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2007年11月30日 (金)

11月のおわりに

R1143732 画像の説明。

ライブラリは5年目になるが、窓に水滴がつくと、秋は深まったというか、冬が来たというかんじがする。ただし、ライブラリの自分はいつも、夏でも冬でも秋でも春でも、ユニクロのTシャツにユニクロのGパンである。

大昔、アメリカ兵が兵舎で、いつもTシャツ姿なのが変だと思ったけど、それのマネをしているわけだ。それでも朝、仕事場の室温は25,5度なのを1度だけ下げるのが自分の役目である。

あっと言う間の2007年であった。まだ11月であるから、今年を回顧するのはいささか早いかも知れないが、12月はまた打ち合わせやら、仕事やら多忙であるから、息つく暇もないだろうし、今のうちに今年のカメラ「総括」をしておこう。

昨年はコダクロームの16ミリの映画フィルムの現像が終わりになるというので、あわてて手持ちのフィルムストックを撮影して、スイスはジュネーブの現像所に送った。

今年は35ミリのフィルムの方の現像が年末いっぱいで終了するので、撮影していないコダクロームをもっている人は今のうちに現像してしまった方が良い。

ただし、アメリカにはまだ来年になってもフィルムは現像できるラボもある。

思うに、昭和30年代初頭の話だが、コダクロームは当時は日本で現像が出来なかったから、ハワイに送っていたのである。その当時、ハワイに行くなどという「大それた話」は一般のレベルでは考えられなかった。

小学校の同級生の父親が仕事でハワイに行って、向こうで8ミリフィルムを撮影してきたというので、学校の帰りにそれを寄り道して見せてもらった記憶がある。

文京区立小日向台町小学校からの下校時、あれはいったいどこのあたりになるのであろう。揺れ動く画面の中で、外人が行ったり来たりするシーンや、パームツリーや、海岸などがリアルに映っていた。外国製のフィルムをハワイに現像に出すのが、すごいことであるのにその現像所のあるハワイに実際に行って、そこを撮影してきたのは、これは大冒険であった。その直後にソ連が月の裏側の撮影に成功して、それが新聞の号外になったりした。

アメリカ大統領の葬儀のライブ中継はさらにその数年後の話である。しかも月の裏側も、大統領の葬儀も画像はモノクロであった。

だから、当時のハワイの実写の天然色フィルムの感動がいかに大きかったかは、今の時代にはちょっと説明ができないほどである。

カメラのシステムとメカニズムと、そのフィルムの現像とその結果に関しては、どうも1950年代から60年代が最高峰であったのでは、と思う。

フィルムのいらないデジカメで、そのまま画像を世界の果てにまで送付できるうような「つまらない世の中」が、現代である。

その原因は「物事にすぐに馴れてしまう、我々の時間感覚」にある。悪いのは我々の慣れというやつだ。

デジカメの大進化の前で、銀塩写真に取り組んで、展覧会(ギャラリーバウハウス)を開催できたのもよかった。それとその撮影で3回、プラハにただただ、モノクロの銀塩写真の撮影に出かけたのは、ゆとりであった。

カメラはコンパクトデジカメが主体だった。世の中の、デジタル一眼レフの競争はなにか対岸の火事どころか、遠い国の山火事という印象である。性能競争ばかりでそれで何をしたいのか。その方向ずけが希薄である。

だからメーカーさんは性能の競争と、タレントさんの獲得ばかりで、デジタル一眼レフを手にした後。ユーザーに何をせよとも言わない。不毛な時代である。ユーザー対策としては、愚にもつかない撮影会とコンテストか、、、、。

昨日の行動。10時にヒルズ。例によって、アカデミーヒルズのPCで仕事。一段落したら、キーの入力がひらがなになってしまっている。どうやっても元に戻らない。もともとPCは好きではないのだけど、最近ではやや慣れた。でも入力の変換モードの切り替えとか、画面の明るさの調整とか、どこを触ってよいのかわからないことが多い。それとフロントエンドプロセッサーが馬鹿なので、ちょっと書き込むような場合には非常に不便である。

先週、秋葉に入院したPBG4の修理があがったと連絡あり。なんでもバックライトではなく、インバーターの故障であったそうだ。これで、佃でまた画像を入れたブログを作ることができる。ライブラリにある、もう一台の画面のちらちらするPBG4を入れ代わりに入院させる予定。

12時に日本郵船の星野さん以下、3名様と、博報堂さん2名様来。

打ち合わせ3時間。仕事のための資料を何点か借り受ける。星野さんはGRD人類であって、今日はGRDにストラップのないのを持参して示す。この前の福田和也さんと同じ、GRDストラップアナーキスト(無政府主義ならぬ、無手提げ主義)である。危険人物というので、戦前なら、監視下にあったはずだ。

資料として(これは消費してよい)「キャプテンズテーブル 郵船オリジナルドライカレー」の提供を受ける。味が楽しみなり。

郵船で百鬼園が嘱託をしていたのは、「東京焼塵」に詳しいが、その中の内田嘱託は日記の中では、郵船の部屋から近所の明治製菓の中川さんのところに、キャラメルをもらいに行ったり、喫茶店でコーヒーとおかしを食べたりで、暇そうである。

長い日記の中で、一度だけ「南洋海運の件で書類を頼まれ忙しかった」とあるだけだ。それが今回、郵船の資料の中から「新田丸問答」のコピーをもらった。昭和15年の発行である。これは署名はないが、百鬼園の筆だという。その気になってよむと、確かにそうである。

ーーーー

金曜の午後5時に日本カメラからメール。

「銘機礼讃3」の見本があがったという。ヨドバシ、フジヤカメラなどから大量の注文があったという
月曜に見本を受取に行く。実は今が(つまり見本を見る前の時間)が一番嬉しい。
来週に日本カメラで著書のサイン会。

2007年11月29日 (木)

11.28東京大周遊

R1143724 R1143731 画像の説明。

飲み屋の帰りの暗闇の中に君臨する、ライトアップ。どっかの風俗かと思ったら、ふつーの家だ。クリスマスは人間の暮らしを狂気にする。

この間のen-Taxiの取材でお世話になった、石丸元章さんの「アフタースピード」(文春文庫)が届く。昔は1円でわら半紙が2枚買えた。これはわら半紙にすると100枚はありそうだ。しかもインクがなすりつけてあるので、そこに「思想」とか「文学」が生じる。

著者の前で、{1円で注文しました」と言ったら、「新品で買ってもらった方がうれしいんですが、、」

当然の理だ。

ライカのレアモデルについてライカ社の社長と歓談したときも同じことを言っていた。

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水曜日。
高曇り。
TRi-Xでの撮影に最適な日。時代は1960年代後半の気分。

午前はヒルズで仕事。
12時に藤沢の佐々木潤一來。
午後2時すぎに、都営三田線にて西巣鴨。それより滝野川5丁目のラビリンスにダイビング。
本当は、中山道(旧)の南側の例の稲垣足穂ゆかりの、中野アパート(旧滝野川区東谷端)方面に行きたかったのだが、すでにその建物はないので、安全圏で中山道の北側を選ぶ。

通常のラビリンスの周回に加えて、日本路地裏学会公認の一番狭い通路、つまり人間の肩幅の狭さ(これを業界用語で胎内くぐりと称する)の路地を立続けに3本ほど通過して、後ろを見たら、同行の佐々木の姿がない。路地に喰われてしまったのだ。

そのまま置いて行くわけにはゆかないので、捜索隊を出す。約10分後に防火用水と、道路工事にブロックされて歩行困難になっている佐々木を発見。無事、救出。

それからはあまり距離を置かないように、ザイルで確保(という気分)で歩行。
新板橋にて、埼京線を超え、さらに奥地の板橋は清水町方面。
ここで日没になり、佐々木の持参のペンタックス、オリンパスワイド、ならびにオリンパスXaはいずれもフィルムカメラなので撮影不能になる。佐々木はペンタックスのメッカ、前野町に行きたがるが、遭難の恐れがあるのであきらめさせ、転進。

自分の持参した2台のGRDー2ならびにR7だけが、唯一の探検機材となる。暗さますます増加。
泉町から、大原町の裏手をトラバースして、長徳寺に至る。境内を調査。完全に暗夜となり、狐狸妖怪にばかされても良いような暗闇を、いったん中山道に出る。
中山道の浜出屋は、増山の修ちゃんの藻に服していたが、来週の3日より再度開店のはり紙を見る。

本蓮沼のトプコン通りの裏手で、板橋区本蓮沼と北区赤羽西の境界線の上に片足ずつ置いて、その面白さを味わうように佐々木に言ったのだけど、佐々木は一向に興味がない模様。自分にしてみれば、38度線よりずっと興奮するのに、佐々木はそういうことに無頓着なのは残念だ。
赤羽西の「うさぎ薬局」の廃虚を見て、午後5時ちょうどに、酒亭楠の前に到着。
1秒の狂いもなく、のれんがかかった。

佐々木と今日の経路の@「青戸状況」とか佐々木の地元の「グランステージ藤沢」の取り壊し状況などについて情報交換をする。

戦果は佐々木はモノクロフィルム4本。あたしはデジカメで423カット。

2007年11月28日 (水)

KCチョートクカメラコラム170回

★銀塩クラシックカメラ

ライカのストラップのこと

ライカは売っても、ストラップは売るな!

別に父親の遺言というわけではないけど、使い込んだストラップは人生の友となりうる。

17歳の時に、神田のシュミット商会に行って、1本1900円だかでライツ製のストラップを買った。こっちは学校帰りの制服の高校生である。

その時に対応に出てきたのが、後年非常にお世話になった、シュミットの明石さんであった。当時の明石さんは30才くらいであったはずだが、高校生の自分から見れば、落ち着きのある立派な大人に見えた。

その時、明石さんはもう1本のちょっとキズもののストラップも付けて、2本で半値にしてくれた記憶がある。その2本のストラップを2台のニコンFにつけて、高校の行き帰りに池袋のロータリーで、「東京オリンピックまであと、xx日」という広告看板とか、おしゃれに地味なツートンカラーの塗色のトロリーバスなどを撮影していた。

いつかはニコンからライカ、それもM2のブラックを、と考えていた。その夢が実現したのは大学生になってから、父を脅迫してM2のブラックを買わせたのである。ライカの当時の純正ストラップは実に機能的にできていた。しかも3年、5年、10年、20年、30年と経過するに、脂と汗が革にしみこんで、良い具合にしなやかになる。

その2本の17歳の時に買ったストラップのうちの1本はまだ持っている。40数年ものだから、ポートワインならかなりのものだ。

ライツのストラップが手に入らなくなり、最近のライカ社のストラップは使用に堪えないので、(この前、ライカの社長さんと会談した時、いいストラップを作るように進言のをすっかり忘れてりまった)大手アクセサリーメーカーのUNと共同でライツの復刻ストラップを製作した。1万円もする高いストラップであるが、これは何十年という時間の経過で自分の分身になるようなストラップだから、これでも安いと思った。

サンプルに何度もダメをだして、完成したストラップの若干の本数に、冗談でサインを入れた。これはエンボス加工なのである。ライカストラップのブランド品のつもりだった。

先週、福田和也さんと、偽ライカ同盟の撮影会に行った時、福田さんが示した、ライカM2はブラックペイントの美品でまさに60年代の「東京カルチエラタン」に似合いそうだったが、自分が感心したのはそのことではない。

福田さんのライカには、UN製復刻ストラップ、それも自分のサインのエンボスが入ったのであったが、そのことでもない。

そのストラップには実際にライカで路上で撮影をした「経時時間」がそこに見てとれたのがいい感じだった。つまり福田さんはライカM2で実際に撮影をしているのである。その証拠がそのストラップ上に開示されていた。

★デジタルカメラ

コンパクトデジカメにはストラップはつけない

GR1の時代には、首から細いストラップでカメラをぶら下げていたのである。それがGRDになってもそうであった。最初のころは21ミリ相当のワイドコンバーターを愛用した。それを付けると全体のサイズがかなり大きくなる。それでストラップで首からブラさげるには好適であった。

この1年くらいであろうか、GRDの登場2周年の記念に出した「天使バージョン」のころから、あたしはGパンの尻ポケットにGRDを入れるようになった。天使バージョンの誕生の発端は、例によって打ち合わせの時に、まるで自動連想のように、勝手を言っていた私の垂れ流しの言葉の濁流の中から、リコーの企画の人がその「天使と青空と雲」という言葉を書き留めたおかげで、誕生したのである。

かなり派手なカメラなので、これをストラップでぶら下げるのは、ちょっとどうかと思ったので、それ以来、Gパンの尻ポケットになったわけだ。これが発見であった。以前はカメラマンジャケットというモノを着ていたので、コンパクトカメラはその胸のポケットに入れていた。要するに何か、シーンを発見した時に「速撃ち」が出来るのである。

ところが齢のせいというわけでもないが、カメラマンジャケットを着なくなったら、普通のジャケットでは「持ち重り」がするのである。

以来、GDRは尻ポケットである。これはモチーフを発見してすぐさま撮影に入れる。こういう場合、ライカM8でも、デジタル一眼レフでもダメである。カメラを取り出して両手で構えるというのはすでに遅いのだ。

一昨日の朝、佃を歩行していたら、運河から上がった、3匹のカモが目の前を行進していた。80年代の「カルガモ騒動」を思い出して、ポケットを探ったら、GRDがない。間違えて家を出る時に、GRDは虫文庫のトートバッグの中に入れたのである。

GRDは小さいから、それをトートバッグの中で探っていると、自転車で息子を乗せて幼稚園に送ってゆくお母さんが追い越して行った。当然、3匹のカモは離脱して、安全な運河の水の上に戻った。決定的瞬間を逃がしたのは残念である。

ポケットにGRDが入っていれば、こんなことはなかった。

この前の東京大周遊の時、福田和也さんの持参のGRD-2にはリストストラップがついていなかった。それがコートのポケットから瞬時に登場するのである。

お!なかなかやるな、、、と思った。我々は「ノンストラップパルチザン」なのである。

一方で「ストラップ党員」の党首は横木あらおであろう。

彼は常にストラップをつけたGX100を首からぶら下げている。最近ではそれが横木スタイルに思えてきた。佃の裏通りで石田衣良さんを雑誌で撮影していた横木はロケバスで乗り付けた大先生であって、スタイリストからアシスタントから、チームメンバーをひきつれていた。この場合、横木が首からカメラをさげていないと、誰が写真担当かわからなくなる。そこらの立ち飲み屋に向かう、おっさんと誤解される。

こういう場合、ストラップはやはり必要なのである。

土浦ツェッペリンカレー

R1143697 先週土曜日の四谷のアローカメラの集会で、久し振りに鵠沼在住のフィギュア作家で写真家の佐々木潤一に会った。佐々木はペンタックスに自製の緑色の不思議な格好の皮ケースをつけて撮影するのが常だ。まあ奇人であることは確かだ。

この秋のヒルズのエントランスで開催された、「チョートククラシックカメラ展」では、あたしの過去に撮影した写真集からのモチーフをフィギュアにしてくれた。それも展示したのであるが、高さは30センチ、幅は10センチほどの手の込んだエルンスト並と言ってもよい、一種のオブジエであって、それにはたくさん引出しがついている。それぞれの引き出しには、それぞれにあたしの作品をテーマにした、マスクのようなものが入っていて、それをペンタックスの三角形のプリズムの上にかぶせて「遊ぶ」のである。

そのうち、この手のフィギュアはタカラトミーあたりで出るかもしれない。そのタワーの一つの面には、プラハのアパートが登場するのだ。そのモノクロの作品は1975年ころの撮影で、それは窓のない壁面に、巨大なジッパーが描かれていて、それが今まさに、引き下ろされようとしている巨大広告だ。これを走行中のプラハの路面電車の中から発見して驚愕した。その作品は写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)に掲載されている。

この前のプラハ行きで完全に忘れていた、その壁の巨大ジッパーのことを思い出した。それは佐々木の制作したフィギュアのことを思い出したそこからの連想なのである。

37年前の現場を記憶を頼りに探したら、それはプラハ南部の古城ビジュハラド、ここには同名の地下鉄の駅があるのだけど、その谷の下に、その壁のジッパーはかなり色あせてはいるものの、今でも存在した。いきなり30余年前に時間が戻ってしまった。その上には巨大な鉄橋がかかっている。ここはプラハの自殺の名所だ。

R1143698 その佐々木が横須賀の何かのイヴェントで、海軍カレーをはじめとする各種のカレーのレトルトを買ってきてくれた。4-5種類である。五十六カレーとかいうのもある。まだ全部を試したわけではないが、最初に食った、地鳥の激辛カレーというのは、その激辛はくちほどにもないので笑った。次が土浦ツェッペリンカレーであるが、これは香りがよかった。味はそれほど辛くはない。デリーの駅前の野点カレーにしてもそうだが、昨年の11月のインドカレー修行で勉強になったのは、辛いだけではなく、その香気の大切さである。上はデリー駅前の「野点カレー」の図。

以下は土浦ツエッペリンカレーのHPの引用。

土浦では、当時飛来したツェッペリン伯号の乗組員たちに、地元右籾(みぎもみ)産のジャガイモを入れたカレーを振る舞って歓迎した話が残っています。「土浦ツェッペリンカレー」は、このツェッペリン伯号ゆかりのカレーを土浦商工会議所女性会が現代風にアレンジして再現したもので、飛行船型のターメリックライスにジャガイモをメインとした野菜ベースのヘルシーなルーと特製のたれで、じっくり煮込んだポークが絶品です。更に付け合せには、日本一の生産量を誇るレンコンをはじめジャガイモ、ニンジン、オクラなどの野菜がトッピングされています。

今、土浦では、「カレーのまち土浦」を目指して、「カレーによるまちづくり」に取り組んでおります。

引用おわり。

なるほど、土浦はレンコンは知っていたけど、カレーの街宣言をしているとは知らなかった。気に入ったので買おうと思ったら、HPがあるのに通販が出来ない。土浦の商工会議所をはじめ数か所で販売しているだけのようだ。

そのパッケージには、ルフトシーフ グラーフツエッペリンの雄姿がイラスト化されている。ツエッペリンの母港、フリードリヒスハーフェンには何度も行っている。同名のホテルにも泊まった。最後に行ったのは2001年9月11日。すなわちナインイレブンの当日であった。

ツエッペリンミュージアムには実物大のキャビンのモックアップがあった。実に快適なサロンであって、エアバス380などよりもずっと良い。ダイニングもゆったりしていた。今の飛行機にはダイニングはないからこの点だけをとってもすごい。その室内の壁画はユーラシア大陸の巨大地図をイラスト化したものであるが、極東の日本はまだ五重塔と目のつりあがった人種のモチーフである。

比較人類学の典型のような、絵柄だった。よかったのは、旧帝国ホテル上空に飛来した、ツエッペリンである。これは木口木版で帝国ホテルの上空に浮かんだ巨船の姿だった。

父の残した古いアルバムに東京市の上空に浮かぶ消え入りそうな、葉巻型の船体の色褪せたプリントを見た記憶がある。

GR-D2ワークショップ(えい出版社)の原稿を書いて過ごす。ランチの時に、「日本橋バビロン」(小林信彦 文芸春秋)を書棚に発見して読み始めたので、原稿の速度低下する。

じかし長年の疑問であった、東日本橋の名前の謎が解明した嬉しさ。小林信彦の実家はこの前、岩波の山口社長を歓談した「鳥安」のすぐそばだった。

2007年11月27日 (火)

神楽坂で「ぺら」を壱千枚買う

R1144281 R1144305 昨日、月曜の行動。

ヒルズで仕事。
岩波書店に提出する、今度のプラハの本のレジメを書く。
福田和也さんとメールをやりとり。
昨日の「東京大周遊」の感想など。

上の画像が、福田隊長とen-taxiの田中副編集長。距離を置いてみると、やはりあぶない。万国旗翻る、無人のシャッター街というのは、フェリーニ好みかもしれない。

ヒルズにて仕事しつつ
nizo801にて窓から雲を撮影する。
フィルムストックはプラスX。

子規の小品に「雲の日記」というのがある。
ステーグリッツには、エキュバレントがある。
自分の映画のショットは、それぞれのショットは短くて2秒ほどである。
少年時代にアルコスーパーメカニカで、雲を撮影したことがある。とっておきの、サクラクロームであった。
あれをモノクロで撮影しておきたかった。当時は「総天然色」にあこがれたから、モノクロで撮影することなど考えも及ばなかった。

「東京大周遊」で、福田さんの持参したカメラはハッセルの1000fとライカM2の90万代ブラックであった。レンズはハッセルがDistagon 60mm f5,6ライカは、Summilux35mm f1,5である。

またカメラの話だけど、ハッセルには220用マガジンがついていて、感度320のモノクロフィルムで撮影していた。露光の決定には、福田さんは、ちゃんとセコニックスタジオデラックスを持っているのであって、その脇で自分は人間露出計で、「はい!f11で1/500秒です」などといい加減を言った。

その背広にノーネクタイのままで、ボルボの後部に乗せてある、長靴にはきかえると、鳥類研究家のビクターハッセルブラッド氏に変身できるのが福田和也のハッセルスタイルだ。

ヨーテボリのハッセルブラッド氏の銅像(昨年の3月に出来たもの)は、そういうスタイルでクラシックなハッセルを持った、ビクター氏がカメラとともに幸せを感じている像である。ここには後年のNASAでのムーンカメラの大成功などはない。ただただ、自分の欲しいカメラが完成して、幸せなアマチュアカメラマンの像である。これにマントを着せようなどという、バカもいない。

実はハッセルブラッドは案外に、「持ち手の服を選ぶカメラ」なのである。これがライカと一番異なる点かも知れない。
ハッセルが一番に似合う服装が、宇宙服であるのは言うまでもないが、まずこれはなかなか調達できないし、第一、昨日のような尾久銀座商店街などでは通行のじゃまになるし、円谷特撮フィルムのロケと間違えられるから実際的ではない。

ハッセルが案外にラフな恰好に似合わないのは、かのアンセルがヨセミテでループタイでハッセルを持っていても、粋が上がらないのを見ても分かる。
モダンなスタイルだと、単なる「レオンちょいワルオヤジ」がナンパの小道具に使っているように見えて、始末が悪い。
結局、ハッセルはかのビクターさんのように、普通の「替え上着」に普通のパンツで普通の靴、ただし時々長靴というのが正解である。その意味で福田さんのハッセルスタイルは合格だけど、(これにつき子細あり。2週間考えたそうだ)やはりそこはノーネクタイが正しいと思う。ここにループタイを加味すると、これは日本の特殊事情だけど、そこには二科会写真部会友の気分が出来上がってしまう。
これはまずい。
220フィルムを装填する、福田会友の手許は確かであった。

上の画像は、ハッセルブラッド1000fにGRD-2をプラットフォームにして撮影をしているところ。巨匠メカスはムービーのタイトルを撮影するのに、そこらにある自著を撮影台にして撮影していたが、この方式はそれの上をゆく。

話が長くなるので、ライカM2のブラック仕上げに35ミリレンズのことはまた明日、書くことにする。
なお、これは佃のPowerBookで書いているので、9-2-2であるから、画像はなし。画像は午前10時過ぎにヒルズのマシンからアップの予定。

午後3時半に思い立ってヒルズを出て、麻布10番から南北線にて飯田橋。
神楽坂の先の方の横寺町方面の肉やさんの「蟹クリームコロッケ@110円」は、うちのライカインコの好物なので、それを買う。ただし今日は蟹ではなく、海老クリームコロッケであった。

神楽坂を毘沙門天の方にもどって、伊勢藤の路地を通過して、50番にてにくまんを3個買う。その先の「坂の上の二階」は気がつけば、すでにビルなってしまって存在しない。その速度驚くべし。

この界隈には、足穂も通った酒場があった。その向かいの三菱銀行の前で(これと新潮社だけが昭和10年代を今に確認可能なランドマークなのである)林芙美子がバナナのたたき売りをやっていたこと、これは足穂が記憶に頼って書いた地図に詳しい。

もう一度坂を下って、思い付いて山田洋紙店にはいる。
自分より二廻り上と思われるおかみさんに、「ぺらを、、、と」言いかけて、それでは分かるまいと思い「200字詰めの何時ものやつを、、、」と言ったら通じた。
いかにも、通い慣れているふりをしているが、その「いつものやつ」を、この前に買ったのは10年前である。
1年に100枚。10年で1000枚。これが自分のぺらの消費量だ。
大体、知り合いで、紙に原稿を書いているのは原平さんと、それから飯田鉄くらいなものだ。

100枚つづりを10個の包み、つまりぺら1000枚。これは400字詰めで500枚相当だから、ちょっとした長さの本の分量である。その原稿料が@5000円として、250万円。だからこれに書いて生活するためには、少なくともこの1000枚の包みを年間10個は消費しないといけない。
気の遠くなるような生産性の悪さ。広告文ならその10倍か、、、しかしそれは別の話だ。

業界では今でも400wあたりの原稿料というのが通り相場のようだけど、自分は本の長さは、エデイタのラインを80文字にセットして、それで計算する。以前はBlack Nextでクオークエキスプレスで原稿を書いていた。そのマシンはまだ机上にある。これだけは捨てられないのだ。
1000行で8万字だから200枚である。そうか、やはり400字詰めを単位にしているのである。ただし書いて行く時には、400字計算よりも、一行が80字と思っている方が書き易い。

買った原稿用紙は手紙用にするのだ。メールではなく、インクで書いた手紙用である。滅多に手紙など書かない。ところが知り合いの中に、PCも携帯を持っていないうらやましい人がいる。そういう人用の原稿用紙だ。
おそらく、もう一生、原稿用紙を買うことはあるまい。
その買いおさめである。

2007年11月26日 (月)

浅草の酒場に満月が昇った

R1144263 日曜日。
快晴。この所、ずっと快晴である。つまり日にちの感覚がなくなるわけであまり有り難くはない。
天候が2日晴れて3日曇るような方が、生活にメリハリが出て生きて行くのに張り合いが出る。

取材で真夏のアンダルシアに2週間いた時の記憶はほとんど残っていないのは、毎日、カラーコピーみたいな快晴であったからだ。それに引き替えリスボンの12月に時々、荒天になるのは記憶にはっきり刻まれている。

土曜の夕刻はシドニーの後、久しぶりに10年来のスタッフにて宴会に行った。野々宮BMW、マーシー、丸山の諸氏である。シドニーの常連さんから「呑みに行く時はここしか行かない」という「個人ミシュラン」の飲み屋データをもらったので、浅草はカミヤバーの近くのその店に行った。何でも、客の顔を見てから刺身のわさびをするのだそうだ。しかしこれは当たり前なことではないか。客の顔を見てから、わさびのチューブをひねるほう方が気が効いている。

ちょうど満月が隅田川の上に昇ったばかりで、飲み屋の2階は絶好のロケーション。唯一の欠点は自分の嫌いなチエーン店っぽい造りなのだけど、そんなのは気の合った仲間をばか話しをしているうちに忘れてしまう。
まず、持参のミノックスにて、隅田川上空に浮遊しているお月さまを撮影した。

先月の30日に見た月は満月でしかもプラハのアトリエには人工月が登場して、本物とレプリカの月の共演が面白かったが、あれからもう1月が経過しようとしているのだ。

久しぶりにあった丸山と、プラハの路面電車の話しになる。自分の自慢はプラハにある路面電車の1番から26番の全部に乗ったことだ。まるで国鉄(この言い方がぴったりする)の2万キロ余を踏破したおやじみたいなものだ。

丸山のプラハでの宿は日本人経営の民宿で、それは8番線の終点にあるという。「プラハの西はずれなの、東はずれなの?」と、聞いたら「どっちか分かりまん。そばに池があります」と、方向音痴みたいなことを言う。こういう男がバイク急便のライダーなのだから、分からないものだ。

マーシーは自分でシャッターを修理したという、ミノックスを示す。何でも、そこらの店から金属の薄い板を買ってきて、それでシャッター幕を自製したそうだ。すごい技術者である。

話しは弾んでいるのだけどなにかが変である。お店がたばこの煙くさいのだ。気がつくと向いの席の可愛い女の子のお客とか子供みたいなのが、みんながんがんシガレットをふかしている。

野の宮BMWが、「ここは時間の経過がおそいですね」と言った。
たしかにその通りで楽しい時間というのは、すぐに経過するのが普通であるが、ここではたばこが気になるので、その「すぐに経過する楽しい時間」をたばこの煙が後ろから引っ張って、時間の経過を遅くさせているのだ。
楽しい時間がゆっくり経過するのなら、その方がいいではないかというと、そうではなく、その時間経過が気になるのが、逆にストレスになる。
それをしおにして店を出た。
月は天頂に移動していたから、それなりに時間が経過したのかと思って、各自の時計を確認したら、まだ午後8時(現地時間の)であった。

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ここより、昨日の行動。

午後2時、田端駅南口にて、en-taxi日本路地裏学会偽ライカ同盟東京大周遊田端尾久方面大調査団(かなり名称が長い。最近の銀行みたい)の調査開始。

団長は福田和也さん。副団長はen-taxi副編集長の田中陽子さん。ならびに石丸元章、平山訓生、あたしの各平隊員。

福田さんの持参カメラは、おそらくライカD3であろうと、予想していたのに、いきなりハッセルブラッド。

「なんだ、、、ハッセル500cか、、、」と、軽く見ていたのが、接近してみれば、ハッセル1000fに60ミリのデイスタゴンが付いている。昨年の3月にあたしがヨーテボリに持参した機材と同じだ。これはかなり凄い。ビクターさんも泉下でお喜びだ。

福田さんのポケットからGRD−2が出た。22日の発売日にどっかのネットの最安値のお店で買ったそうだ。しかも、ネックストラップはなし。本物のGTDistは、本体によけいな紐は付けないものである。これは本物のデジカメアナーキストだな。

そこから、展開したen-taxi日本路地裏学会偽ライカ同盟東京大周遊田端尾久方面大調査団(かなり名称が長い。最近の銀行みたい)の長征が開始された。

えー、その血沸き、肉踊るお話は次号のen-taxiの誌上で。(12月29日発売)
と、昔の紙芝居風だが、明日の日記で福田さんのカメラさばきをちょっと紹介しよう。

 

2007年11月25日 (日)

カメラジャングルで本を整理

土曜日。
快晴。
60日ぶりのアローカメラの「シドニー」であった。
シドニーというのは第四土曜の午後2時から開始の意味だが、駄洒落の範疇ではこれはかなり良い出来だと思う。
もう10年ほど継続している伝統芸能である。

ぞの前に午前中、仕事場(佃)の大テーブルの下の本と雑誌を大整理。捜索している本(レクタフレックス関係)は発見できずに、ロボットの本が(人造人間ではない、ドイツ製の連続撮影可能な35ミリカメラ)発見できた。それと、これも紛失したと思っていた、ロシア発行の「カラシニコフ」のカタログ本も発見。

目下、佃ではOSが古いのでこれを書いているから、画像がアップできない。
その話だが、昨夕、PowerBookを預けた、外神田のお店から電話あり。何の騒ぎかと思って、折り返し連絡したら、あずかったPowerBookの本体のビスが1本とれているが、それを確認してもらいたい。その後で修理に入るとのことだった。

かなりの誠実さで頭が下がるが、逆に考えると、秋葉人類はそういうことで、お店にクレームを付けてくるのがいるので、その対策なのかも知れない。

大テーブルの下から発見された「宝物」は、他にはgami 16(これも3年ほど行方知れずになっていた)とか、ロボットのファインダーとか、各種あり。
なにか路上でモノを拾得した感じだ。拾得物なら届けるけど、これは自分の管理する領域での拾得だから、それは必要はないのであろう。

あまり、根をつめて整理をしたので、後で軽い腰痛になった。慌てて、中山式快癒器でマッサージする。この中山式にはウイーン時代から御世話になっている。
海外に在住の日本人はかならず持っている「健康機具」あろう。面白いのはその時代によって、中山式快癒器のデザインがことなるから、そのデザインを見ると、その人が何年頃に海外に来たか、それが分かる仕組みだ。

ニューヨーク在住の絵書きさんのそれは、クラシックな陶器製であった。これは1960年代なかばの製品である。我が家にあるのは、70年代のそれのはずだが、案外、80年代に買い直しているかも知れない。
それでも四半世紀前のクラシックモデル。

面白い事実は、1950年代の雑誌の広告に登場した、中山式快癒器は今のような腰痛治療がメインの目的ではなかった。
当時の日本は、「はらぺこ時代」であったし、実に「胃下垂」で体調不良の人が多かった。だから快癒器はその体調を健康にする機具であった。

記憶に残っているのは、その広告である。使用前にはがりがりに痩せていた男性が、使用後の写真では結構な健康、というよりかなりのデブになっていた事実である。使用前、使用後の写真の元祖だ。
当時はデブは健康の一種と思われていたのである。
それが現代では、自分のようなデブのじじいが腰痛の治療に使っている。
この一事を見ても、世の中の思想、物品のその使用法とその価値の変遷は、マルクスレーニン主義と、中山式快癒器を見ただけでも分かる。


2007年11月24日 (土)

GR SNAPSの裏側とバックライト

今日も快晴。(繰り返すけど、今日とは昨日のことである。午前0時更新のため)
勤労感謝の日。
朝から強風となる。昨年の今ころはデリーに居て、毎日路地裏を徘徊していたものだった。デリーの北半分のオールドデリーばかりで、最初のデリー訪問にもかかわらずモダンなニューデリーの方は1度しか行かなかった。北京でもハノイでも、そしてプラハでもウイーンでもそうであるが、旧市保守党である自分は汚い、古い町の方に引っ張られて行くようである。
別に自分の意志ではない。牛にひかれて、善光寺。 ライカにひかれて旧市街。

その牛であるが、デリーではそこかしこに居る。いわゆる「のら牛」である。他にものら猫、のら犬、のら猿、そしてのら孔雀。実に豪華な面々。その間を徘徊するワイドローライを持った、のら写真家。それが自分だ。
のら牛は実にスナップの良いテーマになる。
カメラ向けると必ず、のら牛が入る。町に戦場ありは60年代だが、2007年にもなって、「町にのら牛あり」は、立派である。

柴田書店から、「カレーのすべて」をアマゾンの中古で買った。それが昨日届く。これはヒルズのライブラリに見て、面白そうなので手にいれた。

手にとってみるとなかなか良い。何が良いのか説明すると、ちょうどライカの図鑑のようなものだ。今の時代にライカは別にそれが撮影に必須なものではない。
もっと、その存在が昇華されていて、その存在を例えば精密に再現された、ライカの写真の上の見て満足するのである。ライカの場合はそれを食べてしまうのではないから、そのまま残るわけだが、自分のような大のカレー好きとなると、カレーの美しさを眺めていたいのだけど、自分の食欲にそそのかされて、それを喰ってしまうから、後には何も残らない。これが問題なのだ。

この「カレーのすべて」は、カレーの存在の一番良い瞬間をそのままに冷凍保存してあるようなものだ。そこが気に入った。柴田書店は食品本の専門出版社だから、そのレシピも出ている。しかしそれを参考にして、カレーを製作するつもりはない。自分はカレーの存在を眼で楽しんで、味わう、いわば「アマチュアカレーマン」(この音はアマチュアカメラマンに似ているので気に入っている)である。

上の画像は、オールドデリーの「野立てカレー」。野菜カレーの上等だ。 ★おわび。目下、PowerBookがドック入りしてるので、この古いPowerBookの0S9-2-2だと画像がアップできない。 毎日通って外人の常連になった。外人だから、ちやほやしてくれて、一般デリー市民は御覧のように、地べたであるが自分は反対側の道路の縁石に案内された。VIP席。それにしても3つ星ミシュランに輝いた「すきやばし次郎」は10席である。あそこが世界中から押し寄せた外人グルメに占領されるのを見てみたい。

アマゾンから届いたもう一冊の本は石丸元章著、「平壌ハイ」(飛鳥新社1999)
実は明後日、en-taxiの関係で、日本路地裏学会田端調査がある。福田和也さん(自分の方で勝手に、偽ライカ同盟と日本路地裏学会に入会を許可)と、出かけるのだけど、それに同行してライターをやってくれるのが、石丸元章さんである。
これは嬉しい。平壌ハイをその前に読もうと思って、アマゾンで中古を調べたら、1円からあるので眼を疑った。しかしいくらなんでも、1円では著者に失礼だから、その上の値段で売っている98円の方の本屋さんに注文した。その本が届いた。
読むに痛快。願がわくば、この感じでレポートしてもらいたいな。
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GR SNAPSをようやくバラバラに分解した。バラバラ事件である。最近、この言葉もマスコミ上には出ない。自主規制の対象であろうか。
カード状態になって、始めて表と裏を一体のものとして認識できるようになった。最初からそういうコンセプトのもとに製作されているのだから、当たり前ではある。

この「GR百人一首」では、ほとんどの人が裏に手描きで文字を書いている。これが面白い。その中で手描き文字を自分が見て知っているのは、赤瀬川さん、坂崎さん、なぎらさんくらいである。これらの片からは、メモを手渡されたり、はがきをもらったりしているから、人間と人格と筆跡が一致している。

他の皆さんは、その筆跡を知らない。人間には筆跡というものが存在したんだ、、、と改めて確認。
紙の裏を「紙背」という。昔の言葉だ。眼光紙背に達する、などと昔の人は言ったものだ。(明治時代の話し)

今はPowerBookの液晶の裏側に視線が届く勢いで仕事をしているのだが、そのPowerBookの佃にある2台のうつ一台のバックライトの蛍光管が切れた。液晶まっくら。
代打で、古い方のPowerBookG4を使ってこれを書いている。不便なのはシステム9-2-2だから、銀行にも航空会社のオンライン予約にもアクセスできない。そのためには六本木にある、PowerBook(これも2台のうち、一台は液晶が震えて使えない)にまで出向いて、銀行のオンラインにアクセルする必要がある。

便利だか不便だか分からない。
これは困るので、これからバックライトの交換に秋葉に出かける。
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2007年11月23日 (金)

ミジュラン赤本東京とGR SNAPS

R1144205 快晴の東京。
完全な冬型。

昨夜(実際にはおとといの夜)は、なじみの板橋は大原の浜出屋の増山修一さんの通夜だった。

場所は板橋区大原の長徳寺。

築地塀をめぐらした立派なお寺だ。20年ほど前に知り合いから、この長徳寺のことを聞いた。名前が同じという程度の意味である。

渋谷には「うどん長徳」というのもあって、そこにもたまに行った。そのお店は今はもうない。

大原の長徳寺の方は、東京カメラクラブの真冬の「死の行軍」(一種の鍛錬を兼ねた撮影会)をここで開催(と、言うよりも勝手に境内にちん入して)したこともある。

その長徳寺は増山家が檀家なのである。

ライトアップした山門はなかなか良い感じだ。NHKの時代劇のドラマみたいだ。これがお寺ではなく、小笠原伯爵亭みたいなレストランであったら、外人さんを連れてくるのに格好な、ミシュランの星がつきそうである。

お通夜は立派であった。

実はその足で浜出屋に行ったのである。
通夜の席から抜け出して鍵形小路の裏道をたどって、中仙道の浜出屋に行くと、お店には明かりがついている。
白地に墨痕ののれんがゆれていて、ガラリと引き戸を開けるとお店は満員。カウンターの向かいにはデニムのエプロンをきりりと掛けた修ちゃんがいる。

「いやあ、、、大変な人の数だった。いま、あんたのお通夜に行ってきたよ。月が煌々としていい晩だね。実にいいお通夜だった」とあたし。

「あ、長徳さん、通夜に来てくれたの。居眠りしてたんで、気がつかなかった。でもああいう立派で仰々しいのは嫌いなんだよ、俺、、、」

「修ちゃん、あんた、もう解脱したんだからこの際、言うけどね、客商売なんだからお客さんにいらっしゃいませ、ありがとうございました、くらいは言うべきだったね。ついに四半世紀、いらっしゃいまで、を聞いたことなし。ありがとうは何度か聞いたけど。まあ、済んだことだからいいけど、、でも、いい人生だったねえ、、、」

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暗い街角を長徳寺から何度か曲がって、その先の中仙道のライオンズマンションの前の浜出屋まで歩行。シャッターは閉まっている。

そこで初めて今の通夜が「本物」であったことに気がついた。

それから供養をかねて、中仙道を横断してトプコン通りの「楠木」に行く。浜出屋さんには、ご家族が落ち着かれたら。GR SNAPSでも持って、遊びに行くとしよう。

R1144212 さて、午前中は昨日到着した、この写真集「GR SNAP」を見て暮らした。

本来はカルタのように、あるいはポストカードのように、ばらばらにして楽しむ出版物なのだけど、片側を無線綴じでかがってある。

それを分解するのがちょっともったいない。

見ていて、「へえ、赤城こういちさんは、最近、芸風がかわったねえ、、、」と感心していたのだけど、それは間違い。その画像は赤瀬川原平さんの作品であった。ばらばらにする前は、普通の本の感覚で、見開きだと理解してしまう。

右のページが作品で、左が作者のコメントという錯覚が生じる。自分の作品は成田から離陸した日本航空の上海行きが、佃島の上空を通過するのを高度9000メーターから撮影。その左ページにはなにか書いてあるが、これは自分のコメントじゃない。そういう錯覚がおきるのである。

やはり本の本体をばらばらにしてから鑑賞しよう。

名作、力作そろいである。倉敷の虫文庫(ここのトートバッグを愛用)の田中さんの作品も出ている。

今日はGRD-2の発売日。それからミシュラン東京の発売日だ。これからヒルズの6fの書店に買いに行く。

あ、上の画像は本日発売のGRD−2で撮影です。下も。

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R1144218森タワーの 下の書店で、ミュラン東京2008を買う。2200円+税。まず、その体裁が期待外れ。パリでミシュランで遊ぶ、というのは長年の自分の「想像プレー」であって、パリのなるべく安いホテルでパテとかチーズと肴にして、ワインだけはちょっといいやつで、それをやりながら、赤本を見るのである。

これはガイドブックを「読み物」として楽しむわけだ。まず本物の赤本(こういう書き方だと、東京は偽物のような印象で誤解を生むけど)は、ライスペーパーみたいな辞書めいた紙でその印刷もミシュラン的(という以外に言いようがない)である。

R1144219 東京版で駄目なのは、カラー写真の多用。斤数の高い上質紙。それとテキストの「ぎっしり感」がないから、編集の中とでやめにしたような感じで、情報の欠如を感じる。大体、ほとんどのページで7行から10行の白い部分があるのは、駄目だ。ここをメモに使えと言わんばかりだ。

ホテルセクションで、いわずもがなの室内の写真も必要なし。つまり、写真を排除してしまうと、そこに残る情報は「インフレで与えた★」と「普通のタウンガイド」なみのテキストだけだ。これが2,200円+税は高い。

本物のミシュランは薄い紙で、小さい文字で(この場合、日本語も不適切)あるのが必須だ。そう考えると、自分などはミュランの赤本のその存在に恋していたことになる。

あまりのカラー版だと、安っぽくて、3流のタウンガイドめいてくる。かなり前に赤本で伊太利亜を取り上げて、それとドイツを取り上げた時に、すでにびっくりした。それがついに日本まで来たかと思うのは、どうもしっくりしない。

10年近く前、ライカポケットガイドの日本語版を出した時、その当時のミシュランの装丁の真似をした。カバーに「この本はミシュランのガイドのように扱ってもらいたい」という意味のことを書いた記憶もある。

そのガイドブックは自分の持っているのは「束見本」だけで、今では古書店で1万円もするので手が出ないが、あの10年前のミシュランを真似た時代が懐かしい。

今はオンラインでいくらでもレストランとかホテルの情報は手に入る。自分の欲しかったのは、東京のレストランの格付けではなく、クラシックな赤本の存在そのものであった。紙の物質としてのあの存在感に触れたかったのだけど、それには失望した。

今回のミシュラン赤本東京は、なにか日本製のツアイスレンズとか、ライカレンズのような粗な時間だ。昔のツアイスやライカを知る、自分のようなオールドボーイにはやはり「何かが違う」と感じるのだ。

結論を言うのはまだ早いけど、あの赤本の興奮がここには欠如している。

ミシュランのトップはそのことを知っていながら、戦略的は背景でこれを出したのではと、邪推してしまう。全店に★がついているのは、駄目だ。★の権威が堕ちる。東京版では★は「参加賞」みたいなものだ。

まあ、ミシュランの「商売上手」だけは理解できるが。

2007年11月22日 (木)

映画の移動撮影テクニック

R1144194 快晴の東京。

ヒルズのロッカーに備えつけのカメラはアリSRからニッツオ801にバトンタッチ。フィルムストックは7265、つまりプラスXである。

以下、特別に記さない限り、これは前日に関係する記事を思っていただきたい。もっとも、午前0時に更新しているわけであるから、前日の記事以外には存在のしようはない。

昨日記載の国際放送機材ショーはかなり興奮。グライドカムを実際に装着して体験撮影ができたこと。自分にとっては、これなヒューストンでNASAのシャトルのモックアップ内に入った時以来の感激だ。

同様のシステムに、ステデイカムがある。これが出た時にフォトキナで体験搭乗(というか適切な言葉が見つからない)させてもらったわけで、それが30年ほど前である。

当時は映画を見ていたので、マラソンマンとかロッキーとかで、そのシステムが活躍するのを見た。マラソンマンでは、セントラルパークの貯水池の脇をランナーが全速で走行するのを前からキャメラが移動しつつずっとみているというわけだ。

最初は長回しの移動ショットでドーリーはないし、路面のレールも見えないので、実にびっくりした。それ以前は移動ショットと言えば、レールの長さが限界であったからだ。

ロッキー1の方では、本編の中に撮影中のステデイカムのオペレーターの姿が見える。名前を失念したが、この機材が登場した当時のスターカメラマンで、フォトキナで話をしたのもこのヘラクレスみたいなアイアンマンであった。本当の試合なら試合中にカメラマンがリングにいることはないわけだが、自分が繰り返し見たのは、リング上のカメラマンの動きだった。

当時のスタビライザー装置は大男でないと無理だし、専門職だから雑誌アメリカンシネマトグラファーなど見ていると、ちゃんと「ステデイカムオペレーター」のタイトルがついていた。

それに比べると、今のグライドカムなどが進化したものだ。それで競合機の半額くらいのコストであるという。

ロシア映画の歴史的な名作「カメラを持った男」では、木製三脚に手回し式の箱形の35ミリ映画撮影機がその時代のスターとして活躍する。これが20世紀の初頭の映像界のトップシーンである。

21世紀の映像の送り手のトップスターはグライドカムのようなスタビライザーとそれを操作するカメラマンであろう。

流れるような移動ショット。いいねえ。

それ以前、たとえば、シュレンドルフの映画を1976年に手伝ったことがあるが、当時のニュージャーマンシネマではまだ、まだこの手のテクニックはなかった。

シュレンドルフの「とどめの一発」では、主演俳優が女性を射殺して、走ってくる蒸気機関車に飛び乗る。そこまではレールの上をドーリーでアリ35BLが主演を前から撮影して、先に列車にカメラマンは乗る。実際にはアリBLを肩に乗せたカメラマンとフォーカスプラーが一緒に走行してきた列車に後ろ向くに飛び乗るのであるから、危険きわまりない。その場合、今、ドーリーで移動してきた地面のレールは撮影できないから、そこが難しい。

しかもSLというのは速度が調整できないから、主演がいい位置に来た時に、うまくその前に来ることが実に困難であった。

シュレンドルフ監督は俳優とかスタッフ使いの荒い人で、12時間労働は普通だし、撮影もテイク30なんていうのは普通である。

だからその重要ショットは列車と人物とカメラがうまくシンクロするのに、10回以上のテイクを撮った。しかもマイナス10度の雪の広野の中である。

ああいう場合、これがスタビライザーつきカメラであったなら、もっと撮影は楽であったに違いない。

昨日の「カメラ礼拝」で面白い点に気がついた。ソニーのデジタルシネマの方は型番はf-23で、Fはフィルムの意味であろう。

アリフレックスのD-20というのは、デジタルカメラのDである。アリはフィルムカメラのメーカーであったから、ことさらにデジタルカメラを意識してDを使う。

ソニーはデジカメメーカーだから、ことさらにフィルムカメラを意識してFを使う。

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深夜にブログを更新して自分がグライドカムをテストしている、下の方にある縦位置のカットを見てたら、佃のパワーブックG4の液晶がいきなり点滅して真っ暗になった。

液晶の故障かと思ったら、液晶自体は生きている。よくわからないけど、バックライトが切れたようである。この夏にヒルズに置いてある、同じG4は液晶の画面がぶれて使えなくなった。

10年近く前のパワーブックG3は何とかHDを交換したけど、まだ元気である。古いマシンの方が長く持つようだ。

新型のパワーブックを買うには絶好の機会であるが、どうもマックブックというのは信用できない。名前が変である。なにかヨックモックみたいだし、インテルインサイドというのも、信用がおけない。

当分はこのアカデミーヒルズ所有のデルを使おう。インテルだし、大嫌いな窓屋のPCであるが、自分の所有でないと思えば腹もたたない。

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2007年11月21日 (水)

国際放送機材展に行く

R1143690 R1143693 INTER BEEとは、International Broadcasting Exhibitionであるという。

今年で第43回。場所は幕張メッセ。22日の木曜まで開催。一般のアマチュア機材ではなく、本物のプロ機材の現在を視るには格好の展示会だ。

冠スポンサーの駒村商会から招待状をもらった。親切なことに登録には時間がかかるといけないというので、展示者用のカードももらった。
この前、同展示会に行ったのは、、30年ほど前か、当時の場所は北の丸公園の科学技術館で開催されていた。カクカクした不思議な建物だった。

幕張メッセに行くのは10年ぶりかも知れない。このような巨大展示会に行った最後の経験は1998年のドイツのフォトキナであるから、これも10年ぶりだ。

あ、そう言えば、来年はフォトキナの年である。

まず感じたのは、参加者が真面目で熱心であること。ようするに、以前のカメラ用品ショーとかカメラショーで名物になっているような、会場のおねえさんおっかけの「カメラ小僧」が皆無である点。
その真摯な機材への興味というか、研究心が実に気持ちいい。

今回の自分の目玉は、駒村商会が関係している、グライドカム、センチュリー、アントンバウアー、ミラーなどの専門機材を見ること。

あ、上のブランドが何であるか、それは書かない。それが何であるか知っている人だけが来るような、レベルの展示会なのである。しかし、このメジャーブランドを駒村商会が全部関係していることに関してはかなり吃驚した。

駒村の展示ブースは5号館のスタンド5507である。ちょうどパナソニックと東芝、池上通信機のそばである。すごくいいポジジョンだ。駒村商会とパナソニックとでは、会社の大きさでは、自分の見解ではパナソニックの方が「ちょっとだけ大きい」という認識があった。

これはフォトキナの経験なのだけど、そういう真面目な、でもあまり大きくはない会社はホールの隅の方から探すというのが、自分の20年のフォトキナ経験則なのである。それで周辺を探しても発見できなかったので、、、不思議と思っていたらど真ん中に駒村商会のブースがあった。
凄い。

駒村社長は開会直後で飛び回っているようなので、先に駒村の専門家から、グライドカムのデモを見せてもらった。このカメラのスタビライザー装置はかっこいい。
ロボコップみたいだ。スタビライザーを扱うオペレーターは現代の「視神経のヘラクレス」である。

センチュリーは、自分は数本の超望遠レンズを持っている。1970年代、まだニュースを16ミリフィルムで撮影していた当時、センチュリーの各種交換レンズはステータスであった。今、所持しているのは、センチュリー300ミリ、500ミリであるが、それをアリフレックスSRや、エクレールに付けて使っている。往年のセンチュリーレンズはまだまだ現役だ。
最近のセンチュリーはプロ用の各種コンバージョンレンズを出している。

会場を巡った。
自分の見たいのは、まずソニーのデジタルシネマカメラF23である。パナフレックスやムービーカムのような、ムービーカメラスタイルのデジカメである。
これを会場で「礼拝」した。実にデジカメもこのクラスになると「信仰に対象」となる。R1143666

R1143678 もう一つは、ナックカメラサービス(その名前の懐かしさよ!)で、発見した、アリレックスのD20。フィルムスタイルデジタルカメラと銘打っている。

ソニーのF23はそのスタイルは、パナフレックス的なのに対して、アリフレックスD-20の方は真四角で素っ気ない。
昔のミサイルのトレッキングカメラみたいだ。

その脇にあった、最新モデルのアリのフィルムカメラのデザインはいい。これは欲しくなる。でも見直したのは、自分の持っている、2台のアリフレックスSR(1型と2型)のことだ。このオリジナルのデザインの良さを見直したのである。

放送機材展ではもうフィルムカメラは存在しないと思っていたのに、アリのフィルムカメラを見ることが出来たのは大収穫。

駒村商会のブースに戻ったら、駒村社長が戻っていた。北京のカメラデイラーの王さんと名刺交換する。田R1143669 中さんの名前は中国のカメラコレクターの間でも知られています、と、王さんは流ちょうな日本語で話す。うれしいことだ。

王さんの会社は北京では自分の一番好きなロケーションにある。すなわち、北京写真機城なのである。ここにはよく通ったなあ。

北京の西の方、五裸松という地鉄の駅から環状線を北に行ったところである。

記念写真を、という駒村社長のアイデアで、自分はグライドカムを「着せて」もらう。31年前に最初のステデイカムが登場したとき、フォトキナの会場でやはり「テスト」させてもらったことがあった。当時はアリフレックス35ー2cの改造モデルでモノクロモニタが付いていた。
あれは1976年だから、実に31年ぶりに、カメラスタビライザーを装着体験したわけだ。

R1143684 感想としては、肩載せ式のべーカムでもその操作は案外に軽い。2ー3日の訓練で自分もグライドカムオペレータになれそうだ。

マンハッタンの怪人、チョーセイさんが絶賛していたのが、グライドカムである。
もし、自分がオペレーターになったら、恐らく60歳だと世界最高年齢かも知れない。

放送機材展の機材の単価はコンスマー向けではないから、それは高価である。そこに夢があって楽しい。

アリフレックスとかソニーのシネデジタルカメラのような機材はレンタルするのが普通である。そこには物欲とはちょっとかけ離れた存在の感覚がある。

実にわくわくする、一日だった。

うーん、明日も行きたくなるな。

★撮影カメラはR7。あたしを撮影してくれたのは、駒村商会の新田さん。この人はかなり写真がうまいと思う。

2007年11月20日 (火)

タバスコの「恨み」

R1144193 昨日の行動。昼前からヒルズ。原稿書き。だんだん、日が短くなる。日没はかなり低いところからの射光でドラマチック。いまさらであるが、まるで模型のような東京。

自分はタバスコ中毒であることには間違いがない。タバスコが切れだすと落ち着かない。あわてて下のスーパーに買いにゆく。

R11436491973年のベニスだった。
真夏の撮影で疲れ切って、バールで麦酒。ピザを頼んでタバスコを持ってきてくれと言ったら、これがないのである。
恥ずかしい話であるが、日本でピザにタバスコは必須だから、イタリアでもその通りと勘違いしていたのだ。

最近はイタリアでもタバスコはあるが、70年代にはなかった。だいたいが、そんな調味料がなくても、イタリア料理はおいしい。

プラハのアトリエに住み始めた当時、どういう具合か知らないけど、アメリカ軍のレーションが大量に蚤の市に出たことがあった。その当時はまだ食料品の店も少なかったので、これを愛喫した。

いうまでもないが、アメリカの兵士の食う、まったくなっていない味付けの弁当である。その前にニューヨークでジャンクフードの訓練を受けていたから、そのことはびっくりはしないで、なにか懐かしく感じた。レーションの中はブランドではなく、それぞれの食品なその名称だけがシンプルに記載されている。つまり、ポークチョップもキャンデーも、コーヒーもすべて匿名性なのに、唯一、それだけがペッパーソースではなく、タバスコと表示されていた。タバスコはタバスコであって、ほかのペッパーソースではないという一事を面白く思った。

書肆ユリイカのあった、神保町の路地裏の喫茶店、ミロンガに1ガロンのタバスコの巨大な瓶があったのはあれは80年代の後半であろうか。その巨大なボトルの中は全部、タバスコで充満していると思うと、頼りがいのあるという印象があった。その巨大モニュメントは見えなくなったが、まさか消費したのではあるまい。人間一人では一生でも持て余す量である。(訂正する。一年弱の容量が正しいかも知れない。下の500ccは大抵1月でなくなった。)

500ccの壜はは注文してストックしたことあり。これもなくなったけど、竹下通りにタバスコのアンテナショップみたいのがあって、そこで買った。ほかに通販でもタバスコグッズをそろえた。
ダラスとかヒューストンに行った時、あまりタバスコのお世話にはならなかった。もともと、ケージャン料理でも必須と思うが、実際には料理そのものがかなりホットだったからであろうか、向こうを旅していた時にタバスコの記憶はない。

先月のプラハでがっかりしたのは、アトリエの一番近い巨大スーパーからタバスコがなくなったことだ。スーパーのチエーン店が、巨大な企業からさらに巨大な企業へと、移ったのであるが、そこのタバスコがなくなった。今までそこに永遠に存在すると思っていたタバスコであるが、旧東欧のプラハなどでは輸入品だから高級品である。

たぶん、商品管理のマネジャーが「辛いもの嫌い」で、撤去したのではないか。
タバスコの恨みはあの世まで。

ウイーン時代の古い友人の栗田はどうしているであろう。いきなり、そばに寄ってきて、「あのチョートクさん、十円玉をさあ、タバスコで磨くとぴっかぴっかになるでしょう、、、」というのである。

場所はウイーンであるから、栗田君は青少年時代の名古屋でそのような経験をしたのであろう。そのぴっかぴっかに磨かれた10円はもとよりその価値が上がるわけではない。

そこをあえてやるのが、栗田のアーチストたる要素である。彼は「油」を習得しに、ウイーンにきた。同時代のピアニストで、ちょっと感覚のずれた天才の女性がいて、「栗田くんは何をやってるの?」の答えは「油だ!」であった。

「えっ!油屋さん、、、!」と、変な結末になった。その当時、お金がなかったので、タバスコを買いにゆくのは、一大決心が必要であった。

そういう決心をして買う方がタバスコはその辛さが増すようである。

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なお、本日の「遊行予定」。幕張メッセで22日まで開催中の、Inter BEE 2007の初日を見学。駒村商会はコマ番号5507。最新の放送機材を視て一日遊んで来よう。

駒村の扱いのGLIDECAMと、CENTURYのレンズがお目当て。

2007年11月19日 (月)

11.18東京大周遊

R1143647 朝、板橋は大原の浜出屋の増山の修ちゃんが、今朝、亡くなったとお嬢さんからメール。

高校時代、電車通学で、都電の中から見ていた焼鳥屋である。大きくなったらこういう店に入る大人になろう、、、と思っていたのだ。
実際に浜出屋さんに行ったのは、1980年にウイーンから戻って、その後の1年のニューヨークもあったが、それでも四半世紀以上は行っている。10年来、ガンと闘った人。明るい人。ちょっと堅物な人。しかもスポーツマンで、同時にカメラのことも詳しい。
無論、お膝元のトプコンファンでもあった。
最後に会ったのは(お店に行ったのは)この夏であったか、、、、、

何時、幽冥境を異にしても不思議ではないから、浜出屋さんに行って修ちゃんに会うと、これが何時も最後と思っていた。

そういう次第が何度も繰り返され、修ちゃんに会うことは即、自分が生きている時間であることを感じていたのだが、もう店の奥から修ちゃんが出てくることはない。

何かが完成されたというのか、人間の訃報はなにかが、清められた感じがするものだ。

通夜と葬儀は板橋は大原の真言宗「長徳寺」なのである。
その長徳寺で東京カメラクラブの撮影会をしたなあ。お子さん二人(おねえちゃんに、あんちゃん)がお店を継いでいるので、奥さんも安心であろう。

これからも、行くぞ!浜出屋!!

快晴の日曜にひかれて(という言い方はトリックである。天候の悪い方が撮影欲がわくものだ)
撮影行。
カメラは銀塩部門はM3のブンデスアイゲンツム。
オリーブ塗色の西ドイツの軍用ライカ。それにニッコール21ミリ。デジカメは例によって、GRD-2。

最初、有楽町に出て、ビックカメラで登場して1週間のα700のデモ機を見る。α100と比較してそれほど大きいという感じはしない。それは脇にあったα100と最初は区別がつかなかったからだ。時間が時間(日曜の午前)なので、デモ機(7台確認)には2−3人の人がついている、という感じだ。操作はやはりかなり速い。α100が値崩れしたら買おうと思っていたが、実際に手にしてみると(発表会の時には実機に触ってもあまり感想はなかったので)買うとしたらこれであろうな。

ただし、7台のデモ機のうち、2台はすでにバッテリーが上がっているのか、操作不能だった。「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」でも書いたが、量販店でバッテリー切れとか操作不能のデモ機というのは、あれは展示しないよりも始末が悪い。

アキバでヨドバシのα700を見る。こっちは確認したら8台のデモ機あり。こちらのバッテリー切れは空腹のため、未確認。

8Fの西安にて、麻辛面。今日は日曜なので、平日より150円高の850円だ。お店は満員。

R1144071 JRにて田端駅南口。来週の日曜に福田和也さんと、en-TAXI関係の撮影遊行があるので、ロケハン。

この不動坂は、JRの駅からいきなり石段になるという意味では、相当に凄い。

リスボンのロッシオの駅の裏手が急が台地でそこから急な石段でバイロアルトに続いてゆく傾斜地を連想させるのが常である。

数年ぶりの田端は変わったところと変わらないところと半々だ。
七曲がり八折れの細い道を高級車が縁石に乗り上げないように、ゆっくり走行してその先の巨木の下の廃屋をゆっくり曲がるとその先にタイル貼りの今風のマンションがあったりする。

田端文士村と言うらしいが、足穂は一度だけそれがどういう理由か分からないが、「第三半球物語」を誉めた葉書が芥川から来たので、田端に芥川を訪問している。これが足穂と芥川の一回きりの会談であった。

不動坂の前で向こうから来た自転車の青年がすれ違いざま{こんにちは!」と言った。ライカで撮影中にマフラーを落としたことに気が付いたので、それを知らせてくれたのだと思って、「どうもありがとうございます」と自分は答えたが、後で冷静に考え直せば、マフラーを落としたのを自転車青年が気が付いたのなら、「おとしましたよ!」である。
「こんにちは」ではないはずだ。知り合いの顔ではないから、読者さんか?

日暮里の切り通しを下って、また急な石段を登って、道灌山に至る。
東京のダイナミックな景観は、この田端から日暮里にかけて、高台から下を見下ろす快感にある。自分は何時もこの高台を歩行ししつ、ここはリスボンでその先の開けた空間はテージョ河
であるという、風景の読み違いをして遊んでいるのだ。

この前、リスボンのアルファマを歩行しているときに、その逆の遊びをしようと思って、「ここは田端の高台でその先に広がっているのは、尾久、荒川である」と思い込もうとしたけど、うまく行かなかった。なにかの暗示に関する、重要な要素がそこに欠けているのであろう。

道灌山の高台の神社の参道はそのままJRの線路のしたを通過して、西日暮里の駅に抜ける。
京成とJRの踏切を越えて、日暮里駅前。

つい、この間、ここが再開発で駄菓子屋横町が閉鎖されたと思ったら、もう3年は経過したのか。駄菓子屋となりのモダンなビルの1fで営業している。
「植田のあんこだま」の「大」を買う。相変わらずその値600円にして廉価。

うぐいす谷まで歩行する。子規庵の前を通過する。笹の雪の古い建物はまさに路地裏の古い豆腐やのファサードである。
R1144130 東日暮里4丁目の木村伊兵衛旧居はどうなったか、、、10年ぶりに調査に行く。

その10年前、ここに来た時には木村邸の地所は完全に更地になっていた。それを「季刊クラシックカメラ」の創刊号で撮影した。その翌週かに、父が他界したのであったな。

10年が経過した木村邸はすでに古色を帯びている。日本の建築はその古び方が激しいのは、モンスーンのせいであろうか。
最期に木村さんが撮影した作品は2階の居室から、向かいの理髪所の縦位置のカットであったが、そこは今は駐車場になっていた。木村名人の存在した空間にちょっとだけ立ち入れるわけである。

木村名人がライカを構えて撮影した、お向かいの床屋さんもすでに新しいビルで営業している。思えば、33年が経過しているのだから、当然か。

徒歩、下谷から入谷に抜けて、そこから地鉄にて広小路。広池でかじき、えび、つぶなど求めて、大江戸線にて佃。

2007年11月18日 (日)

銀座三共カメラで「くまくま」に遭遇

R1144035 先週、レモン社で購入したライカM2-Mを三共カメラで調整してもらうので、(購入時にRFのずれと、モーターのタイミングのずれは承知で買ったもの)久しぶりに銀座に出た。
その気分は三共カメラの店長であって、日大の写真学科の同級生の秋沢君に会おうという気持ちもあったのだ。

店に行ったら、秋沢君はなんでも共同通信の同窓会というか、古い仲間の集まりで、谷川岳に行っているという。これは危ないなあ、、、と思ったのは、自分のような旧人類は谷川岳というと、すぐに遭難のことを連想するからである。
聞けば、最近は道路が整備されてかなり上までクルマで行けるらしい。谷川岳で飲み会があるらしい。

10月31日のパリ=セントレア飛行の時、その谷川岳とか穂高とかそういう有名な日本の名山を見ようと思ったのだけど、航空地図にはその記載がないので、どれも「極東の名も知らぬ凄い山岳」という印象しかなかったのは、数日前に書いた。

三共カメラ三原橋店で雑談していたら、いきなり「くまくま」が来たのである。
くまくまとは本名ではないのであって、立派な社会人なのであるが最後に合ったのは、10年前であろう。
アルパ研究会に来て、当時はじゃんけんで、オークションの勝敗が決まっていたのであるが、くまくま君はそれが強くて、良い品物を独り占めしていた記憶がある。

アルパ研究会は、銀行ではないから、本人確認などしやしない。それでくまくまが本名であろとなかろうとそれは関係ない。

あたしが「たしか、くまくまさんは、NECの、、」と言ったら「いえ、ぼくの仕事は大学関係です、、」と言い出した。そうではない、くまくまの使っていたPCが98ノートであったということを言いたかったのである。

それで、くまくまが何をやっている人であるかは、カメラ人類同志では、そんな「下世話な話題」は出す必要がなくて、単にカメラの話で楽しめれば良いわけだ。

彼がオートニッコールテレフォトズームの200ー600ミリ(ただしレンズの長い方の旧型で、こっちの方がかっこいい)を、アルパ研究会のオークションで手に入れてにこにこしていたのが記憶に残る。これが10年前なのだ。

三共カメラに登場のくまくまは、なんとニコンF3にスピードマグニーを付けて、ニッコールの15ミリ持参なので、偉い!と、誉めた。座布団3枚あげたい気分だ。

スピードマグニーは、まだデジカメの登場するずっと以前に、一眼レフのバックにポラロイドの巨大なバックをつけて、画像をそのままポラに転送するのである。それをそのまま、電送写真のマシンに貼り付けて、ニュース現場の最前線から、送稿するとい鉄火肌のプロのマシンであった。今のように、インターネットで世界のどこにでも画像が送稿できる時代になってしまったから、満たされ過ぎて「野生」がしぼんでいるわけだ。

スピードマグニーは、その光学的なユニットの光線の曲がる所が、中学時代の教室のだるまストーブの煙突の屈曲部のそれである。

思わず、ポラロイドのバックの部分で、冷えたお弁当を暖めたくなるような格好をしている。このデザインには今のような、電子式の画像伝達にはない、一種の工業デザインのダイナミズムがある。

その格好はなにか、水道工事の人の持っている工具のようでもあり、はたまた、配管工さんのようでもある。
デジカメは持っているの?と、くまくまに聞いたら、一切持っていないそうだ。
これは尊敬に値する。

デジカメオヤジがフルサイズのデジタル一眼レフを弄んでやれ、階調だとか、色空間がどうの、リアスタイムビューがこうのと言っている中で、くまくまは、30年前の最前線の報道写真家ごっこをしているのだ。
その意気に惚れた。これで脚立を持ってれば完璧だ。

R1144036 他の銀塩カメラは何かとの質問に対して、彼が自己申告したのが、ライカM2-M(塗り直し)である。

これは276台しかないから、世界中で、M2-Mブラザーズが結成できそうだ。世界中で276人しか居ないライカセレブっていうか、ライカ変人団。
もともと、M2-Mにはクローム仕上げしかないのである。

そこで、今、三共さんに修理にあずけたばかりのM2-Mを出してきて、そのモーターをくまくまのM2--Mに着せ替えをして、遊んだ。
正に銀塩カメラのカーニバルであった。

なんでも、今日はこれからニコン研究会の日なのだそうだ。
それに感染したのか銀塩カメラの血中濃度が一気にあがって、スキヤカメラと、レモン社をはしごして、それからヒルズの49F。

そこで、ようやく正常になって、GRD2で午後の東京の空など撮影。

ヒルズではPCには触らないようにして、読書。
久しぶりに楽しい土曜日だった。(小学生の日記風)

2007年11月17日 (土)

11.16東京大周遊

R1143726_2 月曜から木曜まで、しっかり仕事したので昨日は、しっかり東京大周遊をしようと数日前から計画していた。朝は曇り。後に回復。
街を「遊行」して、撮影して、ついでにそこらの児童公園などでポケットから撮りだしたメモ帳に本のプロットなどをひねくるのが好きである。

それで昨日の行動。
まず、町屋に行こうとして有楽町線で日比谷乗り替えで、千代田線で町屋と思っていたら、なんでも停電とかで有楽町線は不通。最近、こういう事故はやたら多い。この前はプラハに行っていた時だけど、大江戸線が始発に電源スイッチを入れ忘れという事故があった。
地下鉄にも電源スイッチがあるものか、、、と驚いた。

仕方なく大江戸線にて町屋方面というので、まずは本郷3丁目で降りた。歩道に出たら、目の前を見覚えのある人物が首からGX100を下げて歩いている。以前、朝日カルチャーセンターの自分の講座に参加した、渋谷在住の青年であった。

渋谷青年というと、いかにも渋カジめいているが、渋谷青年とは独歩時代の渋谷青年の意味である。
渋谷青年の話では本郷の名代の和菓子屋に「きみしぐれ」を買いに行ったらその店は閉店なので、交番で聞いて(ここが若い人は無邪気でよい)他の店で同等品をかってもどる途中だと言う。

自分は今度出す、「GRD-1ワークショップ」(えい出版)の中のグラビアでモノクロの1折りを撮影するので、今しもモードをカラーからモノクロに切り替えた所であった。
ついでに渋谷青年を本郷撮影ワークショップに誘った。

渋谷青年は驚くべきことを口にした。
なんでも樋口一葉の遠い親戚筋にあたるそうで、一葉の日記にでてくる伯父さんというのが、渋谷青年の先祖関係なのだそうだ。
自分は昨日、ヒルズのライブラリで、一葉が本郷を引き払って、浅草の陋巷で雑貨屋(ちに駄菓子屋)を開業したくだりを読んでいたから、その偶然に吃驚したが、人間の時間軸というのは案外なものである。

卑近な例で言えば、家人は堀口大学の遠い親戚筋なのであるが、その話を結婚当初に聞いた時にはやはり驚いた。大学の一連の翻訳は愛読していたからだ。大学と一葉ではクラスに差がありすぎるけど、そういう縁故の渋谷青年と一葉の旧跡を歩行するのは、なにか一種のカルチャーセンターめいている。

いただけないのは、渋谷青年は撮影中にGX100のバッテリーがダウンしてしまったことだ。渋谷青年はこの前、開催されたギャラリーPUNMCYUMでのグループ展などで、8x10の大型カメラで撮影した作品を発表して、意気軒昂であったのだけど、デジカメのバッテリーがきれるとは情けない。
それで、例の三階建ての下宿のあたりでは、自分の持っているGRD2のバッテリーを外して渋谷青年に与えた。これ、バッテリーの神の愛である。

その撮影の様子はhttp://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/blog/にある。

3つ目の画像は、下のコラムで書いてるけど、尻のポケットからGRD2を出し入れするショットである。これを第三者が撮影してくれるとは思ってもいなかった。貴重な資料である。自分では撮影不可能。昨日はGRD2とミノックスだけであったから、空手である。これで路地裏調査に出掛けると、徘徊老人か下駄どろぼうに間違えられる。すなわち職質の対象になる。それでその不愉快を避ける為にライカを1台ぶら下げる。そうすると還暦老人の東京散策になる。その意味でやはりライカは大切だ。なにか断腸亭が巡査に不審尋問された時の用意に、印鑑証明を持って歩いていたのを思いだした。

それから渋谷青年と左右に分かれた。
本郷通りで、荒川土手行きのバスがあるのに気が付いて、それに乗ったのが12時41分。これは1時間に3本ほどのローカルで、東京駅発なのである。
荒川と隅田川の屈曲部をうねうねと走行して、小台あたりでは目の回るような曲芸を見せてくれるバスだ。
江北橋の東詰が、操車場になっていてそこで今度はバスを乗り換えて、西新井駅に向かう。
バスを西新井大師前で捨てた。

大師駅に向かう、昔ながらの青ペントタン屋根の3軒長屋で、その前の割栗の砂利道に雨が降れば、そこに大きな水溜まりのできる、西新井のメランコリー小路はすでに破壊されて、14階だけのマンションの基礎工事中である。
R1143848 これは、ひょっとして日本路地裏学会が「史跡記念物」に指定した「寂び王」ももう存在しないのでは、と、現場に駆けて行った。これはまだそのままであったので、ほっとする。
界隈を漫歩。1年半ぶりに、キッチン「ラッキー」に行く。かきふらい定食の味よし。900円。

関原2丁目の時雨れた感じの小さな、理髪店はすでに更地になっていた。
万国旗はためく、無人の関原商店街を歩行する。
晩秋の夕方の日射しがなんとも感じる。関原商店街のマスコットは「ごんた」という、ライトグリーンのなんとかザウルスである。その「ごんた祭り」が開催中で、明日は大抽選会があることを、有線放送が延々と、話している。

その為に、その関原商店街を歩行している間に、そのごんた祭りの内容で「洗脳」されてしまった、

関原書店街に浅田書店(そう、浅田恵理子はどうなったであろうか)はこの界隈で唯一の本やである。ここも店の正面に模造紙にマジックでなぐり書きしたような「ホームレス中学生」のポスター文字。まるで政府が中学生のホームレス化を推奨しているような感じを受ける。
関原からさらに東に歩行して、工場前の鋳鉄製の戦前の防火用水を撮影。よく供出されたかったものと改めて不思議がる。
都バスの「赤不動」から、浅草行のバスをとらえる。
荒川を渡って、町屋で降りる。
町屋の陋巷を撮影。

方向を転して荒川線で三ノ輪。
界隈を徘徊。
亀戸行きのバスにて、涙橋。例の町工場の鉄さび看板を撮影。徒歩、大林に至る。あわもり1.さしみ1、やきのり1、日本盛1、会計1540円。
徒歩、金太耬すし。1,5人前ふたつ。会計1500円。ここの鮨は数寄屋橋次郎の1/10以下の値段で、味よし。
都バスで浅草を歴て、蔵前、大江戸線で佃に帰来。
歩行数は2万余歩。GRD-2での撮影は3:2のFで500カットほど。

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R1144022 後で記す。渋谷青年が昨日撮影してくれた、あたしのGRDの構えで気が付いた。

常にストラップはつけないのが「流儀」であるが、こうして見ると指でカメラの各面を押さえて安定させている。なにか印を結んでいるように見えるのが愉快だ。R1144023

2007年11月16日 (金)

KCチョートクカメラコラム169回

★銀塩クラシックカメラ

ミノックスで「空撃ち」してしまった。

普段はコンパクトデジカメがGパンの尻ポケットで、前のポケットには、佃とヒルズ、それと土浦の暗室の鍵が入っている。それと万歩計。もう一方にはミノックスが入っている。尻ポケットの反対の方には、300円ショップで買った、やけに派手な定期入れが入っており、数枚の紙幣と数枚のカード。

これで普通は生活しているのだけど、外国に居る時にはその他にパスポートのコピーを入れている。本物は紛失が面倒なのでホテルとかプラハのアトリエに置いておく。

いざという時に、このミノックスが活躍することは案外にある。出掛けたらSDカードを忘れてしまい、GRDの内蔵のメモリも使い切ったという場合には、ミノックスは必須だ。
市販のミノックスフィルムは現在では、15枚撮りと30枚撮りがある。もともとは50枚撮りなのである。今のフィルムは15枚でも30枚でも価格はほとんど変わらないので、30枚撮りをまとめて箱で買った。フジカラーネガで感度は400だ。

他にも以前、ノックスフォトサービスで買った、「35ミリからミノックスサイズを切り出す」という道具がある。これは1本のフィルムから6本以上の50枚撮りのミノックスフィルムが切り出せる。ただし若干の訓練が必要だ。

ミノックスで撮影したフィルムはスキャンではなく、プリントして楽しむということにしている。アクセサリーとして、双眼鏡アダプターがある。これを付けるといきなり超望遠レンズになる。もっとも画面はちょっとけられるけど、それはそれで「風情」がある。

ミノックスはCIAも愛用のカメラであったが、最近、その一大欠点に気が付いた。普段携帯しているのは、2台のミノックスAだ。同じような中古なので、ほとんど見分けが付かない。それで、ボデイのマット部分にAとBという文字を鉛筆で書いておく。それと常にフィルムは装填しておく、、、、筈であった。

一昨日のことだが、30枚を撮影し終えて、さてカセットを取り出す時に驚いた。中にカセットなど入っていないのである。ようするに、空のミノックスを先月はプラハに持参して、それで撮影した気になっていたわけだ。フィルムが入っていなかったのだから、これでは何も写るわけがない。

欠点は、ミノックスのフィルム巻き上げはあまりにスムースであるという点だ。空の時と、装填時でそのフリクションはほとんど変わらない。常に使っているのなら、そのことに気が付くのだけど、たまに使うからそれを見過ごす。しかもライカなら、巻き戻しノブでフィルムの進行が確認できるけど、ミノックスはそれはない。

これからは空撃ちには充分に注意しよう。


★久しぶりにGRD2を手にして思いだしたこと

GRDシリーズはこれで3年目に突入である。デジタルカメラの命は短くて、、、というのが常識の中で、足かけ3年というのは、これはやはり大したことであると思う。

今度、えい出版から「GRD2ワークショップ」(仮題)を出すことになった。最初のシリーズが良く売れているので、その続編だ。今度はリコーの姉妹機のGX100、R7、それと工事記録用のデジカメも取りあげて、「ベストリコーデジカメは何か?」みたいな展開にしようと思う。

と、言うのも、リコーのコンデジシリーズは、面白いことになっていて、高いほど機能が少ないというわけだ。R7はブレ防止もお顔綺麗モードも7倍ズームも付いている。最高級のGRD2にはそういうのは一切なし。

これを問題視されて、リコーの営業さんなどは販売店さんに食いつかれるのだそうだ。それで私は言ったのである。

「そんなことで気弱になってはいけない。高いから何も付いていないのだとお言いなさい。カスタムナイフの凄い高いのは、それ自体がブランドです。シャープな刃がついているだけ。GRDもシャープなレンズが付いているだけ。そういうシンプルなモノでないと、別嬪は惚れません。一芸に秀でるから、別嬪は惚れる。万能選手では駄目です。

GRDもそれと同じです。安物の十徳ナイフには、爪切りと虫めがねと、物差しと栓抜きと、耳かきと缶切りと、ドライバー磁石と、時計と楊枝と、それから他にも、携帯電話とか、コンパクトデジカメとか、そんな余分なモノまで、色々ついているかも知れないが、それは実は魅力に乏しい。それで肝心のナイフの刃はなまくらであったりする。

なんでも出来るのは、安物であって、撮影しか出来ないのが本物です。昔のライカM3を御覧なさい。と言ったのだ。

もっとも20代のセールスの人はライカM3の時代など知らないから、きょとんとした顔をした。

この半年ほど前から、GRDは使うのは止めにして、GX100を使っていた。3月前からそれも止めにして、キャプリオR7を使っていた。これはズームがあるから楽が出来て便利なのである。

しかし、GR1時代からこれを愛用している、自分としては「初心」にもどるというか、「原点」にもどって、GR時代のあの感覚をもう一度体験しようと思った。

便利、便利なコンデジをつかって いると「堕落」するのではないか。「デジカメ堕落論」である。

それでそのつもりでGRD2を使ってみると、これはやはり撮影の身体性というか、ふるえる視神経に反応してくれるカメラなのである。
お顔綺麗モードがないとか、ブレ防止がどうのとか、そういうことはもはや一切、気にならない。

レンズは超シャープで、歪みのない優秀レンズであることも思いだした。
リコーの関係の人は、GRD2の特徴の幾つかを、例えば、水準器がついたとか、ノイズが少なくなったとか、RAWモードがどうのこうの、と色々と言ってくれるのは有り難い。

ただ、それは性能面で見たGRD2の話であって、自分の場合はポケットから取りだした時の、あのざらざら感覚とか手のひらの中で、自分の体温で暖められている、ボデイの感覚が好ましいのだ。

性能第一主義では本当の所は分からない。人間をIQで分類するほど、愚かなことはないのと同様である。

プラハのカフェのメニュー

R1143071 プラハ旧市街の最近出来たカフェに滞在中は良く出掛けた。自分のプラハの30年の歴史はその実、カフェの歴史である。

社会主義国時代のプラハのカフェは行く場所は2つしかなかった。

国立映画大学の脇のカフェスラビアは、ナショナルシアターと向かい合っていて、その反対側はモルダウという理想的な環境だ。

スデクはこの角からパノラマで名作をものしている。

毎週、あれは何曜日だかそれは忘れたけど「ご婦人の日」というのがあって、広大なカフェの一角は着飾った淑女で満杯だった、これはもともとウイーンとか(つまりその一角であるプラハも当然含まれる)ドイツの古き習慣なのである。

何時であったか、大聖堂を目の前にした広大なカフェ、それはウルムであったか、ダルムシュッタットであったかはっきり思い出せないのだけど、カフェの2階のコーナーはそういうご婦人連の席であった。

もう一つの革命前の行きつけのカフェは、今言った、カフェスラビアがプラハの新市街のカフェとするなら、モルダウ左岸の、マロストランスカにある同名のカフェがあげられよう。このカフェはバロック教会の一部をなしているように見える建築構造の特色を持つのだが、ここにもよく通った。

雪の日の午後など目の前の広場には絶えて人影はなく、時々路面電車がやってくるばかり。降りしきる雪をただ見ているという時間があって、そういう時、自分は今、ここで何をしているのであろうと思った。それは感激というのではなく、人生の皮肉の時間をただただ過ごしているという快感があった。

革命後、すでに20年近くが経過していることをすっかり忘れている自分はやはりプラハの昔の人類なのである。

そういう旧プラハ人類のたまり場であったカフェはスラビアには、もう自分の席のないのは分かるし、モルダウの左岸のカフェマロストランスカの方は、HIS観光団の来るような、ツーリストレストランになってしまったからもう行く機はしない。

例のプラハの400年ぶりだったか、あの洪水の前の年に、カレル橋のかたほとりに格好なカフェを発見した。これは大発見と言ってよかった。仲間うちではそのカフェをランドリーカフェと呼んでいる。細い小路の中程にあった。

ここは本当の洗濯屋であって、客が仕上がりを待つ間に店の反対の空きスペースでカフェかピヴォ(ビール)で時間を潰すという店である。

ただし大洪水の後、ずっと店を閉めていて、再度開店したのは2年前であった。

上のメニューはそれとは無関係な、旧市街のど真ん中の「文学カフェ」である。文学カフェとは口に出すのも恥ずかしいけど、そのカフェはそう「標榜」しているのである。

この店は一見行き止まりに見える小路の奥にある。毎日、日替わりでランチを食わせてくれる有り難い生活の場である。

リコーR7で遊んでいたら、メニューの中に書類の歪みをとるモードのあることに気が付いた。それでおもいきり意地悪をして斜めから撮影したのに、それを補正したら、下のように完全な複写みたいに写っている。

吃驚した。最近のデジカメの万能がちょっと怖くなった。

R1143072

昨日の行動。 12時にアサヒカメラ新年号の新春吉例カメラじゃんけん。坂崎偽ライカ王子と対戦。手加減なしの真剣勝負。 画像は対戦前に、談笑するファイテイング坂崎選手。 持っているのはGRD.こっちはGRD2にて応戦。坂崎さんは明日から夜走りにて四国、広島方面の日本大周遊。 延々、3時間半の「死闘」が終了して坂崎さんはナックファイブの収録で虎ノ門。 反省会をかねて、アサヒカメラの野本さんとタワーの1fの「純testing bar」にて一杯。オリーブを数粒。 R1143660

2007年11月15日 (木)

日本郵船の広告掲載の機内誌9種類

この間、R1143626仕事の打ち合わせで博報堂の紳士と淑女がヒルズに午後遅くに来場。

この夏の撮影の、上海の日本郵船の広告、これは世界の機内誌9誌(実際にはもっとあるらしい)に掲載されたのを持って来てきれたのである。

他に数種類のポスターも持って来てくれた。こういうのは嬉しい。

飛行機の中の時間というのは、面白いものでそこで配布される機内誌をすみから隅までまで読むというのは、珍らしいことではない。

自分の場合はちょっと変わった飛行機マニアであるから、それぞれの航空会社の経路図をじっくり観察する。それも観念的な路線図(たとえばAFとかUA)のようなのではなく、ちゃんと大圏コースで表示されているのが好きだ。それと機内誌の広告もじっくり観察する。地上での時間というのは日常の領域であるから、そういう形で印刷物を観るという時間はないし、習慣もない。

ところが「空のうえ」(という名前の機内誌があるのは、どこであったっけ)は状況が変わって、普段と異なるパターンのようである。自分の場合、飛行中にあの低俗なエンターテイメントである機内映画は視ないことにしているのは、これが父親の遺言である。

その代わりに飛行中のゲオビジョンを視て、同時に持参のジエップセン航空地図で飛行航路をトラッキングして、時にはキャプテンに本日の機体の離陸重量を聞くこともある。ジエプセンのチャートの最大の欠点は、今、眼下に見える山の名前がわからないことだ。ペイロットにとっては、山などは墜落してから捜索隊がその名前を調べればよいことであって、飛行には無関係なのである。サンテクジュペリが不完全な郵便機で荒れる海の上を飛行中の感想が「自分は海を見て虚妄の安心を感じる。なぜなら僕らは海に降りるように作られていないからだ。海は自分と無関係なのだ」という意味のことを言ってるのも、これに近い。

地上の名山、海の景勝の名称のわからないこと。

それが不満だったが、この前、ANAの中園機長の話をアカデミーヒルズで聞く機会があって、キャプテンでもそのことが不満だというのが面白かった。この前のパリ=セントレアの飛行のハイライトは日本アルプスの快晴の空を飛んだのであるが、山の名前がわからないのが残念だった。中園キャプテンはそのために、中学の日本地理の地図帳を持参するそうだ。なるほどねえ、、、。

機内誌の話。自分の撮影した画像が印刷されて世界中で、ことなる時差のもと、この瞬間にも高度1万メートルで見られていると思うのは、これはその媒体が印刷物であるから、そのリアル感覚がより強まるのであろう。

一方でこれがオンラインのこのブログが別の時間帯でバブルフィッシュで翻訳されて読まれていると思うのは、あまりリアリテイがない。(実際にマンハッタンでそういう読み方をしているニューヨーカーが居るのである)

機内誌というのは好きである。20年前にはJALとか ANAとかの機内誌の仕事をした。普通はその航空会社のデイステイネーションの都会を特集するのが常識である。

ところが例外としてあれは四半世紀前にウイーンのトラフックライトを争って、JALとANAが競争していたとき、JALの機内誌で「ウイーン」の大特集をやったことがある。

その取材で、普段ゆかないような、場所、つまり市長に会ったり、ウイーン少年合唱団の寄宿舎を訪問したり、アウガルテンポルツエランのできるまでを撮ったり、エルンスト・フックスに会ったりした。それはそれで愉快な経験だった。

そころが結局、この競争はANAの勝利に終わった。それからしばらくして、ANAの最初のフライトでウイーンに行った。何の取材か記憶にはないが、機材はオーストリア航空のエアバスだった。当時、オーストリア航空はA300をインターコンチネンタル用に3機もっていた。その名前が東京、ニューヨーク、パリなのも懐かしい。

なにかの具合で、成田ーモスクワーウイーンのFに乗ったのが上の最初のフライトであった。Fはお客は自分一人だったので、アテンダントさんと友達になった。そのSさんは話によると、双子の妹さんでお姉さんはJALのアテンダントさん。これでもかなり面白い話だが、姉妹はお互いに相手の航空会社の試験を受けて、落第しているというのだ。

こういうのは並の放送作家さんではちょっと書けない筋である。妹さんの結婚式にも呼ばれたりしたのであって、お二人はすでに引退してかなりになるが、彼女らの実家が葛飾のお花茶屋なのである。

自分の葛飾情話の発端はここらから始まったわけだ。

航空地図は最近は紙に印刷された地図ではなく、将来は電子式の地図になって、ジェプセンの地図もデイスプレーになるらしい。この間のセントレア=パリの飛行でそのことをアテンダントさんを通じて、機長に聞いてもらった。まだboeing 777-200でも電子式の航空地図は2機しか実装されていない。

これが答えだった。

やはり航空地図も機内誌も紙に印刷したのがよい。

昨日の行動。
午前11時前にヒルズ。12時、アスキー出版の本多さん来。打ち合わせ。
R1143658 夕刻、タワーの下でこの7月から開店しているカフェであるが、宝酒造のキャンペーンを19日まで展開している。「純teasting bar」と言うのである。
これは通過できない。すなわち、入店する。

こういうヒルズの最前線で「焼酎の量り売り」をするのだから、斉藤緑雨もびっくりするであろう。浅草裏みたいだ。

つまり、自分の行きつけの、清澄通りの越後屋とか、山谷の立ち飲みの酒屋は、そのままヒルズのこのバーと同様なステータスを獲得するわけだ。

つまみのオリーブは山盛りであって、500円。マンハッタンのバーを思いだした。つまり「全部食べる必要」など最初からないわけである。そのオリーブの味はなかなかであって、向こうのバーでこれを喰っていたことを思いだし、その連想で42丁目の夕刻の雑踏などを思いだした。

ヒルズの下のカフェは初回であったが、恐ろしいもので向こうのバーのつもりであるから、20ドル札を最初にポケットに探った。そんなのはある筈がないから、5000円札のしわを伸ばして用意した。
そういう場所はキャッシュオンデリバリというのが身に染みているからだが、ケルナーサービスなので、ちょっと面食らった。

実はもう少し気の利いた酒があると良いのに、、と思って、その考えを即座に改めた。ようするに、「純」しかないのである。70年代のワルシャワみたいだ。一種の物資のない時代の社会主義感覚がそこに感じられて、それがちょっと快適なのである。
また明日も寄ってみよう。

2007年11月14日 (水)

ライカ愛好会、路地裏を行く

R1143608カルチャーセンターというものがある。四半世紀前、朝日カルチャーセンターで「北千住を撮る」というのをやった。
当時の北千住はまさしく極東の隠された街という感じがして、面白かった。旗をかついて路地裏を歩いた。

昨年から、東急BEと称するカルチャーセンターで「ライカ愛好会」というのを開講した。

ライカは知られていないブランドである。アルマーニのトップが来日すれば、ニュースになるが、この前のライカのトップの来日はヒルズにコーヒーを飲みに来ただけで、ニュースにはならない。静かなものである。

「そこがつけめです!」と自分はライカ愛好会の面々に言った。
「エルメスでもアルマーニでもヴィトンでも、100パーセントの人の知っているブランドは通俗的なものです。
ライカはおそらく大人の人口で1パーセントくらいの知名度しかないと思う。だから、そこで遊ぶのは本物のおとなのブランド志向。皆さん、実にお目がたかい、、、」
これなどは自分みたいな、現代の「カメラ幇間」(カメラメカライターとも言う)の言いそうなことだが、その実、真実だ。

ライカ愛好会の基本方針は「この講座を受けて写真の腕がうまくなろうと思わないこと」に尽きる。
普通のカルチャー講座は「写真の上達が目的」である。

今まで、自分の指導した講座もそうだった。しかし、これは昔から信念としているのだけど、もともと「写真というのは、教育できるものではない」これが自分の写真の教育基本法なのである。
だいたい、写真に上達しようという発想がよくない。写真は楽しむものであって上達するのは俗な考えである。

それでライカ愛好会はライカは愛好するけど、方針として写真が下手になったらそれが万万歳という不思議な講座だ。
それに少数精鋭方針。

主催者側にしてみれば、50人も受講者が居て、複式授業一歩手前のような、賑わいというか混雑が理想ではあろうが、講師側としては2畳の茶室に入れるほど。3人から5人が良い。
そのまま、裏通りの飲み屋に入って(そういうことはしない建前だが)席がとれるくらいの人数がライカゲリラには好適な一個小隊である。ライカゲバラだ。

それで、先週の日曜には佃界隈を徘徊して遊んだ。
一昨年の夏だったか、同じ界隈で女子ライカ部のゆかたを着て下町を撮影するというイヴェントもあったな。ライカ菩薩は神出鬼没。示現自在である。

昨日(13日)の行動。

資料探しで、午前中はずっと佃。例の「チョートクのぼくのカメラたち」は1000ページの厚い本である。これが必要になって、あっちこっち捜索。実は3年ほど前に、大阪の古本屋からこれを買ったのだ。その本はしっかり西日が当たっていた環境で良い具合に表紙が「ようかん色」になっている。

読者の人の生活が見えるようで良い感じだ。ところがそれを買った後、自分の保管用の同じ本が3冊出てきた。デッドストックである。それを見本として某所に送るのであまり「日焼け」した本は送りたくないのだけど、その「ハワイ帰り」の1冊しか発見できなかった。

これを送ることでよし、として発送。

朝刊で元NEC社長の関本忠弘氏の訃報に接する。大昔、雑誌の表紙の撮影で三田の本社でお目にかかったことあり。たしか、持参のカメラはハッセルではなく、そのロシアコピーのサリュートであった。あんなカメラで表紙を撮影していたのだから、自分も良い度胸だった。

それから3年後に、たまたまパリ行きのJALで私がマイレージのFクラスの客であったとき、関本さんはその前の席だった。こういう実業家の行動は自然と目にはいるものだ。

新鮮だったのは、関本さんはギャレーでずっと新聞を読んでいたことだ。それもかなり長い時間であった。ただの新聞ではない。新聞に挟み込んだチラシであったのだ。

普通、機内の新聞ではチラシは新聞には挟んでないから、これはご自身が持参されたのかも知れない。へえ、こういう偉い人は「普通の庶民の買い物状況」にも目を配っているのか、、、と思った。

午後2時、えい出版のカメラマガジンの清水編集長。次ぎのムックの内容の打ち合わせ。

午後4時半、扶桑社の雑誌en-Taxiの田中副編集長。打ち合わせ。
福田和也さんが最近ライカにはまっているらしい。ライカD3持って神戸などに行っている。戦前のライカを使うなど、なかなか出来るな、、、その関係の打ち合わせ。

en-Taxiすなわち、円タクだけど「東京の昔」で吉田健一が飲みに行く時に、円タクを使って冬でもそこには暖房ははいってなくて、それが遠方に酒を飲みに行く記憶の一部となっていた、という一節を思いだした。

そのことを田中さんと話つつ、つい最近、そのことを戦前に実際に経験した紳士と会話して、この円タクに暖房なしの事実を確認したことを思いだした。

その会話の場所はよく記憶していて、ホテルニューオータニのなだ万なのである。しかし会話の相手は吉田健一であるはずはなく(吉田健一には1971年に銀座の英国屋の2fのソフィアというバーで会った。示し合わせたのではなく、そこがオペラの練習場になっていて、家人の練習が終わって、まだバーが開く前に常連としての吉田健一が登場したわけである)会話の相手は誰か分からなかった。

上の記憶喪失は、佃にもどってシャワーを浴びて、その会話の相手が竹田健一郎さんであることが自然と記憶にもどってきた。自分の前頭葉はまだまだ大丈夫か。

暖房のない円タクで佃から本郷か牛込あたりに飲みに行きたいものだ。

これが東京の失われたロマンであることは間違いはない。

打ち合わせの後、ヒルズのクラブで眼前の東京タワーを見つつ、エンタクシーの同人、リリー・フランキーさんの話になる。フランキーさんにはこれはクラブメンバーになってもらって、生東京タワーをここから見てもらうしかない、、、と、いう具合に盛り上がり、
クラブのデイレクターの笠原さんの案内で、田中さんとクラブの各セクションを見学した。

普段、クラブの中をホーボーすることはないから、これは実に参考になった。
昨年の改装以来の経験だ。

2007年11月13日 (火)

一見、普通のM2-Mですが、、、

R1143614 R1143615R1143634 ライカM2は、M3の普及モデルである。その小売価格は知らないけど、この2機種が現役時代に、その価格差は50ドルはしなかったのではないか。しかし1950年代後半の50ドルはやはり大金である。

画像のライカM2は、例の276台だけ生産されたライカM2−Mである。
電動式のライカモーターがついて1秒に3枚ほど撮影できる。
先週、銀座のレモン社で手に入れた。
12月号のアサヒカメラの連載で「降誕祭にライカを買う」というテーマで書いたのだが、筆者自身が最初に自家中毒してしまった格好だ。

この手のライカを最初に手に入れたのは25年ほど前だった。松屋の中古カメラ市で買った。

これはライカM2とあるだけで、M2−Mの刻印はなかった。おそらく、ニューヨークライツで改造してモーターを付けたのであろう。

ただし、このモーターは当時の最新技術ではあったであろうが、モーター付きのライカの高さはとんでもない高さになる。「ライカタワー」というところだが、テーブルの上に置いて、水割りを味わいつつ鑑賞するには最適だけど、実際の撮影には、でっかい、重いであって、まずスナップには使えない。

その次に買った(2台目)は、これもレモン社だった。ちょうど「海辺のカフカ」が流行して居た時代で、イスタンブールの海岸で、このライカにスイター50ミリで撮影した。

その次に買った(3台目)のは、これはリスボンの例の「見えないカメラ店」で買ったのである。ワイドローライと同時にロットで買ったので、実際にライカがいくらであったか、それは分からない。
今度は4台目のライカM2−Mというわけだ。

自分の場合、これが300台以下生産されたから、それに惹かれたので珍品であるというので、手に入れたのではない。

カメラの背部の PROPERTY OF US NAVY という刻印に惹かれたのである。それも逆さまに刻印されているところに「亜米利加の実用主義」を感じたわけだ。
さらに付け加えるなら、いったんダイヤモンドカッターで管理番号をひっかいた後で、それを消して、他の番号をひっかいている「おおらかさ」に惹かれた。

ライカM2−Mはモーターを装備して、135ミリのエルマリートなど付けると、これは空母上で艦載機の発着を撮影するには良いであろうが、これを下げて東京を20キロも歩行するにはまったく向いていない。
このカメラもおそらく、そのような使い方をされたのであろう。

昨日の行動。終日、ヒルズ。サウダーデ色の空。ツエッペリンを串刺しにする、東京タワー。カメラはキャプリオR7。

12時。リコーの紳士連お三方さま。午後4時。博報堂の紳士淑女2名様来。打ち合わせ。

http://www.airbus.com/en/aircraftfamilies/cabin_showroom/360_degrees_views/sia/airbusA380.htm

は、エアバスのツールーズにおける、SQへの380の引き渡しのセレモニーだ。この360度のビューというのは、どんなカメラで撮影するのだろう。

それぞれの参加者の表情が良く分かる。日本の知られた専門家の姿も見える。

そうそう、本日よりGRD-2の運用を開始。下のライカM2-Mと同様な仕事が出来るのに、こんなに小さいのはびっくり。

R1143621

2007年11月12日 (月)

ソニーの新聞広告

R1143601 日曜、朝刊のソニーの新聞広告が面白かった。

おっ!その手で来たかソニーという感じがした。

これは常套の広告ネタであるが、研究者が研究所を飛びだしてデジカメとビデオの実写に行って、色の再現性を研究するという筋書きである。

これは大昔からある「広告ネタ」だからそれ自身は今更驚くにはあたらない。

ただ、この方法がスマートだな、と思うのは、α700の広告展開を直球勝負でやらないということだ。

数ある、優秀なソニーの映像製品のうちの(しかもコピーで視ると最上級の)中のα700であるという展開である。そこが政治的だな。

以前の広告、あれはα100の当時、「あなたの一眼レフ、ブレ防止装置ついてますか?」というかなり驚愕コピーは忘れられない。わざと勉強不足を気取ったコピーだった。
「ソニーさん、そんな機構、どこのデジ一だって付いてますよ」と、答えたいようなこれは広告であった。

今度の全面はうちは他とちがうんだぞ、、、という意志がはっきり出ているので、日曜の朝にはこの全面広告にしてはそれほどは長くはない、新聞のコピーを読んでしまった。

ところで、α700に、リアルビューファインダーが付いていないことを、専門誌では批判されたりしているが、自分はリアルビューファインダーなんて要らない。もっとも次のフラッグシップ機では当然、付くのであろう。

リアルビューファインダー各社のセールスの売りのようだけど、あれは中途半端なデジ一芸術家をさらに堕落させるものだ。

構図至上主義はだめだ。三脚にデジ一載せて、月島の裏通りで通行の邪魔になりつつ、「芸術的な構図」など研究されては地元民としてはまず第一に通行の邪魔である。

リアルビューファインダー症候群に関しては、そのうち、論陣を展開しよう。

ところで、技術者が遊園地に「研究」に行くと言う設定はいかにも「創作」っぽいけど、これは真実なのだ。
ソニーさんの場合は知らないが他社さんで作例の研究となるとやはり行き先は「遊園地」なのである。これは年中、室内にいる研究者さんの頭に浮かぶ目的地はそういう場所になってしまうのだが、遊園地は原色に世界だからデジカメの色再現の研究なら、むしろ研究室でカラーチャートを撮影していた方が良い。

自分の興味のあるのは日本路地裏学会ではないが、路地裏のどぶ板の微妙なレンブラント色とか、そこに列べられた鉢植えのフェルメール色をデジカメがどうリアルに再現するかに興味がある。

上の広告だが、これにリアリテイを持たせるのなら実際に研究スタッフをそこに連れて行って撮影した方がはるかに説得力がある。借り映像めいたメリーゴーラウンドでは駄目。

勿論、テストとなれば、そこに未発表のデジカメを持参するわけだから、カメラにはぼかしをいれたりすると、真実味が迫る。

まあ、研究スタッフが街に飛び出すという広告テーマでは、その場所を遊園地にしないことには、プレゼン段階でクライアントとしてのソニーは代理店にオーケイを出さないのは確実だ。

痛し痒し。

2007年11月11日 (日)

ワインの味、レンズの味

R1143580 先月、プラハに行く時、中央高速のバスで山梨から長野を経由して名古屋に抜けた。

バスで走行中に甲州とか塩尻あたりのワインのことを考えていた。

よく、欧州で日本ではワインは出来るのかなどと質問されることがある。欧州文化圏から視れば、ジパングは「さけ」の国だから、ワインもウオッカもあると言うと吃驚される。

セントレアからは、エアフランスの実際にはJALが運行させている便であるから、機内でフランスのワインを飲んでも意味がないと思った。それでもっぱら焼酎の「甚空」と「吾空」を飲んでいた。

百間も吉田健一もそして山頭火までもが「焼酎はいけません」「焼酎を飲むお方は、これは駄目だとすぐ分かりますね」などと昔は完全に疎外されていた焼酎であるが、今では女性の好む酒になっているのも、時代の変化だ。泉下の彼らが知ったら何と言うであろうか。その意見を聞いてみたい。

プラハではサウスモラビアのパブロフあたりの白ワインを飲むことに決めている。これは近所のスーパーから買ってくる。ドライであきない味だ。なにかプラハの古い聖堂の中に一条の光が射しているような味の白である。このワインが気に入って、10年前にカートンで輸入したことがあった。

しかし、成田の保税倉庫に行くから一日仕事だし、個人通関は税関吏がおっそろしい意地悪をするので、あまりの馬鹿馬鹿しさに止めにしたのである。やはりワインはその地元で飲むのが良い。

ボジョレなんとかなどは、愚の骨頂だな。

話がもどって、向かいのスーパーで塩尻のワインというのに興味を示して買ってきた。赤である。甘いワインは駄目だから、ラベルの甘辛度をチエックしてニュートラルというのでまず大丈夫であろうというので買った。

月一くらいのベースで、タワーの隣にある、森の中の隠れ家みたいなフレンチがある。そこに行くのがまあ習慣なのだが(歩行して20秒で行けるのが良い)家人と9月13日以来行っていない。例の家人の帯状疱疹のためだ。

それで、せめて我が家でレストラン気分を味わうつもりで、その塩尻のワインを開けて、吃驚仰天。甘辛度の真ん中なのに「超甘い」のである。さすがの家人もあきれてそのまま酒塩にしてしまった。

こういう場合、家にある普通のストックのワインを開けるのは業腹なものである。その後、家人はやけ食い、自分は宝カップのやけ飲み。

どうも、この会社の甘辛度の選択基準は甘い方に3クラスから5クラスほどずれているようである。デザートワインは別として、それとドイツの甘いワインも最初から警戒しているから良いけど、普通のテーブルワインで、味のうっちゃりを喰わされたのは痛い。

ワインについて知っているようなことを言うけど、単にコードドールを旅したり、ロマネ村の畑の石垣に感心したりのレベルなのである。

それにしても日本のワインの甘辛度の基準は「狭軌」設定なのではあるまいか。

やはり安心して飲めるのは、チリ産の赤という今風の狭い選択肢になってしまう。チリワインを開けると昨年の春のスエーデンを思い出す。そこでチリ産ワインの洗礼を受けたからだ。

ワインの味は開けるまで分からない。これがレンズの味なら、一眼レフの場合、その場でファインダーを覗いて、甘口か辛口か、それともニュートラルか、重いか軽いかは分かる。

ワインよりレンズの味の方がよほど分かりやすい。

昨日の行動。

朝、久しぶりに河岸に行く。ほんまぐろのさく、ばちのぶつ、ほたてなど。
ご飯をたいて、家人とライカインコと昼食。ライカインコはたきたてのご飯好き。プラハのような「ぼんぼん日」が気に入って、窓辺で読書。

夕刻、徒歩にて越後屋酒店。宝カップ1杯。ソーダ1本。
隅田川を徒歩にてもどる。薄墨色の川面と空の中に橋とタワーが浮かぶ。ついに誰一人にも路上で遭遇しなかった。これが都心なのだから実に不思議だ。

2007年11月10日 (土)

1972年木村伊兵衛の佃

R1143562R1143563_2 1972年。
木村伊兵衛兵さんが撮影した月島とか、佃の作品は沢山あるけど、こうして駅ばりのポスターで見ると、また違う魅力が発見できる。

前にちょっと触れたように、この撮影場所は、毎日、リバーポイントタワーから月島駅に行くまでの「通勤路」なのである。

木村さんのスナップは実に抜き打ちのリアルさがある。

この画面で想像するに、撮影は1972年とあるからかなりの晩年の作品で、実に肩の力が抜けている。

もともと、名人木村の撮影は肩の力の入っていない、脱力系であるのがその魅力なのだけど、晩年に至ってその技が天性に昇華された感じがある。

まあ、ライカはM3かあるいはM5であるわけだが、この場合レンズに注目したい。

50ミリレンズの名人使い手であった木村さんであるが、これは35ミリの広角レンズのようだ。

木村名人の愛用の玉は、ズミルックス35f1、4 かズミクロン35f2のわけだが、これは昼間の撮影であるし、レンズのゴーストの入り具合からすると、どうも後者のようである。

飴細工のおじいさんは、ちょうどタバコを一服しているという、「決定的瞬間」だ。

文豪がシガレットに点火しているショットはいやみなものだけど、こういう労働の間のタバコの感じは悪くない。

タバコはこの場合、ブランドで言えば、朝日とか敷島というわけには行かないが、願わくば、いこいとか、

シンセイなどであって欲しい。あ、わかばでも可であるが、ゴールデンバットば失格。

この三角公園は当時は滑り台があった。今はない。その代わり、背景の桜はかなり成長している。

昨日の行動。
午前11時すぎに銀座のレモン社。
気になるライカを購入。同じ機種はこれで4台目だが、270台ほどしか生産されていない、ライカM2である。これはクイズのようなもので、名前は伏せておく。

午後10時までヒルズで仕事。
午後6時、筑摩書房松本さん来。打ち合わせ。その後、クラブで六本木ヒルズ麦酒。
ここの「日本風タパス」というのはなかなかいける。最近のクラブのつまみとしてはヒットだ。以前、バルセロナで120種類のタパスを一度に撮影したことを思いだした。
松本さんは立石方面に詳しい。立石駅前の「うちだ」もよく知っている。よって日本路地裏学会の葛飾支部長(この響きは渋い)に任命した。

2007年11月 9日 (金)

嗚呼、アルマーニ!

Epsn1135

以下、引用。

(読売新聞 - 11月07日 13:33)

 イタリアの高級ブランド「ジョルジオ・アルマーニ」などを展開するアルマーニ・グループは7日、東京・銀座に大型旗艦店「アルマーニ銀座タワー」をオープンさせた。

  銀座5丁目の晴海通り沿いの地上12階建てビルで、店舗面積は約6000平方メートル。同ブランドの店舗としては世界最大級という。地上3階から地下2階 までは、衣料ブランドの「ジョルジオ・アルマーニ」と「エンポリオ・アルマーニ」の売り場とした。このほか、インテリア売り場や120席あるイタリア料理 のレストランなど、同ブランドの新業態をビル内に結集した。5階には同ブランドとしては世界初のエステサロンも出店した。

^^^^^^^^引用終わり。

アルマーニには怖いめにあった。

昨年の4月の末にミラノに居た。

日曜の朝、と言ってもミラノで午前11時前といえばモンテナポレオーネあたりは、まだ町並みが眠っている。

レオナルドも歩行した石畳を靴音をならして歩行して、アルマーニのビルのコンプレックス(一大街区を形成している)の道の向かいまで来たら、アルマーニカフェでまだ開店前で準備をしている。それがちょっと良い感じだった。

エプソンR−D1sには沈胴の90ミリのエルマーが付いていたから、その撮影距離は30メーターはあったであろう。

自分のスナップショットは迅速である。瞬間的にカメラを構えて瞬時に撮影した。だからそのフレームに入った準備中のお店の人だってまったく気がつかない。その筈だった。

40年近くスナップショットを撮っているからそういう迅速な撮影が出来る。ところがお店の人は自分の撮影に同時に気がついたのである。

それがガストロノミーであれば、ツーリストが撮影していることに気がついたら、笑いかけたりポーズをとったりするのが普通である。

80年代には雑誌の取材でミシュランの★が沢山ついている店を取材したりもした。そういうのは事前に打ち合わせが出来ているから、まあ協力的なのは当然だが有名店でしかも道の反対側からツーリストが撮影した場合の、お店の対応はおおらかなものであろう。

それで、午前11時前の開店前のアルマーニカフェで何が起こったか。上の男女の表情を見てほしい。左の女性はカメラマンを指差して警戒している。右の男性は驚愕して首を不自然に右に倒している。

撮影するな!

と、大声で「恫喝」されたのである。

長い長い撮影経験でこれは初めてのことなので、かなりびっくりした。

似たような「撮影禁止」経験は1970年代の東欧時代にポーランドの駅で撮影中に「密告」されて、ポリスに尋問され、撮影済みのフィルムを没収されたことが一度。

二度目はこれもポーランドで1982年の3月にワルシャワ空港で撮影済みのフィルムを30本ほど没収されたことくらいである。これは数日の取材でどうも尾行されていたようだ。

「ツーリストだ!」と言ったら「ツーリストが数日の滞在で30本も撮影するか!」と言われた。まあ、ごもっともな意見だ。

上の二件は、昔の東西時代の話であるから、それはそれで納得が行く。

一方、ミラノのアルマーニカフェで「撮影禁止」をくらったのは、実に不思議であった。

相当に凄いところだなあ、、、と思った。

最初は働いている男女の「自意識過剰」のせいかと考えてみた。

しかし、バーで準備をしている仕事中の二人の労働者がそこから30メーターも離れている、路上の撮影者に神経過敏というのは、かなり不自然だ。
これは会社側のマニュアルでそれと決められているのではないか、と考えたのである。

上のアルマーニの事情というのは、当然ながらショップ内での撮影が駄目なのは、これは常識として受け入れよう。しかし、路上からガラス張りの店内を撮影して、それで恫喝されるとは、これは間違っているのではと思う。

それで、日本のアルマーニにカフェがあるのなら、それを見たいと思って、昨日の午前中に上の記事を参考に出かけたのだが、東京の方向音痴の自分はくだんの、アルマーニタワーを発見できなかった。
これは後日の仕事にしよう。

上の「恫喝事件」で、思い起こされることがある。
以前、アパレル関係の人に聞いた話だが、パリ、ミラノあたりで新作がウインドウに登場すると、それを撮影してアルバムにして日本の関係者に販売するカメラマンの仕事があったという。あちらさんにしたら、これをやられたらたまったものではなかろう。

夜の撮影なのであるが、ウインドウの反射が邪魔になるから、巨大なフードを付けたカメラで撮影するそうだ。それで一目散に逃げるのだという。今もそのようなビジネスがあるかどうかは知らない。

自分のミラノでの風体が怪しいので、そういう「盗撮カメラマン」と勘違いされた可能性はある。ともあれ、大好きな伊太利亜での嫌な記憶は、上のインシデントである。
それに比較すれば、ナポリの裏町で金時計をひったくられたことなどは、むしろ懐かしい思いでである。

未だに、この「撮影禁止」は釈然としない。願わくば「道の反対側からでも知的財産の当店は撮影禁止」という内部の規定があるのか、それともないのか、アルマーニのプレス担当者(ミラノの)にご意見を聞いてみたい。

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R1143588 午後3時、岩波書店の賀来さんと打ち合わせしていたら、いきなり芝浦方面(と、思われる)で火災発生。

カメラはキャプリオR7。こういう場合はGRDも、GX100もかなわない。なんせ、200ミリ相当の望遠がついている。(かなり初心者的発言だけどこれは事実)

この規模は第三出場であろうか。東京消防庁の赤白の防災ヘリも飛来。

実はこのヘリのデザインは、知り合いのデザイナーさんの作である。これを見るたびにその人を思い出す。

^^^^^^^^^^^その件につき、続報あり。防災ヘリがかなり低空に飛行するのを視た。

以下、引用。

マンション火災、ヘリで救助=屋上に一時3人、負傷−東京   
(時事通信社 - 11月09日 19:01)
 9日午後2時45分ごろ、東京都港区芝の7階建てマンションの7階に住む建設業宮本義昭さん(65)方から出火し、7階部分の約144平方メートルを全焼した。屋上に宮本さんと母親(88)、妻(61)が取り残されたが、東京消防庁がヘリコプターを使い母親と妻を救出し、宮本さんも階段を使い避難した。

2007年11月 8日 (木)

11.07東京大周遊

R1143509 R1143487 昨日の行動。
プラハの2週間の影響からか、向こうの午後5時に日記を更新すると、極東の午前0時という「味」を覚えた。
その癖がついていたのだけど、日本の時間帯に戻ってくると、午前0時に更新すると、そのまま午前0時に更新になる。
分かっているようで、そこらへんの事情がよく分からない。問題がありそう。

それで昨日。
は、快晴。
まるでリスボンのような、サウダーデを含んだ青空である。人間、暗い曇りの日よりも、こういう宇宙的な郷愁を催すような、ウルトラマリンの空に存在の不確かさを感じて、メランコリーになるのではなかろうか。

大江戸線で、昨日は森下とか、両国でおり損なって、結局牛込と横寺町に、足穂追想に行ってしまったので、その過ちは再度おかすまい、というので、意思の力で両国で降りる。
小岩行きの都バスに乗る。
これについて子細あり。およそ、都バスの両国小岩線には、必見の名所が何カ所かある。そのうちのひとつは、小岩駅に近くなった進行右側で川を渡る時に、右手に巨大なめがねのフレームが登場することだ。

これは前号のデジタルカメラマガジンに、夕暮れ時にカラーとモノクロで同時に掲載した。
ニコンクールピクス5100というコンパクトカメラで、モノクロとカラーが同時に撮影できるという、不思議な機能がついている。それを検証した画像がこの巨大眼鏡のカラー、ありなしなのだ。これは、野々宮BMWからの撮影なので、前景に野々宮のあごが映っている。

こういう眼鏡である。

R1143540

もう一件はそのずっと手前、京葉交差点のちょっと前あたりであったか、それとも亀戸であったか、酸素販売のお店で、実に渋いのがある。
この店は実に昭和40年代の商店建築を代表しているような、ファサードである。ペイントの白の一色がさらに「すがれて」いるのでなにか戦前のウオーカー エバンスの「アラバマ1938」というような感じの建物だ。

今日は快晴なので、その「小林酸素」のファサードにさらに「サウダーデ」が加わって泣きたいような永遠感覚がこれに付加されて。
無論、都バスの疾走中の車内から、アウゲンブリックでこれを仕留めるのだ。
今更、言うまでもないが、これはロバート フランクのニューヨークでのバスからの撮影の真似なのである。

下の画像が「小林酸素」店。これは「オーツー屋」とでも言うのであろうか。

一番上の画像はこれもこの路線バスの謎の停留所。その名前を「森林公園」というのである。何処が??
周囲はごみごみした町並みだ。ここに森林があったらさぞかし良いであろうという、願望から出来たバスストップなのか。

ドイツのイエナの市内のさひれた駅にパラダイスというのがあった。まだ失わざる楽園とは、メカスの映画のタイトルだ。森林公園は一種のパラダイス願望である。
中央林間とか、本物の森林公園の剽窃でもあろうが、ああいう遠方よりも近所の森林公園。

今日は小岩駅界隈にはポリスの数がやたら多い。そここに二人組が立っている。
都バスに乗っているうちに、東京に戒厳令が発布されたのかと思った。

小岩の中古カメラ店に行ったら、水曜なので休み。

東京の東の方はカメラ店が水曜が休みというのが多い。ソ連製カメラ元祖のキング2が平井にあった当時、何時も行くとかならず水曜で休みだった。そういうジンクスで、人生でかなり損をしているのではと還暦を機にそういうことが気になる。

キング2はその後、渋谷の東急本店前という、およそ似つかわしくない所に出店した。
今は、西新宿の木造2階建てのモルタルだ。キング2といい、映画機材の墨東のレトロ通販といい、すべからく「本物を扱う店」はモルタル建築がマッチする。さらにレトロ通販の場合には、入り口で「トイレのスリッパにはきかえる」のである。
工場でスリッパにはきかえるのは、シグマとコシナが自分の知る限りの大会社であるが、他にもあるだろうか。これは現代から見れば、逆にステータスである。

小岩駅から、「環七シャトル、東京ねずみーランド行き」という、京成バスを発見した。
それで、ねずみーランドまで400円だ。一度も行ったことのない魔境であるから、このチャンスを逃すと一生、行く機会がないからと思ったらが、さあ、ここだ。
そんなに「生き急ぐ」ことはない、と思い返して一之江駅でおりる。
まさに間一髪であった。

大江戸線にて、月島を通りこして、午後2時半にはヒルズの49f。
仕事@ワークスペース1。
そこからシュタイナーのM22でねずみーリゾート方面をしばし偵察した。

R1143549これが 午後4時の東京。

手前は、伊太利亜製のライカ、ガンマ。レンズはウルトロン35ミリf1、7。今更であるが、性能はズミクロン35ミリよりずっと上。

今日もデジカメはR7。

GR-2は何時出るのかな。

2007年11月 7日 (水)

「外人」に似合うデジ一とライカ

R1143404 天候はっきりせず。(昨日の天候のことを言っているのだ)

以下、例によって昨日、火曜の行動。
午前3時半に寝て、午前10時に起きる。やや寝不足の気味あり。

大江戸線で「東京小周遊」をするつもりにて、月島から乗ったら、その先の駅で、外人さんがデジカメの一眼レフを持って乗ってきた。

その前に、佃から大川端を通って駅に行く時に、20人ばかりの熟年のカメラ撮影グループを見た。半数が銀塩一眼レフで、残りはデジタル一眼レフである。
その行動を観察するに、「お伊勢参りの請中」のような感じで、どうもかっこわるい。別にお伊勢参りがかっこわるいという意味ではなく、集団自決じゃなかった、その集団行動が「個人の発見の眼を阻害」していると言えば良いか。

似たような感覚を、10日ほど前に持った。
プラハの裏町の行き着けのカフェでランチ食っていたら、目の前を30人くらいの東洋人団体が下手から上手に移動して行く。
何かの現代劇の一場面なのである。これがプラハブームで、世界的に有名な「HIS旅行団」であったわけだが、大昔の団体さんを云々するのではないが、最近、個人旅行とやらで、日本人が2人くらいで歩行しているのは、いかにも「個人の極東が行く」という感じで悪くない。
それが一個小隊になってしまうと、集団自決的な気分が出てくるのが不思議であった。

HIS旅行団はてんでに、コンパクトデジカメを持っていたから、当方の観察ではそんなに「不思議感覚」はなかったけど、大川端で2ダース近い一眼レフが移動するのは、ちょっと恥ずかしい。まあ、喜ぶのは日本のデジ一メーカーと、それを生産しているアジア諸方面か。

そのシーンを見た後で、メトロで見た「外人の個人旅行者」(これ、日本語になってないが)が持っていた、タムロンのズームレンズ(これはレンズキャップで識別できた)と、ブランド不明のデジタル一眼レフ(これはどれも同じに見えるので、識別不可能)が、その外人さんのダークスースに似合っていて、いいなあ、、、と思った。

画像でご覧のように、幅広のカメラストラップは日本のパスポート所持者が持つと、「70年代のフォ−クソング狂いの馬鹿息子」めいてしまうものだ。このストラップは着用が難しい。しかも、くだんの外人さん、ダークスーツ。
我が同胞がダークスーツでデジタル一眼だと、どうしても結婚式の行き帰りになってしまう。

牛込神楽坂で降りて、足穂ゆかりの東京高等数学塾の前から、鍵型小路を経て、坂の途中のコロッケ屋で「スコッチエッグ」を買って、毘沙門さんの前から、「坂の上の二階」を通過して、寄り道横町の「のら猫珠」の様子を見に行く。工藤ゆきの旦那の田中のくにちゃんの、お母さんのやっている店だ。
そしたら、日よけに「スワン」とある。一方で電飾看板は「のら猫珠」である。入り口のドアはひとつ。どうしたのか、ゴールドマンサックスに買収されたのか、、、。

その小路の先の地下のピンク映画館の前に、パリの実存主義者めいた、あるいは気違いピエロの主役めいた外人さんがただ、立っていた。

自分の眼は彼の持っているカメラに注視した。なにがデジタル一眼レフであるものか。
ライカM3クローム仕上げに、固定バレルの50ミリズミクロンだったのである。
もうその外人さんの写真の腕は問わない。無条件で認める。無条件降伏。

やはり、ライカはその存在感がいいと思った。
そう、おそらく99パーセント以上の人から見れば「単なるおじいちゃんの古カメラ」である。
でも、カメラはライカであっても、そのような無名性が好ましい。
ヤクルトなのか、アメックスなのか、それともカメラの広告なのか、不明な同じ俳優さんが出てくるのはどうも、、、。

誰でも知っている、デジ一(でちいち)より、誰も知らないライカの方が「楽しみは大きい」

ああ、それで昨日の名取洋之助コレクションのコンタクトプリントを収蔵していた、地下のハイポくさい編集室だが、桑原さんの所持していたカメラはライカCLだった。しかもレンズはキヤノン19ミリ。このレンズを使っているのは、自分の他には、偽ライカ同盟の坂崎あるのみと思っていたが、思わぬ地下組織で使っているフロンポピュレールが居たわけだ。

それで、桑原同志にさっそく偽ライカ同盟への入会を許可した。これで天下のI波に「拠点」を確保したわけである。

R1143453 昨日、16時20分(日本時間)

ヒルズ49fから。

暗い午後が良い感じに展開している。

あ、カメラはまだまだR7。

2007年11月 6日 (火)

岩波書店から曙橋方面

晴れ。その後曇り。
R1143390_2 プラハより戻って1週間。
月曜日。

午前11時に岩波書店。
編集部の桑原さんに会う。新しく開始された「岩波写真文庫」の復刻版の「田中長徳セレクション」の選定の為の打ち合わせ。

岩波写真文庫は小学校の当時(文京区立小日向台町小学校)に図書室にずらりと揃っていた。その赤い縦縞のストライプがお洒落な感覚だった。
それから40年以上経過して、地方を旅したりして古書店を訪問した時などに、買いもとめて結構な数を持っている。

それが半世紀経過して、復刻版が出ることになった。第1回目は赤瀬川原平セレクションで、これはすでにリリースされている。
300冊に近い中から原平さんの選んだのが、1950年当時の時代をそのままに回想される内容の写真文庫で、これが非常に面白い。
たった半世紀前の日本と世界はこんなにも、今とは隔たった世界であったのか、ということが面白い。

復刻版というのは、実に不思議な存在である。手元に日本の文学の復刻版があるので、時々、それを手にしてその時間差の不思議を体験することがある。
漱石の猫などはその代表的な例であって、自分は教科書で読んだし、文庫で読んだから、そういうシンプルな存在だと長らく思っていた。

本物の「猫」は、これは実に立派な装丁の美術書的存在である。そういう本はすでに稀覯本になっているわけだが、復刻版は往時の本の存在感がそのままに手に出来るのが痛快だ。
「本のマイムマシン」だ。

時計の世界などでは、復刻版は権威であり、名声である。
著名なブランドの時計でないと、復刻に値しないからだ。

カメラの場合、時々、登場何十年記念というので、名門ブランドのカメラメーカーが復刻版をリリースするが、これは往時のそのままというわけではない。
当時の気分を盛り込んだ、という一歩手前で留めているから、自分のような復刻フェチには、ちょっと満足できないところがある。

その意味では、復刻フェチの赤瀬川さんは、千円札まで復刻して、それで国家と渡り合った人である。写真文庫はゼロ円札ほどの価値はなかったかも知れないが、それでも当時の売価は100円である。
その100円の写真集というのは、当時は破天荒であった。
100円の売価の本を復刻するという「それがどういう意味であるのか、今だにはっきり掴めない」というところを、出版するというのが、岩波の面白さである。

激論、4時間で、来年に登場する「岩波写真文庫田中長徳コレクション」の選定が終了。
ああ、そう書くのは正しくなくて、その編集部に「人類の文化遺産」が存在したのである。
名取洋之助のアメリカ時代の撮影したシリーズのコンタクトプリントのスクラップブックがそこにあったのだ。

我々、写真家は、「同業者のコンタクトプリント」に弱い。
オリジナルプリントの場合には、これは「最終商品であり、芸術である」わけだから、それはそれで結構だけど、写真家のネガのコンタクトは、あれは「生殖行為をそのままに開示している」という意味で、かなりのわいせつさがある。
だから、コンタクトは第三者に見せないのが普通である。

それを2冊も見る機会があった。
ニューヨークの近代美術館の写真部にも、写真家のコンタクトはほとんど収蔵されていない。
だから、「興奮」した。

名取の仕事は、コンタクトプリントで見るに、無駄玉を撃っていない。そこが凄いと思った。

^^^^^^^^

新宿線にて、曙橋。ここの駅の側のカレー屋でラムカレー。680円。

ここのカレーはチエーン店であるが、本場そのものだ。昨年、デリーに行ったのがちょうど今頃であった。デリー中央駅の南側の市場の菩提樹の木に下の「野点カレー」は野菜カレーであれはうまかった。

自分のような「外人客」が来ると、席をつくってくれる。その席というのは路上の敷石である。

坂を登って、アローカメラに久しぶりに行く。カメラの在庫をチエックする。

戦前のライカのコンパートメントケースがあった。ライカのコンパートメントケースは、初期のものは良いが後期のモノは縫製が良くない。このケースのケース(変な言い方)は、初期モデルなので、しっかりしている。こういうモノは現今には復刻版は造り得ないだろう。現代に
これだけの技術があるとは思えない。

ついでにアローカメラ3fの「ギャラリーちょーとく」で、某氏のホーチミンシテイのモノクロのスナップを見る。

露天の人。屋台の人。通行人、買い物客。
そういう人がみなカメラに向けて笑いかけている。
ああ、ヴェトナムというのはそういう国であったな、と改めて思い出した。
路上で撮影して「肖像権が云々、、、」と、文句を言われる恐怖の国がこの国であったな。

その足で、バスでヒルズの仕事場に行くつもりが、時間切れにて地下鉄にて銀座。

デパ地下で、買い物して佃に帰。

2007年11月 5日 (月)

筑地から銀座、京橋、佃

L1110556a 日曜日。
フランスはアビニオンの近くの村で開催の展覧会の撤収に行ってた、パベルは無事にプラハに戻ってきた。

2週間ほど前、スデクゆかりのプラハ南部の古生代の岩山の池の前で、「でぶしろ」ならぬ、「しらとり」と「国際交流」をしている、ツーリストのスナップが届く。

金曜に日本電波ニュースのトップの人は95歳だかでなくなったという記事が朝日の夕刊に出ていた。

その記念写真がすごい。上のツーショットもそれなりであるは、その方は「ホーおじさんとのツーショット」なのである。

これはブラピと2ショットなどより、ずっと価値がある。その日本電波ニュースのプラハ支局の人の家に泊めてもらったのは、これは無論、1970年代のことだが、お名前も、そのいきさつも完全に失念している。

その支局長の話で、「報道統制がきついので、熱気球大会とかどっかのムラ祭りとか、そういうマイナーなニュースしか拾えない」とこぼしていた。
その時に、夕食の時にTVで、英雄的な芸術家、スデクの番組をやっていたので実に驚いた。

その日本電波ニュースの支局(自宅兼)の機材はベルアンドハウエルンのフィルモであった。これも時代がかっていて、懐かしい。レンズはアンジエニューの3本セットだった。やはり報道関係はすごい、と感心したのを良く記憶している。
その支局の場所は今、思うと通りからすると、空港に向かう「ヨーロパスカ」である。つまり、今のプラハのアトリエのすぐ近くなのである。

プラハの悪天候に比べ、東京の晴れているのが実に不思議だ。
もっとも、プラハのお天気カメラによれば、あたしがプラハを去ってからはどうもお天気は良いようだ。

自分の居た、10月の13日間は1時間ほどの快晴が3回あっただけだ。

時差順応訓練で、佃から月島を南下。

晴海通りの角の高校の同級生の神田君の経営の「おたべ鮨」の場所は55階だてのタワーになるそうで、目下、旧建物のアスベストの撤去作業中。
新店舗(仮店舗)はちょっと行った角の建物に移動していた。

1月前にお店の前を通過したのだから、日本のその手の速度にはまったく付いて行けない。

筑地でカレーでも食おうと思って波除け神社の前まで来て、本日休市であることを思い出す。
波除け神社の前に、西ヶ原のにおわす偽ライカ同盟旧和国の「国猫」たる「でぶしろ」と良く似た、これよりちょっと痩せているので命名して「ややでぶしろ」を発見。
しばらく観察する。

撮影しようと思ってポケットにR7を探って、佃に忘れてきたことを発見。
もっとも、フィルムを使うミノックスは持っているが、それで撮影するほどのこともない。

筑地場外の寿司屋の混雑は一通りではないが、その客筋を観察するに、TVのお店紹介番組を見てそれをまるのまま信用して来た来たような純情なカップルと家族連ればかり。
まあ、ミシュランの2008年日本版を見て来る連中よりは、性質は良いか、、、。

路地で、通行の客にチラシを渡している、寿司屋のアルバイトのおっさんが居る。

「うちは、中身で勝負」とか言っている。その一軒先のしもた屋の中から、おばちゃんが「その店は評判が一番悪いよ」と、今チラシをもらった客に聞こえるように言っている。
情報戦略恐るべし。

デジカメ戦略では、こういう足の引っ張り合いはないのかな、、、。

銀座に出る。

ホコテンにて、自分の歩行する地面なし。
蒼惶として、裏路地に逃げる。

ここはがらがらである。都心の一極集中のモデル地区だ。
プラハから持参のフォクトレンダー(ただし、信州中野ではなく、ブラウンシュバイク製)の二眼レフのスパーブで撮影。フィルムはスデク好みのフォマパン200。
途中でフィルム切れにて、持参のエクタクロームとなる。

今日は20000歩は歩行するつもりなので、そのまま銀座から佃に戻ると、運動不足になるから、大きく迂回航路をとって、新川のギャラリーノットイコールに、行く。
展示を見る。

事務所に画廊男佐藤の姿なし。
しかも私物とか金目のものは、そこに置いてある。
ゲストブックに「3:40pm だれもおらず ぶようじんなり」と記してもどる。

晩餐。
家人のリクエストにて、最近、世の中に流行のカレーしゃぶを用意する。
カレーソースはデリーのカシミール。これに、オーストリア製の(断っておく、カンガルーの居る方)牛の肉の薄切り、エリンギ、しいたけ(浅田恵理子の嫌いなもの)焼き豆腐、葱、レタスなどを用意。

ライカインコは今日はなかなか段ボールに入らないので、まだ開宴が出来ない。
飛び込むと「インコなべ」になってしまうので注意が必要。


R1143373 ジョナス・メカスの「365フィルムズ」を楽しみにしている。

http://www.jonasmekas.com/

今日は、10年前のリトアニアの独立の時のメカスのビデオである。いかにも東欧としか言いようのない、工場の様な場所で、道はどろんこ。

その中央に換気ダクトがベルリンの壁のように構築されている。

数人の男達がそれをパーカッションめいて、ドラムのように叩くのである。
メカスのビデオの画面の隅に、映画撮影機が写ったような気がしたので、後で解析してみたら、果たしてアリフレックスのかなり古いBL35-1で撮影をしていた。

普通はアリ35BLは、左目でファインダーを覗くのが普通だけど、このカメラマンは右目でアイピースを覗いているのが、ちょっと珍しい。

やはりアリはステデイカムで撮ると、ハリウッドめいた嫌みがでる。このような肩載せの手持ちショットが正統派だ。

それで思ったのは、このショットはニュースか、それともフューチャーか知らないが、いずれもしても、その画面は「劇映画」のように写っているであろうということだ。それもモノクロで撮影されていれば、最高だな。

そういう「プロの最高機材」(当時の)で撮影する意味と、メカスのような、昔は安物のボレックスH16でで、そして今はちょっと時代遅れのソニーのビデオカメラで撮影しているのと、どちらがクラスが上なのかと言えば、やはりこれは比較にはならないのである。

映像関係のプロフェッショナルな指向は、ともすると最新の技術、最高の画像に走ってしまう。しかし10年前のメカスの「いい加減なホームビデオ」の方に真実が宿っているのは、言うまでもない。

今のデジカメの画像競走など、きわめて時間の近視眼的サーキットで闘われていることも、認識する必要がある。

仕事終了。
先月の29日に書く予定だった、アクシスの原稿だ。
それが終わって、嬉しいので、mixiの「偽ライカ同盟」に書き込む。
^^^^^^^^^^
R1143374 「偽ライカ天気予報」
田中長徳です。
先週、プラハから戻りました。
デザイン雑誌axisでカメラデザイン論を書いてます。
次回は偽ライカ同盟にも関係が深い、チエコ製のオペマの話。
実機がないので、仕方なく2台買ってしまいました。

一方で、この11月から年末に持ちたいカメラを佃で捜索。
カメラジャングルから、フェドシベリアを発見。坂崎流に言えば「ヘド」です。
下町なまり。
この11月の上旬はヘドシベリアで、大荒れの天気になるでしょう。

これが、あたしの偽ライカ天気予報です。
さて皆さんの天気予報はいかがですか?
^^^^^^^^^^^
お答えは、mixiの偽ライカ同盟の方に御願い。

2007年11月 4日 (日)

東京大周遊

R1143362 まだ、時差状態だ。
常のことながら、復帰まで7日はかかる。
睡眠パターンは、午後7時に寝て午後10時ころ起きる。それから朝の5時に寝て朝の10時過ぎに起きる。
なにか、一日が2回くるような感覚だ。

遅れに遅れたエアフランスのパリ経由の今回のラゲッジは三日遅れにてようやく到着。
せっかくバッグに付けた「フライングブルー」のタグがどうも裏目に出たようだ。心配していた、バター(日本では無縁バターを買う習慣なし)だが、どろどろにならずに原型をを留めて到着したのは嬉しい。
それとスエーデン製のクネッッケブロート、wasaも到着。
これ、日本で売っていないので困る。プラハに行った時に仕入れてくるのだ。これを朝に食べると体調よし。

昨日は東京大周遊。(上の画像は南千住。ここには昔の東欧の気分が横溢していて、好きだ。カメラは、R7、、、最近、こればっかだな)
と、言うほどでもないが軽く東京の週末の混雑する箇所を回って、しみじみとカルチャーショックを味わう。

到着した荷物の中のフォマパンの120の撮影済みを大量にビックカメラに現像に出す。これにて今回の本当の任務は終了。やれやれ。

デジカメコーナーはどうなっているのか、、、と、チエックするに、フィルムコーナーがかなり狭くなって、そこまでデジカメの展示が津波のように押し要せいた。
これは実によいことだ。
フィルムカメラを使うjこと、フィルムを買うことは、だんだんステータス化してくるわけで歓迎できる。

発売が前倒しになった、α700はまだ展示はされていなかった、そこにはα100とα700の性能を示すスペック表が展示されている。R1143324_2
デジカメを知らない一般人なら、その数字だけ見て「α700」は凄いと思うのであろうが、一応、デジカメアナリストの自分から視るとその性能は僅差である。
だから実用デジタル一眼レフの観点からすると、α100の方が効率が良いように思う。このスペック比較はあまりやらない方が販売戦略上は良いのであるが、誰がこれを展示したのであろうか。
ソニーの販売関係の指示なのであろうな。

アキバの8fに「刀削面」を食べに行く。R1143325
駅構内で、ペンタックスのデジ一の巨大広告を見る。ささやかなもうけを追求する筈のデジカメが、こんな場所にこんなにでっかい広告をうって大丈夫か?と心配になる。(それでなくてもペンタックスは心配なのに)

世界三大カメラ賞受賞、とある。
さて、三大カメラ賞とは、どこの何と言う賞であったか、まったく見当がつかない。そこが広告の上手い手であった、こっちの方が「集客効果」はありそうだ。

ヨドバシにて、8ミリフィルムの在庫の状況をチエックする。それから、この前到着した、NIZO 801 の測光用バッテリーを捜索するが、あれは水銀電池であったのだから、そんなモノが今あるわけはない。代替バッテリー探しの楽しみができた。

もう存在しないバッテリーを捜すのはなかなか面白い。数年前には、スピードグラフィックのソレノイドを操作する角形の電池を世界規模で捜索した。EVERREADY 412 という22,5ボルトの特殊電池である。これはアメリカの写真機店にあったので10個手に入れた。
スピグラのソレノイドのバッテリーはもう、死ぬまで心配なし。

日比谷線にて、南千住、
再開発のコーナーとその周辺を「日本路地裏学会」として調査する。
再開発の角地の駅に近い部分は案外に、狭い部分にて、古き良き南千住はそのままに「保管」されていたので一安心。
路地裏学会としては、通り抜け用のパネルでかこった「新路地裏」に興味がある。これも日本路地裏学会の研究すべきテーマである。

R1143335 いつも、そこでカツサンドを販売している、コーナーがあってその脇のラスベガス風の金の柱も存続していて、一安心、ここは南千住のシーザーズパレスである。

歩行を転じて、大林。泡盛を2はい。
徒歩、金太耬すしにて、おみやげを買い、都バスで八重洲口。そこから都バスを乗り換えって佃に戻る。
なにか、4日前のセントレア帰りをそのままリフレインしているような「旅」である。
つまり、錯覚で、プラハから戻ってくるのも、大林から戻るのも、同じ公共交通手段というのが良い。

目下、注目している、東京メトロの「昔の東京シリーズ」の駅貼りポスターに注意している。
木村伊兵衛撮影の1972年の佃のショットを見て、それがどこであるのか一発で見がついたのが、年の功だ。

その話はまた後でしたい。
ちなみに、このポスターのキャッチコピーはあまり感心しない。コピーライターの尊大とモノ知らずと、その場かぎりのやっつけ主義がそのままに出ている。こういう言い方はコピーライターへの最大の讃辞である。
名取洋之助ではないが、こういう写真につける、キャプはその内容によって、どうにでもなる。
まあ、営団じゃなかった、東京メトロのトップがOKしたのだから、結構であるが、、、、。

2007年11月 3日 (土)

木村伊兵衛と桑原甲子雄

R1143319 R1143318 東京。

昨日の行動。
日本カメラの前田編集長に会い、打ち合わせ。

銘機礼讃3の束見本を手にする。
これがそれだ。
いわゆる、昔流行した「白い本」であるが、これをノートにするわけではない。
本の仕上がりを見る、ダミーなのだが、毎回、ゲラを校了するよりも束見本を手にするときが新しい本が出るな、という感慨がある。

R1143321 3週間ぶりにヒルズ。
相変わらずのメンバーに会うのが、嬉しい。
ヒルズからの観察によれば、天候は「プラハなみのどんより日」である。1974年に最初にウイーンで迎えた冬は、この光の不足がショックだった。

それで、この悪天候を我が家では「ぼんぼん日」と呼んで、すでに三十数年が経過した。その意味は、昔の童謡で「雨が降ります、雨が降る、、、、、」というのを、音羽の手回し蓄音機でよく聞かされた。

童謡にしては、なかなか暗い内容であって、それは幼年の時、これから生きて行く現実を直視せざるを得ないという意味での、教育的な童謡である。

その歌の通奏低音が一貫して、「ぼんぼんぼん、、、ぼんぼんぼん、、、」と歌の背後に流れるのである。
それで「音羽語」では、天候の悪い日を「ぼんぼん日」という。

夕刻まで仕事して、佃に戻る。
月島駅の地下道を通過中に東京メトロの80周年の記念ポスターというのを見る。最初いい写真だな、と思い、次ぎの瞬間には、その作者がだれであるかが瞬時に分かった。

横位置の上野駅の地下鉄の入り口のショットは、昭和10年代のライカ青年、桑原甲子雄の作品だ。
縦位置の花火見物の写真は、木村伊兵衛の1950年代の作品である。

前者は桑原青年はライカC型のエルマー付きであろう。後者の伊兵衛作品はまだ、ライカの3fの時代であって、M3ではないはずだ。

ライカのスナップは斯くあらねばという理想の作品で、まさに駅貼りポスターの傑作だ。こういうのを見ると、今まで好きだった浅井慎平のいいちこのシリーズも色あせる。

モノクロのスナップがこういう使われ方をすると、目の前のあさぎの幕が、チョンと切れて、そこに歌舞伎座の粋な舞台が出現した感じになって、痛快だ。

地下鉄の広告は、これはわざとデンツーがキッチュにしているのではと思えるような、例えば、車内マナー集の子供を使ったのとか、警察官募集のとか、とんでもないのが多い。

さらに「ぽんたの広場」と称して、信楽焼の狸を駅に列べたのなどはタイガーバームガーデンも裸足で逃げ出すか、それともヒルズ系の若いげーじつ家の作品か、と思えるようなびっくりモノが多かった。
茅場町駅の「金閣寺のインスタレーション」と「熱帯魚の展示」などは意図せずにそうなったのだとは言え、直視できなかった。

実に見直したぞ、帝都高速度交通営団。

ああ、そうそう、、、この画像というか最近のブログの画像は全部、キャプリオR7である。

さすが、こういうカットはレンズの歪曲が目立つが(と、メカライター気取り)まあ、7,5倍のズームレンズなのだから、これはこれで良い。まさかこういう変形のポスターであると思う人もあるまい。

2007年11月 2日 (金)

KCチョートクカメラコラム168回

★銀塩クラシックカメラ

プラハでスパーブを2台買って分ったこと

二眼レフが好きで、各種もっているがまだフォクトレンダーのスパーブには手を出していなかった。なにかツアイスの35ミリ二眼レフコンタフレックスに似て、下膨れのデザインが好きだ。戦後の日本で幻の35ミリ二眼レフとして知られる、アイレスの試作した、ヤルーフレックスにも似ている。

言うならば、今、流行のメタボリズムデザインだ。自分の体型がそれだから、近親感を持つのである。

あれは、10年前だったか、ついに決心して銀座の中古カメラ市でスパーブを購入した。これがよくなかった。そこでお金を払っておけばよかったのであるが、初日の中古市の開幕した直後だったので、お店の人にそのままあずけて、1時間ほどして引き上げに行ったら「間違って他のお客さんに売ってしまった」とのことだった。

こっちも「おとな」であるから、怒りもしないし追求もしなかった。そういう取り置きのカメラがウインドウの奥に置かれていると、他のお客さんが「先客が手をつけたカメラ」が欲しくなるものなのである。なにかお店の人が断りきれない事情でそれを売ってしまったのであろう。銀座のこれは老舗カメラ店だからそういうことはいけないのだけど、そういうことだってあるだろう。

しかし、いったんそうなると、なかなかスパーブとは縁がないという先入観があって、そのまま忘れていた。それで10年が経過した。

それがこの1月と8月とそれから今度の10月にプラハに行った時、スパーブの在庫を確認していた。
プラハの最大手のフォトシュコダに2台あって、他の小さい店に1台あった。

1月と8月のプラハ往きの時には、それが欲しいとは思わなかった。その存在だけ認識していたのだ。それが今回のプラハではスパーブが自分を呼んでいるのがよく分かった。意を決して買いに行ったら、上のフォトシュコダの在庫は一つだけになっていた。そのカメラのシャッターが悪いので、諦めた。でも、やはり日本で修理して使おうと思って、翌日それを買いに行った。そのカメラを手にしたら、なんとシャッターが「完治」していたのである。

と、言うのは勘違いで、故障のカメラは店の奥に引き取られて、その変わりの在庫が出てきたものらしい。うれしがって、アトリエに持ち帰ってテストしたら、フィルム巻き上げの調子がどうも悪い。これも買い手の勝手であって、大体、最初のトヨペット時代のカメラが完璧なはずがない。これは生産から70年以上経過しているカメラである。

スパ−ブは1933年のカメラであるが、最初のモデルは赤窓で合わせてスタートを出して、あとはセミオートでフィルムを送るのだけど、その調子が悪い。
8枚以降は正しくカウンターが作動しないのである。

その翌日、他のカメラ店でもう一個の同じカメラを見た。
こっちはフィルムカウンターは大丈夫だ。ところがそのカメラは昨日買ったカメラに比較して非常に高い。前者の倍以上するのだ。

店主は「これはそんじょそこらのスコパー付きではない。珍品のヘリアー付きだから高いのだ」と値引きに応じない。スコパーでもヘリアでもこれがモダンコシナ製なら「そういうブランドのレンズ」ということで済んでしまうが、こっちはオリジナルということで、店主も強気だ。

たしかに、スコパーよりもヘリアーの方が「芸術的な写真が撮れそうな気分」が濃厚である。今、大流行のその実、実態のまったくない、インチキ商法に「プレミアム」というのがある。本当の一流品はそんな変な名前は付けないものだが、分かり安く言えば、プレミアムレンズというわけだ。

結局、その持ち主に電話してもらって、直接交渉して少しだけ値引いてもらった。その価格はプラハの給与生活者の平均月収の1/3である。(わざとここではその月収は伏せておく)

こうして2台のスパーブがアトリエに揃った。
1933年の前期モデルと、1938年の後期モデルである。
それぞれの撮り比べをして、ヘリアとスコパーがどのような写り具合をしたのか、、、、
そこにはブランド戦略の秘密がある。それは次回のブログで。


★デジタル一眼レフよりも、コンパクトデジカメ

趣味のライカM8でも、実用のエプソンR−D1sでも、何を使おうが、それはユーザーの「商品選択の自由」である。

コンパクトデジカメであろうが、デジタル一眼レフであろうが、ハッセルブラッドのバックにつける、3000万画素の巨大デジタルバックであろうが、予算と目的に応じて選択すれば良いのである。

デジタル一眼レフもその意味で、各社の有力モデルが出そろったので、この12月のボーナス戦線はにぎやかに札束乱れ飛ぶことであろう。

しかし、、、、何かが変である。

一言で言えば、各社のデジ一はそれぞれに個性的なつもりなのであろうが、長年、銀塩カメラとつきあって来た旧カメラ人類から言わせてもらえば、最新デジタル一眼レフには、それが欲しいと思って悶々としたり、それで体温があがるというような、純粋な物欲刺激系の感覚が最初から欠如している。

どれも、カメラより電化製品の存在感。
1年で型遅れ必須。
3年でお払い箱。
これはカメラの本来の存在感ではない。自分のライカM3は半世紀経過しても、物としての存在感に満ちている。もともと両者は違うものなのだろうか。

各社のデジカメは「エンブレムを目隠しして見たら、どれもまったく同一に見えてしまう」という悲しい存在感がある。
各社のデザイナーさんの練りにねって製作したモックアップ以来の、「伝統芸」を批判するつもりは毛頭ないけど、デジカメの無個性は誰の責任なのか?

比較して言うのなら、16ミリのフィルムカメラがある。もともと、デジタル一眼レフは最高級機でも、そのボデイ価格は100万ほどのものであるのに対して、プロ用の16ミリ映画撮影機は一番安くても、その全盛期には700万円はしたのである。それぞれのカメラは個性的なデザインであって、よくフィルムクリューが遠方で仕事していても、その撮影機のデザインで、それがドイツ製のアリフレックスなのか、フランス製のアトーンなのか、瞬時に判断できた。

今のデジタル一眼レフには、「デザイン上の個性が欠如」している。カメラはスペックより、デザインである。欲しいカメラではなく、あこがれのカメラであって欲しい。
これが重要ポイントだ。

デジタル一眼レフのデザインが無個性だから、コンパクトデジカメを使うのではない。
コンパクトデジカメの歴代の機種で、あれは個性的であったな、、、と、今でも記憶しているのは、ニコンクールピクス100があるのみだ。実際、あれは良いデザインだった。だから今でも記念にその本体を所持しているのである。

コンパクトデジカメをデジタル一眼レフより、自分が上位に置くのは、デジタル一眼レフは「常時使用携帯できない」のに対して、コンパクトデジカメは「持っていることすら忘れる」ことにある。
カメラの最大の任務は、それを「常時携帯」することにある。コンパクトデジカメの場合、そのセオリーにあっている。

例えば、警察官や保安要員が携帯している、拳銃である。
あれはデジタル一眼レフよりも軽いかも知れないが、常時携帯するには重いし大きいであろう。だからホルスターに入れて、これは何時使うかも知れないか、その関係の人はこれを常時携帯しているわけだ。

拳銃のようなスタイルの銀塩カメラにドリューがあった。似たようなデジタル一眼レフで、拳銃のようなスタイルのカメラがあったら、これは欲しい。

今のデジカメは総じて、物欲からの極北存在にある。
ようするに「デザインがどうもね、、」なのだ。
オヤジの持ち物というにので、有名俳優を起用するのもそりゃそれで結構だが、、、。

日本の不思議と男性ポートレート

東京。
帰国3日目だ。

今回は家人の帯状疱疹で色々と家事手伝いがある。
その方が時差から脱出するのは容易であるようだ。

毎度のことながら、帰国当初は日本で普通にあることが実に不思議に思えてくる。
早朝、家人が実兄から受けたメールによると、実兄はお孫さんの幼稚園の入園の願書の受付の為に深夜の2時から提出に行ったそうである。

ローカルタイムの午前2時というのは、深夜である。常識外れである。
そういうことが常識というのなら、この国の常識はかなり進化しているわけだ。

昨日は終日、佃にて原稿書き。
締め切り間近の連載を2本。AXISの連載記事はまだ書いていない。
明日が2日の締め切りだが明日、書く。

日本カメラの前田編集長よりメールあり。
遅れていた「銘機礼讃3」の見本は月末に出るそうである。
ということは、発売は12月になってからか。
あまりに時間がかかったので、忘れかけていた。

一昨日の名古屋空港での自衛隊機の墜落事故の件で、パリから帰国時に脇に座っていた、神田愛知県知事がTVニュースに登場していた。最初はその方であると思わなかった。というのは写真家という商売は一度見た人、会った人は完璧に記憶しているが、それは視神経がそのアングルで憶えている目の記憶なのである。

だから飛行時間11時間15分の間の自分の記憶は横の神田知事の横顔だけである。それと眼鏡の種類はよく記憶している。それがコンソールの上にしばし乗っていたからだ。
ゆえに、正面のお顔は拝見していない。だからセントレアで荷物のピックアップ時に向かいに立っていた荷物待ちの紳士は正面から見ていると、知らない人なのである。

それが出迎えの関係者に挨拶するか何かで、横を向いた瞬間、脇に座っていた人の記憶が蘇った。
こういう顔のアングルに関係する記憶は良くあることだ。

正岡子規の場合、世の中に流布している有名な画像は左向きの顔写真だ。これは戦後の「文化人切手」にもなっている。
しかし、自分の知る限り、子規の正面からの顔写真はあまり無くて、子規の学生時代のがあるくらいだ。これはまだ無名時代の子規だから、こっちとしては有名になっての晩年の時代の良く知っている子規の肖像を期待してしまう。

男性の経済人のポートレートを沢山撮影した経験によれば、経済人でも撮影慣れしている人は、カメラマンからすると逆に撮りにくいものである。
ソニーの大賀さんとか、京セラの稲森さんはその意味で、カメラマンには協力的だけど、反面、そのお顔は「アニュアルレポート」めいた自信に溢れたにっこり顔になってしまう。
当方が撮りたい方向は、それとはちょっと異なるのだ。いずれにしても、女性ポートレートよりも男性ポートレートの方がずっと難しいことが、最近になって理解できた。
R1143303
帰国して、ebayで落札して忘れていた、NIZO 801 makroがドイツから到着していた。
黒い方のカメラがそれだ。
銀色の方のは、NIZO PROFFESIONALで、801
よりも高級機だ。
70年代にこういう世界最高のカメラをOEM生産していた、コシナは偉い。

スーパー8の8ミリカメラというのは、10年ほど前までは時代遅れの代表のように思われていたが、最近は違う。

フィルムはまだ手に入るし、その現像には1月も待つというのが、まさに「貴族趣味」である。
だから8ミリカメラを持って撮影している、60年代の英国王室などのニューズはなかなか格好良かった。今はああいうシーンはデジタルビデオであろうから、その意味では興ざめには違いない。

デジタルビデオよりも、映画撮影機の方が、それを所持して操作している人間の知的レベルが高いように思われるのは、まったくの錯覚に過ぎないのだけど、その錯覚にはやはり説得力があると言うべきだ。

2007年11月 1日 (木)

プラハ・巴里・セントレア・佃

R1143085 一昨日のプラハは珍しく良い天気だった。
プラハを午前10時5分のAFで離陸。
R1143190 12時前には、パリ。
飛行機の窓から、コンコルドを視た。これは昔は夢だったが、ついに乗る機会を逸した。

それから夕刻までラウンジで時間を潰す。本当はそこで仕事をしたかったのだが、最近のパリのラウンジはネットが有料だ。
それもかなり高い。

以前、まだJALがワンワールドに加入したいなかった当時、CDG1のFクラスのラウンジは接続が無料だった。

いや、あれはダイヤルアップが無料だったのか?こういうちょっと前の時代のインターネット関係は記憶があいまいだ。

CDGはやや遅れて離陸。
日本から来た時の航空路と異なり、かなり北側を飛行。それでもロッテルダムとアムスの夜景が綺麗。
スエーデンのヨーテボリの南を飛行したので、またそれで見当を付けて、持参の航空地図で遊んだ。ここらへんはトラフィックが激しいので、夜の空は見ていて目が回るほどだ。

隣の席の紳士はVIP待遇でJALの関係者さんが席に案内してきた。

きさくな紳士で巡航高度になってから、いろいろお話した。なんでも「エアポートセールス」とかで欧州各国を回ったというので、一体何であろうかと思ったら、セントレアの会社の関係の人らしい。その紳士は後ろに居るのはレントレアの会長です。と言った。

それならこの紳士はそれではどういう人なのか、それが気になったが、さっそく話はカメラの話題になった。

くだんの紳士は10年間、ミノックス35を愛用していたそうで、あのコンパクトなところがいいと言う。

それはそうです、、、ミノックスは何時も持ち歩けますと、自分はGパンのポケットから自分のミノックスAを取りだして見せた。
それから、デジカメとか銀塩カメラとかの話になった。

こういう場所ではあまり長い間話に興じるのはよくない。

それからは、窓越しに作り物のようにピカピカ光るオリオンとその下側のオリオン星雲。さらに天頂に見えるかなり出の遅い月を見ていた。
これがすばらしかった。天空も、それも誰にも見せることのないドラマである。

明け方になって、操縦室からの連絡でその紳士に「xxに電話連絡してください」とチーフアテンダントがなにかささやいている。

操縦室から連絡とはよほどのことである。それがなにか気になったが、それはプライベートなことだと思った。

夜が明けて、新潟から山岳地帯を飛行した。
プラハで連日の悪天候だったから、眼下に広がる山岳はまるで、ジオラマのように見える。

R1143277 高度が下がってセントレアにアプローチする光景はまるで地中海である。天候が良いので、海の青さは絵の具のようだ。

セントレアに到着して、その紳士と名刺交換をした。

名刺には大きな字体で、

「愛知県知事 神田真秋」 
とあった。

吃驚した。

後になって、上の電話連絡云々は名古屋空港の自衛隊のジエット機の事故連絡であったことに思い当たった。これは新幹線の「電光ニュース」でそれと知った。

荷物をピックアップするところで、またびっくり。
プライオリテイハンドリングのはずの自分の荷物が出て来ない。いやな予感がしたので、地上の係の女性に聞いたら、案の定、パリで積み残したという。

HISのツアーの荷物がばんばん出てくるのに、Cクラスの自分の荷物が積み残しはないだろう。

このプライオリテイハンドリングというのは、どうも最初に荷物を積み残されるという意味のようである。10年前にウイーン=パリでやはりそういうことがあった。
それで書類の手続きをして空手で空港を出た。

一つ、心配なことがある。
バターの250グラムが2個入っているのである。向こうなら問題なしだが、この日本の「暑さ」である。

バターがどろどろになったら、これはAFにクレームを付けるべきであろうか。
それにしても、待ち時間が5時間あるのに、これを積み残したのは何か意図的な背景があるのでは、、、と邪推したくもなる。
バター云々は冗談にせよ、中のプラハを撮影済みのモノクロフィルム50本のことが気になる。

セントレアの係の対応はなかなか良かった。
こういうクレーム処理の担当者は実に難しいものだが、若い女性でよくやってくれた。
これは合格点。

セントレアから出て、新幹線に乗るので、初めて「快速特急」の特別車両というのに乗る。
ここでも吃驚したことがあった。R1143287
周囲のお客さんがみんな、チケットホルダーという前の席の背もたれについた紙ばさみに自分のチケットを挟んでいるのである。

世界中の鉄道を取材した経験からしても、チケットホルダーはここだけだ。
誰が考えたのか、凄いのかばかばかしいのか分からないグッドアイデアである。

そのまま、のぞみで東京駅。
都バスでリバーシテイ21で下車。
13日ぶりに戻る。家人はまだ帯状疱疹は癒えず。
一方、ライカインコは元気いっぱい。

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東京、佃。

最初の東京での睡眠は夜中に目覚めて「自分の人生の拠点はこんなに頼りないよるべない場所なのだ」と感じるのは常のことだ。
その感覚は心地よい。これは老人の鬱とは意味が異なる。

時差にて11時前に起きる。眠い。

しかし、ジエットラグに感謝であろう。

以前のシベリア鉄道と郵船では片道1月である。時差など問題ではない。

銀行やら買い物やらで佃で雑事。

うちに時にとなりのタワーのim原さんに遭遇。この紳士とは佃界隈で良く会う。ようするにワーキングデイにうろうろしている老人の不審者がわれわれ二人だ。

エスカレータすれ違いざまに「あのチケットホルダーはアムトラックにもありますよ」と、教えてくれた。本ブログの真面目な読者さんなのである。この方はどちらかと言えば、ANA系だ。

感謝。
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スポンサーサイトで見た、
http://www.anone.cz/zobraz.php?id=A6
が面白い。

ちょうど、カレル大学の日本語専攻の学生さんと話をしている感じがある。
おそらく、ネーテイブではない人の書いた日本語なのだけど、それが実に魅力的である。ロゴがクラシックなのも、怪我の功名だ。

昔、ベラ・チャスラフスカ(最近の若い人は知らないか、、、)とプラハで電話を通じて会話をしたことがある。なにかの取材の用向きだった。その会話の後半に、ベラさんは、自分は日本語を勉強しているので、ちょっと発音を聞いてほしい、と言った。
彼女が話したのは、以下のフレーズである。

「トウキョウ エキ ノ タテモノ アカイ」

実に新鮮な感じがした。上のHPの感じはあの時の感じに似ていると言える。

上のHPをわざと、ローカルな味を出す為にデンツーあたりが造っているしたら、それはそれで、大したものである。

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  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
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