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2007年12月31日 (月)

おおつごもり★靴の抱える諸問題

R1145449 四方八方に自分は「歩くユニクロ」であると公言しているので、何時も同じ格好をしていても、投石を受けることはない。

しかし歩行するのが商売なのにもかかわらず、カメラは売るほど持っているのに靴は「その日暮らし」であることが目下の自分の人生の諸問題の中の最大の問題点だ。

その問題とはこうである。
だいたい2月おきに、都内某所でかかとの減った靴をはいたまま行く靴店があって、そこでF1のピットみたいに「タイヤをはきかえて」即時に再発進するのである。この次第は以前にMCチョートクカメラ日記で書いたことがある。

この8月にプラハのアトリエに5年ほど前にそこに置き忘れていたスニーカーを発見した。
あれは何というスタイルか知らないが、要するにブラックのスニーカーであって、ヒルズの仕事場から、四半世紀前にニューヨークはキャナルストリートで20ドルで買った、グリーンのジャケットをGパンにTシャツの上にはおって51fのヒルズクラブに行っても、しかられない程度のドレスコードに合う(と、勝手に解釈している)黒いスニーカーである。
この場合、倶楽部の明かりの暗いのがありがたい。

そのスニーカーをプラハからはいたまま、つまり履いて言った普通の靴はプラハのアトリエに置いて東京に戻った。
東京をその古スニーカーで歩行して判明したのは、やはりかかとの硬い靴よりも、コンクリの上は歩行しやすいし、頭に響かないということである。

それで、亡くなったおふくろに「いい加減に靴をかいなさい、ながのり!」と言われたこととか、家人に「とーちゃん、靴!買え!」と言われ続けていたことなどが、毎日、佃からヒルズに通う上でのストレスになっていた。

しかし「靴を買えない日常」が現実なのである。現実は最大の謎であり、斯くも周囲に延々と広がっている。その現実を簡単に変えることができたら、それは第一の奇跡であろう。

そのうちに10月になり、またプラハに行った。プラハで靴を買おうと思ったのだが、フォクトレンダーのスパーブは2台も買ったのに、靴はついに買うチャンスがなかった。
靴は買おう、買おうと思うとどうも、その気力がそがれるものである。断腸亭が吉原の買い物と似たようなところがあるのではなかろうか。

靴というのは、日常の買い物ではない。これが発見だった。

靴は自己が世界を移動する手段として必要な道具である。

その点、オンラインでKLMのアムス経由プラハ行のチケットを予約するのと同様であるが、チケットは座席は1aが良いとか、食事はコーシャ料理(イスラエルのラビによって認定された正式なユダヤ料理。他の料理は汚れているわけだ)とかをオーダーすることも可能だが、オンラインで靴を買うのはどうもリスクが多すぎる。だからオンラインでは買ったことがない。
そのリスクはオンラインでライカを買うようなものだ。

第一、佃からヒルズまでの通勤路は実に不便で、自分の欲しいモノを売っている店がない。
靴屋はないし、酒屋もないし、ビニール傘も下のampmでは売っていない。
2fのショップには自分の知らないブランド品を売る店を回遊する若い男女で溢れているのに、生活必需品は売っていないのだ。
あそこは現代の消費社会の砂漠なのである。

一方で、ヒルズに行かない時に買えとは、家人の指導であるが(これは毛沢東主席の指導とか、京橋税務署のご指導という感じだな)ヒルズに行ってないときは、自分は都バスの荒川土手近辺とか、雑司ヶ谷(この前の福田和也さんとの日本路地裏学会ライカ同盟合同大演習の場所)とかに居て、その鬼子母神裏の路地裏にある、アムール荘とか、スナック ラバさんとか、雑2アーケードとか、そこの靴屋の看板はいいのだけど、そういうモノの販売はしていないというような、つまり商業の僻地というか、スニーカー売り場からは極北を徘徊しているので、やはり靴を買う環境ではない。

つげ義春さんと多摩川住宅の中の喫茶店で待ち合わせたのは、自分がニューヨークに行く前に、つげさんからミランダTを買って来て欲しいと依頼されたからだ。あれは1980年であるが、その時作者を前にしてつげさんの「赤い花」の話題になった。
おかっぱ頭に着物姿の、さよ、と言ったであろうか、その女の子が「町には赤い靴は売っているであろうか、、、」という台詞が心に染みた。

それを本歌取りして「スニーカーはどこで売っているであろうか、、」と山谷に向かって走行中のBMWの中で自分はつぶやいた。ちょうどクリスマスイブの夕刻で、花川戸なら靴の本場だから、そこで買うつもりであった。しかし花川戸は住民全員がクリスチャンのようで、店は軒並み閉まっていた。

野々宮BMWは、車もBMWだけど、衣類も靴も会社役員だから、ちゃんとしている。つまり198プルーフのウオッカとか(マンハッタンの怪人チョーセイさんのmixiを読んだら、あそこではこれは法律違反らしい。マンハッタンで1軒、それもspeak easy売りのようだ。日本では向かいの明治屋に売ってるが)スニーカーの販売所のことは良く知っているおとなである。

「スニーカーはアメ横に売ってます。abcマートとか色いろあります」と情報を教えてくれた。それから5日後の12月29日はヒルズに行かなかった。家人は新潟の別宅に行っていたので、日永、ライカインコの相手をしていて日が暮れた。「犯行を決行するのは今だ!」と思った。
単なるスニーカー買いが、まるで犯罪者が犯行の凶器を買いに行く心境である。その次第は描かないけど、それで同じスニーカーが2足揃った。上の画像がそれだ。
それを履いて、東京のおおつごもりの中を歩行して、佃からヒルズに来て、今、これを書いているわけだ。

大晦日は午前から午後1時過ぎまで佃に居た。家人がいるので、久しぶりにスパゲテイアラビアータを作る。それとソーダで割ったスペインワイン。エスプレッソ。

午後2時にヒルズ。

天気予報は寒気の到来を告げている。大晦日の東京を地上200mから観察するに、快晴ではないが、雲が北から南にゆっくりと流れて、その紫の影が野面(のずら)をゆるゆると這って行く。この方向には実際には野原はないわけで、都会の上を紫の影が走るわけだが気分はドナウの岸辺の風景という感じだ。

2000年の年末の午後に自分はウイーンの南部にある、ラーベルクという小高い丘の上から午後のウイーンの街並みを見ていた。その時の作品は写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)に掲載されている。6X6の戦前のローライで撮影したモノクロのカットだ。実際にはその高さではヒルズとラーベルクとは比較にならないけど、やはり今日の午後のように真っ白な雲が流れて、その下の野は紫色に陰ったり、また明るく輝いたりした。

大晦日の午後の東京がまるでウイーンの午後のように見えるのには、視覚のトリックがあることに気が付いた。

ちょうど東京の北辺から、筑波山の手前までが影の中にある。そこがブルーに見えるので、巨大な森林地帯がそこに横たわっているように見える。まったくの錯覚なのだが、皇居の森があり、その先が市街地でさらにその先には、ウイーンの森ならぬ、トウキョウの森が存在しているのだ。

この「発見」は今年一年のヒルズからの眺めとしてはなかなか気に入っている。手持ちのα700で、ズームは18−250ミリだが、その250ミリサイドで撮影した。手元にPowerBookに画像を転送する、Cfカードのアダプターがないので、画像はのちほど。

大晦日が夕刻から、横浜である。氷川丸の年越しの撮影である。今度の1008ページの写真集の中で、これは大事なセクションになる。

2007年12月30日 (日)

KCチョートクカメラコラム

★KCチョートクカメラコラム 銀塩クラシックカメラ

一昔前、安原一式の思い出

この間、えい出版の清水編集長がこの次の本、GRD2ワークショップの取材(福田和也さんとの対談)でヒルズに見えた時、来年にえい文庫から出る、安原一式のことを書いた、安原さんの著書をいただいた。

思えば、10年前に一式フィーバーがあったことを思いだしたのである。当時はまだデジカメは相手にされていなかった。銀塩(クラシック)カメラがこの世の中の記録装置のすべてであって、まだデジカメは開発途上の未発達な技術であった。

安原一式を自分も注文した一人である。
55000円の代金のうち、予約金を5000円支払った。そのお金はカメラ代金に充当されるが、いかなる理由であろうとも返金しないと、契約書にあった。それで自分も郵便為替で5000円を振り込んでそのコピーを安原製作所に送って、折り返しに葉書で予約番号をもらった。

えい出版から出る、安原創業者(安原さんは自分でそう名乗っていた)の文庫は、あれから10年が経過して世の中が一式を忘れた頃になって、創業者自身が真実を明かすという展開になっているところがなかなか読ませる。

これは好著である。

その一式の取材で、世田谷区は松原商店街の近所の製作所に創業者に取材に行った。ロフト付きのワンルームマンションで、創業者はダブルのスーツで応対してくれたが、椅子が1脚しかないので、自分は畳にすわって話しを聞いた。

ちょうど安原さんのソックスの足の指が良く見える位置に自分の視点があった。安原一式の生みの親の親指を長く見ていたことに関しては、自分はギネスブックに申請できる資格があると思う。

同様な次第でその数年後にアテネはパルテノン神殿の前のホテルの「ペントハウス」で、自分は四六時中パルテノンを視ていた経験もある。視神経にパルテノンを焼き付けた時間では、これもギネスものであろう。

実は一式の予約番号は自分のはかなり後の方であって、それまで待てないので、銀座のカメラ店に中古で登場した2台の一式を買った。価格はプレミアムがついていて定価よりちょっと高かった。

そういう「不法な買い方」は保証の対象外と安原製作所は警告していたが、そういう「一人カメラメーカーの我が儘」は逆に自分の気に入った。そういう我が儘な対応に目くじらをたてる、カメラ屋さん(たとえばアローカメラ買い取り名人)なども居たけど、これは個人レベルのカメラの冒険なのである。だから身勝手を最初に提示して、「それでもついてくる人はどうぞ」と言っているのは良い感じだった。

自分は2台、「非合法」に一式を手に入れた。そのうちの1台を譲ってくれと言ったのは、コシナの小林さん(社長)である。ちょうどベッサRが出る直前のことであった。やはり小林さんは一式の存在が気になったのであろう。

問題はシャッターであって、一式は羽根が1枚だから、光線もれの恐れはあるがシャッターは静かである。ベッサRは「石橋をたたいても渡らない」(ご本人談)小林さんの完璧主義であって、羽根は2枚で光線漏れは絶無だけど、シャッター音は同社の一眼レフからミラー動作音をマイナスした程度の大きい音がする。

一式に各種のレンズを付けて、よく撮影に行った。一式は当時のカメラジャーナルでも取りあげた記憶がある。

今度の一式本はあらゆる意味で、ラストエンペラーならぬ、ラスト銀塩カメラの生きたドキュメントと言ってよい。

文中、ちょっと気になったのは、以下のくだり。

「ある有名作家先生がよく一式をイラスト入りで各誌に紹介してきれた。ありがたいが、まさにあおりではないかと思うこともあった。その先生は製作所には一度も来たことはなかった。また5000円の予約金は払ったが、カメラは買わなかった。だからこの先生は安原製作所のお客さまではない」(文意)とある。

有名作家先生とは言うまでもないが、赤瀬川原平さんである。
予約金を「没収」しておいて、一度も製作所に来なかったというのと、一式を買わなかったという二点で、好意で膨大な紹介をしてくれた原平さんを切って捨てるなどは、さすが天下の京セラ出身の大モノである。(私が会ったことのあるのは、稲森会長と安原創業者なのだ)

原平さんが安原製作所を訪問しなかったのは残念だ。原平さんに創業者のソックスの指が始終動いているのを見てもらいたった。これこそ銀塩カメラの戦士の武者震いであったのだから。

すべては銀塩時代の良き夢なのか。
すっかり忘れていた一式だが、久しぶりに使ってみようと思う。レンズは何にしよう。例の一式用の50ミリ、しばらく銀座のL社にあったが、あれを今、探すのはことであろうな。

★KCチョートクカメラコラム デジタルカメラ

超小形軽量な超高級デジタル一眼レフって出来ないのか?

年末年始はソニーα700で、撮影する。人気のデジ一なのでなかなか貸し出しの在庫のないところを、デジタルカメラマガジン編集部に御願いして貸し出してもらったのだ。

レンズは各種あるがその中で特にリクエストして18−250ミリのズームを付けてもらった。高倍率ズームである。

伝説のズームレンズに仏蘭西はアンジエニューの10倍シリーズがあった。今ではTV用のズームなどは50倍というようなのもあるが、大昔の映画機材は3倍が普通であったから、それが25−250ミリの10倍のズームレンズが登場したのは、実に破天荒なことであった。すぐにその16ミリ映画用の12−120ミリも発売になって、事実上、このレンズはドキュメンタリー映画の標準レンズとなった。

当時の映画機材を視ると、仏蘭西のエクレール16NPRは2本ターレットのカメラであるが、その1本はこの12−120ミリズームで、ターレットのもう一本にはアンジエニューの10ミリのプライムレンズが付いている。普通の撮影はズームの12ミリ側で撮影し、もっと広い画面は10ミリの固定に切り替えて撮影する。これが60年代のクラシックな撮影のメソッドであった。

それを真似したわけではないけど、10倍以上の常用ズームレンズはデジ一の撮影で、すこぶる便利である。しかも250ミリのテレサイドでそのままマクロ撮影が可能である。全景を18ミリで撮影しておいて、いきなりズームアップするというやり方は、普通、ライカで撮影している時には絶対に考えられない視神経の構図だ。

そういう「新方式の撮影術」が10倍以上のズームで可能になった。

世の中、定年退職したお金持ちお父さんが、札束握りしめて、次々と各社のデジ一のフラッグシップ機を買っている。実に羨ましい。そういう幸せな買い物をした、幸福お父さんの1月後を調査して見ると「やはりフラグシップ機はでかい、思いので、サブカメラにコンデジを買いました」という。

でもコンデジはあれは懐刀のようなものだから、その撮影速度ではデジ一とは比較にならない。今の一眼レフの序列は高性能だと大きい、高い、重いということになっている。
安いデジ一は軽い小さいということになっている。

ここにトリックがある。デジ一父さんは、高性能機を高いお金を出して買うこと、そのものに快楽を感じているのである。
だから発想を転換させて、今のフラッグシップ機の上を行く、スーパーフラッグシップモデルを出せば良いのである。

その代わり、そのボデイサイズは同じ会社の入門用のデジ一よりもずっと小形軽量にして、ダントツの高性能。プロ用映画機材では、16ミリ撮影機で、普通のサイズをずっと小形軽量にした特殊モデルがある。ボデイだけで、1000万。それほど高くする必要はないけど、超小型軽量のフラッグシップ機はうけると思う。

ついでにお父さん好みのうるし仕上げにして(ミノルタの一眼レフで前例あり)さらに、そこに人間国宝さんの蒔絵かなにかを配する。

超高性能を入門機よりもまだ小形のボデイに実装するのは、製作サイドのエンジニアさんにも挑戦のしがいのある仕事であろう。

年末年始のカメラ特別警戒

R1145446R1145447 ★画像説明

昨日ドイツから到着したplaubel makinaである。

1929年に登場した。ちょうど日本郵船氷川丸の進水と同じだ。

これで、氷川丸を撮影しようという魂胆である。それはともかく、この艶のあるブラックのフロントボードは実に美しい。

マキナは1型に限るね。

いよいよ、2007年もあとわずかになった。
当方は年末年始の休暇などとる身分ではないので通常営業だ。その間に通常の勤務をしている皆さんとの打ち合わせがないから、逆に仕事がはかどるという利点もある。
明日は例によって山下埠頭に氷川丸の撮影だ。年越しの様子の船の内外を撮影する。なにかNHKの行く年、くる年と勘違いされそうだけど、別段そういうドラマを狙っているわけではない。

年末年始の特別警戒で(地元の消防団で)多忙なのは、雑司ヶ谷の犬彦こと、石丸元章さんであるが(3日前の日記参照)当方も年末年始は特別警戒撮影で多忙である。その機材が届く。

ソニーのアルファ700である。レンズは18ー250ミリ。かなり前からデジタル一眼レフはそういう組み合わせで撮影するのが「普通」になってしまっている。
レンズ交換時に余計な埃の心配をする必要がないからだ。
ソニーの一眼レフはこの8月のプラハ以来である。あの時にはα100であった。α700はそれより本体はちょっと大きいけど、その撮影速度はなかなか快適だ。
今どきの流行は「リアルビューファインダーが付いていない点」にある。

ヒルズにあたしの取材に見えた、現役ばりばりのカメラマン諸氏に聞いた。いずれも達人も「リアルビューファインダー?、、、、別にいりませんね、あんなの、、、」というのが答えなのである。

氷川丸の年越しの撮影では、人間さまを沢山撮影する。その為のデジタル一眼レフである。バッテリーを充電して、久しぶりにヒルズに行かずに、佃で窓辺の花を撮影したり、窓辺の映画撮影機を撮影したりしていたら、日本郵便からドイツから発送された、1929年製のプラウベルマキナが到着する。

ただし、アルファ700の下敷きにしてあって、当分は開封しない。せっかくデジタル一眼レフで気分が盛り上がっている時である。
1929年製のプラウベルマキナを見て、「やっぱ、20年代のフィルムカメラが最高!」など考え出すと、年末年始カメラ特別警戒に差し障りが生じるのである。

朝9時前から、ヒルズにて仕事。さすがに部屋に居るのは自分のみ。自分だけ残業という感じがする。

晴れていたのが、北から黒雲が流れてきて、通り雨が何度かある。横浜反町の浅田恵理子は仕事が貯まりにたまって「お尻に火が付いて」(本人談)いるようだが、さっきメールにて「今、通り雨がありました」と報告してくれた。大体、六本木の雨が20分で横浜市神奈川区に行くようである。雨の模様は東京アメッシュhttp://tokyo-ame.jwa.or.jp/index.htmlでチエックできる。

午後遅くになって、天候安定して青空。仕事一段落してシュタイナーM22(双眼鏡)にて、羽田を離陸して北行するジエットを筑波山の手前まで追跡する。

Rimg5340

2007年12月29日 (土)

門松は冥土の旅の一里塚

R1145276 Rimg5273 日本人に生まれた幸せは、年末にクリスマスイブから、25日にかけて一挙に早変わりにて、町の様相が変わることにある。
若い人にはイブのみが大事のようで、25日はもうお正月のカウントダウンという感覚だ。

24日の午後にBMW野々宮とヒルズで閑談していたときにトヨタのなんとか言う四角い車の広告の話になった。
「クリスマスイブに六本木ヒルズに一緒に居る人は一番好きな人」というのである。昔、トヨタの広告の仕事をやっていた身にしてみれば、広告の残酷さは今更、指摘するまでもないが、これは一種の思想統制である。
それで、目の前にいる野々宮BMWが一番好きな人なのかと、笑いあったがまんざら的外れなことでもない。野々宮のカメラ趣味に関しては昔から一目置いている自分である。

1991年だったと思うが「これはファンレターではありません」という封書が来て以来のお付き合いである。爾来、プラハ、マンハッタン、メキシコ、ウイーン、巴里などに撮影旅行とカメラ買い出しに野々宮とそのカンパニーと出掛けていることになる。

ウチのタワーは管理はなかなかしっかりしているから、評価できるのであるが、ラウンジのツリーは撤去されて、今朝、ヒルズに向かう時に見たら、例の如き飾り付けにて門松が出ている。この前に門松と見たと思ったらもう地球が公転したのかと思うと感慨あり。

出版社から電子出版の印税報告が送られてきた。後年の参考の為にここに掲載しておく。
恐らく、近未来には「あの当時はまだ電子出版は緒についたばかりだったなあ」と感慨を持ってこの支払い調書を見ることになるのであろうか。

昨日の行動。午後4時から福田和也さんと今度出す、GRD2ワークショップの対談を収録。
一昨日の日本路地裏学会茗荷谷大塚雑司ヶ谷調査に続いて連日の「闘う評論家」との遭遇であった。

2007年12月28日 (金)

記憶すべき夢

R1145279_2 en-taxi 20号は本日発売。980円。大特集「ライカの下町」である。

朝日新聞朝刊の広告を見るに、佃島方面からの人物は、吉増剛造さんと、自分のようだ。

11月の末、福田和也さんと尾久歩行(これ、月面歩行みたいだ)をした時の記事、福田さんと、石丸元章さんのレポートあり。

それに田村代表の「写真家一代記」もあり、アラーキーさんのアジ演説もある。

自分が書いたのは「GRD2とフィルムライカの将来」である。

福田さんは、まず仕事カメラのGRDから入って、それからライカにやれらた犠牲者だ。ライカテロリズムは無差別攻撃である。パキスタンより、始末が悪い。テロだから無差別は当然か。

en-taxiの誌面には福田さん率いる「写真部」の面々の作品が数多く出ている。

こういう「写真部」は、以前なら「チャーチル会」みたいな存在と一笑されていたわけであるが、まなざしが「何者からも自由」であることと「結構下手揃い」なので、日常を遙かに超えて表現の方向に呼吸している。そこが面白い。

以前、あれは太陽の特集であったか、アラーキーさんと某女優さんが浅草を撮影した。成果を見て愕いたのであるが、アラーキーさんは天才であるから、ライカM6の辻斬りの技は冴えまくって、ばったばったと浅草の通行人を血祭りに上げているのであるが、それは名人の上手を超えてしまって、視神経の幇間の粋に達している。

それに対して、某女優さんの方は休憩したカフェで、クリームソーダの飲み残しのグラスをライカフレックスで撮影しているのだ。

その差があの差なのであって、自分などはアラーキーさんと同様な「視神経の幇間」(プロ写真家とも言う)であるから、逆にクリームソーダのよごれたグラスに今風の表現を感じたのである。

スター写真家の死。

これが現在のテーマに他ならない。アヴェドンはテキサスに客死し、ブレッソンが天国住まいになっただけが問題なのではない。視神経のスペシャリストとしてのスター写真家は前世紀のものになったという深刻な事情がある。精華大学のなんとか言う雑誌の昨年度版にその話を描いたこともある。

あれはニューヨークタイムスの報じる、ヘルムート・ニュートンの囲み記事だった。ニュートンは80余歳で、デイープサウスで交通事故(しかも自分で運転するキャデラック)で横死しているのだ。

早晩、写真家はその看板を他のモノに書き換えねばならないだろう。

en-taxiには自分の撮影した、尾久をスナップ中の福田教授のスナップも掲載されているのだけど、これがライカM3ブンデスアイゲンツム(軍用のオリーブライカ)と、スーパーアングロン21ミリF4で撮影されたカットである。ようするに、21ミリの広角レンズのスナップの切れ味ばかりが目だってしまう。こういう視神経の幇間(繰り返す。プロ写真家とも言う)の仕事は案外に空しいものである。

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この数年来の面白さは「夢」が奇想天外であることで、もともと夢はそういうものであるのはウイーンの夢判断で散歩者のberggasseのプロフェッサーの言を待つまでもないけど、夢と現実のギャップを観察するのは痛快である。

夢は一晩のうちに何度も見ているわけだが、朝、起きる直前に見る夢は、どっかの迷路で「トイレ」を探してうろうろしている夢であって、これは夢の中でトイレを発見して、そこで放尿していないから良いようなものの、そうなっては一大事である。この夢の場合、例外なく目が醒めて現実のトイレに行くことになる。

さっき見た夢の場合、場面は北欧の広大な草原であって、緑の草の色が目にしみる。そこを歩むともなく歩んでいると、左手は深いクレバスになっていて、そこは世界の果ての奈落というわけだ。
目の前に知り合いともなんともつかない、これはこの世の人間ではない異世界の人物が自分に挨拶してから、その奈落に飛び下りて行く。

と、思ったのは間違いであって、其の超人にとってそこは、つまり世界の果ての奈落は住処であったことを思いだす。
周囲の様相を観察するに、夢の中の世界はちょうどPCの画面みたいにマルチウインドウになっているのである。周囲はぐるり、美しい緑の北欧の草原なのだけど、空の一部がいきなり開いて、そこにグレートブリテンのリアルな地図が出現する。其の天空に窓の開くのは、「なるほど黙示録はこうでもあろう」というほどのリアルさだ。
同行の神の代理人という人物(性別不明だが女性らしい)と、ブリテンのなんとか言う山脈の話をしつつ、北欧の草原を歩行しているのだが、話題でその山脈の頂きが非常に険しくて、なでると指に痛いという話しになる。

自分は何も不思議に思わずに、指を空にのばしてブリテンの山脈の山頂を指で触ってみる。果たして、それは指が痛いほどのとんがりである。
その状態がそのまま、空に開いたマルチウインドウでリアルタイムに見える。ブリテンの地図と思ったのは、実際に撮影しているライブの衛星からの映像であることに気が付いた。

そういう身体性の縮尺のバランスが強度に破壊された夢というのは、これはやはり脳が疲労しているのであろうか。しかしそこがまた面白い。

画像は丸の内のイルミネーション。一昨日の郵船での打ち合わせの戻りに撮影。どうもイルミネーションというのは苦手である。都会の闇の方がずっといい。

昨日の行動。アサヒカメラ3月号の記事の取材で午後2時に茗荷谷駅に集合。福田和也さんとアサヒカメラ編集部の野本さん。茗荷谷から、雑司ヶ谷を斜めに突っ切る。ついで日ノ出町の「無銘のコロッケ店」でコロッケとかきふらいをつまむ。Rimg5260

雑司ヶ谷で校了直後で就寝中の石丸元章さんを急襲する。石丸さんのお宅はケヤキの巨木のある豪邸であった。歳末なので消防団の特別警戒で忙しいとのこと。地域密着型の作家である。雑司ヶ谷の犬彦だな。

撮影が終わって、野本さんはまだ終了しない校了の為に筑地。新潮社のかんずめになっていて「やたら時間のある」福田さんと大塚の江戸一。ヒルズで仕事するようになってから、あまり行かなくなって、2−3年ぶりか。おかみさんが挨拶に見えて恐縮。帰りがけに「さしみのつまを食べなさい」とおかみさんに言われる。まるで亡くなったおふくろに叱られたみたいだ。こういうのは嬉しい。YEN-TAXIにて福田さんを日比谷にお送りして佃に戻る。 R1145202

2007年12月27日 (木)

ERLANGENから来るMAKINAを待ちつつ

9ecb_1 今年の1月には、プラハで寒風の中、マキナで撮影をしていたのである。

このマキナはlllRというモデルで、1953年だかに登場した「最新型」でフランクフルト製としては最後のマキナであった。

もともと1台持っていたのだけど、人形町の快生軒の佐藤さんが完璧なカメラをお持ちだったので、それと交換してもらって、その快生軒号とでも名付けたいマキナでプラハを撮影した。

このカメラは発売中の「銘機礼讃3」の表紙に登場しているのがそれだ。

1950年代というのは、人間の技術とデザインが最高の結晶状態を示したと言っても過言ではないほどの、美麗な写真機である。

でも、プラハのアトリエで終日このカメラで遊んでいても意味がないので、プラハ製のフィルム、フォマパンを装填して真冬のプラハを撮影した。

そのモノクロ作品を今年の5月から神田明神の脇にある、ギャラリーバウハウスで展示したわけである。マキナlllRには各種交換レンズがあるので、それをebayなどで買い集めて今ではちょっとしたマキナコレクターとなった。

このレンズの良いところは、世界のツアイスとかライツとかとは、まったく異なる系列のレンズメーカー(というよりもカメラメーカー)が存在したという一事を知ることが出来たわけで、それは自分のレンズ遍歴にはかなりプラスのなったわけである。

3本のレンズ、というか広角1本、標準2本(明るいのと暗いの)、望遠1本はそれぞれに当時としては最高の写りをする。当時としての最高というのは、逆に言えば、周辺が流れたりぼけたりする画質なわけであるが、そういうレンズは現代では市場ルールというものがあって、絶対に制作できないから、そこでまた稀少価値が出てくる。

撮影レンズは軒並み優等生になってしまったので、癖玉、ぼけ玉が逆に評価されるという、不思議な時代の到来である。

交換レンズが3本付いたマキナのセットというのが自分がこれを最初に手にいれた20年前には、これは中古カメラ屋さんの厄介者であったのが、最近では結構な価格となっているようだ。

googleでマキナを検索していたら、英国人の若い写真家のウエブがあって、その男性は1929年に登場のマキナ1を愛用しているのが分かった。ウエブ画像だから詳しいことは分からないけど、それで見る限りでは魅力的な画像(というよりもこれは先入観がかなり効いているのだが)である。

マキナモデル1にはアンチコマー100ミリf2,9が付いているのは、戦後の最終モデルと同じであるが、異なるのは、シャッターがダイヤルセットなのである。

ライカB型にしてもそうだけど、コンパーのシャッターの初期のモデルはリムセットでなく、ダイヤルセットであって、これが何ともクラシックな味を出しているのだ。

それで急にダイヤルセットのマキナ1型が欲しくなった。ところが探してみるとなかなか登場しいのがこのモデルである。

ebayのインターナショナル版(というか、英語版)で、網をしかけておいたのだけど、かからない。それでドイツのebayで探していたら、これを最初に発見したのが半年前であった。

ビッドは日本とドイツには時差があるから、向こうの午後8時が締め切りであって、日本だと午前3時である。それを待っていたのだけど、うたた寝をしてしまい、目が覚めたらビッドの締め切りの時間を1分経過していた。

最初の固体を取り逃がした後にようやく、同じモデルがドイツのebayに登場したのが11月の半ばの話であって、この時にはちゃんと落札できた。ユーロ高とは言え、100ユーロほどで、送料は38ユーロほどだった。

問題はその送金方法である。売り手はErlangenの人である。この町は知らないけど、自分が29歳の当時、自分もそのメンバーだった「現代日本写真家展」がこの町も巡回したことを記憶しているので、なんとなく近親感がある。

ドイツではpaypalを受けないセラーが多いが、このセラーもそうだった。仕事場の49fから6fのJPに送金為替を組みに行きのは、なかなか面倒な次第である。

それでもようやく11月の終わりに送金をして、10日ほどしたら、セラーから「金は受け取った、カメラは昨日発送した、云々、、、」のドイツ語のメールがきた。

目下、そのマキナ待ち状態である。

何事でもそうだが、それが成就されるプロセスが一番楽しい。その意味で、マキナ待ちにはことさらの楽しみがある。

昨日の行動。朝からヒルズで例の如く仕事。

夕刻から、丸の内の日本郵船にて、1000ページ写真集の打ち合わせ。

浅田恵理子の愛猫ゆーた君の昇天1年の記念日である。(昨年のMJチョートクカメラ日記に記載あり)
早いものだ。

断腸亭日乗で壺中庵の記載の中に、「愛狗しろは明治何年何月何日に芝何町何番地の押し入れに生まれ、、云々」というのがある。これはその狗の墓碑銘なのである。その押し入れに生まれ、というくだりが好きなのであるが、これは果たして、荷風のユーモアかそれとも真面目くさった筆致のせいなのか、そのことがずっと気になっているから、なにかにつけて思い出す。

その伝で行けば、浅田ゆーたは1990年7月1日に武蔵野市関町3丁目の住居の濡れ縁に降臨し、2006年12月27日にに遷化したわけだ。
自分はこの猫の生涯に3度だけ会ったことがある。まあ変人ならぬ変猫という感じか、鼻に黒ぽちんのある個性的なヤツだった。
ただし社交嫌い。

2007年12月26日 (水)

河内(ハノイ)のクリスマス

R1145187R1145188 12月はおだやかな天候であって、日本の太平洋岸に棲んでいる人間の幸せをしみじみと感じる。欧州の冬は暗いし長いし寒いし、なによりも困るのはそこに「色彩が皆無」なことだ。まあ、色彩がモノトーンだから、そこにコントラストとしてのデコレーションが映えるということもある。
オーストリア(カンガルーの居る方)の真夏のクリスマスのことは知らないが、2000年頃に、ハノイにちょうどクリスマス前に行ったら、サイゴンほどではないにしろ熱帯であって、暑いほどの結構な12月末であったが、もともと仏蘭西の影響を受けた町であるから、そこかしこにクラシックなコロニー建築があったり、重々しいカテドラルがあったりして、しかも町全体がトロピカル様式というのが実に気に入った。
その意味で言えば、オーストリア(カンガルーの居る方である。繰り返す)の真夏のクリスマスも悪くはなかろう。

そのハノイのクリスマスの光景で忘れられないのは、大きな旗竿のようなモノに、サンタのお面というか、サンタの帽子というか、そこらはどうも記憶が曖昧なのであるが、なにかそういう安ぴかのクリスマス用品を沢山飾り立てた、ベンダーがその旗竿を担いで、ひょいひょいという感じで町を流していることだ。
その旗竿はかなり大きくて、ちょうど「ねぶた」のように見える。しかもそのサンタ売りは異常に数が多い。ライカを持って歩いていると、前に4−5人のサンタ売りが居て、それを追いこさないと先に進めないこともあった。
クラシックなハノイの露天の雑踏の中に、その「サンタのねぶた」が見えるのを、最初は奇異に感じたものであったが、1週間も居ると、それになれてしまった。

これがハノイのクリスマス情緒なのである。

12月23日の深夜便で東京に戻る時、ハノイから2時間飛行してホーチミンに到着した。
ラウンジでGパンにノーネクタイの人がホットコーヒーをアテンダントから受け取っていた。前に回ったらそれが沢木耕太郎さんだった。沢木さんは日本航空でもどり、自分はベトナム航空であったが、待ち時間が1時間ほどあったので、その時の沢木さんは初めてのベトナム行きで、サイゴンの面白さをちょっと興奮して聞かせてくれた。

自分は沢木さんに「ベトナムの面白さはハノイに行かないと分からない」などと「先輩風」を吹かせたのである。自分はその時が2度目のベトナム行きであって、沢木さんは最初であったのだから、どっちも似たようなものであるが、1度目と2度目では、2倍の体験数だから、沢木さんにはそのことを隠して、出任せを言ったのである。

沢木さんと分かれて、彼はJALで自分はVNであったが、あの時の夜間飛行は忘れられない。
沖縄列島が真夜中の満月であった。
月夜の蒼い島々がゆっくりを背後に巻き取られて行く。ずっと見続けることが出来たのだ。

東京に戻って、がっかりしたのはあのハノイの雑踏と東京とは比較にならないという一事だった。
駐車場の入り口とか、路上に物売りが座り込んでいるのがなくて、ただアスファルトが淡々と砂漠のように広がっている無人の町が東京なのである。
無論、ハノイの「サンタ売り」も居ない。

ハノイのクリスマスは世界の中で、もっとも高度なクリスマス都市であったとその時、思い知った。この気持ちは今でも変わらない。

上の画像は写真集「ベトナムデジタル紀行」(アルファベータ2002)より。

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昨日の行動。はんこで押したように朝から「退社時間」まで49fでしっかり仕事。

午後2時半、日本郵船の広報グループの紳士熟女、半ダース様来。「YUSEN」のインタビューを受ける。普通はそういうことは皆無であるが、発行人さんが直々にインタビューに登場した。その意気込みが感じられるというか、インタビューの後に、その発行人の星野さんとカメラ談義になる。星野さんは、GRDノンストラップ同盟の会員であるのだ。(その詳しい話は3月に出る予定のGRD2ワークショップに詳しく書いてある)他に、ノンストラップ同盟の会員に、明日、日本路地裏学会の茗荷谷調査にくる、福田和也さんもいる。

YUSENの1月号の「付録」には、写真のようなエコバッグが付いている。
これがなかなか使いやすい。最近使っているのは、元祖倉敷の虫バッグが2つ。これはブラックのGRDトートバッグの中に格納されている。さらにYUSENバッグが戦列加わった。

2007年12月25日 (火)

シール美しいLeica M3 w/original! -ハッカの香りがするw/Box稀-

Picture_154 この数年間、オンラインの自動翻訳が、まるで現代詩のように飛んでいるのでそれを面白がっていたわけであるが、最近、オープンした世界モンのオークションサイトは、日本語で世界からオークションでモノを買えるというのが、売り物のようであるが、自分のようにEBAYの古参党員からすると、どうも日本語は逆に勢いがそがれて駄目である。

EBAYの決済なども、最近ではそこだけ日本語の翻訳サイトが差しこまれるようになって、英語環境からいきなり日本語環境に引き戻されて焦るのである。

世界モンの場合、その説明が現代詩を超える、まるで「ありえない説明」になっているのであって、まあ、無料でそういうエンターテイメントが楽しめるのは、ありがたいことである。

カメラ人類のBMW野々宮から、世界モンにハッカの香りのする、ライカが出ているというご注進があった。
最近のライカ社は奇想天外なことをしでかす。
例えば、銘玉スマリットというには明るさがF1,5のレンズであると思っていたのが、明るさがF2,5で広角から望遠までセットで出したりする。
これは実に気の利かない話で、別に20万もする価格が高級で明るさがF2,5のレンズを買う心配は自分の場合にはないから、無視して良いのであるが、どうも腑に落ちない。
F2,5はニッコール105ミリとか、コシナレンダーのカラースコパー50ミリのF2,5なら信用できるけど、明るさが2,5で20万は凄いと思う。
こういう吃驚の新基準がどんどん登場する現代だから、ミントの香りのするライカなどは、これは売れるな、と思って世界モンのサイトを開こうとしたら、アクセス集中で見ることが出来なかった。これが20日前の話だ。

ようやく、世界モン騒ぎが収まったので、くだんのサイトを見て、ミントの香りのするライカのことを知った。
http://www.sekaimon.com/ItemDetailView.do?sekaimon=false&item_id=270191585329&category_id=625
以前は、造幣局状態の、、、と形容された時代があったが、最近では翻訳ソフトが進んだので、これをミントの香りと意訳できるようになった。まさに楽しみなネットオークションの将来がここに開けたことになる。

昨夜から今朝にかけての行動。
午後2時半、野々宮BMWがヒルズ来。すでにタワーの下の方は大混乱という。
1時間ほど閑談してから、パーキングのp1に行くのに、タワーエントランス(会社が入っているほうの)から入ろうとたら、全部ドアがブロックされている。

クリスマスイブ難民の回遊で、メーンエントランスにちん入されたり、また子供が頭を挟まれたりしては大問題ということであろう。
ヒルズのマネージメントの危機管理能力は大したものだ。

2fの「ろくろく広場」の混雑は、60年代の天安門前の文化大革命もかくや(天安門事件の比ではない)と思われる混雑。
蒼惶として、現場を離脱する。日比谷にて野々宮BMWが、ペニンシュラでパンを買いたいというので、駐車場に入るつもりが満車にて入れず。

日劇前(この言い方も古いが)方向に向かうと、クリスマスイブ支持狂信派のデモ隊の渦の中に入ってしまう。なにか巴里五月革命めいている。
他人のBMWだから、困ることはないが、フロントグラスを壊されたり、焼き討ちにあってはならんと思い返して、方向を転じて裏路地を通り、浅草方面に転進する。

山谷の酒亭大林に緊急退避。
この界隈は軒並み戸を閉めている。まさに戒厳令の夜だ。

大林は閑散。
店のおやじさんが「今夜はクリスマスメニューのみになりますが、よろしいですか?」などと言われたらどうしようかと心配していたが、平常メニューであった。
それから並びの喫茶店、BACHに行く。例によって飲酒してないかどうかの「尋問」あり。
世界中のカフェで入店者にアルコールとか薬物の摂取の如何を聞くのはこのカフェのみであろう。入国審査みたいだ。
アインシュペナーを頼む。

明後日、福田和也さんと日本路地裏学会の茗荷谷調査がある。
その後、本所の牧野に行こうと思って、万一、お休みだといけないから偵察に行った。
張り紙があって、当分休業という。これはおかみさん(おばあちゃん)のお加減でも悪いのかと心配する。
それで、佃に直帰。

車中、野々宮BMWと、ようやくクリスマスイブに相手にされない年代になってよかったと無事を喜び合う。以前なら、イブに外出していては制裁を加えられる身の危険があった。
野々宮も(彼はまだ40代だが)も自分もそういう「おとな」になったわけである。

思えば、ハリネズミのハー君が昇天したのが、19年前の今夜であった。うちの民間信仰では昇天したハリネは、「月に帰った」ことになっている。
だから、19年来、飛行中のオデッサ上空からイスタンブールに旅客機が舵をきると、午後の碧空に半月の太りはじめたのが見えて、「ああ、ハー君だ」と思ったりするのだ。

ついでに言えば、24日は俳優の三船が亡くなって10年でもある。ミュンヘンに三船の経営というMIFUNEという日本レストランがあった。案外に喰わせたので、良く行った記憶あり。

ところで1985年に「来日」した我が家のハリネズミは、今ではmixiでコミュがあるほどの人気ペットだけど、四半世紀前には誰も知らなかった。
ペットクリニックに連れて行ったら、先生が珍しがった時代であった。
今は、ハリネグッズも沢山あるし、今昔の感がある。

ハリネズミは、飼った人間でないと知り得ない魅力がある。
以前、羽仁進監督と雑談していたときに、羽仁さんは以前、ハリネズミを飼っていて「あの人(この人称代名詞がよい)の魅力は左右の耳がラッパみたいで、それが微妙にずれているのがいいんだよね」と言われたのが記憶によく残っている。

2007年12月24日 (月)

ウイーンの降誕祭

降誕祭。
やはり思い出すのは、ウイーンのクリスマスである。
イブから、クリスマスにかけて、町は静まり返っている。たしかオペラもお休みでそれが闇の中に廃墟のように見えた。
中心街のケルントナー通りは、イルミネーションは輝いているのだけど、路上に人影はない。無人と言うのはウソであって、普通のウイーン人は年に一度の家族で過ごす重要な日であるから、路上に居るのは、外国人のツーリストばかりである。

3年前のウイーンのクリスマスイブには、ライカショップのペーターのところに呼ばれた。ついでにエプソンのRD-1の写真集の中のカットで、室内のクリスマスツリーなどが欲しいので、その撮影で行ったのである。ペーターはライカショップの裏の工場のロフトに住んでいる。
立派なクリスマスツリーの周囲に列べられた山のようなプレゼントのパッケージは、これは今のヒルズのツリーの前にある、作り物のプレゼントではないから、実際に家族に送る素敵な品物が入っている。

午後7時に、家長であるペーターがツリーのろうそくに点火した。ウイーンではそういう仕来りになっているのか、それともペーターはオーストラリア(モーツアルトの生まれた方の国)のリンツの出身だからその町の仕来りであるのか、それは分からない。

ペーターの母上は車いすで一緒に記念撮影に収まって嬉しそうだった。飼い犬のなんとか言うのが(下の画像の老犬さん)うれしがってじゃれついて、母上の足に傷がついて鮮血が流れるというアクシデントもあった。

それからクリスマスキャロルの大合唱になったのだけど、モーツアルトの国であるから、なにか気の利いたクリスマス音楽でもあるのかと期待していたら、きよしこのよる、の後は退屈な通俗的なクリスマスソングが数曲あって、その後は赤鼻のとなかいの歌になったが、途中で英語の歌詞が分からなくなって、サンタのそりが一時停止するアクシデントもあった。

家族のデイナーの始まる前に、自分はペーターの家を辞して、徒歩、ホーフブルク宮殿の広大な中庭を歩いて、シュテファン寺院のすぐ下にある、ホテルに戻った。
部屋にはホテルの心づくしの降誕祭のクッキーがお皿に載っていた。

自分は近所のトルゼフネフスキー(確かそんな名前であった)のオープンサンドを買ってきて、それでシャンペンの瓶を開けた。
目の前には購入したばかりのアリフレックスSRもある。それを肴にして、シャンペンを口にすると、頃合いもよし、背後の高い場所から、教会の鐘が聞こえる。
シュテファン寺院の深夜のミサの鐘の音だ。

その翌年の猛暑の7月にペーターが東京に来た時、「母は昨年亡くなった。最後のクリスマスの素敵な写真をありがとう」と言われた。

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2007年12月23日 (日)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラコラム

1000ページ写真集「日本郵船氷川丸」の撮影に使うデジカメ

先週から、写真集「日本郵船氷川丸」の撮影が開始された。佃からみなとみらい駅まで電車で行って、氷川丸に入って、そこで終日撮影。それから馬車道にある、日本郵船の博物館で撮影。これを来年も繰り返すわけである。

まずはデジカメの陣容であるが、別に変わったこともない。日常で使っている、GRD2とR7を持参した。それとエプソンRD=1s。

実は撮影行の前日まで、GRD2とGx100を持参するつもりであったのが、当日の朝になって、Gx100は止めにして、R7にした。ぞの理由は言うまでもなく、望遠サイドがGx100ではちょっと足りないのである。

今度の写真集(1000ページ)のコンセプトは、「チョートクのぼくのカメラたち」と同様で、あれはマンションの一室だけをモチーフにして、その空間に存在するカメラとか、からくたを撮影し、それに窓から、ベランダから見える風景を加えて、他の移動はなったくなかった。

今回もそのコンセプトなので、円形の風景を「引っ張る必要」があるので、望遠レンズは必須なのである。その点で、R7の200ミリ見当の望遠サイドは実に役にたつ。

それと、戦前の記憶を呼び覚ますような、ショットは、ミノックスのライカM3ミニデジカメを使うつもりだ。あの「ほんわかした画質」がぴったりであろう。
要するに、デジタル一眼レフの出番はまったくなしなのである。

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★銀塩クラシックカメラコラム

写真集「日本郵船氷川丸」の撮影に使う銀塩クラシックカメラ

今回の撮影では、デジカメがメーンなのは言うまでもないが、それだけでは面白くないので、なにか楽しいアイデアを写真集につけ加えることが出来たらいいな、と思っていた。
撮影中の1000ページ写真集のヒロインになるのは、1930年に竣工した日本郵船氷川丸である。

戦前の船舶ではこの氷川丸が唯一、現存する船だ。
1930年と言えば、ライカA型の時だ。その2年後にライカD2が登場して、ライカは報道写真から、科学写真、趣味写真の万能カメラとして、大成功を収めることになる。それで1930年製のライカを使って同年代の、というか、同い年の氷川丸を撮影しようと思った。

ライカ人類の間では、生まれ年のライカを持つという趣味が流行中であるが、それに似せて、氷川丸の誕生年のライカで撮影するというのは気が利いていると思った。

手元に1930年製のライカがないので、その為に「新調」(中古だからこの言い方は変だけど)したのである。ただし製造番号が5万台のライカAでは、距離計が付いていないから、氷川丸の中の暗い場所の撮影は距離合わせがちょっと厳しい。

それで1930年製であるが、ライツ社が距離計を付けてライカD3に改造したライカをもとめた。
これなら、望遠レンズも付けられるし問題なしである。これに低感度のあまり性能の良くない、モノクロフィルム(というようなフィルムが現存するかどうか)を入れて、1940年代の氷川丸の北米大陸航路を回想する雰囲気のある、写真が撮れたらいいな、と思っているのだが、果たして?

レンズは傷物、鮨はミシュランの星なしに限る

R1144828 R1145103 画像説明。

21日のMS HIKAWAMARU甲板からHOTEL NEW GRANDとTOWERを見る。

改装中の船内。ハードハット好きの自分としては、なかなか嬉しい作業(撮影)だった。

カメラはGRD2とR7。

普通の冬の気候。
曇り空にて寒気は野に満ちる。
歩行していて気持ちが良い。ようするにそのような寒い、ウイーンの七年を過ごしていた当時、(73ー80)
冬の楽しみと言えば、散歩とカメラ店のウインドウショッピングであった。
この時期のウイーン。
これはちょっと行ってみたい気になる。

そういうジンクスはあるものだ。
この9月の家人の帯状ほうしんの発病したのが3連休の初日だったし、その後、数日してさらに酷くなったのが、その次ぎの三連休だった。
こうなると健常者にとっては嬉しいお休みの連続ではあろうが、病持ちにはつらい休日である。
幸いにして家人はなんとか回復した。

昨日は恒例の四谷のシドニーであった。もうシドニーも長いけど、本日特筆すべきは、本物のシドニーからシドニーにお客さんがきたことである。その人はシドニーのライカ人類さんでもう滞在は長いようだけど、日本は寒い寒いと連発していた。
それは向こうは夏だから当然の話しだ。

この前、氷川丸でキャプテンから聞いた、オージー英語の話を受け売りする。

郵船がシドニーで、向こうのオーストラリアの関係者から「はう、めにい、めーる?」と聞かれて、横浜とシドニーの間の距離を聴かれたと思って、「2500マイル」とか答えたそうだ。
そうしたら、その後、岸壁に膨大な数の郵便車が並んだそうである。まいると、めーるが発音上紛らわしいから、そういうことが起こるという実話のジョークなのだ。
2500というのは、手紙の枚数ではなく、郵便を格納する袋、郵袋の数を数えるのである。

昨日のシドニー(集会のほう)は満員にて椅子が足りなくなるほどであった。その後、サイン会で「銘機2」にサインする。これも購入者さんが列を造ってくれて有り難い。

夕刻から近所でアローカメラの忘年会。そこで、エプソンRDー1sの液晶がいきなり見えなくなる。
こういう故障は年末年始にかならず起こると覚悟した方が良い。
まあ、これがフィルムのライカだと思えば、別に液晶は見えなくてもかまわないのであるが、そこまで納得する時間は結構かかるのである。

忘年会が散じて、同行の野々宮BMWと、四谷三丁目のちょっと裏の立ち食い鮨、「かむろ」でちょっとつまむ。

その向かいはかつてのインデイ系フォトギャラリー「モール」であった。今は飲み屋になっている。そこの鮨はまあまあで、これなら、数寄屋橋次郎よりもずっとコストパフォーマンスが良いという話題になる。

レンズは傷物、鮨はミシュランの星なしに限る。

野々宮とオーストリアのシドニーの話題になる。
これは仲間内の言葉遊びであって、カンガルーの居る方がオーストリア、モーツアルトの生まれた方がオーストラリアということにしてある。もともとは1973年にウイーンの友人、クルト・エルベンの話にて、ニューヨークから出した手紙が、オーストラリアに間違って送られて、それがオーストリアまで来たという故事にもとずく。

2007年12月22日 (土)

くすぐりエルモ

撮影行。朝の6時に起きて、東急にて9時には横浜の山下町。

日本郵船氷川丸の1000ページ写真集の撮影の第一回目。
快晴にて撮影日和。 氷川丸、金谷船長の案内にて、船内各所を見学。アール・ヌーボーの装飾は見ごたえあり。ランチをはさんで、午後まで撮影。無慮1300カットほど。
カメラはGRD2、R7、それにRDー1S。これには先日手に入れた、SUPER ROKKOR 50MM F1,9をつける。

正午の氷川丸の汽笛の吹鳴がよかった。氷川丸はまだ現役である。係留されているので、一等船室の社交室に居ると、アールデコのシャンデリアがゆるゆると、揺れる。海面の動きに呼応しているのだ。
大晦日から新年を祝う、汽笛の一斉吹鳴は、ここ佃でも楽しみなものだが、横浜はその本場であるから、期待できそうだ。

ブリッジにて伝声管の実物を見る。それと冷風を船の外から導入する、パンカーというモノは、昔の資料でよく出てくるのだが、それがどんな物なのか初めて分かった。
ブリッジで見た氷川丸のコンパスであるが、我が家にある英国の2万トンクラスの船で使用したものより、一回り小型であった。
その後、日本郵船歴史博物館を取材。キュレータの長久さんから話しを聞き、貴重な資料を拝見。

それから久しぶりに横浜は反町の浅田恵理子に会って、近況を交換。

家人がトイザラスのちらしに出ている、くすぐりエルモが欲しいという。家人は物欲がないので「有名」であるが、エルモをプレゼントして、日常の問題解決になるのなら安いものであると思った。
それで国内でチエックしたら、通販では軒並みに売り切れである。
それで、EBAYで落札しようと思った。

さて、英語でくすぐりエルモは何と言うのであろうと考えた。とりあえずセサミで検索して、そこに登場する画像で、探し出した。此れは英語で「くすぐってよ、エルモ」なのであることが分かった。ほかにも「くすぐってよアーニーとか、「くすぐってよクッキーモンスター」というのもあるらしい。

ニューヨークのセラーさんから落札した。価格は38、50ドルで、それに28ドルの送料がかかるが、日本で捜索するよりも楽であろう。

本日は、午後二時からアローカメラのシドニーだ。その前にアサヒカメラ2月号の入稿で、キャプションを書く。最後まで書いて、PowerBookがフリーズする。
最近、この9-2-2は調子が悪い。しかもことえりはバカである。ATOKの方は入力で「きた」と入植すると、即フリーズする癖があるので使えない。
仕方なく、キャプションを記憶に頼ってもう一度書く。やれやれ。


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2007年12月21日 (金)

半世紀前の隅田川

Rimg4555 Rimg4569Rimg4542 木曜日。

東京大周遊。

今日はヒルズには行かないつもりにて朝9時前に佃を出て、徘徊老人モードに入る。

中央大橋を多数の消防車が渡って行く。それについて行ったら、新川1丁目の昔、クレドールという日本橋室町にフレンチレストランを出していた人が住んでいた(もう居ないが)新川の10f建てのマンションに消防が10台ほど集まっていた。

火事と喧嘩は江戸の華とはいいながら、朝の光の中にピカピカに磨き上げられたポンプ自動車は綺麗であった。

日本橋L(ラダーの略、はしご車)が10fまで伸びて、一方では東京消防庁第74特別救助隊というのが、エンジンカッターを携えて、エレベータで災害に向かう。実に勇ましい。軍隊は人間を抹消するわけだが、特別救助隊は人間を救い出すわけで、人命に対して。正反対のことをしているわけだ。だから同じヘルメット姿でもこっちは実にかっこいい。

結局、ベランダの部分にタバコの火があってそれが煙の臭いを出したので、通報があったもの。

最近では、消防無線も傍受できなくなったので、消防車の側で指令の無線を立ち聴きするのは久しぶりだ。

ちなみに、中央区は第一方面である。8方面まであったな。消防無線をシミュレートするとまあ、こんな感じだ。

「ピッピーーーーっ!!東京消防から各局、東京消防から各局、中央区出火報!中央区新川1丁目x番×号出火。覚知は報知電話。以上、東京消防」ってなことでセルコールで開始されて、まず現場到着の局の開炎偵察というのがあって、現場から報告する。

例えば、日本橋指揮一が、「日本橋指揮一から東京消防、中央区新川1丁目、x番x号の火災(これはかさいとフラットに発音せず、葛西臨海公園と同様のアクセント、つまり第一音節を一番高く言うと消防無線の勇ましい気分がさらに高揚)は中央区新川1丁目2番3号にして(実際の火災の位置を通報する。この、にして、、という言い方が風土記みたいで雅である)耐火1分の10(地下1f地上10階の意味)集合住宅、10階部分、黒煙激しく上昇上、、」とか言うことになる。

もっともこれは30年前の傍受の記憶だから今では異なっているかも知れない。

いや、案外、同じかも知れない。

それから「まる本」(本部)の設置があり、東京消防は「この火災を以後、災害1,1(いちいち)とする」と宣言するのだ。
これは同一方面で多くの火災が発生した場合の区別なのだけど、火災を災害何番と呼ぶのは実に現象学だ。

あと、消火放水部署、何口とか頻繁に活動状況を連絡する。
これは消火のホースの数であろう。
一番面白いのに「大隊長活動方針」というのがある。「東京消防から各局、、大隊長活動方針、丸カの鎮圧ならびに291の救助」(3桁の番号は隠語である。この場合は行方不明者だが、実際には291ではない)

消防署員は、火災を消しに来ているのだから、今更、大隊長に知れたことお訓辞されなくてもいいわけだけど、これが組織というものだ。

それから下火になると、鎮圧見込み報がある。
例えば、東京消防は「災害1,1現場(さいがいいちいちげんじょう)は住宅居室10平米、掘りごたつ、ふとん、家具、その他若干を損傷して、この程度で鎮圧できる見込み」となる。この程度で、、、見込み、、、と宣言するのがまた渋い。そして最後に「鎮圧法」が出て一件落着。
消火ではなく、鎮圧なのだから、機動隊のデモ鎮圧と同じだ。

上のいきさつは30年前の記憶によるから、今は異なっているかも知れない。アナログ時代には、警察無線も傍受できて、訓練の銀行強盗などの実況があったこれはエンタメとして楽しめた。これを寝ながら聴いていると、実にウイージーになった気分であった。訓練の場合はすぐにマル被(被疑者)を確保できるのに、駅前で起こったホンモノひったくり事犯は大抵の場合、逃してしまう。「黒っぽい服装に城っぽいバイクで逃走中」では分からないわけである。それで警視庁の指令は「そこらへんの藪の中、あるいは駐車中の車両の下、特にカバーをかけてある車両の下などは、全部検索し、マル被の確保に努められたい、以上警視庁」となるが、これが実際にがなかなか出来ることではない。

歳末警戒が大晦日から新年になって新しい年になると、「新年早々、ご苦労さまです」と警視庁の指令が言うのも良い感じであった。
ーーーーー
結局、タバコの煙を火災と見誤って通報したもの、で事なきを得たが、火の用心、火の用心。

実に勇ましい20分であった。活動するファイヤーファイターの中に、ポニーテールの綺麗な女性が居たので一驚した。マンハッタンなどでは、ファイヤーファイターはもっとも危険な職業で、女性はいない。日本はその意味で先進国だ。よく消防所から書類を手にして見回りをする女子の消防官はお馴染みだけど、耐火服での出動するのは初めて見た。こういう女性には男の子が惚れるな。女子ライカ部なみである。

火事現場を撮影したカメラはR7。
下の日本橋梯子の活躍などは、これはGRDでは撮影不可能だ。
最近、またもGRDよりR7になっている。

現場に警察詰めと思われる若い記者さんが腕章付きで登場。ばったんこ(ボード)を持って、駆け回って消防や警察から話を聴いていたが、持参のカメラはデジ一ではなく、コンパクトデジであった。

こういう人が40年前には、ニコンSPを首からぶら下げて取材していたのだから、実に今昔の感に堪えない。

それから徒歩、茅場町に出て、メトロで久しぶりに中野。思えば、春以来だから、中野よりもプラハの方が頻繁に行っているわけなり。
フジヤカメラで、この前の100冊ほどの銘機3のサインのお礼を言われる。恐縮する。
めぼしいものは、ニッコール50ミリf3,5Lマウント、ライカ3g、ビゾ2型などなど。
方向を転じて、アキバに行く。
撮影。

ランチはヨドバシの8fの西安の刀削面。ただしコックが変わったのか、麻が辛すぎて、あまり美味ならす。
銀座に出て、カメラ店数軒。Lモンで会ったY山さんという紳士が「3、買いました」というので、ニコンD3のことかと思ったら、銘機3のことであった。その紳士は最近、ノクチの1,2を買ったそうである。こういう買い物は精神的でいいなあ。(経済的にも凄いが)

のどが渇いたので、そのままヒルズに来て、ペリエとカプチーノ。
メールをチエックしたら、この前、Lモンで買った、スーパーロッコール50ミリf1,9は何と、うちの向かいに在住のカメラ人類K永さんが売りに出したものだという。これでフレンチコネクションのラインが引けたわけである。K永さんはもっと綺麗なレンズを手に入れたので、手離した由。カメラ人類の鏡である。
小休止。今日はヒルズで仕事はせず。

明日(金曜)は横浜山下公園にて、日本郵船氷川丸の「大撮影会」あり。例の1000ページ写真集の最初のステップである。9時に氷川丸に集合だから、今日は遠足前にて早く寝よう。
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自分も手伝っている、岩波写真文庫の復刻版だが、このたび、最初の赤瀬川原平セレクションに続いて、川本三郎セレクションが世に出た。
川本さんは東京学の大家である。だから「東京再発見」というタイトルで5冊の写真文庫を復刻している。
その中の一冊、「川ー隅田川ー」はひどく面白い。1950年12月15日の発行だから、半世紀と7年ぶりの復刻というわけだ。

担当の岩波編集部の桑原さんが送ってくれた5冊セットでタトウに格納された状態はまさに東京タイムマシンだ。
その中の「川ー隅田川ー」の一冊の頁にポストイットが付いている。何かと思った。
その頁を開いたら、「佃島の一部」とあって、川の上から見た住吉さまの鳥居とその脇の石川島とを隔てる水路の写真であった。

普通、佃の古い写真はもっぱら、佃の渡しのそればかりであって、その北側を撮影したのは非常に少ない。それは川の上からの撮影の為なのであるが、普通の写真のアングルは佃の渡しの上からのカットだから固定化されてしまう。この57年前の撮影は船をチャーターしたらしいので、その分、視点が新鮮だ。

それが面白いのは、佃島と石川島は水路で完全に断絶しているばかりか、石川島サイドは倉庫群なのである。佃サイドには見なれた住吉さまの鳥居が見えるが、その他は瓦屋根が蝟集していて、今とはまったく様子が異なる。つまり、この一角の写真は、現代よりも其角が句に詠んだ時代の佃島の方にはるかに近い。
まだ江戸時代がそこにしゃがんでいるという感覚がある。
それが面白い。

今の自分は毎朝、この石川島と佃島の間に架けられた人道橋を渡って、住吉さまの前を通過し、佃小橋を超え、そこから電気式の地下鉄道で麻布日が窪の高楼に通っているわけだ。つまりかつての石川島監獄から、これも東京の代表的な貧民窟(ついでに言えば、音羽もそうである)に通勤していることになる。
これも半世紀前には想像の他である。
時代の先は見通せない。

それよりさらに驚いたのは、この本の表紙の写真である。
最初は「はあ、浅草方面から駒形橋(これは正しくはこまかたと清音に読む)と厩橋を撮影したな、」と漫然と見ていたのだが、そのうち、水面の一点に自分の視点は引き付けられた。
帆を張った帆船の、それも和船である。

子規の明治33年4月29日の記載「車上の春光」では、子規がうぐいす横町から、人力で本所の左千夫を訪問するとき、厩橋を超えている。その時の観察に、和船でむしろとか布を帆に上げた船の一文である。
子規は、その帆の恰好が橋桁の下を抜けてゆけるように、わざと帆の高さを低くしてあることに触れ、その帆の低いのは変であるが、またそれが目的にかなっているだけに、感じの良いところがある、と感想をもらしている。

永年、この一文を愛読していて、その帆掛け船が一体どのような形のものか、皆目、見当がつかなかったのが、計らずも57年前の写真文庫の表紙にその姿を見ることが出来たのは、意外であった。
なにか思わぬ拾い物をした感じで嬉しい。

R1141075

2007年12月20日 (木)

パワーブックよりクラシックライカ

R1141074水曜日。

終日ヒルズで仕事。

アスキー新書の「語り下ろし」の第三回目を執行。

話題展開、談論闊達。

編集部さんの質問はなかなか「かゆい所」に手が届く。

面白いのは、世代によってカメラの機種の認識が異なる点。

インタビューわーから、トイカメラについて質問があったので、こっちは「冒険王」とか「ぼくら」の広告に出ていた、あやしげなトイカメラの話をしたら、若いインタビューわーはチエキの事を意味しているのだ。

そのあたりの「ギャップ」がまた面白い。

ヒルズの仕事場で使っている2台のPowerBookの一台は、先日、バックライト液晶が壊れて真っ暗になり、アキバの五州貿易で修理した。そのマシンで今、これを書いている。
ただし、プリントのドライバーがうまく作動しないので、もう一台のPowerBook G3をプリント出力する時には使用している。

このG3は昔の黒いヤツで当時はブラックバードと呼ばれた。巴里の高級ホテルに持ち込んでダイヤルアップでやたら高い通話料を請求されたのも懐かしい。おそらく20世紀末から使っているはずだ。G4ではなくG3なので、かなり遅いけどそれでもタイガーで動いている。
そのG3がいきなり不動になった。今まで、何度かHDを交換しているのでまた同じ症状のようだ。
しばらく前には、HDがクラッシュするとなにしろ、HDには書きかけの原稿が入っているので、それで蒼くなった。

「カメラ悪魔の辞典」(光文社文庫)などは70パーセント書いたところで、HDがクラッシュしたので、遅れを取り戻す為に、イスタンブールのブルーモスクの向かいのホテルに自費でかんずめになって書いたこともある。
最近ではオンラインでデータを置いておけるからそういう苦労と心配はなくなった。

思いだしたのは10数年前、新形のマックは高かったこと。それでも仕事には必須なのでそれを買おうと思ってアキバに行くのであるが、どうせ3年経過したら、「ただのゴミ」になると思い直して銀座に出て、クラシックライカを買った。30万のPowerBookは3年で価値がなくなるが、30万のクラシックライカは価値が減ることはない。
この考えは正しかったようだ。

ヒルズで仕事していると、そこに用意してあるPCも借りられる。以前は「宗教上の理由」で窓屋方式のPCは使用しなかったが、最近はなんとか使えるようになった。
ただし、PCはFEPが馬鹿なので、文章を打っているととんでもない展開になる。会社の企画書ならいいであろうが、自分のような偏屈なテキストには向いていない。

★追記 今、再起動したらまたクラシックG3は使えるようになった。まったく機会モノは苦手である、、、、とは、百鬼園が戦前にラジオの件で憤慨しているのだが、そのマシンは今ではPowerBookに相当するなあ。

2007年12月19日 (水)

ライカ250を使い始める

R1141071 連日、ヒルズ。

オフィスメンバーに「皆勤賞」ですね、と言われる勤勉ぶり。

お昼12時半から3時半まで、アスキー新書の新刊の「語り下ろし」執行。

これが面白い。

質問事項はわざと伏せてあるのだ。いきなり編集者さん(本多、百名のお二人)から質問が出る。

それにいきなり答えて行く。

前に坂崎さんと京都のMJでの講演会の時、新幹線で無駄話をして、現場に行ったら意気消沈していた。それではいけないというのでアサヒカメラ1月号の、坂崎さんとの「カメラじゃんけん」でも事前の打ち合わせはなし。いきなり始まるのである。その方式「坂崎ばったり方式」(なにかオギノ式みたい。新潟市内にはオギノ式発祥の地という立て看板があったが、今もあるかな)を今回は使用しているわけだ。

画像は手許にある、ライカ250。
アメリカから手に入れた10年ほど前には、動かなかった。それを偽ライカ同盟の公式メカニックである、良元堂さんが修理してくれた。
ぬるっという巻き上げ感覚だから、ようするにライカの250が新品で存在した時代の程度(あくまで想像だけど)になったわけである。ただしモノクロ現像の為の10メーターのリールがないので、机上の愛玩品となっていた。それがカラーネガの使用で現代に復活。

実はその為に、カラーネガというには長尺で現像機にかかることを数年前にラボで確認したのである。プロセスは同じだから、映画用のカラーネガを切って使えばよい。
しかしその時間もないので、ヨドバシカメラでかった、普通の36枚撮りのカラーネガを入れてある。
そのやりかたはちょっとしたコツがあるのだけど、まさか980台しか生産されなかった、ライカ250で今時撮影をしようという奇特な人が居るとも思えないので、それはここには書かない。

ライカ250は案外にホールドのしやすいカメラだ。これを「出目金ライカ」という人がいるが、これは品がない。やはりライカ250と呼ぶのが良い。

Epsn2479これが佃の室内のモビール。
3年ほど前に、岡山の戸倉のお嬢さんのグループ「小鳥姉妹展」の時、銀座の画廊で購入。

室内の空気に反応して、良い感じに動く。

これは「中」であって、もうひとつ、「大」を買ったが大事にして仕舞い無くした。

仕事机の上には良元堂さんから誕生日にもらった、ハリネズミのモビールが下がっている。

この画像はエプソンRD1sにスーパーロッコールで撮影。実に優秀なレンズだ。

2007年12月18日 (火)

エプソンP5000を落下させた!

月曜の行動。 終日、ヒルズで仕事。9時間滞在したのに、3時間居たくらいにしか感じられない。 午前11時、博報堂、増村さん、阿部さん、東京キララ社の中村さん來。 1000頁写真集、「日本郵船氷川丸」(仮題)の進行の打ち合わせ。

午後4時、岩波書店、賀来さん來。新刊の打ち合わせ2時間。 エプソンP5000は旅行中には一番大事な機材である。その扱いも丁寧にして常に移動中はソフトケースに入れておく。

R1141073 そのP5000を不注意で落下させてしまった。
時は12月16日の午前9時45分ころ、所はヒルズの49fである。ロッカーから資料を取りだし、nizoのスーパー8のカメラを取りだした時、なにか物体が自分の顔面を擦過して、床に落ちた。最初の瞬間はライカかなにかが落下したのであろうと思い、これはまずいな、壊れただろうと思った。それはコンマ1秒ひほどの時間経過の内にそういう思考が閃いたのだ。
床に落ちた物体は黒いので、ライカだと一瞬思ったのだけど、ライカではなかった。

ソフトケースに入ったP5000であった。
蒼くなった。
目下、進行中の何冊かの本に使う画像が何万枚かそこに入っているのである。
冷静になって、P5000を起動したら、ちゃんとファイルがそこに存在していたので、思わずため息がでた。
P5000はショックに強いと聞いていたけど、所詮これはHDであるから回転する記憶媒体である。
だから、弱いところがあるので、てっきり駄目だと思ったのだ。

数日前、エプソンの広報の人とデジタルカメラマガジンの忘年会でP5000の話になり、撮影現場で落下させたりする危険があるから、本体に三脚ネジを付けてもらいたい、と話していた矢先に自分で落下実験をしてしまったわけである。
そういう落下実験は実際に仕事に使っているP5000であれば、誰もやりたくないのは当然な話だ。
思わず、この機材のタフさを証明する結果となった。

反省点。
まずこの命の次ぎに大事なデバイスをどこに保管しているかを注意すること。
付属のソフトケースは普通のブラックである。これをオレンジの警戒色にすること。そういうケースがエプソンから出ればいいけど、それが期待できないのなら、自分でそのようなワーニングカラーのケースを探すこと。</

2007年12月17日 (月)

市ヶ谷の不思議な夕暮れを歩く

Icam0158 日曜日。

休日出勤。終日、ヒルズの49fにて仕事。実は今日は靴を買いに行く予定であった。履いている靴が例の「ばか歩き」にてかなり痛んできたのでそのつもりであったのだが、朝、ベッドの中で、今度書く、岩波写真文庫「田中長徳セレクション」の内容を考えているうちに、アイデアが閃いた。それを脇にある、モレスキンのノートに書いたのだけど、それより原稿そのものを書いてしまった方が新陳代謝上では良いので、休日出勤である。

視程は良く、房総半島と三浦半島が丸見え。

これは感覚的なことなのだけど、冬至の前の一週間の方がなにか、日照が伸びているような錯覚を起こす。これは毎年のことである。
土曜日には珍しく、ヒルズで仕事せず。午睡から目覚めたらすでに午後3時頃であったが、まだ日ざしが残っているので、メトロで、牛込神楽坂で降りて市ヶ谷方面を目指す。
カメラはエプソンRDー!Sにこの前、1万8千円で手にいれた、スーパーロッコール50ミリF1、8。このレンズはフィルター枠がまがっていて、おまけにレンズの第一群に貝殻状のクラックがある。
レンズは傷ものに限る。

これがレンズ選びの真実だ。

すでに町並みは影になっているが、空の上層の雲が茜色の染まって、それが地上を間接照明するので、なんとも言えない気分が街にただよう。
大日本印刷の大工場のの道を西にとりつつ、スカイラインと雲と電線と、カラスが交錯する遅い午後の光景を撮影。ここらはお屋敷町と普通の家とが前線状態になっている町であるが、自分にはまったく「未知の新宿区」だ。
およそ、夕景を150カット。こういう撮影はフィルムライカではなく、エプソンRFデジタルの仕事だ。おっと、その撮影した画像はあまりに気に入っているので、ここには掲載しない。

ブログの画像はそのまま消費されてゆく画像であるから、ちょっと勿体ない。自分だけで楽しむことにする。

いい具合に撮影を終えて、四谷荒木町のアローカメラ。来週の土曜のシドニーと、その後の忘年会の打ち合わせ。ついでにアローカメラのHPで連載中の「我楽多屋さんで買ったモノマガジン」に登場させる物品の捜索。
運良く、最近凝っている、国産ライカアクセサリーのアクチナブランドのフラッシュガンを発見する。

アクチナは戦後すぐに人気のあった、ブランドだ。これには複雑な事情がある。当時のライカの輸入元のシュミット商会が出していた、これは「ライカ用の安価な国産製のアクセサリー」なのである。今ではほとんど知られていないけど、引き伸ばし機とかフードとかがあった。

以前、フードを「発見」した。for summicronと刻印されている、ライツ製のそれに似たフードである。japanと刻印されていないのは、まだ占領国下の日本時代のものであったからだろう。

そのエッセイは右のリンクをクリックすると読める。

2007年12月16日 (日)

おっ!マミヤC3

快晴の東京の土曜日。
久しぶりに築地に行く。インドマグロの赤身。それとまた出始めたたいらぎを買う。最近では買う店も決まっていて、都営の地下鉄からまっすぐに歩行して、お目当てのスタンドまで行くことができる。これもこの3月以来の「成果」である。
例によって外人さんの見学者が多い。その中に亜細亜系の人でマミヤのC3で場内を撮影している人が居て、これがなかなか様になるのだ。
ついでに言えば、マミヤの二眼レフは美男美女が持っては似合わない。ちょっとその感じを斜に外した人が実にに良い感じになる。
だから、ダイアン アーバスにはマミヤフレックスが当たりなのである。

数日前、六本木ヒルズからの戻りに、月島駅の構内を行く女性で、マミヤCのイラストを黒いコートにあしらった人を見た。
この場合は、本物のカメラではなく、ファッションとしてのマミヤC3であるから、やはり美女の方が似合う。その後ろ姿を持っていた、GX100でスナップした。それが下の画像。

これはお洒落である。ただし、男性がこの恰好をすると、いかにもカメラショーのマミヤのスタンドで場内を警備している人に見えてしまう。
実際のマミヤと、ファッションのマミヤとでは、その範疇がことなるのである。

この場合、このコートの図柄がニコンやキヤノンのデジタル一眼レフであったら、どうであろうか?
これはあまり様にならないのではないか。

金曜のヒルズの49Fからの天候は、ここに5年居るわけであるが、こんなに視程の良い日は初めてだ。

午後の3時間ほど、アスキー新書から出る新刊のインタビュー(いわゆる語り下ろし)があったが、時々、編集者さんと快晴の異常に視程の良い東京と関東一円の風景を楽しんだ。
今度のアスキー新書はまだタイトルは未定だが、今のデジカメと銀塩カメラの最前線の「いかにライフスタイルの写真することを取り入れるか?」をテーマに展開。

R1141053

2007年12月15日 (土)

、、で人身事故のため、、、

Icam0045 Icam0005金曜日。快晴の東京。

今日は結婚記念日。夕刻からタワーの隣にある(徒歩30秒)のフレンチで会食。

家人の3か月の帯状疱疹事件があったので、このレストランに前に行ったのは9月13日、すなわち家人の誕生日以来であった。

ミシュランではないが、星付きレストランより、近所のレストランだ。

これは考え方の問題である。
欧州のシャトーホテルなどは、貴族連中が調理人を抱えている贅沢がある。
これを佃の寓居で「見立て」をすれば、屋敷の中に自分用のレストランがあると思えば良い。
そこまでの歩行がちょっと林の中を歩行している感じもあり、「さかしま」に登場する主人公の「偏屈な空間失調の贅沢」も味わえる。

最近は超多忙なので、毎日ヒルズに「通勤」している。
面白いのはその通勤中の周囲を観察して、自分が一番年寄りであることだ。ようするに上昇するエスカレーターの前の方というか、長い長いエスカレータの位置が40年前には一番後ろであったのが、かなり上の方に来たということだ。
このエスカレーターはまだまだ先があるのが、楽しみなことであるが、その間のプロセスを非常に楽しんでいる。

それで毎日、楽しみにしているのが「電車の遅延」の表示である。
電源故障とか点検再確認とか、車両故障とか、人身事故とか、実に案内が親切である。30年前、ポーランドのその名前も忘れた田舎の駅でワルシャワに行く列車を待っていた。無論、お知らせの掲示板などはないから、雪もようの空の寒風吹くマイナス20度のプラットホームで列車を待っていた。
たしか2時間弱の待ち時間であったが、列車は何時来るか、それも分からないので、ただただホームで待つのである。
その時に退屈しのぎに、ホーム上の鳩さんを観察していた。これが案外に面白いのであっと言う間に時間が経過した。

それで列車の乗って、やれやれ、というので腕時計を見たらすでに2時間弱が経過していたのである。
無駄なような時間でありながら、充実した時間であった。
というのは、真冬のポーランド旅行(これは北井一夫さんと一緒だった)のホテルとかバーでのウオッカの酔いの記憶はどれもごっちゃになっているのに対して、この田舎駅(とは言ってもかなりのターミナルであったことが記憶の糸で分かった)の待ち時間の記憶がはっきりしているのは、つまりその時間をちゃんと楽しんで消費していたのである。

人身事故の表示は心が痛む。同時にそういう事件を表示して、また車内で「申し訳ございません」と車掌さんが紋切り口上を言うのを聞かされるのは、どうも不愉快である。

この画像はミノックスのデジタルM3カメラで撮影した。
なかなかの描写である。その意味はシャープ過ぎない点にある。銀塩フィルムの魅力は粒子の荒れとボケなのであるが、その感覚がうまくデジタル上に再現されているのである。

RAWモードで撮影した「死ぬほどシャープ」な、ぬめっとした画像より好きだ

昨夕のデジタルカメラマガジンの忘年会に参加したのだが、持参したM3ミニデジはデジカメスペシャリストの間でも、人気になった。初めて触ったという人がほとんどだった。
M8と並んで本家のライカデジカメの2ショットも経験した。
上の人物画像はデジタルカメラマガジンで御世話になっている、アートデイレクターのkikuさん。
M3ミニデジでの撮影。スパイカメラとしてはこの程度の情報が得られれば上等である。

Icam0021 昨日、朝、ヒルズに行く途中に隅田川で。 これはもうロシア構成主義を超越している。すごい。

2007年12月14日 (金)

デジタルミノックスライカM3は案外によい

Icam00632R1141050 木曜日。
雨。
雨は落ち着く。
家人の父が亡くなる数日前に、これは新潟の11月の話であるが、家の庭を見ながら「雨もまた、いいなあ、、、」と言ったそうだ。
これは実感である。
この2週間、あまりに天候が良すぎて、飽きてしまった。
ヒルズに来る日比谷線は異常に暖房がきいているので、汗だくになる。ふと、気が付いて周囲の人の傘を見たら、6本のうち、4本まで傘の柄にシールが貼ってある。つまり、仕事先で雨に降られて、あわててコンビニに飛び込んで傘を買ったという、これは証拠なのである。

10年前、カメラジャーナルのツアーで自分が団長となって、パリの中古カメラ店を襲撃に言った時の話だけど、野々宮BMW夫妻がパリの繁華街で雨にあって、とある店の前で雨宿りしていたら、それがなんとか言うブランドの本店であることが分かり、さっそくその店に入ってそこでブランドものの傘を買ったそうだ。
こういうのはゴージャスであるが、自分には真似が出来ない。パリで雨が降ったら、自分はまず手近にあるカフェに駆け込むか、最寄りのメトロの入り口を探す。

この場合、本物のパリジャンはどうするか?
平気で雨に濡れて行くのである。その事実はジャコメッテイを撮影した、ブレッソンの名作が照明している。

先週から、ミノックスのライカのミニチュアデジカメ(正式名称はなにか憶えられない)を首からぶらさげて歩行している。それ方面の人で、携帯の灰皿を首から下げているのは、重度のニコチン中毒のようで気の毒だが、それも限界を超すとなにやらプロフェッショナルめいている。
自分の周囲だと、オザワエイイチがいる。オザワエイイチの風貌は最近でスリムになったが、以前はなかなかの偉丈夫であった。(メタボともいう)
最近、朝日新聞の書評に釣られて、熊楠の「菌類図譜」(新潮社発行、ワタリウム編集)を買った。その内容は言うまでもないから、ここでは書かない。なにか、プラハの国立図書館のライブラリに収蔵されている、図版という感じがする。
熊楠のような人物でも、40年間に書きためた菌類図譜をついに刊行できなかったそうであろうから、我々の写真家の仕事で40年間の集積のライフワークが刊行の当てがない、などと嘆くにはあたらない。

そのことではなかった。その図版の巻頭に出てくる、熊楠は従者を2人従えて、和服でこれから粘菌だか菌類だかの採集に行く所の写真がある。くわえタバコの熊楠はちょっと信用のおけない羅漢のような感じで、完全な遊び人風である。これがデブ時代のオザワエイイチにそっくりなので一驚を喫した。

話がずれてしまったけど、そのライカM3のミノックス製のミニチュアのデジカメ(長いので、ライカM3ミニデジカメと呼ぶ)を使って、不思議なことに気がついた。
それはその描写なのであるが、実に不思議な描写をする。その不思議さは最初は初期の35万画素時代のデジカメのような「アンシャープさ」なのかと思ったのだが、よくよくその画質を見て、ちょっと思いつかないような、ぬめっとした描写なのである。

Icam0095Icam0091 四半世紀前の記憶を発掘して、MoMAで見た、シュテイグリッツの初期の仕事のプラチナプリントにその画質が似ていることを「発見」した。
普通のお遊びのデジカメとばかり思っていたのが「不覚」であった。

岩波書店から来年の春に、岩波写真文庫の復刻シリーズが出る。最初は赤瀬川原平セレクションということで、次ぎが川本三郎セレクションで、三番目が田中長徳セレクションということになる。その宣伝用の顔写真を編集の桑原さん(この人の仕事場は、別館の地下でフロンガスの消火装置があったり、名取洋之助のコンタクトプリントのスクラップがあったりで、文化財の震源地みたいなところ)から依頼された。

手元のGRDで「自分撮り」を試みたがそこには「還暦のしらがじじい」が写っているだけで一向に面白くない。それでトイレの鏡に向かってそのライカM3ミニデジカメで撮影したら、そこそこにまともなものが出来た。
最近ではヒルズのトイレをスタジオに使って、セルフポートレートを撮影して、それを顔写真に転用することが多い。
カメラを構えて立っている自分の姿が著者近影にあったら、それはトイレの鏡で撮ったわけである。

左の作例はいずれも、ライカM3ミニデジカメ。

デジタルズームすると、正に大道風。普通に撮ると、MoMA風。

2007年12月13日 (木)

群林堂の豆大福を半世紀ぶりに喰った

R1141038 昨日(火曜)は、講談社のセオリーのインタビューがあった。次号で「定番」特集をするので、そこで「カメラの定番」に関しての取材であった。講談社の新井さんとライターの遠藤さん、それとカメラの方が2人見えた。

遠藤さんは「チョートクのぼくのカメラたち」を持参。この本は好きな本なので、こういう時に持参してもらうと非常に嬉しい。例の1000ページの厚い写真集である。この本はもともと昼寝の枕にするつもりで製作した。最初はワールドフォトプレスの今井今朝春さんの意見で、自分の持っている全部のカメラを収録する予定だった。しかしそんなことは不可能なので、ここには400点弱の写真機が収録されている。

それも嬉しいのだけど、それと同じようにうれしかったのは、講談社の向かいにある、小さな和菓子屋「群林堂」の豆大福を新井さんから頂戴したことだ。

話は一気に三丁目の夕日時代になるのであるが、昭和30年代の自分の少年音羽時代によく御世話になったのが、このお店の豆大福なのである。当時、豆大福は10円であった。こずかいを持って買いに行ったのは、何壱百回になるか。

音羽の5丁目郵便局の裏、2番地が我が家であって、関東大震災の直後に建った二階建てである。狭いながらも門構えがあり庭もついていた。
路地を出てすぐ左手が郵便局。右に曲がると中学の同窓生の小林君のかみくずや(古紙回収業)があり、そのとなりにも和菓子屋があった。
これを福田屋という。その隣(つまり護国寺方面に向かって)が、石黒電気商会でウインドウにはモノクロの16インチTVが鎮座していた。その隣は「かまや」という洋品店。一戸その隣にしもたやがあり、その隣はパン屋だが青柳製パンと言った。ここはほとんど営業していなかった。 その角は路地であって、そこを右折すると広い敷地の奥村印刷所があった。路地の先の角が東京電力の出張所で、これはテラコッタ造りの3階建てだった。
そこをずっと護国寺方面に行くと、音羽三丁目に大塚警察署があり、(左側に)その先に白亜の堂々たる建物が大日本講談社である。

ここが都電20番の音羽3丁目停留所で、自分の中学生当時であったか、デビューしたばかりの野坂さんが「アメリカひじき」か何か、単行本を周囲にみせびらかすように抱えて、横断歩道に立っていたのを思いだす。

講談社は自分が人生の最初に見た、本格的な西洋建築だ。うちのじいさんの仕事部屋にあった、巨大な大理石造りのインク壷に講談社は似ていた。家が万年筆製造業なので、そんなど外れたインキ壷があったのだ。その先にこれは昭和30年代にあわてて建てた掘っ立てビルに見えるのが光文社、そして坂の上に緑の甍をひらめかす、護国寺が見えた。

群林堂は講談社の向かいの小さい木造商店の蝟集しているところで、大塚警察の向かいは地元では「市場」と呼んでいたが、小規模の飲食店や雑貨、衣料を扱うコマ割の露天めいた店ががらんとした木造の大屋根のしたにごたごたと並んでいた。
その市場の左が小島葬儀屋でその隣が寿司屋の倉田屋、そしてふとんやの初音屋、その隣が確か群林堂であった。

実に流行らない和菓子屋で店頭に客を見たことがなかった。
それがウイーンでも8年の暮らしが経過して、音羽の実家に帰国の挨拶に行ったら、かなり流行っている店になっていた。
それから折りにつけて、この生まれ故郷に行く度、群林堂の前に行列が出来ているのを見た。
そうではない店が閑散とした時間帯に前を通ると「豆大福や売りきれました」の看板が風にゆれていた。
そういう事情で、実に半世紀ぶりにこの豆大福を(なんと10個も!)もらったのでこれは嬉しい。
夕食の時に、米飯は食べずに、これを3個喰ってみた。はなはだ可である。
それで思いだしたのは、三丁目の夕日時代にこの豆大福をどのように食べたか、その記憶までが一度に脳内から噴出したので、面白くなった。

一個10円の大福を少年の自分は、手のひらで叩いて、なるべく大きくして、平たくして喰った。こうすると容積は同じだけど、見かけはかなり大きな大福になる。
母親は行儀にウルサいから、無論母親の前ではそういうことはしなかった。

半世紀ぶりの味であるが、半世紀前とは餡の味付けが変化していた。昔は、黒砂糖を混ぜたちょっと濃厚な味であったのが、かなりストレートになった。
これも時代の変化というやつであろう。

インタビューの最中に下の亜米利加軍のヘリポートの動きが活発で、2機のネービーのグレー塗装のヘリが交代で、タッチアンドゴーのような訓練をしている。要するに、航空法もなにもあったものではなく、ヒルズのタワーの20階のあたりを飛行しているのである。

49fから見ると、実に不思議な光景であった。お客さんに断って、飛来するヘリを窓の側でずっと観察した。5年、ここに居るけどこんなことは初めてである。

2007年12月12日 (水)

坂崎さんの指と爪

R1144498 R1144495 ややもやのある東京の朝。これが師走とは到底思えない。
朝からヒルズで仕事。本当はちょっと撮影に行きたいのを我慢する。プラハに居る時には、原稿書きをするぞ!と意気込んでいても結局は撮影に行ってしまう。
だから、プラハでは本の仕事は進行しないで、撮影の仕事ばかりが進行する。
東京はその逆である。
東京はとうきょう、トウキョウ、Tokyo、TOKIOでいいと思っているのだが、最近、地下鉄の構内で見るどっかの新聞社の「問う、今日」はいやだ。こういう語呂合わせは、会話なら我慢もできるが、広告ではいただけない。若い世代のクリエーターさんは、みんな語呂合わせが好きなのだろうか。

あ、「頭狂」(とうきょう)っていうのもあったな。

昨日は新横浜で偽ライカ同盟の忘年会、、、ではなく、リコーのGRDユニットの忘年会あり。
坂崎王子が参加。
その時、最近は坂崎さんのところもモノが増えたので、フォコマート1cが環境を圧迫しているという話になる。それで近々、土浦のさかい写真実験室に坂崎さんのジープでフォコマートを搬送という計画が持ち上がる。
カメラ関係で正月早々に坂崎さんに会ったのは10年近く前に、日本カメラのTさんがライカの部品を300キロほど英国から輸入したとき、その見学会で会ったのである。
原平さんも来た。これが正月の2日なのである。坂崎さんは今年はあと、ツアーが5本あると言った。ツアーは一回、二回ではなく、一本、二本と数えるのを教わった。

昨日の飲み会は、坂崎ジープはすでにスタッフさんが回送してくれたので、しらふの坂崎さんではなく、良い感じに酔った坂崎さんと話を出来たのが良かった。

カメラの話からそのカメラのシャッターを押す話になり、さらにカメラではなくギターを演奏する坂崎さんの指と爪の話になった。
坂崎さんと対談などしている時、坂崎さんはよく自分の指を見る癖がある。それがいかにもプロっぽい感じで、いいなと思っていたのであるが、その指をちゃんと見たのは初めてだった。
へえ、と思った。
ミュージシャンの指をライブでしっかりと見たのは、70年代にザルツブルグで指揮者のカール・ベームの指を見て、それを撮影して以来である。
それで記念の為に坂崎さんの手と指の画像をアップしておく。

2007年12月11日 (火)

NewsweekのD40の広告はクールだ

R1144477月曜日。ほぼ快晴。

午前10時過ぎにはヒルズで仕事開始。

コーヒーメーカーが壊れていて、粉をひいている音はするのだが、お湯が出ない。このコーヒーメーカーは最近、グレードダウンして、前にあったような業務用のではないから効率が悪い。

打ち合わせで4名のゲストがあったりすると、もう打ち合わせそのものよりも、短時間に4杯分のコーヒーが抽出できるかに打ち合わせの正否がかかってくるという変な具合だ。もう少し、高級なマシンをリースしてもらいたい。

月曜の朝からフレッシュなコーヒーが飲めないのは業務に影響する。

仕事場のヒルズにはありとあらゆる内外の紙のメデイアがある。以前は高価な(その配送料で)NEWYORLTIMESだってマガジンラックに置いてあった。最近はその姿を見ない。

仕事場では、デスク上で飲み物は自由にとれるが、食事はそこから出て、新聞やマガジンの置いてあるスペースでとることになっている。
これはそういう決まりなのである。
そこでパンをかじりつつ、ラウンジで見ていたNEWSWEEKのニコンの広告がスマートである。
stunningnikon.com/picturetownで、そのウエブ広告が見られる。

サウスキャロライナの「写真の町」に暮らす、普通の人々が普通の暮らしの中で、いかにニコンD40を使いこなし、彼らの生活に写真の楽しみを生き生きと展開させているか、という実に美しい、しかもテンポの速い楽しめる広告だ。

ニューズウイークの紙の広告は、実物大のD40の切り抜きである。手にとってみると、こんなに小さかったかな、と思うほどのちいサイズである。そこでウエブにアクセスすると、広大なD40のバーチャル空間が開示される。

さらに登録をすると、カップルでfクラスでイタリアのトスカナにご招待の企画に参加できるという仕掛けだ。オーデイナリーピープルの町である架空のピクチャータウンよりも、アメリカのオーデイナリーピープルなら、やはりトスカナに行きたいであろう。
実にうまい広告だ。
ニューズウイークに広告を出して、それとシンクロしているウエブ広告だから、かなりのお金がかかっているのは分かる。それが嫌みにならないのがクールである。
それに比べると、極東の本家のデジカメの広告は実にへたっぴだ。
極東のキムタクとか渡辺某の起用よりも、アメリカのオーデイナリーピープルの起用の方がずっとクールである。亜米利加の勝ち。

2007年12月10日 (月)

「品格」より「品」かな、、、

R1144471 日曜日。快晴。
午前中、久しぶりに佃に在。
ライカインコと遊ぶ。ライカインコは昨年の9月より「抱卵異常」というのであろうが、およそ4ダースの卵を産んで、今でも11個を温めている。
それで、普段は段ボールに入っているのである。それはそれで良いのであった、何か真面目に仕事をしているという感じあり。
ただし、健康そのもの。段ボールに入っているから、最近では段ボールの箱(六甲のおいしい水)を見ることが、そのまま視線として、ライカインコを見るのと同義語になっている。
机の上の「眼と精神」(メルロボンテイ みすず書房)は1970年に読んだ本だが、その中ではあまり写真は評価されていなかった。
今に読み返したら新たな発見があるかも知れない。

快晴の渋谷の街。午後1時半からの東急講座、ライカ愛好会に90秒ほど遅れる。
今日の話は「ライカの品格よりライカの品」。(ライカのしな、ではない、ライカのひん、と読む)
「なんとかの品格」という本の流行から、なにかにつけて「品格」という言葉が一人歩きしている。
ライカの品格というのはもっての他である。
なぜなら、品格の格とは「会社の格付け」でも分かるように、完全に経済用語である。格、つまりクラス分けは純粋な経済であるが、その背景に「品」で装飾していかにも、そのクラスが正統であるかのような、錯覚を与えるところが、「いかがわしい」のだ。

だから、ライカは「品格云々」よりも「品の良さ」を大事にしようという内容。
最近のライカはM8などは品格が勝負のようで、品に欠けている。
戦前のライカには品がある。でも戦後になって、その品はかなり怪しくなってきた。まずM3から、M5までだが、M4-2になって、品がなくなり(例のボデイの前の赤い丸がついたころから)それから一挙に今に至るわけだ。ただし世間体としての品格は立派に付属しているから、その品格を良し、とする向きにはおあつらえ向きである。

最近、品も品格も確実に喪失したのが、ミシュランの赤本だ。
あれはかなりがっかりである。今度の日本版が悪い。大体、ページに白いスペースがあるのは、取材不足である。それに掲載店にすべてが星付きとはグロテスクだ。
運動会の参加賞じゃありまいし。
赤本を尊敬するあまり、「ライカポケットブック」はミシュランの赤本に真似たデザインにしたのも10年の昔であるが、あの当時の赤本は実に尊敬に値する存在だった。
今の赤本の東京シリーズよりも、そこらのチエーンでタダで配る、クーポン付きのグルメガイドの方が尊敬に値する。

と、言うような熱を勝手に吹いて、今年度の東急BEの最後は幕となった。ああ、それとこの前の佃撮影会の作品の講評をした。参加者の中でローライ35を持参した女性が、フィルムが巻き取れなくて、1枚も写っていなかったそうだ。
カメラの品格よりもカメラの品よりも、まずは確実にフィルムの巻き上げ確認が大事だ。

画像説明。
東急BEを終了させて、あわてて4時8分発の渋谷駅東口からのヒルズ行きノンストップバスに飛び乗る。バスの中からヒルズの円筒を眺める。
ヒルズは東急の8fから見えているのに、夢のような遠方である。渋谷と六本木には地下鉄の連絡がない。まるで東西ベルリン時代のwedding(旧西ベルリンの北部の駅名)と、shoene hauser alee(旧東ベルリンの北部の駅名、このふたつの駅は近所なのに、壁で距てられて行き来は不可能だった)みたいだ。

2007年12月 9日 (日)

ニッケルライカと、クロームライカ

R1141013 先週買った、ライカA型の調子の良さと、その全回転エルマーの描写に驚いているのであるが、そうなると、一方でカメラジャングルから「出土」した、ライカ!型の改造モデルのクロームの方も気になる。
これはその製造番号が224747というのであって、何時買ったのかはすでに忘却しているのだが、最初の二桁は昭和22年で、後の桁は1947年の下二桁の二度の繰り返しであるので、興に乗じて手に入れた記憶がある。
もっとも「生まれ年ライカ」に執着するのは、もとより年寄りの証拠であって、まともなライカ人類はそういうことには興味を示さない、
だからこのクロームライカの方はこの数年來に買ったものと思われる。子細に見ると分かるけど、これは例のライツの純正の改造ライカというやつであって、その製造番号からすれば、板金加工のはずだが、ボデイはダイカストになっている。すなわち、モダンなスクリューマウントライカのボデイの剛性を持っている。

クラシックな板金加工の戦前ライカの握り心地と、モダンなダイカストの握り心地を比べるのも、なかなかの楽しいことであって、最近のデジカメなどにはかなわない技と言える。

こうして、2台のライカを列べて見ると、ブラック仕上げにはやはりニッケルの暖かさのあるレンズがマッチしているし、クロームボデイにはモダンなクロームの仕上げのレンズが似合う(この場合はシムラーの直後のトプコール)ことが良く分かって面白い。

実際のところ、ブラックの戦前ライカに、スクリューマウントのズミクロン90ミリを付けてそのボデイとレンズのアンバランスを楽しんだり、あるいは小形軽量のコシナの21ミリレンズを付けてスナップ撮影を、例のごとく、ノーファインダーで行っていたりするから、ボデイとレンズの組み合わせに、「時代考証」を求めることなどは、あまりに神経質な方法だから、あまりやらないようにしているとは言いながら、こうして2台の時代のやや異なるライカを列べて見ると、やはりそういう細かなことが楽しみになってくる。

そうそう、明日は、東急の文化講座の「ライカ愛好会」の日だ。

Fh000021
画像説明。全回転エルマー50ミリで撮影。@ヒルズ。クラシックなエルマーの画質がいいと、騒ぐのはもともと昔のレンズだから、大したことはないであろうという、紳士的なハンデイの結果である。

それは分かっているのだけど、やはりいいねえ。

土曜日は、朝11時から午後10時までヒルズ。

GRD2ワークショップ(2008年2月刊行予定)の原稿、7章分書く。思考が雑文書きモードになっている。ありがたし。

2007年12月 8日 (土)

ミノックスなライカM3でスパイごっこ

R1144445_2 Icam0002 Icam0001 週末。
天候は良好。
昨日の行動。午前10時過ぎにヒルズ。終日仕事。
駒村商会の新田さん、打ち合わせで来。
話題はもっぱら、ミノックス製のライカM3の話題になる。もともとミノックスはウエッツラーで生産されたいた。
自分のミノックスAにはwetzlerの刻印がある。確かその後、ミノックスはgiesenで生産されて、またウエッツラー(というかライカ社だからソルムス)にもどった。

今でもライカの傘下かと思ったら、今は自社で独立したらしい。これは新田さんの話だ。
しかし、自分は経済アナリストではないのだから、そう言う細かい話はどうでもよくて、そのM3をそのまま小形にしたような存在感が気に入った。

もともとメガハウスで製作していた、ミニチュア判の銘機に出会ったのは、カメラの工業デザインかなにかの講演会をやった数年前、そこでメガハウスの社長さんにお目にかかって、ペンタックスのミノックスをいただいた時である。

当時はミノックスフィルムを探すのが面倒だったので、サンプルフィルムで撮影したきりになってしまったけど、最近では逆に量販店などで、ミノックスのカラーネガを売っているのが有り難い。それはそれで良いのだけど、自分が常にGパンのポケットに入れているのはミノックスAであって、それを現像するのが楽しみであった。

ミノックスの良さは「思ったよりはるかに良く写る」ということなのだけど、そこには「ミノックス的な味」というのがあって、これはもともとサブミニチュアカメラであるから、ライカと同様な画質にはならないのは当然ながら、そのややほんわりとした画質はいかにも、第二次大戦中に諜報関係者が「命がけで撮影した情報」の味わいがある。

しばらく前、ミノックスのBのブラックボデイで撮影した時には、吃驚した。
それは日常の佃の情景を撮影したのであるが、そのフィルムの最初のコマに、何とパルテノン神殿の夜景が写っていたのだ。
これは4年前、アテネに行った時に、ミノックスを持参していた証しなのである。

そういう「ほんわかした命がけ」の画質は、これはフィルムを使うミノックスだけかと思っていたら、デジタルミノックスのライカM3スタイルのも、同じような「命がけのミノックス感覚」の画質なので気に入った。

それがこれらの2点の作例である。
作例は「夕方に秘密裏に撮影された東京タワー」と「美人スパイ、N田さんのファイル」とでもタイトルを付けよう。

2007年12月 7日 (金)

KCチョートクカメラコラム

★デジタルカメラコラム

ニコンD3を買う「札束」 D3を手離す時の「元箱」

数日前のこと、大昔のミノルタ35ー2bに標準レンズとして付属していた、スーパーロッコール50ミリf1,8を買おうとして銀座のカメラ店で品定めをしていたら、カウンターに腰掛けた品格のある紳士がなにやら、分厚い札束をカウンターに取りだしたところであった。

他人のふところを覗いたところで意味がないから、すぐに手元に視線を移してそのレンズのフィルター枠にちょっと歪みがあるが、それは簡単に直るであろうとか、レンズの第一面の角の裏側に、貝殻状の当たりがあるが、開放で撮影する時以外には、問題はないであろうなどと考えていた。

それで価格の18000円に納得して購入したのであるが、その数分の間に向かいの紳士の取引に何気なく視線を向けると、豪華なまさにクリスマスプレゼントといいたい感じの立派なパッケージに入ったニコンD3がちょうど手渡される瞬間であった。

こういう嬉しい瞬間は、案外に嬉しそうな表情をしないのが、我々カメラ人類の常だから、くだんの紳士を見ると、苦虫をかみつぶしたとまでは行かないけど、あまり嬉しくはない表情である。
男性が一年しっかり働いたそのご褒美として、自分に高価な贈り物をするのは側で見ていても、その人の人生に拍手したくなる。

自分は買ったレンズをそのままに「すぐに使いますから」というので、持参のライカM3に装着して店を出た。簡易包装の極みである。
銀座教会の角を曲がって考えたのは、些細なことだけど非常に気になることだ。

「果たして、あのD3を買った紳士はそのパッケージをどうしたであろうか」という一事である。こういう高価な買い物をその家の奥さんが喜ぶわけはない。しかも現金払いだから、案外に秘密なのかも知れない。
恋いこがれたニコンD3ではあるが、将来の買い換えの為にその元箱をどっか秘密の場所(たとえば会社のロッカー)などに仕舞っておくのではなかろうか。

これが昔の銀塩時代の高級カメラであったら、そのような行為は「せこい、、、」と言われたものである。しかしデジカメの天下になって、しかもトップのニコンD3が来年の夏のボーナス時期にまでトップであることは困難かも知れない。

あるいはその時点でニコンD3sなんていう「マイナーチエンジの新形」などを出すかも知れない。その意味で現代のデジカメはやはり元箱をとっておくのがやはり利口なのであろう。


★銀塩クラシックカメラ

本屋さんで銀塩カメラを売る時代なのか、、、

来年の春に出る本に、アスキー出版の新書がある。カメラ本であって、まだタイトルは未定であるが、現代のデジカメとクラシックカメラの交差点にあって、実生活で楽しめるカメラライフを目指す内容の本である。デジカメと、クラシックライカをいかに生活という「もんじゃ」の中に混ぜて、おいしく食べるかという内容の本である。

その関係で12月はクリスマスも年末もなしで、その仕事に没頭できるのは有り難い。担当の編集者さん2人は女性であって、しかもカメラにあまり詳しくはないというのが、この場合、本を執筆する上では非常に助けになる。

要するにやたらにカメラが詳しくて、70年代の学生運動の当時、王子の公園で見かけた北井一夫さんは白いヘルメットで、カメラはラピッドワインダー付きのキヤノン2dであったはずだが、いや、あれは2d改であったのであろうか、、などと言う話をこの前、岩波の地下の秘密編集室(今度、岩波新書の長徳セレクションの出る震源地)で某カメラ人類さんと話をしていたのは楽しかったけど、本来、ああいう話は二畳敷きの茶室で「夜話」(よばなし)としてやるのが好適であって、新書のような「市民の知識を鼓舞し健全な生活を構築する」目的の出版には向かないのは言うまでもない。

銀塩カメラはもう我々のような少数の人間の隠れた楽しみなのか、、、と、思っていたらいきなり眼を開かれた思いがしたのは昨日のことだった。

仕事場で御世話になっている、六本木ヒルズライブラリのライブラリアンさんから、新製品の銀塩カメラのカタログを見せられて購入の相談を受けたのである。なにも、ライカM7とか、ニコンF6の話ではない。

それはソ連製の6x6のボックスカメラであって、例の大ブームになった、HOLGAと同系列なカメラである。折りたたみ式のカタログはアメリカで撮影された、シーンが周辺がぼやけて、流れて、色はかなり強調されてようするに画像は「写真日和」の方にシフトしているのだ。

「このフィルムって、ちゃんと手に入りますか?」は、その女性からの質問だった。これは120フィルムというのを使って、フィルムは何時でも潤沢に買えること、それと現像もそこらで可能なことを伝えたら、彼女は購入を決意したようだった。

その価格を聞いたら4000円という。ロシアでの元値は15ドル弱だから、雑貨としては、その流通段階でそれぞれ適当な利潤を得ているから問題なし、という話になった。

こっちが吃驚したのが、そのボックスカメラはなんと書店で売っていることである。
まあ、カメラ屋さんでカメラ本を売っているのだから別に驚く話ではないのだが、やはり驚いた。

銘機礼讃3 おかげさまで売れ行き好調!

 

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11年ぶりの銘機礼讃3(日本カメラ社)が本日、全国的に発売。
どうぞ、ごひいきに。

これから始まる銀塩写真機の新時代
写真機エッセイに新しい地平を開いた名著「銘機礼讃」 第3弾!

とは、腰巻き(業界用語で帯のこと)の文句である。
これは編集部の宣言であるわけだが、その下の方に怖いことが書いてある。すなわち、

連載と書き下ろしによる48編のエッセイに加え、
著者と夫人の特別対談「夫と写真と写真機と」を収録した写真機ファン待望の一冊!

この最後のフレーズが非常に怖い。家人が「しゃしゃり出て、こっちの不利になるような証言」をするわけだ。
できることなら、市場にある銘機3を全部買い占めて封鎖したいほど、、、とは
冗談ながら、やれやれである。

12月8日午前11時のランキング

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12月15日午後8時のランキング Amazon.co.jp ランキング: 本で1,471位

感謝! Danke! Merci!

Book 銘機礼讃 3 銀塩写真機へのオマージュ

著者:田中 長徳
販売元:日本カメラ社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

日本カメラ社の本書の詳しい説明は、こちら。

http://www.nippon-camera.com/list.php?dt=467&1197248066
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森タワーのエレベータで49fに行く時に

R1144439★ 画像説明。

ヒルズの49fの窓際に装備した道具類。

左から、nizoスーパー8カメラ、シュタイナー22M双眼鏡。モレスキンの手帳。ライカ。

それにこれを撮影したGRD-2と、これを書いている、PowerBook G4が加わる。

七つ道具には1つたりない。

そうそう、あと一つ、ミノックスAを加えればちょうど七つだ。

快晴の東京。終日、ヒルズで仕事。その間、6Fの郵便局にドイツはelrangenへの為替を出しに行ったのみ。この前、ebayで長年探していた、マキナの1型を買ったのだ。価格は110ユーロ、郵税は39ユーロ。普段はpaypalで瞬時に決済しているのだが、ドイツあたりではまだこれを受けないセラーがいるので、為替を組む必要あり。

49fからの東京の空。あまり視界の良く無いときに限るが、空は歌舞伎の浅黄の幕のようで、地平線の上のあたりは、薄い黄色とも桃色とも言い難いような、デリケートな色彩に染められていることがある。ようするに、地表のチリを低い角度から透かし見たその屈折の効果なのだけど、似たような色彩を使ったのが、広重あたりの木版に再現されていたことを思いだした。これは東京というより、江戸のリアリズムである。

毎朝、佃を8時なり9時前に出て、快晴の空であると、そのままヒルズに向かわずにどこかに行ってしまいたい(人間蒸発ではなく、例えば両国から都バスで小岩に行きたくなったり)という欲望と闘うのは容易なことではない。
そういう時には気分を沈静化させるために、真っ赤に塗られた佃小橋(ウイーンのシュテファン寺院の向かいに立つ、ハンス・ホラインのハースハウスの上の階にあった、日本風の赤い太鼓橋を思い出す)の下のベンチで小休止するのだ。
この短い停滞は、世界の果ての極東の一番果ての魔都の水郷での不思議な休息と思うと、そこで満足感が増して、たった10分の「オリエンタルアドベンチャー」で自分は満足する。
昨日はその場で、1930年製のライカD3に全回転エルマー50ミリで撮影して、午後にそのCDが上がってきて、自分はその東洋の風景の不思議と同時に旧エルマーの描写の魔法に驚愕したのだった。

そのまま、まっすぐに六本木駅まで来て、さて、森タワーに入るまで、たかだか140メーターほどの歩行の時の呼吸がかなり重要なのである。その30秒ほどの歩行の時、自分は全身で、身体に「風」を受け止めようとするのだ。
例えば、昨日の朝9時前のその歩行時に受けた向かい風は、まるで「ウイーンの5月の朝の天候が非常に良い時期」のようであったし、今朝の午前10時ちょうどにそこを通過した時の風の感覚は復活祭の終わった週明けのリスボンはアルファマの谷からお城に向かってつま先あがりに登って行く時の風のようであった。
これは風と一緒に日射しも影響しているのであるが、極東の日本の真冬と言っても良い12月初旬がまるで欧州の春のようだというのは、実感なのだ。

この風と光を感じて、そこが東京ではなく、自分の記憶の他の都会であるという遊びは、森タワーに入るとそこで終わってしまう。
49fに直通のエレベータのキャビンで、運良くそこに誰もいないとなると、エレベータのバーを利用して軽いアスレチックを開始する。2階から49階までの運行時間はその1セッションをするにはちょうど良い。
斯くして、身体のストレッチが完了した自分は身も心もリフレッシュして仕事に向かう、、、
と、書きたいのだけど、一抹の残念な点は、あのフレッシュな光とか風とかにまた遭遇できるとは少なくとも8時間は先であるという点だ。

完全空調の森タワーは仕事場環境としては悪くはいけど、自然の風の吹かないこと。
これが残念である。

画像説明。朝の出がけの1枚。タワーと、オリーブ。ギリシャに行く前に、これを見てアテネのオリーブはこんな風に見えるのか、、と、バーチャル体験をした。全回転エルマー50ミリで撮影。これも悪くない描写だ。

1930年製のエルマーを認めてしまうと、戦後の日本のレンズは何であったのか、、ということになって実に「危険思想」である。D3、旧エルマー50ミリ。Fl000035

2007年12月 6日 (木)

岩波の図書という雑誌

R1144436 快晴。
今日は岩波書店の地下のトーチカではなく、ヒルズの管制塔だから空の具合は良く分かる。
終日仕事。

午後1時。アスキー出版の本多さんと百名(ももな)さん来。
今度の本の打ち合わせ。アサヒカメラの私の編集担当の野本さんのことを話したら、本多さんはなつかしがっていた。
マックパワーで、山崎編集長の時代に、「チョートクのPowerBook旅日記」を連載していたが、淑女連は同時代者なのである。

打ち合わせの後、隣のグランドハイアットの「神殿」で開催中のウオルフレンさんの写真展を3名で見に行く。ちょうど、アーチストが在廊していたので、話をする。

「この会場は自分の見たところ、神道の結婚式場のように見えますが、、」と問いに。
「ええ、その通りです」の返答があった。
こういう会場を写真展のそれに転用するのは凄い。ようするに、ギネスブックの写真展部門に掲載されるべき、イヴェントである。

その用法と完全にことなった場所でその効果を上げる展示では、自分の中では70年代にウイーン近郊の温泉地バーデンで開催された、アーヌルフ・ライナーのカイザーバードでの個展がある。
高級温泉の個室の脱衣所と、大浴場(ただしお湯は抜いてある)を舞台にして、平面作品を展示したのである。

仕事中に下の米軍ペリポートから時折、離陸した軍用ヘリが東京タワーの周辺を、まるで遊んでいるようにゆっくり旋回している。それをPowerBookにこき使われている自分の眼をいたわるつもりでシュタイナーのM22で観察する。
ゆっくりと機体の右側の腹を見せて行く軍用ヘリのあの色彩は、古びたカンバスのような色相だけど、あれは何というy色なのであろうか。
その右側のドアは閉じているけど、あそこは機関銃を据えて、ベトナムでは上空から村を攻撃したのと同じ友軍のヘリである。
東京の光景が、まだ戦争の終わっていない、ヴェトナムのように思えるのは常のことだ。

最近、岩波の図書という雑誌が面白い。色々な発見があって、その本をアマゾンで注文するというのは普通のパターンだ。
ライブラリで平出隆の「遊歩のグラフィスム)」(岩波書店)を発見して読み出したらとまらなくなった。目下、4冊の本を同時に進行させているので、時間はいくらあっても足りない。
それで拾い読みに変更したが、ベンヤミンやら、子規やら、河原温やら、荷風やら、渋澤やら碧梧桐やら、面白いことが沢山書いてある。
それの初出は「図書」であることを知った。昨日は岩波で6時間40分の長丁場の後に、もらった12月号の図書と、編集部の桑原さんの執筆記事のコピーをそのまま忘れてきた。
頭脳があっち方向に行っている証拠である。

図書は定期購読しようと思う。一部壱百圓也。

Fh000037 画像説明。

一昨日買った、ライカAのD3改造のテスト撮影。

これは恐ろしいレンズだ。

エルマーの全回転がこんなに写るとは、、、。これは最新のフロンテイアの力にもよるのであろうが、1930年製のライカなのである。

コダックのカラーネガ100にて、f12,5で、1/500。

プロセスは森タワー6fの55 STATION。

今度、写真集の仕事で、横浜の氷川丸を撮影する。氷川丸は1930年の竣工である。

このライカ製造番号52939は、1930年の制作。つまり同年代である。このライカで氷川丸を撮影しようというアイデアが浮かんだ。

昨日の「銘機礼讃3」を持っている、あたしの画像(撮影は日本カメラの前田オサマ編集長) への感想が野々宮MBWから届く。 ーーーーーー > 本日のブログの写真は、アルジャジーラ外電の「イスラム原理主義者に拉致されてコーランを持つジャーナリスト」のようでよいですね。 > ついにエーベイとヤフオクが提携しました。 > そのサイト名がセイカイモンというのが泣かせます。 > > ハッカの香りすのするM3はほしいものです。 > > http://www.sekaimon.com/ItemDetailView.do?sekaimon=false&item_id=270191585329&category_id=625 ーーーーーー BMW野々宮さま かなり鋭い指摘です。 自分でもそういう顔に写っているなあ、、、 と、思ってました。 世界モンは、いかすもんみたいで、軽薄なところがいいです。 目下、アクセス集中でつながりません。 その程度のサーバーではだめですね。 昨日の朝日新聞のyahooとebayの統合の両巨頭の記念写真は どっちも、メタボのおじさん、おばさんで、オークションをするとこういう体型になるよ、 という意見広告のように見えました。 (自分などは99年からしっかりebayでメタボしている) では。 チョートク -------------

2007年12月 5日 (水)

銘機礼讃3の見本あがり

R1143827 画像説明。

銘機3の見本を手にうれしがる筆者である。

7日の金曜には書店、ヨドバシ、フジヤカメラなどに登場の予定。

よろしく御願いします。

火曜日。
まずまずの天気。
午前11時半に人形町の日本カメラ編集部。
前田編集長に面会。
新刊、「銘機礼讃3」の見本を受け取る。前の銘機礼讃2から、実に11年目のシリーズで3番目の本になった。ちょっと感慨があるのは、その間に両親の他界やら、デジカメの大進化やら、9。11などがあったせいであろう。
サインすべき本の山があるので、それを終了するつもりだったが、午後1時に岩波書店に行く。時間きれにて明日の仕事となる。
一橋にて午後1時から午後7時40分まで、6時間40分にわたって、岩波の桑原さんと打ち合わせ。飛行機なら香港はおろか、ハノイに到着してしまう飛行時間である。

名取洋ノ助の戦前のアメリカ取材の大量のコンタクトプリントのスクラップブックを見る。
これは収穫多大。写真家にとってスクラップブックは秘伝であるから、実に名取の息遣いが分かる。
35ミリ、6x6それに6x9のフォーマットの使い分けも絶妙だ。名取は一線のジャーナリストだから、ショットに無駄がない。そこがそつない完璧さで面白くもあり、同時に面白くもなし。

来年の岩波写真文庫復刻版、「田中長徳セレクション」の仕事。復刻する5冊の写真文庫のオリジナルのプリントを全部検査する。これはかなりの作業だけど興味津々だった。
あっと言う間に夜になる。午後の天候は一切知らず。

岩波のネガの保管室は地下3階のアメリカ国防総省なみの地下室で、フロンガスの自動消化装置があったりする、ハードな空間だ。その奥に編集室がある。昭和19年の戦時下のアサヒグラフなどを研究する。

夜の街にでて、神保町のフジストアにて買い物。佃に戻る。
そこで買った生牡蠣の味、なかなかのもの。ワインはチリのサビニオンブラン。

例によって、佃のOS9-2-2で書いているので、画像のアップが出来ない。それは今日の昼過ぎに。

2007年12月 4日 (火)

暗い場所に行くと熱くなる男がいる・SONY

R1143796R1143803_2 日曜の朝日に掲載されたソニーの全面広告は面白い。ようするに、ソニーの技術者さんが暗い場所で、デジカメの画質の研究をすると言うのが広告のテーマである。普通のデジカメ広告が「有名人起用」であるのに比べて、真面目な広告である。
ただし、あまりに真面目過ぎてその効果は弱いかも知れない。日曜の朝にこの広告を持ってきたから、読者はこれに眼を通す時間があると、代理店は読んでいるのであろう。
デジカメはすでに闇を克服しているのだが、ソニーの技術者さんにはまだまだ不満があるようだ。こういう広告のコピーだと、かならず「暗い場所でのノイズ」の克服こそが、良い写真への第一歩という構成になってしまう。
自分などは、森山大道さんの弟子を自認するわけでもないが、モノクロフィルムの増感現像での画像の粒子の粗いのが好きだから、ノイズはまったく気にならない。
よく、画質云々のデジカメユーザーで、ノイズがどうのこうの、、、という連中は、写真の腕は見なくても分かる。そういう連中の「ノイズ論」というのは、こういう広告からの受け売りが多いのである。
デジカメで暗い場所を撮影するときの問題点は、夜が夜のように撮影されない点にある。明るく写り過ぎて、安手のドラマのようになってしまう。だから、マイナス2位に暗い方向に補正してやるのが大事だ。
銀塩時代には、闇の克服は写真術の一大事業であった。10年近く前、新宿のJALホテルで、大道さんに最初のGR-1を手渡した時、大道さんは「このカメラは暗い場所でも写りますか?」と、まるで素人のような質問をした。この質問は重かった。森山大道は闇に向かう写真家だから、真昼の撮影でもそこには闇が銀の粒子の間から噴出しているかのように見える。
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R1143805 毎日、1台、お気に入りの銀塩カメラを持ってヒルズに来る。今朝はローマ製のライカである、ガンマだ。レンズはこれもレンズの第一面の凹面が好きなコシナのウルトロン。
第一面の凹面レンズには、他にはシュナイダーのマクロシネゴン10ミリとか、同じくシュナイダーの10ミリ(ただしアリフレックス用)がある。コシナの小林社長のレンズ製作のアイデアが尋常ではないと認めたのは、この35ミリの凹レンズを最初に見た時だった。
それとレンズの重量の問題もあり、、M39のスクリューの方が便利という事実もあるので、世界のツアイスZMよりも、フォクトレンダーのM39の方を愛用するようになっている。ガンマのアクセサリーシューは前にオフセットしているので、背面から見るとこんな格好になるのも好ましい。35ミリのライツのファインダーが付いているが、ガンマに一番似合うファイダーは戦前の逆像ビドム(それもブラックの)である。

R1143819 午後6時、お隣のグランドハイアットで、カレル・ヴァン・ウオルフレンさんのデジタルファインアート写真展のオープニングレセプション。

ゲスト多数の大盛況。駒村商会も駒村社長はじめオールスタッフ。

ハイアットの「神殿」という3fの広大なスペースはなにか日本の神殿を思わせる。そこで、110x91センチ大のデジタルファインプリントは、8x10からスキャンした精密映像である。

アメリカで撮影されたとおぼしき、風景の中に良い作品があった。

ウオルフレンさんと今度、8x10の大型カメラについて語ろうではないか、ということになる。会話の半ばに冗談で、少しドイツ語で会話を試みた。ウオルフレンさんは自分のドイツ語は正規の教育を受けてないから、駄目、というので、あたしのドイツ語なんか耳から聞いたのだから、もっといい加減ですよ、と大笑いになった。

高名なジャーナリストがこういう「真面目な作品」を制作しているのは尊敬に値する。

以前、やはり似たようなスタンスの人がいたなあ、と思いだしたのは、ニューヨークタイムスの写真評をしていた、アンデイ・グルンバーグ氏である。同じ雑誌の仕事をしていた関係でマンハッタンでは良く彼の仕事場に遊びに行った。アンデイは8x10のタチハラ使いなのでであって、四半世紀前に直接、王子のタチハラ写真機製作所にカメラを買いに行っているのだ。

その作品はモノクロの8x10のコンタクトでニューイングランドあたりの渋い風景写真であった。

それにしても、話題のグランドハイアットで写真展とはゴージャスである。

こういうホテルの使い方はクールだな。

カレル・ヴァン・ウオルフレンさんのデジタルファインアート写真展は7日金曜まで、グランドハイアット六本木3fの「神殿」で開催。時間は11時から21時まで。

これは見る価値がある。ついでになかなか入る機会のない、グランドハイアットも見学できる。お隣のヒルズに5年も居るのに、自分は今日が初めてだった。ちなみに、ヒルズの49fからホテルのエントランスまでは2分30秒。

2007年12月 3日 (月)

断腸亭の写真帳と「荷風ライカ」

R1143736 R1143737R1143812 月曜日。
昨日の行動。
午前中から、思い立ってヒルズ。終日原稿。

福田和也さんから送ってもらった、
「墨東綺譚」を開く。これは昭和31年に八木書店から出た限定500部である。それ以前に私家版として100部だした本の復刻のようだ。その顛末に関して、記憶が薄いのだけど、断腸亭は本の仕上がり関して書肆と悶着を起こしている。それが最初の私家版であったか、これであったか記憶にないが、調べてみよう。
なかなか入手の出来ない稀覯本だ。

昨年、岩波書店から出した「トウキョウ今昔」のあとがきに戦前の岩波刊の「おもかげ」についてちょっと触れた。

その時は気が付かなかったのであるが、「おもかげ」には断腸亭の撮影した東京の当時のカット(ローライコード、ローライフレックスで撮影)がかなりの数掲載されている。
今度、墨東綺譚」を開いて発見したのは、その写真版のサイズである。今までその事に気が付かなかったのがおかしいのであるが、それぞれに印刷された活版のサイズは小さくて、それがすでに失われた父親の古いアルバムをいきなり思いだしたのである。父の写真帳は粗末な用紙でブラックのそれであるが、そこに貼り込まれた写真はセミ判とかベスト判、それにその半裁判であった。その中には本物のツエッペリンが低い東京市の甍の上に浮いているのもあった。

当時、密着印画はスタンダードサイズであったわけで、これは断腸亭の意志というより、そのような「写真の鑑賞方法」が当たり前であったのだろう。小さい印画紙にはミニアチュールを思わせる物神が宿っている。
それがなにか大発見のような気になって、福田和也さんにメールした。
その件で返信あり。

上の土手は先週の日曜にen-taxi 関係で尾久界隈を徘徊した時、福田さんのお話、つまり福田さんの子供の頃にガキ大将に引率されて、王子まで線路上を歩行したという「伝説の線路土手冒険談」を思い出した。
実際の上の画像は滝田ゆうの寺島町綺譚で漫画の中に登場する、あの廃線になった電車の土手であろう。当時は土手の勾配を登ると、荒川の土手に出るような感じで、線路上に出られたものだ。

この断腸亭のアングルの取り方はなかなかプロである。ストレートフォトグラフィの王道を行っている。

ローカルな鉄道とか、トロッコなどは自分の少年時の記憶にも良く残っている。

それは久世山の上の土木工事で使われたのだ。赤土の急斜面に銀色に光るレールが良い感じsだった。それを操作する人夫の名人芸に惹かれた。

これは菊竹さんのスカイハウスがまだ出来るずっと前の、まだ空襲の瓦礫が残っていた大昔の話である。子供心に勾配を滑り降りる、トロッコを素晴らしものと思った。戦前の小説に出る伊豆方面の人車というのも気になる。

それと、田端操車場の貨車を入れ替え係の人が、切り離したばかりの巨大な真っ黒の貨車が風のように走るのを、脇に飛び乗ってそれをコントロールするのが、かっこいいと思った。そういう外働きの人で憧れたのは、この操車場の作業員とプラハの王宮で見た、ガス燈の点灯夫である。

断腸亭の影響はこれだけではなかった。
所用で、ヒルズから昼前にちょっと銀座に行く地下鉄の中で、断腸亭はローライの愛用者だけど、もし彼がライカを使っていたらどうであったろうか、、、それを考えていた。

銀座のL社に行ったら、5万台のライカのD3改造で全回転エルマー付きの手頃なのがあった。まるみの19ミリ径のフィルター(これがアメリカは名門Tiffenに化ける)が付いているのは、前のオーナーのレンズへの思いやりが感じられる。

荷風ライカとして時代考証は合う。いきなり昭和10年代の風景が周囲に展開した。すなわち購入する。価格は700ライカ円。(1ライカ円=100japanese Yen)

ウチの母親は小学校の教諭であった。「ミイラとりがミイラになる」という有名だけど、ほとんど用例のない言葉をよく連発した。この場合、アサヒカメラの12月号にて「降誕祭にライカを買う」というミイラをしかけて、その本人がミイラになってしまったことになる。

一方でこれはen-taxマガジンで福田和也さんがライカD3のブラックを手にしていたのも相当に効いているようだ。

2007年12月 2日 (日)

築地、品川、銀座、フェアメーア

R1143794R1143800 師走。
野の宮BMWから、ナイトフライトの同乗を誘われた。午後6時ころに、六本木ヒルズか、佃上空を攻撃にくる。仕事の土石流なので断った。前回は、9月の末であったかあの時には強風で飛べなかったので、芝生の上で記念撮影になった。その画像がこのブログのプロフィールに出てくる背景にセスナぼけの画像である。

画像説明。

ライカM5とケースとレンズ2本とさくらの紅葉が4枚。カメラはリコーのR7で、N1260で撮影。ブログ用ならこれ以上の画質は要らない。と言うことは世の中の普通のユーザーは「フルサイズのデジタル一眼レフ」どころか、一般向けのデジ一ですら不用になってしまう。

3日前、銀座のお店で、自分は半世紀前のライカマウントのスーパーロッコール50ミリf1,8の品定めをしている時に、カウンターの斜め向かいの紳士がなにやら、分厚い札束で何か買っているようだった。

よく見るとニコンD3を買っている現場なのである。

ようするに、N1260より上の画像は要らないなどと言う、自分にはまったくの夢がないのであって、こういう買い物(ニコンD3のこと)がゴージャスなのは、日常からのジャンプである。使いもしまい時速250キロ以上でる欧州車を欲しがるのと同じだ。

つまり喪失した「野生」を現金で買い戻そうとしているわけで、これはそれなりにダンデイな買い物である。

画像説明その2 日曜、12時40分、90度方面に「敵機」。

15時40分に本日二度目の飛来あり。コースは昼間と若干異なる。

数週間ぶりに魚河岸に行く。
近海の本マグロの生と、印度の冷凍とどっを買うかちょっと迷う。前者にした。それにほたて、白みる、めんたい。この春に築地に連れられて来てから、少しは品物が分かるようになった。
品物の善し悪しはまず、価格に正確に比例している。ただし「傷物」は安い。
そこらもなにかライカに似ている。
佃に戻って、ごはんを炊いてランチ。

午後一番で、現像を出したままでまだピックアップしていなかった、この前のプラハのパノラマを有楽町のビックに引き上げに行く。
その前に思い付いて、経路を変更して、品川の松坂屋カメラ。

アサヒカメラの1月号の「降誕祭にライカ」の記事にて、クラシックな戦前のライカはおおかた売れたとは、店長の話し。
こっちは2万の3aでもまだあったら買おうと思っていたのである。残念。
ライカM5の皮ケース(ただしブラックの方)を購入。これは木村伊兵衛氏が晩年に使っていたライカM5で懐かしい。1973年頃のライカM5が、今でも少しも古く見えないのは事件である。

ライカM5は誰が何と言っても、やはり3ラグではなく2ラグに限る。縦吊りのネックストラップがM5の精神だ。

朝日新聞の企画で、フェルメール(ウイーン訛りで言うと、フェアメーア)が束になって日本に来襲するそうだ。80年代の終わりに雑誌の取材でイタリアからドイツ、オランダまでそのフェアメーアを求めて、あっちこっちと旅をしたことがあった。フェアメーアは、ハイパーリアリズムの元祖くらいの感覚が自分の認識である。それほど有り難いとは思わない。
だからその絵画のオリジナルを見たことよりも、その間の旅の記憶の方が鮮烈に残っている。
外国にあるフェアメーアを極東に集合させて、一堂に会したところで、そこで何がうまれるものでもない。

絵画はその国々の現場で見る以外には方法はない。あの光線状態の悪い所で見るのが良い。で、なかったら複製で見るの方がずっと良い。だから、フェアメーアの日本大集合には興味薄である。
そこにはミシュランの三ツ星制覇が念願の小金持さんと似たような、贅沢の結果がもたらした人生の不幸をそこに感じることができる。

朝日新聞の1面に複製されていた画像のオリジナルの存在地は、ブラウンシュバイクである。ローライとフォクトレンダーの街だ。フェアメーアブランドのカメラをコシナあたりが出すのなら、興味があるが、名作の「出開帳」というのは浅草奥山の見せ物と同じで、あまり感心しない。

★佃のPBーG4のOS9で書いているので、本日も画像なし。

2007年12月 1日 (土)

トマトの賞味期限とベーゼンドルファーの賞味期限

R1143739 R1143743 画像の説明。
地下鉄にはかなりキッチュな存在の展示が多い。

これは今朝、共同ビルクリニックに行く途中に見た、門前仲町の大障害レース。
1936年と言えば、ライカ3Aの登場の時代である。
その高速の1/1000秒の広告写真はまさにこの大障害だった。
馬はつい最近までは、地上で最速の乗り物だった。

もっともキッチュな展示で、自分の尊敬しているのが、茅場町のこのコーナーである。
特に、左の金閣寺のモチーフは今、ヒルズの上の森アートセンターで開催中の現代展なんかにだって、出品できそうだ。そこでやはり金閣寺をモチーフの展示があるのだ。

カメラはいずれも、R7。

家人の朝のニュースを見聞した、そのサマリーによると、ウイーン近郊のベーセンドルフの村にある、世界的なピアノメーカー、ベーセンドルファーはヤマハに買収されたそうだ。
ベーセンドルファーは特に声楽家に人気のピアノである。ソロのピアニストには、シュタインウエイが人気だけど、声の場合はベーセンドルファーである。

もともと、ウイーンの南の郊外の同じ名前の村で生産されたピアノで、ウイーンの市内のあれは10区であったか、そこには古い修道院をそのまま改造して使っている工場もある。改造と言ってもほとんど手が加わっていないから、修道院の前の鐘などもそのままである。

以前、と言っても80年代後半にエクゼクテイブマガジンの取材で、そこを訪問した。社長さんにインタビューなどもしたが、まだインターネットなどない時代だし、ベーセンドルファーの社長は部下に指示をするのに、当時はすでに型遅れと思われていた「デイクフォン」を使っていた。その説明はここではしないけど、それは一種のアナログのICレコーダみたいなモノだ。
実業家が実際にそういう機具を使用しているのを見たのは、それが最初で最後だった。

ベーセンドルファーはすでに1970年代にはアメリカのキンボールというメーカーの傘下になってた。そのカタログを見ていて、自分の知らなかったピアノを発見した。それはベーセンドルファーのアップライトピアノなのである。これは欲しいと想った。ベーセンドルファーの降るコンサートは要らないけど、アップライトなら粋だなあ、と感心した。

ヤマハがベーセンドルファーを傘下にしたとなると、やはりヤマハはその名前を、つまりブランド名を欲しいわけであろう。
ライカの社長にこの前会った時、これからはライカのブランド戦略がすべてだ。という意味のことを言ったのが印象に残った。これはある意味。つらい話である。
60年代のライカの時代には、ライカM3でもM2でも、それを一目みただけでそれがライカであることが直感的に理解できた。今のライカは軍艦部の刻印をみて「へえ。これがライカ、、、」という時代になってしまった。
ライカは今ではアパレルブランドであるから、どうも不思議なことになってきた。

ライカでもベーセンドルファーでも、そのブランドイメージは不滅の価値があり、その「賞味期間」は非常に長い。ただし、バイオリンとことなり、ストラデバリウスのような数世紀を経やピアノというのはない。ピアノは古楽器になって価値の上がることはない。
ライカの場合は知らないが、どうであろう。

1970年の秋であったか、それとも春であったか、銀座の三越の角に日本で最初のマクドナルドが開店した。その店頭でおそらく日本で最初のマックの立ち食いをした青年が、今、還暦を迎えた自分である。
当時は歩行しつつモノを喰うなどはマナーの他であった。
そのマックに挟んである、トマトとかレタスが問題になっている。期限切れで怪しからんというのであって、食品衛生法かなにか知らないが、それはそれで良いとして、トマトは完熟しておいしくなるものである。それが取り締まりの対象になるのが分からない。

期限切れのトマトなら、自分の場合は期限切れの印画紙を使って、実はその方が印画紙のトーンのカーブが横になって良い感じなので、それを愛用していた。これはプラハのスデクの真似なのであるが、そういう期限切れの印画紙を使って、日本写真家協会を除名されたりして、、、。

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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