« 2008年1月 | トップページ | 2008年3月 »

2008年2月

2008年2月29日 (金)

ポラロイド

R1146943  日本ポラロイドは2月21日、インスタントフィルムの生産を2008年夏までに終了すると発表した。カメラのデジタル化が進み、フィルム需要が減少したため終了を決めた。

以上が、ニュースのタイトルである。

ポラロイドが生産中止になると、また人気になって、在庫分を競走で購入する動きが活発になりそうだ。

1980−82年に日本ポラロイド社とタイアップして、一連の活動をしたことが思い出される。8x10カメラでポラカラーを撮影した。なかなか温度管理と色のコントロールが難しくて、かなり青い方向にシフトした。

当時はそれがポラロイドの欠点であると思っていたのだが、それから25年経過して、その8x10プリントを今見ると、これはこれで良かったと言う理解に至った。

ポラロイドの画像は案外に安定していて(もともとポラ色というような不思議な色彩だった)今でも鑑賞に耐える。

8x10は他に医療用のモノクロの8x10フィルムも使用した。これはトーンカーブが長くて、間延びした画質というか、誉め言葉で言えばプラチナプリントみたいなトーンになる。

仕事では、4x5のポラは良く使った。これを業界用語では「ポラを引く」というのである。

ピールアパート式だから、ロケに行くとそこら中が「ポラ殻」でいっぱいになる。自分はちゃんと始末して持ち帰った方であるが、トヨタのロケなどで、富士山の周辺の「ロケ地」に行くと、前のロケ隊の仕事の残骸がそこらに散乱していて困ったことがあった。
まだ、そういうマナーなど無かった「広告戦国時代」の話だ。

R1146941 ★日録
例の如く、ヒルズ。
今日は、8時半には49Fにあり。じじいは朝が早いからという意味でもない。
来週は水曜から、日本郵船のコンテナ船「ライラ」に便乗取材するのである。便乗というのは、戦前に詩人丸山薫が、練習船(帆船)にやはり便乗して太平洋を45日航海している。
丸山薫の航海の詩「點鐘鳴るところ」はいい。
そう、ライラの冒険なのだ。ライラとライカは一字違いである。

AXISの連載で、カメラデザイン論を一気に書く。ライカ250には、カメラの美学があるが、撮影が250枚撮りのライカ250に比較して、その10倍の2500枚も撮影可能な現代のデジカメにはなぜ、カメラの優雅さがないのかという話から展開して、ソ連製のカラシニコフのドラムマガジン(100ショット)の話に展開する。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年2月28日 (木)

KCチョートクカメラ日記

R1146874 ★(デジタル)カメラは知的な遊びなのだ。

上の括弧をとったテキストが3月10日に、アスキー新書から出る、最新刊のタイトルになる。

デジタルカメラが実用化して、それまでの銀塩カメラにとってかわって、一時代が経過したわけであるが、現代は過渡期の状況であるというので、将来はデジカメの天下になって、銀塩は衰退して行くものと従来は考えられていた。
デジカメに関わるほとんどの人々がそう思い、銀塩に関わっていたすべての人々がそう考えていた。

ところがこの2年くらい、新しい動きが生まれてきた。
それはデジタルカメラと銀塩カメラの新たな共存なのである。あるいはそれぞれのカメラの分業化と言っても良い。

過去のカメラならそれしか存在しなかった銀塩時代には「記録のあらゆる目的の雑多な映像」は、もっぱらフィルムに記録されてきたわけであるが、銀塩カメラは世界に存在する、実に多用な視神経の記録業務のすべて引き受けねばならなかった。

一例を上げると、電話局の度数の記録である。
電話代をチエックするために、ライカの改造型を電話局内のずらりと並んだ度数計に向けて、全部撮影し、現像し、それをルーペで見て、手入力で請求書を制作していたわけだ。
そういう「社会を動かすのに必須な業務」はデジタルで行われるようになった。(今の通信会社がデジカメで度数を記録しているという意味ではない)

デジタルカメラはそういう映像の基本的な業務を全部銀塩時代に比較して、実に楽に引き受けるわけである。

一方で、デジタルカメラのデザインには魅力がないし、それを購入するために貯金をするような、物欲の対象としての魅力にどうも欠けるようなところがあると、延々と書いて来た。

今度のアスキー新書の執筆で判明したことは、確かにデジカメは物としての魅力には乏しいかも知れないけど、その撮影した膨大な映像を駆使して、自分の視神経の迷宮に分け入るような、そういう知的視座の遊びと視ることの冒険こそが、デジタルシステムでこそ、構築可能であるという、この一点に気がついたのである。

これを最新刊では、仮に「第三信号系視神経」と呼称しているのだけど、デジタルカメラが切り開く新しい映像の地平というものをようやくにして確認できたと感じている。

@@@@@@@@@@

R1146603 ★(銀塩クラシック)カメラは知的な遊びなのだ。

上の括弧をとったテキストが3月10日に、アスキー新書から出る、最新刊のタイトルになる。

事実上、世界最初の電子カメラである、ソニーのマビカをソニーの本社で見せてもらったのは、一昨年のことだ。
今のデジタルカメラの元祖である、その真四角なボデイを見て感じたのは、いかにも80年代デザインで、それは案外にモダンであって今の時代にも通用するという印象であった。

あたしは当時(1981年の11月と記憶するが)先日亡くなった、当時はモダンフォトグラフィの編集長だった、ハーバート・ケプラーさんがボスだったので、そのカメラのデモを大崎で見ている。当時はまさかこういう「電カメ」が将来のメジャーな存在になるとは思っても見なかった。

デジタルカメラは実用の子、つまり、時代に棹さして今を追い求め、結果として、その個体はどんどん過去になって行く存在である。
一方の銀塩カメラは趣味の親であって、年代を重ねる上にその存在が重厚になってゆく。

これは不思議なことだ。
というのは、自分の少年時代、ちょうど10歳の時であったが、当時の最高最新の高級カメラ、ニコンSPが君臨していたその直後に、ニコンFが登場した時に感じたのは、すでに距離計のカメラは過去の存在であって、あの三角形の「亡者の額につける白い三角巾」(当時のアサヒカメラのニューフェース診断室の評)のマッスのようなペンタプリズムのデザインの方がずっとモダンであり、将来を見据えているように見えたものであった。

こういう銀塩時代のカメラの変遷の価値観は、すでに朽ち果てて、現代では例えば、クラシックライカの場合、比較的最近のモデルである、M6よりもそのオリジンである、M3の方が高く評価されているのは、実に面白い現象だ。

思えば、ライカに手を染めた1970年代のウイーンでの記憶をたどるに、当時はまだ、70万代の最初のロットのM3などは『二回巻き上げ、ガラス圧板、セルフタイマーなし、ファインダーセレクターレバーなし、なんとなくデザインが古くさい』などの理由で、その価値が低く見られていた。

確か、70万代の一番最初のロットのM3と、100万代のかなり最近のロットのM3の中古がカメラ店の店頭に並んでいて、自分は後者を買ったことも懐かしい。
これが今の時代なら、初期の70万代ロットは正真正銘のコレクターアイテムであるから、これを見過ごすことはない。
古くさいと、モダンとは、物体の両面に具有されている属性である。

今度のアスキー新書では今までは発見できなかった、そういうデジカメ時代の土台の上に構築されている、魅力の銀塩クラシックカメラパレスのことを記述している。

★「実写」はいずれも、R8。

上は、「鳩の町」。下は「あの写真部」。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

α200をカスタマイズ

R1146907 R1146904 R1146905Dsc02133 発売早々に購入した(マップカメラ/楽天通販で、57500円+送料10円)を、日常に持ち歩くことにして、自分なりの「カスタマイズ」を開始。

まず、仕事には付属の18−70ミリのズームは便利(これが実質価格1萬円以下というのがすごいコストパフォーマンスだ)だけど、これを持ち歩くのは嵩があるので、M42マウントにてプラクチフレックスに付いていた、テッサー50ミリf3.5を付ける。
俗に、レンズメーカーさんがユーザーの受け狙いで生産する、(というか、ご商売で)「いわゆるパンケーキレンズ」なるものが自分は嫌いである。

それと、そのパンケーキユーザーな人ともあまり話はしたくない。というのは、薄いレンズは、それが小さいことでその存在に「淫して」しまう人があまりに多いからだ。

小形のレンズ、たとえばこのテッサ−とか、ほかに同時代の40ミリテッサーとか、さらに昔のアルパのオールドデルフトの38ミリのアルフィノンあたりは好きである。
その理由は当時は、そういうレンズの存在はごく普通のことであって、焦点距離の短いレンズが、小さいというのがごくごく普通の存在であった。

それが一眼レフ用のレンズが「茶筒のように巨大」になってから、その反動の「受け狙い」で商品化されたパンケーキタイプのレンズは好きになれないという天の邪鬼なレンズ好みがあたしなのだ。

新品のα200がやはり右手の親指がボデイに当たるとスリップするので、(レンズ付きで5萬円代のデジ壱だから、文句は言えないが)道具箱の中をかき回して、初代のGR1用の黒色の貼り皮の素材が、ビニール袋に入ったまま、デッドストック状態で10年ぶりに発見された。
これをボデイに貼って、このようなスタイルにした。
まあ、「発表済みの無名のプロトタイプファッション」である。

このデジタル一眼レフの「銘」は「○×△號」と命名しよう。
追々に手を加えて、使い易いデジ壱にして行くのが楽しみだ。

30年以上前、小川紳介プロダクションの名カメラマン、田村さんがプロダクション所有のエクレール16NPR(70年代にセットで500萬円はした)を自分流に改造したという話を聞いて、すごいなあ、と感心したことがある。

後で知ったのは、この改造はカメラの本体をいじるのではなく、ファインダーとかグリップとかの細かい箇所を自分の身体に合うようにカスタマイズするという意味であった。
その事情は今でも変わっていない。
我々、素人がα200の本体に手を入れられる筈はない。

あ、上のα200のカメラ画像はR8で撮影。

ウインドウの中の花の「実写」(この言葉の使い方は、デジカメブログっぽくていいねえ)は、「○×△號」にテッサー50ミリf3.5。

断っておくが、デジカメの格付けからすると、R8がメーンカメラで「○×△號」はサブカメラなのは言うまでもない。普通の考えでは、デジ一は、メーンカメラでコンパクトデジはサブというのは、常識であるが自分の場合その価値観は逆転している。

何故か?

その理由は3月10日発売の「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)に書いた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年2月27日 (水)

強風の東京にα200

Dsc01818 R1146582 R1146579 R1146581 先週の土曜に、午後1時半ころに、佃のタワーから出ようとして、いきなりの突風である。
土曜は春一番というには、あまりの突風で電車や新幹線がそこここで止まったりした。
週末に東京に来る用事があった人とか、冠婚葬祭のあった人がたまったものではない。

翌日の日曜も、前日に勝るとも劣らない烈風が吹きすさんだ。
久しぶりに銀座の中古カメラ市(また中古カメラブームの再来にて、大変な売り上げという)に行こうと思ったが、家から出るのが面倒である。

居間は角部屋にて三方向はハイサッシの硝子窓であるが、それが割れるかと思われるほどの風にて、なにか飛行機に乗っているような、風切り音がする。

日曜の午前中に、マップカメラに注文してあった、ソニーα200+18−70レンズが到着したので、それで部屋から撮影をしたのが、この画像だ。

レンズはカールツアイスイエナの500ミリf8である。
これは有名なレンズで、戦前のコンタックスの交換レンズカタログにも登場している。その作例はドレスデンの宮殿を撮影したもので、広角レンズは28ミリのテッサーから始まって、ずっと望遠になって、最後に500ミリで終了する。

これは1群2枚で明るさはf8なのだけど、シャープなレンズだ。このレンズはM42なので、それにアダプターを付けて、部屋の中から眼下の中央大橋を撮影した。
強風で歩行を難儀している人物は気の毒であろが、写真のモチーフとしては、かなり面白い。
かのアンドレ・ケルテスが5番街の1番地のタワーの上からコンタックスSに、あれは300ミリか400ミリの望遠レンズで撮影した名作があるが、その本歌取りのつもりだ。

それにしても、α200(レンズ付き)が57500円。しかもマップカメラでは開店10周年とかで、送料は10円であった。

自分は別段、デジタル一眼レフに「萌える」世代でもない。自分にとってデジタル一眼レフは「単なる実用品」だから、自分はなかなか買うことが出来なかった。この位の価格になると、自分でも買うことが出来る。

500ミリレンズは、35ミリ換算だと、α200ならざっと750ミリの超望遠である。
750ミリを手持ちで振り回すのは不可能だけど、この撮影は手持ちでやっているのだ。
風の強い日に、こういう撮影の楽しみがあるとは思っても見なかった。

まあ、天下のソニーが信奉するのが、ツアイスなのだから、使い方の方向としては正しいわけだ。しかもこのレンズはツアイスセセッション以前の「ご本尊」たる、JENAであるから。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月26日 (火)

昭和29年

R1146571 R1146572 3月に出る、岩波写真文庫復刻版田中長徳セレクションは、1950年代に一大文化を画した、出版であった。その中から5冊をセレクトして、あたしがコメントを書いた本である。
その中に「写真」というタイトルと「レンズ」というタイトルのがある。岩波写真文庫の300冊のリストを見渡してその中に「カメラ」がないのが実に不思議であったが、思えばこの文庫はまだ日本が戦後に再出発した直後の出版である。
カメラ=写真機などは贅沢品で買えるものではなかった。

先日、アローカメラで手にいれた各種のカメラのパンフレットの中に昭和29年(1954年)のキヤノンの価格表があった。これが面白い。当時の普通の人の収入が月に8千円程度であった当時に、キヤノン2dのf3,5付きが45000円。同4sbのf1,5付きは85000円もする。今なら400万から500万円という感じであろう。
当時はゆえに、カメラを手に入れることそのものが人生の究極の目的であった。今はカメラというのは、あっちを突っつき、こっちを味わうという、遊びの道具になっているのは有り難い次第であるが、逆に真剣さに欠ける。

当時のレンズの値段。
50ミリf3,5 13000円
同f1,8    26000円
同f1,5    36500円

明るいレンズは非常に高価というツアイスやライツ以来の伝統を守っている。当時は標準レンズでも普通は3,5であって、明るさが1,5などというのは特殊レンズの感があった。

自分の中学時代の担任が梅田八郎先生であって、理科が担当だった。彼はキヤノン4sbを持っていた。実に今のキヤノンの最高級のデジカメ一眼レフなどに比較しても、遙かに高価であったことが分かる。

上の価格表の「浪速大学工学部 船舶工学科教室」というのが気になる。今の感覚で思うと浪速大学とは、吉本のお笑い養成学校みたいに感じる。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月25日 (月)

アリフレックスのレンズをエルマーに付ける

R1146573 土曜は東京は春一番の強風。

四谷アローカメラの恒例のシドニー。
アローの3fでの「座学」の講座は、今回までで来月の第四土曜の午後2時からは、1階の特設会場(つまり店舗)で、「店内カメラトーク大乱闘」を開催。
光臨歓迎!入場無料!(当たり前か)

10年近く前に、新宿のマップカメラで、やはり売り場でトークをしたことがあった。その時には坂崎さんと一緒であったが、売り場でのトークショーは、実物を手にしつつ話をすることが出来るから便利だ。
アローカメラの今までの「シドニー」では、普通の会場なので特定のカメラを実例を挙げて示す時にお客さんからそのカメラを借りていたのであるが、次回からは店の中にカメラとかレンズとか、がらくたはそれこそ「売るほど」あるから、それを手にして説明が出来るのは好都合である。

ただし、シドニーの受講者さんがあたしの話ばかり聞いていると、買い物に来たお客さんの邪魔になって、四谷警察署から「排除命令」があったりすると困るので、会場の皆さんには「100円のフィルターでもいいから買うように」と、昨日お願いしておいた。
こうすれば、カメラ買いのお客さんが、あたしの話を聞いているわけで、「チョートクの馬鹿話をただで聞いている、商売を邪魔するいやな客」とは、お店の方も思わないであろう。

それで昨日のシドニーは3f会場では最後というので、本当に椅子が足りなくなるほどの盛況であった。
話のあと、各種の珍しい資料(例えば、昭和29年のキヤノンの価格表などなど)を入手した。これはおいおい、拙ブログで紹介の予定。

終了後に野々宮BMWにて、都心に移動中に市ヶ谷の自衛隊の前が交通遮断になっている、若いポリスが走ってきて「足場が強風で倒れたので通行禁止です」というので、Uターンして新宿経由にて中野。
フジヤカメラなどを見学。

以前、あたしの出した「田中長徳監修ライツネックストラップ・サイン入り」の在庫がフジヤカメラにあった。もう手持ちがないので1本買おうかと思った。
使いだして2年が経過したこのストラップはようやく手に馴染んで良い感じになった。

自分が人生の最初にオリンパスワイドを買った、中野の日東商事で店主と雑談する、あの時には日東さんでオリンパスWスーパーのブラック仕上げを買い逃したのであった。
オリンパスWSのブラック仕上げは、過去40年来探していてまだ手に入らない逸品だ。
20年ほど前、アサヒカメラの広告で地方のカメラ店で6,5万で出ていて、あわてて電話したらすでに売れた後であった。

野々宮と実に5年ぶりに早稲田通りの旗亭「田原坂」に行く。小酌。
以前のスタッフと同じなので、よほど女将の面倒見が良いのであろう。

野々宮は、先日買った、アリフレックス/ライカマウントのアダプタを示す。これはドイツ第二放送の刻印あり。アストロベルリン製である。これにアリフレックス用のツアイス16ミリが付いている。これはばりばりのオーバーコッヘン製のツアイスレンズであって、信州中野製ではない。思えばツアイスも大衆化したものだ。

カメラファンには有り難いことだが、同時に「ツアイスのご威光」は昔日の輝きのないことは仕方ない。
例えば、LVがそうである。
40年前、LVは巴里の本店で買ったものだった。今では銀座でも買える。これが大衆化の裏表である。

野々宮は、そのアダプタ付きのレンズをエプソンR-D1に付けている。こういうやり方は「カメラ道楽の袋小路」というものであって、皆さんはにお勧めできる性質のものではない。
ライカ社の20万だかする、「明るさがf2,5しかない寸足らずのズマリット」をM8に付けた満足している「初心者さん」の方がずっと罪は浅い。

帰宅して自分の持っている、アリフレックス・ライカMアダプターを取りだしてみた。これはもともと、ライツが純正で生産した、Mレンズをライキナスペシャルに付ける為のアダプタである。
20年来探していて、これをベルリンのカメラ店に発見した時は、往年の夢がかなった気分であった。しかしモノを探すのは、それを探している時が楽しいのであって、実物が手に入ったらそこまでである。
そこで夢は現実になってしなうから、打ち切りである。

この画像のレンズはライツ純正のアリフレックスマウントのエルマー35ミリで、戦前のモノだ。これもその存在を誰も知らないレンズであるが、早い話が、こんな面倒なレンズ遊びをしないで、直接にライカマウントのエルマー35ミリをエプソンに付ければ良いだけの話である。
しかし、我々は「欲望が倒錯」しているので、こういう刺激にしか反応しなくなっている。
実に面倒である。

@@@@

昨年の秋に、六本木ヒルズの「チョートクのクラシックカメラ展」を首脳3人でわざわざ見に来てくれた、ライカ社のリー社長が突然の退陣である。

http://www.amateurphotographer.co.uk/news/Leica_Camera_sacks_CEO_Steven_K_Lee_news_182225.html

この前、お目にかかった時、「来年のフォトキナではびっくりすることが3つあります」と言っていたリー社長だが、まさかご本人の退任がそのびっくりすることの、一つではあるまい。

つい最近、PMAでライカM8のフルサイズ化を標榜していたのに、実にびっくりした。ライカジャパンもこうトップが交代されては、業務がしにくいのでは、と心配してしまう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月24日 (日)

49Fの窓から

R1146470森タワーの49fの 仕事場の窓の方向は、東を向いている。
東京タワーが眼前である。佃のうちのタワーは汐留カレッタの先に見える。

東向きなので富士山は見えないけど、筑波山は良く見える。富士はどうも俗であって、風呂屋のようだから、筑波山の方が良い。このあたりは「霊界異聞」にもその地名が良く登場する自分には懐かしい地名である。

仕事場に到着すると、すぐ仕事にとりかかるが、ヘリが飛行しているとそれを双眼鏡でおっかけないと、気がすまない。
タワーの脇にアメリカ軍の灰色のヘリが離着陸するのは、よく見える。双眼鏡で観察すると、パイロットの顔まで見える。アメリカの軍用ヘリは、ベトナム戦争を思い出すので、嫌いだ。

今朝は、東京消防庁のレスキューヘリの赤い機体が、上空で停止している。このパイロットの腕はたしかで、まさに空中に画鋲で止めたように浮かんでいるのである。
昔なら、さしずめ役の行者の空中飛行というところだ。
それをR8に、スイスはケルンの8x30のアイピースをくっつけて撮影したのが、この画像である。

あまり長い時間、空中に停止しているので、何かな、と思って下を見たら、はるか先の方のタワーの上に別の東京消防庁のレスキューヘリが救難訓練かなにかをしている。
そのすぐ、北の方の空域で視認した高度は、自分の居る49階と同じ位の高度で、白いセスナが旋回している。
そこに今度は警視庁の青いヘリも登場した。

百花繚乱。

なにか、足穂の言う、戦前のシガレットの缶の「エアシップ」はかくもあろうか、という華麗な空中ショーである。

その白いセスナはなんども旋回して、その経路は向かいの東京ミッドタウンで隠れてしまって、また登場する。なんどかの旋回の後、ミッドタウンから出てこないので、これは墜落したのでは、と余計な気をつかった。

自分のライフは何時も失速寸前なのに、他者に余計な気を使うのが、自分の欠点だ。

東京消防庁のヘリの真っ赤に白いストライプのデザインは、一目でそれと理解でき、分り易くて悪くない。そんなことを思い出したのは、このデザインを担当した某社のデザインセンターのトップを自分は知っているからである。

その人の話では、これは我々、仕事上のプレゼンの常套のやりかたなのであるが、なんでも3案を提出して、その「捨てコマ」で、まさかこれを消防庁の偉い人が選ぶことはあるまいと、思っていたのがどうも本命に選択されてしまったらしい。
本人は「だーっ」と、なってしまったそうだが、思えば、工業デザインとかの困難さはそこに存在する。

デザイナーの先を行った発想よりも、一般人がどう思うか、その反応の方が重視される所以である。

あまり対空監視をしていても、仕事にならないので、これより執筆。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月23日 (土)

バチエロンとローライの関係が分らん

R1146376 アメックスのプラチナ会員用に送ってくる機関誌がある。タイトルは他のそういう手の機関誌と同様なのでそのタイトルが思い出せないが、年間10万円の会費だから、印刷の紙だけは良い。
同様の機関誌にダイナーズの機関誌がある。その最新号が「カメラ特集」なので、滅多にそういう雑誌は見ないのだけど(たいていは積んだまま、ゴミ箱)それを開いてかなり驚いた。
主力の一眼レフ(当然デジタルの)の各種が1頁が1人のカメラマンで構成されているが、それはそれぞれのカメラマンの業界の仲良し仲悪し関係として見ると面白いのだが、そこにライカがからんでくる。

その中でライカの説明がかなり「不充分」なので、これは「現代詩」として楽しめた。評価できるのは、ライカM3に割と最近のブラックのバレルの50ミリレンズが
付いていること。この組み合わせはかなり上級なので、昔のフリードランダーとか、古屋誠一を思い出した。

そのライカ特集(というより1頁の)の中に、M8があるのは仕方ないとして、ライカMPの(最近の同じ名前のMP)紹介があって、「プロ写真家が使用、、」とあったのは、これは年代特定がめちゃである。

1950年代の終わりの、元祖のライカMPなら、それは当時のスーパースターであったライフの写真家とか、アインシュタイン博士が使ったかも知れないが、この前の「あの写真部」(福田和也組)の観察でも分る通り、最新モデルのMPを使うのは趣味良き「好事家」(あの写真部の会計担当の藤原さんみたいな)だけである。
そういう方向あっちこっちの小特集にその制作プロダクションの名前を掲載するのも偉いと思う。

今月はだいなーずと、アメックスで両方、カメラネタで楽しめるのであるが、アメックスの方のこれはバチエロンコンスタンチンの広告で、実に不思議な体験をした。
それはこのような内容で、これを見ると、バチエロンはやはり大人の顔をしたウオッチであって、こういう顔の前には、ロレックスなど顔色なしだ。
まるでタイメックスみたいなデザイン(言い方が本末転倒だが)である。いつかは、バチエロンだな。

大昔、まだ存在した京セラの広告の仕事で、独逸に行った時、時計好きのデイレクターがミュンヘンの時計屋にピンクゴールドのバチエロンを発見してしまい、その店があいにくとカードがだめだったので、あたしのアメックスのカードの限度いっぱいにキャッシュをひねくり出して、それをそのデイレクターに貸したことを思い出した。あれはまだ独逸マルクの時代だった。

そのアメックスの機関誌の広告のコピーは、1929年に最初のローライのTLRが登場したとき、バチエロンはすでに170何年か経過していた、というのである。

これでは比較広告にもならない。大体、二眼レフとウオッチを時間軸で比較するというのは、超現実主義というほかはない。

1960年代の広告に、広告主の製品の背後にライカM2のブラック仕上げが入っていて、あれはミネラル水の広告であったが、なにか「活躍するフォトジャーナリストの清涼剤」という希求があって、あれは実に良い感じだった。

この不思議な広告のコンセプトを聞いてみたいものだ。
逆に、ローライをみると、これはまだ120フィルムで正方形の画面を撮影することが出来なかった時代の、6枚撮りの変則フィルムを使用するモデルなのである。
テッサーのf4、5の付いているのが渋い。
そのローライは、革製のネックストラップが変な具合に引きちぎられているまま撮影しているのも、許せない。

手前のウオッチは現行モデルであるから、それを1929年製のローライオリジナルと比較するのも実に変である。

第一、ローライフレックス社などという会社は存在しない。
フランケ ウント ハイデッケ社である。これはローライに恨みをもつ、メーカーの、これは意見広告か?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月22日 (金)

朝、六本木駅で

Kei_techo01 毎朝、六本木駅で「楽しみにしているイヴェント」が2件ある。
ひとつは、以前にも書いた、東京メトロの遅延のおわびの掲示板である。これを「電光ニュース」というのは、自分のようなじじいの言い草であって、今はもっとモダンンな名称があるのであろうが、それは知らない。

もうひとつは、私服ポリスによる、「外国人狩り」である。自分は旧西ベルリンの国境、つまり東側から西側に入る、フリードリッッヒストラーセで私服ポリスに(これは西側の)職質を受けたり、外国ではお巡りさんとの「おつきあい」が多かったが、日本ではそれがない。

でも、自分の経験によれば、警戒中の私服ポリスはその身なりと、改札に立っている時の目配りと、こっちから見た「挙動不審」とで、遠方から見てそれとすぐに分るものだ。
今朝は自分の前を歩行していた、東洋人のカップルが職質を受けた。大体、そういう状態になってまずい人種は、そういうチエックのある、朝の駅には降りないものであるから、自分の前の外国人もそのままスルーしたと思う。

私服のポリスを見ていて、もう少し、かっこ良くやってもらいたいのは、彼らのポリスバッチの見せ方だ。
数年前から、警察手帳は新しくなって、顔写真とポリスバッチが一緒になった新デザインのようである。
向こうの私服のポリスは、それを自分の顔の高さに示す。これは顔写真とそのホルダーが同一人物であるということを示すアクションなのである。

今朝の私服ポリスは、男性の3人組であったが、ポリスバッチをはっきりと見せていない。これはまずい。なにか、蚤の市で「やばい品物」を売っている人みたいな、見せ方なのである。

汝のポリスバッチを高く掲げよ!
と、言いたい。

彼らの行動で、評価できる唯一の良いポイントは、その警察手帳の取り出す速さである。自分のGRD2を尻のポケットから出す、その俊足とこれは良い勝負であった。
これは評価できる点だ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月21日 (木)

アクセス御礼

KCチョートクカメラ日記ご愛読者さま

何時も、KCチョートクカメラ日記をご愛読ありがとうございます。

おかげさまで、昨日2月20日は、一日の総アクセス数は4,259に達しました。
これも、皆様のご愛顧の賜物です。
今後ともよろしくお願いいたします。

田中長徳

★画像は昨年の10月のプラハ。SUDEKもよく通ったプラハ南郊。オーストリア帝国時代のクラシックな高架線は今も現役です。
カメラはR7

追記。昨日、2月21日のアクセス数は4,668でした。

ありがとうございます。

R1142173

| | コメント (0) | トラックバック (0)

年一回の帝国ホテル

Epsn2671 家人の音楽関係の集まりで、美鈴会というのがある。あるいはあった、と書くべきであろう。
これは家人の出身地の新潟の音楽の先生が、実家の向いの柴田先生というのであって、戦前のお医者様の奥様として、ベルリンに留学している。当時のことだから、行きと帰りは一方はシベリア鉄道なら、もう一方は郵船のなんとか丸であったことであろう。

以前、その柴田先生がベルリン留学時代のアパートメントの住所を示して、その場所が現存するかどうか確認してほしいと依頼されたこともあった。

柴田先生はかなり前に高齢で亡くなられたが、そのお嬢さんとかお弟子さんとかが、年一回、帝国ホテルのなだ万で、食事して往時の話題に花を咲かせ、それから、上で茶話会をするのである。

以前、ウイーン時代に年一回の滞在ヴィザの更新とというのが、あっという間にめぐってきて、その時間経過に驚いたことがある。この年一の美鈴会も、それと同じですぐに回ってくる。

家人が戻ってきて、どうだった、と聞いたら、なだ万には1年ぶりに行ったら、ベテランのスタッフは居なくなって、その代わりに若いスタッフに総入れ替えになったこと。内装が奇麗になったことをあげていた。

人件費も年寄りになると金がかかるから、使う方は安くて若い労働力が良いのに決まっている。

それと、帝国ホテルのカフェの今までの、紙ナプキンが布のナプキンになっていたそうだ。これは多少高くなっても、布のナプキンが良いのは言うまでもない。

帝国ホテルの常連の老紳士が、いつだったか、支配人を呼んでそのことにクレームをつけていた。こういうクレームは帝国ホテルに何十年も通う上客を演じないと出来るものではないが、いいことだと思った。

その紳士のクレームが効いたかどうかは分らないけど、巴里の安レストらンではないのだから、紙はやめた方が良い。

いくら、サービスが良くて、料理がよくても、紙ナプキンを使うレストランは、そういうクラスのレストラン以上に存在することが出来ない。これは日本語のミシュランガイドよりも確かなことだ。

さて、カメラの「クラス」の場合、この紙ナプキンに相当するのと、布のナプキンに相当するのとの区別はどこにあるのであろう。

フルサイズのデジカメが布のナプキンで、コンパクトデジカメは紙のナプキンというわけでもなさそうだ。

いっそのこと、デジカメはファーストフードだから、サイズに関係なく、全部が紙であり、ライカのような(ただしM8は入れない)フィルムカメラは布ナプキンであると区別すると、理解がしやすい。

上の画像は、エプソンRD-1s スーパーロッコール50ミリf1,8
横浜の日本郵船歴史博物館にて

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月20日 (水)

本日よりキャプリオR8の運用開始

R1146314

GRデジタルワークショップ 2 (2) (エイムック 1483)

      

買ったきっかけ:
買ったのではなく、書いたきっかけは
えい出版の清水編集長のすすめによる。
売れない本は出さないわけで、おかげさまで、シリーズの1は売れているのである。
これは二匹目のどせうである。

感想:
シリーズ1より、自由自在に書いた。
作例も自由にやった。
GRD2のトップの口絵は、モノクロの北区滝野川。

おすすめポイント:

本書はGRD倶楽部の会員パスポートである。

「佃1丁目ーー六本木6丁目」というカラー口絵は、通勤路を撮影した。1月2日のヒルズへの初出勤の時の撮影である。
日本の現代の東京の不思議な風景のコントラストに吃驚した。

下の評価は本音です!ほんね。

GRデジタルワークショップ 2 (2) (エイムック 1483)

著者:田中 長徳

2月20日14時57分現在

Amazon.co.jp ランキング: 本で294位

23時55分現在

Amazon.co.jp ランキング: 本で276位

@@@@@@@@

以上は新刊のご紹介。

さて、タイトルの解題。

R8と言っても、ライカR8ではない。
キャプリオR8である。
本日より運用開始。

本日、発売のえい出版の「GRD2ワークショップ・田中長徳指南!」では、間に合わなかったが(新製品の紹介だけはぎりぎりに間に合った)R8を本日より、GRD2のサブとして使用する。

もっとも、目下仕事中の「日本郵船氷川丸」の1008ページ本の撮影ではかなりのショットをR7で撮影していた。
メーンはGRD2、それとカメラマンらしい気分を味わう時には、ソニーのα700を使用したが、ズームレンズ付きのデジタル一眼レフはポケットに入らない。
R7とか、その後のモデルのR8は、尻のポケットに入る。

これはコンパクトデジカメの一大長所である。
発売中の「GRD2ワークショップ」では、作例ではGRD2での撮影のほかに、R7でプラハを撮影したのをかなり掲載している。

高倍率ズームだから、広角側では当然「歪み」があるわけであるが、ここで面白いことを発見した。
本に印刷されると、紙はもともと平面ではなく、製本の綴じがあるから、やや曲面になっている。これが打ち消し効果を生じて、レンズの歪みなどはほとんど気にならないわけだ。

R8はあくまでサブカメラであるが、GRD2がポケットに入っていない時には、これ一台となる。
すなわち、メーンカメラである。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

万年筆を買う

R1146286 いろいろな場所で、「うちは昔は万年筆屋だった」と書いた。そのおかげで万年筆のムックの対談に呼ばれたり、万年筆の質問を受けたりすることがある。

ところが「僕はバナナ屋の息子だった」というのが、バナナに関してよりも写真家として成功しているのと同じく、「僕は万年筆屋の孫だった」というのはその商品知識に関してはかなり怪しいところがある。

にわか造りの工場で、雇い人が数人いて、夜業で轆轤掛けをして、そこらはエボナイトの切削くずでいっぱいだったこととか、在庫が余剰になった金色のキャップを何十個もおもちゃにもらって、それを半ズボンのバンドに刺すとそれが兵士の弾帯のように見えるので、それが自慢で、そのまま銭湯に行った小学生時代のことは記憶に残っている。
しかも、少年の自分が最初に聞いた大人の言葉が「ふわたりてがた」であったとなっては、そのクラスも知れている。

紺屋の白袴ではないが、万年筆屋の万年筆嫌いというので、自社製の万年筆は使ったことは一度もない。もっともそれなりの製品(スプリング万年筆と言った)であったようで、一応、日本橋の百貨店などには自社ブランドでウインドウを出していた。

ペン先は曲がっていて、逆さまにペンを持つと「太字」が書けた。
また、軸にスプリングが仕込んであり、インキ壷にペン先を押し付ける動作を繰り返すことで、インキが注入できた。
そういうすべての商品とかポスターが散逸してしまったのは、実に残念である。

万年筆は、自分では2本持っていた。それは同じ型番のラミーであって、1本はえい出版から、趣味の文房具とか言う名前入りのをもらった。これは太字だ。
もう一本は、リコーがgx100かなにかを出した時に、プロモーションで出したもので、これはやや細い字が書ける。
このリコーブランドのラミーは昨年の秋に、プラハで知り合いのジャーナリストに所望されて譲った。
もと共産国のジャーナリストというのは、嫌みなもので、各国のメジャーの会社のマークのついた文房具をコレクションしているのだという。
なにも、そのジャーナリストを批判するつもりは毛頭ない。彼の責任で、社会主義になったわけではないからだ。

もう一本のえい出版の方は、昨年の大晦日に氷川丸の中に忘れて来たのである。氷川丸の金谷船長がそれを保管してくれているので、次回に氷川丸を撮影に行った時にピックアップするつもりだが、目下、1本の万年筆も持っていないのである。

さっき、今度出す(3月11日)のアスキー出版の新書「カメラは知的な遊びなのだ。」の初稿を戻した。これは赤のボールペンが必須だ。
目下の日常では、万年筆の出番はない。万年筆が必要なのは、moleskinのノートにスケッチをする時である。これはボールペンではうまく行かない。
しかし、目下、外国にいるのではないから、万年筆でスケッチをする時間のゆとりがない。
それで万年筆が無くても困らないわけだ。

ライブラリオフィスメンバーのKさんから、真新しいペリカンの万年筆を見せてもらった。誕生日の記念に新調したものだという。
ペリカンはいい。
自分もそのペン先を見ているうちに、一本、いいのが欲しくなった。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2008年2月19日 (火)

cafeを忘れてしまった

02240005 プラハから戻ってあしかけ5か月である。本当は1月に2週間ほど行く予定であったのが、仕事のシフトの関係で止めになった。
その事はかまわないのだが、東京での欠落感は、カフェに行っていないことであることに、気がついた。
カフェは喫茶店でないから、ドトールとかスタバでは代用にならない。欧州のカフェは生活の基盤である。
ウイーンなどは、昔から住宅事情が悪かったから、暖房費を節約するためにカフェで仕事をする物書きも沢山いた。
事実、自分などもその一人であった。行き着けは旧市街の1区にある、このカフェ、つまりhawelkaである。

1947年の創業だから、自分と同じ年なのである。一区のグラーベン通りの銃砲店の脇を入って、キャバレーカサノバの隣。火曜は休みだった。
開店時間も閉店時間も知らない。というのは、自分のウイーン時代、7年と半年の間に、早朝でも深夜でもカフェは開いていたからだ。

そこのゲストブックは凄くて、歴史上の(ただし1947年以降の)ウイーンの歴々たるアーチストで埋め尽くされていた。
ドアを押して、店の左側の壁際の3番目のテーブルに座るのが何時もの自分だった。店主のhawellaさんが来て、短い挨拶の後に、頭上のランプを点灯してくれる。
それから、入り口近辺のテーブル上の各種新聞をあさるのである。
新聞はこのような感じで、木製とうのか藤を編んだような新聞ホルダーに入っている。巨大な布団叩きのようなものであるが、案外に操作はし易い。
片手で珈琲カップを保持して片手で新聞を読むという、ウイーンのカフェ独特の離れ技はこれで無いと不可能である。

大抵はクライネブラウネ(小さいミルク入り珈琲)を注文した。
小さいカップと水のコップが銀の盆に乗って登場する。この水がサーブされるというのが、ウイーンのカフェの自慢であった。

まずは1時間半はそこで新聞読んだり、人に会ったり、メモをとったり漫然と周囲を観察したりする。
2時間を経過して、そろそろ、そこから徒歩で5分の場所にある、1683年からそこにある、エステルハーツイケラーという地下の酒場の開店時間になる。
それで、そこに移動する。

ここはかつてスナップ名人、木村伊兵衛さんが撮影した、有名な酒場だ。常の1/4リッターのガラスのジョッキでサーブされる。ここのワインはアイゼンシュタットの辛口。外から食い物は持参して良いので、日本料理でワインを飲ったこともあった。

これがウイーンの日常だった。常に携帯していたのは、戦前のライカか、ソ連製のコンタックス。フィルムは映画用の期限切れのモノクロ。
そのワイン酒場に類する店は日本にも存在するが、ウイーンのカフェに相当する店というはない。
どうも日本のカフェは単なる珈琲の飲み場であるか、さもなければお洒落な会合場というものはあるが、生活と二重になるようなカフェはない。

まあ、今更そんなことを言っても仕方ないので、時間を見繕ってウイーンとかプラハのカフェに行くまでのことである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月18日 (月)

キヤノン2bとDAHAFLEX

R1145888 ほぼ、正確に4年ほどの周期をもって、キヤノンの旧型のレンジファインダーが自分の中で沸騰している。
今年はうるう年なので、やはり旧型キヤノンが頭上に登ってきた。
それは4SBでも2Dでもなく、その前のまだメイドインオキュパイドジャパン時代のキヤノンである。その当時のキヤノンはその造りが実に素晴らしい。

その金属の質量が重いのだ。しっかりした造りというだけではない。
変な言い方であるが、カメラの重さが金属の重さではなく、その中に「思想」が込められていて、思想に重さがあるのかないのかは知らないが、それが思想であるのなら、これは確かにその重さがそこに実在しているという感じがする。

そのずっしり感覚というのが、これはどうも占領国時代に生産されたカメラの一大特徴と感じられる。

ダハフレックスというのは、サードパーテイ製のファインダーの背部につけて、正像を見る仕掛けのアクセサリーである。
かなり以前に東京のカメラ店で買った。銘は入っていない。これも占領下に作られて製品独特の手造り感覚があって、ずっしりと重い。

アクセサリーシューの上に固定して、普通に使うときには、脇に寄せられるようにヒンジがついているなかなかに便利なデバイスである。
しかもその像はハイアイポイントになっている。別にこれを使って撮影をするというわけでもないけど、キヤノンのカメラの上から覗いてそこに左右正像を観察するのは、古い合わせ鏡を覗くような感じだ。
こういう気分を占領国下の気分というのであろうか。

レンズには50ミリF1,5が付いている。これは講和条約以降のレンズである。正しくはセレナー50ミリF1,9だ。この占領下レンズには絞りの小さい方はF11までしかない。
これは大昔のゾナー50ミリF1,5の真似なのだ。そのレンズの描写がまた良い。キヤノンが実に精機光学の時代だった。


R1145893

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月17日 (日)

en-taxi東京大周遊@旧滝野川区

R1146143 金曜日。
en-taxiの次号の為の撮影行。
同行者は福田和也さん、佐藤和歌子(間取りスト)さん、鵠沼のブレッソンこと佐々木潤一さん、カメラマンの桑嶋さん、en-taxi副編集長の田中陽子さん。
例のごとく、この人員で集合するとかなり怪しい。
その怪しさを中和してくれるのが、カメラマンの桑嶋さんのスタイルだ。ここらの事情は今描いてしまうとネタばれになるので、次号のえんたくで書こう。

例によって、東京市滝野川区をあっちこっちと徘徊する。
残念なのが、好天であったことだ。自分は粉雪まじりの曇天のモノクロームの画面を期待していたのだけど、物事は思い通りには行かないものだ。
つまり、命がけの「撮影の千日廻峰行」が、あと一歩踏み間違うと単なる中高年の愉しい下町カメラサンボに堕落してしまうところだった。
あぶない、あぶない。

例の如く、福田和也さんのカメラとレンズの選択はカメラ南坊録にふさわしい。レンズはトプコン通りに行くので、トプコール50ミリf1,9、しかもフィルターが外れないという名物である。カメラ本体はわざとヘキサーRFでここらがかねわりの極意だな。

子規が友人知人を招くのに、「水仙を古樽に投げ入れよ」と家人に指示して、古樽なしと言われて、「ならば水仙は全部取りのけて、雛をまつれ」と指示したのを思いだした。
カメラ選びはまさに台子飾りである。

そうそう、数日前の(月曜の)東京大周遊@本郷で、tohnetの利根川さんのカメラはライカM4のブラックであって、M6ではなかったとご本人からクレームが来た由。ここに訂正しておく。

撮影の実際は「中略」。

午後5時、まだ明るい空のもと、「痴漢もでないトプコン通り」の脇の戦前の混擬土(コンクリート)の塀の脇を通り、「楠」に至る。
閑談。
午後6時45分。食い違い小路の闇を抜けて、中山道の「浜出屋」。
30年も行っているが、大抵は一人酒。6人で行くとまずメモに注文を書いて渡すことになる。初めてなので緊張した。

オンラインでモノを注文するのには馴れているのに、緊張したのは、手描きのせいである。自分の手描きは自分でも何が書いてあるか、分からない。そこからインスピレーションが沸くのであるが、これは「連座」であるから、内容が分からないと困る。
しっかりボールペンを握った。

はつ6本
たん6本
れば6本
とり6本

しばらくして届いた皿の上を見て、しまった!
と、思った。こってりとたれの中につかった串である。
「しお」と書き加えなかったのである。
30年来、いつもしおであった。
まあ、それはそれでまったく別の店にいるような感慨がある。

修ちゃんの居ないのは、ちょっと店の奥に引っ込んでいるという風に理解した。
宇宙の時間スケールからすれば、3分、店の中に引っ込んでいるのも、3億年も同じことであるから。

福田さんは、石原知事と立川家元をはちまき岡田で座談会を開催したとき、どちらを床の間の前にご案内するかで迷って、結局、床の間のない部屋にしたという話をした。

いっそのこと、人数分の床の間のある部屋を作ったらどうでしょうか。と、自分はつまらないあいずちをうった。

間違えて頼んだ、浜出屋のたれのやきとりはそれなりに美味。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月16日 (土)

ジョブズとマックエアと大谷和利さん

R1146051 R1146054 「i Pod をつくった男」(アスキー新書)を出した大谷和利さんが、ヒルズに見えた。アスキー新書の編集部の本多いずみさんと一緒に見えた。

大谷さんとは10年ぶり以上である。デジタルカメラマガジン創刊前後に大谷さんが同誌の企画で、ライカM3にデジカメを組み込んだカメラを制作した。
それを偽ライカ同盟展(新宿のマップカメラ)で展示させていただいたこともある。
80万画素程度のデジカメをM3のボデイの中に埋め込んだのである。

今にして思うと実に不思議なことだが、当時はこの程度のスペースにデジカメを実装するのも困難な時代だった。それで、このur Leica M8の場合、撮影レンズは一見ファインダーに見える部分(アクセサリーシューに付けるファインダー)で画像を撮影するようになっている。
これを大谷さんが制作したのである。

10年ぶりの大谷さんは、最新鋭のPowerBook Airを持参して見せてくれた。確かにマニラ封筒に入る薄さである。これで価格20万というのだから、PowerBookも安くなり、かつ高性能になった。大谷さんの話では、ベンチマークでは初代のマックブックよりもやや速いという。

自分の場合、マックブックはなにかヨックモックみたいで使いたくないのと、インテルインサイドというのが機に食わないので、まず買わないであろうが、その薄さには驚く他はない。

大谷さんは他に、360度を全周分割して撮影する新型カメラのプロトタイプを見せてくれた。これにはキヤノンのコンパクトカメラがマウントされていたが、シャッターをレリースする箇所は機械的だから、GRDなどでも使えそうだ。

エアバス380の発表会の画像で、(まだエアバス社のHPで見ることができる)発表会の全部の環境をパノラマで撮影したショットがあって、これはどのように撮影したのであろうか、と気になったものだが、案外なことだった。

アスキー出版の本多さんから、今度出す、「カメラは知的な遊びなのだ」に使用する作例のラフを見せられる。案外に作例然としていないセレクションなのが気に入った。これは3月の出版である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年2月15日 (金)

KCチョートクカメラコラム

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラ

デジタル一眼レフのリアルビューファインダー的な装置は必須か?

先月の17日は坂崎幸之助さんと暗室同盟を土浦でやっていたので、ソニーの内覧会には出席の返事を出したのだけど、結局ゆけなかった。周囲のメカライターさんに知り合いはいないから、いったい何が出ましたかと、聞くまでもない。

それで後日、公式発表になったデジタル一眼レフに「リアルビューが可能な機種」が登場した。ソニーとしては、α700で「リアルビューが搭載されない」というあせりがあってか、次期の機種に搭載したのであろうが、実はプロ連中の意見を聞くと「リアルビュー?必要ありませんね」が大半の反応なのである。

ようするに純粋な業務用には無用なエンターテイメント的なファインダーの表示要素である。リアルタイムでモチーフをとらえるのなら、エプソンとかM8のようなRF系の方が実際には使いやすい。

リアルビューというのは、もともと映画のコマーシャルの世界などで、周囲に集まっている、金主を納得させるために、35ミリのアリフレックスからファインダー画像を抜き出して、これをモニターで観察させるようになったのがその最初である。

ようするに、「船頭が多くなり過ぎて、なかなか船の進行が決まらない」のがリアルビューシステムだ。

アマチュアさんは、この「画期的な道具」で、「構図について深く思いを致す」ようなことになると、またもや写真をリアルに撮影するという、撮影の楽しみを奪ってはしまわないか。

かつて、アルルの写真祭りで巨匠奈良原一高さんは、ゴッホもモチーフにした跳ね橋の前で、アングルで1時間も考えたという伝説がある。

これは銀塩時代のしかも世界的巨匠の行跡だからよいのであって、定年後の楽しみにデジカメをもったわが同世代が名所旧跡の前でリアルビューで、構図を考えだしたらそれこそ悲劇である。

一眼レフファインダーはすでに理想のファインダーなのだから、それ以上、構図に関して考えているひまに、もっとたくさん撮影をしなさい、と申し上げたい。

@@@@@@@@@@@@@@@@@

★銀塩クラシックカメラ

メイドインオキュパイドジャパンの刻印のあるカメラ

世界にはいろいろなコレクターがいる。その中にメイドインオキュパイドジャパンモノを収集している人種もいる。その中でカメラのオキュパイドものを収集しているのがほかならぬ自分である。

占領下日本の刻印のあるカメラは1950年の講和条約以前の製作であるわけで、はるかに過去の時代の産物のように思える。

ところが、その当時の製品を手にとってみると、これは何と言えばよいのか、カメラとかレンズに「気」が存在するのならそういうオキュパイドものには、そのカメラとかレンズの「気」が充満しているように感じるのは不思議なことだ。

ようするに機械としてのマニアックな魅力に満ちているのだ。現代のデジカメのデザインの将来が見えない時代に、案外、この占領時代のカメラのデザインはヒントになりそうである。

占領国日本の刻印を製品に刻印することは、メーカーにしてみれば、一種の恥であったのは確かで、それぞれに工夫がなされている。当時のニッコールレンズのある種のものはレンズの裏側の反射防止の塗料の上に目立たないように刻印されている。

またキヤノンのセレナーレンズなどは、本体には TOKYOとあるだけで、オキュパイドの刻印はなんと、レンズのリアキャップに打ってある。

最近、手にしたキヤノン2Bは、その刻印は本体の下部に実にニートな感覚で打ってある。それがキヤノン2Bの後期は独立国になってからだから、普通にメイドインジャパンでである。

気のせいであるのは知っているけど、なにか占領国日本の刻印のあるカメラの方がその精密感覚があふれているように思える。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

東京が堆積してゆく

R1146032R1146038 R1146046 水曜日。

どうも月曜が連休のラストで、火曜がその週のスタートだと曜日に混乱がおきるようである。

仕事のことではない。火曜は山谷の大林が休みで、水曜は隅田川の東の某酒亭が休みというように、自分の頭脳には酒場の休み注意のカレンダーが存在するのであるが、その日付が狂ってしまうという意味だ。

昨年の10月の欧州行き以来、ちょっとしたストレスになっているのが、「東京が降り積もってその中に自分が堆積して行く」という被害妄想である。

大体、2月か3月に一度、向こうに行っている場合は普通なのであるが、最近では多忙のために「欧州で息をつく」ということがない。

東京の生活というのは息をしないで、水中にいるようなもので、これはあまり体にはよくないであろう。だからプラハを歩行していると、自分の呼吸の音が分るし、その呼吸が深くなっていることもわかる。

1月は10日からプラハに呼吸をしに行く予定であったが、それは止めになった。向こうで仕事は普通にできるのだけど、時差があとあとまで残る自分にしてみると、東京に戻ったあとに社会復帰できないのがつらい。

それで6月まではプラハ行きはなしである。

そう思うと、まだ5か月もあるからその間にどのように日々を暮して行ったらよいのか皆目見当がつかない。

思考を変換して、時系列順に仕事を書き出す。ただし連載などは入っていない。

GDR2ワークショップ(えい出版)

岩波写真文庫田中長徳セレクション(岩波書店)

「カメラは知的な遊びなのだ。」(アスキー新書)

東京大周遊ほか(en-taxi)

日本郵船氷川丸(東京きらら社)

タイトル未定の新書(筑摩書房)

ローライ二眼レフワークショップ(えい出版)

女子ライカ部(東京きらら社)

500ページのモノクロ「トウキョウの写真集」(東京きらら社)

プラハのモノクロ写真集(某書肆)

ほかにも大事なのがあるかも知れないが、思い出せない。

カメラと写真の方向はだいぶ固まったようである。つまり銀塩は暗室で、収斂させ、デジタルはオンラインで拡散させるという方向だ。

ようするに時間意識の問題なのだ。時間をどうマネージメントするかというのは、現代の写真人にとって重大な問題である。

デジタル以前の大写真家はその意味で、モノクロの銀塩だけを相手にしていればよかった。往年のウエストン、フランク、アベドン、ブレッソン、アダムスなどなど彼らに一様にある種のゆとりの表情が見られるのは、あれは時間のゆとりなのである。

画像の丸いのは、シュタイナーM22に代わって、ケルン(スイス)の軍用8x30をGRD2に押し当てて撮影。

双眼鏡は海軍は7x50で陸軍は8x30が標準である。船の上に置いておくのと、常に移動するのとでは、その重さとサイズが異なるのは当然だ。

カメラマンを「歩兵」に例えるなら、やはりデジカメは一眼レフではなく、コンパクトの方が「白兵戦」では有利であるのはいうまでもない。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年2月14日 (木)

例の写真部@本郷ラビリンス

R1145900 月曜のはなし。

例の「写真部」が本郷で東京大周遊大撮影会、ならびに日本路地裏学会本郷調査をするというので、その同行取材をした。実際、写真部だけというのは、ほかと区別がつかなくて、面倒であるから、ここでは便宜上「例の写真部」ということにしておく。

午後1時半にかねやすまでは江戸のうちの前で集合。当時のご朱引き線の限界、こっから先は異界である。

運よく、かねやすのシャッターが閉まっていたので、そこで写真部全員を並べて記念撮影をした。

なにか銃殺される直前のパルチザン小隊という格好である。

それから、一応、自分がナビ役になったので、全員を本郷ラビリンスに引率して行く。

持参のカメラは福田さんがはっせるSWC,間取りストは、おじいさんの遺品の馬宮六型、円タクの田中さんはヘキサー。藤原会計担当は、ライカMPにライカビット付き(ただし1956年製造ではなく、今のやつ)。利根川さんと瀬尾さんはライカM6かなにかだったが忘れた。雑司ヶ谷の石丸消防団員は、オートボーイであった。

こういう布陣になると、おじいちゃんからもらった間宮六とか、誰かからもらったオートボーイが、ほかの100万円カメラを圧するような、中古カメラの下剋上が起きる。それが面白い。

本郷セッションが90分。それから建国記念スペシャルというので、佐竹商店街の裏の方面、日章旗はためく裏町の大撮影会。

さらに反省会を4本。順路は以下の通り。

昭和通りの蕎麦屋=JR高架下の三〇〇円均一の飲み屋=広小路のデリー=銀座の高級バーTOHNET。

還暦じじいの自分は10時をきりにして、歩いて先に佃に戻ったが、あのあとにはどっかのジュージュー焼きとかのオプションがまだまだあったのであろう。

恐ろしい集団である。

間取りストを中心に談論活発で大変な怪気炎であった。まあ、こういうのが新時代のカメラクラブなのであろう。というのは本来ならば、ここは福田先生が写真部の代表、組長、胴元、総統、主将、かつ重鎮というわけだが、ここでは全員がイコールの代表権を持っている。これはスイスのランデスタークか。

しかも向上心など最初からない。向上心は酒の梯子乗りだけ。ここがえらいところだ。

昨日の参加メンバーで唯一向上心のあるのは、市丸消防団員であって「写真部で写真展やりましょう!」というおやじ発想だ。

なにしろ、石丸消防団は、朝の6時半から雑司ヶ谷霊園ラジオ体操部で毎日やっているのである。

このラジオ体操という奇怪な国民運動は、人間が昇天するまでの、つまり、日々の生活から霊園に到着するまでの残りの人生の暫定時間をいかに延長するかという韜晦な趣旨で開始されたもののわけで、そういう運動がその終着点である雑司ヶ谷霊園で開催されるということそのものが、実にシュールな存在である。ブルトンもツアラも辻潤もこの運動にはかなうまい。そのミスマッチな語感も実によい。

間取りストは、なんでも高校が土門拳ゆかりの高校というので、酒田あたりかとおもいきや、横浜の反町方面だという。浅田恵理子んちの近くである。そこに土門が一時住んでいたとか、そこで苦労したとかいうので、土門ゆかりの高校ということらしい。

こういうのは、姑息な一村一品運動のような感じがして、その「せこさ」がよい感じだ。

なにか、丸山薫が一時、どっかの北国の代用教員であった関係で、そこに記念館ができるのと同様な次第だ。弘法大師がそこら中で、錫杖をついたら温泉がわき出したとか、パパヘミングウエイの行き着けのバー(ミシガンではそこら中にこれあった、パパは梯子酒派なのか)と同じ存在である。

さぞかし、土門拳ゆかりの高校だから、写真部が盛んなのであろうと思ったら、なんと間取りストだけの「一人写真部」であると聞いて、二重に驚愕した。こりゃ最大のブラックユーモアだな。

高校写真部に関しては「カメラ悪魔の辞典」(光文社文庫)に詳しく書いてある。

まあ、写真部(訳注*例の写真部ではなく、間取りストの高校の写真部のこと)などは、9人いないとプレーができないということはないので、一人写真部はある意味、理想である。なんでも暗室は六畳を占拠して活動していたそうだ。

毎回の文化祭などは、一度の例外もなく、「個展」なわけで、大したものだ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月13日 (水)

ライカ愛好会@六本木

R1145838 日曜のお話。
三連休みの中日に、ライカ愛好会(東急BEのカルチャーセンター)に参集する皆さんは、家族サービスもあるであろうに、実に偉いと思う。
それとも、家族の理解があるとも認識することができる。

日曜の朝からずっとヒルズで、3月に出る「カメラは知的な遊びなのだ。」(この最後に○のつくのが、千円札は拾うな。みたいで気に入っている。無論、自分のつけたタイトルではない。アスキー出版の精鋭のプロの命名だ。

午後1時半にライカ愛好会と下の「蜘蛛のオブジエ」にて集合して、黒川さんのナショナルギャラリーではなく、そのさらに手前のラビリンスにダイビング。
この迷路に入るのは、5年前に「チョートク@六本木ヒルズ」の撮影で徘徊した以来である。これがパレルモのクアトロクアンテイであれば、迷路で完全に方向感覚を失って本物の迷子になれるわけだが、ここでは羅針盤としての森タワーがあるので、その分、楽しみは割り引かれる。

さらに、5年前に存在しなかった、ミッドタウンもあるのでまず路地裏航海はますます安全に、別の言い方をすればつまらなくなったわけなり。

毛利庭園の一部で、庭の石組みの素晴らしい大名庭園あり。それが「六本木西何とか公園」となっているのは興ざめである。

45分で切り上げて、六本木ヒルズクラブの51にて、茶話会。
日曜にここに来たのは初めてであるが、家族連れも多く、どっかの高級ファミレス(そういう場所に行った事が無いので、想像だけど)のようでかなりカジュアルだ。普通の日のような、外人とか外資系の金融関係という人間は見えない。

夕刻、まっすぐに佃に戻る。

これを書いているのは、月曜の朝10時半なり。
今日は午後1時半から、アサヒカメラの4月号関係で福田和也さんらのやっている「写真部」を同行して研究。
カメラによる仲間造りの話題のその一つである。
持参するカメラは、GRD2(これが最も小形軽量)それにスーパーアンギュロン付きのライカM3。ライカに関しては40年前と変わらず。
フィルムはネガカラーを3本。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月12日 (火)

2月の三連休

R1145870R1145843 土曜は、雪が降りそうで降らない暗い日。
朝、ひさしぶりに魚河岸。まぐろ。それとたいらぎ。またたいらぎの季節になった。

午後2時に野々宮BMWが「飛来」する。それに便乗して、四ッ谷のアローカメラ。アローの2fのがらくた館は撤収準備であるが、頭痛の種は例の1200ミリのニッコールを持ち帰ることだった。これは製造番号を調査したら、二番目にレンズであって、東京オリンピックを取材したレンズであるのは間違いなし。

大昔、吉田大鵬さんが巴里に行っている間に、彼の事務所に忍び込んでアシスタントさんと雑談した。その話によれば撮影中に吉田さんは「おいっ!1200ミリ!」といきなり長い玉を要求するのだそうである。だからアシスタントは常にあの長いレンズを持参していたそうだ。
これなど、実に70年代的な話題だ。
その1200ミリはどっかの校長先生が建てるカメラミュージアムに移籍することになった由。

アローカメラから、サンダーソンとか、マキフレックスのような残品を野々宮ジャガーに積んで、天候の悪い中を品川の松坂屋カメラ。ここでもカメラ遊びをしたが、買い物は野々宮が3000円にて旧タイプのニッコール200ミリを買ったのみ。
お客さん商売とは言え、これほど客単価が安くてはお店もたまったものではなかろう。

都心に戻る。
例の如く、月島の枝村酒店。それから月島のたまや。帰宅。

日曜日のこと。
三連休の中日。朝からヒルズで原稿書き。
午後1時半から、東急BEの「ライカ愛好会」あり。
5年ぶりにヒルズの北側を歩行する。参加