« 2007年10月 | トップページ | 2007年12月 »

2007年11月

2007年11月30日 (金)

11月のおわりに

R1143732 画像の説明。

ライブラリは5年目になるが、窓に水滴がつくと、秋は深まったというか、冬が来たというかんじがする。ただし、ライブラリの自分はいつも、夏でも冬でも秋でも春でも、ユニクロのTシャツにユニクロのGパンである。

大昔、アメリカ兵が兵舎で、いつもTシャツ姿なのが変だと思ったけど、それのマネをしているわけだ。それでも朝、仕事場の室温は25,5度なのを1度だけ下げるのが自分の役目である。

あっと言う間の2007年であった。まだ11月であるから、今年を回顧するのはいささか早いかも知れないが、12月はまた打ち合わせやら、仕事やら多忙であるから、息つく暇もないだろうし、今のうちに今年のカメラ「総括」をしておこう。

昨年はコダクロームの16ミリの映画フィルムの現像が終わりになるというので、あわてて手持ちのフィルムストックを撮影して、スイスはジュネーブの現像所に送った。

今年は35ミリのフィルムの方の現像が年末いっぱいで終了するので、撮影していないコダクロームをもっている人は今のうちに現像してしまった方が良い。

ただし、アメリカにはまだ来年になってもフィルムは現像できるラボもある。

思うに、昭和30年代初頭の話だが、コダクロームは当時は日本で現像が出来なかったから、ハワイに送っていたのである。その当時、ハワイに行くなどという「大それた話」は一般のレベルでは考えられなかった。

小学校の同級生の父親が仕事でハワイに行って、向こうで8ミリフィルムを撮影してきたというので、学校の帰りにそれを寄り道して見せてもらった記憶がある。

文京区立小日向台町小学校からの下校時、あれはいったいどこのあたりになるのであろう。揺れ動く画面の中で、外人が行ったり来たりするシーンや、パームツリーや、海岸などがリアルに映っていた。外国製のフィルムをハワイに現像に出すのが、すごいことであるのにその現像所のあるハワイに実際に行って、そこを撮影してきたのは、これは大冒険であった。その直後にソ連が月の裏側の撮影に成功して、それが新聞の号外になったりした。

アメリカ大統領の葬儀のライブ中継はさらにその数年後の話である。しかも月の裏側も、大統領の葬儀も画像はモノクロであった。

だから、当時のハワイの実写の天然色フィルムの感動がいかに大きかったかは、今の時代にはちょっと説明ができないほどである。

カメラのシステムとメカニズムと、そのフィルムの現像とその結果に関しては、どうも1950年代から60年代が最高峰であったのでは、と思う。

フィルムのいらないデジカメで、そのまま画像を世界の果てにまで送付できるうような「つまらない世の中」が、現代である。

その原因は「物事にすぐに馴れてしまう、我々の時間感覚」にある。悪いのは我々の慣れというやつだ。

デジカメの大進化の前で、銀塩写真に取り組んで、展覧会(ギャラリーバウハウス)を開催できたのもよかった。それとその撮影で3回、プラハにただただ、モノクロの銀塩写真の撮影に出かけたのは、ゆとりであった。

カメラはコンパクトデジカメが主体だった。世の中の、デジタル一眼レフの競争はなにか対岸の火事どころか、遠い国の山火事という印象である。性能競争ばかりでそれで何をしたいのか。その方向ずけが希薄である。

だからメーカーさんは性能の競争と、タレントさんの獲得ばかりで、デジタル一眼レフを手にした後。ユーザーに何をせよとも言わない。不毛な時代である。ユーザー対策としては、愚にもつかない撮影会とコンテストか、、、、。

昨日の行動。10時にヒルズ。例によって、アカデミーヒルズのPCで仕事。一段落したら、キーの入力がひらがなになってしまっている。どうやっても元に戻らない。もともとPCは好きではないのだけど、最近ではやや慣れた。でも入力の変換モードの切り替えとか、画面の明るさの調整とか、どこを触ってよいのかわからないことが多い。それとフロントエンドプロセッサーが馬鹿なので、ちょっと書き込むような場合には非常に不便である。

先週、秋葉に入院したPBG4の修理があがったと連絡あり。なんでもバックライトではなく、インバーターの故障であったそうだ。これで、佃でまた画像を入れたブログを作ることができる。ライブラリにある、もう一台の画面のちらちらするPBG4を入れ代わりに入院させる予定。

12時に日本郵船の星野さん以下、3名様と、博報堂さん2名様来。

打ち合わせ3時間。仕事のための資料を何点か借り受ける。星野さんはGRD人類であって、今日はGRDにストラップのないのを持参して示す。この前の福田和也さんと同じ、GRDストラップアナーキスト(無政府主義ならぬ、無手提げ主義)である。危険人物というので、戦前なら、監視下にあったはずだ。

資料として(これは消費してよい)「キャプテンズテーブル 郵船オリジナルドライカレー」の提供を受ける。味が楽しみなり。

郵船で百鬼園が嘱託をしていたのは、「東京焼塵」に詳しいが、その中の内田嘱託は日記の中では、郵船の部屋から近所の明治製菓の中川さんのところに、キャラメルをもらいに行ったり、喫茶店でコーヒーとおかしを食べたりで、暇そうである。

長い日記の中で、一度だけ「南洋海運の件で書類を頼まれ忙しかった」とあるだけだ。それが今回、郵船の資料の中から「新田丸問答」のコピーをもらった。昭和15年の発行である。これは署名はないが、百鬼園の筆だという。その気になってよむと、確かにそうである。

ーーーー

金曜の午後5時に日本カメラからメール。

「銘機礼讃3」の見本があがったという。ヨドバシ、フジヤカメラなどから大量の注文があったという
月曜に見本を受取に行く。実は今が(つまり見本を見る前の時間)が一番嬉しい。
来週に日本カメラで著書のサイン会。

|

2007年11月29日 (木)

11.28東京大周遊

R1143724 R1143731 画像の説明。

飲み屋の帰りの暗闇の中に君臨する、ライトアップ。どっかの風俗かと思ったら、ふつーの家だ。クリスマスは人間の暮らしを狂気にする。

この間のen-Taxiの取材でお世話になった、石丸元章さんの「アフタースピード」(文春文庫)が届く。昔は1円でわら半紙が2枚買えた。これはわら半紙にすると100枚はありそうだ。しかもインクがなすりつけてあるので、そこに「思想」とか「文学」が生じる。

著者の前で、{1円で注文しました」と言ったら、「新品で買ってもらった方がうれしいんですが、、」

当然の理だ。

ライカのレアモデルについてライカ社の社長と歓談したときも同じことを言っていた。

ーーーーーーーーーーー

水曜日。
高曇り。
TRi-Xでの撮影に最適な日。時代は1960年代後半の気分。

午前はヒルズで仕事。
12時に藤沢の佐々木潤一來。
午後2時すぎに、都営三田線にて西巣鴨。それより滝野川5丁目のラビリンスにダイビング。
本当は、中山道(旧)の南側の例の稲垣足穂ゆかりの、中野アパート(旧滝野川区東谷端)方面に行きたかったのだが、すでにその建物はないので、安全圏で中山道の北側を選ぶ。

通常のラビリンスの周回に加えて、日本路地裏学会公認の一番狭い通路、つまり人間の肩幅の狭さ(これを業界用語で胎内くぐりと称する)の路地を立続けに3本ほど通過して、後ろを見たら、同行の佐々木の姿がない。路地に喰われてしまったのだ。

そのまま置いて行くわけにはゆかないので、捜索隊を出す。約10分後に防火用水と、道路工事にブロックされて歩行困難になっている佐々木を発見。無事、救出。

それからはあまり距離を置かないように、ザイルで確保(という気分)で歩行。
新板橋にて、埼京線を超え、さらに奥地の板橋は清水町方面。
ここで日没になり、佐々木の持参のペンタックス、オリンパスワイド、ならびにオリンパスXaはいずれもフィルムカメラなので撮影不能になる。佐々木はペンタックスのメッカ、前野町に行きたがるが、遭難の恐れがあるのであきらめさせ、転進。

自分の持参した2台のGRDー2ならびにR7だけが、唯一の探検機材となる。暗さますます増加。
泉町から、大原町の裏手をトラバースして、長徳寺に至る。境内を調査。完全に暗夜となり、狐狸妖怪にばかされても良いような暗闇を、いったん中山道に出る。
中山道の浜出屋は、増山の修ちゃんの藻に服していたが、来週の3日より再度開店のはり紙を見る。

本蓮沼のトプコン通りの裏手で、板橋区本蓮沼と北区赤羽西の境界線の上に片足ずつ置いて、その面白さを味わうように佐々木に言ったのだけど、佐々木は一向に興味がない模様。自分にしてみれば、38度線よりずっと興奮するのに、佐々木はそういうことに無頓着なのは残念だ。
赤羽西の「うさぎ薬局」の廃虚を見て、午後5時ちょうどに、酒亭楠の前に到着。
1秒の狂いもなく、のれんがかかった。

佐々木と今日の経路の@「青戸状況」とか佐々木の地元の「グランステージ藤沢」の取り壊し状況などについて情報交換をする。

戦果は佐々木はモノクロフィルム4本。あたしはデジカメで423カット。

|

2007年11月28日 (水)

KCチョートクカメラコラム170回

★銀塩クラシックカメラ

ライカのストラップのこと

ライカは売っても、ストラップは売るな!

別に父親の遺言というわけではないけど、使い込んだストラップは人生の友となりうる。

17歳の時に、神田のシュミット商会に行って、1本1900円だかでライツ製のストラップを買った。こっちは学校帰りの制服の高校生である。

その時に対応に出てきたのが、後年非常にお世話になった、シュミットの明石さんであった。当時の明石さんは30才くらいであったはずだが、高校生の自分から見れば、落ち着きのある立派な大人に見えた。

その時、明石さんはもう1本のちょっとキズもののストラップも付けて、2本で半値にしてくれた記憶がある。その2本のストラップを2台のニコンFにつけて、高校の行き帰りに池袋のロータリーで、「東京オリンピックまであと、xx日」という広告看板とか、おしゃれに地味なツートンカラーの塗色のトロリーバスなどを撮影していた。

いつかはニコンからライカ、それもM2のブラックを、と考えていた。その夢が実現したのは大学生になってから、父を脅迫してM2のブラックを買わせたのである。ライカの当時の純正ストラップは実に機能的にできていた。しかも3年、5年、10年、20年、30年と経過するに、脂と汗が革にしみこんで、良い具合にしなやかになる。

その2本の17歳の時に買ったストラップのうちの1本はまだ持っている。40数年ものだから、ポートワインならかなりのものだ。

ライツのストラップが手に入らなくなり、最近のライカ社のストラップは使用に堪えないので、(この前、ライカの社長さんと会談した時、いいストラップを作るように進言のをすっかり忘れてりまった)大手アクセサリーメーカーのUNと共同でライツの復刻ストラップを製作した。1万円もする高いストラップであるが、これは何十年という時間の経過で自分の分身になるようなストラップだから、これでも安いと思った。

サンプルに何度もダメをだして、完成したストラップの若干の本数に、冗談でサインを入れた。これはエンボス加工なのである。ライカストラップのブランド品のつもりだった。

先週、福田和也さんと、偽ライカ同盟の撮影会に行った時、福田さんが示した、ライカM2はブラックペイントの美品でまさに60年代の「東京カルチエラタン」に似合いそうだったが、自分が感心したのはそのことではない。

福田さんのライカには、UN製復刻ストラップ、それも自分のサインのエンボスが入ったのであったが、そのことでもない。

そのストラップには実際にライカで路上で撮影をした「経時時間」がそこに見てとれたのがいい感じだった。つまり福田さんはライカM2で実際に撮影をしているのである。その証拠がそのストラップ上に開示されていた。

★デジタルカメラ

コンパクトデジカメにはストラップはつけない

GR1の時代には、首から細いストラップでカメラをぶら下げていたのである。それがGRDになってもそうであった。最初のころは21ミリ相当のワイドコンバーターを愛用した。それを付けると全体のサイズがかなり大きくなる。それでストラップで首からブラさげるには好適であった。

この1年くらいであろうか、GRDの登場2周年の記念に出した「天使バージョン」のころから、あたしはGパンの尻ポケットにGRDを入れるようになった。天使バージョンの誕生の発端は、例によって打ち合わせの時に、まるで自動連想のように、勝手を言っていた私の垂れ流しの言葉の濁流の中から、リコーの企画の人がその「天使と青空と雲」という言葉を書き留めたおかげで、誕生したのである。

かなり派手なカメラなので、これをストラップでぶら下げるのは、ちょっとどうかと思ったので、それ以来、Gパンの尻ポケットになったわけだ。これが発見であった。以前はカメラマンジャケットというモノを着ていたので、コンパクトカメラはその胸のポケットに入れていた。要するに何か、シーンを発見した時に「速撃ち」が出来るのである。

ところが齢のせいというわけでもないが、カメラマンジャケットを着なくなったら、普通のジャケットでは「持ち重り」がするのである。

以来、GDRは尻ポケットである。これはモチーフを発見してすぐさま撮影に入れる。こういう場合、ライカM8でも、デジタル一眼レフでもダメである。カメラを取り出して両手で構えるというのはすでに遅いのだ。

一昨日の朝、佃を歩行していたら、運河から上がった、3匹のカモが目の前を行進していた。80年代の「カルガモ騒動」を思い出して、ポケットを探ったら、GRDがない。間違えて家を出る時に、GRDは虫文庫のトートバッグの中に入れたのである。

GRDは小さいから、それをトートバッグの中で探っていると、自転車で息子を乗せて幼稚園に送ってゆくお母さんが追い越して行った。当然、3匹のカモは離脱して、安全な運河の水の上に戻った。決定的瞬間を逃がしたのは残念である。

ポケットにGRDが入っていれば、こんなことはなかった。

この前の東京大周遊の時、福田和也さんの持参のGRD-2にはリストストラップがついていなかった。それがコートのポケットから瞬時に登場するのである。

お!なかなかやるな、、、と思った。我々は「ノンストラップパルチザン」なのである。

一方で「ストラップ党員」の党首は横木あらおであろう。

彼は常にストラップをつけたGX100を首からぶら下げている。最近ではそれが横木スタイルに思えてきた。佃の裏通りで石田衣良さんを雑誌で撮影していた横木はロケバスで乗り付けた大先生であって、スタイリストからアシスタントから、チームメンバーをひきつれていた。この場合、横木が首からカメラをさげていないと、誰が写真担当かわからなくなる。そこらの立ち飲み屋に向かう、おっさんと誤解される。

こういう場合、ストラップはやはり必要なのである。

|

土浦ツェッペリンカレー

R1143697 先週土曜日の四谷のアローカメラの集会で、久し振りに鵠沼在住のフィギュア作家で写真家の佐々木潤一に会った。佐々木はペンタックスに自製の緑色の不思議な格好の皮ケースをつけて撮影するのが常だ。まあ奇人であることは確かだ。

この秋のヒルズのエントランスで開催された、「チョートククラシックカメラ展」では、あたしの過去に撮影した写真集からのモチーフをフィギュアにしてくれた。それも展示したのであるが、高さは30センチ、幅は10センチほどの手の込んだエルンスト並と言ってもよい、一種のオブジエであって、それにはたくさん引出しがついている。それぞれの引き出しには、それぞれにあたしの作品をテーマにした、マスクのようなものが入っていて、それをペンタックスの三角形のプリズムの上にかぶせて「遊ぶ」のである。

そのうち、この手のフィギュアはタカラトミーあたりで出るかもしれない。そのタワーの一つの面には、プラハのアパートが登場するのだ。そのモノクロの作品は1975年ころの撮影で、それは窓のない壁面に、巨大なジッパーが描かれていて、それが今まさに、引き下ろされようとしている巨大広告だ。これを走行中のプラハの路面電車の中から発見して驚愕した。その作品は写真集「ウイーンとライカの日々」(日本カメラ社)に掲載されている。

この前のプラハ行きで完全に忘れていた、その壁の巨大ジッパーのことを思い出した。それは佐々木の制作したフィギュアのことを思い出したそこからの連想なのである。

37年前の現場を記憶を頼りに探したら、それはプラハ南部の古城ビジュハラド、ここには同名の地下鉄の駅があるのだけど、その谷の下に、その壁のジッパーはかなり色あせてはいるものの、今でも存在した。いきなり30余年前に時間が戻ってしまった。その上には巨大な鉄橋がかかっている。ここはプラハの自殺の名所だ。

R1143698 その佐々木が横須賀の何かのイヴェントで、海軍カレーをはじめとする各種のカレーのレトルトを買ってきてくれた。4-5種類である。五十六カレーとかいうのもある。まだ全部を試したわけではないが、最初に食った、地鳥の激辛カレーというのは、その激辛はくちほどにもないので笑った。次が土浦ツェッペリンカレーであるが、これは香りがよかった。味はそれほど辛くはない。デリーの駅前の野点カレーにしてもそうだが、昨年の11月のインドカレー修行で勉強になったのは、辛いだけではなく、その香気の大切さである。上はデリー駅前の「野点カレー」の図。

以下は土浦ツエッペリンカレーのHPの引用。

土浦では、当時飛来したツェッペリン伯号の乗組員たちに、地元右籾(みぎもみ)産のジャガイモを入れたカレーを振る舞って歓迎した話が残っています。「土浦ツェッペリンカレー」は、このツェッペリン伯号ゆかりのカレーを土浦商工会議所女性会が現代風にアレンジして再現したもので、飛行船型のターメリックライスにジャガイモをメインとした野菜ベースのヘルシーなルーと特製のたれで、じっくり煮込んだポークが絶品です。更に付け合せには、日本一の生産量を誇るレンコンをはじめジャガイモ、ニンジン、オクラなどの野菜がトッピングされています。

今、土浦では、「カレーのまち土浦」を目指して、「カレーによるまちづくり」に取り組んでおります。

引用おわり。

なるほど、土浦はレンコンは知っていたけど、カレーの街宣言をしているとは知らなかった。気に入ったので買おうと思ったら、HPがあるのに通販が出来ない。土浦の商工会議所をはじめ数か所で販売しているだけのようだ。

そのパッケージには、ルフトシーフ グラーフツエッペリンの雄姿がイラスト化されている。ツエッペリンの母港、フリードリヒスハーフェンには何度も行っている。同名のホテルにも泊まった。最後に行ったのは2001年9月11日。すなわちナインイレブンの当日であった。

ツエッペリンミュージアムには実物大のキャビンのモックアップがあった。実に快適なサロンであって、エアバス380などよりもずっと良い。ダイニングもゆったりしていた。今の飛行機にはダイニングはないからこの点だけをとってもすごい。その室内の壁画はユーラシア大陸の巨大地図をイラスト化したものであるが、極東の日本はまだ五重塔と目のつりあがった人種のモチーフである。

比較人類学の典型のような、絵柄だった。よかったのは、旧帝国ホテル上空に飛来した、ツエッペリンである。これは木口木版で帝国ホテルの上空に浮かんだ巨船の姿だった。

父の残した古いアルバムに東京市の上空に浮かぶ消え入りそうな、葉巻型の船体の色褪せたプリントを見た記憶がある。

GR-D2ワークショップ(えい出版社)の原稿を書いて過ごす。ランチの時に、「日本橋バビロン」(小林信彦 文芸春秋)を書棚に発見して読み始めたので、原稿の速度低下する。

じかし長年の疑問であった、東日本橋の名前の謎が解明した嬉しさ。小林信彦の実家はこの前、岩波の山口社長を歓談した「鳥安」のすぐそばだった。

|

2007年11月27日 (火)

神楽坂で「ぺら」を壱千枚買う

R1144281 R1144305 昨日、月曜の行動。

ヒルズで仕事。
岩波書店に提出する、今度のプラハの本のレジメを書く。
福田和也さんとメールをやりとり。
昨日の「東京大周遊」の感想など。

上の画像が、福田隊長とen-taxiの田中副編集長。距離を置いてみると、やはりあぶない。万国旗翻る、無人のシャッター街というのは、フェリーニ好みかもしれない。

ヒルズにて仕事しつつ
nizo801にて窓から雲を撮影する。
フィルムストックはプラスX。

子規の小品に「雲の日記」というのがある。
ステーグリッツには、エキュバレントがある。
自分の映画のショットは、それぞれのショットは短くて2秒ほどである。
少年時代にアルコスーパーメカニカで、雲を撮影したことがある。とっておきの、サクラクロームであった。
あれをモノクロで撮影しておきたかった。当時は「総天然色」にあこがれたから、モノクロで撮影することなど考えも及ばなかった。

「東京大周遊」で、福田さんの持参したカメラはハッセルの1000fとライカM2の90万代ブラックであった。レンズはハッセルがDistagon 60mm f5,6ライカは、Summilux35mm f1,5である。

またカメラの話だけど、ハッセルには220用マガジンがついていて、感度320のモノクロフィルムで撮影していた。露光の決定には、福田さんは、ちゃんとセコニックスタジオデラックスを持っているのであって、その脇で自分は人間露出計で、「はい!f11で1/500秒です」などといい加減を言った。

その背広にノーネクタイのままで、ボルボの後部に乗せてある、長靴にはきかえると、鳥類研究家のビクターハッセルブラッド氏に変身できるのが福田和也のハッセルスタイルだ。

ヨーテボリのハッセルブラッド氏の銅像(昨年の3月に出来たもの)は、そういうスタイルでクラシックなハッセルを持った、ビクター氏がカメラとともに幸せを感じている像である。ここには後年のNASAでのムーンカメラの大成功などはない。ただただ、自分の欲しいカメラが完成して、幸せなアマチュアカメラマンの像である。これにマントを着せようなどという、バカもいない。

実はハッセルブラッドは案外に、「持ち手の服を選ぶカメラ」なのである。これがライカと一番異なる点かも知れない。
ハッセルが一番に似合う服装が、宇宙服であるのは言うまでもないが、まずこれはなかなか調達できないし、第一、昨日のような尾久銀座商店街などでは通行のじゃまになるし、円谷特撮フィルムのロケと間違えられるから実際的ではない。

ハッセルが案外にラフな恰好に似合わないのは、かのアンセルがヨセミテでループタイでハッセルを持っていても、粋が上がらないのを見ても分かる。
モダンなスタイルだと、単なる「レオンちょいワルオヤジ」がナンパの小道具に使っているように見えて、始末が悪い。
結局、ハッセルはかのビクターさんのように、普通の「替え上着」に普通のパンツで普通の靴、ただし時々長靴というのが正解である。その意味で福田さんのハッセルスタイルは合格だけど、(これにつき子細あり。2週間考えたそうだ)やはりそこはノーネクタイが正しいと思う。ここにループタイを加味すると、これは日本の特殊事情だけど、そこには二科会写真部会友の気分が出来上がってしまう。
これはまずい。
220フィルムを装填する、福田会友の手許は確かであった。

上の画像は、ハッセルブラッド1000fにGRD-2をプラットフォームにして撮影をしているところ。巨匠メカスはムービーのタイトルを撮影するのに、そこらにある自著を撮影台にして撮影していたが、この方式はそれの上をゆく。

話が長くなるので、ライカM2のブラック仕上げに35ミリレンズのことはまた明日、書くことにする。
なお、これは佃のPowerBookで書いているので、9-2-2であるから、画像はなし。画像は午前10時過ぎにヒルズのマシンからアップの予定。

午後3時半に思い立ってヒルズを出て、麻布10番から南北線にて飯田橋。
神楽坂の先の方の横寺町方面の肉やさんの「蟹クリームコロッケ@110円」は、うちのライカインコの好物なので、それを買う。ただし今日は蟹ではなく、海老クリームコロッケであった。

神楽坂を毘沙門天の方にもどって、伊勢藤の路地を通過して、50番にてにくまんを3個買う。その先の「坂の上の二階」は気がつけば、すでにビルなってしまって存在しない。その速度驚くべし。

この界隈には、足穂も通った酒場があった。その向かいの三菱銀行の前で(これと新潮社だけが昭和10年代を今に確認可能なランドマークなのである)林芙美子がバナナのたたき売りをやっていたこと、これは足穂が記憶に頼って書いた地図に詳しい。

もう一度坂を下って、思い付いて山田洋紙店にはいる。
自分より二廻り上と思われるおかみさんに、「ぺらを、、、と」言いかけて、それでは分かるまいと思い「200字詰めの何時ものやつを、、、」と言ったら通じた。
いかにも、通い慣れているふりをしているが、その「いつものやつ」を、この前に買ったのは10年前である。
1年に100枚。10年で1000枚。これが自分のぺらの消費量だ。
大体、知り合いで、紙に原稿を書いているのは原平さんと、それから飯田鉄くらいなものだ。

100枚つづりを10個の包み、つまりぺら1000枚。これは400字詰めで500枚相当だから、ちょっとした長さの本の分量である。その原稿料が@5000円として、250万円。だからこれに書いて生活するためには、少なくともこの1000枚の包みを年間10個は消費しないといけない。
気の遠くなるような生産性の悪さ。広告文ならその10倍か、、、しかしそれは別の話だ。

業界では今でも400wあたりの原稿料というのが通り相場のようだけど、自分は本の長さは、エデイタのラインを80文字にセットして、それで計算する。以前はBlack Nextでクオークエキスプレスで原稿を書いていた。そのマシンはまだ机上にある。これだけは捨てられないのだ。
1000行で8万字だから200枚である。そうか、やはり400字詰めを単位にしているのである。ただし書いて行く時には、400字計算よりも、一行が80字と思っている方が書き易い。

買った原稿用紙は手紙用にするのだ。メールではなく、インクで書いた手紙用である。滅多に手紙など書かない。ところが知り合いの中に、PCも携帯を持っていないうらやましい人がいる。そういう人用の原稿用紙だ。
おそらく、もう一生、原稿用紙を買うことはあるまい。
その買いおさめである。

|

2007年11月26日 (月)

浅草の酒場に満月が昇った

R1144263 日曜日。
快晴。この所、ずっと快晴である。つまり日にちの感覚がなくなるわけであまり有り難くはない。
天候が2日晴れて3日曇るような方が、生活にメリハリが出て生きて行くのに張り合いが出る。

取材で真夏のアンダルシアに2週間いた時の記憶はほとんど残っていないのは、毎日、カラーコピーみたいな快晴であったからだ。それに引き替えリスボンの12月に時々、荒天になるのは記憶にはっきり刻まれている。

土曜の夕刻はシドニーの後、久しぶりに10年来のスタッフにて宴会に行った。野々宮BMW、マーシー、丸山の諸氏である。シドニーの常連さんから「呑みに行く時はここしか行かない」という「個人ミシュラン」の飲み屋データをもらったので、浅草はカミヤバーの近くのその店に行った。何でも、客の顔を見てから刺身のわさびをするのだそうだ。しかしこれは当たり前なことではないか。客の顔を見てから、わさびのチューブをひねるほう方が気が効いている。

ちょうど満月が隅田川の上に昇ったばかりで、飲み屋の2階は絶好のロケーション。唯一の欠点は自分の嫌いなチエーン店っぽい造りなのだけど、そんなのは気の合った仲間をばか話しをしているうちに忘れてしまう。
まず、持参のミノックスにて、隅田川上空に浮遊しているお月さまを撮影した。

先月の30日に見た月は満月でしかもプラハのアトリエには人工月が登場して、本物とレプリカの月の共演が面白かったが、あれからもう1月が経過しようとしているのだ。

久しぶりにあった丸山と、プラハの路面電車の話しになる。自分の自慢はプラハにある路面電車の1番から26番の全部に乗ったことだ。まるで国鉄(この言い方がぴったりする)の2万キロ余を踏破したおやじみたいなものだ。

丸山のプラハでの宿は日本人経営の民宿で、それは8番線の終点にあるという。「プラハの西はずれなの、東はずれなの?」と、聞いたら「どっちか分かりまん。そばに池があります」と、方向音痴みたいなことを言う。こういう男がバイク急便のライダーなのだから、分からないものだ。

マーシーは自分でシャッターを修理したという、ミノックスを示す。何でも、そこらの店から金属の薄い板を買ってきて、それでシャッター幕を自製したそうだ。すごい技術者である。

話しは弾んでいるのだけどなにかが変である。お店がたばこの煙くさいのだ。気がつくと向いの席の可愛い女の子のお客とか子供みたいなのが、みんながんがんシガレットをふかしている。

野の宮BMWが、「ここは時間の経過がおそいですね」と言った。
たしかにその通りで楽しい時間というのは、すぐに経過するのが普通であるが、ここではたばこが気になるので、その「すぐに経過する楽しい時間」をたばこの煙が後ろから引っ張って、時間の経過を遅くさせているのだ。
楽しい時間がゆっくり経過するのなら、その方がいいではないかというと、そうではなく、その時間経過が気になるのが、逆にストレスになる。
それをしおにして店を出た。
月は天頂に移動していたから、それなりに時間が経過したのかと思って、各自の時計を確認したら、まだ午後8時(現地時間の)であった。

--------------

ここより、昨日の行動。

午後2時、田端駅南口にて、en-taxi日本路地裏学会偽ライカ同盟東京大周遊田端尾久方面大調査団(かなり名称が長い。最近の銀行みたい)の調査開始。

団長は福田和也さん。副団長はen-taxi副編集長の田中陽子さん。ならびに石丸元章、平山訓生、あたしの各平隊員。

福田さんの持参カメラは、おそらくライカD3であろうと、予想していたのに、いきなりハッセルブラッド。

「なんだ、、、ハッセル500cか、、、」と、軽く見ていたのが、接近してみれば、ハッセル1000fに60ミリのデイスタゴンが付いている。昨年の3月にあたしがヨーテボリに持参した機材と同じだ。これはかなり凄い。ビクターさんも泉下でお喜びだ。

福田さんのポケットからGRD−2が出た。22日の発売日にどっかのネットの最安値のお店で買ったそうだ。しかも、ネックストラップはなし。本物のGTDistは、本体によけいな紐は付けないものである。これは本物のデジカメアナーキストだな。

そこから、展開したen-taxi日本路地裏学会偽ライカ同盟東京大周遊田端尾久方面大調査団(かなり名称が長い。最近の銀行みたい)の長征が開始された。

えー、その血沸き、肉踊るお話は次号のen-taxiの誌上で。(12月29日発売)
と、昔の紙芝居風だが、明日の日記で福田さんのカメラさばきをちょっと紹介しよう。

 

|

2007年11月25日 (日)

カメラジャングルで本を整理

土曜日。
快晴。
60日ぶりのアローカメラの「シドニー」であった。
シドニーというのは第四土曜の午後2時から開始の意味だが、駄洒落の範疇ではこれはかなり良い出来だと思う。
もう10年ほど継続している伝統芸能である。

ぞの前に午前中、仕事場(佃)の大テーブルの下の本と雑誌を大整理。捜索している本(レクタフレックス関係)は発見できずに、ロボットの本が(人造人間ではない、ドイツ製の連続撮影可能な35ミリカメラ)発見できた。それと、これも紛失したと思っていた、ロシア発行の「カラシニコフ」のカタログ本も発見。

目下、佃ではOSが古いのでこれを書いているから、画像がアップできない。
その話だが、昨夕、PowerBookを預けた、外神田のお店から電話あり。何の騒ぎかと思って、折り返し連絡したら、あずかったPowerBookの本体のビスが1本とれているが、それを確認してもらいたい。その後で修理に入るとのことだった。

かなりの誠実さで頭が下がるが、逆に考えると、秋葉人類はそういうことで、お店にクレームを付けてくるのがいるので、その対策なのかも知れない。

大テーブルの下から発見された「宝物」は、他にはgami 16(これも3年ほど行方知れずになっていた)とか、ロボットのファインダーとか、各種あり。
なにか路上でモノを拾得した感じだ。拾得物なら届けるけど、これは自分の管理する領域での拾得だから、それは必要はないのであろう。

あまり、根をつめて整理をしたので、後で軽い腰痛になった。慌てて、中山式快癒器でマッサージする。この中山式にはウイーン時代から御世話になっている。
海外に在住の日本人はかならず持っている「健康機具」あろう。面白いのはその時代によって、中山式快癒器のデザインがことなるから、そのデザインを見ると、その人が何年頃に海外に来たか、それが分かる仕組みだ。

ニューヨーク在住の絵書きさんのそれは、クラシックな陶器製であった。これは1960年代なかばの製品である。我が家にあるのは、70年代のそれのはずだが、案外、80年代に買い直しているかも知れない。
それでも四半世紀前のクラシックモデル。

面白い事実は、1950年代の雑誌の広告に登場した、中山式快癒器は今のような腰痛治療がメインの目的ではなかった。
当時の日本は、「はらぺこ時代」であったし、実に「胃下垂」で体調不良の人が多かった。だから快癒器はその体調を健康にする機具であった。

記憶に残っているのは、その広告である。使用前にはがりがりに痩せていた男性が、使用後の写真では結構な健康、というよりかなりのデブになっていた事実である。使用前、使用後の写真の元祖だ。
当時はデブは健康の一種と思われていたのである。
それが現代では、自分のようなデブのじじいが腰痛の治療に使っている。
この一事を見ても、世の中の思想、物品のその使用法とその価値の変遷は、マルクスレーニン主義と、中山式快癒器を見ただけでも分かる。


|

2007年11月24日 (土)

GR SNAPSの裏側とバックライト

今日も快晴。(繰り返すけど、今日とは昨日のことである。午前0時更新のため)
勤労感謝の日。
朝から強風となる。昨年の今ころはデリーに居て、毎日路地裏を徘徊していたものだった。デリーの北半分のオールドデリーばかりで、最初のデリー訪問にもかかわらずモダンなニューデリーの方は1度しか行かなかった。北京でもハノイでも、そしてプラハでもウイーンでもそうであるが、旧市保守党である自分は汚い、古い町の方に引っ張られて行くようである。
別に自分の意志ではない。牛にひかれて、善光寺。 ライカにひかれて旧市街。

その牛であるが、デリーではそこかしこに居る。いわゆる「のら牛」である。他にものら猫、のら犬、のら猿、そしてのら孔雀。実に豪華な面々。その間を徘徊するワイドローライを持った、のら写真家。それが自分だ。
のら牛は実にスナップの良いテーマになる。
カメラ向けると必ず、のら牛が入る。町に戦場ありは60年代だが、2007年にもなって、「町にのら牛あり」は、立派である。

柴田書店から、「カレーのすべて」をアマゾンの中古で買った。それが昨日届く。これはヒルズのライブラリに見て、面白そうなので手にいれた。

手にとってみるとなかなか良い。何が良いのか説明すると、ちょうどライカの図鑑のようなものだ。今の時代にライカは別にそれが撮影に必須なものではない。
もっと、その存在が昇華されていて、その存在を例えば精密に再現された、ライカの写真の上の見て満足するのである。ライカの場合はそれを食べてしまうのではないから、そのまま残るわけだが、自分のような大のカレー好きとなると、カレーの美しさを眺めていたいのだけど、自分の食欲にそそのかされて、それを喰ってしまうから、後には何も残らない。これが問題なのだ。

この「カレーのすべて」は、カレーの存在の一番良い瞬間をそのままに冷凍保存してあるようなものだ。そこが気に入った。柴田書店は食品本の専門出版社だから、そのレシピも出ている。しかしそれを参考にして、カレーを製作するつもりはない。自分はカレーの存在を眼で楽しんで、味わう、いわば「アマチュアカレーマン」(この音はアマチュアカメラマンに似ているので気に入っている)である。

上の画像は、オールドデリーの「野立てカレー」。野菜カレーの上等だ。 ★おわび。目下、PowerBookがドック入りしてるので、この古いPowerBookの0S9-2-2だと画像がアップできない。 毎日通って外人の常連になった。外人だから、ちやほやしてくれて、一般デリー市民は御覧のように、地べたであるが自分は反対側の道路の縁石に案内された。VIP席。それにしても3つ星ミシュランに輝いた「すきやばし次郎」は10席である。あそこが世界中から押し寄せた外人グルメに占領されるのを見てみたい。

アマゾンから届いたもう一冊の本は石丸元章著、「平壌ハイ」(飛鳥新社1999)
実は明後日、en-taxiの関係で、日本路地裏学会田端調査がある。福田和也さん(自分の方で勝手に、偽ライカ同盟と日本路地裏学会に入会を許可)と、出かけるのだけど、それに同行してライターをやってくれるのが、石丸元章さんである。
これは嬉しい。平壌ハイをその前に読もうと思って、アマゾンで中古を調べたら、1円からあるので眼を疑った。しかしいくらなんでも、1円では著者に失礼だから、その上の値段で売っている98円の方の本屋さんに注文した。その本が届いた。
読むに痛快。願がわくば、この感じでレポートしてもらいたいな。
------------------

GR SNAPSをようやくバラバラに分解した。バラバラ事件である。最近、この言葉もマスコミ上には出ない。自主規制の対象であろうか。
カード状態になって、始めて表と裏を一体のものとして認識できるようになった。最初からそういうコンセプトのもとに製作されているのだから、当たり前ではある。

この「GR百人一首」では、ほとんどの人が裏に手描きで文字を書いている。これが面白い。その中で手描き文字を自分が見て知っているのは、赤瀬川さん、坂崎さん、なぎらさんくらいである。これらの片からは、メモを手渡されたり、はがきをもらったりしているから、人間と人格と筆跡が一致している。

他の皆さんは、その筆跡を知らない。人間には筆跡というものが存在したんだ、、、と改めて確認。
紙の裏を「紙背」という。昔の言葉だ。眼光紙背に達する、などと昔の人は言ったものだ。(明治時代の話し)

今はPowerBookの液晶の裏側に視線が届く勢いで仕事をしているのだが、そのPowerBookの佃にある2台のうつ一台のバックライトの蛍光管が切れた。液晶まっくら。
代打で、古い方のPowerBookG4を使ってこれを書いている。不便なのはシステム9-2-2だから、銀行にも航空会社のオンライン予約にもアクセスできない。そのためには六本木にある、PowerBook(これも2台のうち、一台は液晶が震えて使えない)にまで出向いて、銀行のオンラインにアクセルする必要がある。

便利だか不便だか分からない。
これは困るので、これからバックライトの交換に秋葉に出かける。
ーーーーーーーーーーーーーー

|

2007年11月23日 (金)

ミジュラン赤本東京とGR SNAPS

R1144205 快晴の東京。
完全な冬型。

昨夜(実際にはおとといの夜)は、なじみの板橋は大原の浜出屋の増山修一さんの通夜だった。

場所は板橋区大原の長徳寺。

築地塀をめぐらした立派なお寺だ。20年ほど前に知り合いから、この長徳寺のことを聞いた。名前が同じという程度の意味である。

渋谷には「うどん長徳」というのもあって、そこにもたまに行った。そのお店は今はもうない。

大原の長徳寺の方は、東京カメラクラブの真冬の「死の行軍」(一種の鍛錬を兼ねた撮影会)をここで開催(と、言うよりも勝手に境内にちん入して)したこともある。

その長徳寺は増山家が檀家なのである。

ライトアップした山門はなかなか良い感じだ。NHKの時代劇のドラマみたいだ。これがお寺ではなく、小笠原伯爵亭みたいなレストランであったら、外人さんを連れてくるのに格好な、ミシュランの星がつきそうである。

お通夜は立派であった。

実はその足で浜出屋に行ったのである。
通夜の席から抜け出して鍵形小路の裏道をたどって、中仙道の浜出屋に行くと、お店には明かりがついている。
白地に墨痕ののれんがゆれていて、ガラリと引き戸を開けるとお店は満員。カウンターの向かいにはデニムのエプロンをきりりと掛けた修ちゃんがいる。

「いやあ、、、大変な人の数だった。いま、あんたのお通夜に行ってきたよ。月が煌々としていい晩だね。実にいいお通夜だった」とあたし。

「あ、長徳さん、通夜に来てくれたの。居眠りしてたんで、気がつかなかった。でもああいう立派で仰々しいのは嫌いなんだよ、俺、、、」

「修ちゃん、あんた、もう解脱したんだからこの際、言うけどね、客商売なんだからお客さんにいらっしゃいませ、ありがとうございました、くらいは言うべきだったね。ついに四半世紀、いらっしゃいまで、を聞いたことなし。ありがとうは何度か聞いたけど。まあ、済んだことだからいいけど、、でも、いい人生だったねえ、、、」

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

暗い街角を長徳寺から何度か曲がって、その先の中仙道のライオンズマンションの前の浜出屋まで歩行。シャッターは閉まっている。

そこで初めて今の通夜が「本物」であったことに気がついた。

それから供養をかねて、中仙道を横断してトプコン通りの「楠木」に行く。浜出屋さんには、ご家族が落ち着かれたら。GR SNAPSでも持って、遊びに行くとしよう。

R1144212 さて、午前中は昨日到着した、この写真集「GR SNAP」を見て暮らした。

本来はカルタのように、あるいはポストカードのように、ばらばらにして楽しむ出版物なのだけど、片側を無線綴じでかがってある。

それを分解するのがちょっともったいない。

見ていて、「へえ、赤城こういちさんは、最近、芸風がかわったねえ、、、」と感心していたのだけど、それは間違い。その画像は赤瀬川原平さんの作品であった。ばらばらにする前は、普通の本の感覚で、見開きだと理解してしまう。

右のページが作品で、左が作者のコメントという錯覚が生じる。自分の作品は成田から離陸した日本航空の上海行きが、佃島の上空を通過するのを高度9000メーターから撮影。その左ページにはなにか書いてあるが、これは自分のコメントじゃない。そういう錯覚がおきるのである。

やはり本の本体をばらばらにしてから鑑賞しよう。

名作、力作そろいである。倉敷の虫文庫(ここのトートバッグを愛用)の田中さんの作品も出ている。

今日はGRD-2の発売日。それからミシュラン東京の発売日だ。これからヒルズの6fの書店に買いに行く。

あ、上の画像は本日発売のGRD−2で撮影です。下も。

ーーーーー

R1144218森タワーの 下の書店で、ミュラン東京2008を買う。2200円+税。まず、その体裁が期待外れ。パリでミシュランで遊ぶ、というのは長年の自分の「想像プレー」であって、パリのなるべく安いホテルでパテとかチーズと肴にして、ワインだけはちょっといいやつで、それをやりながら、赤本を見るのである。

これはガイドブックを「読み物」として楽しむわけだ。まず本物の赤本(こういう書き方だと、東京は偽物のような印象で誤解を生むけど)は、ライスペーパーみたいな辞書めいた紙でその印刷もミシュラン的(という以外に言いようがない)である。

R1144219 東京版で駄目なのは、カラー写真の多用。斤数の高い上質紙。それとテキストの「ぎっしり感」がないから、編集の中とでやめにしたような感じで、情報の欠如を感じる。大体、ほとんどのページで7行から10行の白い部分があるのは、駄目だ。ここをメモに使えと言わんばかりだ。

ホテルセクションで、いわずもがなの室内の写真も必要なし。つまり、写真を排除してしまうと、そこに残る情報は「インフレで与えた★」と「普通のタウンガイド」なみのテキストだけだ。これが2,200円+税は高い。

本物のミシュランは薄い紙で、小さい文字で(この場合、日本語も不適切)あるのが必須だ。そう考えると、自分などはミュランの赤本のその存在に恋していたことになる。

あまりのカラー版だと、安っぽくて、3流のタウンガイドめいてくる。かなり前に赤本で伊太利亜を取り上げて、それとドイツを取り上げた時に、すでにびっくりした。それがついに日本まで来たかと思うのは、どうもしっくりしない。

10年近く前、ライカポケットガイドの日本語版を出した時、その当時のミシュランの装丁の真似をした。カバーに「この本はミシュランのガイドのように扱ってもらいたい」という意味のことを書いた記憶もある。

そのガイドブックは自分の持っているのは「束見本」だけで、今では古書店で1万円もするので手が出ないが、あの10年前のミシュランを真似た時代が懐かしい。

今はオンラインでいくらでもレストランとかホテルの情報は手に入る。自分の欲しかったのは、東京のレストランの格付けではなく、クラシックな赤本の存在そのものであった。紙の物質としてのあの存在感に触れたかったのだけど、それには失望した。

今回のミシュラン赤本東京は、なにか日本製のツアイスレンズとか、ライカレンズのような粗な時間だ。昔のツアイスやライカを知る、自分のようなオールドボーイにはやはり「何かが違う」と感じるのだ。

結論を言うのはまだ早いけど、あの赤本の興奮がここには欠如している。

ミシュランのトップはそのことを知っていながら、戦略的は背景でこれを出したのではと、邪推してしまう。全店に★がついているのは、駄目だ。★の権威が堕ちる。東京版では★は「参加賞」みたいなものだ。

まあ、ミシュランの「商売上手」だけは理解できるが。

|

2007年11月22日 (木)

映画の移動撮影テクニック

R1144194 快晴の東京。

ヒルズのロッカーに備えつけのカメラはアリSRからニッツオ801にバトンタッチ。フィルムストックは7265、つまりプラスXである。

以下、特別に記さない限り、これは前日に関係する記事を思っていただきたい。もっとも、午前0時に更新しているわけであるから、前日の記事以外には存在のしようはない。

昨日記載の国際放送機材ショーはかなり興奮。グライドカムを実際に装着して体験撮影ができたこと。自分にとっては、これなヒューストンでNASAのシャトルのモックアップ内に入った時以来の感激だ。

同様のシステムに、ステデイカムがある。これが出た時にフォトキナで体験搭乗(というか適切な言葉が見つからない)させてもらったわけで、それが30年ほど前である。

当時は映画を見ていたので、マラソンマンとかロッキーとかで、そのシステムが活躍するのを見た。マラソンマンでは、セントラルパークの貯水池の脇をランナーが全速で走行するのを前からキャメラが移動しつつずっとみているというわけだ。

最初は長回しの移動ショットでドーリーはないし、路面のレールも見えないので、実にびっくりした。それ以前は移動ショットと言えば、レールの長さが限界であったからだ。

ロッキー1の方では、本編の中に撮影中のステデイカムのオペレーターの姿が見える。名前を失念したが、この機材が登場した当時のスターカメラマンで、フォトキナで話をしたのもこのヘラクレスみたいなアイアンマンであった。本当の試合なら試合中にカメラマンがリングにいることはないわけだが、自分が繰り返し見たのは、リング上のカメラマンの動きだった。

当時のスタビライザー装置は大男でないと無理だし、専門職だから雑誌アメリカンシネマトグラファーなど見ていると、ちゃんと「ステデイカムオペレーター」のタイトルがついていた。

それに比べると、今のグライドカムなどが進化したものだ。それで競合機の半額くらいのコストであるという。

ロシア映画の歴史的な名作「カメラを持った男」では、木製三脚に手回し式の箱形の35ミリ映画撮影機がその時代のスターとして活躍する。これが20世紀の初頭の映像界のトップシーンである。

21世紀の映像の送り手のトップスターはグライドカムのようなスタビライザーとそれを操作するカメラマンであろう。

流れるような移動ショット。いいねえ。

それ以前、たとえば、シュレンドルフの映画を1976年に手伝ったことがあるが、当時のニュージャーマンシネマではまだ、まだこの手のテクニックはなかった。

シュレンドルフの「とどめの一発」では、主演俳優が女性を射殺して、走ってくる蒸気機関車に飛び乗る。そこまではレールの上をドーリーでアリ35BLが主演を前から撮影して、先に列車にカメラマンは乗る。実際にはアリBLを肩に乗せたカメラマンとフォーカスプラーが一緒に走行してきた列車に後ろ向くに飛び乗るのであるから、危険きわまりない。その場合、今、ドーリーで移動してきた地面のレールは撮影できないから、そこが難しい。

しかもSLというのは速度が調整できないから、主演がいい位置に来た時に、うまくその前に来ることが実に困難であった。

シュレンドルフ監督は俳優とかスタッフ使いの荒い人で、12時間労働は普通だし、撮影もテイク30なんていうのは普通である。

だからその重要ショットは列車と人物とカメラがうまくシンクロするのに、10回以上のテイクを撮った。しかもマイナス10度の雪の広野の中である。

ああいう場合、これがスタビライザーつきカメラであったなら、もっと撮影は楽であったに違いない。

昨日の「カメラ礼拝」で面白い点に気がついた。ソニーのデジタルシネマの方は型番はf-23で、Fはフィルムの意味であろう。

アリフレックスのD-20というのは、デジタルカメラのDである。アリはフィルムカメラのメーカーであったから、ことさらにデジタルカメラを意識してDを使う。

ソニーはデジカメメーカーだから、ことさらにフィルムカメラを意識してFを使う。

ーーーーーーーーーーー

深夜にブログを更新して自分がグライドカムをテストしている、下の方にある縦位置のカットを見てたら、佃のパワーブックG4の液晶がいきなり点滅して真っ暗になった。

液晶の故障かと思ったら、液晶自体は生きている。よくわからないけど、バックライトが切れたようである。この夏にヒルズに置いてある、同じG4は液晶の画面がぶれて使えなくなった。

10年近く前のパワーブックG3は何とかHDを交換したけど、まだ元気である。古いマシンの方が長く持つようだ。

新型のパワーブックを買うには絶好の機会であるが、どうもマックブックというのは信用できない。名前が変である。なにかヨックモックみたいだし、インテルインサイドというのも、信用がおけない。

当分はこのアカデミーヒルズ所有のデルを使おう。インテルだし、大嫌いな窓屋のPCであるが、自分の所有でないと思えば腹もたたない。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

|

2007年11月21日 (水)

国際放送機材展に行く

R1143690 R1143693 INTER BEEとは、International Broadcasting Exhibitionであるという。

今年で第43回。場所は幕張メッセ。22日の木曜まで開催。一般のアマチュア機材ではなく、本物のプロ機材の現在を視るには格好の展示会だ。

冠スポンサーの駒村商会から招待状をもらった。親切なことに登録には時間がかかるといけないというので、展示者用のカードももらった。
この前、同展示会に行ったのは、、30年ほど前か、当時の場所は北の丸公園の科学技術館で開催されていた。カクカクした不思議な建物だった。

幕張メッセに行くのは10年ぶりかも知れない。このような巨大展示会に行った最後の経験は1998年のドイツのフォトキナであるから、これも10年ぶりだ。

あ、そう言えば、来年はフォトキナの年である。

まず感じたのは、参加者が真面目で熱心であること。ようするに、以前のカメラ用品ショーとかカメラショーで名物になっているような、会場のおねえさんおっかけの「カメラ小僧」が皆無である点。
その真摯な機材への興味というか、研究心が実に気持ちいい。

今回の自分の目玉は、駒村商会が関係している、グライドカム、センチュリー、アントンバウアー、ミラーなどの専門機材を見ること。

あ、上のブランドが何であるか、それは書かない。それが何であるか知っている人だけが来るような、レベルの展示会なのである。しかし、このメジャーブランドを駒村商会が全部関係していることに関してはかなり吃驚した。

駒村の展示ブースは5号館のスタンド5507である。ちょうどパナソニックと東芝、池上通信機のそばである。すごくいいポジジョンだ。駒村商会とパナソニックとでは、会社の大きさでは、自分の見解ではパナソニックの方が「ちょっとだけ大きい」という認識があった。

これはフォトキナの経験なのだけど、そういう真面目な、でもあまり大きくはない会社はホールの隅の方から探すというのが、自分の20年のフォトキナ経験則なのである。それで周辺を探しても発見できなかったので、、、不思議と思っていたらど真ん中に駒村商会のブースがあった。
凄い。

駒村社長は開会直後で飛び回っているようなので、先に駒村の専門家から、グライドカムのデモを見せてもらった。このカメラのスタビライザー装置はかっこいい。
ロボコップみたいだ。スタビライザーを扱うオペレーターは現代の「視神経のヘラクレス」である。

センチュリーは、自分は数本の超望遠レンズを持っている。1970年代、まだニュースを16ミリフィルムで撮影していた当時、センチュリーの各種交換レンズはステータスであった。今、所持しているのは、センチュリー300ミリ、500ミリであるが、それをアリフレックスSRや、エクレールに付けて使っている。往年のセンチュリーレンズはまだまだ現役だ。
最近のセンチュリーはプロ用の各種コンバージョンレンズを出している。

会場を巡った。
自分の見たいのは、まずソニーのデジタルシネマカメラF23である。パナフレックスやムービーカムのような、ムービーカメラスタイルのデジカメである。
これを会場で「礼拝」した。実にデジカメもこのクラスになると「信仰に対象」となる。R1143666

R1143678 もう一つは、ナックカメラサービス(その名前の懐かしさよ!)で、発見した、アリレックスのD20。フィルムスタイルデジタルカメラと銘打っている。

ソニーのF23はそのスタイルは、パナフレックス的なのに対して、アリフレックスD-20の方は真四角で素っ気ない。
昔のミサイルのトレッキングカメラみたいだ。

その脇にあった、最新モデルのアリのフィルムカメラのデザインはいい。これは欲しくなる。でも見直したのは、自分の持っている、2台のアリフレックスSR(1型と2型)のことだ。このオリジナルのデザインの良さを見直したのである。

放送機材展ではもうフィルムカメラは存在しないと思っていたのに、アリのフィルムカメラを見ることが出来たのは大収穫。

駒村商会のブースに戻ったら、駒村社長が戻っていた。北京のカメラデイラーの王さんと名刺交換する。田R1143669 中さんの名前は中国のカメラコレクターの間でも知られています、と、王さんは流ちょうな日本語で話す。うれしいことだ。

王さんの会社は北京では自分の一番好きなロケーションにある。すなわち、北京写真機城なのである。ここにはよく通ったなあ。

北京の西の方、五裸松という地鉄の駅から環状線を北に行ったところである。

記念写真を、という駒村社長のアイデアで、自分はグライドカムを「着せて」もらう。31年前に最初のステデイカムが登場したとき、フォトキナの会場でやはり「テスト」させてもらったことがあった。当時はアリフレックス35ー2cの改造モデルでモノクロモニタが付いていた。
あれは1976年だから、実に31年ぶりに、カメラスタビライザーを装着体験したわけだ。

R1143684 感想としては、肩載せ式のべーカムでもその操作は案外に軽い。2ー3日の訓練で自分もグライドカムオペレータになれそうだ。

マンハッタンの怪人、チョーセイさんが絶賛していたのが、グライドカムである。
もし、自分がオペレーターになったら、恐らく60歳だと世界最高年齢かも知れない。

放送機材展の機材の単価はコンスマー向けではないから、それは高価である。そこに夢があって楽しい。

アリフレックスとかソニーのシネデジタルカメラのような機材はレンタルするのが普通である。そこには物欲とはちょっとかけ離れた存在の感覚がある。

実にわくわくする、一日だった。

うーん、明日も行きたくなるな。

★撮影カメラはR7。あたしを撮影してくれたのは、駒村商会の新田さん。この人はかなり写真がうまいと思う。

|

2007年11月20日 (火)

タバスコの「恨み」

R1144193 昨日の行動。昼前からヒルズ。原稿書き。だんだん、日が短くなる。日没はかなり低いところからの射光でドラマチック。いまさらであるが、まるで模型のような東京。

自分はタバスコ中毒であることには間違いがない。タバスコが切れだすと落ち着かない。あわてて下のスーパーに買いにゆく。

R11436491973年のベニスだった。
真夏の撮影で疲れ切って、バールで麦酒。ピザを頼んでタバスコを持ってきてくれと言ったら、これがないのである。
恥ずかしい話であるが、日本でピザにタバスコは必須だから、イタリアでもその通りと勘違いしていたのだ。

最近はイタリアでもタバスコはあるが、70年代にはなかった。だいたいが、そんな調味料がなくても、イタリア料理はおいしい。

プラハのアトリエに住み始めた当時、どういう具合か知らないけど、アメリカ軍のレーションが大量に蚤の市に出たことがあった。その当時はまだ食料品の店も少なかったので、これを愛喫した。

いうまでもないが、アメリカの兵士の食う、まったくなっていない味付けの弁当である。その前にニューヨークでジャンクフードの訓練を受けていたから、そのことはびっくりはしないで、なにか懐かしく感じた。レーションの中はブランドではなく、それぞれの食品なその名称だけがシンプルに記載されている。つまり、ポークチョップもキャンデーも、コーヒーもすべて匿名性なのに、唯一、それだけがペッパーソースではなく、タバスコと表示されていた。タバスコはタバスコであって、ほかのペッパーソースではないという一事を面白く思った。

書肆ユリイカのあった、神保町の路地裏の喫茶店、ミロンガに1ガロンのタバスコの巨大な瓶があったのはあれは80年代の後半であろうか。その巨大なボトルの中は全部、タバスコで充満していると思うと、頼りがいのあるという印象があった。その巨大モニュメントは見えなくなったが、まさか消費したのではあるまい。人間一人では一生でも持て余す量である。(訂正する。一年弱の容量が正しいかも知れない。下の500ccは大抵1月でなくなった。)

500ccの壜はは注文してストックしたことあり。これもなくなったけど、竹下通りにタバスコのアンテナショップみたいのがあって、そこで買った。ほかに通販でもタバスコグッズをそろえた。
ダラスとかヒューストンに行った時、あまりタバスコのお世話にはならなかった。もともと、ケージャン料理でも必須と思うが、実際には料理そのものがかなりホットだったからであろうか、向こうを旅していた時にタバスコの記憶はない。

先月のプラハでがっかりしたのは、アトリエの一番近い巨大スーパーからタバスコがなくなったことだ。スーパーのチエーン店が、巨大な企業からさらに巨大な企業へと、移ったのであるが、そこのタバスコがなくなった。今までそこに永遠に存在すると思っていたタバスコであるが、旧東欧のプラハなどでは輸入品だから高級品である。

たぶん、商品管理のマネジャーが「辛いもの嫌い」で、撤去したのではないか。
タバスコの恨みはあの世まで。

ウイーン時代の古い友人の栗田はどうしているであろう。いきなり、そばに寄ってきて、「あのチョートクさん、十円玉をさあ、タバスコで磨くとぴっかぴっかになるでしょう、、、」というのである。

場所はウイーンであるから、栗田君は青少年時代の名古屋でそのような経験をしたのであろう。そのぴっかぴっかに磨かれた10円はもとよりその価値が上がるわけではない。

そこをあえてやるのが、栗田のアーチストたる要素である。彼は「油」を習得しに、ウイーンにきた。同時代のピアニストで、ちょっと感覚のずれた天才の女性がいて、「栗田くんは何をやってるの?」の答えは「油だ!」であった。

「えっ!油屋さん、、、!」と、変な結末になった。その当時、お金がなかったので、タバスコを買いにゆくのは、一大決心が必要であった。

そういう決心をして買う方がタバスコはその辛さが増すようである。

----------

なお、本日の「遊行予定」。幕張メッセで22日まで開催中の、Inter BEE 2007の初日を見学。駒村商会はコマ番号5507。最新の放送機材を視て一日遊んで来よう。

駒村の扱いのGLIDECAMと、CENTURYのレンズがお目当て。

|

2007年11月19日 (月)

11.18東京大周遊

R1143647 朝、板橋は大原の浜出屋の増山の修ちゃんが、今朝、亡くなったとお嬢さんからメール。

高校時代、電車通学で、都電の中から見ていた焼鳥屋である。大きくなったらこういう店に入る大人になろう、、、と思っていたのだ。
実際に浜出屋さんに行ったのは、1980年にウイーンから戻って、その後の1年のニューヨークもあったが、それでも四半世紀以上は行っている。10年来、ガンと闘った人。明るい人。ちょっと堅物な人。しかもスポーツマンで、同時にカメラのことも詳しい。
無論、お膝元のトプコンファンでもあった。
最後に会ったのは(お店に行ったのは)この夏であったか、、、、、

何時、幽冥境を異にしても不思議ではないから、浜出屋さんに行って修ちゃんに会うと、これが何時も最後と思っていた。

そういう次第が何度も繰り返され、修ちゃんに会うことは即、自分が生きている時間であることを感じていたのだが、もう店の奥から修ちゃんが出てくることはない。

何かが完成されたというのか、人間の訃報はなにかが、清められた感じがするものだ。

通夜と葬儀は板橋は大原の真言宗「長徳寺」なのである。
その長徳寺で東京カメラクラブの撮影会をしたなあ。お子さん二人(おねえちゃんに、あんちゃん)がお店を継いでいるので、奥さんも安心であろう。

これからも、行くぞ!浜出屋!!

快晴の日曜にひかれて(という言い方はトリックである。天候の悪い方が撮影欲がわくものだ)
撮影行。
カメラは銀塩部門はM3のブンデスアイゲンツム。
オリーブ塗色の西ドイツの軍用ライカ。それにニッコール21ミリ。デジカメは例によって、GRD-2。

最初、有楽町に出て、ビックカメラで登場して1週間のα700のデモ機を見る。α100と比較してそれほど大きいという感じはしない。それは脇にあったα100と最初は区別がつかなかったからだ。時間が時間(日曜の午前)なので、デモ機(7台確認)には2−3人の人がついている、という感じだ。操作はやはりかなり速い。α100が値崩れしたら買おうと思っていたが、実際に手にしてみると(発表会の時には実機に触ってもあまり感想はなかったので)買うとしたらこれであろうな。

ただし、7台のデモ機のうち、2台はすでにバッテリーが上がっているのか、操作不能だった。「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」でも書いたが、量販店でバッテリー切れとか操作不能のデモ機というのは、あれは展示しないよりも始末が悪い。

アキバでヨドバシのα700を見る。こっちは確認したら8台のデモ機あり。こちらのバッテリー切れは空腹のため、未確認。

8Fの西安にて、麻辛面。今日は日曜なので、平日より150円高の850円だ。お店は満員。

R1144071 JRにて田端駅南口。来週の日曜に福田和也さんと、en-TAXI関係の撮影遊行があるので、ロケハン。

この不動坂は、JRの駅からいきなり石段になるという意味では、相当に凄い。

リスボンのロッシオの駅の裏手が急が台地でそこから急な石段でバイロアルトに続いてゆく傾斜地を連想させるのが常である。

数年ぶりの田端は変わったところと変わらないところと半々だ。
七曲がり八折れの細い道を高級車が縁石に乗り上げないように、ゆっくり走行してその先の巨木の下の廃屋をゆっくり曲がるとその先にタイル貼りの今風のマンションがあったりする。

田端文士村と言うらしいが、足穂は一度だけそれがどういう理由か分からないが、「第三半球物語」を誉めた葉書が芥川から来たので、田端に芥川を訪問している。これが足穂と芥川の一回きりの会談であった。

不動坂の前で向こうから来た自転車の青年がすれ違いざま{こんにちは!」と言った。ライカで撮影中にマフラーを落としたことに気が付いたので、それを知らせてくれたのだと思って、「どうもありがとうございます」と自分は答えたが、後で冷静に考え直せば、マフラーを落としたのを自転車青年が気が付いたのなら、「おとしましたよ!」である。
「こんにちは」ではないはずだ。知り合いの顔ではないから、読者さんか?

日暮里の切り通しを下って、また急な石段を登って、道灌山に至る。
東京のダイナミックな景観は、この田端から日暮里にかけて、高台から下を見下ろす快感にある。自分は何時もこの高台を歩行ししつ、ここはリスボンでその先の開けた空間はテージョ河
であるという、風景の読み違いをして遊んでいるのだ。

この前、リスボンのアルファマを歩行しているときに、その逆の遊びをしようと思って、「ここは田端の高台でその先に広がっているのは、尾久、荒川である」と思い込もうとしたけど、うまく行かなかった。なにかの暗示に関する、重要な要素がそこに欠けているのであろう。

道灌山の高台の神社の参道はそのままJRの線路のしたを通過して、西日暮里の駅に抜ける。
京成とJRの踏切を越えて、日暮里駅前。

つい、この間、ここが再開発で駄菓子屋横町が閉鎖されたと思ったら、もう3年は経過したのか。駄菓子屋となりのモダンなビルの1fで営業している。
「植田のあんこだま」の「大」を買う。相変わらずその値600円にして廉価。

うぐいす谷まで歩行する。子規庵の前を通過する。笹の雪の古い建物はまさに路地裏の古い豆腐やのファサードである。
R1144130 東日暮里4丁目の木村伊兵衛旧居はどうなったか、、、10年ぶりに調査に行く。

その10年前、ここに来た時には木村邸の地所は完全に更地になっていた。それを「季刊クラシックカメラ」の創刊号で撮影した。その翌週かに、父が他界したのであったな。

10年が経過した木村邸はすでに古色を帯びている。日本の建築はその古び方が激しいのは、モンスーンのせいであろうか。
最期に木村さんが撮影した作品は2階の居室から、向かいの理髪所の縦位置のカットであったが、そこは今は駐車場になっていた。木村名人の存在した空間にちょっとだけ立ち入れるわけである。

木村名人がライカを構えて撮影した、お向かいの床屋さんもすでに新しいビルで営業している。思えば、33年が経過しているのだから、当然か。

徒歩、下谷から入谷に抜けて、そこから地鉄にて広小路。広池でかじき、えび、つぶなど求めて、大江戸線にて佃。

|

2007年11月18日 (日)

銀座三共カメラで「くまくま」に遭遇

R1144035 先週、レモン社で購入したライカM2-Mを三共カメラで調整してもらうので、(購入時にRFのずれと、モーターのタイミングのずれは承知で買ったもの)久しぶりに銀座に出た。
その気分は三共カメラの店長であって、日大の写真学科の同級生の秋沢君に会おうという気持ちもあったのだ。

店に行ったら、秋沢君はなんでも共同通信の同窓会というか、古い仲間の集まりで、谷川岳に行っているという。これは危ないなあ、、、と思ったのは、自分のような旧人類は谷川岳というと、すぐに遭難のことを連想するからである。
聞けば、最近は道路が整備されてかなり上までクルマで行けるらしい。谷川岳で飲み会があるらしい。

10月31日のパリ=セントレア飛行の時、その谷川岳とか穂高とかそういう有名な日本の名山を見ようと思ったのだけど、航空地図にはその記載がないので、どれも「極東の名も知らぬ凄い山岳」という印象しかなかったのは、数日前に書いた。

三共カメラ三原橋店で雑談していたら、いきなり「くまくま」が来たのである。
くまくまとは本名ではないのであって、立派な社会人なのであるが最後に合ったのは、10年前であろう。
アルパ研究会に来て、当時はじゃんけんで、オークションの勝敗が決まっていたのであるが、くまくま君はそれが強くて、良い品物を独り占めしていた記憶がある。

アルパ研究会は、銀行ではないから、本人確認などしやしない。それでくまくまが本名であろとなかろうとそれは関係ない。

あたしが「たしか、くまくまさんは、NECの、、」と言ったら「いえ、ぼくの仕事は大学関係です、、」と言い出した。そうではない、くまくまの使っていたPCが98ノートであったということを言いたかったのである。

それで、くまくまが何をやっている人であるかは、カメラ人類同志では、そんな「下世話な話題」は出す必要がなくて、単にカメラの話で楽しめれば良いわけだ。

彼がオートニッコールテレフォトズームの200ー600ミリ(ただしレンズの長い方の旧型で、こっちの方がかっこいい)を、アルパ研究会のオークションで手に入れてにこにこしていたのが記憶に残る。これが10年前なのだ。

三共カメラに登場のくまくまは、なんとニコンF3にスピードマグニーを付けて、ニッコールの15ミリ持参なので、偉い!と、誉めた。座布団3枚あげたい気分だ。

スピードマグニーは、まだデジカメの登場するずっと以前に、一眼レフのバックにポラロイドの巨大なバックをつけて、画像をそのままポラに転送するのである。それをそのまま、電送写真のマシンに貼り付けて、ニュース現場の最前線から、送稿するとい鉄火肌のプロのマシンであった。今のように、インターネットで世界のどこにでも画像が送稿できる時代になってしまったから、満たされ過ぎて「野生」がしぼんでいるわけだ。

スピードマグニーは、その光学的なユニットの光線の曲がる所が、中学時代の教室のだるまストーブの煙突の屈曲部のそれである。

思わず、ポラロイドのバックの部分で、冷えたお弁当を暖めたくなるような格好をしている。このデザインには今のような、電子式の画像伝達にはない、一種の工業デザインのダイナミズムがある。

その格好はなにか、水道工事の人の持っている工具のようでもあり、はたまた、配管工さんのようでもある。
デジカメは持っているの?と、くまくまに聞いたら、一切持っていないそうだ。
これは尊敬に値する。

デジカメオヤジがフルサイズのデジタル一眼レフを弄んでやれ、階調だとか、色空間がどうの、リアスタイムビューがこうのと言っている中で、くまくまは、30年前の最前線の報道写真家ごっこをしているのだ。
その意気に惚れた。これで脚立を持ってれば完璧だ。

R1144036 他の銀塩カメラは何かとの質問に対して、彼が自己申告したのが、ライカM2-M(塗り直し)である。

これは276台しかないから、世界中で、M2-Mブラザーズが結成できそうだ。世界中で276人しか居ないライカセレブっていうか、ライカ変人団。
もともと、M2-Mにはクローム仕上げしかないのである。

そこで、今、三共さんに修理にあずけたばかりのM2-Mを出してきて、そのモーターをくまくまのM2--Mに着せ替えをして、遊んだ。
正に銀塩カメラのカーニバルであった。

なんでも、今日はこれからニコン研究会の日なのだそうだ。
それに感染したのか銀塩カメラの血中濃度が一気にあがって、スキヤカメラと、レモン社をはしごして、それからヒルズの49F。

そこで、ようやく正常になって、GRD2で午後の東京の空など撮影。

ヒルズではPCには触らないようにして、読書。
久しぶりに楽しい土曜日だった。(小学生の日記風)

|

2007年11月17日 (土)

11.16東京大周遊

R1143726_2 月曜から木曜まで、しっかり仕事したので昨日は、しっかり東京大周遊をしようと数日前から計画していた。朝は曇り。後に回復。
街を「遊行」して、撮影して、ついでにそこらの児童公園などでポケットから撮りだしたメモ帳に本のプロットなどをひねくるのが好きである。

それで昨日の行動。
まず、町屋に行こうとして有楽町線で日比谷乗り替えで、千代田線で町屋と思っていたら、なんでも停電とかで有楽町線は不通。最近、こういう事故はやたら多い。この前はプラハに行っていた時だけど、大江戸線が始発に電源スイッチを入れ忘れという事故があった。
地下鉄にも電源スイッチがあるものか、、、と驚いた。

仕方なく大江戸線にて町屋方面というので、まずは本郷3丁目で降りた。歩道に出たら、目の前を見覚えのある人物が首からGX100を下げて歩いている。以前、朝日カルチャーセンターの自分の講座に参加した、渋谷在住の青年であった。

渋谷青年というと、いかにも渋カジめいているが、渋谷青年とは独歩時代の渋谷青年の意味である。
渋谷青年の話では本郷の名代の和菓子屋に「きみしぐれ」を買いに行ったらその店は閉店なので、交番で聞いて(ここが若い人は無邪気でよい)他の店で同等品をかってもどる途中だと言う。

自分は今度出す、「GRD-1ワークショップ」(えい出版)の中のグラビアでモノクロの1折りを撮影するので、今しもモードをカラーからモノクロに切り替えた所であった。
ついでに渋谷青年を本郷撮影ワークショップに誘った。

渋谷青年は驚くべきことを口にした。
なんでも樋口一葉の遠い親戚筋にあたるそうで、一葉の日記にでてくる伯父さんというのが、渋谷青年の先祖関係なのだそうだ。
自分は昨日、ヒルズのライブラリで、一葉が本郷を引き払って、浅草の陋巷で雑貨屋(ちに駄菓子屋)を開業したくだりを読んでいたから、その偶然に吃驚したが、人間の時間軸というのは案外なものである。

卑近な例で言えば、家人は堀口大学の遠い親戚筋なのであるが、その話を結婚当初に聞いた時にはやはり驚いた。大学の一連の翻訳は愛読していたからだ。大学と一葉ではクラスに差がありすぎるけど、そういう縁故の渋谷青年と一葉の旧跡を歩行するのは、なにか一種のカルチャーセンターめいている。

いただけないのは、渋谷青年は撮影中にGX100のバッテリーがダウンしてしまったことだ。渋谷青年はこの前、開催されたギャラリーPUNMCYUMでのグループ展などで、8x10の大型カメラで撮影した作品を発表して、意気軒昂であったのだけど、デジカメのバッテリーがきれるとは情けない。
それで、例の三階建ての下宿のあたりでは、自分の持っているGRD2のバッテリーを外して渋谷青年に与えた。これ、バッテリーの神の愛である。

その撮影の様子はhttp://tokyo-metanoia.cocolog-nifty.com/blog/にある。

3つ目の画像は、下のコラムで書いてるけど、尻のポケットからGRD2を出し入れするショットである。これを第三者が撮影してくれるとは思ってもいなかった。貴重な資料である。自分では撮影不可能。昨日はGRD2とミノックスだけであったから、空手である。これで路地裏調査に出掛けると、徘徊老人か下駄どろぼうに間違えられる。すなわち職質の対象になる。それでその不愉快を避ける為にライカを1台ぶら下げる。そうすると還暦老人の東京散策になる。その意味でやはりライカは大切だ。なにか断腸亭が巡査に不審尋問された時の用意に、印鑑証明を持って歩いていたのを思いだした。

それから渋谷青年と左右に分かれた。
本郷通りで、荒川土手行きのバスがあるのに気が付いて、それに乗ったのが12時41分。これは1時間に3本ほどのローカルで、東京駅発なのである。
荒川と隅田川の屈曲部をうねうねと走行して、小台あたりでは目の回るような曲芸を見せてくれるバスだ。
江北橋の東詰が、操車場になっていてそこで今度はバスを乗り換えて、西新井駅に向かう。
バスを西新井大師前で捨てた。

大師駅に向かう、昔ながらの青ペントタン屋根の3軒長屋で、その前の割栗の砂利道に雨が降れば、そこに大きな水溜まりのできる、西新井のメランコリー小路はすでに破壊されて、14階だけのマンションの基礎工事中である。
R1143848 これは、ひょっとして日本路地裏学会が「史跡記念物」に指定した「寂び王」ももう存在しないのでは、と、現場に駆けて行った。これはまだそのままであったので、ほっとする。
界隈を漫歩。1年半ぶりに、キッチン「ラッキー」に行く。かきふらい定食の味よし。900円。

関原2丁目の時雨れた感じの小さな、理髪店はすでに更地になっていた。
万国旗はためく、無人の関原商店街を歩行する。
晩秋の夕方の日射しがなんとも感じる。関原商店街のマスコットは「ごんた」という、ライトグリーンのなんとかザウルスである。その「ごんた祭り」が開催中で、明日は大抽選会があることを、有線放送が延々と、話している。

その為に、その関原商店街を歩行している間に、そのごんた祭りの内容で「洗脳」されてしまった、

関原書店街に浅田書店(そう、浅田恵理子はどうなったであろうか)はこの界隈で唯一の本やである。ここも店の正面に模造紙にマジックでなぐり書きしたような「ホームレス中学生」のポスター文字。まるで政府が中学生のホームレス化を推奨しているような感じを受ける。
関原からさらに東に歩行して、工場前の鋳鉄製の戦前の防火用水を撮影。よく供出されたかったものと改めて不思議がる。
都バスの「赤不動」から、浅草行のバスをとらえる。
荒川を渡って、町屋で降りる。
町屋の陋巷を撮影。

方向を転して荒川線で三ノ輪。
界隈を徘徊。
亀戸行きのバスにて、涙橋。例の町工場の鉄さび看板を撮影。徒歩、大林に至る。あわもり1.さしみ1、やきのり1、日本盛1、会計1540円。
徒歩、金太耬すし。1,5人前ふたつ。会計1500円。ここの鮨は数寄屋橋次郎の1/10以下の値段で、味よし。
都バスで浅草を歴て、蔵前、大江戸線で佃に帰来。
歩行数は2万余歩。GRD-2での撮影は3:2のFで500カットほど。

------------

R1144022 後で記す。渋谷青年が昨日撮影してくれた、あたしのGRDの構えで気が付いた。

常にストラップはつけないのが「流儀」であるが、こうして見ると指でカメラの各面を押さえて安定させている。なにか印を結んでいるように見えるのが愉快だ。R1144023

|

2007年11月16日 (金)

KCチョートクカメラコラム169回

★銀塩クラシックカメラ

ミノックスで「空撃ち」してしまった。

普段はコンパクトデジカメがGパンの尻ポケットで、前のポケットには、佃とヒルズ、それと土浦の暗室の鍵が入っている。それと万歩計。もう一方にはミノックスが入っている。尻ポケットの反対の方には、300円ショップで買った、やけに派手な定期入れが入っており、数枚の紙幣と数枚のカード。

これで普通は生活しているのだけど、外国に居る時にはその他にパスポートのコピーを入れている。本物は紛失が面倒なのでホテルとかプラハのアトリエに置いておく。

いざという時に、このミノックスが活躍することは案外にある。出掛けたらSDカードを忘れてしまい、GRDの内蔵のメモリも使い切ったという場合には、ミノックスは必須だ。
市販のミノックスフィルムは現在では、15枚撮りと30枚撮りがある。もともとは50枚撮りなのである。今のフィルムは15枚でも30枚でも価格はほとんど変わらないので、30枚撮りをまとめて箱で買った。フジカラーネガで感度は400だ。

他にも以前、ノックスフォトサービスで買った、「35ミリからミノックスサイズを切り出す」という道具がある。これは1本のフィルムから6本以上の50枚撮りのミノックスフィルムが切り出せる。ただし若干の訓練が必要だ。

ミノックスで撮影したフィルムはスキャンではなく、プリントして楽しむということにしている。アクセサリーとして、双眼鏡アダプターがある。これを付けるといきなり超望遠レンズになる。もっとも画面はちょっとけられるけど、それはそれで「風情」がある。

ミノックスはCIAも愛用のカメラであったが、最近、その一大欠点に気が付いた。普段携帯しているのは、2台のミノックスAだ。同じような中古なので、ほとんど見分けが付かない。それで、ボデイのマット部分にAとBという文字を鉛筆で書いておく。それと常にフィルムは装填しておく、、、、筈であった。

一昨日のことだが、30枚を撮影し終えて、さてカセットを取り出す時に驚いた。中にカセットなど入っていないのである。ようするに、空のミノックスを先月はプラハに持参して、それで撮影した気になっていたわけだ。フィルムが入っていなかったのだから、これでは何も写るわけがない。

欠点は、ミノックスのフィルム巻き上げはあまりにスムースであるという点だ。空の時と、装填時でそのフリクションはほとんど変わらない。常に使っているのなら、そのことに気が付くのだけど、たまに使うからそれを見過ごす。しかもライカなら、巻き戻しノブでフィルムの進行が確認できるけど、ミノックスはそれはない。

これからは空撃ちには充分に注意しよう。


★久しぶりにGRD2を手にして思いだしたこと

GRDシリーズはこれで3年目に突入である。デジタルカメラの命は短くて、、、というのが常識の中で、足かけ3年というのは、これはやはり大したことであると思う。

今度、えい出版から「GRD2ワークショップ」(仮題)を出すことになった。最初のシリーズが良く売れているので、その続編だ。今度はリコーの姉妹機のGX100、R7、それと工事記録用のデジカメも取りあげて、「ベストリコーデジカメは何か?」みたいな展開にしようと思う。

と、言うのも、リコーのコンデジシリーズは、面白いことになっていて、高いほど機能が少ないというわけだ。R7はブレ防止もお顔綺麗モードも7倍ズームも付いている。最高級のGRD2にはそういうのは一切なし。

これを問題視されて、リコーの営業さんなどは販売店さんに食いつかれるのだそうだ。それで私は言ったのである。

「そんなことで気弱になってはいけない。高いから何も付いていないのだとお言いなさい。カスタムナイフの凄い高いのは、それ自体がブランドです。シャープな刃がついているだけ。GRDもシャープなレンズが付いているだけ。そういうシンプルなモノでないと、別嬪は惚れません。一芸に秀でるから、別嬪は惚れる。万能選手では駄目です。

GRDもそれと同じです。安物の十徳ナイフには、爪切りと虫めがねと、物差しと栓抜きと、耳かきと缶切りと、ドライバー磁石と、時計と楊枝と、それから他にも、携帯電話とか、コンパクトデジカメとか、そんな余分なモノまで、色々ついているかも知れないが、それは実は魅力に乏しい。それで肝心のナイフの刃はなまくらであったりする。

なんでも出来るのは、安物であって、撮影しか出来ないのが本物です。昔のライカM3を御覧なさい。と言ったのだ。

もっとも20代のセールスの人はライカM3の時代など知らないから、きょとんとした顔をした。

この半年ほど前から、GRDは使うのは止めにして、GX100を使っていた。3月前からそれも止めにして、キャプリオR7を使っていた。これはズームがあるから楽が出来て便利なのである。

しかし、GR1時代からこれを愛用している、自分としては「初心」にもどるというか、「原点」にもどって、GR時代のあの感覚をもう一度体験しようと思った。

便利、便利なコンデジをつかって いると「堕落」するのではないか。「デジカメ堕落論」である。

それでそのつもりでGRD2を使ってみると、これはやはり撮影の身体性というか、ふるえる視神経に反応してくれるカメラなのである。
お顔綺麗モードがないとか、ブレ防止がどうのとか、そういうことはもはや一切、気にならない。

レンズは超シャープで、歪みのない優秀レンズであることも思いだした。
リコーの関係の人は、GRD2の特徴の幾つかを、例えば、水準器がついたとか、ノイズが少なくなったとか、RAWモードがどうのこうの、と色々と言ってくれるのは有り難い。

ただ、それは性能面で見たGRD2の話であって、自分の場合はポケットから取りだした時の、あのざらざら感覚とか手のひらの中で、自分の体温で暖められている、ボデイの感覚が好ましいのだ。

性能第一主義では本当の所は分からない。人間をIQで分類するほど、愚かなことはないのと同様である。

|

プラハのカフェのメニュー

R1143071 プラハ旧市街の最近出来たカフェに滞在中は良く出掛けた。自分のプラハの30年の歴史はその実、カフェの歴史である。

社会主義国時代のプラハのカフェは行く場所は2つしかなかった。

国立映画大学の脇のカフェスラビアは、ナショナルシアターと向かい合っていて、その反対側はモルダウという理想的な環境だ。

スデクはこの角からパノラマで名作をものしている。

毎週、あれは何曜日だかそれは忘れたけど「ご婦人の日」というのがあって、広大なカフェの一角は着飾った淑女で満杯だった、これはもともとウイーンとか(つまりその一角であるプラハも当然含まれる)ドイツの古き習慣なのである。

何時であったか、大聖堂を目の前にした広大なカフェ、それはウルムであったか、ダルムシュッタットであったかはっきり思い出せないのだけど、カフェの2階のコーナーはそういうご婦人連の席であった。

もう一つの革命前の行きつけのカフェは、今言った、カフェスラビアがプラハの新市街のカフェとするなら、モルダウ左岸の、マロストランスカにある同名のカフェがあげられよう。このカフェはバロック教会の一部をなしているように見える建築構造の特色を持つのだが、ここにもよく通った。

雪の日の午後など目の前の広場には絶えて人影はなく、時々路面電車がやってくるばかり。降りしきる雪をただ見ているという時間があって、そういう時、自分は今、ここで何をしているのであろうと思った。それは感激というのではなく、人生の皮肉の時