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2008年1月

2008年1月31日 (木)

芋の葉の緑をコンタックスlllaで撮る

Fh000019これは 八頭(やしがしら)というのか、何と言うのか。

昨年の春に久しく使っていなかった、普段はマックを入れて歩く、黒いデイパックを調査したら中にショッピング袋が入っていた。
その袋はそこそこの「嵩」があるのだが、それはライカのような比重ではない。それよりはずっと軽い。

開いたら、巨大なクロッカスの球根のようなしかしずっと巨大な物体が登場した。それが里芋とか、八頭とか言う芋のたぐいであることは自分でも分ったのだが、さて、何時、誰にいただいたものか皆目、見当がつかない。

それを食ってしまうにはしのびないので、チエコ製のクリスタルの鉢に水を満たして、ベランダに置いたら数日を経たずに、新鮮な芋の葉が何本も出てきた。

眼前は隅田川であるが、ここは都会の中心だから親水公園とか普通の公園はあるものの、それは「自然を模した」偽自然に過ぎないのであって、今更都会生活をしていてそういう不満を並べたてて見たところで、それが身勝手なことは良く分っている。

それだから、逆にクリスタルグラスから伸び出した、ひとむらの芋の葉は初夏の朝などは、本物の田舎のそれのように、まるで葉の根元に玉の露を宿しているように思えた。

昨年は8月の猛暑には自分はプラハに逃げていなかったが、9月の半ばという時に、家人は「専門医が診ても重症」と太鼓判を押すほどの帯状疱疹になった。

暑さのせいである。

最近では「恐れ多い」方面で雅子さまがこのご病気でご苦労であるが、この発症を機会にして、家人などは雅子さまのご苦労が良く理解できる、などと漏らしている。
同様の病はマエストロ・オザワもそうである。

その家人の発病の9月に翌10月の家人のソプラノリサイタルはもう出来ないのではないかと思ったが、家人は持ち前の「大和魂」(おかしな言い方だけど、他に語彙が見つからない)で、リサイタルはそこそこの成果を挙げた。

10月にまだ完治しない家人を心配しつつ、プラハにパノラマカメラを携えて、行ったわけである。それから今年の1月にはまたプラハ行きの予定であったが、予定が殺人的になって、プラハ行きは目下、延期となっている。

くだんの、芋の葉のことだ。

9月の家人の発病と共に、葉っぱは枯れてしまった。

家人は「これは自分の病気の身代わりになってくれたのでは、、、」と言っていたが、さもありなんと信じられるような枯れ方であった。

それが12月の声を聞いて、芋の根っこの表面からまた新しい茎がどんどん出て来たのは嬉しかった。なにか「再生」という言葉をそこに実感として強烈に感じたのである。

ライカインコの籠と段ボールの乱雑な家の中で、その芋の葉っぱのコーナーだけが生気に満ちているように思ったので、カメラを向けた。

カメラはコンタックスlllaに35ミリレンズだ。そのコダックのカラーを現像してCDに焼いたのを見たら、これが良く写っているのである。
それが普段慣れている、デジカメの描写ではなく、あたかもカラーネガをスキャンしたので、「大事な色彩が抜けて」いるわけであるが、そのマイナス面が逆に思わぬ効果を生んだ感じであった。
その画像がこれである。

ああ、もう一点。目下発売中の大日本講談社のセオリーというムックでは「新定番」についての特集である。自分は不勉強なので、白州家と小林秀雄の親戚関係をこのムックで初めて知ったのだ。

それはともかく、このムックの後半のカメラの新定番で、ライカやローライや、コンタックスや、それとリコーGRなどが登場して、そこで「専門家」として自分が出てくるのだ。

それはインタビューを構成したもので、その前後のカメラの話は自分は関知していないのだが、コンタックスの紹介の中で、編集部さんが「コンタックスA2」とやってしまったのは、かなり吃驚した。そんなカメラはこの世にありません。

コンタックスllaである。

その為にだけでも、このムックを書店で立ち読みする価値はある。

それと、もう撤去されたかも知れないが(先週の土曜にはまだあったが)東京メトロの永田町の有楽町線と、半蔵門線の乗り換えの長い長いエスカレータに、この講談社の「セオリー」の最新号の長い長い長い長い広告が出ている。

くだんの広告は地下50メーターの大江戸線の六本木駅のエスカレータでも見ることがあるが、こっちは一枚、一枚がバラバラのパネルであるのに対して、永田町駅のそれは、洛中洛外図の絵巻物だ。
しかも乗客が勝手に、エスカレータで移動しつつ、全貌を見れるのが良い。

恐らく東京メトロの広告だから、通常のポスター掲示料であろうが、経費のかからない効果的な広告だ。

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2008年1月30日 (水)

一千一秒物語

Icam0292 何時もランチの時、1個のサンドイッチと珈琲を前にして、その短い時間の間だけ読むのが、岩波の文庫の総目録である。そのことは前に書いたが、今日、ランチの時、その目録のある場所に行ったら、その脇に稲垣足穂の「一千一秒物語」を発見したのは嬉しかった。
「一千一秒物語」などは、文庫から、伊達得男の足穂全集、現代思潮社の「大全」さらに筑摩から数年前に完結した全集で読んでいるのだから、今更の感があるが、これは1923年刊行の金星堂版の復刻なのである。
これは嬉しい。

足穂フェチの自分は、新潮に掲載された初出と、その後の定稿を比較する程度までは読んでいるのである。

例えば、戦前の足穂が滝野川の奥のダンス教習所に食客としていた当時、実篤が大塚に来たというので、なにか例会のような場所に連れて行かれて、末席に座らされる。

その時の実篤の様子を「あまり信用のおけない羅漢のような」と表するのは痛快で、正鵠をついているが、初出の新潮ではそこは削られている。
実篤先生が生きている間にはまさかそんなことは書けない。これは編集が削ったのであろう。

復刻の「一千一秒物語」は実にリアルである。当時としては型破りの造本だ。
20代にこういう本を出したら、後はどんなに困難が足穂の人生に待ち受けていても、その清算はとっくにプラスになっている勘定である。

一点残念なのは、活版の復刻であるから、活版独特なあの「押された印影」の感じがないことだが、そこまで贅沢は言えまい。

それから、上の画像は例のミノックスのミニミニライカM3デシで撮っている。こういうブツを撮影すると、不思議にリアルな写り方をする。

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2008年1月29日 (火)

KCチョートクカメラコラム

デジタルカメラ

★カメラの液晶がなくなると、デジカメは高級化するのではないかという妄想

エプソンR−D1sの液晶が見えなくなって1月近くなった。このことは前の日記にちょっと書いてある。

修理に出せば良いのだが、わざとそのままで液晶を裏返しにして使っている。
こうすると、実に銀塩RFカメラの感じがそこに展開して良い。

銀塩RFカメラで250枚撮りと言えば、自分も苦労して手に入れたライカ250があるが、このエプソンの疑似銀塩カメラの場合、2GBのメモリでFモードで、500枚以上は撮影が出来る。

まだメモリにゆとりのあろ時には、あと何枚撮影できるかはっきり表示されていないのも、アナログ的なフィルムカウンター感覚で好きである。そのくせ、これは本物のデジカメであるから、そのメモリの容量は少なくなると、最後は実にはっきりと、5枚、、、4枚、、3枚、、1枚とカウントして行く。それで最後にゼロになるのも好ましい。

液晶のないデジカメというのは、メーカーさんにとっては想像の外であろうが、液晶をちまちま見て構図を云々していては、撮影の方がおろそかになるというものである。

昔も今も、ライカで街に「切り込む」時には、フィルムを装填して、感覚を研ぎすまして、それでエイやっと撮影に行くのが、本来の撮影の楽しみである。

リアルビュ−ファインダーも結構であるが、構図に固執して時間をかけ、さらにRAWモードで撮影して画像を現像の上、それぞれの陳腐な「絵心」を最大限に発揮して、自分だけのお作品の一枚など「クリエイト」していては、どうも写真の大事な部分がおろそかになるのは必定だ。

自分の一番、デザインの好きなデジカメは大昔のニコンのクールピクスである。あれには最初から液晶が付いていないから、きっぱりした存在感があった。

思い切って、液晶をデジカメから無くしてしまうのは、デジカメの高級化に有効なのではと、妄想している次第である。

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銀塩クラシックカメラ

★我楽多屋銀塩組、月島の立ち飲み屋で「よた話」

アローカメラに月一、集合する怪しいカメラ人類を総称して、我楽多屋銀塩組と勝手に命名しているわけであるが、この前の土曜日、その集会である「シドニー」がはねた後、有志と月島は清澄通りの立ち飲み屋に行ったのである。

ここに登場する2名の「純粋カメラ人類」は、お一人はソニーのデジカメレンズなどを生産している、大手レンズメーカーTの金型のプロであり、もうお一人は、やはり有数のレンズコーテイングの機械を生産している会社Sのプロである。

つまりお二人とも、デジカメ産業にはなくてはならぬ「重職」にあるわけだ。

そういう仕事の上では純粋なデジカメプロフェッショナルが、オフの時間に遊ぶのが、クラシックな銀塩カメラであるというは「勇者の休息」という意味ではなんとなく理解できる。

金型プロの持参したカメラは、ボリューR16という、かつてゴダールも愛用していた16ミリの映画撮影機だ。これに仏蘭西はパリのキノプテイク5、7ミリというレンズを付けて、フィルムはトライXリバーサルである。

それでメーターは非電気式の「関式露光計算尺」を取り出して、明かりを読むのである。

金型プロは別段、16ミリ映写機はもっていないという。撮影したら現像して、そのフィルムは室内に放置されるわけだが、ある意味で、これは正しい撮影の一連行動なのである。この人のエライのはケータイもインターネットもやらないこと。その代わり、折りたたみ傘は常時ケータイ。おもえば20年前はこれが普通だった。いつからこんなことになったのか?

一方のコーテイングマシンのプロの場合には、テッシナという名前の、もともとスイスの時計メーカーの生産した、超小型カメラとか、戦前にラトビアで登場した、これは本物のスパイカメラのミノックスなどで遊んでいるのである。

ミノックスは銀座のお店で壊れたのを買って、東急ハンズで金属の薄片を買ってきて、それでシャッターを修理してしまったそうだ。そういう「撮影しないが、カメラいじりだけする人間」というのは、銀塩カメラしか存在しなかった時代には、「邪道」と言われていたのであるが、最近では通常の撮影は、もっぱらデジカメで出来るから、そういう連中はもはや指弾されることはなくなった。

逆に一部からは、尊敬されているようなふしもある。

しかし、せっかく修理したミノックスを空シャッターをきっているだけではもったいないので、手持ちのミノックス用のフジカラー400のネガを1本進呈した。

自分は常に最低のカメラ状態でも、ミノックスA型だけはGパンのポケットに入れてあり(無論、実包が装填してある)さらに、2本の予備フィルムを「虫バッグ」に隠しているのである。

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我楽多屋銀塩組

なにか、時代劇のタイトルのような言い方だが、我楽多屋とは、四谷荒木町のアローカメラ1Fの変わったカメラ店であることは言うまでもない。そこで買った各種の「カメラとアクセサリーは、確かにその魅力を知らない第三者には「がらくた」であろうが、その魅力を知るカメラ人類には「宝石」である。

その買い物日記はすでに「我楽多屋さんで買ったモノマガジン」(東京きらら社)として上梓されているが、またその続刊は近日刊行予定だ。

最近の銀塩カメラの流通問題は今さらいうまでもないが、アローカメラも諸般の事情にて、このたびダウンサイジングをする。
1Fとその関連設備はそのままだが、2Fのカメラ博物館と、3Fの「ギャラリーちょーとく」は2月末にてクローズという。
このことは昨日、知った。

ただし、アローカメラと我楽多屋さんの営業に関しては今までと変わるところはない。巷間、間違った情報で閉店という飛語があるようなので、常連がアローカメラの二代目社長から聞いた話として、ここに正しい情報を伝達しておく。

無論、月一回のカメラのトークショーである「シドニー」も、継続して行く。会場は今の3Fはなくなるわけだが、以前は向かいの喫茶店でやっていたし、あるいは「ライブカメラトーク」として、我楽多屋さんの1Fの売り場でカメラ片手に行うのも、興がある。
2月の第四土曜のシドニーはアローカメラの3Fで行う集まりとしては、最終回になる。

さて、シドニーには常連さんも多いが、其の中にニコンS2のブラックダイヤルを持っている高校の制服の男子がいる。彼も常連さんであるが、この前の土曜には最近撮影したアルバムを見せてくれた。

普通の高校の男子が撮影した普通のスナップかと思って、アルバムを開いて驚いた。そこにはダライラマ猊下の講演会の画像が展開していたのである。

聞けば、その男子は日大豊山であるそうで、これは自分の生まれた音羽の先の護国寺の側の高校だ。その関係でダライラマさんが見えたのであろう。

ダライラマと言えば、カメラ好きでつとに有名である。1950年代のLIFEマガジンにまだ若かったダライラマが、取材にきたカメラマンの機材(それは35ミリのEYEMOのスパイダーターレットの撮影機であった)を手にしている写真を自分は忘れない。

あの時の感覚を手元に置いて置きたくて、後年、南アフリカのケープタウンから、同じ撮影機を購入したのである。

ライツ社がダライラマさんに贈った製造番号555555のライカ3Fのゴールドはどうなったか、そのことが気になって以前、ダライラマに近い筋の人に聞いてもらったら、「側近にプレゼントした」との答えが帰ってきて、それでさすが「カメラ活き仏のつらだましい」と感心し、ライカエッセイにその事を書いたこともあった。

ダライラマさんは、例の右手を肩から出した、チベット仏教の袈裟姿で、講演をしているところが写っていたが、講演なかばでダライラマさんは、サンバイザーの帽子を冠るのである。
それがなにかチベット仏教の袈裟姿と妙にミスマッチしてるのが良かった。

下のゴールドニコンFなどは、そういう「活仏さん」に手にしてもらいたいカメラである。

そういう珍しいカメラ人物の消息に触れることができるのも、このアローカメラのシドニーの特典である。自分などはこのシドニートークで新しい本の執筆の材料を良く発見することが多い。
この「危険集団」をこれより、我楽多屋銀塩組 と命名しよう。R1145791

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2008年1月28日 (月)

JOBS

R1145790 R1145785 R1145786 思えば、NeXT のキューブ以来、自分が熱くなったパーソナルコンピュータはない。
カラーステーションは捨ててしまったけど、キューブ、当時はブラックネクストと言ったが、これはまだ捨てられないで、今も佃の机の上にある。

ヒルズのライブラリでトイレに行くとき、この本(というよりもアイドル写真集めいているのが良い)を発見した。

著者の林信行さんは、ライブラリのメンバーであった。知らなかった。自分は以前、マックパワーに連載を持っていたので、(川崎和男さんのお隣というのが今でも自慢)マックパワーのシンパなのだ。

ぺらぺらめくってみて、実に面白かった。

同時に自分の好きなJOBSはネクストまでのJOBSであったことを改めて確認できたのも良かった。

アップルが大成功になる、ィマック(赤瀬川さんの影響で、自分もこう呼んでいる)も、自転車に乗った子供が、それを聞きながら走行するので、危険だから、公安委員会が取り締まりをしようとしている、iPodも自分には無関係である。

おもえば、ネクストキューブで何冊も本を書いた。そのソフトはクオークエキスプレスであった。
ネクストステップはファイル構造が一覧できるのが良かった。

それと、漢字トーク7を乗せてキューブが作動する、デイドリームというのを使っていた。これはスイス製のソフトだった。
シンプルテキストを1本だけ立ち上げて、長い長いコラムを書いたのも今は昔である。

無論、モニタはモノクロである。と、言うよりもモニタはモノクロに限ると思っていた。カラーステーションとキューブを列べて仕事していたときは、カラーステーションはなにか「俗」な存在に思えた。

光学式ドライブは真四角な黒いジュラルミンの箱の中で、ガッチャン、ガッチャンと音を立てて、ファイルを記録した。
その光学式ドライブは、アキバのラジオデパートに買いに行ったのである。256mbだから使いきれないほどの、広大なメモリ空間だと思った。
値段はたしか4000円にちょっと足りないくらいだったか。

一番上の1985年のインタビューの写真は興味深い。
これは19世紀そのままの取材スタイルなのである。みんな、真面目に手描きでメモしている。
icレコーダなどない。
それとペリエの小瓶。
ペリエの小瓶には、20世紀初頭にライト兄弟も御世話になっていた。

ユイスマンの「さかしま」の中に、パリのバーの描写がある。

「バーテンが卵形のソーダ水の瓶をポンポン開けていた」(澁澤龍彦訳)の卵形の瓶が何か分らなかったが、これはペリエのことではないのか。

NeXTキューブの発表会の画像。このJOBSの頭で、有名な傾いたロゴが隠れてしまったのは残念だ。
この発表会の時、ステージ上のキューブはトラブルがあって、プレゼンテーションは、パラレルに接続された、楽屋のもう一台のキューブで代役をさせた、というのは有名な話だ。

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2008年1月27日 (日)

北斎の神奈川沖波裏

R1145784Px520_1 Dsc00634 金曜のお話。
快晴。

ヒルズに出掛ける時は、月島から、東京メトロと大江戸線を適宜切り替えて、通っている。それでないと「マンネリ」になるのである。

金曜は大江戸線のつもりで、改札に入る前に、江戸東京博物館で開催中の「北斎展」が週末までであることに気が付いた。

これは江戸東京博物館の開館15周年記念特別展であるという。
そうか、、両国の菊竹テーブル建築も、もうそんなに時間が経過したのか。

菊竹さんが最初に自分の家として建てた、「スカイハウス」も最近は増築につぐ増築で、もはや普通の古い家であって、スカイハウスとは言えない。
昭和30年代には、たしかにあれは、音羽の崖の上の「空の家」であった。スカイハウスは大塚の番地表示で、路地裏を隔てて、自分の家の方が音羽5丁目なのである。
この差は「絶対的」なものだった。

そのスカイハウスの竣工時に、となりの田近君の家の木造の2fから、建築写真を撮影していたのを、今でも思い出す。
カメラはリンホフカラー(リンホフテヒニカをそのままビューカメラ化したもの)であって、それは忘れない。

面白いことに、当時の資料写真で、竣工当時のその時に撮影された、一連の写真がウエブ上などに存在していることだ。
これを見て痛快なのは、スカイハウスはオリジナルのテーブル状のスタイルを保っていて、その背後に連なる街並みは、「三丁目の夕日の頃」の普通の木造の甍であることだ。
その中に自分の生まれた音羽の家もある。

そのスカイハウスの一連の画像で、建物の上に巨大な月がかかっているのがあった。これはフォトショップの仕業ではない。大昔の職人さんの、エアブラシの仕事なのである。
だからその三日月はまるで、イスラムの象徴みたいに空にふんぞり返っている。

ついでながら、大塚の菊竹邸そのものは、日本路地裏学会では範疇に入れていない。しかしスカイハウスの脇にある、急なコンクリの階段は「目眩のする階段」と名ずけて、これは日本路地裏学会の重要なランドマークである。

なぜそう命名したのか。答えはその場に行って見るとわかる。

それで今朝、寒風の中を江戸東京博物館の巨大なテーブルの下を歩行した。

その空間感覚は、これは何と言うべきか、小学校の帰りに遊んだ空き地の感覚である。これがいい。

建築家菊竹は、こういう空間を創造したかったのだと、よく理解できた。その菊竹さんの家は増改築で、スカイハウスとは言えなくなってしまったので、この両国のほとりに新たなスカイハウスを建てたのだと、理解するとさらに分かりやすい。

北斎の一連の風景画の木版画は改めてみると、なぜ、当時、これがあんなに西洋人を刺激したのか、それが分かる。肉筆よりも版画がモダンなのは、これは当然の話だ。

その中、富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」にしばし見とれた、というのは、この元旦の氷川丸の撮影で、よく似た印象を撮影した一枚の画像に感じたのである。これがそれだ。

遠景にあるのは、富士山ではなく、どっかの巨大煙突でそこから白煙が登っている。手前は氷川丸の構築物なのだが、これが優美な曲線でオーバーハングしている。
結果として、その気分はなんとなく北斎的になるので、その発見が面白かった。

これで、万葉集時代のように、富嶽から煙が上がっていれば、見立てとしては完璧だ。

同じシリーズで、「深川万年橋」を見る。
その太鼓橋はかなり誇張されているのであろうが、ここは現在では深川芭蕉庵の脇で、そこから見る光景は「ケルンのドイツ橋」に似ているというわけだ。

江戸の風景と東京の風景では、その共通点で視点を同一視できるものは少ない。これが欧州の都会の銅版画であったのなら、そんなに時間経過は見えないものだ。

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2008年1月26日 (土)

大井埠頭に入港するコンテナ船

Dsc01496 木曜日。
12時にリコーの紳士淑女5名様来。
51fのクラブでランチ。この1月からクラブではシエフがレストラン内に出張して、サービスしてくれるようになった。これは5年来はじめてである。どこかの欧州の高級ホテルのブレックファストのようだ。不思議に感じたのは、そのシエフに「日本語が通じる」ということであった。
日本で、そういう経験がないのでそういう変な感覚を持つことになるのであろう。

リコーのひとりの紳士が「おっ、これは食い放題ですか」というので
「ここはクラブですから、そんなお品のない、、、ビュッフェとお言いなさい、、、」と「指導」した。
それから話題は「バイキング」の起源のことになった。この場合は例の「食い放題」の起源のことだ。

10年ほど前に、カメラジャーナルのニューヨークツアーに行った。マンハッタンのミッドタウンのヒルトン(ここは壁が薄いので隣室の音が聞こえるのが名物)で、朝、下に降りていったら、レストランのマネジャーは「バイキング!」と言ったのである。

なにも日本の戦後の現代詩の雑誌のタイトルではない。これは完全な日本語の「食い放題」を言っているのである。
さすが、日本人のツーリストを扱い慣れているな、と感心した。それでそのバイキング朝食は文字通り、納豆や豆腐の典型的な日本の朝飯の「食い放題」なのである。

ランチの後、午後1時から2時間、49fにて「GRDデザイン会議」を開催。
議論百出。

リコーの紳士淑女がお帰りになってから、席をライブラリカフェに移して、M22(シュタイナーの双眼鏡)で、大井埠頭に入港してくる、巨大なコンテナ船を観察する。これはパナマックスクラス(パナマ運河を航行可能な最大サイズ)であろうか。

ほぼ、半時間、タンカーが接岸するのを観察した。ここには大都会のドラマがある。
来週の木曜の夕に、パレスホテルで日本郵船の新年懇親会がある。

その席上で今度の1008頁本「日本郵船氷川丸」について「製作発表会」というか、その内容に関するスピーチを試みるのだが、その為に「付け焼き刃」にて、郵船研究をしているのである。
2月末には、コンテナ船の体験搭乗もある。

観察していると、波静かな(これは快晴の午後でヒルズの49fのカラスの箱の中から観察しているので、そう見えるだけで、実際には強風荒れる午後の東京湾)東京湾をタグボートに先導されたタンカーが静々と入ってくる。
かなりの長距離から観察しているので、しかも進路上から真直ぐに見ているので、タンカーの姿は一向に大きくならない。

港の近くまで来ると、タグボートは左に旋回して、タンカーの裏側に廻るような恰好になった。しばらく経ってから、タンカーのスターボード側にそのタグボートの姿が見えた。

なにか遠距離から見ていりと、タンカーの右舷に接したまま、押しているように見えるのだけど、船舶はしろうとの自分であるから、単にそう見えるだけで、本当は他のことをしているのかも知れない。

なにか飛行機が出発するときの「プッシュバック」のように見えるのが愉快だ。
そこらの詳しいことは、2月2日に横浜の日本郵船歴史博物館で、横浜港入港の船舶のシミュレーターの公開実演がある。これを取材するので、「真実」が分かるであろう。

画像データはソニーα700。タクマー300ミリf6,3。これはしばらく前に四谷はアローカメラで買った。価格1500円。驚愕のコストパフォーマンス!

ーーー

マンハッタンの怪人、チョーセイさんのブログのM8で撮影したショットがすごくいい。

こういうシーンを見ると、自分もM8を使おうと思う。

右のリンクをクリック。

夜景とか、バーのインテリア?)はまさにアメリカだ。欧州では撮れない光だ。

こういうのを見ると、「犬Y」に行きたくなる。彼はカラーメーターを常に持っていて、RAWで撮影しているプロ中のプロである。

映画関係の仕事と長年プロでやっていると、こういうところがシビアになるのであろう。それを「趣味写真」でやるところがゴージャスだ。

チョーセイブログで、例のあたしの使っているタクマー300ミリの話が出てきた。

★ピーター・セラーズのカメラはニコンではなくペンタックス(Honeywell) のようだ。

とある。

見ると、これはニコンF2のクロームボデイのようである。レンズは子細に見ると、タクマーではなく、ノボフレックスの400ミリのネステイングレンズではないかと思った。これはドイツ製の「沈胴レンズ」なのである。

数は少ない。行動的ジャーナリストが400ミリを手軽に使えるようにしたレンズである。

沈胴の400ミリなんて他に存在しない。以前、これを使っていた。レンズは二群一枚だが、良い玉だった。

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2008年1月25日 (金)

エプソンR-D1s+全回転エルマー

Epsn3067 愛用のエプソンR-D1sの液晶が見えなくなった。
どっかの回線の不具合であるから、修理に出せば良いのだが、逆に液晶が使えないのを「ライカ的」であると思ってそれを楽しんでいる。

M8の場合、液晶が駄目になったら、カメラのコントロールが出来なくなるであろうが、エプソンの場合には、そうなってもほとんどダメージはない。

ここらがエプソンの枝常さんのエライ所である。完全なグラスコックピットではなく、アナログ操作を残してある。

こうなると、故障したデジカメという感覚は希薄になり、むしろ、本物の銀塩カメラのような使い方が出来る。撮影した画像を其の場で確認できないということは、銀塩時代には当たり前のことであったから、エプソンがそういう具合になると、その銀塩カメラ度はいっそう高くなるのである。これは良い感じだ。

ニコンのクールピクス100がそうだった。このカメラには液晶がない。それが当時は一種の「いさぎよさ」であった。デジカメの液晶がないような「蛮勇」を奮うメーカーの登場を期待したい。

デジタル一眼レフが各社で「リアルビューファインダーがないと商品として駄目」などと大騒ぎをしている現代に、真っ向から時代に逆行するような考えではある。
リアルビューファインダーを完備してしまったら、そのデジタル一眼レフは一眼レフを廃業していることになる。これは論理的な帰着である。

周囲のプロカメラマンの意見を聞くと「リアルビューファインダー?別に必要ありませんねえ」という人が多い。
ただ「現場でクライアントを納得させるためにはあった方がいいかも、、、」という程度のご意見だ。

エプソンRD-1sの液晶が見れなくなった「小事件」だが自分の場合のデジカメ哲学にこれは一石を投じてくれた。
まず近日、修理に出すであろうが、案外このまま、愛用するかも知れない。

プロの録音機でナグラという、スイス製の高級機があった。各種モデルがあるが、特殊用途の一番小さいモデルは、録音するだけであってその機械には再生装置はついていない。
再生するには、その本体をそのまま再生のドックに入れて、音を聴くのである。
それに似て、エプソンの液晶のない目下のRD-1sの状態はなにかプロっぽくて気に入っている。

上の画像はそのカメラに全回転のエルマー50ミリで撮影した。5万台のライカについていたレンズだから旧エルマーではないかも知れない。小さい画面で云々するのも変だけど、まあ、これだけ写れば最高である。

要するに、ヘリコイドが1回転する、綺麗なニッケル仕上げのエルマーだ。
世の中、旧エルマーを信奉する一団がいる。「旧エルマー団」だ。

その信仰の対象は、やはり硝子の素材がゲルツであってショットではないから、優れているとか、レンズ構成が違うとか、色々な理由があるようだ。
硝子素材がどんどん改良されていて、現在のツアイス(イコンシナ)のような優秀レンズが生まれたのだから、20世紀初頭のゲルツの硝子素材が優秀であるという論理にはあまり意味はないであろう。さもないと、過去100年のレンズの進化の歴史、あれは何であったのか、ということになってしまう。

ただし、このレベルのレンズの性能の話はもうすでに信仰の段階である。ワインの高級品の蘊蓄に近いから、まあ、それはそれで良いのである。

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2008年1月24日 (木)

月曜の夕刻のウオトカまていに

R1145736 やはり東京の「回遊」は必要である。

先週の木曜は坂崎さんと土浦のさかい写真実験室に行ったわけだが、あれからずっと原稿書き。

月曜の午後4時には偽ライカ同盟の福田和也さんとヒルズのクラブで会った。

火曜はその影響で大脳が活性化したので「こうしては居られない」とばかり、東京大周遊を行った。無論、単独行。

月曜の夕刻、ヒルズの51F。

「やっぱりウオトカにしますか?」と、打ち合わせの最初に福田さんに自分が確認したのは、先週、モスクワのホテルメトロポールで、四半世紀ぶりのウオトカまていにを飲んだ話を書いたのを憶えていたせいだが、福田さんは即座に「そうしましょう」と同意した。

これは福田さんが欠かさず拙ブログを読んでくれている証拠なのである。実にありがたい。それから品川湾上空に昇ってきた、真綿を被ったような月を見つつ、まていにをすすった。

それが3杯目になった時、「あ、、、十三夜ですかね」と福田さん。

もっぱらの話柄は、しばらく前、福田さんが手に入れた、ニコンSのことになった。これは「鰐皮パターン」のレザーでなかなかよい感じの本体である。

ニコンSはかなり持っているが、自分のニコンSの美学はそれが「ぼろぼろ」であることにある。つまりはキャパの遺品めいたニコンが好きなのだ。本来はグッタペルカであるから、そういうことはないはずなのだが、時に好事家が張り変えた本体が市場に登場する。

自分の気に入ったのは、「たぬきの革張り」と命名したニコンSであって、これは茶色のバックスキンなのである。その手触りがなんとなく、たぬきが化けているようであって、あまりボデイをこちょこちょとすると、くすぐったがるような気がした。これは「火焔太鼓」の影響である。

それより福田さんのSの鰐皮パターンは質が上であった。

この素材が使用される場所を間違えると、よくスポーツ新聞に広告の出ている「その方面の紳士のセカンドバッグ」になってしまうのだから、注意を要する。それがニコンSの品格を保っているのは、やはり福田さんの「慶応大学教授」という背景か。

ようするに、誰でも持って似合うSではない。自分などは最初から問題にならない。というのはそのカメラは自分もスキヤカメラで見ているのだ。だが買わなかったのは、何かの意志が働いているのであろう。

偽ライカ同盟の黒田慶樹さんとの銀座の立ち話というのは3年前の1月7日であったが、それは実はまだマツモトキヨシの8Fにスキヤのあった当時の話だ。その前の週に自分の手に入れた、ニコンF3のフルセットの話になった。黒田さんはそのカメラを見ていたが、自分は買わなかったということだった。そういう風なものである。

その福田教授のニコンSは知らないうちに、シャッターボタンが脱落してしまったのである。スキヤカメラに持って行ったら「何をしたんですか」と言われたそうだ。まずシャッターボタンは脱落するものではない。

自分が落とすのは、ライカの外付けファインダーの方だ。過去40年の間に、世界中で少なくとも半ダースのライツ製(ライカ社製ではない)を落としている。

変な連想だが、それらのファインダーはそれぞれの土地、巴里やウイーンや、ベルリンやサンセバスチャンやメキシコシテイで、路上にまだ存在しているような気がしている。

サンテクスの人間の土地であったか、リビアのテーブル状の台地に不時着した郵便機のパイロットがその無人の台地の上に「星のかけら」を拾う話がある。これは本物の隕石なのである。それと同じように、自分の落としたライツのファインダーが世界の路上にそのまま忘れられたままに存在したら、これは素敵なことだ。

ちょうど、月の上に置いてきた、アポロのハッセルブラッドみたいなものである。

その話を鵠沼のブレッソン(フィギュア作家で、チョートク研究家)にしたら、彼はそれをテーマにしたフィギュアを製作してくれた。

そのフィギュアは昨年の秋のヒルズでの「チョートククラシックカメラ展示会」に展示したのである。

件の鵠沼のブレッソンはそのフィギュアをヒルズに見に来た。ただし、セキュリテイの人に「これは自分の作品だから」と断ったのだけど、撮影許可は下りなかったというのを、後々まで残念がっていた。

一種の立体曼荼羅で、4面が自分の写真集からとった「名場面」であって、数段の引き出しが付いている。その引き出しの中には写真集から選んだ、テーマが格納されていて、そのマスクを付属のペンタックスの三角形のプリズムの前にお面のように被せて遊ぶのである。

まあ、一種の高度な「カメラコスプレ」だ。

そのフィギュアの上面は四分割されている。その真ん中にクロームのスーパーアングロン21ミリ用のファインダーが落ちているのだ。その路面はウイーン、プラハ、ニューヨーク、巴里であって、それぞれの路上に敷石のパターンを、鵠沼のブレッソンはあたしの写真集の画面から「再生」しているのである。

十三夜の月が高くなって、東京タワーの光が硬くなった時分に、福田さんから面白そうな企画をいただいたので、そのことを考えつつ、ヒルズの車寄せからタクシーに乗った。これからもう一仕事という福田さんを虎ノ門で落とした。

その十三夜の月光の影響で、大脳が活性化したのか。
昨日は東京を大周遊したのである。音羽。神楽坂。新木場。赤羽岩淵。西新井。北千住と周回した。

カメラはエプソンR-D1Sで、レンズは全回転えるまーの50ミリ。なかなか写真が撮影できた。

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2008年1月23日 (水)

ライカM5+ズノー50ミリf1,9

Fh000033佃の 机の上に何年も前から置いてあるのが、ミランダ純正(と、威張ることはないが)の、MLアダプターである。

1960年代のミランダはまさにアダプターの宝庫であった。もともとミランダは実用的な一眼レフであるから、他のレンズを最大もらさずに使用するというのが「会社の方針」であったようだ。
ミランダマウントはアルパと同様にバックフォーカスが短いので、大抵のレンズはアダプターを介して使うことができた。
ニコン、ペンタックス、エキザクタという具合である。さらにミランダをライカマウントに使用するアダプタがあって、それが今、触れたMLアダプタである。

日本カメラの2月号の連載「一眼レフの王国」にミランダTにズノー50ミリで撮影した作例を掲載した。

ズノーは巷間では、その当時としては抜群に明るいf1,1とかそれよりちょっと暗いf1,3(これは坂崎コレクションになっている)とかがあり、35ミリはf1,7というのがある。
どのレンズも「昔のレンズメーカーは偉かった」という過去を思い出す記念碑的なレンズであって、これを手に入れて現代の写真界の大向こうを驚愕させるような傑作を撮影しようというのは土台、無理というものだ。

ところが今では値段が高価なので、そういう勘違いが往々にして起きる。価格というのは性能には無関係なのに、「高いのだから良いレンズに違いない」というので、大枚をはたいて買ってみると、案外にそうではなかったという、これが初心者のカメラ人類がよく遭遇するインシデントである。

要するに、ミシュランの日本語版騒動と同じような「文化レベル」で、これはお話にもならない。

余談だけど、数寄屋橋次郎さんが星星星になったのを記念して、最近、塚本素山ビルのB1fに良く顔を出す。別に次郎さんの常連になったのではない、三星レストランとしては、世界ただ一つと思われる地下の共用のトイレを見学に行くのだ。

午後などはお店の窓越しに「三星レストランのカリスマシエフの頭」がちらちら見えたりするのも、良い感じである。

話を戻すと、そのズノーの50ミリのf1,9クラスのレンズとなると、これを「正しく使用」するには、幻のズノー一眼レフが存在するのだけど、あれはまずのっけから手に入らないのだから、「一般人」が体験可能なズノーレンズとなると、まずはミランダTに装着されたズノー50ミリf1、9くらいしか存在しない。

もっともこのカメラも「オリオンカメラ」の刻印のあるのは、最近ではコレクターズアイテムになっているので、おいそれと買えるものではない。

そういうことはともかく、日本カメラの2月号に掲載したミランダTの作例が気に入っていたので、この一眼レフ用のレンズをライカでも使ってみようと思った。
幸い、目の前にLMアダプタもある。

困ったのは。どのボデイに付けるかである。アダプタを付けるとやたら全長の長いレンズになってしまう。
だからクラシックなバルナックモデルには似合わないし、ライカM3でもなにかしっくりと来ない。
結局、手持ちのM5につけたら、案外と良いバランスになった。ただし距離計には連動しないから、目測である。
テストでヒルズの仕事場から撮影した作例はこのように、なかなかの出来なのだけど、このレンズの距離目盛りというのはあまり当てにならないことが判明した。
それでも、ズノーレンズでライカでの撮影というのは、なにかカメラ人類の未踏の境地を満足させるところがある。

無論、言うまでもないけどその描写性能はタクマー55ミリの方が優秀なくらいである。
上の画像がそのM5+ズノーの作例。

昨日、火曜の行動。 東京大周遊。 午前は音羽、小日向、神楽坂。 午後は赤羽岩渕、西新井、千住方面。 カメラはRDー1sに旧エルマー50ミリ(全回転エルマー)376カット撮った。 万歩計は2万歩ほど。 赤羽岩渕のお寺の境内にて、例のでぶしろ猫と似たのに遭遇。こっちは毛足が長いのでさらに「ミンク」に近い。

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2008年1月22日 (火)

月曜日ヒルズの朝

R1145731 以前は東京を徘徊する時間がたっぷりとあったのに、最近では毎日、ヒルズに来て朝9時から午後5時まで仕事をしないと追いつかない状態である。
1月10日からプラハに行くのも飛行機をキャンセルした。
仕事が山なのは有り難いが、人間の一日に可能な仕事量などは実にたかが知れている。

昨日の仕事量(仕事量は問題ではないが、やはり文字数に換算する悪癖はぬけない)を思い出すに、4000wを2本。つまり8000wだから、20枚というところでこれは少ない方だ。
以前、2万字コラムというのをやっていた。1コラムが50枚というのはコラムにならないから、怪しからん次第である。

最近の固定化した行動を見るに、月島から8時には「出勤」してまず有楽町の乗り替えにて、東京メトロの「事故の案内」を見る。

大抵の場合「人身事故」とか「車両故障」「信号点検」の為にどっかのラインに遅れが出ている。この情報はなにか事故そのものよりも、この東京の膨大な交通システムを活動させるその大変さを暗示させているので、悪い感じはしない。メガロポリスならそのどっかで「きしみ」が生じている、その事実を感じさせる掲示に思える。

逆に昨日のように日曜出勤で駅で「電車の遅れ」が表示されないのは寂しく感じることもある。

六本木駅から徒歩、ヒルズのタワーに向かう。空中を横切ってタワーに向かうエスカレータは、70年代のSDGの空港を思い出させるのは毎朝のことだ。

それから「広場」とは名ばかりのろくろく広場を横断して(ここで天安門とかコンコルドの広さを毎朝比較してしまうのは毎度だが、ろくろく広場の方がいい。コンコルドみたいに横断に10分かかってはたまらない)脇のエレベータから49fに上がる。

一昨日、若い男性が「広報の達人になる!」というソフトカバーの本をタイトルを外側にして、エレベーター内で、周囲に見えるように持っていたので、半世紀前、講談社の前、つまり音羽三丁目の交差点でデビューしたて野坂さんが「アメリカひじき」の単行本を周囲に見えるように持っていたのを思いだした。

野坂さんなら、自著を周囲に宣伝するのは良いけど、「広報の達人になる!」を「JJ」みたいな抱えかたをしているようでは、とうてい広報の達人になるのは望み薄である。

我々フリーは広報さんと一番お付き合いがあるわけであるが、つくづく広報さんは困難な仕事であると思う。
以前、アメリカの大手航空会社の広報部長さんと仕事上のお付き合いがあった。この人がTVニニュースに出てくることがよくあって、その場合はその航空会社がかならず「不祥事」を起こしたからそこで広報代表で登場するわけである。

広報さんなどは縁の下の力持ちで存在しているのが、その会社には最高の良い状態であろう。

エレベータは2fから49fまで1分弱はかかるから、まず上の内容の考えくらいは脳裏に浮かぶ。

それからライブラリのエントランスからスタッフの皆さんに挨拶して、部屋に入る。ここはフリーアドレスなのだけど、案外、オフィスメンバーは座る場所が決まっている。部屋の右手の一番奥の「窓際」である。なにか飛行機の席の取り方と似ているのもおかしい。
何時も、同じ場所に座る。ウイーンのカフェなどで、これをシュタウム・テイッシュと言い、物書きとか音楽家の座った場所が今でもそのままに保存されていたりする。本当はこれは良くないことなのだけど、決まった場所に座るという人間の生活はそんなに簡単に改善できるものでもない。

コーヒーを自分でいれて、ミネラル水用のプラのコップにこれも用意の硝子のケースに入っているチョコレートを5粒だけ入れておく。

机まで来たら、中のチョコレートはテーブルの上に出して、脇のレフリジレータからペリエを取り出す。コーヒーカップは犬Yの建築家からもらった、we are happy to serve youという紙コップをそのまま瀬戸物にしたやつだ。

それから仕事して、11時半には4fのampmにサンドイッチを買いに行く。ハムチーズサンド298カロリーの210円。
それをヒルズのカフェまで持ち出して、岩波文庫の全目録を見ながら食べる。この岩波の全目録はなかなか痛快である。
古今の名作をたかだか100字でダイジエストしてあるのだから、これは誰にでも書けるという内容ではない。

12時から30分ほど、オフィスメンバーのエリアの3つ並んだその一番最初のスツールで休息する。
これが快適である。

周囲から見れば「あのじいさん、いつもあの時間にあそこで寝てるな」と思われるであろうが、かまうことはない。
そのまま夕刻の5時まで仕事してあわてて佃に戻る。

その間にライカで49fの窓から東京を撮影したりもする。午後5時の、この直帰は大事であって、家人と晩餐の膳につくためだ。時々、佃のタワーの隣のフレンチに行くこともあるが、家人はヒルズの倶楽部には5年前には良く来たけど、最近は面倒だと言って来ない。それは歩いて30秒の所にあるレストランの方が良いに決まっている。

朝も昼も一緒に食事をする時間がないから、せめて一日一度はこうするわけだが大抵は家で用意したものを食う。その時は酒を飲む。酒は一日その時だけである。麦酒はえびす。酒は新潟は加茂の加茂錦だ。

自分はTVは見ないのでそのまま寝室に入ってちょっと読書する。そのまま寝てしまうから午後10時には就寝して朝は7時に起きるから寝すぎかも知れない。しかし快眠だ。以前、これは老人の鬱っぽい感じで早朝に目が覚めて、それからどうでも良いことを考える状態があった。その時間を創作の時間に変えてしまった。

換骨奪胎というわけだが、メモを脇に置いておき、浮かんだアイデアがそこで逃げないうちに書き留める。目下、準備中の「日本郵船氷川丸」などのテキストは早朝に思いついたものが多い。

時々はお付き合いとか友人関係で、ヒルズの51fにある倶楽部に行くが、通常は5時になったら家に戻る。これが基本である。

そういうはんこで押したような真四角な生活をしていると、やはり欧州のどっかの街、プラハでもリスボンでもぶらぶらしたくなるわけだが、当面の仕事を終了させない限り、そういうことにはならない。
それで他にやりようがないから、今朝も朝から左手に東京タワーを見ながら、何時終わるとも知れない仕事をしているわけだ。

おっともうわずかで、4fにランチのサンドイッチを買いに行く時間になった。

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2008年1月21日 (月)

息子の声を忘れたのかよう

昨年9月に発病の家人の帯状疱疹はおかげさまでかなり良くなったが、先週、偽ライカ同盟暗室始めでお目にかかった坂崎さんの話では、父上も以前、同じ病でやはり数ヶ月も完治にかかったそうである。
周囲に聞いてみると案外に経験者が多い。

その関係ではあるまいが、今朝視た夢は時分が帯状疱疹になった夢であるが、普通は水ぶくれなのが、時分のは特別バージョンであって、水疱ではなく、その部分がクローム鍍金のような金属の光沢をもっていた。その水疱はなにか機械的な精密感に溢れているので、夢の中ながらに感心した。
夢というのはまったく「ダリ」みたいなモノを見せてくれる。

土曜に、その帯状疱疹の発病の直後の10月のあたまに家人の決死のリサイタルがあって、それはなんとかこなしたのだったが、そのご苦労さん会が、長々と延期になっていたのを、家人の友人連が開催してくれたので家人はいそいそ銀座に出掛けた。

家人は宝算(年齢)六十余二であって、友人の婦人連は70台ということには愕かないけど、そのランチの場所は銀座の松屋の裏のなんとか言う、中華料理店にて午前11時半に集合して、延々、夕刻まで「閑談」していたようなのである。KIHACHIの次ぎはそういう場所になるのか。

それで会食の客単価は@2500円なのだから、自分がマネジャーだったら「おひきとりください」と言いたいところだけど、それが言えないのがサービス業のつらいところだ。

六本木ヒルズの倶楽部の和食ランチで「旬膳」というのがあって、これが1750円であって、かなりお値打ちだ。美食家の駒村社長などは、「これはいい。5千円の価値がある」と、以前誉めてくれたものだが、自分だって、あまり倶楽部では長っちりはしないようにしている。

そこに行くと「天下のおばさま連」は偉いな。これが長年の人生の経験による、「XXXXしさ」(この4文字自主検閲につき伏せ字)であろう。

実際、年の功がないと、その効果がないというシーンは往々にしてあるものだ。

これも家人の受け売りだが、クラシック音楽界で有名な某老紳士の関係で、帝国ホテルのデイナーの集まりに参集したとき、それは帝国ホテルのどこのレストランか聞き漏らしたけど、テーブルクロスだかナプキンだかのいずれかが、あるいはその両方であったかも知れないが、それが布でなく、紙なので、その老紳士はじきじきにマネジャーを呼びつけて、文句を云ったそうである。

これなどは、当然な話で、テーブルクロスとかナプキンが布でないと、それは「そういうクラスのレストラン」であることを自ずから表明しているわけであるが、そういうクレームはやはり半世紀は帝国ホテルの常連でないと言えないのはこれまた当然の理である。

それはともかく、家人から面白い話を聞いたのは、そのうちのおひとりの家に「おれおれ詐欺」の電話がかかってきたそうだ。
資産家のお宅であるからそういうテレフォンショッキングになるのであろう。

例によって「おれおれ」と来たそうだが、まずいことにそのご夫婦にはお子さんはいらっしゃらない。それで折角電話をかけた「おれおれ君」もひっこみがつかなくなった。

そういう場合の対応も「おれおれマニュアル」にあるようでその決め台詞は
「息子の声を忘れたのかよう、、」
なのである。
しかしながら電話してくるのなら、ちゃんと家族構成くらい調べてから電話するものである。
オレオレ界の風上にもおけない失礼なやつである。

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2008年1月20日 (日)

カフェハヴェルカとフェドカ

02240014 02240004 02240020 佃の上にずっと置きっぱなしになっている、これは大昔のたった24MBのCFカードである。
何気になにか記念となるような画像が入っているのでは、と開いたら、2000年に撮影した、ウイーンの画像であった。
ウイーンと言っても、変わった場所が出てくるわけではない。
最近のウイーンはとんと御無沙汰であって、もっぱらプラハ行きなおのだけど、自分の町歩きは案外に保守的であって、歩行する地域と場所はきちんと決まっているようだ。

だからこの36枚ほどのファイルを視ると、行き先は行きつけのカフェであり、行きつけのカメラ店だ。
すなわち、カフェハヴェルカであり、ライカショップなのである。撮影したカメラも時期も不明であるが、フォルダーには「2000wien」とある。
そのカフェハヴェルカを視ると、店のファサードを大改修している。そういうことも最近にあったな、と思ったらそれはすでに8年の昔であった。
店主のハヴェルカさんも健在である。
人形町の快生軒のマスターもそうだったが、ハヴェルカ氏も蝶ネクタイである。要するにムンカッチ系統だ。

これはすでに20年の昔であるが、当時axisの中にあったギャラリーで有田泰而さんが油絵の個展のレセプションをした時、有田さんから電話があり(当時は電話を使っていたのも懐かしい。この10年、電話は使わない主義だ)「チョートクさん、明日だけど、蝶ネクタイしてゆく?それならオレもしてくけど」などと言うのである。

思うに今は「歩くユニクロ」と呼ばれているが、当時はそれなりのガードローブを持っていたことがこの記憶で分かる。

ウイーンのもう一軒の店はライカショップだ。ソ連製の珍しい戦前のライカコピー機である。フェドのブラック仕上げで製造番号400番台というのが写っている。
これは偽ライカ同盟の象徴である。
坂崎さん流に言えば、フェドではなく、ヘドである。

不思議なのはこのモデルはフェドではなく、正式にはfedkaというのが分からない。
しかしhawelkaが古いカフェであって、fedkaが古いロシアライカであると思うとその語尾の感じはなにか古都ウイーンに似合って悪くはない。

追記 友人から以下のメールをいただいた。 チョートク様 本日のブログ拝読しました。 exif情報によると画像の撮影日は2000.2.24、カメラはCASIO QV-8000SXとのことです。 なんとも懐かしいデジカメですね。 スナッフル 思いだした。 当時、一番話題になっていたデジカメである。これだけ撮れれば十分なわけだ。今でも立派に通用する。

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2008年1月19日 (土)

偽暗室同盟始め@土浦

Dsc01671_2 Dsc01638_2 これは木曜の話。
以前から偽ライカ同盟の坂崎さんが引き伸ばし機を土浦のさかい写真実験室に移動させたいという、危険な計画あり。
それを実行した。

3台の伸ばし機を輸送し、同時にプリントもしてこようというよからぬ計画である。
当日は人形町の快生軒のマスター、佐藤方彦さんのご葬儀もあり、某社の某製品の内示会もあったのだが、方々に「不義理」をして出掛けた。

佃の待ち合わせの場所で普段ゲレンデワーゲンの坂崎さんが「代車」でくるというので、その車種を聞き忘れたので、気にしていたら、工事関係者さんの乗るようなワンボックスであった。
向島線に乗って、ちょうど荒川区あたりで、
「快生軒のマスター、亡くなったんですって、、」と坂崎さん。
「ちょうど今頃が、町屋で告別式ですよ」とあたし。
「日本カメラの人と、奥の部屋でマキナの話なんか良く聞きました」
「あのマキナで撮影したヨーロッパのモノクロ作品はよかった」などと「追悼気分」にて北に向かう。

さかい邸にて、引き伸ばし機を3台倉庫に格納して任務終了。
坂崎さんが持参のコンタクトプリントを拝見。これは5年ほど前に「発見」されたもので、坂崎さんの幼年時代の武蔵屋さんの生活がそのままに展開している。

フジカオートハーフと国産二眼レフでの撮影。昭和30年代から40年代の東京の下町の「実写」であるから、三丁目の夕日はあれはフィクションだけど、こっちは四丁目の夕日であってtrue storyなわけである。

坂崎さんがそのネガを持参したというので、さかい所長のアイデアで、さっそく暗室同盟が開始された。偽ライカ同盟の暗室作業だから、偽暗室同盟とか偽フォコマート同盟であろうか。
約40枚ほどを3名でプリントした。

午後9時すぎに土浦を発って、佃には午後10時半着。これが今年の偽暗室同盟始めとなった。

後日、さかい所長から「一句」あり。 「偽暗室同盟や印画紙とびこむ三人がかり」 ふーん、かなりの字余りである。 しかも季語がない。 まあ、偽暗室同盟」は、冬の季語にはなるまい。 それはともかく、今回の暗室作業で痛感したのは、坂崎家の古いネガからヴィヴィッドはモダンプリントが生まれたことだ。家庭写真の新境地である。 これは連載中の「かんれきからの写真楽宣言」のモチーフにもなりそうだ。

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2008年1月18日 (金)

六本木ヒルズクラブのスタッフさんに、デジカメを誉められた

Dsc01493 昨日のことだが、仕事を終って49fから下に降りるエレベータで、51fのヒルズクラブのスタッフの女性お二方に遭遇。

5年来、ヒルズクラブにはお世話になっている。おととしの夏の大改装以来、また使いやすくなった。以前は会計をレセプションでしていたのが、座ったままで可能になったので、欧米並みのサービスになった。

サービス料は10パーセントでフェアである。アメリカなどでサービス料のほかに、20ドルの紙幣とかなにかをチップで用意するのは、なれているからオートマチックにしているけど、思えば、あれは日本で考えると面倒な次第である。

それはともかく、エレベータの中で、クラブのスタッフさんに「あらかわいいカメラですね」と首からさげているデジカメを誉められた。

無論そのデジカメとは、α700でもM8でも、RD-1でもGRD2でもなく、ミノックスのミニミニライカなのである。このカメラは女性に大変な人気である。

とにかく、女性と話題造りを展開するには格好なparty cameraであるわけだ。

そこで考えてみた。デジタルミノックスライカm3が女性に人気なのは、別に彼女達が「隠れ女子ライカ部」というわけではなさそうである。それに彼女たちがライカを知っているとも思えない。

これはそのサイズが胸から楽にぶら下げられる「アクセサリー」のサイズであって、しかもなにやらお洒落なカメラのようなデザインというのが効いているのであろう。

目下のライカはエルメスの傘下かどうかは知らないが、大手のデザイン関係でこのような、ミニミニデジカメを発売したら、また大ヒットの予感がある。ようするに、この手のミニミニデジカメがアクセサリーとして「商品展開」することがまだ知られていないだけなのである。

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2008年1月17日 (木)

49fから見る東京港

R1145703R1145706 以前、37fに棲んでいた時、ベランダから東京港に停泊している、飛鳥を視るのが楽しみだった。自分だけで視るのは「もったいない」ので、時々「佃亭」を開店して、客を呼んだ。
坂崎幸之助さんも来たし、マックパワーの山崎編集長は家族連れで見えた。
飛鳥の停泊位置が、ちょうど真ん前なのであるが、イルミネーションを輝かせて、巨大な街のように見えた。

ベランダに据えた、10x25の巨大な双眼鏡でその出航を追跡した。大体がレインボーブリッジを超えるとそこから先はウチからは死角になって見えなくなってしまう。

その船が出航してしまうと、そこだけ街に「穴が開いた」ように見えるものである。
出航してから数日後に、所用で香港に行ったら、そこに停泊していた。これなどは昔の友に遭遇したような懐かしさがあった。

最近は印刷したように、9時前にはヒルズの49fに来るのであるが、ライブラリのカフェに、シュタイナーの7x50の双眼鏡を持参して、ちょう朝の逆光の東京湾を観察するのは楽しみだ。
以前は、もっぱら羽田エアポートの離陸ばかり視ていたのが、最近ではパイロット船に誘導されて入港してくる、巨大なコンテナ船にも興味が行くようになった。
その航路を真ん前から視ていると、非常に迫力がある。

東京湾の先の方には、そのようなタンカーとか、自動車運搬船などが停泊していて、その形をだんだん区別できるようになった。これなどは、目下仕事中の日本郵船氷川丸の写真集の下調べの影響なのである。
つまり、今までは単なる巨大な水面であった東京湾が別の意味をもってそこに展開しているわけだ。
今日は持参のカメラ、α700には、タクマーの28ミリが付いている。
ノボフレックスの640ミリを持参すれば良かった。そうすれ東京湾の奥の奥まで船の形を追うことが出来たであろう。

後で記す。

ノボフレックス640ミリは佃のカメラジャングルで発見したが、マウントがライカM用と、レクタフレックス用しか見つからない。
それで代案として、タクマー300ミリf6,3を持参。
さっそく、49fから撮影を試みるが、上の記事は15日に書いているので、それよりもヘイズがかかっている。

ついでにα700のバッテリーを充電するのをわすれていたので、後容量は22パーセントほどだ。ようするに大容量のバッテリーはあまりに沢山撮影できるので、充電するのを忘れる。
本体の下にハンドルが付いていて、これを100回回転させると、あと50枚分撮影できるような自家発電装置があると、緊急時には助かる。

★上の画像

シュタイナーM22+GRD2

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2008年1月16日 (水)

楽しい8ミリ(ただし現像する方)

ウイーンの7年半の生活では、各種の16ミリカメラや8ミリカメラ、そしてスーパー8カメラで撮影をした。そのフィルムは今でも大事にとってあるが、最近、それをCDRにトランスファーしてもらったので、簡単に見るjことができるようになった。

これが技術の進化の不思議と驚きというものであって、70年代、80年代と映画をやってきて、こういう風に「電子計算機上の装置で映画が見られる」ようになるとは、想像の他であった。

それで最近ではまた8ミリ(8ミリビデオもすでに時代遅れだが、こっちはさらに昔の現像をする方)で遊んでいるのである。

高級8ミリカメラ(ライキナスペシャル、ボリュー7008)にも飽きて、この頃はもっとシンプルな往年の高級機で遊んでいる。
NIZO PROFESSIONALである。下の画像の左の、銘板のとれてない方がそれだ。このカメラは例のヒゲそりのブラウンが出したカメラであって、そのデザインになんとなく他のブラウンの製品と統一感のあるのが良い。

しかし、このクロームの方の本体は「看板」が脱落しているのは残念だ。これはもともと、プリンストン大学の備品であったのが、放出されて手に入ったのであるが、手に入れた時から看板はついていなかった。
案外、盗難を防ぐ為に最初からロットでプレートのないカメラをブラウンに発注したのかも知れない。
本体の看板が落下するので有名なのは、フランス製のBOLIEAUであって、これはカメラ人類の知る有名な事実である。その場合、剥落した後にかならず、接着剤の跡はついている。このNIZOにはそれが見当たらないから、案外に最初から看板なしで供給されたのかも知れない。

右の黒いほうのカメラはその下のクラスのであって、801というのである。
右の方が同時録音とかいろんなことが出来て、文字通りプロ向きな機種であった。このプロ向けのは「アマチュアっぽいクローム仕上げ」しかないのも面白い。

目下、この2台のカメラで、カラーやモノクロを撮影している。フィルムは1300円ほどで、現像は2500円だから、16ミリで撮影するのに比較すれば、現実的だ。
ただし現像には1月もかかるけど、それがそれで「待つ愉しみ」というものだ。
上がってきた現像棲みフイルムには何が写っているのか、皆目分からないのがまた嬉しいのだ。

R1145653昨日の行動。

終日ヒルズの49fにて仕事。

31日に開催される、日本郵船のイヴェントで「講演会」をするのだがこれは、例の1008ページの写真集の出版の発表会を兼ねている。

その為のスライドの画像の選定。

最初はドラマ仕立てにて展開しようと、パワポ(これ、関西風に言えば、第二音節にアクセント)で仕事を始めたが、そうなると、例のパワーポイントを使ったつまらないデジカメの新製品発表会(デジカメがつまらないのではない、そのプレゼンの例のグラフやらなにやらを見せられるのが、つまらないのである。大抵、過労の編集者はあの暗い場所では寝ておる)のようになってしまってはいかんと思い、急遽方針を変更する。

すなわち、大みそかから元旦までの氷川丸を単純に時系列で見せることにした。
それが案外に効果を上げていることに気が付いた。

帰りは珍しく、まだ明るい4時前にしるず(これ、坂崎流)を出て、清澄の枝村商店の立ち飲み。ひさしぶりに外人勢に遭遇。
犬Y出身のドノバン(どなちゃん)が、今日は寒いというので、ニューヨーカーが何を言う、1983年2月のマンハッタンの大雪を忘れたか、、、と自分が豪語したら、どなちゃんは、遠くを見る目になって、「おれ、あの時、14歳だよ。それより2000年のマンハッタンの雪は凄かった」というのである。

周囲の人間が全員、還暦であると思もうのは考え違いである。還暦人類は2年前のことと二昔前のことを時系列で同じだと思っているのだから、注意が必要だ。

戻りに、フジマートで買った「やりいか」の刺身が非常に新鮮だった。晩餐後、そのまま寝てしまう。

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2008年1月15日 (火)

en-taxiで、今宵はマテイーニ

Dsc01424 日曜は月一の東急BEの「ライカ愛好会」の日だ。
この集会は、普通のカルチャーセンターのように「デジカメで写真うまくなろう!」というような、「ひっちゃき」なところがない。

だから、ただ話をしに行くだけであるが、90分話をしながら、ホワイトボードにライカと写真家の仕事の系譜などを、マーカーで書いて行くと、思わぬ場所、つまり行間からまったく新しいアイデアが浮かんだりする。

自分でぐちゃぐちゃ考えているよりも、思考の助けになるので、この講座が気に入っているのだ。

それで前回はen-taxin の最新号の特集「ライカの下町」の福田和也さんの「根性なし男のためのベレッタ」をテキストにしようと思い、ヒルズでその最初の見開きだけをコピーした。
全部コピーするなんて、福田さんと編集部に申し訳ない。
この特集はこの四半世紀に書かれた、ライカと映像論としては白眉なので、お奨めである。
定価980円。

ついでにぱらぱらめくっていたら、連載エッセイで奥 祐介さんの酒場シリーズ「今宵はマテイーニ」に引き込まれた。
奥さんはその中で、スエーデンで呑んだ「びん詰め」のひどいマテイーニのことを書いている。まあ北欧では酒はあまり期待しないほうが良い。

自分にもどってみると、今宵はマテイーニは、ウオッカマテイーニなのである。これは四半世紀以上前に、マンハッタンから来た自分のボスに教えてもらったのだ。
最初に呑んだのは、ホテルオークラであったか。

以来、外国のバーではこれを頼むことにしている。言葉の通じない国ではドライマテイーニはなかなか通じにくいものだ。

ドイツのバーでドライマテイーニといったら、3杯のマテイーニが出てきたのは笑い話であるが、頭にウオッカという「撥音」が入ると、混んだバーでもバーテンダーさんに通じやすい。

ソ連がロシアになって、長く閉鎖されていた、ホテルメトロポールの前を通った時、ふと思いだして、1973年5月以来、ここに足を踏み入れたことがなかったのに気が付いて、シャリアピンパーに入った。
ウオッカマテイーニを注文して若いバーテンダーさんに自分がこの前、ここで呑んだ話をしたら、その青年は自分の言う1973年のずっと後の生まれであった。
ウオッカマテイーニは不滅だな。

ヒルズの仕事場には、以前はおそらく「世界唯一のバーを持ったライブラリ」であって、重宝したのだけど、3年前からそれは「止め」になった。
それでもアルコールは禁止ではないので、ロッカーには198プルーフのポーランド製のウオッカをしまってある。
ハッピーアワーになると、プラのコップに氷を満たし、ソーダを入れて楽しんでいる。
ロッカーのスペースの関係で、マテイーニは保管できないけど、そのうち、ラベルだけでも持ち込んで、それを眺めつつ、やれば良いわけだ。

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昨日、日曜の行動。

家人と隣の「隠れ家レストラン」ルファールでランチ。

午後は東京大周遊。カメラはα700にオートタクマーの85ミリf1,9。これは大昔にアローカメラで3000円で買ったレンズ。今でも買った当時の値札がついている。

京島から東向島界隈を撮影。627カット。こういう数のショットには、コンパクトデジカメよりも一眼レフが楽である。ようするに「現実を取りこむ苦労」がないというか、カメラの「間口」が広いのでストレスがないとい意味だ。

しかし、街歩きでデジ一を使用するには、α700程度、つまり世に言う「中級のデジ一」の大きさと重さはこれが限界のような気がする。

何時間も片手で支えて、連続のショットを撮影するには、この大きさと重さがリミットではないか、という意味だ。

昨年の2月PMAで話題になった、ソニーのフラッグシップの大きさと重さはその意味で、興味がある。もう1年になるのだからそろそろ発表されても良いようなタイミングだが、、、。

南千住から下って、今年最初の大林。あわもり2杯。やまかけ、のり、たまご汁で1980円。

それから金太耬鮨にて、1,5人前のにぎりを注文。待っている間に、向いの交番の巡査来たり、夕食のすしを注文する。ニューヨークだとポリスが制服で買い物をしているのを見ることがあったが、日本ではあまり見ないので、面白い。

昨日、玉姫神社界隈で騒ぎあり。留置所がいっぱいなので、検挙した2名は別の場所に留置したなど云々。

佃に戻る。

夜、坂崎さんからメール。例のフォコマート運搬計画の概要の連絡。

★上の画像は昨日、山谷。理想の酒の飲み方。これが出来ない為に、シャリアピンバーなどでうろうろしているわけだ。

α700+タクマー85ミリf1,9

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2008年1月14日 (月)

α700にトリオプランレンズ

Icam0226 年末から年始にかけて、ソニーのα700にて、氷川丸のカウントダウンを撮影した。

その前の撮影では、リコーのGRD2とR7を持参して、1000枚以上撮影したのだけど、より撮影の速度が速い方が(スナップと仕事の撮影というのは、その速度はおのずから異なる)よいのと、もうひとつは、おそらくカウントダウンで氷川丸にはたくさんのお客さんが来ているであろうから「誰がカメラマンであるのか、はっきりわかる服装」つまり、大きなデジタル一眼レフを持っていた方が目立っていいであろうという判断からの持参だった。

実際には氷川丸には、船長さんだけで、そのあと、関係者さんが数人登場しただけであったから「カメラマンらしい服装」などはする必要がなかったのであるが、通常、GRDのような小型のデジカメの速度に慣れていると、大量の撮影をするには、デジタル一眼レフも必要な場合もあるのだ、と実感した。

それでその時には、ズームレンズ1本だけで仕事をして良い結果を得た。この撮影方法はテレビのニュースギャザリングと同様な手法であって、ズームレンズで目の前に起こりうることをすべて記録しようという、いささか貪欲な撮影テクニックである。

以前は、これをフィルムカメラでやっていたわけで、つまりアリフレックスSRとか、アトーンとか、エクレールなどを使用したわけだが、初期の時代にはズームレンズというのは、近接撮影には弱かったので、そのためにレンズの前につける、接写レンズが必要だった。

それがインナーフォーカスの機構になってから、レンズを近距離に繰り出しても、画像の大きさが変わることがなくなって、「ピッ」と見た場所にピントの合うようになった。

これは一大革命だった。

10倍ズームを一眼レフで自分が初めて使用したのは、自分の40歳のとき、つまり20年前にミシガン州を撮影に行った時が最初であった。

当時の10倍ズームはまだまだ問題が多かったが、それから20年が経過して、今の高い倍率のズームは、これ1本だけで全部のカットが撮影可能なほどに進化した。

ところで、ごくたまに、レンズのアダプターを使用して、α700で、手持ちのクラシックレンズを使いたくなる。

これはこれで面白いのだけど、その本音は、どうもズームレンズを付けたデジタル一眼レフというのは、やはり「定年退職でいきなりデジカメを初めてもったおやじさん」のように見えてしまうのが、まずいからほかの要素というか気分と言うか、根性を出したい、というところにある。

それで、世間で自分をどう見ようがそれはそれでかまわないのだけど、やはりちょっと気になるので、こういう使い方、つまりM42のマウントアダプタで手持ちのクラシックレンズを使うことになる。こういう超クラシックなレンズと、モダンデジカメの組み合わせはちょっと「ちょいわるおやじ」である。

レンズはプリモプラン58ミリf1,9であって、数年前に偽ライカ同盟の坂崎さんからもらったレンズである。

世の中の「素人衆」はツアイスイコンシナのレンズを欲しがり、世の中の半可通は「ツアイスイエナ」のレンズをほしがる。

本もののブランド志向は、こういう「世間の知らない隠れブランド」に走るのである。まあ、一番始末が悪い。

この組み合わせで、曇った日の午後にα700を窓辺に置いてみると、例のソニーカラーのロゴが輝くばかりで、なかなかシャープな存在感になる。

あ、撮影はデジタルミノックスのミニミニライカM3です。