11月のおわりに
ライブラリは5年目になるが、窓に水滴がつくと、秋は深まったというか、冬が来たというかんじがする。ただし、ライブラリの自分はいつも、夏でも冬でも秋でも春でも、ユニクロのTシャツにユニクロのGパンである。
大昔、アメリカ兵が兵舎で、いつもTシャツ姿なのが変だと思ったけど、それのマネをしているわけだ。それでも朝、仕事場の室温は25,5度なのを1度だけ下げるのが自分の役目である。
あっと言う間の2007年であった。まだ11月であるから、今年を回顧するのはいささか早いかも知れないが、12月はまた打ち合わせやら、仕事やら多忙であるから、息つく暇もないだろうし、今のうちに今年のカメラ「総括」をしておこう。
昨年はコダクロームの16ミリの映画フィルムの現像が終わりになるというので、あわてて手持ちのフィルムストックを撮影して、スイスはジュネーブの現像所に送った。
今年は35ミリのフィルムの方の現像が年末いっぱいで終了するので、撮影していないコダクロームをもっている人は今のうちに現像してしまった方が良い。
ただし、アメリカにはまだ来年になってもフィルムは現像できるラボもある。
思うに、昭和30年代初頭の話だが、コダクロームは当時は日本で現像が出来なかったから、ハワイに送っていたのである。その当時、ハワイに行くなどという「大それた話」は一般のレベルでは考えられなかった。
小学校の同級生の父親が仕事でハワイに行って、向こうで8ミリフィルムを撮影してきたというので、学校の帰りにそれを寄り道して見せてもらった記憶がある。
文京区立小日向台町小学校からの下校時、あれはいったいどこのあたりになるのであろう。揺れ動く画面の中で、外人が行ったり来たりするシーンや、パームツリーや、海岸などがリアルに映っていた。外国製のフィルムをハワイに現像に出すのが、すごいことであるのにその現像所のあるハワイに実際に行って、そこを撮影してきたのは、これは大冒険であった。その直後にソ連が月の裏側の撮影に成功して、それが新聞の号外になったりした。
アメリカ大統領の葬儀のライブ中継はさらにその数年後の話である。しかも月の裏側も、大統領の葬儀も画像はモノクロであった。
だから、当時のハワイの実写の天然色フィルムの感動がいかに大きかったかは、今の時代にはちょっと説明ができないほどである。
カメラのシステムとメカニズムと、そのフィルムの現像とその結果に関しては、どうも1950年代から60年代が最高峰であったのでは、と思う。
フィルムのいらないデジカメで、そのまま画像を世界の果てにまで送付できるうような「つまらない世の中」が、現代である。
その原因は「物事にすぐに馴れてしまう、我々の時間感覚」にある。悪いのは我々の慣れというやつだ。
デジカメの大進化の前で、銀塩写真に取り組んで、展覧会(ギャラリーバウハウス)を開催できたのもよかった。それとその撮影で3回、プラハにただただ、モノクロの銀塩写真の撮影に出かけたのは、ゆとりであった。
カメラはコンパクトデジカメが主体だった。世の中の、デジタル一眼レフの競争はなにか対岸の火事どころか、遠い国の山火事という印象である。性能競争ばかりでそれで何をしたいのか。その方向ずけが希薄である。
だからメーカーさんは性能の競争と、タレントさんの獲得ばかりで、デジタル一眼レフを手にした後。ユーザーに何をせよとも言わない。不毛な時代である。ユーザー対策としては、愚にもつかない撮影会とコンテストか、、、、。
昨日の行動。10時にヒルズ。例によって、アカデミーヒルズのPCで仕事。一段落したら、キーの入力がひらがなになってしまっている。どうやっても元に戻らない。もともとPCは好きではないのだけど、最近ではやや慣れた。でも入力の変換モードの切り替えとか、画面の明るさの調整とか、どこを触ってよいのかわからないことが多い。それとフロントエンドプロセッサーが馬鹿なので、ちょっと書き込むような場合には非常に不便である。
先週、秋葉に入院したPBG4の修理があがったと連絡あり。なんでもバックライトではなく、インバーターの故障であったそうだ。これで、佃でまた画像を入れたブログを作ることができる。ライブラリにある、もう一台の画面のちらちらするPBG4を入れ代わりに入院させる予定。
12時に日本郵船の星野さん以下、3名様と、博報堂さん2名様来。
打ち合わせ3時間。仕事のための資料を何点か借り受ける。星野さんはGRD人類であって、今日はGRDにストラップのないのを持参して示す。この前の福田和也さんと同じ、GRDストラップアナーキスト(無政府主義ならぬ、無手提げ主義)である。危険人物というので、戦前なら、監視下にあったはずだ。
資料として(これは消費してよい)「キャプテンズテーブル 郵船オリジナルドライカレー」の提供を受ける。味が楽しみなり。
郵船で百鬼園が嘱託をしていたのは、「東京焼塵」に詳しいが、その中の内田嘱託は日記の中では、郵船の部屋から近所の明治製菓の中川さんのところに、キャラメルをもらいに行ったり、喫茶店でコーヒーとおかしを食べたりで、暇そうである。
長い日記の中で、一度だけ「南洋海運の件で書類を頼まれ忙しかった」とあるだけだ。それが今回、郵船の資料の中から「新田丸問答」のコピーをもらった。昭和15年の発行である。これは署名はないが、百鬼園の筆だという。その気になってよむと、確かにそうである。
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金曜の午後5時に日本カメラからメール。
「銘機礼讃3」の見本があがったという。ヨドバシ、フジヤカメラなどから大量の注文があったという
月曜に見本を受取に行く。実は今が(つまり見本を見る前の時間)が一番嬉しい。
来週に日本カメラで著書のサイン会。
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