的な遊びなのだ。

上の括弧をとったテキストが3月10日に、アスキー新書から出る、最新刊のタイトルになる。

事実上、世界最初の電子カメラである、ソニーのマビカをソニーの本社で見せてもらったのは、一昨年のことだ。
今のデジタルカメラの元祖である、その真四角なボデイを見て感じたのは、いかにも80年代デザインで、それは案外にモダンであって今の時代にも通用するという印象であった。

あたしは当時(1981年の11月と記憶するが)先日亡くなった、当時はモダンフォトグラフィの編集長だった、ハーバート・ケプラーさんがボスだったので、そのカメラのデモを大崎で見ている。当時はまさかこういう「電カメ」が将来のメジャーな存在になるとは思っても見なかった。

デジタルカメラは実用の子、つまり、時代に棹さして今を追い求め、結果として、その個体はどんどん過去になって行く存在である。
一方の銀塩カメラは趣味の親であって、年代を重ねる上にその存在が重厚になってゆく。

これは不思議なことだ。
というのは、自分の少年時代、ちょうど10歳の時であったが、当時の最高最新の高級カメラ、ニコンSPが君臨していたその直後に、ニコンFが登場した時に感じたのは、すでに距離計のカメラは過去の存在であって、あの三角形の「亡者の額につける白い三角巾」(当時のアサヒカメラのニューフェース診断室の評)のマッスのようなペンタプリズムのデザインの方がずっとモダンであり、将来を見据えているように見えたものであった。

こういう銀塩時代のカメラの変遷の価値観は、すでに朽ち果てて、現代では例えば、クラシックライカの場合、比較的最近のモデルである、M6よりもそのオリジンである、M3の方が高く評価されているのは、実に面白い現象だ。

思えば、ライカに手を染めた1970年代のウイーンでの記憶をたどるに、当時はまだ、70万代の最初のロットのM3などは『二回巻き上げ、ガラス圧板、セルフタイマーなし、ファインダーセレクターレバーなし、なんとなくデザインが古くさい』などの理由で、その価値が低く見られていた。

確か、70万代の一番最初のロットのM3と、100万代のかなり最近のロットのM3の中古がカメラ店の店頭に並んでいて、自分は後者を買ったことも懐かしい。
これが今の時代なら、初期の70万代ロットは正真正銘のコレクターアイテムであるから、これを見過ごすことはない。
古くさいと、モダンとは、物体の両面に具有されている属性である。

今度のアスキー新書では今までは発見できなかった、そういうデジカメ時代の土台の上に構築されている、魅力の銀塩クラシックカメラパレスのことを記述している。

★「実写」はいずれも、R8。

上は、「鳩の町」。下は「あの写真部」。

α200をカスタマイズ

R1146907 R1146904 R1146905Dsc02133 発売早々に購入した(マップカメラ/楽天通販で、57500円+送料10円)を、日常に持ち歩くことにして、自分なりの「カスタマイズ」を開始。

まず、仕事には付属の18−70ミリのズームは便利(これが実質価格1萬円以下というのがすごいコストパフォーマンスだ)だけど、これを持ち歩くのは嵩があるので、M42マウントにてプラクチフレックスに付いていた、テッサー50ミリf3.5を付ける。
俗に、レンズメーカーさんがユーザーの受け狙いで生産する、(というか、ご商売で)「いわゆるパンケーキレンズ」なるものが自分は嫌いである。

それと、そのパンケーキユーザーな人ともあまり話はしたくない。というのは、薄いレンズは、それが小さいことでその存在に「淫して」しまう人があまりに多いからだ。

小形のレンズ、たとえばこのテッサ−とか、ほかに同時代の40ミリテッサーとか、さらに昔のアルパのオールドデルフトの38ミリのアルフィノンあたりは好きである。
その理由は当時は、そういうレンズの存在はごく普通のことであって、焦点距離の短いレンズが、小さいというのがごくごく普通の存在であった。

それが一眼レフ用のレンズが「茶筒のように巨大」になってから、その反動の「受け狙い」で商品化されたパンケーキタイプのレンズは好きになれないという天の邪鬼なレンズ好みがあたしなのだ。

新品のα200がやはり右手の親指がボデイに当たるとスリップするので、(レンズ付きで5萬円代のデジ壱だから、文句は言えないが)道具箱の中をかき回して、初代のGR1用の黒色の貼り皮の素材が、ビニール袋に入ったまま、デッドストック状態で10年ぶりに発見された。
これをボデイに貼って、このようなスタイルにした。
まあ、「発表済みの無名のプロトタイプファッション」である。

このデジタル一眼レフの「銘」は「○×△號」と命名しよう。
追々に手を加えて、使い易いデジ壱にして行くのが楽しみだ。

30年以上前、小川紳介プロダクションの名カメラマン、田村さんがプロダクション所有のエクレール16NPR(70年代にセットで500萬円はした)を自分流に改造したという話を聞いて、すごいなあ、と感心したことがある。

後で知ったのは、この改造はカメラの本体をいじるのではなく、ファインダーとかグリップとかの細かい箇所を自分の身体に合うようにカスタマイズするという意味であった。
その事情は今でも変わっていない。
我々、素人がα200の本体に手を入れられる筈はない。

あ、上のα200のカメラ画像はR8で撮影。

ウインドウの中の花の「実写」(この言葉の使い方は、デジカメブログっぽくていいねえ)は、「○×△號」にテッサー50ミリf3.5。

断っておくが、デジカメの格付けからすると、R8がメーンカメラで「○×△號」はサブカメラなのは言うまでもない。普通の考えでは、デジ一は、メーンカメラでコンパクトデジはサブというのは、常識であるが自分の場合その価値観は逆転している。

何故か?

その理由は3月10日発売の「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)に書いた。

2008年2月27日 (水)

強風の東京にα200

Dsc01818 R1146582 R1146579 R1146581 先週の土曜に、午後1時半ころに、佃のタワーから出ようとして、いきなりの突風である。
土曜は春一番というには、あまりの突風で電車や新幹線がそこここで止まったりした。
週末に東京に来る用事があった人とか、冠婚葬祭のあった人がたまったものではない。

翌日の日曜も、前日に勝るとも劣らない烈風が吹きすさんだ。
久しぶりに銀座の中古カメラ市(また中古カメラブームの再来にて、大変な売り上げという)に行こうと思ったが、家から出るのが面倒である。

居間は角部屋にて三方向はハイサッシの硝子窓であるが、それが割れるかと思われるほどの風にて、なにか飛行機に乗っているような、風切り音がする。

日曜の午前中に、マップカメラに注文してあった、ソニーα200+18−70レンズが到着したので、それで部屋から撮影をしたのが、この画像だ。

レンズはカールツアイスイエナの500ミリf8である。
これは有名なレンズで、戦前のコンタックスの交換レンズカタログにも登場している。その作例はドレスデンの宮殿を撮影したもので、広角レンズは28ミリのテッサーから始まって、ずっと望遠になって、最後に500ミリで終了する。

これは1群2枚で明るさはf8なのだけど、シャープなレンズだ。このレンズはM42なので、それにアダプターを付けて、部屋の中から眼下の中央大橋を撮影した。
強風で歩行を難儀している人物は気の毒であろが、写真のモチーフとしては、かなり面白い。
かのアンドレ・ケルテスが5番街の1番地のタワーの上からコンタックスSに、あれは300ミリか400ミリの望遠レンズで撮影した名作があるが、その本歌取りのつもりだ。

それにしても、α200(レンズ付き)が57500円。しかもマップカメラでは開店10周年とかで、送料は10円であった。

自分は別段、デジタル一眼レフに「萌える」世代でもない。自分にとってデジタル一眼レフは「単なる実用品」だから、自分はなかなか買うことが出来なかった。この位の価格になると、自分でも買うことが出来る。

500ミリレンズは、35ミリ換算だと、α200ならざっと750ミリの超望遠である。
750ミリを手持ちで振り回すのは不可能だけど、この撮影は手持ちでやっているのだ。
風の強い日に、こういう撮影の楽しみがあるとは思っても見なかった。

まあ、天下のソニーが信奉するのが、ツアイスなのだから、使い方の方向としては正しいわけだ。しかもこのレンズはツアイスセセッション以前の「ご本尊」たる、JENAであるから。

2008年2月26日 (火)

昭和29年

R1146571 R1146572 3月に出る、岩波写真文庫復刻版田中長徳セレクションは、1950年代に一大文化を画した、出版であった。その中から5冊をセレクトして、あたしがコメントを書いた本である。
その中に「写真」というタイトルと「レンズ」というタイトルのがある。岩波写真文庫の300冊のリストを見渡してその中に「カメラ」がないのが実に不思議であったが、思えばこの文庫はまだ日本が戦後に再出発した直後の出版である。
カメラ=写真機などは贅沢品で買えるものではなかった。

先日、アローカメラで手にいれた各種のカメラのパンフレットの中に昭和29年(1954年)のキヤノンの価格表があった。これが面白い。当時の普通の人の収入が月に8千円程度であった当時に、キヤノン2dのf3,5付きが45000円。同4sbのf1,5付きは85000円もする。今なら400万から500万円という感じであろう。
当時はゆえに、カメラを手に入れることそのものが人生の究極の目的であった。今はカメラというのは、あっちを突っつき、こっちを味わうという、遊びの道具になっているのは有り難い次第であるが、逆に真剣さに欠ける。

当時のレンズの値段。
50ミリf3,5 13000円
同f1,8    26000円
同f1,5    36500円

明るいレンズは非常に高価というツアイスやライツ以来の伝統を守っている。当時は標準レンズでも普通は3,5であって、明るさが1,5などというのは特殊レンズの感があった。

自分の中学時代の担任が梅田八郎先生であって、理科が担当だった。彼はキヤノン4sbを持っていた。実に今のキヤノンの最高級のデジカメ一眼レフなどに比較しても、遙かに高価であったことが分かる。

上の価格表の「浪速大学工学部 船舶工学科教室」というのが気になる。今の感覚で思うと浪速大学とは、吉本のお笑い養成学校みたいに感じる。

2008年2月25日 (月)

アリフレックスのレンズをエルマーに付ける

R1146573 土曜は東京は春一番の強風。

四谷アローカメラの恒例のシドニー。
アローの3fでの「座学」の講座は、今回までで来月の第四土曜の午後2時からは、1階の特設会場(つまり店舗)で、「店内カメラトーク大乱闘」を開催。
光臨歓迎!入場無料!(当たり前か)

10年近く前に、新宿のマップカメラで、やはり売り場でトークをしたことがあった。その時には坂崎さんと一緒であったが、売り場でのトークショーは、実物を手にしつつ話をすることが出来るから便利だ。
アローカメラの今までの「シドニー」では、普通の会場なので特定のカメラを実例を挙げて示す時にお客さんからそのカメラを借りていたのであるが、次回からは店の中にカメラとかレンズとか、がらくたはそれこそ「売るほど」あるから、それを手にして説明が出来るのは好都合である。

ただし、シドニーの受講者さんがあたしの話ばかり聞いていると、買い物に来たお客さんの邪魔になって、四谷警察署から「排除命令」があったりすると困るので、会場の皆さんには「100円のフィルターでもいいから買うように」と、昨日お願いしておいた。
こうすれば、カメラ買いのお客さんが、あたしの話を聞いているわけで、「チョートクの馬鹿話をただで聞いている、商売を邪魔するいやな客」とは、お店の方も思わないであろう。

それで昨日のシドニーは3f会場では最後というので、本当に椅子が足りなくなるほどの盛況であった。
話のあと、各種の珍しい資料(例えば、昭和29年のキヤノンの価格表などなど)を入手した。これはおいおい、拙ブログで紹介の予定。

終了後に野々宮BMWにて、都心に移動中に市ヶ谷の自衛隊の前が交通遮断になっている、若いポリスが走ってきて「足場が強風で倒れたので通行禁止です」というので、Uターンして新宿経由にて中野。
フジヤカメラなどを見学。

以前、あたしの出した「田中長徳監修ライツネックストラップ・サイン入り」の在庫がフジヤカメラにあった。もう手持ちがないので1本買おうかと思った。
使いだして2年が経過したこのストラップはようやく手に馴染んで良い感じになった。

自分が人生の最初にオリンパスワイドを買った、中野の日東商事で店主と雑談する、あの時には日東さんでオリンパスWスーパーのブラック仕上げを買い逃したのであった。
オリンパスWSのブラック仕上げは、過去40年来探していてまだ手に入らない逸品だ。
20年ほど前、アサヒカメラの広告で地方のカメラ店で6,5万で出ていて、あわてて電話したらすでに売れた後であった。

野々宮と実に5年ぶりに早稲田通りの旗亭「田原坂」に行く。小酌。
以前のスタッフと同じなので、よほど女将の面倒見が良いのであろう。

野々宮は、先日買った、アリフレックス/ライカマウントのアダプタを示す。これはドイツ第二放送の刻印あり。アストロベルリン製である。これにアリフレックス用のツアイス16ミリが付いている。これはばりばりのオーバーコッヘン製のツアイスレンズであって、信州中野製ではない。思えばツアイスも大衆化したものだ。

カメラファンには有り難いことだが、同時に「ツアイスのご威光」は昔日の輝きのないことは仕方ない。
例えば、LVがそうである。
40年前、LVは巴里の本店で買ったものだった。今では銀座でも買える。これが大衆化の裏表である。

野々宮は、そのアダプタ付きのレンズをエプソンR-D1に付けている。こういうやり方は「カメラ道楽の袋小路」というものであって、皆さんはにお勧めできる性質のものではない。
ライカ社の20万だかする、「明るさがf2,5しかない寸足らずのズマリット」をM8に付けた満足している「初心者さん」の方がずっと罪は浅い。

帰宅して自分の持っている、アリフレックス・ライカMアダプターを取りだしてみた。これはもともと、ライツが純正で生産した、Mレンズをライキナスペシャルに付ける為のアダプタである。
20年来探していて、これをベルリンのカメラ店に発見した時は、往年の夢がかなった気分であった。しかしモノを探すのは、それを探している時が楽しいのであって、実物が手に入ったらそこまでである。
そこで夢は現実になってしなうから、打ち切りである。

この画像のレンズはライツ純正のアリフレックスマウントのエルマー35ミリで、戦前のモノだ。これもその存在を誰も知らないレンズであるが、早い話が、こんな面倒なレンズ遊びをしないで、直接にライカマウントのエルマー35ミリをエプソンに付ければ良いだけの話である。
しかし、我々は「欲望が倒錯」しているので、こういう刺激にしか反応しなくなっている。
実に面倒である。

@@@@

昨年の秋に、六本木ヒルズの「チョートクのクラシックカメラ展」を首脳3人でわざわざ見に来てくれた、ライカ社のリー社長が突然の退陣である。

http://www.amateurphotographer.co.uk/news/Leica_Camera_sacks_CEO_Steven_K_Lee_news_182225.html

この前、お目にかかった時、「来年のフォトキナではびっくりすることが3つあります」と言っていたリー社長だが、まさかご本人の退任がそのびっくりすることの、一つではあるまい。

つい最近、PMAでライカM8のフルサイズ化を標榜していたのに、実にびっくりした。ライカジャパンもこうトップが交代されては、業務がしにくいのでは、と心配してしまう。

2008年2月24日 (日)

49Fの窓から

R1146470森タワーの49fの 仕事場の窓の方向は、東を向いている。
東京タワーが眼前である。佃のうちのタワーは汐留カレッタの先に見える。

東向きなので富士山は見えないけど、筑波山は良く見える。富士はどうも俗であって、風呂屋のようだから、筑波山の方が良い。このあたりは「霊界異聞」にもその地名が良く登場する自分には懐かしい地名である。

仕事場に到着すると、すぐ仕事にとりかかるが、ヘリが飛行しているとそれを双眼鏡でおっかけないと、気がすまない。
タワーの脇にアメリカ軍の灰色のヘリが離着陸するのは、よく見える。双眼鏡で観察すると、パイロットの顔まで見える。アメリカの軍用ヘリは、ベトナム戦争を思い出すので、嫌いだ。

今朝は、東京消防庁のレスキューヘリの赤い機体が、上空で停止している。このパイロットの腕はたしかで、まさに空中に画鋲で止めたように浮かんでいるのである。
昔なら、さしずめ役の行者の空中飛行というところだ。
それをR8に、スイスはケルンの8x30のアイピースをくっつけて撮影したのが、この画像である。

あまり長い時間、空中に停止しているので、何かな、と思って下を見たら、はるか先の方のタワーの上に別の東京消防庁のレスキューヘリが救難訓練かなにかをしている。
そのすぐ、北の方の空域で視認した高度は、自分の居る49階と同じ位の高度で、白いセスナが旋回している。
そこに今度は警視庁の青いヘリも登場した。

百花繚乱。

なにか、足穂の言う、戦前のシガレットの缶の「エアシップ」はかくもあろうか、という華麗な空中ショーである。

その白いセスナはなんども旋回して、その経路は向かいの東京ミッドタウンで隠れてしまって、また登場する。なんどかの旋回の後、ミッドタウンから出てこないので、これは墜落したのでは、と余計な気をつかった。

自分のライフは何時も失速寸前なのに、他者に余計な気を使うのが、自分の欠点だ。

東京消防庁のヘリの真っ赤に白いストライプのデザインは、一目でそれと理解でき、分り易くて悪くない。そんなことを思い出したのは、このデザインを担当した某社のデザインセンターのトップを自分は知っているからである。

その人の話では、これは我々、仕事上のプレゼンの常套のやりかたなのであるが、なんでも3案を提出して、その「捨てコマ」で、まさかこれを消防庁の偉い人が選ぶことはあるまいと、思っていたのがどうも本命に選択されてしまったらしい。
本人は「だーっ」と、なってしまったそうだが、思えば、工業デザインとかの困難さはそこに存在する。

デザイナーの先を行った発想よりも、一般人がどう思うか、その反応の方が重視される所以である。

あまり対空監視をしていても、仕事にならないので、これより執筆。

2008年2月23日 (土)

バチエロンとローライの関係が分らん

R1146376 アメックスのプラチナ会員用に送ってくる機関誌がある。タイトルは他のそういう手の機関誌と同様なのでそのタイトルが思い出せないが、年間10万円の会費だから、印刷の紙だけは良い。
同様の機関誌にダイナーズの機関誌がある。その最新号が「カメラ特集」なので、滅多にそういう雑誌は見ないのだけど(たいていは積んだまま、ゴミ箱)それを開いてかなり驚いた。
主力の一眼レフ(当然デジタルの)の各種が1頁が1人のカメラマンで構成されているが、それはそれぞれのカメラマンの業界の仲良し仲悪し関係として見ると面白いのだが、そこにライカがからんでくる。

その中でライカの説明がかなり「不充分」なので、これは「現代詩」として楽しめた。評価できるのは、ライカM3に割と最近のブラックのバレルの50ミリレンズが
付いていること。この組み合わせはかなり上級なので、昔のフリードランダーとか、古屋誠一を思い出した。

そのライカ特集(というより1頁の)の中に、M8があるのは仕方ないとして、ライカMPの(最近の同じ名前のMP)紹介があって、「プロ写真家が使用、、」とあったのは、これは年代特定がめちゃである。

1950年代の終わりの、元祖のライカMPなら、それは当時のスーパースターであったライフの写真家とか、アインシュタイン博士が使ったかも知れないが、この前の「あの写真部」(福田和也組)の観察でも分る通り、最新モデルのMPを使うのは趣味良き「好事家」(あの写真部の会計担当の藤原さんみたいな)だけである。
そういう方向あっちこっちの小特集にその制作プロダクションの名前を掲載するのも偉いと思う。

今月はだいなーずと、アメックスで両方、カメラネタで楽しめるのであるが、アメックスの方のこれはバチエロンコンスタンチンの広告で、実に不思議な体験をした。
それはこのような内容で、これを見ると、バチエロンはやはり大人の顔をしたウオッチであって、こういう顔の前には、ロレックスなど顔色なしだ。
まるでタイメックスみたいなデザイン(言い方が本末転倒だが)である。いつかは、バチエロンだな。

大昔、まだ存在した京セラの広告の仕事で、独逸に行った時、時計好きのデイレクターがミュンヘンの時計屋にピンクゴールドのバチエロンを発見してしまい、その店があいにくとカードがだめだったので、あたしのアメックスのカードの限度いっぱいにキャッシュをひねくり出して、それをそのデイレクターに貸したことを思い出した。あれはまだ独逸マルクの時代だった。

そのアメックスの機関誌の広告のコピーは、1929年に最初のローライのTLRが登場したとき、バチエロンはすでに170何年か経過していた、というのである。

これでは比較広告にもならない。大体、二眼レフとウオッチを時間軸で比較するというのは、超現実主義というほかはない。

1960年代の広告に、広告主の製品の背後にライカM2のブラック仕上げが入っていて、あれはミネラル水の広告であったが、なにか「活躍するフォトジャーナリストの清涼剤」という希求があって、あれは実に良い感じだった。

この不思議な広告のコンセプトを聞いてみたいものだ。
逆に、ローライをみると、これはまだ120フィルムで正方形の画面を撮影することが出来なかった時代の、6枚撮りの変則フィルムを使用するモデルなのである。
テッサーのf4、5の付いているのが渋い。
そのローライは、革製のネックストラップが変な具合に引きちぎられているまま撮影しているのも、許せない。

手前のウオッチは現行モデルであるから、それを1929年製のローライオリジナルと比較するのも実に変である。

第一、ローライフレックス社などという会社は存在しない。
フランケ ウント ハイデッケ社である。これはローライに恨みをもつ、メーカーの、これは意見広告か?

2008年2月22日 (金)

朝、六本木駅で

Kei_techo01 毎朝、六本木駅で「楽しみにしているイヴェント」が2件ある。
ひとつは、以前にも書いた、東京メトロの遅延のおわびの掲示板である。これを「電光ニュース」というのは、自分のようなじじいの言い草であって、今はもっとモダンンな名称があるのであろうが、それは知らない。

もうひとつは、私服ポリスによる、「外国人狩り」である。自分は旧西ベルリンの国境、つまり東側から西側に入る、フリードリッッヒストラーセで私服ポリスに(これは西側の)職質を受けたり、外国ではお巡りさんとの「おつきあい」が多かったが、日本ではそれがない。

でも、自分の経験によれば、警戒中の私服ポリスはその身なりと、改札に立っている時の目配りと、こっちから見た「挙動不審」とで、遠方から見てそれとすぐに分るものだ。
今朝は自分の前を歩行していた、東洋人のカップルが職質を受けた。大体、そういう状態になってまずい人種は、そういうチエックのある、朝の駅には降りないものであるから、自分の前の外国人もそのままスルーしたと思う。

私服のポリスを見ていて、もう少し、かっこ良くやってもらいたいのは、彼らのポリスバッチの見せ方だ。
数年前から、警察手帳は新しくなって、顔写真とポリスバッチが一緒になった新デザインのようである。
向こうの私服のポリスは、それを自分の顔の高さに示す。これは顔写真とそのホルダーが同一人物であるということを示すアクションなのである。

今朝の私服ポリスは、男性の3人組であったが、ポリスバッチをはっきりと見せていない。これはまずい。なにか、蚤の市で「やばい品物」を売っている人みたいな、見せ方なのである。

汝のポリスバッチを高く掲げよ!
と、言いたい。

彼らの行動で、評価できる唯一の良いポイントは、その警察手帳の取り出す速さである。自分のGRD2を尻のポケットから出す、その俊足とこれは良い勝負であった。
これは評価できる点だ。

2008年2月21日 (木)

アクセス御礼

KCチョートクカメラ日記ご愛読者さま

何時も、KCチョートクカメラ日記をご愛読ありがとうございます。

おかげさまで、昨日2月20日は、一日の総アクセス数は4,259に達しました。
これも、皆様のご愛顧の賜物です。
今後ともよろしくお願いいたします。

田中長徳

★画像は昨年の10月のプラハ。SUDEKもよく通ったプラハ南郊。オーストリア帝国時代のクラシックな高架線は今も現役です。
カメラはR7

追記。昨日、2月21日のアクセス数は4,668でした。

ありがとうございます。

R1142173

年一回の帝国ホテル

Epsn2671 家人の音楽関係の集まりで、美鈴会というのがある。あるいはあった、と書くべきであろう。
これは家人の出身地の新潟の音楽の先生が、実家の向いの柴田先生というのであって、戦前のお医者様の奥様として、ベルリンに留学している。当時のことだから、行きと帰りは一方はシベリア鉄道なら、もう一方は郵船のなんとか丸であったことであろう。

以前、その柴田先生がベルリン留学時代のアパートメントの住所を示して、その場所が現存するかどうか確認してほしいと依頼されたこともあった。

柴田先生はかなり前に高齢で亡くなられたが、そのお嬢さんとかお弟子さんとかが、年一回、帝国ホテルのなだ万で、食事して往時の話題に花を咲かせ、それから、上で茶話会をするのである。

以前、ウイーン時代に年一回の滞在ヴィザの更新とというのが、あっという間にめぐってきて、その時間経過に驚いたことがある。この年一の美鈴会も、それと同じですぐに回ってくる。

家人が戻ってきて、どうだった、と聞いたら、なだ万には1年ぶりに行ったら、ベテランのスタッフは居なくなって、その代わりに若いスタッフに総入れ替えになったこと。内装が奇麗になったことをあげていた。

人件費も年寄りになると金がかかるから、使う方は安くて若い労働力が良いのに決まっている。

それと、帝国ホテルのカフェの今までの、紙ナプキンが布のナプキンになっていたそうだ。これは多少高くなっても、布のナプキンが良いのは言うまでもない。

帝国ホテルの常連の老紳士が、いつだったか、支配人を呼んでそのことにクレームをつけていた。こういうクレームは帝国ホテルに何十年も通う上客を演じないと出来るものではないが、いいことだと思った。

その紳士のクレームが効いたかどうかは分らないけど、巴里の安レストらンではないのだから、紙はやめた方が良い。

いくら、サービスが良くて、料理がよくても、紙ナプキンを使うレストランは、そういうクラスのレストラン以上に存在することが出来ない。これは日本語のミシュランガイドよりも確かなことだ。

さて、カメラの「クラス」の場合、この紙ナプキンに相当するのと、布のナプキンに相当するのとの区別はどこにあるのであろう。

フルサイズのデジカメが布のナプキンで、コンパクトデジカメは紙のナプキンというわけでもなさそうだ。

いっそのこと、デジカメはファーストフードだから、サイズに関係なく、全部が紙であり、ライカのような(ただしM8は入れない)フィルムカメラは布ナプキンであると区別すると、理解がしやすい。

上の画像は、エプソンRD-1s スーパーロッコール50ミリf1,8
横浜の日本郵船歴史博物館にて

2008年2月20日 (水)

本日よりキャプリオR8の運用開始

R1146314

GRデジタルワークショップ 2 (2) (エイムック 1483)

      

買ったきっかけ:
買ったのではなく、書いたきっかけは
えい出版の清水編集長のすすめによる。
売れない本は出さないわけで、おかげさまで、シリーズの1は売れているのである。
これは二匹目のどせうである。

感想:
シリーズ1より、自由自在に書いた。
作例も自由にやった。
GRD2のトップの口絵は、モノクロの北区滝野川。

おすすめポイント:

本書はGRD倶楽部の会員パスポートである。

「佃1丁目ーー六本木6丁目」というカラー口絵は、通勤路を撮影した。1月2日のヒルズへの初出勤の時の撮影である。
日本の現代の東京の不思議な風景のコントラストに吃驚した。

下の評価は本音です!ほんね。

GRデジタルワークショップ 2 (2) (エイムック 1483)

著者:田中 長徳

2月20日14時57分現在

Amazon.co.jp ランキング: 本で294位

23時55分現在

Amazon.co.jp ランキング: 本で276位

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以上は新刊のご紹介。

さて、タイトルの解題。

R8と言っても、ライカR8ではない。
キャプリオR8である。
本日より運用開始。

本日、発売のえい出版の「GRD2ワークショップ・田中長徳指南!」では、間に合わなかったが(新製品の紹介だけはぎりぎりに間に合った)R8を本日より、GRD2のサブとして使用する。

もっとも、目下仕事中の「日本郵船氷川丸」の1008ページ本の撮影ではかなりのショットをR7で撮影していた。
メーンはGRD2、それとカメラマンらしい気分を味わう時には、ソニーのα700を使用したが、ズームレンズ付きのデジタル一眼レフはポケットに入らない。
R7とか、その後のモデルのR8は、尻のポケットに入る。

これはコンパクトデジカメの一大長所である。
発売中の「GRD2ワークショップ」では、作例ではGRD2での撮影のほかに、R7でプラハを撮影したのをかなり掲載している。

高倍率ズームだから、広角側では当然「歪み」があるわけであるが、ここで面白いことを発見した。
本に印刷されると、紙はもともと平面ではなく、製本の綴じがあるから、やや曲面になっている。これが打ち消し効果を生じて、レンズの歪みなどはほとんど気にならないわけだ。

R8はあくまでサブカメラであるが、GRD2がポケットに入っていない時には、これ一台となる。
すなわち、メーンカメラである。

万年筆を買う

R1146286 いろいろな場所で、「うちは昔は万年筆屋だった」と書いた。そのおかげで万年筆のムックの対談に呼ばれたり、万年筆の質問を受けたりすることがある。

ところが「僕はバナナ屋の息子だった」というのが、バナナに関してよりも写真家として成功しているのと同じく、「僕は万年筆屋の孫だった」というのはその商品知識に関してはかなり怪しいところがある。

にわか造りの工場で、雇い人が数人いて、夜業で轆轤掛けをして、そこらはエボナイトの切削くずでいっぱいだったこととか、在庫が余剰になった金色のキャップを何十個もおもちゃにもらって、それを半ズボンのバンドに刺すとそれが兵士の弾帯のように見えるので、それが自慢で、そのまま銭湯に行った小学生時代のことは記憶に残っている。
しかも、少年の自分が最初に聞いた大人の言葉が「ふわたりてがた」であったとなっては、そのクラスも知れている。

紺屋の白袴ではないが、万年筆屋の万年筆嫌いというので、自社製の万年筆は使ったことは一度もない。もっともそれなりの製品(スプリング万年筆と言った)であったようで、一応、日本橋の百貨店などには自社ブランドでウインドウを出していた。

ペン先は曲がっていて、逆さまにペンを持つと「太字」が書けた。
また、軸にスプリングが仕込んであり、インキ壷にペン先を押し付ける動作を繰り返すことで、インキが注入できた。
そういうすべての商品とかポスターが散逸してしまったのは、実に残念である。

万年筆は、自分では2本持っていた。それは同じ型番のラミーであって、1本はえい出版から、趣味の文房具とか言う名前入りのをもらった。これは太字だ。
もう一本は、リコーがgx100かなにかを出した時に、プロモーションで出したもので、これはやや細い字が書ける。
このリコーブランドのラミーは昨年の秋に、プラハで知り合いのジャーナリストに所望されて譲った。
もと共産国のジャーナリストというのは、嫌みなもので、各国のメジャーの会社のマークのついた文房具をコレクションしているのだという。
なにも、そのジャーナリストを批判するつもりは毛頭ない。彼の責任で、社会主義になったわけではないからだ。

もう一本のえい出版の方は、昨年の大晦日に氷川丸の中に忘れて来たのである。氷川丸の金谷船長がそれを保管してくれているので、次回に氷川丸を撮影に行った時にピックアップするつもりだが、目下、1本の万年筆も持っていないのである。

さっき、今度出す(3月11日)のアスキー出版の新書「カメラは知的な遊びなのだ。」の初稿を戻した。これは赤のボールペンが必須だ。
目下の日常では、万年筆の出番はない。万年筆が必要なのは、moleskinのノートにスケッチをする時である。これはボールペンではうまく行かない。
しかし、目下、外国にいるのではないから、万年筆でスケッチをする時間のゆとりがない。
それで万年筆が無くても困らないわけだ。

ライブラリオフィスメンバーのKさんから、真新しいペリカンの万年筆を見せてもらった。誕生日の記念に新調したものだという。
ペリカンはいい。
自分もそのペン先を見ているうちに、一本、いいのが欲しくなった。

2008年2月19日 (火)

cafeを忘れてしまった

02240005 プラハから戻ってあしかけ5か月である。本当は1月に2週間ほど行く予定であったのが、仕事のシフトの関係で止めになった。
その事はかまわないのだが、東京での欠落感は、カフェに行っていないことであることに、気がついた。
カフェは喫茶店でないから、ドトールとかスタバでは代用にならない。欧州のカフェは生活の基盤である。
ウイーンなどは、昔から住宅事情が悪かったから、暖房費を節約するためにカフェで仕事をする物書きも沢山いた。
事実、自分などもその一人であった。行き着けは旧市街の1区にある、このカフェ、つまりhawelkaである。

1947年の創業だから、自分と同じ年なのである。一区のグラーベン通りの銃砲店の脇を入って、キャバレーカサノバの隣。火曜は休みだった。
開店時間も閉店時間も知らない。というのは、自分のウイーン時代、7年と半年の間に、早朝でも深夜でもカフェは開いていたからだ。

そこのゲストブックは凄くて、歴史上の(ただし1947年以降の)ウイーンの歴々たるアーチストで埋め尽くされていた。
ドアを押して、店の左側の壁際の3番目のテーブルに座るのが何時もの自分だった。店主のhawellaさんが来て、短い挨拶の後に、頭上のランプを点灯してくれる。
それから、入り口近辺のテーブル上の各種新聞をあさるのである。
新聞はこのような感じで、木製とうのか藤を編んだような新聞ホルダーに入っている。巨大な布団叩きのようなものであるが、案外に操作はし易い。
片手で珈琲カップを保持して片手で新聞を読むという、ウイーンのカフェ独特の離れ技はこれで無いと不可能である。

大抵はクライネブラウネ(小さいミルク入り珈琲)を注文した。
小さいカップと水のコップが銀の盆に乗って登場する。この水がサーブされるというのが、ウイーンのカフェの自慢であった。

まずは1時間半はそこで新聞読んだり、人に会ったり、メモをとったり漫然と周囲を観察したりする。
2時間を経過して、そろそろ、そこから徒歩で5分の場所にある、1683年からそこにある、エステルハーツイケラーという地下の酒場の開店時間になる。
それで、そこに移動する。

ここはかつてスナップ名人、木村伊兵衛さんが撮影した、有名な酒場だ。常の1/4リッターのガラスのジョッキでサーブされる。ここのワインはアイゼンシュタットの辛口。外から食い物は持参して良いので、日本料理でワインを飲ったこともあった。

これがウイーンの日常だった。常に携帯していたのは、戦前のライカか、ソ連製のコンタックス。フィルムは映画用の期限切れのモノクロ。
そのワイン酒場に類する店は日本にも存在するが、ウイーンのカフェに相当する店というはない。
どうも日本のカフェは単なる珈琲の飲み場であるか、さもなければお洒落な会合場というものはあるが、生活と二重になるようなカフェはない。

まあ、今更そんなことを言っても仕方ないので、時間を見繕ってウイーンとかプラハのカフェに行くまでのことである。

2008年2月18日 (月)

キヤノン2bとDAHAFLEX

R1145888 ほぼ、正確に4年ほどの周期をもって、キヤノンの旧型のレンジファインダーが自分の中で沸騰している。
今年はうるう年なので、やはり旧型キヤノンが頭上に登ってきた。
それは4SBでも2Dでもなく、その前のまだメイドインオキュパイドジャパン時代のキヤノンである。その当時のキヤノンはその造りが実に素晴らしい。

その金属の質量が重いのだ。しっかりした造りというだけではない。
変な言い方であるが、カメラの重さが金属の重さではなく、その中に「思想」が込められていて、思想に重さがあるのかないのかは知らないが、それが思想であるのなら、これは確かにその重さがそこに実在しているという感じがする。

そのずっしり感覚というのが、これはどうも占領国時代に生産されたカメラの一大特徴と感じられる。

ダハフレックスというのは、サードパーテイ製のファインダーの背部につけて、正像を見る仕掛けのアクセサリーである。
かなり以前に東京のカメラ店で買った。銘は入っていない。これも占領下に作られて製品独特の手造り感覚があって、ずっしりと重い。

アクセサリーシューの上に固定して、普通に使うときには、脇に寄せられるようにヒンジがついているなかなかに便利なデバイスである。
しかもその像はハイアイポイントになっている。別にこれを使って撮影をするというわけでもないけど、キヤノンのカメラの上から覗いてそこに左右正像を観察するのは、古い合わせ鏡を覗くような感じだ。
こういう気分を占領国下の気分というのであろうか。

レンズには50ミリF1,5が付いている。これは講和条約以降のレンズである。正しくはセレナー50ミリF1,9だ。この占領下レンズには絞りの小さい方はF11までしかない。
これは大昔のゾナー50ミリF1,5の真似なのだ。そのレンズの描写がまた良い。キヤノンが実に精機光学の時代だった。


R1145893

2008年2月17日 (日)

en-taxi東京大周遊@旧滝野川区

R1146143 金曜日。
en-taxiの次号の為の撮影行。
同行者は福田和也さん、佐藤和歌子(間取りスト)さん、鵠沼のブレッソンこと佐々木潤一さん、カメラマンの桑嶋さん、en-taxi副編集長の田中陽子さん。
例のごとく、この人員で集合するとかなり怪しい。
その怪しさを中和してくれるのが、カメラマンの桑嶋さんのスタイルだ。ここらの事情は今描いてしまうとネタばれになるので、次号のえんたくで書こう。

例によって、東京市滝野川区をあっちこっちと徘徊する。
残念なのが、好天であったことだ。自分は粉雪まじりの曇天のモノクロームの画面を期待していたのだけど、物事は思い通りには行かないものだ。
つまり、命がけの「撮影の千日廻峰行」が、あと一歩踏み間違うと単なる中高年の愉しい下町カメラサンボに堕落してしまうところだった。
あぶない、あぶない。

例の如く、福田和也さんのカメラとレンズの選択はカメラ南坊録にふさわしい。レンズはトプコン通りに行くので、トプコール50ミリf1,9、しかもフィルターが外れないという名物である。カメラ本体はわざとヘキサーRFでここらがかねわりの極意だな。

子規が友人知人を招くのに、「水仙を古樽に投げ入れよ」と家人に指示して、古樽なしと言われて、「ならば水仙は全部取りのけて、雛をまつれ」と指示したのを思いだした。
カメラ選びはまさに台子飾りである。

そうそう、数日前の(月曜の)東京大周遊@本郷で、tohnetの利根川さんのカメラはライカM4のブラックであって、M6ではなかったとご本人からクレームが来た由。ここに訂正しておく。

撮影の実際は「中略」。

午後5時、まだ明るい空のもと、「痴漢もでないトプコン通り」の脇の戦前の混擬土(コンクリート)の塀の脇を通り、「楠」に至る。
閑談。
午後6時45分。食い違い小路の闇を抜けて、中山道の「浜出屋」。
30年も行っているが、大抵は一人酒。6人で行くとまずメモに注文を書いて渡すことになる。初めてなので緊張した。

オンラインでモノを注文するのには馴れているのに、緊張したのは、手描きのせいである。自分の手描きは自分でも何が書いてあるか、分からない。そこからインスピレーションが沸くのであるが、これは「連座」であるから、内容が分からないと困る。
しっかりボールペンを握った。

はつ6本
たん6本
れば6本
とり6本

しばらくして届いた皿の上を見て、しまった!
と、思った。こってりとたれの中につかった串である。
「しお」と書き加えなかったのである。
30年来、いつもしおであった。
まあ、それはそれでまったく別の店にいるような感慨がある。

修ちゃんの居ないのは、ちょっと店の奥に引っ込んでいるという風に理解した。
宇宙の時間スケールからすれば、3分、店の中に引っ込んでいるのも、3億年も同じことであるから。

福田さんは、石原知事と立川家元をはちまき岡田で座談会を開催したとき、どちらを床の間の前にご案内するかで迷って、結局、床の間のない部屋にしたという話をした。

いっそのこと、人数分の床の間のある部屋を作ったらどうでしょうか。と、自分はつまらないあいずちをうった。

間違えて頼んだ、浜出屋のたれのやきとりはそれなりに美味。

2008年2月16日 (土)

ジョブズとマックエアと大谷和利さん

R1146051 R1146054 「i Pod をつくった男」(アスキー新書)を出した大谷和利さんが、ヒルズに見えた。アスキー新書の編集部の本多いずみさんと一緒に見えた。

大谷さんとは10年ぶり以上である。デジタルカメラマガジン創刊前後に大谷さんが同誌の企画で、ライカM3にデジカメを組み込んだカメラを制作した。
それを偽ライカ同盟展(新宿のマップカメラ)で展示させていただいたこともある。
80万画素程度のデジカメをM3のボデイの中に埋め込んだのである。

今にして思うと実に不思議なことだが、当時はこの程度のスペースにデジカメを実装するのも困難な時代だった。それで、このur Leica M8の場合、撮影レンズは一見ファインダーに見える部分(アクセサリーシューに付けるファインダー)で画像を撮影するようになっている。
これを大谷さんが制作したのである。

10年ぶりの大谷さんは、最新鋭のPowerBook Airを持参して見せてくれた。確かにマニラ封筒に入る薄さである。これで価格20万というのだから、PowerBookも安くなり、かつ高性能になった。大谷さんの話では、ベンチマークでは初代のマックブックよりもやや速いという。

自分の場合、マックブックはなにかヨックモックみたいで使いたくないのと、インテルインサイドというのが機に食わないので、まず買わないであろうが、その薄さには驚く他はない。

大谷さんは他に、360度を全周分割して撮影する新型カメラのプロトタイプを見せてくれた。これにはキヤノンのコンパクトカメラがマウントされていたが、シャッターをレリースする箇所は機械的だから、GRDなどでも使えそうだ。

エアバス380の発表会の画像で、(まだエアバス社のHPで見ることができる)発表会の全部の環境をパノラマで撮影したショットがあって、これはどのように撮影したのであろうか、と気になったものだが、案外なことだった。

アスキー出版の本多さんから、今度出す、「カメラは知的な遊びなのだ」に使用する作例のラフを見せられる。案外に作例然としていないセレクションなのが気に入った。これは3月の出版である。

2008年2月15日 (金)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

デジタル一眼レフのリアルビューファインダー的な装置は必須か?

先月の17日は坂崎幸之助さんと暗室同盟を土浦でやっていたので、ソニーの内覧会には出席の返事を出したのだけど、結局ゆけなかった。周囲のメカライターさんに知り合いはいないから、いったい何が出ましたかと、聞くまでもない。

それで後日、公式発表になったデジタル一眼レフに「リアルビューが可能な機種」が登場した。ソニーとしては、α700で「リアルビューが搭載されない」というあせりがあってか、次期の機種に搭載したのであろうが、実はプロ連中の意見を聞くと「リアルビュー?必要ありませんね」が大半の反応なのである。

ようするに純粋な業務用には無用なエンターテイメント的なファインダーの表示要素である。リアルタイムでモチーフをとらえるのなら、エプソンとかM8のようなRF系の方が実際には使いやすい。

リアルビューというのは、もともと映画のコマーシャルの世界などで、周囲に集まっている、金主を納得させるために、35ミリのアリフレックスからファインダー画像を抜き出して、これをモニターで観察させるようになったのがその最初である。

ようするに、「船頭が多くなり過ぎて、なかなか船の進行が決まらない」のがリアルビューシステムだ。

アマチュアさんは、この「画期的な道具」で、「構図について深く思いを致す」ようなことになると、またもや写真をリアルに撮影するという、撮影の楽しみを奪ってはしまわないか。

かつて、アルルの写真祭りで巨匠奈良原一高さんは、ゴッホもモチーフにした跳ね橋の前で、アングルで1時間も考えたという伝説がある。

これは銀塩時代のしかも世界的巨匠の行跡だからよいのであって、定年後の楽しみにデジカメをもったわが同世代が名所旧跡の前でリアルビューで、構図を考えだしたらそれこそ悲劇である。

一眼レフファインダーはすでに理想のファインダーなのだから、それ以上、構図に関して考えているひまに、もっとたくさん撮影をしなさい、と申し上げたい。

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★銀塩クラシックカメラ

メイドインオキュパイドジャパンの刻印のあるカメラ

世界にはいろいろなコレクターがいる。その中にメイドインオキュパイドジャパンモノを収集している人種もいる。その中でカメラのオキュパイドものを収集しているのがほかならぬ自分である。

占領下日本の刻印のあるカメラは1950年の講和条約以前の製作であるわけで、はるかに過去の時代の産物のように思える。

ところが、その当時の製品を手にとってみると、これは何と言えばよいのか、カメラとかレンズに「気」が存在するのならそういうオキュパイドものには、そのカメラとかレンズの「気」が充満しているように感じるのは不思議なことだ。

ようするに機械としてのマニアックな魅力に満ちているのだ。現代のデジカメのデザインの将来が見えない時代に、案外、この占領時代のカメラのデザインはヒントになりそうである。

占領国日本の刻印を製品に刻印することは、メーカーにしてみれば、一種の恥であったのは確かで、それぞれに工夫がなされている。当時のニッコールレンズのある種のものはレンズの裏側の反射防止の塗料の上に目立たないように刻印されている。

またキヤノンのセレナーレンズなどは、本体には TOKYOとあるだけで、オキュパイドの刻印はなんと、レンズのリアキャップに打ってある。

最近、手にしたキヤノン2Bは、その刻印は本体の下部に実にニートな感覚で打ってある。それがキヤノン2Bの後期は独立国になってからだから、普通にメイドインジャパンでである。

気のせいであるのは知っているけど、なにか占領国日本の刻印のあるカメラの方がその精密感覚があふれているように思える。

東京が堆積してゆく

R1146032R1146038 R1146046 水曜日。

どうも月曜が連休のラストで、火曜がその週のスタートだと曜日に混乱がおきるようである。

仕事のことではない。火曜は山谷の大林が休みで、水曜は隅田川の東の某酒亭が休みというように、自分の頭脳には酒場の休み注意のカレンダーが存在するのであるが、その日付が狂ってしまうという意味だ。

昨年の10月の欧州行き以来、ちょっとしたストレスになっているのが、「東京が降り積もってその中に自分が堆積して行く」という被害妄想である。

大体、2月か3月に一度、向こうに行っている場合は普通なのであるが、最近では多忙のために「欧州で息をつく」ということがない。

東京の生活というのは息をしないで、水中にいるようなもので、これはあまり体にはよくないであろう。だからプラハを歩行していると、自分の呼吸の音が分るし、その呼吸が深くなっていることもわかる。

1月は10日からプラハに呼吸をしに行く予定であったが、それは止めになった。向こうで仕事は普通にできるのだけど、時差があとあとまで残る自分にしてみると、東京に戻ったあとに社会復帰できないのがつらい。

それで6月まではプラハ行きはなしである。

そう思うと、まだ5か月もあるからその間にどのように日々を暮して行ったらよいのか皆目見当がつかない。

思考を変換して、時系列順に仕事を書き出す。ただし連載などは入っていない。

GDR2ワークショップ(えい出版)

岩波写真文庫田中長徳セレクション(岩波書店)

「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)

東京大周遊ほか(en-taxi)

日本郵船氷川丸(東京きらら社)

タイトル未定の新書(筑摩書房)

ローライ二眼レフワークショップ(えい出版)

女子ライカ部(東京きらら社)

500ページのモノクロ「トウキョウの写真集」(東京きらら社)

プラハのモノクロ写真集(某書肆)

ほかにも大事なのがあるかも知れないが、思い出せない。

カメラと写真の方向はだいぶ固まったようである。つまり銀塩は暗室で、収斂させ、デジタルはオンラインで拡散させるという方向だ。

ようするに時間意識の問題なのだ。時間をどうマネージメントするかというのは、現代の写真人にとって重大な問題である。

デジタル以前の大写真家はその意味で、モノクロの銀塩だけを相手にしていればよかった。往年のウエストン、フランク、アベドン、ブレッソン、アダムスなどなど彼らに一様にある種のゆとりの表情が見られるのは、あれは時間のゆとりなのである。

画像の丸いのは、シュタイナーM22に代わって、ケルン(スイス)の軍用8x30をGRD2に押し当てて撮影。

双眼鏡は海軍は7x50で陸軍は8x30が標準である。船の上に置いておくのと、常に移動するのとでは、その重さとサイズが異なるのは当然だ。

カメラマンを「歩兵」に例えるなら、やはりデジカメは一眼レフではなく、コンパクトの方が「白兵戦」では有利であるのはいうまでもない。

2008年2月14日 (木)

例の写真部@本郷ラビリンス

R1145900 月曜のはなし。

例の「写真部」が本郷で東京大周遊大撮影会、ならびに日本路地裏学会本郷調査をするというので、その同行取材をした。実際、写真部だけというのは、ほかと区別がつかなくて、面倒であるから、ここでは便宜上「例の写真部」ということにしておく。

午後1時半にかねやすまでは江戸のうちの前で集合。当時のご朱引き線の限界、こっから先は異界である。

運よく、かねやすのシャッターが閉まっていたので、そこで写真部全員を並べて記念撮影をした。

なにか銃殺される直前のパルチザン小隊という格好である。

それから、一応、自分がナビ役になったので、全員を本郷ラビリンスに引率して行く。

持参のカメラは福田さんがはっせるSWC,間取りストは、おじいさんの遺品の馬宮六型、円タクの田中さんはヘキサー。藤原会計担当は、ライカMPにライカビット付き(ただし1956年製造ではなく、今のやつ)。利根川さんと瀬尾さんはライカM6かなにかだったが忘れた。雑司ヶ谷の石丸消防団員は、オートボーイであった。

こういう布陣になると、おじいちゃんからもらった間宮六とか、誰かからもらったオートボーイが、ほかの100万円カメラを圧するような、中古カメラの下剋上が起きる。それが面白い。

本郷セッションが90分。それから建国記念スペシャルというので、佐竹商店街の裏の方面、日章旗はためく裏町の大撮影会。

さらに反省会を4本。順路は以下の通り。

昭和通りの蕎麦屋=JR高架下の三〇〇円均一の飲み屋=広小路のデリー=銀座の高級バーTOHNET。

還暦じじいの自分は10時をきりにして、歩いて先に佃に戻ったが、あのあとにはどっかのジュージュー焼きとかのオプションがまだまだあったのであろう。

恐ろしい集団である。

間取りストを中心に談論活発で大変な怪気炎であった。まあ、こういうのが新時代のカメラクラブなのであろう。というのは本来ならば、ここは福田先生が写真部の代表、組長、胴元、総統、主将、かつ重鎮というわけだが、ここでは全員がイコールの代表権を持っている。これはスイスのランデスタークか。

しかも向上心など最初からない。向上心は酒の梯子乗りだけ。ここがえらいところだ。

昨日の参加メンバーで唯一向上心のあるのは、市丸消防団員であって「写真部で写真展やりましょう!」というおやじ発想だ。

なにしろ、石丸消防団は、朝の6時半から雑司ヶ谷霊園ラジオ体操部で毎日やっているのである。

このラジオ体操という奇怪な国民運動は、人間が昇天するまでの、つまり、日々の生活から霊園に到着するまでの残りの人生の暫定時間をいかに延長するかという韜晦な趣旨で開始されたもののわけで、そういう運動がその終着点である雑司ヶ谷霊園で開催されるということそのものが、実にシュールな存在である。ブルトンもツアラも辻潤もこの運動にはかなうまい。そのミスマッチな語感も実によい。

間取りストは、なんでも高校が土門拳ゆかりの高校というので、酒田あたりかとおもいきや、横浜の反町方面だという。浅田恵理子んちの近くである。そこに土門が一時住んでいたとか、そこで苦労したとかいうので、土門ゆかりの高校ということらしい。

こういうのは、姑息な一村一品運動のような感じがして、その「せこさ」がよい感じだ。

なにか、丸山薫が一時、どっかの北国の代用教員であった関係で、そこに記念館ができるのと同様な次第だ。弘法大師がそこら中で、錫杖をついたら温泉がわき出したとか、パパヘミングウエイの行き着けのバー(ミシガンではそこら中にこれあった、パパは梯子酒派なのか)と同じ存在である。

さぞかし、土門拳ゆかりの高校だから、写真部が盛んなのであろうと思ったら、なんと間取りストだけの「一人写真部」であると聞いて、二重に驚愕した。こりゃ最大のブラックユーモアだな。

高校写真部に関しては「カメラ悪魔の辞典」(光文社文庫)に詳しく書いてある。

まあ、写真部(訳注*例の写真部ではなく、間取りストの高校の写真部のこと)などは、9人いないとプレーができないということはないので、一人写真部はある意味、理想である。なんでも暗室は六畳を占拠して活動していたそうだ。

毎回の文化祭などは、一度の例外もなく、「個展」なわけで、大したものだ。

2008年2月13日 (水)

ライカ愛好会@六本木

R1145838 日曜のお話。
三連休みの中日に、ライカ愛好会(東急BEのカルチャーセンター)に参集する皆さんは、家族サービスもあるであろうに、実に偉いと思う。
それとも、家族の理解があるとも認識することができる。

日曜の朝からずっとヒルズで、3月に出る「カメラは知的な遊びなのだ。」(この最後に○のつくのが、千円札は拾うな。みたいで気に入っている。無論、自分のつけたタイトルではない。アスキー出版の精鋭のプロの命名だ。

午後1時半にライカ愛好会と下の「蜘蛛のオブジエ」にて集合して、黒川さんのナショナルギャラリーではなく、そのさらに手前のラビリンスにダイビング。
この迷路に入るのは、5年前に「チョートク@六本木ヒルズ」の撮影で徘徊した以来である。これがパレルモのクアトロクアンテイであれば、迷路で完全に方向感覚を失って本物の迷子になれるわけだが、ここでは羅針盤としての森タワーがあるので、その分、楽しみは割り引かれる。

さらに、5年前に存在しなかった、ミッドタウンもあるのでまず路地裏航海はますます安全に、別の言い方をすればつまらなくなったわけなり。

毛利庭園の一部で、庭の石組みの素晴らしい大名庭園あり。それが「六本木西何とか公園」となっているのは興ざめである。

45分で切り上げて、六本木ヒルズクラブの51にて、茶話会。
日曜にここに来たのは初めてであるが、家族連れも多く、どっかの高級ファミレス(そういう場所に行った事が無いので、想像だけど)のようでかなりカジュアルだ。普通の日のような、外人とか外資系の金融関係という人間は見えない。

夕刻、まっすぐに佃に戻る。

これを書いているのは、月曜の朝10時半なり。
今日は午後1時半から、アサヒカメラの4月号関係で福田和也さんらのやっている「写真部」を同行して研究。
カメラによる仲間造りの話題のその一つである。
持参するカメラは、GRD2(これが最も小形軽量)それにスーパーアンギュロン付きのライカM3。ライカに関しては40年前と変わらず。
フィルムはネガカラーを3本。

2008年2月12日 (火)

2月の三連休

R1145870R1145843 土曜は、雪が降りそうで降らない暗い日。
朝、ひさしぶりに魚河岸。まぐろ。それとたいらぎ。またたいらぎの季節になった。

午後2時に野々宮BMWが「飛来」する。それに便乗して、四ッ谷のアローカメラ。アローの2fのがらくた館は撤収準備であるが、頭痛の種は例の1200ミリのニッコールを持ち帰ることだった。これは製造番号を調査したら、二番目にレンズであって、東京オリンピックを取材したレンズであるのは間違いなし。

大昔、吉田大鵬さんが巴里に行っている間に、彼の事務所に忍び込んでアシスタントさんと雑談した。その話によれば撮影中に吉田さんは「おいっ!1200ミリ!」といきなり長い玉を要求するのだそうである。だからアシスタントは常にあの長いレンズを持参していたそうだ。
これなど、実に70年代的な話題だ。
その1200ミリはどっかの校長先生が建てるカメラミュージアムに移籍することになった由。

アローカメラから、サンダーソンとか、マキフレックスのような残品を野々宮ジャガーに積んで、天候の悪い中を品川の松坂屋カメラ。ここでもカメラ遊びをしたが、買い物は野々宮が3000円にて旧タイプのニッコール200ミリを買ったのみ。
お客さん商売とは言え、これほど客単価が安くてはお店もたまったものではなかろう。

都心に戻る。
例の如く、月島の枝村酒店。それから月島のたまや。帰宅。

日曜日のこと。
三連休の中日。朝からヒルズで原稿書き。
午後1時半から、東急BEの「ライカ愛好会」あり。
5年ぶりにヒルズの北側を歩行する。参加者は総勢10名。最初には遅刻者あり。
場所をヒルズのクラブに移して、講座をする。日曜にクラブに来ることはないが、混んでいた。

夕刻からまた49fにて仕事。こっちはほとんど人影なし。仕事はかどる。

佃のライカインコは一昨年の9月より「大産卵計画」の進行にて、今は第8次産卵計画のようだが、今朝は卵がなんと8個になった。家人はライカインコの栄養管理に気を使っているようなり。
これだけの多産系だから「ひいおばあさんは、白色レグホン」なのではと家ではもっぱら噂になっている。

2008年2月11日 (月)

マンレイとの対話

R1145820 マンレイを尊敬していたのは、80年代のZEIT FOTOの石原悦郎さんだ。
彼のギャラリーで、マンレイのモノクロプリントにサインをしたのを見せてもらった。例のあまりにも有名なキキの背部のバイオリンの画像「アングルのバイオリン」であって、マンレイのサインがあった。そのサインはマジックインクのようであって、それが気になったのだが、マンレイはマジックインキと共にあるような、素材には凝らない現代人なのである。

思えば、マンレイは自分が29歳の年まで、つまり1976年までは、生存していたのである。それが不思議だ。もう何世紀も前の人物のような気分になっていた。

ライブラリに「マン・レイとの対話」(銀紙書房)を発見して、ぺらぺら読みをした。その中のインタビューのP131にユイスマン(ス)の「さかしま」のことが出てくる。
マンレイは、それを読んでいないといっている。このくだりが良い。アーチストは松岡正剛ではないのだから、読んでない本はそれで良いのである。

第一、ユイスマンに心酔するマンレイというのは、どうも迫力に欠けるところがある。でもマンレイは「では読んでみるかな」と質問者に答えているのは、大人だな。

マンレイとは、ロバート・キャパと同様な「巴里のアメリカ人」の名前である。そういう中では、非ユダヤ的な名前を使わなかったウイリアム・クラインは偉い。

そのマンレイのレイのアトリエのことが気になって、引っ張り出した23年前のART VIVANの「篠山紀信@マンレイのアトリエ」を見て愕いた。

表紙はジュリエットと篠山さんが(マスクつけて)並んでいる画像なのである。座興と言ってしまえば、それまでであるが四半世紀前なら、こういう冗談も通じたであろうが、すべてが歴史になった今の時点でみると、篠山さんはどうも浮いてしまっている。

やはりkishinはカメラの後ろの人に徹するべきであった。

アトリエにジュリエットと写っているブルーのジャケットにとっくりセーターの青年が誰だか分からなくて良く考えたら、どうも大建築家磯崎さんのようである。

25年という時間は確かに1世紀の四分の一の長さであったことを痛感する。

マンレイのアトリエの細かい部分を見て行くと、そこに四半世紀前の巴里の古い建物(ここはもと厩だったが、厩というのはあっちではアトリエとかバーに使うには一大ステータス)の風呂場とかトイレとか湯沸かし器がまるで、70年代のウイーンの自分の居たアパートみたいだ。

それに壁の漆喰が浮いているのも、実に好ましい。普通の巴里人の生活の表層がそこに浮き出している。
それが非情に懐かしかった。と、同時にまたもや巴里に行きたくなった。

亡くなった桑原甲子雄先生の言うところの「君い、巴里はいいねええ、、」のあの巴里である。

巴里で食えなかったマンレイは、友人知人のアーチストの絵の複写とかポートレートを撮影して、生活していた苦労人でもあった。なにしろシュールレアリストに絶賛されて個展をやったのは良いけど、一点も売れなかったという勲章付きの本物なのである。

日曜大工めいた「下手巧オブジエ」は誰でも作れそうで、そうでないところが良いわけだが、マンレイの持っていた写真機はどれもがらくたである。

やはり写真機はがらくたに限るな。

2008年2月10日 (日)

岩波書店2008年度(上期)主要企画案内

R1145819 金曜の話。
終日、ヒルズ。

12時にリコーの平野さん、F森さん来。
平野さんはこの3月で定年退職という。これからは悠々自適か、、羨望。

思えば、20年近くの昔、リコーのコンパクトカメラのスケルトン仕様が出て、そのことで問い合わせをしたら、その電話の向こう(当時は自分も電話を使っていたことが分かる)で、その電話をとったのが平野さんだった。
運命の出会いというやつだ。

それからリコーさまとのお付き合いが開始されたわけである。リコーには36年とか居られたそうだが、入社当時は電子電卓の頃であった。

自分も1973年に欧州にゆく時に、父親が巨大な電気計算機を持たしてくれた記憶あり。
実に今昔の感に耐えないが、フィルムカメラのR1からGR-1になり、それが今のGRDと継続するわけである。
思えば、昭和40年代には誰もが、今日のデジカメ時代など想像もできなかった。

飛んでもない時代に生きて、それに感謝するのではなく、不平を鳴らしているのだから、実に「罰当たり」な話ではある。

午後、「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書3月刊)の前書きと後書きを書く。
要するに、デジカメは流れ行くカメラ、銀塩はとどまるカメラ。

今のカメラ人類はその為にデジカメと銀塩の両方を持つことで、初めて「健康にして知的な生活が送れる」という、この「カメラのねじれ現象」のことをまえがきに書く。

あとがきには、これからの写真は「第三信号系」の認識が重要であるということを書く。

ヒルズの午後5時は日が長くなった関係で、すばらしい薔薇色の夕景であった。
いつも、朝9時から仕事して午後5時過ぎると、仕事の脂がのってくるので、もう数時間居たいと思うのだが、それは「働き過ぎ」であろうと反省して、佃に戻る。

帰宅したら、岩波書店の桑原さんから、3月5日に発行予定の復刻版岩波写真文庫 田中長徳セレクションを紹介した、冊子が届いていた。

自分のセレクションは、「写真」「レンズ」「本の話」「やきものの町ー瀨戸」
それに「巴里の素顔」の5点である。初版が1950年から56年のものだ。
これが第三期のセレクションであって、最初は赤瀬川原平セレクション、第二期が川本三郎セレクション、そして第三期が自分というわけだ。

その表紙にはなんと特色で「金」が使ってある。なにか日光東照宮とか、昭和50年代の主婦の友の新年号という感じで実にゴージャス。

2008年2月 9日 (土)

en-taxiの為のロケハン@本郷

Rimg0062 木曜の話。
あまりにも、悲しいほどの碧空であるから、そのウルトラマリンの空の下を歩行するつもりにて、ヒルズにはゆかずにローライのMXを持って、本郷3丁目方面。
en-taxiの「福田組」(あるいは、単なる写真部とも言う)の、次号のロケハンというわけでもないが、福田和也さんのメールによると、荷風関係の撮影行で、あっちこっちとロケハンをしているようなのだ。

まあ、フィールドワークを重視する研究者としては当然の話だ。
その逆で思い出したのは、すでにそのお名前を失念した旅行作家さんで、ベルギー政府観光局の招きで(自分もそのプレスツアーの一人だった)ブリュッセルに来ているのに、「自分は資料は充分に用意してあるから、外には出ない」と、現地にいがなら、まったく取材に出なかった先生がいた。

これはインターネット以前の時代であるが、そういう先生は今の時代なら、コピペ、コピペの連続でまったく「実景」を見なくても仕事が出来るわけで、実に大したものである。

本郷を例のごとく、徘徊して120フィルムで3本撮影して、止む。
もっとフィルムを持参すればよかったと、悔いたが、さあここだ。これが新時代の銀塩カメラの使い方であると、考え直した。

それで、カメラはGパンの尻ポケットから取り出したR7に切り替えた。銀塩カメラでの撮影とデジカメでの撮影を同時に進行することに、何の違和感も感じなくなっている自分に吃驚したけど、思えば、この2種類の区分分けというのは、ちょうど車で移動するのと、徒歩で移動するのとの違いのようなものである。
無論、銀塩カメラが徒歩で、デジカメはクルマでの移動という意味だ。

本郷の裏手の例の「見学禁止」の札で有名な3階建ての下宿の前で、R7が例のレンズがにっちもさっちも行かない状態になる。
この事故はよく起きる。もっとも自分の場合は普通の人とは比較にならないほどのショットを撮影するから、その意味で比較にはならないのだけど、大事なシーンでカメラが動かなくなるのはこまる。

ただ、最近、体験からこの対症法が分った。バッテリーを外して5分ほど経過してから、バッテリーを入れると回復する。
それで難を脱したけど、その後、赤門の前でまたスタックする。
またバッテリーを外して回復させる。

なにか漢字トーク7時代のマックみたいである。あの当時は1時間に10回はフリーズしたこともあった。

撮影終了して、ヒルズに来たのは午後1時。
今日はヒルズでも「休息モード」。

2008年2月 8日 (金)

その翌々日のヒルズのゆきだるま

Rimg0044 水曜のお話。
終日、ヒルズ。
朝、一昨日のゆきだるまはどうなったかと、楽しみに行ったがすでにビッグバンにて消滅していた。
しかし、このカットは「ゆきだるまの存在した空間」というので、それなりに写真的であろうと思って撮影した。

仕事。
3月に刊行予定の「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)の、棒ゲラを直す。それを午後に下の郵便局から発送する。

先週の土曜に横浜の郵船歴史博物館のシミュレータの操船に来た、「氷川丸少年」(本当は三十代の青年実業家だが、氷川丸青年では青年海外協力隊みたいなので、ここは散文詩的に、氷川丸少年)と、再会。
歓談。
氷川丸少年は氷川丸の真正面のタワーの上階に棲んでいる。これは凄い。
東京港の飛鳥の場合は、時々、世界のどっかに行ってしまうけど、氷川丸の場合は、山下埠頭にどっかりを腰を据えているから、不在の時はないわけだ。
これは大した利点である。

氷川丸少年の前からの「心配事」は、毎日正午に横浜港で多くの船舶が汽笛を吹鳴するが、その中に氷川丸の汽笛は入っているであろうか、ということであった。
この質問に関しては、昨年の12月21日に、氷川丸甲板上で自分は正午の汽笛を聞いている。その事実を伝えたら、氷川丸少年は納得したようであった。

水曜は午後から空暗く、雪がちらつきだした。
午後5時前にはかなりの雪景色となった。
この分では、またヒルズのカフェの前のゆきだるまは、復活しそうだ。

2008年2月 7日 (木)

その翌日のヒルズのゆきだるま

Rimg0042 Rimg0012 困るのは、一日の時間の短さである。
朝9時に仕事場について、仕事しておひるをたべて、仕事をしてすぐに「退社時間」になってしまう。
一日の生活のリズムを狂わせるのはいやだから「残業」はしない。

第一、残業代などつかない。
この30余年、月給もボーナスもなしで、こうしてまだ生きているのが人生の最大の奇跡と言えないこともない。

周囲のライブラリメンバーさんの仕事ぶり拝見するに、各種のパターンがあるが、まずその中で自分などは一番働いている方である。
優雅な方になると、昼前に来て東洋経済など、ぺらぺらとめくってそれで午後3時には退社である。
こういう人が仕事の生産性が高いのであろう。
一方の自分などは生産性が低いから、長い間、デスクにへばりついている。

内田百鬼園の「東京焼尽」は昭和19年から20年終戦にかけての、百鬼園の「被災日記」である。
内田嘱託は毎日、水曜を除いて丸の内の郵船に通うのであるが、支度の遅い人で、本人が言っているので間違いがないと思うが、その準備に4−5時間が必要である。
それで午後に出社して、夕方に省線電車で帰る。
この繰り返しであるが、郵船に居るのは2時間もないであろう。こういう人が理想の生産性を持っている達人だ。
現代の我々は百鬼園先生に学ぶ必要がある。

午後5時にヒルズを出て、時間があるときには、月島の枝村酒店でいっぱいやって、そのまま買い物をして佃に戻るのが、基本コースだ。

火曜の朝はまたも快晴。ヒルズのカフェの前の、ゆきだるまは前日よりも形が崩れていた。
ゆきだるまの形の「真行草」というのはあるかどうか知らないが、今朝のゆきだるまの形は「行」であろうか。

リコーGRD2ワークショップの色校正をする。途中で足りない分の色稿がバイク急便で49fの受付に届く。それを見ながら作業継続。
えい出版の清水編集長は、全体のカラーの色調をもっと暗くしたいと言う。これには意義はない。

一般に色校正の場合、印刷所は明るく、明るくと校正を出してくる。たとえば、今度の本で、GRD2にワイドコンバージョンレンズを付けて、山下公園とマリンタワーとニューグランドを見開きで撮影した画像がある。

これが校正で出ると、中心にある「NEW GRAND HOTEL」の文字がちゃんと見えている。当然な話で、普通の画像ならこれはホテルを紹介する目的である。
我々が表現したいのは、そうではない。逆光の中の木々のゆらめきとか、噴水のしぶきとか、マリンタワーのシルエットなのだ。

午後になって、東京上空に素晴らしい白い雲が登場する。

@@@@@@

東京、四ッ谷荒木町のアローカメラのHPに連載の「我楽多屋さんで買ったモノ・マガジン」が連載100回を迎えた。

月に一度の連載だから、すでに8年以上になる計算だ。

嬉しい。詳しくは右のリンクをクリック。α700でM42のレンズを使う話。

正岡子規が新聞「日本」に連載の、あれは「病床六尺」だったか「墨汁一滴」であったか、その連載が100に満ちたと、喜んでいるくだりがある。

そのことを思い出した。

今のヒルズで必須なのは、まず双眼鏡(先週の木曜に日本郵船の講演会で、それを見せようというので持参して、そのまま佃に置いてある)と、タップの二股になってるやつ。これは二台のPC(PowerBookとdell)を同時に使用するので、必要。

毎日、それを忘れるので、忘備の為に書いておく。

2008年2月 6日 (水)

アクセス御礼

R0013519 KCチョートクカメラ日記ご愛読の皆様

拝啓。
何時もKCチョートクカメラ日記をご覧いただきありがとうございます。
おかげさまで、昨日は一日の累計アクセス数が4376に達しました。

数年前、エプソンRD−1登場の時、一日のアクセスが10000を超えた時を除けば、これはレコードです。

本ブログはアクセスランキングの競争をするものではありませんが、
これも皆さんのクリックのおかげ、本ウエブのご愛顧のおかげです。

今後もよろしくお願いもうしあげます。

田中長徳

★画像は巴里。ノートルダム。

ヒルズのゆきだるま

Rimg0484 月曜は実に3日ぶりにヒルズに行ったのであった。
まだメンバーになりたてのころ、他のメンバーの人が会費を綿密に計算して、「一週に4回以上こないとこれは損になる」などど言っていた。

その根拠の数字は知らないが、数年前まではプラハのアトリエに行くことが多く、昨年も海外が多かったから、そういう「政府が提示するような統計的な数字」に準拠すると、自分は会費を払っているほうでは「損をしていた」のであろうか。

割り勘負けというやつだ。この言葉を聞いたのは10年前にカメラジャーナルのツアーでベルリンに居る時に、関西の人から聞いて「世の中にそういう言葉があるか、、」と感心した。

もともとそういう「些細」なことはきにしない性格だけど、昨年の秋から今年にかけては、1週間に5日ないし6日は来ているから「損はしていない」ことになる。

先週の金曜はさすがに佃界隈で休憩して、ヒルズには来なかった。
夕刻になって、月島の越後屋酒店に行った。
常連さんの老紳士で、自分が持参したマキナ1(ダイヤルセット)に興味を示した人が居て、お話をしたら、なんとオリエンタル写真工業に勤めていた方だった。

それで、自分は学生時代にそのオリエンタル製の「B級品の13x18センチ250枚入り」のシーガルを使っていたという話になった。
このお徳用パッケージは知る人ぞ知るという存在なのであるが、さすが元オリエンタル写真工業の方はその製品を知っていたわけだ。

話は三菱の月光という印画紙の話になった。なんと、これもシーガルのOEMであったそうだ。

月曜の朝、まだ雪はわずかに残っているが、快晴の東京。

雪の翌日は「裸虫が甲羅を干す」などというが(あるいは記憶違いかも知れないが)これはどういう虫なのか、、、いつも雪の翌日の快晴の光の中でそれが気になる。

ヒルズの1fにゆきだるまがあって、それがよい感じであった。というのは、ヒルズのすべての施設のデザインは完璧に管理されているわけだが、これだけはスタッフさんの、あるいは地元の人の「楽しみ」として製作されたことは確かである。

2008年2月 5日 (火)

KCチョートクカメラコラム

★銀塩クラシックカメラ

着流しライカ達人としての桑原甲子雄さん

桑原甲子雄さんが94歳で昨年の12月10日に亡くなったと、新聞上に見えている。

桑原先生に最初にお目にかかったのは、1966年頃だから、40年以上も前の話だ。写真同人社の座談会で、たしか東松照明さんを囲んでの座談会であったようだ。他には写真評論家の渡辺勉先生もおられた。

その間の記憶は欠落しているが、桑原先生は「座談会にチョートク君は踊りこんできて、機関銃のように我々を連射した」(大意)とこれは桑原先生が20年ほど前のある印刷物に書いてくださって、有り難かった。

思えば、これは人物写真を撮影する、最初の「仕事の機会」であったようだ。その後、メデイア関係で澁澤龍彦さんとか、小川国夫さんとか、時代が下ってからは、リクルートの江副さんとか、浅利慶太さんとか、京セラの稲森さんとか、ソニーの大賀さんとか、沢山の有名人を撮影した。

その最初のワンショットが桑原先生であった。当時の桑原さんは名編集者であって、自分のような写真学生から見れば、雲のそのまた上の成層圏的存在であった。

ベレー帽の日本文化人というのが、当時(60年代)には存在して、19歳の自分はそういう連中は嫌いであったが、桑原先生はベレーが実に似合う。
だからこの件だけは桑原先生の場合、例外だった。

1983年にニューヨークから戻って以来、東京カメラクラブの関係で、馬事公苑の先生のマンションに遊びに行った。

奥様が親切にも、珈琲を出したり、ケーキを出したり、その後は食事の心配までしてくださったのには感激した。お客で行ったのはカメラクラブの田村会長以下、50歳に近いおやじ連である。

そういう連中をお「おなかをすかせている青年」のように扱ってくださった。
この奥様の歓待は、これは白樺派のやりかたであろう。食客扱いして、若い衆は常に空腹であるという認識で、ご夫妻で気を使ってくださるのは、下谷車坂町の下町気質かも知れない。この事は忘れない。

桑原先生にライカ指南をして差し上げたことがある。親子ほども年齢が異なるのに、勉強となると実に真摯にライカの話を聞いてくださった。ライカM2がご所望なので、自分の持っている1台を買っていただいたこともある。

それからしばらくして、電話をいただいて、「チョートク君からゆずってもらったM2だけど、まだお金払っていなかったから、払うよ」とおっしゃるのである。
その代金はすでにいただいているので、その旨、申し上げた。

桑原甲子雄さんは、浜谷浩さんや、木村伊兵衛さんと並ぶ、日本のライカ道人の草分けだ。
青年時代の和服にライカA型を携えたそのお姿(これは鏡に写っているのである)は「着流しライカマン」として、我らライカ人類の間では、つとに有名である。

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★デジタルカメラ

リコーR7の仕事カメラとしての意外な実力

今度出る「GRD2ワークショップ」(えい出版社)では、GRD2の改良点を中心に展開してあるが、他にもGX100とかG7で撮影した口絵も紹介している。

昨年の10月のプラハ行きにはR7を、その前のプラハ行きの8月にはGX100を持参して撮影してきた。
それらの画像を並べてみると、GRD2にはコンパクトデジカメの最高クラスのステータスがあるのは当然のことながら、GX100とR7とを比較してみると、そのズーム比などと、そのサイズを考えると、どうもR7に軍配があがる。

先週末の「日本郵船氷川丸」の横浜行きの撮影では、博物館の中を撮影し、それから横浜港を撮影した。その全部をR7というコンパクトカメラ1台で撮影してしまえるのは、「プロにあるまじき行為」かも知れないけど、撮影などは楽をするが勝ちなのである。

要するにズーム付きのコンパクトデジカメの場合、望遠側が70ミリ見当では、向こうから歩行してくる人物などを、抜き打ちにして撮影するには、そのレンズの長さが足りないのだ。
R7はレンズキャップも付いて(GX100には付いていない)しかも200ミリ相当まで、ズームアップ可能なのが便利だ。しかも小形だから、そのままGパンのポケットに入る。
こういうコンデジの携帯性はありがたい。

目下、R7に対して不満はないが、ただ一つ問題があるとすれば、そのデザインである。なにか、GRDっぽいというか、フィルム時代のGR−1みたいな、しっかりしたグリップのボデイが欲しい。
R7だと右手のグリップがない。そこはつるつるであって、仕方ないからcaplioという浮き出し文字に指をひっかけているのだ。

ものの順番からすれば、R7の次はR8である。R8ではホールドしやすいボデイを期待したい。
もう一件は、撮影中に例のレンズの出し入れに怖いことが起こって、スタックしてしまうという「悪夢」がある。そこらを安全な機構にしてもらいたいが、その完璧な防止の為には、R7を2台持参する他はない。

飛鳥で、東京港からレインボーブリッジをくぐる

Rimg0052 2月2日の土曜は、終日横浜。
馬車道の日本郵船歴史博物館で、日本海洋科学の操船シミュレータの公開あり。
実際のシミュレータは、本物のブリッジの機器が配備してあるわけだが、これはそのソフトウエアで、1枚のスクリーンに展開するもの。
それでも迫力は満点だ。

飛鳥1が東京港から出港する時は、37Fからよく見たし、それを肴にして飲み会をしたこともある。まさに満艦飾のライトアップされた都会がそのまま、ゆっくりと移動してレインボーブリッジの下を過ぎて行くのは、ドラマだった。
その飛鳥1の実際の(というかバーチャルだからこそ、実際に限りなく近い)出航の状態を見せてもらった。
眼前がレインボーブリッジであって、小さい船舶(これには、隅田川を上下する水上バスも含む)が横行しているのが、実物以上の迫力だが、その水上バスか見た、飛鳥1の姿も切り替えてみることができる。

しかも、時間も天候も風も、潮流もあらゆる要素を組み込んで体験することが出来る。
飛鳥1の操舵を体験したが、実に愕いた。舵を切ってから30秒後に方向が転じるという感覚である。

午前と午後の2回の講座を通しで体験した。
その間、体験者さんは東京湾と横浜港を自由に航行して、自分の見ただけでも氷川丸に衝突したり、向こうから来たコンテナ船に正面衝突、あるいは座礁はかず知れずというところで、実際にこんなことがあったら、史上最悪の海運事故、死体累々である。
シミュレータで良かった。

午後のセッションが終了してから、博物館の中を撮影。この間、郵船の新年メデイア懇親会で披露した、「日本郵船参拾周年記念帳」は、博物館所蔵のものより、自分の所蔵のそれの方が「美品」であるので満足。
ここらは、コレクター根性ですね。

それからプロムナードを南に歩行して、撮影。午後の暗澹たる光の乏しい感じが良かった。まるでハンブルクの冬、エルベの冬である。歩行して行くと、だんだんと氷川丸がその優美な姿を見せてくる。
この船のチャームポイントは遠方から見た、真横の姿が綺麗に見える。

2008年2月 4日 (月)

ライカM8のフルサイズだって?

Lowresleica_m8 仕事が多忙なので、 PMA情報も見ていなかったが、さっき、野々宮BMWが以下のリンクを
送ってくれた。

http://www.amateurphotographer.co.uk/news/PMA_news_Leica_to_develop_fullframe_digital_rangefinder_camera_news_177351.html

どうも、PMA用の「花火ネタ」っぽい。
以前、似た前例がある。

エプソンR-D1が登場したとき、直後にライカ社は「うちでもっRFデジタルはやってるよ」とステートメントしたのは、株主対策であったようだが、実際にM8が出たのはかなり後の話だった。

1200ユーロの費用でシャッターが静かなのと交換して、なおかつ、CCD保護のクリスタルを付けるというのが、2週間の期間でできるとなると、以前の赤外フィルターの配布に何ヶ月もかかったライカのサービスに比べるとかなりシステムが進化したのであろう。

昨年の秋に来日したリー社長の言った、「フォトキナでの三つの驚愕」のひとつは、M8のフルサイズか?

しかし、フルサイズの改造が従来のM8でも「将来は可能」というのは、ちょっと怖い。
オリジナルのフルサイズのM8よりも、改造の費用が高くならないことを祈る。

討論すべきは「いまどき、フルサイズの魅力は存在するのか?」にある。

ついで言わせてもらえば、配布のフルサイズM8の画像だが、本体の両側についている、例の開いたナス環はちょっと興ざめである。
伝統のライカの魅力が半減する。

先週の木曜は郵船の大宴会

「大宴会」Rimg0178_2 とは、日本郵船の嘱託であった、内田百鬼園の小説のタイトルである。
その大宴会が、先週の木曜の夕刻にパレスホテルで開かれた。
そこで、今回の写真集、「日本郵船氷川丸」の製作発表を20分という長きにわたって「講演」したのである。
なかなか思うようには行かなかったが、なんとか大役を果たせて、一安心。こういう「実演」はライブであるから、時間の配分とそこでお話すべきことを話しつつ、進行をコントロールするのが難しい。

よく、アルフィーの坂崎さんと二人でトークをするが、その時は坂崎さんは全体の進行を考えつつ、自分をコントロールしてくれる。TVの収録などなら、カメラの脇から紙に書いて「ああせい、こうせい」と言ってくれるのだが、それがないから、腕時計を20分にセットして、それを片目で眺めつつお話をした。

講演の前に、郵船本社で、草刈会長と宮原社長にご挨拶した。草刈会長とは佃の本祭りとか、リバーシテイ界隈のお話で、宮原社長とは御出身の岡山のお話になったので、チョートク固執堂という、カメラのがらくた舘が岡山にあります、、、などと申しあげた。

役員室は郵船ビルのトップにあって、そこの応接室からは大内山が眼前に見える。夕刻の残光が実に綺麗である。そこに入る為には、ガードマンさんの固めているドア(これが金色っぽい)が旗本退屈男めいて、それがオートマチックにすーっと左右に開くのである。そこを通過した瞬間に「ほわん、、ほわん、、ほわん、、」と警報が鳴った。

案内してくれた星野広報部長が「どうしたのかな、こんなことは初めてです」と言った。やはりノーネクタイの変なヤツが通過すると、警報がなる仕組みだ。
郵船の安全保安は完全である。

愉快だったのは、自分は以前、経済誌の表紙でそういうトップを撮影していた関係で、その場合、役員応接室で大抵、撮影をさせてもらったのだが、そういう部屋に入ると、無意識のうちに電気のコンセントを眼で探しているのである。
これは習い性になっているのであって、そこに大型ストロボをセットして、撮影のバックをしつらえて、アシスタントを立たせて構図を決め、その立ち位置にガムテープを貼って、トップが見えたら即撮影というのに馴れている。
だから、表紙の撮影は5分で済んだ。
大体、こういう上の方は自分の時間がない、というよりも秘書室あたりに管理されているのであろう。

郵船のトップの面会はこれはご挨拶というよりも、郵船の広報さんと博報堂さんが、「チョートクは被写体の顔を覚えないやつだがら、事前に社長、会長を見せておいた方が失礼がなくてよかろう」という深い、配慮の為のようである。
トップの方にしても、いきなり上下がユニクロの変なじじいが、自分の挨拶の最中にマイクの前にきては不愉快である。

事前にカメラマン兼、講演者を面通ししておけば、問題ないであろうという、関係者のお考えがあったようだ。
ちなみに、昨年の日本郵船の新年メデイア懇親会のゲストは琴欧州関であったそうだ。

ところで、木曜の夕刻の取材カメラ。
郵船の広報さんはちゃんとした、デジタル一眼レフ(この広報さんはこの前、あたしを雑誌YUSENのインタビューで撮影してくれたが、その腕は確かである)で、自分はリコーR7と、エプソンRD-1s(まだ液晶は壊れている)であった。

こういう撮影だと、全景からクローズアップまで各種のアングルが必要なので、ズームが便利だ。エプソンには50ミリスーパーロッコールを付けた。
これが人物の撮影用である。

2008年2月 3日 (日)

コンビニ難民

Rimg0010Epsn3297 ライブラリのメンバーから、森タワーの4fのampmが一月末で閉店になるという話を、51fのヒルズクラブでランチを食べている時に聞いたのには吃驚した。

明日からランチはどうしようかと思ったのである。
この数年来ランチに食べているのはこのような写真の食品であって、これが仕事モードには一番良い。
合計日本円315円なり。

クラブでランチもいいけど、毎日行くと社員食堂のような感覚になってしまうのが面白くない。だから、ゲストが居る時には利用するけど、それ以外には上の状態がヒルズでの食事のすべてだ。
もっとも自分はメタボの代表(大昔、メタボが認知されていない時には、ビールの王様)だから、これで餓死する心配はない。

いいぇ、それでも、コンビニが無くなって、サンドイッチが買えなくなると将来は餓死するのではと心配になった。辻潤は、昭和19年の11月であったか、新宿の下宿で餓死している。即身成仏なのだ。
しかし2月1日から、他のコンビニ、すなわちローソンが同じ4fの青山ブックセンターの向かいにオープンと聞いて、愁眉を開いた。即身成仏計画は先延ばしになった。

しかし困るのは、サンドイッチの味が変わることである。
もう一つは、せっかく、ampmの店内の商品の配置を勉強して、これを記憶できるようになった、この5年間の学習の成果が「一夕」にして、パーになることだ。

特に困るのは傘の問題である。
自分は人生についていないなあ、、、と、感じるのは、佃から雨で傘を持参して、夕刻には良い天気ということが多い。それで49fの受付の傘立てに安傘を忘れてくる。そういう傘はレセプションで処分してくれるようで、次回に登場する傘立てには入っていない。

そのうち、また雨が降った。
佃から安傘を持参した。
夕刻は晴れた。
それで傘は受付に忘れてきた。

この行為を何度か継続していると、我が家は傘工場ではないから、佃の傘のストックが輸出超過になるのは目に見えている。
それで、ampmで傘を買おうと思った。ところが傘は売っていないのである。
と、5年間思っていた。ところが思ったのは老人の視野の狭いせいであった。

1月31日、ampmの最後の日にサンドイッチを買いに行ったら、キャッシュデイスペンザーの脇に小さいけど、ちゃんと傘売り場はあった。
ただし、5年目の最後の日にそれを発見したのは皮肉と言うほかはない。

明日、2月1日にローソンが開店したら、まず傘売り場を最初にチエックするつもりだ。

雪の日曜。大雪経験は76年のウイーンと、83年2月のニューヨークである。

そういうのに比較すれば「可愛い」ものだ。

佃では、6−7年前の2月であったか、欧州行きの時、大雪でタクシーもないので、家人に手伝ってもらって、Tcat まで行った。その時はAFはオンタイムであったが、LHは関空に着陸したので、出発の遅れたことがあった。

画像は部屋から見た、隅田川ぞいの公園。

エプソンRd-1sにニッコール135ミリ(真鍮製の造りが良くて重いやつ)。


2008年2月 2日 (土)

タスポガヒツヨウニナリマス

Rimg0008_2 シガレットはすわない。
20代のころはすっていた。広告の仕事でトヨタのスタジオにかんずめになる。
吸っていたのは、P缶か、ホープであった。

シガレットがなくなると、自転車で走行10分ほどかかるトヨタ自工の購買に行った。往復20分かかるので、それが面倒で禁煙したのである。

ウイーンの7年半の間には、パイプタバコを真似事したことがある。しかしパイプは大画伯ならともかく、カメラマンには似合わない。カメラマンならゲルベかゴロワーズだ。
パイプの似合わないのは、かのブレッソンがどっかのチャイナタウンのライオンダンスのさまをブラックライカで撮影しつつ、口にはパイプをくわえて、すぱすぱやるのを、昨年の6月に竹橋の近代美術館でブレッソン展の時、講演をやった後にそういう映画を見た。
まるで人間機関車であった。

ウイーンのタバコの自販機には鏡がついていて、全体は金網で覆われている。コインを入れて、バーを力いっぱい前に引く、そういうパワフルな仕事をするとシガレットが1箱ころがりでる。その感覚はシガレットを吸わない今でも、よい感じに思える。
そのシガレットの販売機はなかなか写真的なのでスナップの時の好材料だった。

その一枚は、「ウイーンモノクローム70s」(500ページの写真集)に掲載されている。街角の寂れた自販機(こういうマシンはすがれているのに限る)の、曇った鏡にライカM3のブラックを構えている20代の自分がぬうぼうと写っているショットだ。

おととい、タワーの下のコンビニに行ってこのような書類をもらってきた。

以下はニュースの引用。
@@@@@@@@@@@@

 自動販売機でたばこを買うときに必要となる成人識別ICカード「タスポ」の申し込みが、2月1日に全国で始まる。未成年者の喫煙防止のため、業界団体の 日本たばこ協会などが3月から全国で順次導入、7月以降は自販機の読み取り部分にタスポをかざさなければ、購入できなくなる。

 タスポは「たばこのパスポート」の意味を込めた造語。たばこ店の店頭などに置かれた申込書に必要事項を記入。身分証明書など本人確認ができる書類のコピーと顔写真を添えて日本たばこ協会に郵送すれば、約2週間後に顔写真入りのカードが手元に届く。
@@@@@@@@@@@@@@
引用おわり。

ようするに、未成年者のシガレットの購入を食い止めるために、一大キャンペーンを張るのであるが、こういうのは無駄なだけで、若い衆は「非合法」でシガレットを買う楽しみを増加させるだけである。

それと関係の業者さんが「大もうけ」であろう。

しかし自分はこの一枚のカードがほしくなった。亡くなった父は二種免許を持っていた。昭和のはじめに手にいれたもので、父は一生、車は運転しなかった「ゴールド免許保持者」であったが、免許だけはもっていたのである。
自分は29歳の時に、将来は飛行機と船と徒歩と路面電車で世界を移動しようと心に決めたので、免許はなし。

でも、このタスポは一枚持っていたいと思う。シガレットを買う予定は自分の余生ではないが、半年ほど前、山谷の大林に行く時に、角の販売機にゴールデンバットが入っているのを発見した。
これはシガレットを吸わない自分にとっては発見と言ってよい事件であって、さっそくコインを投入しいた。

その1箱のシガレットは、居室のチャーチバロックのクロスの脇に置かれている。
将来、またそういう買い物の兆しが自分に生じた時、自販機の前で、タスポをもっていないで買えないというのは悔しい。そこで申し込むことにした。

最後にシガレットを勧められたのは、あれは2000年のことだった。つまり前世紀だ。ハノイにリコーのデジカメのプロトタイプを持って撮影に行った。

フォン河のほとりにある、巨大なサロンパスの大看板を眺めて、川の東にある、バッタンバンという、土器の村に行った。そこにはなかなか鄙びた村人の生活があった。カフェで憩っている村人の仲間に入れてもらった。

その中の一人からシガレットを1本勧められた。感謝して手にとって、それには火を付けずにシャツの胸のポケットにしまった。

2008年2月 1日 (金)

昨日のカメラ、今日のカメラ

Rimg0003 このタイトルは、カメラのテクノロジーの昔と今とを意味しているのではない。
毎日の通勤の時(単に佃と六本木の往復だが)に持参するカメラの「番付」のことである。

これは実に気まぐれなしだいなのであるが、毎朝、出掛けにどれとどれを持って行くかというのは、それなりの面倒さであると同時に、それなりの楽しさでもある。

これは通常の紳士が出掛けにどのようなネクタイを結ぶかというのと案外に同じ感覚なのではないかと思う。

自分はこの20年というもの、ネクタイをしめる生活はないけど、それでもネクタイは何ダースかもっている。
これらはみな、ウイーン時代に買ったもので、その多くは古道具屋で買ったのだけど、その品質は悪くはない。
かつて、佐藤春夫は、渋谷は大坂上の下宿の万年布団で、その上に対角線に張り巡らした紐の幅をいっぱいに無数のネクタイをかけならべていたとは、押しかけ弟子の稲垣足穂の証言である。

知り合いでネクタイをぶら下げている紳士連と言えば、最近、ヒルズで会った人に限れば、福田和也さんと、郵船の星野さんである。このお二方は自分の目から見ると、かなり「派手」と見えるタイであったが、それが華やいでいて実にその場に似合っていた。
なるほどこういうタイの選び方もあるのかと思った。

一方で、ネクタイで忘れられないのは、テキサスはダラスのステーキ屋である。例の2ポンドステーキとか4ポンドステーキを出す店であって、馬車で送迎をしてくれた。

入り口に「この線から奥はタイは禁止!」と張り紙がある。
それを無視して入場したやからは、店の人がはさみでタイをちょん切ってしまう。
そのタイのコレクションが、これは死体累々という感じで、カウンターにピンで留められている。そこでびっくりしたのは、それらのタイの屍骸の数ではない。

アメリカのビジネスマンが首にくくりつけている、タイのデザインと色彩がひどいものであることをいまさらに確認したのだった。

タイを選ぶように、カメラを選ぶというのは理想のカメラライフかも知れないが、理想は理想のようには行かない。
タイなら、色彩とデザインで選択が出来るが、カメラはデザインのほかに性能というやっかいな付属物がある。

さらに往々にして、そのデザインよりもその性能が重視されるという面倒なしだいもある。

昨日、持参したのは、フィルムカメはコンタックスlllaで、デジカメはGRDであった。
今朝はその気分が変わって、リコーR7、コンタレックスにビオゴン21ミリをつけたのを持参した。これはかなりの重さになるのだが、最近では荷物は振り分けにしているので、ある程度の重さのカメラが必要なのだ。

この振り分け荷物スタイルは、これは30年ほど前、イスタンブールから、ウイーンへの列車の旅の時に、そのトルコ領内を走行した2等車で向かい合った、羊飼いの青年から教わったものだ。やじきたのそれではない。もっとユーラシア的なのである。

その青年の澄んだ視線と、その付着した羊の体臭については書くことはないが、二つの布の袋をつなぎ合わせて、これを肩に前後にかける。

すなわち、振り分け荷物である。これに杖を持って、犬を同伴すれば本物の羊飼い。
つまり、聖書の登場人物になれるわけだ。

自分の荷物の場合、バック方面がメーンの荷物で、フロント方面にはカメラが入っている。
これを肩にして、イスタンブールでもプラハでも、六本木でもあてどもなく歩行するわけだが、連れに本物の羊さんがいないのはちょっと残念だ。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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