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2007年10月31日 (水)

ハローウインと万聖節

「R1143068.AVI」をダウンロード ムービーはプラハ最後の麦酒。

木村伊兵衛先生の佐々木昆先生に言った「プラハの黒麦酒はうまいぞ」のそれである。

旧市街の文学者カフェ(と、直訳するととんでもないが)にて。

飛行航路は PRGCDNGO
目下、移動中。

PRGCDGはエアバスの310である。シート1A
CDGNGOは777−200でシート3K
なにしろ、欧州を3回往復して、Cクラスが一往復のアワードというのは、KL/AFのファンになってしまう。

エアバスの離陸音と空中感覚はなかなかハードで好きである。それに比較すると777は、大人の飛行機で冒険がない。
ただし、AFはドル箱路線であろうに、掃除もちゃんとしてないのか、この前、CDGPRG間では3日前に乗ったアテネ便の半券がポケットに入っていた。記念に持ち帰る。

この前、JALのアテンダントさんに聞いたら、セントレアの777−200はここをベースにして、パリとバンコックを往復しているそうだ。

朝10時発のAFでパリ。それから夕方5時のJALにて気に入っている、セントレア。
そこから、名古屋に出て新幹線で東京。
その途中の常滑をこの前、夕方に一瞬だけ見た記憶が良く保存されている。常滑という地名がシュールである。
今度、撮影に行きたい。
交通手段はやはり中央高速で、麦酒工場とか、競馬場をみつつ行くのが良い。

今日は日本とかアメリカでは、例のハローウインの馬鹿騒ぎか。
この奇習を初めて知ったのは、1984年頃に碑文谷にあった、城田稔さんの経営していた、ギャラリーMINで10月末になにかお祭りをするというので、それに呼ばれていったのが最初である。

城田館長が子供達を引率して、近所を回っておかしをもらったりしていた。
欧州では一日おくれて、万聖節がある。これは日本のお盆のようなもので、祖先のお墓に参詣する。

11月1日と言えば、欧州は万物枯れ果てて実に諸行無常を感知するには、良い季節である。
ハローウインの方は、もっぱら商業主義の見にくいとことが、正面に出ていて、何のことやらさっぱり分からない。
ヒルズへの通勤路に、「窓の中に東京タワーを飼っている花屋」(チョートクx六本木ヒルズ所載)がある。その前に例のでかカボチャが飾ってあった。
その値段を見て、肝を潰した。それは貴金属とか不動産のなみの価格なのである。

1974年であったか、クリステイン・ロスタとウイーンの中央墓地に万聖節のお墓参りに行ったことがある。

実際にはライカとニコンを持っての撮影であったのだが、ついでにクリステインの先祖のお墓に行ったわけだ。
第三の男ばりの暗い天気で、あの映画では同じ場所が登場する。

くだんの墓石はよく読まなかったが、なんでも彼女の父方はポーランド、母方はチエコとのことだった。
そんな出身地はウイーンでは当たり前だから、これも話題にならない。

それから、数年後であったか、何かのはずみで、彼女のパスポートを見た。そこにはクリステイン・ロスタではなく、彼女の本名、クリスタ・クロスタとあったからだ。
いきなり、スロバキアとスラブの地が騒ぐという名前なのである。

ちょうど、キャパが彼の本名を隠して、アメリカっぽい名前にしたのと、まずは同様な背景である。まあ、中国人がアンナとか、ジャックとか言うよりも名前としての実在感はある。
ながのり、がチョートクで、幸二が幸之助さんみたいなものか、、、、。

話を戻すと、クリステイン・ロスタは1970年代にはウイーンでは知られたフォトモデルであった。ただし、身長が171センチしかないので、ファッションモデルは諦めたという。

コパトーンの黄色いビキニの金髪美女がその彼女であって、これはTVコマーシャルで放映されていた。ただし、ウイーンの我が家のTVセットはモノクロだから、モノトーンである。

この春に、そのクリステイン・ロスタから、30年ぶりに個展の案内が来た。それもメールなので、どのように自分のアドレスを知ったのかも不明。

金髪モデルだった彼女はドイツボーグのカメラウーマンから、さらに偉くなって何かの回顧展をケルンのミュージアムで解散するそうである。まあ、それは年の功というやつだ。

万聖節というと、クリステイン・ロスタとウイーンの中央墓地に行った34年前を思い出すのが常だ。クリステイン・ロスタの当時の写真は「ウイーン・モノクローム70S」(東京キララ社)にも掲載されている。

2007年10月30日 (火)

月光は値千金

R1142877 プラハ。
滞在最終日。
昨日の日曜は午後にやや天候回復。
それまでモノクロの世界であったのが、いきなり「総天然色」になったのだから、視神経は驚愕した。
初期の写真術で、カラーが登場した時もおそらくこんな具合であったのだろう。
自分は最初に手にしたカラー写真を鮮明に覚えている。
フジカラーというのであるが、それはプリントではなくスライドであった。しかもすでに存在しなくなった、コダクロームと同様な「外式」のフィルム現像なのである。
ペンタックスにそのフジカラーを入れて、少年時代に近所の護国寺を撮影した。小学生のがきが「古寺巡礼」をしていたのだから、半世紀の早熟であった。

その仕上がりの上がったフィルムをみて、「いいなあ、、、」とおもったのは、それに色彩が付いているというよりも別の所にあった。フィルムの膜面を斜めに透かしてみると、そこに現実の風景がミニチュアそのままにレリーフされているのである。

これは凄いことだと思った。
当時の外式のフジカラーはその未熟なせいであったのであろうか、やたらに膜面が厚かったのでこのような印象を残したのだけど、写真は現実の縮小であるという真理に少年はきずいたわけだ。

この2週間の天候は暗い日だが、今朝と昨夜は良い月夜であった。
午前2時頃にトイレに立って、上から何か光が射していることに気が付いた。
アトリエには、トイレもキッチンも同じ巨大な天窓がある。

はて、この建物の屋上にネオンなどないはずだが、、、と思った。
月であった。
この場合、お月様と言った方があたっている。そのお月様がアトリエをのぞき込んでいるわけだ。
天窓の窓枠で仕切られた月光の影がアトリエにくっきりと刻まれている。

それをベッドで見るうちに、不思議なことに気が付いた。
アトリエの居室の窓枠は合計6つある。それに平行に36万8千キロ(であったっけ?)から、この場合、平行な光が注がれているのだから、窓枠に落ちる月光の影は、それぞれに同一角度をとるのが理論であろう。

ところがそうではなかった。
お月様はすでに南中していたので、やや西側から光を降らしていたのだけど、その窓枠の西に近い方から、順番にその影の角度が異なっていたのである。

すなわち、アトリエの左端のお月様の影がかなり急角度であるとすると、アトリエの右端のその影はかなり斜めになっている。

こんなことはあり得る筈がないと思った。
しかしその影がそれぞれの窓枠に落とす影はそれぞれに違っている。
とても悠久の遠方からの光とは思えない。

唯一、考えられることは、お月様がこのニコリテスリーの屋根の上、70メーターほどに下ってくるのなら、その事実は説明できる。
その距離になれば、もはや月光は水平光であるとは言えないからだ。

その日の午後、モルダウ河で見たツーリスト相手の係留気球のことを思いだした。http://www.baloncentrum.cz/cs/fotogalerie

これはお一人様30ユーロかで、カレル橋の上に気球をあげて、観光をさせるのだ。係留気球はもともと、軍用であってその起源は古い。

その気球がお月様であるのなら、頭上70メーターあたりから月光を放射すれば、上のようなアトリエでの「非平行な月光の影は可能であろう。

それで今朝もお月様がどうなっているか、それを観察した。
冬時間になった最初の深夜の2時頃、よく見ると月光は昨夜よりも東から照射していた。つまりお月様は昨晩のことを気にして、遅く登場したわけである。

子細に観察したら、今度はアトリエの右端の月光の影が一番に急角度で床に影を落としている。それがだんだんと緩やかな角度になって、アトリエの右端の窓の影は斜めである。
前夜と逆だけどやはり角度は窓によって異なることが判明した。

午前4時頃に、お月様はどうなっているか、アトリエの窓から視た。
影が見えなくなったので、それを気にしたのである。空は一面の雲に覆われていた。

やはり、今朝と昨晩、深夜に見たお月様、あれは本物であった。カレル橋に係留されている、気球に化けたお月様が、深夜、夜回りをしているのであるという確信を得た。
だって、偽ライカじゃあるまいし、フェイクムーンなんてあるわけがないじゃないか。
ねえ。

あ、忘れたけど、撮影カメラは例によってキャプリオR7。

これで昨日は雑誌の連載の仕事も2本やりました。擦れ違う、世界のツーリストさんの方が自分よりずっと立派なデジカメを持っている。自分は実にらくちんだけど、他のツーリストさんは「オーバースペック」ではないのか?それが心配だ。

自分には当分はデジタル一眼レフはいらない。
あれは、どうもじじいむさい。第一、もともとじじいなんだから、これ以上じじいにはなりたくない。

デジ一持ってるとそこに「ライフワーク」を想起させるのが良くない。ライフワークは銀塩写真ににまかせれば良いのである。

Epsn2391 これが本日の撮影機材。

R7と、スパーブ。それとタイメックス。フォマパン200を5本。(そのうち1本はすでに装填してある)

スパーブは「自己増殖」して、スコパー付きとヘリアー付きの2台になっている。これはヘリアー付きの後期モデル。

でも、やはり猫耳のストラップアイレットの前期モデルがいいな。

これを撮影したのはエプソンR−D1Sだけど、ゾナー50ミリF1,5を付けたので、スパーブが後ピンだ。ときどきこういう間違えをする。

R1143126 いや、実に吃驚した。

撮影を終わって最後の夜をアトリエで楽しんでいた。

天窓から何気なく、東を見たら巨大なお月様が着陸しているのである。

なにかのイヴェントか、撮影であろうが、巨大な人工のお月様が目の前の広場を制圧していた。冗談で書いたことが本当になってしまった。


その人工のお月様のこと。

深夜に起きたら、本物のお月様も出て、競演ですごかった。やはり偽物の方が立派で本物っぽく見えるのは、これはカメラでもクルマでも人間でも同様な次第であろう。

R1143128 本物のお月様は迷惑そうであった。写真説明。右の小さいのがモンモノ。

これより(上の日記は予定校だから、こっちがリアルタイム)プラハ空港に行くのである。

日本の午後2時であって、プラハの午前6時だ。もうあのお月様は退場じたかと、窓から視たら、まだ煌々としている。

映画の撮影にしては時間が長すぎるし(昨夜以来だから)工事にしては時間が変だし、これはやはりアートのたぐいなのであろうか?

不明。

2007年10月29日 (月)

プラハは夏時間から冬時間に

R1142722 プラハ。

霧。気温4度。体感気温も4度。

湿度100パーセント。この100パーセントという湿度はのどにやさしい。

プラハがマイナスであっても、佃のプラス10度プラス空っ風という方が寒く感じる。これは事実であって、昨年の春にスエーデンのヨーテボリで、日本によく出張するスエーデンはハッセルブラッドの偉い人と歓談していたとき、「日本の方がスエーデンよりも寒い」というのである。東京の空っ風と、普通の家屋のすきま風のことを思うと、これにはうなずける。

その時のヨーテボリの気温はマイナス15度。だもホテルの中ではTシャツ一枚。これはプラハのアトリエでも同じことだ。

今日は夏時間から冬時間に戻る。

以下はwikipediaからの引用
中央ヨーロッパ夏時間(ちゅうおうヨーロッパなつじかん、Central European Summer Time:略称CEST)は、中央ヨーロッパ時間夏時間のことである。

協定世界時(UTC)を2時間進ませた標準時で、中央ヨーロッパ時間より1時間進めた時間である。

3月の最終日曜日午前1時から10月の最終日曜日午前1時までの期間、適用される。

----------引用おわり。

たしかに最終日曜の午前1時というのは、もう過ぎたわけだがまだ変わっていない。冬時間になれば、日本との時差は8時間だ。

今朝、こっちの時間の午前2時に眼が醒めて、PCのタイムサーバーを欧州のそれにセットしたのだけど、別に時間は1時間マイナスにもなっていない。
これは明日、月曜の早朝に切りかわるのであろうか。

☆追記。日記を書いている間にPCの時刻をチエックしたら、1時間戻っていた。日曜の午前の10時40分が9時40分になっている。何か、日曜の朝を1時間余分にもらった感じがして、これは嬉しい。

20年ほど前、やはり秋の終わりにリスボンに滞在していて、日曜の朝に撮影に出たら、何時のと異なり、街が閑散としていた。
その朝に、夏時間から冬時間に戻ったのでああった、

ニューヨーク滞在中の四半世紀前に、冬時間から夏時間に移行したその朝に、1時間早く起きるのだから、眠くて困った。

今回、プラハは11泊12日である。
せっかくこっちの時間帯に慣れたのに、また来週から東京時間はちょっと憂うつだ。

画像の「プラハウオッチ三兄弟」は、左がレマニアの60年代もので、チエコ空軍の使用品。
右はジンでドイツ軍の使用品。(それぞれに刻印入り)レマニアのチエコ軍時計は7年ほど前にebayで購入。ジンは、モノマガジンのお=たさんにもらったもの。

中央は最新テクの「水晶発振器」を装備した時計。その存在を最初に知った小学生時代にはびっくりした。当時は水晶時計は巨大な掛け時計であったのだ。

犬Yの怪人、チョーセイさんが「マンハッタンの成功者はタイメックス」のフレーズを読んで、それなら、トウキョウの落伍者にも向くのではと、手に入れた。
普通のスイス製時計の値段で、これは100個以上は買える。

大昔は、ホテルマンは客がチエックインするときに、時計を見る、と言われて、それでIWC
など無理した買ったものだった。それはそれで良いとして、デジカメの命は蜻蛉のようだ。四半世紀前に買ったスイス製のメカウオッチはいまでもそれなりに価値があるのに、今、世の中で鐘と太鼓で大騒ぎの50万プラスのデジカメは5年経ったら、その名も記憶されていない。

「デジカメ諸行無常」とはこのことだ。

10月28日の「おすすめブログ」のランキングで拙ブログが堂々1位になった。
もともと、「競合ブログ」は開運やら、風俗やら、脳内やらで、最初からこっちがクラス負けしそうな優秀ブログばかりなのに、その中でよく頑張ったものと思う。
ご愛読に感謝!!

MJさんのスポンサーシップの当時は4年半長丁場の後半にコラムを有料にしたわけだが、有料無料にかかわらず、かかわらず沢山の人が読んでくれるのは嬉しい。
しかし、有料コンテンツで可能なのは、今時はH系だけであろう。
これもなさけないが。

要するに、デジカメの場合にはプレスレリーズのコピペをして、「あれも欲しいけど、これも欲しい」とか、「これは海水浴に良いとか、これは冬のスキー向けだ」とかいう「カメラの季語」とか、あらずもがなの意見をちょっと加えた内容(自分もメカライターの古株なのでそこらへんは良く知っている)なのは、これはライターさんに責任があるのではない。

これはダウジョーンズと同じで「世の中はそういう仕組みに出来ている」からだ。

そういうデジカメレビューブログと、その作例ブログでは出来ない、かゆいところに手の届く内容のブログにして行きたいわけだ。
よろしくごひいきに。

2007年10月28日 (日)

足穂没後30年か、、、

R1142713 プラハ。
暗い曇り。
朝8時だけど、あたりは一面に光を失っている。
と、ほとんど昨日と同じ書き出しだ。

8時すぎに、白黒のやや大型の鳥が飛来して、広場の向かいの細い細いテレビアンテナの一番さきっぽにとまった。器用なやつである。あわててスケッチをする。すぐに飛び立って行った。

佃のライカインコのことを思いだした。家人からの報告によれば、ライカは相変わらず抱卵中。ただし元気。

日曜から冬時間に戻る。それで、現在の朝8時の暗さは、明日から朝7時の暗さになるから、そうなれば普通の欧州の冬の暗さである。

26歳の頃だから、1974年頃か、すでにウイーン生活にはいっていた。当時はインターネットなどあるはずもなく、日本の本に飢えていた。
日本書の個人図書館というか、これは商社の人が帰国する時に置いていった、本の集積なのである。

その中に新潮文庫の稲垣足穂の「一千一秒物語」を見いだしたのは幸せだった。
爾来、40年近くに亘って、足穂を読んでいるのである。

稲垣足穂(イナガキタルホ) INAGAKI Taruho (1900.12.26〜1977.10.25)

一昨日は没後30年であった。

自分は愛書家ではないが、足穂の初期の初版本などを集め出した。それと私信(この場合は葉書)も無理して買ったりした。
印税で買うのであるが、最近の印税は出版社が「節印税対策」を完璧にとっているので、そういう贅沢も出来なくなった。
再版したら、原稿料を払います。というのは良くある手だけど、これは悪質である。
まあ、そういう出版に関わらない方がいい。

しかし、足穂も述べているように、「印税、原稿料をあてにしていては、良いモノなど絶対的に出来ない」は真理であろう。

足穂の雑誌に掲載された作品なども手に入れるようになった。
さしずめ、新潮の昭和22年5月号などが好きだ。この月から新潮はカラーの表紙になった。それまでは雑誌の上の部分に、大きく「新潮」とあるだけである。
5月号はカラーでアゲハ蝶かなにかのイラストである。ただし、新潮のデザインとしては、イラストのない方が好きだ。この号の足穂の作品は「モンパリ」であったろうか。

当時の印刷用紙の割り当ての不足で、ページ減というのは、新潮のようなメジャーな雑誌でもよくあったことらしい。
編集長が薄い雑誌のお詫びと言い訳をしているのだ。

足穂の代表作は「稲垣足穂大全」(現代思潮社)の全6巻。それとユリイカ判の「稲垣足穂全集」がいい。読み込むなら前者だ。

面白いのは、初出と全集では当然ながら、異同のあることだ。
昭和6年頃に武者小路実篤が大塚に来た時、足穂もその例会の末席に座っているが、実篤をさして「あまり信用のおけない羅漢のような」と形容している。
この形容は痛快であるが、初出の新潮にはそこはカットされている。

文学ばメジャーであった、楽しみの少なかった当時は、この一節だけで、大騒ぎになったことであろう。

自分の足穂信仰は、新宿区横寺町に足穂の住んだアパート(の位置)を探し出し、その先の飯塚酒店への鍵型小路を歩ませ、さらに反対側の袖擦り坂から、眼下のトウキョウを望見させるほどになった。

足穂の棲んだ東京高等数学塾の上の2階の角部屋の六畳間には(そこには今でもアパートがあるので)棲んでみたいと思っている。

以前は魂の置き所を、銀座八丁庵、つまり中銀カプセルタワーにしていたわけだが、黒川さん去って、新方向を見付けることだ。

ああ、忘れていたが、このプラハのニコリテスリーも立派な「魂の置き所」である。
魂の置き所とは、詩人丸山薫が作品「蝙蝠舘」で標榜していることで、これは戦前に存在した、滝野川区南谷端2100番地中野アパートのことだ。ここには足穂やら、丸山やら、そうそうたる人類が棲んでいた。

そこは、西巣鴨交差点から、17号をちょっと下った左側の奥の方にあった。無論、今は残っていないが、時々その界隈を歩行している。

亀の子たわしの本社の近くだ。

2007年10月27日 (土)

プラハの市電を乗り尽くす

R1142363 プラハ。

気温7度。体感気温5度。きり。湿度100パーセント。

風邪引き人間には理想の朝。
金曜。暗い日。

朝、8時前と言えば、2月前には目が眩しくて開けられないような明るい朝であった。
今、すべてが闇の中、グレースケールの中に沈んでいる。

それで写真の撮影向きではないのか、と言えば、これは逆である。
スデクの名作の中にも、雨の夕刻の自宅アトリエを撮影した作品とか、雪の夜の公園とか名作は多い。
ただし、モノクロの世界だ。

昨日、そのグルーミーなトーンが気に入って、あまり観光客の歩行していないカレル橋に行って、パノラマカメラで撮影した。
ところが、ノブレックス150のご機嫌が悪く、途中でドラムが停止してしまったりで焦った。
このパノラマカメラは10年ほど前だったか、坂崎さんと大阪に一緒に旅をした時に、大阪のデパートで開催されていた中古カメラ市で買ったのである。
そのまま保管されていたのを、今年の春に発見して、この8月からいきなりこれでプラハのパノラマを大量に撮影することになった。

調子が悪いので、サービスに出したいのだけど、このカメラの故郷はドレスデンである。日本で修理が出来るかどううか分からない。この前、ノブレックスの代理店をHPで調べたら、日本はその中に入っていなかった。
これだけ、デジカメ大国なのに、銀塩は切り捨てである。

まあ、滞在中にパノラマカメラが作動すればそれでよし、としよう。

先週の土曜以来、連日パノラマ撮影である。まるで、スデクの霊が背後に居るような気分で創作意欲は満々だ。
スデクのパノラマのシリーズで、街の南部の古生代の地層で、三葉虫が出たりする岩山があって、そこに先週の土曜には行ったのである。ここにはローマ時代の水道橋を思わせるクラシックな橋がある。

ところがそれは水道橋ではなく、本物の鉄道の橋だった。
この界隈に路面電車の空中楼閣とでも言える、天に一直線に伸びて行く、回廊がある。
番号は12番か20番である。
昨日、その路面電車に乗って、街の南西の終点まで行った。路面電車の高度がかなり高くなると、進行方向の右手に今のクラシックな鉄道橋をかなりの距離を置いて見下ろすことが出来る。

そこに単行にジーゼルが小さい貨車を1台だけつないで通るのを、パノラマカメラでキャッチした。
しかし、銀塩だし暗いし、当てずっぽうな露光だから写っているかどうかは、今の段階では分からない。
まあ、これが銀塩の楽しみでもあるわけだが、、、、。

自分の路面電車の研究はかなり進んだ。これはプラハ市の路面電車の全停留所のリストである。
http://doprava.cx/prahalin.php
これを読んで、希望のポイントに行けるようになったのだから、その勉強ぶりを誉めてもらいたい。R1142338

バーツラフ広場で、ハベルんの大型本が飾ってあった、
タバコを持ってポーズする姿は、1989年なら通用したであろうが、今では時代遅れである。

これはまずいなあ、、三流落ちの大根役者だ。

これは編集者の責任だ。完全なマイナスイメージである。
「わたしはタバコで健康を害しました」と言っているようなものだ。

他にタバコを持っていないカットというのはなかったのか?

その意味で、1960年代の文人は皆落第である。当時、かなりの数の文人を撮影した。

尊敬する渋澤龍彦さんを北鎌倉のお宅に訪問して、そのままウイスキーの酔いで一晩、ごやっかいになった。ただし、渋澤さんもカメラを向けると、タバコを持って「難しい顔」をするのである。2007年から60年代、70年代に撮影の文人のポートレートを見て、変に感じるのは、彼らがタバコと一緒に写っているからだ。

そのうち、ライカを手にして写真に収まると、変な人間に思われるであろう。

いや、もうそういう時代になってるか。

1991年だったか、大統領府に、大統領報道官のミハエル・ジャントフススキーさんを訪問した。

大統領報道官というのは、官房長官みたいな役か?日本の感冒長官には会いたくもないが、ロイター通信記者あがりのミハエルさんにはダンテイズムがあった。

仕事場はプラハ城の最上階のプラハを一望する部屋だった。
権力者の部屋としては、アメリカや日本などより格段に上である。

そのミハエルさんは、労働者のたばこ、スパルタを吸っていた。
日本なら、しんせいとか、いこい、のようなブランドである。
その取材で自分はそういう安タバコを吸っていることを誉めたのだけど、今にして思えば、あれは時代の距離感というやつだ。
今では、たばこを吸う権力者というのは信用できない時代だ。

タバコを吸わない、friskが好きなこっちは信用できる、坂崎偽ライカ同盟王子から、メールあり。
久しぶりに、某誌でカメラじゃんけんを再開することになった。

新年号の企画だ。

カメラじゃんけん、とは偽ライカ同盟の「伝統芸」であって、1000ページ本の「チョートクのぼくのカメラたち」(ワールドフォトプレス)ころから開始された。

自慢のカメラを持参して、それにじゃんけんんをさせるのである。まあ、カメラを使った二人羽織とか、闘八拳というような江戸の遺風のお座敷芸である。
「偽ライカ同盟入門」(原書房)でもこれをやったのである。

坂崎さんはきっとフェドのグーを出すから、こっちはオペマのパーで勝ってやろう!

2007年10月26日 (金)

パンツ一丁

プラハ。
曇り。
気温5度。体感気温5度。霧。
R1142361
この霧がくせものである。
1989年2月であったか、家人と2人で昇天した、ハリネズミの供養でウイーンに行った。
日本なら、四国88カ所であろうが、ハリネズミは欧州の出身だから、そうなったのだ。これを「針供養」と称した。

アエロフロートはモスクワからウイーンに向けて飛行していたのに、勝手にプラハ空港に着陸してしまった。
これはハイジャックではない。
ウイーンが霧なので、ダイバートしたのだ。プラハに一泊して翌日、ウイーンに飛んだ。
そのように、晩秋のプラハで、特に早朝に日本に出発の時には霧が気になる。
そう言えば、この1月のプラハでは自分の飛行機の飛んだ後に、大雪になってプラハ空港は数日閉鎖されたそうだ。

今回はKLMのアワードチケットで、それはエアフランスの便で、さらにJALと共同運行なので、事実上はJALであることは書いた通りであるが、Cクラスだから荷物は30キロまでオーケイである。しかもようやく、エリートメンバーの最低クラスのシルバー会員になったので、プラス5キロはオーケイだから、35キロまでは預けることが出来る。

ところが今回、何か出発時から荷物がやたら軽いようで20キロもなかった。
プラハのアトリエに到着して、調べてみたら、替えのGパンを佃に忘れてきた。
アトリエには20年前の履き古しのコールテンのズボンがあるのだが、それには足を通したくはない。

我々の世代はパンツと言えば、下穿きのことを意味する。パンツがズボンとかスラックスの総称であることをなかなか理解しにくい。

写真集「ウイーンとライカの日々」の中にブダペストのセクションがある。
1983年の夏であったか、ウイーンの3区のアパート(ヨセフ・ホフマンが棲んでいた典型的世紀末建築でガイドブックにも出てくる)の向かいの、ベルベデーレ宮殿を歩いていたら、日本からの一人旅の女の子に会った。

これからブダペストに行くのだと言う。
ちょうど、自分はブダペストに帰郷する、オペラ歌手の車に同乗して撮影に行く予定だったので、その女性を後部座席に乗せてあげた。彼女はずっと車内で眠っていた。

ブダペストに走行中、彼女(もう名前も失念している)の持参の「地球の迷い方」を見ていたら、そこに「持参品のチエックリスト」というのがあって、そこにGパンは荷物になるから、穿いている1本だけで良い」とあった。

へえ、そういうものかと思った。
ブダペストに夜遅く到着して、民宿を探した。その女性と同じ民宿であった縁で、それから3日ほどブダペスト観光で同行することになった。

これは東西ドイツ統合前のことである。

ブダペストの駅の近くで、東ドイツから来た、家族(ドイツ人の名前の方はちゃんと記憶している。夫婦と女の子の三人家族でその名をユンゲニッケルと言った)と、知り合いになったりもした。この家族との交流の話にはまた面白い逸話があるのだけど、それは本題でないので省略。

民宿と言っても普通の労働者の家である。キッチンの冷蔵庫にはキャベツが1個入っているだけであった。冷蔵庫の中にだだ一個のキャベツ。これは現代アートを凌駕している。

ぼろぼろの集合住宅の5fで、目の前には列車のレールがあり、貨物列車がアパートを震撼させつつ通り過ぎる。そこをプラウベルプロシフトで撮影した。その関連のショットは、写真集「ウイーンとライカの日々」に掲載されている。

おっと、ここで言いたいのはその同行の日本の女の子(当時としては長身で身長1,72mのそこそこの美女)の方が、着たきり雀のGパンをその民宿で洗濯してしまったことだ。
それでどうしたか?
なんと、その家のおかみさんの巻きスカートを借りたのであった。

女性は実に強いなあ、、、と、感心した。
自分は自分の1本だけのGパンを洗濯して、宿のオヤジから代替のパンツを借りる勇気など最初から持ち合わせていない。

市内を散策中に彼女から身の上を聞かされた。
実家は地方の建築材料屋さんで、子供の頃から建築の資材現場で遊んだので、ブロック塀をみると無性に懐かしくなるという。これは良い話であった。

1970年代のカメラ毎日の「アルバム」という写真の投稿ページに「ゴムホース屋の娘」というのがあって、そのシュールさに感心したものだったが、「ブロック屋の娘」とは、これに匹敵できる。

これは写真家佐内某がブロック塀の風景写真をひっさげて華々しくデビューするずっと前のことなのである。

ブダペストの2泊3日で、その女性は洗濯の渇いたGパンでウイーン経由で颯爽とミュンヘンに旅立って行った。

話はそれで終わりになる筈が、実はその後日談があった。

彼女はその1年後に語学留学でロンドンに旅立った。ロンドンから何回か近況を知らせる手紙が来たのである。
よくあることだけど、その語学留学先の先生に惚れて、それでなんとかなりそうだ、、、という内容だった。これは楽しみだな、頑張ってというようなメール(当時だからエアメール)を送った。

最後にその女の子から来た手紙はちょっと悲痛な内容だった。

その目当ての先生は「同性愛者」なので夢ははかなくも破れたというのである。
これが彼女からの最後の手紙だった。
あれからすでに20年が経過している。

今回は自分もパンツ一丁。
この言葉が頭に浮かぶと上の記憶が呼び戻されるのである。

2007年10月25日 (木)

KCチョートクカメラコラム167回

☆銀塩クラシックカメラ

「チエコ製ライカ、オペマのユニークさ」

オペマを最初に手にしたのは1970年代の半ばだ。それはウイーンのカメラ店で買ったのである。このチエコ製のRFカメラは当時はその評価が異常に低かった。
その理由は単純であって、「東ヨーロッパのカメラ」であるという、いわれなき偏見である。

R1142350 それで価格が安いのは、これは買う方にしてみればありがたい。45ミリと135ミリの2本のレンズで、当時、ウイーンの街を撮影した。フィルムはこれも安く手に入った、ロシア製のモノクロフィルムである。

その四半世紀前のオペマで撮影したモノクロネガを自分は瞬時に識別することが出来る。他の35ミリカメラなら、ライカでもエキザクタでもニコンでもその画面サイズは24x36だから見分けがつかないけど、オペマは24x34ミリで2ミリだけ短いからすぐに分かる。

自分の持っているRFカメラで同じ比率を持っているのは、ニコンSと初期のミノルタ35、それにオペマである。ニコンの一番最初のモデルが24x34の40枚撮りであって、ミノルタ35も同様だった。その理由は物資のない終戦直後にフィルムを倹約しようという意識があったようである。

オペマに関してはそのセオリーは成り立たない。このカメラの登場した当時はチエコはすでに社会主義国の優等生であった。
倹約サイズの画面というよりも、これは当時のドイツのライカに対抗して自社のユニークさを演出しようと思っていた公算が強い。

オペマのユニークさはそれだけではない。交換レンズのマウントの直径がライカより2ミリ小さな37ミリなのである。当然バックフォーカスも異なる。

実はライカマウントにしておいた方が、後で楽なのだけど敢えてそのルールに従わなかったのは、これも見識、見方を変えれば天の邪鬼である。

交換レンズは30,45,90,135,180ミリがあった。30ミリとか45ミリというのも、従来の交換レンズのシステムとは異なる。ライカタイプに普通に存在する35ミリのレンズがない、というのもある意味個性的だ。

オペマの特徴はビューファインダーがレンズの真上にあることだ。レンジファインダーはボデイの右端に寄せてある。その距離計には望遠鏡が仕込んであるので、視野の中にかなりのサイズで距離計の測距部分を観察できる。
だから、ピント合わせは楽だ。

オペマの凄いのは、フィルムの駒間隔が正確なことだ。信じられないかも知れないが、ライカの3cとか3f(これは同時代)より、ちゃんとしている。

そのデザインもチエコの精密工業生産物という感じがして、好ましいライカコピーである。直線と曲線を巧みに組み合わせたそのデザインは伝説のチエコの高級車、タトラを連想させる。

☆デジタルカメラ

「実はキュプリオR7だけ持ってプラハに」

リコーの銘コンパクトデジカメである、リコーGRが新形になったようだ。そのお披露目をかねて、この月末に横浜の美術館でイヴェントがある。あたしはその時刻には帰国途上でCDGに居るので間に合わない。同時にGRDの100人写真集が出るので、自分も1枚の画像で参加している。その画像は東京の上空8000メーターから見た都心風景。うちのタワーがその高度からでも見えるのだ。

GRDはユニークと書くと、またチョートクのリコー贔屓と言われるであろうが、自分の場合にはGR-1の頃からの10年来のお付き合いであるから、まず何と言われても困ることではない。

GR-1の登場でそれまでの写真家の選ぶカメラは激変したのである。森山大道さん、ロバート・フランク氏を見よ!
この「GR民主化運動」とでも言える、カメラ選択のシフトの意味は実に大きかった。

ところで、新GRDについてはその内容はまだ知らないのだけど、まずあそこまで作り込んだカメラだからこれ以上変わってもらいたくはない。余計な便利機構を付けると、キャプリオになってしまうからだ。
お顔綺麗モードも、ブレ防止も、GRDには不用である。
GRDはライカみたいな「伝統芸のカメラ」に昇華した。

それで今回も愛機GRDを持参したか、、、というと否である。

最近ではキャプリオR7の病気に感染してしまい、拙ブログでもほとんどこれで撮影している。そして画像設定はほとんどが、N-1260のサイズなのだ。自分の場合、ブログ専用カメラはR7だ。

10月から新スタートしたこのブログの画像は350kもあれば十分である。だからそれ以上の画質が必要な場合には、もう一台のエプソンR-D1sを使う。
このようにデジカメの守備範囲を分けて使った方が賢い。

プラハでこのR7を使っていると、プロ連中が興味を示してくる。その200ミリまでひっぱれる望遠サイズにしびれているようだ。何?そんなに安いのか、、、どこで売っているんだ!と、一騒ぎであった。ちなみにプラハではまだR6しか店頭にない。
事実、この望遠サイズのズームはかなり使える。R1142344

疾走する路面電車の中で目の前、2メーターのブロンド女性を望遠サイドで撮影した。ブレの防止機構が効いているのであろう。

パベルの長征

暗い曇り。
気温4度。体感気温2度。
まだ朝の8時半である。
ようやく光がアトリエに降り注ぐ。

いつものことだが、プラハのアトリエから佃に戻って、何か変だな、と思うのは住居の広さの違いではない。
どっちも狭いけど、佃の方がプラハよりは広い。
問題は光のあり方なのだ。ここはもともと絵描きのアトリエだから、天空光を採り入れている。

この前、森ミュージアムで、コルビュジュエ展が開催された時、非常に懐かしく思った。
変な感覚だが、ミュージアムの中に造られたアトリエのモックアップの光が、プラハのアトリエのそれと酷似していたからだ。

天空光というのは、モノの存在が立ちあがるのである。

この場所では理想のライテイングが得られる。
もう出る筈の(編集部から見本の出来る日についてはまだ連絡なし)銘機礼讃3の表紙は、この1月にここで撮影した、プラウベルマキナ3なのであるが、光が実にきれいだ。
こういう撮影をスタジオで人工光で撮影しようとすると、かなり大きいスタジオが必要になる。
これは写り込みと光の廻り方の問題だ。

欧州の冬は光がないのは、よく分かっている筈なのに、日本からいきなり来るとやはり戸惑う。
カルロビバリからイタリアに脱出したドイツの文豪の気分が分かろうというものだ。

R1142332 旧友パベルは今日から1週間、フランスのアビニオン近郊の村にクルマで出掛けた。
片道1500キロ、往復3000キロの「長征」である。これがパベルの南仏のギャラリーのポストカード。
撮影は1967年、プラハの春の事件の前の年だ。カメラのデータはライカMPにズミクロン35ミリ。
今では300万円はする、ライカMPと例のレンズおたくの好む「8枚玉ズミクロン」である。
大体、8枚玉ズミクロンは過去のレンズだから、2007年の現代にこれに固執するライカ人類は例外なく、写真が下手という共通点がある。特にデータに「ズミクロン35ミリ8枚玉」と書く連中はだめだ。その伝で行けば、「トリオター85ミリ 3枚玉」と書くべきであろう。

当時は彼のようなジャーナリストでなくてもかなり自由に外国に行けた。それが68年の8月以来、チエコは長い冬の季節になる。

パベルは9月に開催した写真展が好評で、そのクロージングパーテイをするのにわざわざ出掛けたのだ。人口千人以下の小さい村のシャトーでの展覧会だ。

我々の感覚からすると、往復3000キロの一人ドライブは凄いと思う。
途中でチューリッヒに1泊するそうだ。
明後日の朝には南仏着である。これが1940年生まれの写真家の体力なのだから脱帽。

ただし話をしてみると、自分が東京を随時脱出してプラハに活路を見いだすのと同じように、パベルはプラハを脱出して、南仏に逃避するようなところがあることに気が付いた。

この美しい街、プラハもそこに棲んでいるプラハ人にとっては、なかなかに現実的過ぎる殺伐とした大都会なのだ。

風邪は大分良くなった。咳のせいでそこら中が筋肉痛だ。

R1142349 これよりパノラマカメラを持って、スデクのパノラマ旧跡を撮影する。スデクのパノラマ写真集の画像300点はエプソンP5000に入っている。ベッドで寝ながらそれを繰り返し視ているると、その撮影場所が大抵は分かるようになった。

このルナパークがどこなのか長年分からなかったのである。それが毎日通っている、メトロの駅への途中の広場だとは思わなかった。

これは大発見である。今は工業大学のキャンパスになっている。

スデクのパノラマ写真集を手に入れて四半世紀になる。ようやくこの写真集の面白さが分かってきた。(8:50)

2007年10月24日 (水)

見失ったミノックスを発見

水曜日。雨。
暗い日。
R1142273
これが今朝の「目玉焼き日記」
ホテルもちょっとハイクラスのところに泊まると、朝、レストランで客の好みに応じて玉子を用意してくれる。
スタンダードなら、玉子2個である。まあ3個までは許される。
しかし4個の玉子を調理してもらうのは、ちょっと勇気が要る。
なにか、ライカの数みたいだ。

昨夜から風邪引きになって熱がある。
今年の東京のつかれが一挙に出たのであろうか。持参のパブロン服用。

それで、本日0時に公開する日記を今朝用意してあったのが、どこかに消えてしまっている。
書きかけのまま、他のサイトを見に行ったりしていたのでそれで消えてしまった模様。
あるいは、サーバーのバグであろうか。

それで、消えたテキストを思い出しつつ書き直す。

ミノックスは代表的なスパイカメラだ。
この前の誕生日に坂崎さんから、ブラックのミノックスBのセットで箱に入っているのを、もらった。これはもったいなくて使えないので保管してある。

いつも使うのは、1台のミノックスAである。これは最初のミノックス(ラトビア製)と同じモデルだ。
CIAのホームページには実際に使われているミノックスが紹介されている。
それはごく普通のメーターの付いたクロームのB型だ。

そのことが不思議に思っていたのだけど、簡単なことだ。本当のスパイさんはブラックのいかにもすぱい、すぱいしたミノックスなどは持つことは考えられない。
一般市民の持つ普通のミノックス。これで良いわけだ。

R1142274 自分のミノックスのうちの1台が行方不明になっていた。これが8月以来の失踪である。
今回、プラハで調査したら、持参のカメラバッグの一番奥に「引きこもって」いた。

ミノックスは目立たないカメラなので、仕舞いなくすとなかなか出てこない。
今回持参のキャプリオR7もそうだ。小形で便利なのだけど、昨日もどこかに忘れたと想った。
よく懐中をさぐったら、カモフラージュジャケットのポケットの間に入っていた。

デジタル一眼レフなら、そのような紛失の恐れはない。これがデジタル一眼が唯一、コンパクトデジカメより進んでいる点であろう。

風邪をおして市内。
来年に開催する、パノラマ3人展の会場の打ち合わせ。時期は春ということにした。

R1142303 それから、フォトシュコダにてフォクトレンダーの二眼レフ、スパーブを入手。数多くのカメラの中で、これはまだ手にしたことがない二眼レフだ。

いや、10年ほど前に、松屋のカメラ市で買いのがしたのだ。というより顔見知りのお店の人にそのカメラを予約しておいて、半時間して行ったら、その人が勘違いで他の客に売ってしまったという不思議な状況があった。
それで齢60にして、初めてスパーブを手にしたわけである。

明るいブルーとイエローのエンブレムが素敵である。

20年前だかに、日本のメーカーがCIとかいう戦略に騙されて、軒並み「お客様のニーズに合わせた明るい企業イメージのロゴ」になったのではらを立てていた。

とくにニコンがそれまでのハードはイエローとブラックのロゴが、空色のパワーダウンしたのになってがっかりだった。

このフォクトレンダーのライトブルーは同じ系統だけど、こっちには1930年来の歴史がある。だから優雅に見えても、パワーのないことは感じられない。R1142304

そのロゴのアップがこれ。


 



熱があるので、アトリエに引き籠もり。(17:25)

2007年10月23日 (火)

インターネットが不通に

10月22日 プラハ 寒冷。R1142260

早朝に起きて、メールチエックしようとしたら、インターネットに接続できない。
アトリエにある、デスクトップも駄目。ということはプロバイダーに問題があるようだ。

今日はまたPBG4を持って、行きつけのセラピーカフェに行ってそこから接続をせねばならない。実に面倒なことだ。
LANは空気のような存在なので、普段はその存在を気にもとめないが、こういう状況になると面倒なり。

プラハも月曜で、一週間の始まりである。

アトリエの隣は長らく「普通の屋根裏」であったのが、この1月に新しい住居が出来た。
そこに人が住んでいるので、夜と朝にはシャワーを使う音がする。
それ以外は何の音もせず。

隣は何をする人ぞ
というわけだが、あまりの静けさよりも隣人の生活音がする方がなんとなく、落ち着くのは確かだ。

朝、8時すぎになってようやく明るくなってきた。
天候は晴れるような晴れないような、はっきりしない様子である。

もっとも、これが欧州の晩秋の天気だから驚くほどではない。そのようなモノクロームの世界が1年のうち、半年は続くのである。まだエルンスト・ハースが元気だったころ、東京は銀座で彼とウイーンの話をした。大写真家はウイーンの出身なのである。だから、ウイーン弁で会話をした。

ウイーンはモノクロの街か、それともカラーの街か?この問いに対して「そりゃ、ウイーンはモノクロの街さ、、、君は僕が戦後に撮影したウイーンのモノクロ作品を見たことがあるかね」と答えた。

これは戦争直後のウイーンを撮影した6X6のシリーズなのである。
ハースはカラーの魔術師と呼ばれたのは、一連のライフの「ぶれたカラー」によるものだが、モノクロの6X6の作品には良いものがある。

ただし、この作品は一般向けではない。
自分は当時、ウイーンで前衛芸術誌「プロトコーレ」に16ページだてだかで、モノクロ作品を何回かシリーズ掲載していた。

同じ号にはジョン・ケージが登場するような(これは1974年の話だ)硬派の雑誌だった。

その雑誌の別の号で、自分はそのハースの仕事を見ていたのである。

とりあえず、カラーはデジカメに任せて、自分は銀塩モノクロで仕事を遊ぶつもりである。(15:27)
そうだ、日本時間は生活時間に合わないので、以降、こっちの時間に切り替える。
だから(8:27)である。

インターネットの不具合のチエックで、パベル来。
となり近所がどうなっているか聞いてもらった。

このあたり、一面が「停電」であるそうだ。
復旧にはしばらく時間がかかるとのこと。
とりあえず、明日の日記をアップするのに、都心まで行き、同時にパノラマで撮影するということにする。

空を見ると、青く晴れ渡りそこを空港から離陸したマレブ(ハンガリー航空)の飛行機がくっきりと見える。青空には白い機体は実に似合う。
さっそく、この航空路をチエックする。(10:25)

インターネットようやく開通する。(10:51)

撮影。
この数年、閉じていたワーレンシュタイン宮殿と庭園を撮影。R1142242
ここには典型的なバロックの庭である、グロッタがある。渋澤龍彦好みのモチーフだ。

それにしても、黒川紀章さんは偉い。
女性はなにかにつけ、バロック的であるからだ。
そんなことをバロック庭園を歩行しつつ考えた。
でも、自分が女性を形容するのから、いっそ、バロックよりマニエリスムというところだ。

パノラマカメラで10本撮影。
午後1時にセラピーカフェでパベルに会う。
タルタルステーキ。

スデクのパノラマ写真のデータをエプソンp5000に入れたのを見つつ、スデクの撮影地に関して意見を交わす。

その写真集の中に、ルナパークがある。
これがどこなのか分からないでいたら、何時もそこを歩行して地下鉄の駅まで歩いている、工業大学の敷地の前が、遊園地であった。
これが1950年代の話だ。

そのように、ひとつづつプラハパノラマの謎が解けて行く。(16:20)

Epsn0133 上に登場のオペマ2の45ミリのベラレンズはM37であって、ライカにはつかない。
しかし、ライカマウントに「ひっかけること」はできる。

それで、エプソンRD1に付けて、目分量で距離を合わせて(無限で1メーターになる)撮影した。

フォトショでちょっといじったら、実に立派なレンズの描写になった。
今や、どんな酷いレンズでも自由自在な時代だ。

現行のツアイスブランドもライカブランドのレンズもこれでは立つ瀬がなかろう。

簡単に「スデクめかしたげーじゅつ画像」が出来てしまう現代。

これをメーカーさんは「便利」というのであろうが。

本当は、不幸な時代と言うべきであろう。(17:07)


004693

オペマには30ミリ、45ミリ、90ミリ、135ミリ、180ミリの交換レンズがあった。

この中で、一番、グラマラスなのが、この180ミリである。

その名をtelexというのである。

素晴らしいデザインである。

なにしろ、50年代のレンズだから、真面目に造られている。真鍮製で実に重い。

チエコの工業デザインのすばらしさは、プラハの技術博物館に行くと良く理解できる。

今回視たいものは、そのプラハのミュージアムでのカメラ展示。

それと、ナショナルギャラリーの

ベレニス・アボット」の20代の頃にモデルになった油絵である。

(17:37)

2007年10月22日 (月)

スデクの眼と精神

プラハ。
三日目。
曇り、時々晴れ。午後には雹が降る。
昨日、日曜の行動。R1142157

ヨセフ・スデクの稀覯本、プラハパノラマに関しては、すでに1980年代から、アサヒカメラや日本カメラに書き、銘機礼讃にもそのことに触れている。

今年は3回もプラハに来たわけだが、そのうち、8月と今回は、主にスデクが撮影した1950年代のプラハの名所旧跡がどのようになっているのか、路地裏調査に来たのだ。
スデクのパノラマ本の後を受けて、現在のプラハをパノラマで撮影してこれを某出版社から写真集にしようという計画だ。
R1141956

プラハは日本から最近では団体さんが押し寄せたり、雑誌で特集をしたりで、ロンパリローマの後の有力な後継者である。

前回の8月の調査で、市内の路地裏、ならびに路面電車とメトロで行ける所は、ほぼ撮影した。カメラはスデクと同じパノラマコダックというわけには行かない。これは1枚ずつフィルムを暗室で入れ替えるのであって、自分のような気短には向かない。

これで撮影している人は自分の知る限りでは、スデクの他には土浦の写真家酒井某さんが居るだけだ。

今回は、それで自分は交通弱者なので、長年の友人のパベルに頼んで、持参したスデクの写真集のカット(実際の本は重いので、全300カットほどを、複写してエプソンp5000に入れてきた)を示して、その撮影場所を調査した。スデクの撮影した50年前のプラハ。それが今ではどうなっているのか、これが興味の中心。こんば場所はどうなっているか、それが楽しみだった。

結果から言えば、歴史的な名勝地はほとんど変わりがない。でも上のような市電の終点などは、驚愕の変わりようである。

R1141802 この画像は大昔に、スイスカメラのスデク特集で見て驚いた画像だ。世の中にこんな都会がああるのか、と思った。これが自分とプラハ(スデク)との最初の出会いだった。

これらの場所はいずれもクルマがないとちょっと行けないところなのだけど、1950年代にクルマを持っていなかったスデクはどのようにしてここまで来たのか、それが不思議であった。

この写真集ではスデクの「眼と精神」の効用がが最大限に発揮されている。

稀覯本なので、ニューヨーク近代美術館では鍵のかかる書架に入っていた。上の表紙のそれは1985年に出た復刻版だが、最近ではそれも見なくなった。

これを本歌取りして、2007年のパノラマ本を作ろうというわけだ。

プラハの南(プラハ5区)に一大奇観とでも言える岩山があって、そこから、三葉虫などの化石の出土する場所なのだけど、そこには岩山の間に池があって、それをスデクは撮影している。

スデクの真似をして、50年後にその場所を訪問した。
雨があがって、素晴らしい紅葉(というより黄葉)であった。R1142159

白鳥が2羽いたので、それを撮影していたら、そのうちの一匹が水からあがってきて、「なんだ、、おみやげはないのか、、、」と、言いたげな顔つきをしていた。
今月の7日に制定された「デブシロの日」を思いだした。

それからモルダウの反対側の丘の城の上からモルダウのパノラマを撮影した。
なかなか良い午前の仕事だった。

スメタナのお墓があったので、それをちょっと見た。墓石がなにか共産党の首領にような感じがしたのは、その墓石の真ん中の金色の大きな星のせいらしい。(0:00)

2007年10月21日 (日)

プラハのカメラ在庫状況

プラハ。
気温2度。
体感気温はマイナス2度。R1142134

先週までは暖かかったが、今週は寒くなったとは、寒さに強い地元の人の発言だ。
昨日の行動。

例によって、午前11時頃からプラハのカメラ店巡りに出動。
本当の目的は、今回のプラハでのパノラマカメラでの撮影用のフィルムの調達だ。
とりあえずフォマパンの120の感度200を50本買う。

デジタル時代に「フィルムを買う行為は、なにか「蛮勇を奮って目的に突撃する感」がある。
あるいは。テキサスのダラスで、スナイパーが銃を組み立ててテストする感覚と言ってもよい。
その言い方が剣呑であるのなら、絵描きのギャンバスを張る行為にも似ている。

デジカメのつまらなさは、戦闘準備態勢への緊張感のないせいであろう。
実際にはデジカメは「備えよ常に!」の状態にあるのだけど、それが当たり前の状況だから、有り難さがなくなってしまう。

第一、今回の撮影では持参のR7(リコー)は、ウエブ用画像しか想定していないので(作品はR-D1)その画質はノーマルの1280に設定してある。
だから、2GBのメモリだと、5000枚も撮影できるので、これでは有り難さがないのは当然である。

だから、デジタル一眼レフの「習い事」の連中は、全部RAWで撮影して、それをHDに格納して安心して、そこから先には進まないわけだ。
これでは撮影する楽しみもなかろう。

少ないメモリと、いつあがるか分からない貧弱なバッテリーで苦労して撮影した、初期のデジタル時代のあったことを我々はすでに忘れているのだ。
これではいけない。

64MBのSDメモリで、24枚ごとにパワーブックに画像を吸い上げていた、つい6年前のことを忘れてはいけない。

本日、目についたプラハのカメラ店の在庫状況。
この前の8月に日本からチエコ製の二眼レフの買い付け団が来たので、それ関係は払底している。そのレポートは、アサヒカメラ11月号のあたしの連載に書いてある。

サンダーソンの組み立てカメラの13X18センチというのを初めて見た。自分の持っているのは、それの4X5なのだけど、これは珍しい。

スデク愛用の4番のコダックパノラマカメラもある。R1142131

デザイン誌アクシスの次ぎの号で、チエコ製のカメラのカメラデザインを書くので、その参考用に、チエコのライカコピーである、OPEMAを手に入れる。
このカメラのデザインは毅然としていて良い。ライカなどよりも程度は上である。
しかも安い。ただし、レンズマウントはm37で、サイズはニコン判と同じ24X34ミリ。

アトリエで午後の時間を過ごす。
今時が、時差が一番きつい時である。(0:00)

R1142111例によって、午前2時に目が覚める。

日本の朝の9時であるが、日本に居るのではないから、これではいけない。

また一眠り。

アトリエの深夜の静寂は好きだ。

シーーーん!

という「音」するのである。

この静寂の音は日本ではなかなお聞くことが出来ない。これがプラハのアトリエの名物である。

朝5時過ぎの始発の市電まで、しばしこの「シーン」という音を楽しもう。

あ、上の我総はトリックである。非常に急角度のエスカレータの角度に合わせて水平にカメラを構えた。それで人間が後方に反っくり返っているわけなり。

この長い長い、深い深いプラハのエスカレータはもともと、核シエルターの為に造られたという。東京の大江戸線の深いエスカレータを思い出すのが常だ。(9:37)

R1142151

今朝は気温は3度。体感気温は1度。薄曇り。
さて、7時間遅れのブレックファスト。 恒例の「今朝の目玉焼き」コーナー。 古くは、写真集chotoku x R-D1でトップに登場しているシーンがこの「毎朝目玉焼き新聞」である。 ベークドトマトも入れた。 このアトリエは20年近くになるが、10年ほど前から、すぐそばのプラハ工業大学の構内に24時間の巨大なスーパーが出来た。 この7週いない間に、そこが大手のスーパーBILLAに買収された。 それはそれで結構だけど、展開の品物の並びが完全に新しくなったので、かなりまごつく。 まあ、還暦を機に、いつも行くスーパーの展示が完全に変わった方が、脳内メーカーは良い方向に働くかも知れない。
欧州のトマトは実にうまい。
自分はトマト嫌いと思っていたのは、勘違いであった。日本のトマトがとんでもない味なのである。(15:25)R1142149

2007年10月20日 (土)

プラハは氷雨、気温2度

NGOCDG
飛行時間11時間30分。
松本上空からいったん新潟に出て、通常のトランスシベリアコース。
持参のジエップセンの航空地図で飛行航路をトラッキング。
シベリアの部分の地図は持っていないが、これは退屈だから必要なし。ヘルシンキのあたりからは用意した航空地図でまたトラッキングする。
R1142067
パリ行きの航空路はUN872のようである。まさにパリまで一直線。これに並んでいるのが、UN850であって、どっちだか、最初は分からなかったのだが、「地紋航法」にて眼下の湖を見て、これが前者であることが分かった。

ついでに名古屋から乗るのは珍しいので、記念に航空地図にキャプテンとファーストオフィサー、ならびにアテンダントさんのサインをもらう。
キャプテンは熊崎、金沢両機長。FOは井上さんであった。

定刻にCDGに到着。
ターミナルバスにて、2Bに移動。
2Fのラウンジに入る。ここは数年前にやはりパリからプラハに行く時に使ったが、相変わらずきたないラウンジだ。
欧州に来て、いつも最初に痛感するのは、「全体がぼけーっとしていること」である。
ここらが欧州のアトモスフェアの一大特徴だ。
ここはビジネスラウンジなのだから、欧州を飛び回る切れ者ビジネスマンのメッカの筈なのだが、人間の存在感がぼーっとしているのは、それは「ゆとり」なのであろうな。
この最初の欧州の感覚は一晩経過すると、慣れてしまってそのことを忘れてしまうので、それを忘れないうちに、ここに記しておく。

それは8月のアムステルダムでも感じたことだ。そのぼけーっとした欧州をしっかり味わう。
プラハ行きの飛行機はまだ、1時間以上の待ち時間。(23:20)

パリ=プラハ。
飛行時間。90分。
到着したら、気温2度である。
7週間ぶりにアトリエ。
ストーブをたく。
氷雨が天窓をたたく。(5:29)

R1142103_3

熟睡。 現地時間の朝8時に目覚める。 午前3時にトイレに立って、天窓から見たら、北斗七星の柄杓が、逆さまになっていた。 この前の8月とは、星の様子が変わった。 天気は曇り。 一面グレーの光景の中に、アトリエ前の公園の枯れ葉のイエローが目に染みる。 万聖節は近い。 冬そのものであって、ウイーンに暮らした四半世紀前の季節感覚を思い出す。 一晩寝たら、自分の呼吸が実に深くなっているのに気が付く。 これも毎回のことだ。

朝の気温は2度。体感気温はマイナス2度。
例の如くコーヒーを淹れて、それを飲みつつ今度のプラハの本、それからプラハの写真集につき、思いを巡らす。(15:17)

2007年10月19日 (金)

セントレアは悪くない

本日、10時05分のJAL AF にてパリ経由のプラハ。
今、空港内のホテルでこれを書く。
何を思いだしたかと言えば、2001年9月11日のことだ。実際にはその1日前であるが、関空からタイ航空にて、バンコック経由で、ミュンヘンに飛んだのである。

あの日は台風の余波で万一、乗れないと困るので、前日に関空に行った。
それで一泊したのが関空のホテルであって、夕日が海に落ちるのを楽しんだ。

セントレアもそれと同じ感覚があるのは、ランウエイが海の上の同じ方向を向いているせいだ。
昨日、東京から高速バスで中央道を通って中部国際に来た。

R1141984 すげー、山の中なので感激した。

ここにこそ極東の神秘がある。

東名より、中央。

R1142001 名古屋で名鉄に乗って驚いたのが、列車が2分置きにホームに入ってくることだ。
自分のような「外国人」は、完全にその状態に圧倒されてしまう。

特急と快速特急。
どっちが速いと思いますか。
これは後者なのである。その看板の色からして、「特」の方が速そうに見えるのだが、、、
これも勉強になった。

セントレアは、今回、初めてである。何時か、外国からの帰りに、関空を上空から見て、6分後にまた関空が見えたので、肝を潰した。
これは2番目に見たのはセントレアであったのだ。

それで一度は中部国際から離陸したいという夢が、今回実現した。
ここのオブザベーションデッキは、自分の知る限り、世界一である。
実に飛行機を楽しめる。R1142024_3R1142021
サテライトの上がそのまま、デッキになっているのでかなりランウエイの奥にまで、舞台がせり出したいる。
これが実に良い。

そのサテライトの突先にカフェレストランがある。
ホテルに一泊するので、そこでデイナーを、と思ったけど、チエックインしてシャワーを浴びるとそれも面倒である。
それなら、ホテルで晩餐と思ったが、それも面倒で、ホテルの前にあるサンクスで、焼酎とつまみを買ってきた。
結局、佃の立ち飲みとまったく変わらない内容であった。

それで今朝の出発に備えて、航空地図も用意。
しばらく前は、飛行機の上からメールもブラウズも出来たものだったが、最近、あれは止めになった。
飛行中くらい、何もせずにゆっくりしたい。

それと、セントレアホテルは空港内にあるホテルとしては、サービス内容が高い。1万円以下でちゃんとしている。

おしむらくは、バスタオルの質が貧弱なことだ。

これでしっかりしたタオルを提供すれば、あと5000円は余分にチャージできる。

タオルこそ、重要である。

ゲストがホテルを肌で感じるのは、バスタオルだ。舌などはアルコールの助けを借りるから信用が出来ない。世界のトップクラスのホテルを(バブル期にだけど)チエックした自分からの印象。(7:00)

まだ空港のラウンジ。 これからこれに搭乗する。 あ、間違い。これは767でした。パリ行きは777。 R1142029

2007年10月18日 (木)

21日夜が観測チャンス=オリオン座流星群

画像は佃のしらさぎさん。

R1141595 しばらく、魚取りの妙技を見せてもらった。

こうして見ると、実に武蔵野である。カメラはR7

以下、ネットで拾ったニュース

★21日夜が観測チャンス=オリオン座流星群−国立天文台
(時事通信社 - 10月16日 11:06)
 毎年10月中・下旬に出現するオリオン座流星群が、今年は例年の1時間当たり10〜20個より少し多めに見られそうだ。国立天文台によると、天候が良ければ、21日午後10時ごろから22日午前5時ごろまでが観測のチャンスという。 [時事通信社]
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これは楽しみだ。
この8月もアトリエの天窓から観察した。これはアトリエの床に寝ころんで、双眼鏡で天を見るのである。
今回は前回よりも大きめの双眼鏡(キヤノンのスタビライザー付き)を持参する。

星を見るには、トウキョウの空の明るさでは問題にならない。
昨年の7月に山梨県の山奥に取材で行って驚いた。
降るような星空であった。
プラハの空は山梨の山奥ほどではないが、それでも星は見える。
今回はジャップセンの航空地図も何枚か持参する。これは星の間を夜間飛行するエアラインの航空路の番号をチエックするのである。

さて、これよりプラハ。
そのプラハへの行き方。
まず、リバーポイントタワーの前から、東京駅八重洲口行のバスにのる。
都バスでプラハに行く。これがちょっといい。

そこからヤンマー前に停車している。高速バスで名古屋。
セントレア空港に一泊。
金曜の午前10時5分のNGOCDGPRG。
この中で一番、興奮するのはやはり都バス、高速バス、それとセントレアである。
あとは、何時もの行程だから、案外に退屈。

チケットはKLMのアワードだから、AFなのは分かるが、これはコードシエアで、実は機体がJALなのである。それでちょっとがっかりした。以前、LHを利用していた時、NRTから機内に入ると即、外国である。この感覚がいい。

だから、機内でいきなり「外国」の方が好きである。
面白いのは「AFだと思ったら、その機材がJALのオペレーションなんですよ」と、こっちが残念という意味で言うと、「あ、それは良かったですね」と答えるのは、ヒルズのライブラリメンバーの人である。
まあ、これが日本の常識なのだろう。
新聞の広告などでも「安心のJALで」とか「機内でも日本語で安心」とかあるからな。

CDGからPRGはOK(チエコ航空)のオペレーションである。これもAFとのコードシエアである。

さて、これより、プラハにオリオン座流星群観察に出発。
これは日本路地裏学会の調査項目に入るのであろうか。
セントレアに一泊するのだけど、その空間感覚からすると、名古屋はプラハの郊外という感じだ。

ああ、持参のカメラだが、デジカメ(非デジタル一眼レフ)を3台。
遊び用にガンマ1台。それと今度のプラハのパノラマ写真集の撮影の為のノブレックス150。
(7:00)

2007年10月17日 (水)

謎の極東大周遊

明日からプラハ。

8月以来だから、実に50日ぶりのプラハだ。

さぞかし変わったであろう。、、とは大げさだけど、プラハのお天気カメラで見る、カレル橋はすでに落葉が始まっている。

プラハの一番、美しい季節だ。
今回は今度出す「プラハのエッセイ本」の為の取材。

銘機礼讃はすでに最終校正を出したが、日本カメラからは何も言ってこない。
大丈夫か?

何時ものことであるが、欧州に出掛ける2日前あたりには、トウキョウを徘徊したくなる。

まず悪癖と言ってよい。
一時的に関係が切れる、自分の「居留地」が、本来の姿を取り戻すとでも言えよう。

たとえば、自分がマンハッタンを最初に見たのは、1982年の11月10日の現地時間で午後7時頃のことだった。
タクシーでアップタウンから、タイムススクエアのホテルに近付いて来たとき、「これはどうも剣呑な所に来たなあ、、」と、感心した。
ホテルエジソンの最初の夜、どこかで拳銃の発射音がした。

しかし、マンハッタンも1年も棲むと、それなりに慣れてしまう。でも最初の夕刻のマンハッタンが、あれは真実の姿を見せていたのでは、と、今でも思う。
慣れてしまうと、街は本当の姿を見せないものだ。

そういうわけで、プラハ行きの前に「トウキョウの本当の姿を見てやろう!」と、本気でそう思ったわけではないけど、そういう気分ではある。

まず、有楽町で55 stationに現像を出す。
これは日本カメラの12月号に使う画像である。
その足で、11前にはアキバの淀カメに行って、プラハ行きのフィルムなどを買う。今回はイタリアンライカのガンマを持参するので、それをダブルパトローネで使う必要から、フジの空のパトローネを20本買う。

8階で、例の刀削面。700円。
いったん北千住に出て、小菅を徘徊。
方向を転じて、北千住に戻る。
千代田線で綾瀬。
菖蒲園方面に歩行するも、雨降り出す。
周章てて、綾瀬駅に戻る。
京成バスの新小岩行きに乗る。こういう親切な案内がバスの中に出ている。R1141629
しかもバスの中で、傘を500円で売っている。日本のバスは凄い。稲垣足穂の小説で、昭和10年当時の回想で、その時点からさらに15年前に「食堂バス」というのがあったそうだ。それは「とんかつでもとってぼちぼちやっていれば、渋谷から浅草まで行ってしまう」のだそうである。
これは流行しそうだ。
新小岩まで行くつもりが、堀切菖蒲園の青木書店に行きたくなり、途中下車。
その前に青木書店の二軒手前の金子酒店にも長い間、行っていないので「顔つなぎ」に行く。カウンターでは地元の紳士連が「近所のパチンコ店の品定め」で沸騰している。

電車で町屋に出て、千代田線でまた北千住。乗り替えで、南千住。
今日は大林は火曜で休みは分かっているので、通過して、金太耬すし。R1141663
750円の1,5人分を2個、注文。

都バスで、いったん浅草。
銀座線で京橋。
55ステーションで現像をピックアップ。

その行程中、ずっと、リコーのR7で、あちこちスナップ。
実に曇り空のトウキョウの秘密を満喫できた、昨日のトウキョウ大周遊であった。(7:00)

2007年10月16日 (火)

カナダの松茸とズミクロン

曇り。
もう秋だ。
R1141592 などと言わねばならぬほど、異常な夏の暑さであったわけで、その「おかげ」で家人は酷い帯状疱疹になった。
これは回復まで長い時間がかかる。
恐れ多いことながら(と、戦前にはかならずイントロをふったものだが)雅子さまのご苦労が良く分かる、この病気は長いとは、家人の実際になっての感想である。

それで、この1月ほどは自分が家事を手伝っている。
主に、夕食のコックをやっているのだけど、慣れるとなかなかに「実がある」楽しみだ。
第一、冷蔵庫の中の在庫を把握しているから、何を買うべきかが良く分かっている。

一方で、カメラジャングルの方は、暗黒大陸である。なにが生息しているのか、皆目分からない。

昨夕は年に一度の行事として、外国製の松茸を買った。
何もそのように断らなくても良いわけで、それしか買う選択肢がない。それでも2400円もする。

昨日のメニュー

ぼらの鱠
車エビ
松茸焼
フィレとアスパラガスのオイスターソース

外食したら大変な値段になりそうだ。

カナダ製の松茸は、カナダ製のライツの90ミリズミクロンレンズみたいな格好をしている。
だから、外見は松茸らしくないが、香りと味はちゃんとしていた。
さんまは目黒。ライカレンズと、松茸がカナダに限る。(8:35)

2007年10月15日 (月)

チョートクカメラコラム166回

★銀塩クラシックカメラ

「ソ連製の安い50ミリレンズで遊ぶ」

50ミリの標準レンズはそれこそ山のように持っている。

普段使っている、エルマーとかゾナーなどのほかに、たくさんのソ連製レンズを持っている。いずれも50ミリレンズであるが、これは小さいレンズなので置場には困らない。

逆にいえば、手に入れたときに1本ばかりテスト撮影をして、そのままどこかにしまいなくしてしまうのである。

それが数年ぶりにカメラの箱とか引出のなかから発見されると、なにか非常に得をした気分になる。、もともと自分の所有するレンズだから、うれしいわけはないのだけど、もっていたことを忘れてしまったレンズは、実は所有していないも同様であるから、やはりうれしい。そのように発見された50ミリレンズを机の上のずらりと並べて遊んだりもする。

日本路地裏学会で路地裏を歩行していて物を拾ったなどということは一度もないが、佃のカメラジャングルから出土したレンズはこれはうれしい。

偽ライカ同盟会員の坂崎さんが前から提唱しているのが、ソ連製カメラのレンズの優秀さのことである。

自分も坂崎商店から、ソ連製カメラを数台買って、そのレンズの魅力にはまった一人だ。

ソ連製レンズの中で、コストパフォーマンスが最高なのは、ゾナーのコピーのジュピターであろう。50ミリレンズで明るさはF2が一般的であって、ほかにF1,5の明るいレンズもある。これは実に優秀なレンズだ。

とは云え、最新の50ミリレンズと比較してその性能がどうのとかMTFがこうの、と言う人とは実は話がしたくはない。これは往年のツアイスの黄金時代のレンズの良さと悪さがそのまま現代に持ち越されているという意味だ。

コンタックスと同じモデルに、ソ連製のキエフがある。そのレンズをライカ=コンタックスマウントアダプターに入れて、それをライカやら、エプソンにつけるのが最近の撮影の楽しみである。

★デジタルカメラ

「SDカードを偏愛する」

最初にSDカードに出会ったのが、2001年の秋のことで、これはパナソニックのルミックスの広告の仕事で欧州に行った時、機材と一緒に渡された。

それまではフルサイズのPCカードなどを使っていたのだから、その小ささにはびっくりしたものだった。

最近ではもっと小型なカードもあるが、あれは小さ過ぎてかえって紛失の恐れがある。その点、SDはちょうどよい大きさ(というか小ささ)である。

そのSDカードは今までのわれわれの物質の常識を完全に変えてしまったところがある。こんな小さいカードの中にどうしてあんなに多量のデータが格納可能なのか、いまだにわからない。

これは企業秘密なのであろうか。SDカードで検索しても、その中身がどうなっているのか、皆目わからない。

大昔なら、「中に小さな小人さんが入っていて、、、、」で済んだわけだが、今ではそうはゆかない。

「SDカードふぇち」である自分には、3年ほど前に有楽町のビックカメラの地下の入口にあったSDメモリの「等身大」のフィギュアが忘れられない。

これは人間と比較して等身大という意味だ。カードをそのまま人間のサイズにしてしまったところがすごいと感心した。そのSDカードフィギュアは、ミッキーマウスみたいな白手袋であった。記憶に新しいのは、そのカードフィギュアが512MBの胸番号を付けていたことだ。あんなSDカードのフィギュアなら、ひとつうちにあってもよいと思った。

SDカードさまのご利益なしでは一日も過ごせない我々であるからだ。どっかにSDカードの銅像でもできないか。和気清麻呂の像より尊敬されるであろう。

というのは2001年の秋にはまだ「最大の容量は64MB」であったから、実に大変な進化であると驚いた。

それが今では自分の持っているのは2GBだし、世間には4GBのSDメモリもある。

以前はメモリが足りなくなる時の用心に、もう一枚のカードを定期入れにはさんでいた。それが今では2GBはとうてい使い切れない。

フィルム代、つまり電子式フィルムの代金が空気みたいにただに限りなく近いというのも理想の時代のようであって、案外そうでもないのかも知れない。

19ミリで有楽町を撮影

月曜日。

曇り。R1141582

木曜からまたプラハである。

1月半の東京出張という時間感覚だ。

プラハの気温を調べたら、早朝はすでにマイナス1度になったりする。マイナス5度以下用のコートは、アトリエに置いてあるが、それでは「暑すぎ」だから、普通のスモックを持参するが、問題はそれを日本国内で着つつ、空港にゆくまでに、汗だくなるであろうことだ。

一考を要する。

昨日の午後は渋谷にて、「ライカ愛好会」。

おなじみの顔も見られたが、参加者の過半数が女性である。

「女子ライカ部現象」は、いよいよ本格化。

この前、会ったライカ社の社長さんも言っていたが、普通の女性が好むブランド品は星の数ほどあるが、それらは「通俗的」である。

ライカはそのブランドパワーは、「超絶的」である。ここが異なるわけだ。

佃への戻りに、昨日のとり違いのフィルムを55 STATION 銀座泰明小学校前で受け取る。

これは新たに手にいれた、伊太利は羅馬製のライカコピー、ガンマのテストである。

はたして、ちゃんと写っていた。

Fh000032

このカメラが「格式が高い」のは、一度の撮影で36枚しか撮れないことだ。

1950年の製品で、そのデザインは「偽ライカ」の中では、一番美しい。(この下の方の画像参照)

イタリアデザインは大胆なもので、ガンマには巻き戻し機構がない。それで、普通の35ミリカメラでは普通に見られる、巻き戻しクランクはない。

これがデザインを「未来派」にさせているわけだ。ゆえに、1本撮影したら、そのまま家に戻って、ダークバッグでカメラの内部のフィルムを取り出して、全暗黒で巻き戻す。

この手間は大したものかも知れないが1本のフィルムで1日に36枚というのは、ある意味、理想のカット数である。

そういうかなり凝った撮影を楽しむことができる。

撮影中にダークバッグを持参すれば、何本でも撮影できるわけであるが、それはガンマの品格を貶めるのではないか。

上のはその作例。レンズは坂崎さん好みのキヤノン19ミリ。これはなかなか使いにくいレンズで有名だ。とんでもないゴーストが出たりする。暴れるイタリアンカメラにはぴったりだ。

偽ライカ同盟の公式メカニックである、良元堂さんみたいに、フェラーリのメカニックから、ある日、イタリア製カメラ(この場合はやはり羅馬製のレクタフレックス)の魅力に捕まった人もある。

自分のガンマ1型(今回手に入れたのは、2型)は、その良元堂さんに修理してもらった。

ところが、ガンマ1型は特殊マウントであって、55ミリのレンズがついているけど、交換レンズは発売されなかった。それが2型になって、ライカマウントになったので、自分のカメラジャングルに生息している、各種、キズものレンズが自由に使えるようになった。

ありがたいねえ、、、、。

(10:24)

仕事。

連載2本書いて、メールで送る。

以前は書いた原稿をもって、編集部に行って、編集者さんとお茶を飲んだり、天丼をごちそうになったりしたが、メールで納品になってから、2年も顔を見ないなどはごく普通である。

そのせいで、日本では喫茶店に入る機会はなくなった。

カフェと言えば、最近ではもっぱら。プラハのカフェのことを指す。天丼もいいけど、最近はそういう機会がないので、もっぱらタワーの6Fのアンパンのつなきゅうりサンド。

158円。

たまにお客さんが来ると、51Fの六本木ヒルズクラブの、百味庵にて「旬膳」というのを注文する。これが2000円しない定食なのだが、お値打ちだ。

4人を招待しても1万円。

家人の帯状疱疹のヘルプで、夕飯はあたしが制作している。ゆえに外食費はほとんどかからない。もっぱら、写真芸術に打ち込んでいるわけである。(一同爆笑!)

拙ブログはフリーという部門だから、ただであるが、その代わりスポンサーリンクというのがつく。

KCさんの方はそれよりずっと上のクラスの「冠スポンサー」である。

リンクが張られているので、そこもクリックお願い。連載のチョートクカメラコラムは、そっち引っ越そうかと思う、今度、相談してみよう。

スポンサーリンクをクリックしたら。コメ兵というお店の広告で、その中にライカM3が74800円だかで出ている。これは価格並みの外見だけど、シャッターが調子良かったら、案外に良い買い物であろう。

それに「犬のおっぱい」がついている。これはシンクロターミナルアダプターで、これを付けるとカメラの取り回しがしやすくなる。

5216000827270c これがそのM3だ。70万代のmM3はブレッソンも愛用した名機である。今から10年経過したら、ライカM8は話題にもならないであろうが、M3なら大丈夫だ。

ファインダーが汚くても、向こうが見える程度なら、これは買いかな。(13:30)

2007年10月14日 (日)

55 station でフィルムを取り違え

曇り。
本日は午後1時半から、渋谷の東急BEにて「ライカ愛好会」あり。
半年ぶりなので、前の受講者さん、つまりリピーターさんに会うのが楽しみである。

昨日、午後、撮影したコダックのカラーネガを1本だけ、銀座は泰明小学校の向かいの 55 STATIONに出しに行った。
こういう街中のラボにからーネガを出すのは、実に今年の春からの「奇習」であって、その前の過去、40年はコダクロームやフジクロームや、コニカクロームをプロラボに出していたのである。

それがデジカメになって、プロラボの受付の女性の顔も忘れるようになり、第一、現像を出さないから、ラボからも請求書が来ない状態になった。
そのまま、行くかと思っていたら、今まで買ったことも使ったこともない、「一般の人向け」と思っていた、カラーネガフィルムが、この40年の間にかなり進化したようで、しかもカラーネガを現像だけして、それをCDに焼いてもらうサービスで、小さいカットなら印刷にも使えることが判明した。

それで、最近はコダックの400のカラーネガをヨドバシとか、ビックで10本入りのやつを2600円とかで買うのである。
実にプロらしくないねえ。
R1141559
昨日は新しく手に入れた、ローマ製のライカコピー、ガンマのテスト撮影ですぐに結果が見たいので、オンラインで55 STATIONが銀座に2つあることを知ってその一つに行った。

午後2時に受け付け。
午後2時半に仕上がり。

と、伝票に刻印されている。

何時も使う、ヒルズ店は55分かかっているから、仕上がり30分はかなり早いと思って、その足で銀座8丁目のハナマサで買い物して、2時半にピックアップに来たら、まだ出来てないという。

前のお客さんのネガをCDに焼いているので10分後に来てくださいという。
この10分の時間のつぶし方というのは案外に難しい。

空港で、飛行機待ちで5時間というのは平気なのに、10分待ち堪えられないのは、トウキョウのストレスのせいだ。

映画街を撮影して、戻ったのが2時40分。

まだ出来ていない。
それならと言うので、今度は数寄屋橋公園で右翼の演説を聴きつつ、大昔の赤尾さんの辻説法を思いだして、やって来た一人歩きの鳩にエサを(買い物のパン)をあげて、午後2時52分にようやくピックアップ。

有楽町は大混雑だ。
なんとか言う商業施設が出来て、そのオープンで客待ちが凄い。
地下鉄に乗って、ピックアップしたネガのサムネールを見たら、なんとなく様子が変だ。

午前中に、テストで撮影したのは、佃のカメラジャングルである。
ピックアップしたネガには、動物園が写って、虎が歩いている。
まあ、うちなどは動物園のようなものだから、これは撮影したモチーフを戯画化する、新しソフトが出来たのか、と思った。

単純なネガの取り違いである。
赤ん坊の取り違いなら、新聞ネタ、TVネタになるであろうが、これではニュースにもならない。

しかし、家族の行楽を撮影して、上がったネガが女の子の旅先の記念写真だったりしたら、家族争議のもとになる。

午後9時前、55 STATIONから留守電が入った。電話は目下使用しない建前であるが、現像の受付の時に秘密の電話番号を言ったので、それで手がかりがつかめたのである。
「お客様のネガを確認していただきたく、云々」と、実に手馴れた女性の声だった。
案外、その取り違い時の対応マニュアルがあるのかも知れない。

その取り違えのネガの動物園の写真はなかなか芸術的である。
第一、記念写真が一枚も写っていないのが、プロなみである。
知らない人のコンタクトプリントを見る楽しみというのは、実は写真家だけが知っているのだ。(9:31)

2007年10月13日 (土)

黒川紀章さんと、中銀カプセルタワー

土曜日。
曇り。
冷涼。
R1141549
黒川紀章さんの一番若い頃の作品、銀座八丁目の中銀カプセルタワーに30年来、棲みたいとおもっていた。
最初にこの未来建築を視たのは、1971年か2年だかから竣工したばかりである。これを走行中の高速道路の上から見た。まさに未来建築だった。

実際に、そこに行って読書したり、原稿を書いたりするよううになったのは、これは2004年1月からの2年間である。
10平米しかない、メタボリック建築であるから、何も置かないで、金屏風と座り机だけにした。
ここを「銀座八丁庵」と命名して、自分の「魂の置き所」にしていたのである。

2年前の7月の終わりに、文春の雑誌のTITLEが、うちを取材に来た。一通りの話が済んでから、黒川さんが今から見えるというので、吃驚した。

当時、中銀カプセルタワーは、アスベスト問題などが出て、週刊新潮にその話題が出たりしたので、世界的建築家もその為の対策として、わざわざ、初期の自分の建築の前に来て、ポーズをとったのであろう。(その週刊新潮の編集長は坂崎さんと高校の同級生なのだ、と坂崎さんから聞いて吃驚した)

トヨタセンチュリーで登場した、白いスーツの建築家はなかなか
男前であった。

最後にお目にかかったのが、この8月の5日のことだ。
コルビュジエの大展覧会が六本木ヒルズの森美術館であって、黒川さんの講演会は満員だった。
その後、内輪のカクテルパーテイがヒルズのクラブであった。
建築家は白いジーンズ姿で登場した。
たまたま、そこに居あわせて居た人で、60歳以上の人間があまり居なかったので、人に勧められて、建築家の向かいのスツールに座る機会があった。

「自分は中銀カプセルタワー、日本のメタボリズム建築の代表作で仕事をするのが夢でした、なせか、自分自身がメタボリックになってしまいました」と、切り出したら、黒川さんはカラカラと笑った。
メタボリズム建築という言葉に対して、メタボリック症候群という言葉の方がずっと新参なのである。

それから、しばらくはメタボリズム建築の話になった。
あんな若い時に、中銀カプセルタワーのような、プロジエクトを任せられたというのは、凄いと思っていた自分である。
そのことを質問したら、「いえ、あれは、自分で売り込んだというより、会社の仕事だったから、、」という意味のことを、建築家は言った。

一昨日の昼前、それが自分の意志ではないかのように、自分は若松河田で降りて、女子医大の周辺を撮影していたのである。
コンタックスTで、女子医大のクラシックなテラコッタ建築を撮影して、昔、欧州で撮影した、ペーター・ベーレンスを思いだし、それから黒川さんを思いだした。

まさか、その病棟に明日は幽明境を異にする、建築家が入院しているとは想像もしていなかった。
画像は2005年の7月末に、中銀カプセルタワーでお目にかかった時の建築家。(9:47)

終日、在宅。 午後、ちょっと銀座まで。 奇事あり。それは明日、書こう。 漂流者のブログを見たら、YOUTUBEで、あたしが漂流者展のキュレーターをやっている。 これ、かなりばかばかしいので笑える。 ご笑覧のほど。 度胸のある人は、右下のリンクをクリック! (19:13)

2007年10月12日 (金)

開運はライカから!

開運はライカから!
これは、本ウエブ(じゃなかった、拙ブログ)のランキングの上位の「開運はxxxから」の真似である。

実際、ライカは運が開けるとも思っていないのだけど、ライカが人間と人間を結びつける不思議な力がある、と書いたのは、20年近く前の銘機礼讃1の中だった。

それは古いライカを持って、リスボンの酒場で飲んでいたら、そこにアメリカはカリフォルニアの絵描き、timが入って来て、ライカを絆にして、そこから人間同士のお付き合いが開始されたという話だ。

もうじき出る、銘機礼讃3 では、その最初に出会った場所を検証しに、リスボンを旅した話を書き下ろした。
今度の銘機3は、発表した文章が3割、書き下ろしが7割という感じだから、楽しめると思う。
そのリスボン再訪では、上に書いたライカが人間同志を結びつける、その後日談は、思いもかけぬ結末を迎えるのであるが、その種明かしはここではしない。

1980年のリスボン、あの事件を皮切りにして、東京は新宿で、坂崎さんが声をかけてくれたり、ウイーンのカメラ店で、東儀さんと知り合いになったり、黒田さんと銀座のカメラ店で出会ったり、なぎらさんと読売ホールで知り合ったりしたわけだ。

これがライカがらみであるから、その意味ではライカは開運に関係がないこともなかろうが、正しく云うならば、「ライカが人間関係を形作る」というのが正しいであろう。

開運はライカから!
のセオリーから云えば、先月、ヒルズの「チョートククラシックカメラ展」に、ライカ社の社長が来たのも、それにあたる。別にライカ社の社長さんが、ライカの経営状態の説明にわざわざ自分の所にくるわけはない。

これはヒルズの知り合いのメンバーさんの縁でこういう「奇跡」が起こったわけだ。
それで、りー社長とライカ話しとフェド話をして、愉しんだわけだが、意気投合したので偽ライカ同盟にりーさんの入会を許可しようと思った。

しかし、フェド坂崎さんとはことなり、ライカのトップがまさか、偽ライカ同盟のメンバーというのは、これは世間的に誤解を招くであろうと、止めにしたのである。
だから、ライカ社のりー社長は偽ライカ同盟の隠れメンバーとでも言えるであろう。

路上でライカ人類同志で知り合いになって、そこでライカの話に熱中できるのはありがたいことだ。
これがデジカメではそうは行かない。
第一、どれも同じように見えるから、区別がつかない。まず各社は、性能競走はそこそこでいいから、個性的デザインのデジカメを造ってもらいたい。

亀の子たわしに似た、コンデジがあったら欲しいし、二眼レフのローライにそっくりにフルサイズデジカメがあったら、欲しい。

3年前にパリで使ったライカも、5年前にベルリンで使ったライカも、10年前にモスクワで使ったライカも、20年前にマンハッタンで使ったライカも、27年前にリスボンで使ったライカも、そして35年前にウイーンで使ったライカも、さらに40年前にトウキョウで使ったライカも、それぞれにそれそれのモデルを思い出して、それぞれのライカのデテイルを思い出すことが出来る、

ライカは開運云々はともかくとして、ライカは人生とシンクロして歩むカメラだ。
最近では20代の少年少女が、またもライカ(デジタルではなく、フィルムの)に興味を示すのは、その意味では素晴らしいことだ。

それで、明後日、東急BE にて、半年ぶりに「ライカ愛好会」を開催する。
それぞれのメンバーはリピーターさんが多い。
かれらが前回、どんなライカを使っていたかも思い出すjことができる。

画像はフォカのフルセット。これらも偽ライカ同盟の範疇である。
黒田慶樹さんが偽ライカ同盟に集会した直度、黒田さんと「オプラレックス研究会」を結成した。これはフランスライカのフォカの最高級レンズ、50ミリF1,9のブランド名である。(9:10)2250

午前10時にはヒルズ。

快晴の東京となる。

昨日、記載のファットフォト7周年の記念フィルムに関し、編集部から以下のメールあり。

田中さま

お世話になっております。

早速日記に登場できて嬉しいです、
ありがとうございます。

名前は、「RAINBOW 7(レインボーセブン)」です!

赤が強い色合いです。
ブルーやグリーンも強いです。
とにかく強いです。

C-41でちゃんと現像できますが、
DPEショップでは、
プリント時に色が補正されちゃう可能性もあります。
補正をしないでいただけると、
目くるめく色合いになります。
特に夕焼けとか撮ったら、なんともドラマティックに!!

なにとぞよろしくお願いいたします。

安藤菜穂子
ーーーーーーーーーーーー

なるほど、、、、写真を個人の表現とするのなら、色彩などいかに変化しても、よいわけだ。補正ソフトで「きれいきれいな絵つくり」も欠航だけど、ワイルドな色彩の飛んだ状態から、なにか生まれるかも知れない。

これより、ヒルズにて某社の某コンテストの審査あり。(10:37)

2007年10月11日 (木)

トウキュウカレイドスコープ

トウキョウ大周遊。

何時もより、遅く佃を出る。

カメラはコンタックスTに、ファットフォトから届いたばかりの、なんとかセブンとかいうカラーネガである。(パッケージがなくて、そのままカメラに入れたので、名前も不明)

なんでも、ファットフォトの創刊7年記念に登場した、限定フィルムでその色が「ファンタジー」に写るそうだ。しかしまだ現像の結果を見てないので、わからない。ともかくそのフィルムをコンタックスにいれた。35年前に、赤外カラーというのがはやった。これはもともと、アメリカ軍が、ベトナム解放戦線の陣地のカモフラージュを突破するためのフィルムである。

あれは実に不思議な色彩になったな。だからどんなに色がずれたって、われわれ、カンレキ世代は、驚くことはない。

大江戸線で、若松河田。

R1141478 女子医大の裏手、住吉町界隈の崖上と崖下の高度差のある町を徘徊。路地の裏手の入り口は、実は建物の2階であってるという、トリッキーな界隈だ。

わざと路地にまようようにする。

日本路地裏学会の路地裏トリップである。

曙橋のカレー屋で、(ここの店主はデリーのチャンドニチョーク出身)ラムカレー680円。

坂を上って、アローカメラの3fの「ギャラリーちょーとく」にて、タムロンの有志の写真展。カメラメーカーさんとかレンズメーカーさんには、写真好きでも「写真音痴」の人のいることが、ままあるが、この展覧会はレベル高い。

特に、千代田さんの草むらのカラーの作品と、前田さんの8x10の密着をフランスの変な紙にプリントしたのがよかった。

ここには、写真の表現が胎動している。

アローのガラクタ屋さんで、ケンコー製のカレイドスコープを買う。

これを枯井戸スコープとやっていた人がいたけど、あれはちょっといやみだ。

そこらを覗くと、どこでもきゅびずむの分解がそこから進行する、魔法のめがね。まあピカソ的解体と言い換えてもよい。

R1141535 ケンコーも粋な製品を生産している。

四谷三丁目から、バスで西麻布。

そこで下車するのがいやになって、そのまま、品川駅。

松坂屋カメラを探査。

12月号のアサヒカメラの取材を同時にやる。

品川駅前から、ヒルズ行きバスで、瞬く間にヒルズに戻る。高輪1丁目のいやみなカレー屋さん、「水は一切だしません。英国風カレー1500円」の白い看板はまだあった。

世界の無数のガストロノミーの中で、水を出さないのはおそらくここだけだろう。

その代わりに、アイスクリームを出すのである。バスの中では、ずっと枯れ井戸スコープ、もとい、カレイドスコープで流れさる東京の風景を楽しんだ。

あ、昨晩、野々宮BMWに会った時、彼は最近、あたしの「芸風」が変わってきたという。

どうも、こころぐになってから、エンタメを意識しているのであろうか。

いやいや、、、とんでもない。(15:19)

万年筆のインキきれ

木曜。
ハレ。
来週のちょうど今頃は、バスで名古屋に向かっている筈である。今回のプラハ行きは、セントレア往復なのだ。
以前にも、関空から欧州に行ったことは何度もある。この場合、関空と東京は飛行機であって、紀伊半島の上空で乱気流にやられて、日本って凄いところだなあ、と何度も感心した。新宮とか吉野熊野の上空から視た下界は、やはり極東のそのまた果ての神秘そのものだ。
そういうところから、集計用紙に延々と細かい字で文字をつづったり、これはもっと昔のことだけど、粘菌を森永キャラメルの大箱に入れて天皇に見せたりするような、人が輩出するわけだ。

関空よりもセントレアはかなり近いので、飛行機の便は東京まではない。
それで、行きは3500円のハイウエイバス。飛行機はAFのパリ経由、で、プラハ。
座席は3A。
実はこれにはトリックがあって、KLMのマイレージなのだけど、12万マイルの半額の6万マイルで乗れるというキャンペーンなのである。ただし、旅程変更は不可。

何時も、モレスキンのノートにラミーを2本もちあるいている。この前の家人のリサイタルの時には、控え室にてこれで原稿のプロットを書いた。
昨日は、今度出る、リコーの写真集(100人の人が参加)の必要なサインとかコメントを「肉筆」で書いた。これは本ではなく、一枚一枚の印刷物が箱に入ったものらしい。

一昨年、編集者のタカザワケンジさんがGRボックスを企画の時にそういう箱の本(ただし製本してない)を提案したが、見送りになった。
それが2年後に復活したわけだ。

その関係のことを、ラミーで書いていたら、2本のカートリッジが同時に空になっていた。
思えば、万年筆なあまり使わないので、インキ切れに気が付かなかったわけである。
家に戻って、カートリッジのスペアを探したが、そういうものは買い置きしてあっても、必要な時に出てきたためしがない。
R1141464
家人のリサイタルの時に、私の本にサインを求めてきた、佃3丁目の建築事務所の青年がプレゼントにくれたのが、フィシャースペースペンである。
当分の間はこれを使うことにする。(9:35)

2007年10月10日 (水)

プラハ行き1週間前、さてカメラは?

天候回復。R1141420

午前9時には、ヒルズの49f。今日もワークスペース1を「占拠」。

これで夕刻まで仕事だが、集中しているとその7時間が3時間くらいの長さにしか感じられない。実は最近では、これをデルのノートで書いているのである。

時代が21世紀も10年目に近づいてくると、「窓屋」のノートを使わねばならないような「不幸」な事態になるわけである。というのも、パワーブックG3はさすがに遅いし、もう一台のもらいものの、G4の方は液晶ぶれて使うことができない。

だから、ヒルズに備え付けのPCを使っているわけである。これは不思議な感覚にて、いわゆる使い捨てカメラを使っている時と、似たような感じがある。

もともと、レンズ付きフィルムには、そのモノがほしくなるような、マシンへの「愛情」というのはばっさりと切り捨てられている。

貸出用のPCとか、ミュージアムの音声ガイダンスとか、飲み屋のトイレのスリッパというような物には、物欲を刺激する要素が皆無である。まったくの実用の範疇でその物が存在しているわけで、ある意味では「おとなの存在感」なのだが、一方で、モノへの礼讃とでもいえる欲望が欠如しているのが、まあ、面白くないわけだ。

そう思いつつ、デルのラチチュードD520というのを使っているのだけど、このマシンはほしくないねえ。

ロッカーからシュタイナーのM22を出してくる。

昨日は一日中、ゲラと格闘していたので、実に目が疲れた。近距離を見ているせいであるがそれから脱する意味で、遠方を見る為の双眼鏡である。

ここから見ると、銀座が見えて、その先はいきなり江戸川で、そのすぐ先に幕張メッセが見える。平面を斜めに観察しているので、その距離が圧縮して見えるわけだ。視程は15マイル程度であろう。晴れていると、よく見える成田への着発便は今朝は見えない。

来週からまたプラハである。その1週間前に持参するカメラを何にしようか、思案中。

1月にはプラウベル、8月にはパノラマカメラだった。10月にはライカという気分もあるが、この前の続きで、パノラマを持参したい気持ちもある。もっとも、持参するカメラの品定めはもっぱら、フィルムカメラの上に限られているようだ。

デジカメはそこらにあるのを、もって行けばよいのである。付け加えれば、これはモノクロフィルムを基本に考えているのだ。カラーはもっぱらデジカメまかせだ。

8月の撮影で、ドイツ製のローライフィルムをテストで数本持参した。ほかは、チエコのフォマパンであった。同一条件で現像したら、ローライフィルムは非常にベースの抜けがよかった。古典的なネガの状態の表現を使うと、「ネガシャン」という状態である。まだプリントはしていないが、期待は高まる。

これより仕事。(10:19)

原稿3本。雑用。雑事。

スケジュール管理などなど。あっと言う間に午前9時だったのがすでに午後3時半。

午後7時から、「チョートククラシックカメラ展」の展示物の搬出あり。

快晴の東京となる。(16:32)R1141459

2007年10月 9日 (火)

雨の週明けの火曜日に

雨の週明けの火曜である。なにか月曜と思ったのは勘違いだ。

それにしてもこのところ、連休続きでいささか困っている。

自分のような自由業は休みはなしの、休日も営業中だ。

それはそれで仕方ないけど、おつきあいのある出版社は印刷所の「支配下」にある。

だから、連休とか年末年始などは、特別進行でスケジュールはかなり前倒しになる。

これも仕方ないことだ。

困るのは、今回、発見したことなのだけど、家人の例の帯状疱疹であって、その発症時が、折も悪く、連休の前日の夜なのである。

こうなると、健常者さんには楽しい連休であるが、病人家族は実に困った次第だ。

それで昨日の家人のリサイタル@津田ホールは、演奏中に卒倒するかと心配したが、非常に良い出来でまずは安心した。

これは火事場の馬鹿力というやつであろう。(下のムービーのリンクをクリック!)

お客さんも前世紀のベルクとかヴォルフという地味な曲目(我々には面白いのだけど)に割には大変な入りであった。もともと、今回はあまり宣伝はしなかったのだけど、実にありがたい。

なんでも家人が大学時代に歌を教えたという、女性(年代は結構いってるのは当然)のファンの方がいらして、その甥というカメラ人類さんもつれてきた。

このニコンF2に55ミリのf1、2を首からぶらさげたイケメンは、なんでも佃の建築事務所勤務という。

それで、今度、清澄の外人立ち飲み屋で飲もうということになった。

その40年前の教え子さんが持参したのが、40年前の家人が登場している「音楽の友」なのである。「リゴレット三人娘」というアイドル張りの見開きグラビアだ。

すごいねえ。

国会図書館にもないような雑誌を持参されたのでその古文書を複写させてもらった。

帰りはMKタクシーで戻る。

例によって、花屋さんが開けるような花の数である。これはご厚意で実にありがたいのだけど、もらう身になってみると、ちょっと困ったこともある。

狭い住居が花だらけ。花束とフラワーアレンジメントのバリケード。

佃カルチエラタン。

一夜明けて、ニュースでチエ・ゲバラが殺害されて、40年が経過したことを知った。

革命の戦士も最近では、ファッションなどの流行りものに利用されて気の毒である。、

それより気の毒なのは、生き残ったフィデロの方か?

10時前にはヒルズ。

今日はワークスペース1に入る。

眼前は曇り空の東京であるが、仕事をするには格好の天候である。

今日は雨ならデジカメの日だ。

あ、カメラはR7で、昨日発見したムービーモード。そうそうゲバラの時代にはまだ、こういうのはなかったな。

ニュースは全部、16ミリのアリとかエクレール、フィルモなどで撮影していた。

そう言えば、ゲバラは大のカメラ人類であった。マグナムのルネブリが撮影したカットに、ゲバラが、ニコンS2に50ミリのf1、1付きを構えている写真がある。

思えば、偽ライカ同盟は10年前の今ころに設立された。だから、ゲバラを偽ライカ同盟の名誉会員にしようと思う。

「今日から新段階がはじまった」

これはゲバラ日記の冒頭の部分だけど、それをよく、自分のエッセイで真似ているのだし、ゲバラのTシャツも若いころは着古したし、ゲバちゃんはニコンS2好きだし、偽ライカ同盟の構成員たる資格はある。

それと、ゲバラが身分を隠していた時、その娘さんが一目みて、その人物が父親であることを感知したそうだが、それはその男性(ゲバラ)が、赤ワインを水で割って飲んでいるのを見て、それと気がついたそうだ。

こういう人間の行動のパターンは認識可能だ。だから、プラハなどで赤ワインをソーダでなく、水で割ったりすると、自分も革命家になったような気分だ。革命の赤旗の赤ワイン。

ああ、それとイカスモンのブログによれば、10月7日はデブシロの日であると、なったようだし、ついでにデブシロには偽ライカ同盟の「名誉猫」になってもらおうと思う。これはデブジロ本猫にお伺いせねばならない。

偽ライカ同盟の旗は、下に掲載の「偽ライカ同盟入門」という本の表紙になっているように、シンボルはライカインコなのである。ここに、デブシロのマークが入ると、さらに革命的な旗になるであろう。

http://video.mixi.jp/view_video.pl?video_id=1585730&owner_id=3052677

「十月」は革命の月である。

中野の「十月書房」も閉店して、もう10年であろうか。

(10:19)

ずーーーーーーーーーーーっと、銘機礼3のゲラを見る。

午後4時前に、六本木ヒルズ郵便局から出版社に発送。これで「手を離れ」た。

あとは、見本の仕上がりを待つのみ。

11年ぶりの銘機礼讃シリーズだ。思えばその間にハードカバーの本を20冊以上は出している勘定になる。(15:50)

「R1141406.AVI」をダウンロード

偽ライカ同盟入門 Book 偽ライカ同盟入門

著者:田中 長徳
販売元:原書房
Amazon.co.jpで詳細を確認する

2007年10月 8日 (月)

本日は付け人業務

曇り。
連休の三日目。
かなり湿度があり、なにかまだ9月の感じがある。

今日の任務は重大だ。
家人のソプラノリサイタルがある。
家人は他でも歌っているけど、このほぼ2年に一度のリサイタルは、メーンテーマである。
これは1980年に日本にウイーンから戻ってきたとき、以来、継続しているのである。

継続は力なり。、、、であろうか、、、。
それで27年前から、この日は全面的に切符のもぎりやら(これはモノのたとえ)やら、会場の整理(これももののたとえ)やら来賓へのあいさつ(これは実際にやる)やら、頂き物の花やら、チョコレートの管理とか、帰りのタクシーの手配などをするのである。

ようするに、付け人ですね。
その為に昨日は休日出勤で、ヒルズに行って、一張羅のジャケットを持ってきた。このジャケットは、25年前にマンハッタンは、キャナルストリートののみの市で20ドルで買った。

以来、16年ほど前に知り合いの洋服屋さんに、裏を交換してもらった。その裏にブルックリンのいかしたラベルがついていたのを、洋服屋さんは捨ててしまったのだ。
おしいことをした。そのラベルが好きだったのである。

だから、今のジャケットはライカのエンブレムを削ったライカみたいだ。いや、実際にそういうライカ3cを持っていた。leicaの刻印だけを、ダイヤモンドカッターで削ってあるのだ。

その理由が分からない。どこかの機関でドイツの生産品は嫌いだけど、他に代替品がないから、とりあえず「無銘」にして使ったのであろうか。

あ、一張羅のジャケットと書くと、いかにもそれしか持っていないような、誤解を与えるけど、ウイーン時代には各種のワードローブを持っていた。それは今でも持っている。
自慢なのは、そのサイズが今でも着られることだ。(逆に言えば、その頃からメタボっていたということにもなる)
でも、創立以来5年目になる、六本木ヒルズクラブに行く時は、そのジャケットは何時も、49fの仕事場に置いてあって、エレベータで51fのクラブにゆく途中に箱の中で着るのである。

ヒルズクラブはドレスコードが厳重だけど、なんとかそれでお目こぼしで入場している。

さて、本日のリサイタル。午後2時から津田ホール。
付け人の業務のひとつに、撮影がある。大昔のことを思うと今昔の感にたえないのは、当時はライカM型がこういう時に使える唯一のカメラであった。

本番で音のでかいシャッター音のカメラは厳禁であるのは云うまでもない。
だから特別に音を低くした、ライカM3とM2を使っていた。

ザルツブルグの祝典歌劇場を取材したことがある。あそこの公式カメラは2台のライカM2が、サイドバイサイドに、プラットホームの上に乗っていて、(ちょと鉄っちゃんめいていたけど)レンズはエルマリートの90ミリ。つまり同時にカラーとモノクロを撮影するのである。

ステージ撮影が最近、楽になったのは、デジカメになってからである。
今日は付け人もやるので、カメラはポケットに入る小形のがいい。
それで、今日もリコーのR7(最近、おれ、こればっか)である。シャッター音をオフにしておけば、怖いものなし。
本格的なライブ撮影ではアメリカ製のでっかい音を消す箱(これをブリンプという)の中に一眼レフを入れて撮影するのだけど、そんな面倒なことはしたくない。

ところで、このR7であるが、ムービーのモードがないのが残念とこの前に、リコーの人に言ったら、どこそこのモードの中に入っています、とのことであった。
これが2週間前の金曜のことで、以来、R7のムービーモードを探して居るのだけど、未だに発見できない。

隠しコマンドがあるらしい。

これは説明書を読むべきなのだが、その説明書がどっかに行ってしまった。
もっとも、当方は最近ではとみに老人力がついているので、昨晩は冷蔵庫の中の玉子を探して、どうしても見えないので、家人に探してもらったら、何とそれは目の前にあった。
これは、いつも買うのがボール紙のパックなのに対して、最近買ったのがプラスチックのパックなので、それに原因があった。

視神経は無意識のうちに、ボール紙のパックを探しているのである。
この「視神経のフィルター」は、実は街歩きの時には大事な要素なのだけど、日常生活には問題ありだ。下の画像はそのような「視神経のフィルター」で「昔の幼児体験のタイル or 玩具屋さん」と入力した結果である。

そう入力すると、そういうモチーフが見えてくる。あ、カメラは「ムービーモードがついているらしい、キャプリオR7」である。サイズは大きいので撮影すると、リサイズが面倒なので、最近はもっぱら、N1280で撮影。これで十分だ。

何時の日にか、この画像で写真展をやったり、どっかの写真集企画に応募する予定など、最初からないから、ブログなら、これで十分であることが分かった。

今月の最初の頃の坂崎さんの画像、これは3Mもある。そんなに必要ないことは良く分かっているのであるが、ブログ初心者だからこういう間違いを起こす。これからは、一般メカライターさんの向こうを張って、「画像のダウンサイジング運動」でも展開しようか。

さて、これより付け人は出撃。(8:37)

追記。R7の説明書が発見できたので、ムービーの設定は分かった。しかしこれは操作しにくい。やはり隠しコマンドだな。

R1141323

2007年10月 7日 (日)

梅森浩一さんに遭遇

午後2時すぎに、昨日撮影した(ライカM3+ビオゴン25ミリ)フィルムの現像のアップで、ヒルズの6fに降りた。

そこで梅森浩一さんに半年ぶりに遭遇したのである。
梅森さんはもと外資系の銀行の人事のトップであって、それからフリーとなって。「クビ論」などを書いてベストセラーになった人だ。
4年ほど、ヒルズのライブラリメンバーで一緒だった。
この春にそこを出られたので、どうしているかな、とこの数日来考えていたら、この遭遇である。
差し出された名刺にはREUTERS人事本部長とあった。すごい出世である。

知り合いにロイターの記者で、ビロード革命の時、大統領報道官になった男がいるが、これはチエコの話だ。
世の中はせまい。
昨日はデブしろさん、今日は梅森さん。
昨日は猫と、今日は人間との出会いについているなあ。

しかし、ゲラの方はなかなか進行しない。
これを校了しないと本にならないのだが。(14:27)


CDに焼かれたばかり(これを焼きたて画像というのであろうか)の中に、数ヶ月前に撮影して、忘れたままのショットあり。この銀塩の忘れれてしまったショットというのは、散文的でいい。

たしか、ギャラリーバウハウスに行った、この春のショットだ。

ライカM3にレンズは21ミリのスーパーアングロンのF4の方であった。やはり良い描写だ。(と、こういうブログ上で画質云々は、「ツアイスの光と陰」の皆さんと変わりないわけであるが、、、。(14:46)Fh000005

SDメモリの置き忘れ

日曜出勤にて、ヒルズで仕事中。

例の銘機礼讃3のゲラと格闘。

ふと、空を見ると、秋の雲である。

それをデジカメ(R7)で撮影して、アップしようとしたら、SDメモリを佃に忘れた。

それならば、ロッカーに保管中のカメラ(これは先月まで、ヒルズの49fで展示していたのだが、「交通弱者」ゆえ、クルマの手配がつかず、あずかってもらっている)のデジカメの中にSDメモリがあるのを思い出した。

ところがそのカギは佃に保管してある。

レセプションに言って、マスターキーを借り出すほどのこともないので、そのままにした。

デジカメの本などを何冊か書いて、「緊急のSDメモリは財布に入れておくこと」などとえらそうなことを書いたが、それも実際にはなにかの拍子で、使用して元の場所にはいっていない。

世の中、なかなかうまくゆかないのは、SDメモリのこと、ひとつとってもその通りだ。

(13:16)

デジカメ持ってデブシロに会いに

日曜日。
まずまずの天気。

昨日の行動。
http://blog.goo.ne.jp/tat39/で有名な、いかすもんが世の中に有名にした「有名猫」である、デブシロに会いに、東京の北辺に出かける。

デブシロは、その紹介者、いかすもんがGRDで撮影している、著名猫である。どのくらい有名かと云えば、目下、江戸東京博物館で、漱石展が開催されている。先日視てきたが、その資料に「我が輩」が出てくる。ショップでは我が輩のトートバッグも売っていた。その次ぎの次ぎくらいに有名な猫(白猫部門では第一位、当社調べ)である。

ただし、自分は、上のオンラインでそのお姿をしか視たことがない。
ただ、その場所はだいたい見当がついているので、googleで調査した。
mapで偵察衛星の画像をチエックして、出掛ける。まるでアフガンでオサマを捜索するアメリカ軍のようだが、こっちはデブシロを殺戮するのではなく、撮影して、相手の機嫌がよければ、ツーショットである。

有名人とか有名猫とのツーショットはかなり困難だ。
そのわずかに成功した例をあげると、日本のカップルがハリウッドで夜間に、ブラピと前の奥さんが歩行しているのを発見して、ツーショットに成功した例がある。
ブラピは松葉杖で実に調子悪そうだ。その不機嫌なブラピと前の奥さんの左右を囲んだ、にこにこ顔の日本人二人が幸せそうである。

ところで、その画像を撮影したのは誰か?
これが最大の謎だ。
なんと、ブラピのお母さんに頼んで撮ってもらったのである。
猫の手を借りるのではなく、ブラピの母の手を借りたのだ。
これは偉い。

それで、ブラピほどは有名ではないが、東京の北辺の猫、デブシロを捜索に出掛けた。
正式名称は「日本路地裏学会デブシロ調査団」、、、いかにも公式な感じがしますね。
ただし、桃木会長は忙しいので、自分一人の調査団である。

都電荒川線のある駅を降りて、衛星写真で知り得た情報をたよりに、その界隈を調査する。
最近の衛星写真はその精度が進化して、人間よりも上から見た場合「投射面積」が大で、しかも白いのだから識別は可能である。
googleでプラハのうちのアトリエは改装したばかりなので、その白い屋根が良く見える。
ハイテクおそるべし。

くだんの場所は、日本一長い商店街、ふれあい通りの沿線であって、「ナイル」という東京の北辺とは思えない洒落たカフェの近くだ。

ところが、そのポイントには白い肥った白猫ではなく、黒いやせ気味の黒犬がベッドにお昼寝している。
これは陽動sakusenであろう。
その近辺、実際にはその裏の通りを歩行したら、いかすもんがよくデブシロの撮影のバックに使っている、アンダルシアの民家めいた白壁があって、その前に有名猫は鎮座していた。

デブシロとは初対面なので、こっちはちょっと緊張したが、
うーん!??
という感じでデブシロポイントから出てきて、お友達になった。
それで、二匹で、今後のデジカメと銀塩カメラの将来についてはてまた、洋上の燃料補給とか猫のかんずめの好みなどについて、意見交換、会談したのが、この写真である。(取材団代表撮影)
(9:34)
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2007年10月 6日 (土)

河岸と刀

魚河岸に行くようになったのは、この3月に「ぼうずこんにゃく」さんのお魚サイトで、河岸の見学会があったからだ。それまでは、河岸は素人は入れないところと、思っていた。
あ、上のタイトルは「菊と刀」の真似。

これはそれなりに経験があって、1970年の当時、東芝の広告の撮影かなにかで、早朝の魚河岸に行って、そのすごさに吃驚したのである。場内を埋めているおにいさんが全員、一心太助みたいな人であって、これは大変なところに来たと思った。
ようするに、プロの現場であるから、素人などはまったく立ち入れるスキもない。

その後、80年代には世界中の魚河岸(というか、ようするに、魚市場ですね)を取材で歩いたことがある。これも仲卸には個人は買いにくることなどは想像の他であった。
一方で、マドリッドとか巴里のマーケットの優雅さを知ったのもその当時のことだ。

魚河岸への興味はそのままになっていて「凍結」されていたのが、今年の春にその「ぼうずこんにゃく」さんのサイトでその面白さを知ったわけである。
それで、一番驚いたのは素人が場内に立ち入りが出来るということだった。
それから半年が経過して、今では「いっぱしの買い出し人」のつもりである。
どこに何が置いてあるのか、、それも分かるようになった。

最近では多忙でなかなか行けないけど、中古カメラ市がそうであった。どこそこの何段目のウインドウにどんなカメラがいくらで置かれているか、これは自分の長い経験で瞬時に憶えているのであるが、そこまでは無理としても、河岸に半年かよって、大体の場内の概略が分かった。

それで今朝も出掛けた。

河岸で思うのは、外国人の見物の人の多いこと。買い物の人間よりも多いくらいだ、それはあまり有り難くはないであろう。しかし世界の魚河岸の宣伝にはなる。
頭をひねるのは、若いカップルで、乳母車を押して、狭い場内にはいってくる連中である。場内な危険だし、狭いから、あれは良くないと思うのは、東洋人の自分の考えであって、欧州などでは電車でも市場でも、軽四輪なみのサイズの乳母車(それに買い物を満載している)は、どこでも通行自由である。
ようするに、生活習慣の違いですね。

河岸が安全でいいなあ、を感じるのは、場外の刃物屋さんである。立派に凶器になる刃渡りの凄いのが、ずらりと並んでいる。それで[us $ ok]などという、手描きのカードが貼ってある。
これが店舗にそのまま置かれていて、何の凶事も起きないのは、そこに河岸のルールがあるからであろう。
自分など、これを求めて、筑地署の前を通過して、職質にあったら即、身柄拘束である。
場内で、長さが日本刀めく包丁がまぐろの脇に置かれている。
それで、何事もない、そこがプロの仕事場であるのは良い感じだ。

ようするに、紅い羽根ですら、ピンから接着剤になってしまった現代で、伝統ち安全が確保されているのが河岸である。
買い物はまぐろのパックが2個。とりがい、ほたて。
これより、炊きたてのごはんでランチ。(11:36)R1141246
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チョートクカメラコラム165回

★チョートクカメラコラム第165回

さて、カメラコラムのリニューアル。
上の番号はMJチョートクカメラコラムからの引き継ぎ。
銀塩クラシックカメラ編と、デジタルカメラ編で進行する。
いざいざ!

第165回 コンバーチブルホースマンで半世紀

これは駒村商会の歴史的なカメラだ。
駒村のカメラは各種愛用しているが、その中で一番愛着のあるのが、コンバーチブルホースマンである。
1960年代に登場した、これは中判のコンポーネントシステムのカメラだ、当時はまだ印刷技術が未熟であったから、カラー印刷は35ミリサイズではだめであって、最低は6x9サイズ、理想は4x5というニーズがあった。
これに答えて、登場したコンバーチブルホースマンは、62ミリの広角レンズを備え、薄い本体があり、交換式フィルムバックという構成だった。

当時、アメリカのグラフレックス社でもグラフレックスXLという同じ方式のカメラを生産していた。無論、ホースマンとグラフレックスではグラフレックスの方が、上位なのは云うまでもないど、当時の外貨管理の時代に、その国内価格を比較したら、グラフレックスの四分の一がホースマンの価格なのである。

それで性能はそれほど変わるわけではないから、愛用者が多かった。
距離計も、ファインダーも、無論、メーターなどついていないカメラであって、ファインダーは光学式ではなく、フレームファインダーが内蔵されていて、これを引っ張り出して使うのである。余計な機構がついていないから、故障する箇所なし。

登場から10年ほど経過した、1970年代半ばに買ったと記憶しているが、いまだに現役のカメラである。
他の中判カメラは6x7と6x9の切り替えができないのだが、コンバーチブルホースマンでは、バックで、6x9でも6x7でも使用できる。
そのフィルムバックはホースマンプレス(こちらには距離計と光学ファインダーがついている)と共用できる。右のレバーでシャッターをセットして、左のレバーでシャッターをきろ機構は、少年時代のフジペットみたいだ。これが良い。

登場から半世紀近くが経過しても、こういうシンプルなカメラは一向に古くならない。適当なフィルムバックの代わりに、デジタルバックを装着すれば、そのままメジャーなデジタルカメラになるであろう。
銀塩カメラはデジタルカメラの登場によって、その存在が上に押しあげられた感じがある。
デジカメより、銀塩カメラは趣味性が加わって、どうやらひとつ上のステージという存在になったようだ。


★デジタルカメラ

第165回 デジタルカメラの二大政党

周囲のデジカメ人類には、2つのパターンがある。
ひとつは、コンパクトデジカメで気楽に撮影をしている連中。我が、偽ライカ同盟の連中、それに日本路地裏学会のメンバーはだいたいがそうであって、坂崎さんも東儀さんもなぎらさんも、コンパクトカメラで気楽に自分の生活(この場合はツアーが多いが)とか、旅の風景などを愉しんで撮影している。日本路地裏学会の桃木会長は、先日、オレゴンに路地裏調査に行き、オレゴンには路地は存在しないことを確かめて、今度は上海と西安に行った。コンデジでないと路地裏調査はできない。
ようするに、「コンデジ民主党」とでも言える人々だ。

もうひとつのパーテイは、フルサイズのデジタル一眼レフでないと承知しない、猛者連中であって、周囲の写真家、ブロガー、それに広告関係の連中にこれが多い。こういう人たちはまずはフルサイズ信奉者であって、あの重い大きなデジタル一眼を世界の果てにまで運ぶことをなんら苦にしない皆さんである。

デジカメで撮影することを、楽しみよりも「修行である」と認識しているようなところがある。言わば「デジいち保守党」である。
そのデジ一保守党は、コンデジ民主党をして「彼らのカメラにはデジカメ政治のビジョンがない」とか「あんな、コンデジの画像はノイズが多くて使用するに堪えない」と批判するのである。

そして彼らのもっぱらの興味が、全部RAWモードで撮影した、画像がHDに入り切らなくなって、最近、1テラバイトのHDを導入した、というような話題である。

自分は一眼レフも使うけど、普段はデジカメはコンパクトを使っているから、まあ、政治信条としては、コンデジ自由党の党員ではないにせよ、その支持者という立場である、そのコンデジシンパから見ると、フルサイズのデジ一の好きなカメラ人類には、一種の完璧主義、潔癖主義とでも言える性質があるのではないか。

つまり、自分の撮影した画像が何時の日にかデビューすることを夢見て、その為に膨大な「決して使用することのない、画像の山」をHDに保管しているのだ。

これでは、HDメーカーのおもうつぼである。もっと気楽にデジカメを愉しもうと云いたい。
コンデジ民主党と、デジ一保守党の政策論争はこれからも注意して注視する必要がある。

2007年10月 5日 (金)

コンタックスのフルサイズデジカメ?

本日は、ヒルズで終日仕事。

しかしあまりに歩行をしないのは体に悪いから、タワーの6fの55ステーションに、コンタックスで撮影した、コダックの400のカラーネガと、CDの依頼にゆく。

そのデータがこれ。

カメラ散歩のファーストショット。露光は無論、勘である。

Fh000002

昨日の撮影行動は、秋葉でカラーネガを10本(2600円、、、、写真家の買い物とじは思えない)それから、7fにて刀削面が700円。

京急にて羽田空港まで。別に羽田に用があったのではなく、となりに座っていた、わりと身なりの良い2人のビズネスマンが、これから札幌まで出張なので、その会話の内容をなんとなく聞いていたのである。

酒場とか、車内とか、欧州の空港のラウンジで外国人の会話をなんとなく聞くのが(ただし英独にかぎる)が趣味とも言えない趣味なのだけど、そのお二人の会話は「昨晩、なんとかさんに食事によばれたけど、食い物にうるさいなんとかさんは、その店が気に入らないので、はやく出ようというので、同行のわれわれに、早く食えを指令した。まったく、舌の肥えた人は迷惑、、、というような会話で実に面白かった。

ついでにビッグバードの内部を鑑賞する。

日本のJAL対ANAの対決というのは、源平盛衰記みたい、あるいはプロ野球のひいきみたいなもので、「外国人」の自分から見ると、実にへんてこに感じる。

その理由は羽田空港駅の下車時の案内からして変である。

つまり、出口が真っ二つであるから、そこから袂を分かつ感じがあって、対立意識が生じる。

エアフランスとKLMは外国同士なのに、共闘している。こういうのは日本ではなかなかない。

それで、昨日のネガがあがって(CDにアップされた)ので、それをご覧にいれる。カメラはコンタックス3aでカラースコパー21ミリである。

撮影はフィルムだけど、それをデジタル化してあるのだから、これはフルサイズのデジタル化されたコンタックスであるともいえる。

この銀塩、デジタルのハイブリッド機の良いところは「撮影をしすぎない」という点にある。これが普通のフルサイズのデジカメだと、「フィルム代がただ」というので、大量の撮影をして、しかもHDの容量が足りないというので、1テラバイトのHDを増設する。

それで安心して画像をためるだけで、再活用はできないものである。

昨日のラストショットは山谷の大林にゆく途中の南千住駅。Fh000021

この駅前は野外オペラができそうなうまい空間の構成になっているので、写真的だ。

(14:11)

デジカメを置き忘れ!

金曜日。

快晴。

午前9時にはヒルズの49Fにあり。

東京タワーとその先の浜離宮庭園、さらにその先の東京湾を撮影しようとして、リコーR7(先週の金曜に赤い皮の専用ケースに入っている。これはその前に会った、坂崎さんの真似なのである)を、佃の机の上に忘れてきたことに気がつく。

コンパクトデジカメの問題点は、軽くて薄いことだ。

ようするに、この前の話題で、デジタル一眼レフは重くてかさばる話をしたけど、その小型軽量が逆にマイナスに出てしまった。

通常、もってあるくむし文庫のトートバッグの中には、各種の必需品が入っている。

歩行中に急な撮影でコンパクトデジカメを取り出すとき、カメラはするりと、バッグの一番奥に入ってしまう。

最近の女性のバッグがその幅が広くて、混雑した電車の中ではまことに迷惑なものであるが、あれはラッシュ内の隣人を困らせるものではなく、あのでっかい鏡とかコスメチックの種々雑多な用品がすばやく出ることに意味のある、機能美にあることが、今になってわかった。

こういう「職業的なカバン」にはバイロットバッグがある。例の黒い大きな直方体の皮のかばんである。あの中に飛行に必要な書類とか、免許証とか、スケジュールとかがはいっている。

最近、航空地図に凝っているので、アメリカの「本物」を集めている。そのくだりは、旧MCチョートクカメラ日記に記載してあるが、同日記は過去にさかのぼって見るには、会員制だから、ここに要点を記載しておくと(同日記のチョートクカメラコラムは最近、アクセスできるようになった)プラハのアトリエには、天窓が6個あって、その窓から飛行機の飛んでるのが見えるのだが、その航空路の名前が知りたくなったのだ。

それでジエプセンフライトエンルートチャートというのを、ebayで各種そろえて、飛行地図を楽しんでいる。機長と副操縦士のバッグの中はその地図でぎっしりなのだが、皮製の厚さが2インチのバインダーに地図を格納すると、かなり重い。

ニュースでは、スターフライヤーのキャプテンが、航空機の操縦免許を忘れて、羽田=大阪が欠航になったそうだ。キャプテンは「免許はカバンの中に入っていると思った」とのことにて、無免許状態で5便、飛んだそうである。

野々宮機長(これはセスナ172のパイロット)から、以前、その飛行機の免許に相当する書類を見せてもらった。

もっと堂々たるものかと思っていたら、それはどっかの地方の図書館の(それもオンラインになるはるか昔の)カードのような、やわい紙に、写真の貼ってあるやつなので、調子が抜けた。自分のもっている、クリニックの受診カードの方がずっと立派だ。

そのキャプテンは免許はカバンの中に入っていると思ったと言っている。当然なことで、単純な置忘れであろう。そんな小さなカードであるが、それが重要なのなら、そのカードをコックピットに挿入しないと、飛行機が動かないようにしたらどうか。

これは法律の範疇の強制力だから、実際にその飛行機は無免許で、5回飛行したわけだ。そらの上では、一時停止の取り締まりもないから、そういうことになる。

ところで、自分の場合の問題点は、飛行機の免許の忘れで、それを知らずにいても、飛行機の操縦には大丈夫であったのに大して、自分のコンパクトデジカメはそれをわすれると、その「罰則」として、いきなり画像が撮れなくなることにある。

実は飛行機の中でのデジカメの置き忘れは始めてのことではない。ライカは絶対に置き忘れなどないのに、デジカメを置き忘れるのは、その存在を軽く見ていることが、深層心理にあるのかも知れない。まことに申し訳ない。

その一度はプラハからアムステルダム経由でリスボンに向かったとき、アムステルダム離陸後にデジカメのないのに気がついた。

プラハ、アムステルダムの飛行中に機内から撮影をしていた記憶があるので、その飛行機の中に置き忘れたのであろう。

さっそく、航空会社に問い合わせたが、発見できなかった。

残念だったのはその前にプラハで撮影した画像が全部、なくなったことである。ライカだと、カメラへの思い込みが激しいので、撮影したフィルムがなくなっても、それは36枚だけの話ではあるし、あきらめはつく。

ライカを紛失したとき(そういうことはいまだにないが)には、撮影済みフィルムよりも、そのライカそのものを、「しまった!あれは3000ドルもしたカメラだったのに、、、」と、そのモノに対して、惜しむのである。

デジカメの場合は「同じものをまた買えばよい」で、あきらめがついてしまう。

ようするに、カメラへの愛情が足りないわけですね。

「デジカメにもっと愛を!」これはこれからのデジカメの広告のコピーになりそうだ。

二度目にデジカメをおき忘れたのは、北京から成田に着いたユナイテッド航空の機内である。到着ロビーに出てから、そのことに気がついた。保税地域であるから、逆戻りはできない。

地上の係りの人に「すいません、乱気流でぼっとして、座席1Aにデジカメを忘れました」と告げた。

乱気流云々はてれかくしであるのだが、その9月のある日は、まるで台風の観測機のように、777は揺れたのである。

忘れ物のデジカメはすぐに手元に戻ってきた。

つまり、デジカメはデジタル一眼レフは大きく重く、携帯に不便だけど、これを置き忘れることは皆無であるに対して、コンパクトデジカメはおき忘れが発生しやすい点にある。

そうそう、数年前まで、カードデジカメが流行した。これは実にクレジットカードサイズである。パナソニックのなんとか言うモデルを使っていたが、ある時、それを紛失した。

北京での撮影であって、その旅の前半まではちゃんと使っていた記憶がある。それがなくなったので、おそらくどっかに落としたのであろうと思った。それであきらめて帰国してから、その専用チャージャーを捨てた。

ほかに使い道がないからだ。

その翌年であったか、欧州を旅行中にいつも持っている、パワーブックのリュックサックの奥の奥のポケットから、その紛失したはずのカードデジカメは出てきたのである。

紛失したつもりになって、あきらめて、それから1年も当のカードデジカメを持って歩いていたことになる。

まさに、コンパクトデジカメから、1メーター離れると、ブザーの鳴るようなシステムが必要だ。

いや、もっと有効なのは、やはりトートバッグにストラップで結びつけておくことか。

そういう理由で、本日は画像はなし。(10:13)

そうそう、今日のカメラは昨日の画像のコーナーにある、コンタックス3aである。

ソ連製の35ミリのレンズ(これはニコンFマウント)が、コシナ製のニコンF=ニコンSアダプタリングにつけてある。このリングは旧ニコンFマウントのレンズがそのまま、コンタックスやニコンSにつくので便利。

ただし21ミリのミラーアップ用のニッコールの場合、コンタックス3aだと、レンズマウント内部のクリアランスがないので、使用できない。旧モデルのコンタックスRFやニコンSでは大丈夫だ。

本日の任務。

これより、通信遮断。

銘機3のゲラを終日読んで、これを返送する。

終わらないと帰宅できない学習塾のようなものだ。(10:27)

2007年10月 4日 (木)

晴れたらライカ、雨ならデジカメ

ほぼ快晴。
ヒルズ行きは止めにして、デジカメとライカ(画像のように、コンタックスでも可)を持って、撮影行。

この3日はまじめに、9時5時で、ヒルズの49Fで仕事していた。
昨日は「銘機礼讃3」のあとがき
デジタルカメラマガジンの連載
日本カメラの連載
を書いた、
あ、その前に本ブログを書いた。
それから、今度出す「プラハの本」のプロットを考えた。

仕事に集中していると、時間の経過が速いのは当然ながら、あっと云う間に「退社時間」だ。
別に六本木ヒルズに給料をもらっているのではなく、こっちが高いお金を払っているのだから、当方は「お客様」であるけだが、なにか会社に居る気分になるのは、会社員生活は若い時の3年しかなかったせいだ。

つまり疑似会社員生活に憧れているのである。
思えば、この35年、どうやって食ってきたのか分からない。
これが最大の謎。

まっすぐ、津久田に戻る。ミルク、りんご、バナナなどを買う。まるで動物園の飼育係のようだ。家人の帯状疱疹はなんとか過ぎたが、来週の火曜は家人のリサイタルの本番である。
だから、いろいろサポートしているわけだ。

津久田で考えるに、一日中、ヒルズでPCを相手にしていて、また深夜までPCに向かっているのは、これは単純に考えていいいわけがない。
それで昨日の午後6時から今朝まで、メールは見ない、ウエブは見ない。
ebay にぶらぶら遊びに行かない、を厳守した。
ebayでの買い物はかなりの量になっている。
1999年以来のメンバーだから、すでに古参である。
ebayの最大の謎は、ebayは日本ではついに根ずかなかったことだ。

ebayは絶対に楽しめる方法をこれから書いて行こう。
ebayこそは「物欲の楽園」であり「人間観察の場」であり、そのまま社会の縮図である。

それで今日のテーマ。
★晴れたらライカ、雨ならデジカメ。

これである。
この6月に岩波書店から出した本だ。
そのタイトルが「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」である。
このブログの一番下にリンクがはってある。
この本にはデジカメの選び方(効果的な)と、その使い方が書かれている。
本ブログの常連さんには無用の説明であるが、ニューフェースさんの為にちょっと説明すると、自分の今の「映像の楽しみ方」は、デジカメと銀塩カメラの両方を持ち歩くことにある。

その理由はこの本にも書いてあるが、デジカメと生死を共にしたい、と、思うようなカッコいいデジカメがまだ存在しないからだ。
別にスタイルがどうこうというのではなく、自分の人生の伴侶、つまり、そのデジカメを持って、世界の果てまで旅をする気が起きるか、という意味だ。

ライカをはじめとする、銀塩カメラにはそういう「カメラの物神化」がある。
デジカメはまだ歴史の浅いせいもあるが、「そのモノを買う為には、食うものも食わずに貯金する」というような、燃え上がる物欲を刺激するデジカメというのがない。

その理由は云うまでもなく、デジカメの進化が「他社より僅かに差を付けるのが自社の勝利」であるという錯覚がある。

デジタルカメラ文化の進化という視点でモノを造っているデジカメメーカーさんは多いであろうが、実際には営業さんあたりから、「これと、これと、これがついていないと、あきまへんな」というリクエストが来て(この苦労は各メーカーさんからここだけの話、としてよく聞くことだ)売れ筋の製品の方に思考が向いて行く。

それは商売の鉄則だから、仕方ないとしても、「物欲、あるいは物神」を刺激するようなデジカメが欲しい。
もっとも、この論理にはトリックがあって、上のような製品はじっくり生産して、最低は2年は売るような方向が必要だ。
しかし、実際にはそのようなデジカメは自分の知る限りでは、リコーGRDとかエプソンR-D1しか知らない。云うまでもないが、これらは「あまり売れていない人気機種」なのである。

つまり、マイナーな存在である。
D40だか40Dのような、デジカメ競走はあれで結構だけど、ああいう大手の競走は、カメラの楽しみという点から見ると、自分のようなクラシックカメラ人類から見ると、どうも違うなあ、、という印象だ。

ひとつ確かなのは、今、世界に流行るデジカメは1年後には「話題にもならない」ことだ。

ライカを晴れの日に使う、とは一種の比喩である、
今日は晴れたから、ライカを使うというわけだが、それは「普通の日ではない日」つまり「ハレの日」に、銀塩カメラを愉しんで使おうという「カメラ運動」である。

そう、カメラ運動とは、同時に実際に歩行するわけだから、これはアスレチックの意味もある。

それで今朝はヒルズには行かず。
都内徘徊。(9:10)

今朝、記事ごとアクセスランキング
デイリーを見て、びっくり 1位から5位は以下のようだ。1位と2位が
本ブログ(これは拙ブログが正しいらしい)
その使い方はhttp://mods.mods.jp/blog/を参照。
ご愛読、感謝します!

「おすすめブログ」のランキング競走をする意志はない。
他のテーマは「開運」とか「スポーツ」とか「金利」など、そうそうたるものだ。
ライカがどうの、デジカメがこうの、、、というのは、もともと、内輪なつぶやきであるからだ。

1 デジタル一眼レフよりコンパクトデジカメ
2 坂崎さんのカメラバッグ
3 ブログに最適な広告サービス
4 秋の一発逆転Day!
5 ブルマー姿写真館(ユッキー系)Dscn0089
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2007年10月 3日 (水)

坂崎さんのカメラバッグ

よく、都会の周辺部に行くと、商店などで、「バック」と書かれている。あの」雰囲気は好きである。一種の江戸っ子気質だな。

Dscn0060 そのカメラバッグではなくカメラバックであるが、かなり前に雑誌でカメラマンのバッグの中身というのを取材したことがある。
こういうのは、過去半世紀以上にわたって継続されているテーマであって、今更珍しくもないのだけど、こういう企画は読者以前に編集者のひそかな楽しみを満足させてくれるものらしい。

その取材で1ダースほどの写真家に会った。これは仕事に行く時の「正式な機材の入るカメラバッグ」ではなく、普段使いの鞄の意味である。
その中で、印象が強烈だった人に森山大道さんと坂崎幸之助さんがいた。その当時坂崎さんは、「ニューヨークストリートスナップ」(というタイトルだったと思う)という写真集を発行して、本格的な写真家デビューをした。
そこで坂崎幸二論を書いたのは、あたしなので記憶が深い。

森山さんには最初に取材を謝絶された。
「ぼくはカメラバッグなど持たないよ」というのである。
それで
「そのカメラバッグを持たない哲学を取材させてください」とお願いして、okとなった。
森山さんは、ポケットにリコーのGR−1(これは今でもそうであって、アパレルの広告なんかをGR−1で撮っている)で、フィルムは数本で、それが左のポケットに入っていて、撮影済みは右のポケットに移動するのである。

その後、写真集「GRDボックス」の仕事で、森山さんにGRDを使ってもらった。場所はおなじみの新宿である。
知らない人が見たら、痩せたおやじじじいが、コンパクトデジカメをもってふらふらしているに過ぎない。
これはストリートシューターとして最適の要素である。

写真家は街にかくれて見えないのが本来の姿である。

坂崎さんの場合には、売れっ子アーチストであって、ツアーが多いので、その時に見せてもらったバッグは、ドイツ製のビデオカメラ(これは当時、まだビデオカメラが大きかった時代nの話)を入れるバッグに数台のスチルカメラと、旅の必須品が入っていた。つまり、アルフィーのスケジュール表の分厚いのやら、のど飴やら、健康保険証などである。

ツアーの時には終了後にあまりぶらぶらも出来ないので、ホテルで持参したライカなどで遊びます、とのことだった。

それからしばらくして、当時関係していた、カメラジャーナルの創刊100号か何かの記念で、英国製のビリンガムのカメラバッグにわたしのマスコットのハリネズミのタグを付けたのをプレゼントした。
それ以来、7−8年になるが、年に2回ほど坂崎さんに会った時、そのバッグを肩にして登場した。

感心したのは、その使い込み方であって、いい感じに古びているのである。
それと凄いのは、バッグを肩にして、その肩の方をちょっとだけ「いからして」いるのが、これは粋であった。

報道カメラマンを見ると、やはりカメラバッグを肩にした方がちょっとだけ持ち上がっているのが分かるが、これはなかなかの身のこなしなのである。

ところで、先週、数ヶ月ぶりに会った坂崎カメラマンは、カメラバッグではなく、普通の布製のトートバッグを持ってきた。
これはツアーの途中ではないのだから、当然なのであろうが、自分は一昨年あたりから、やはり東京やプラハやベルリンで、布製の袋を持ち歩いているのと、符合して面白かった。

R1141102

坂崎さんの右手にそのトートバッグの白いてさげの部分がわずかに見えている。(ちゃんと撮ってなくてごめん)。

坂崎カメラマンが手にしているのは、1970年代の360度の全周が撮影可能なパノラマカメラである。そのカメラバッグに注目。

これは木製で、透明なアクリルのグリップが付いている。70年代のギターケースと似ているなど、偽ライカ同盟の話題沸騰した。

自分の場合は、ベルリンのスーパーマーケットで、「環境保護の為」の有料の買い物袋を買ったのがきっかけだ。ぺらぺらな布の袋であるが、買い物にはこれが一番いい。その中にコンパクトデジカメを入れて、ナポリとか、デリーとか、プラハの街を歩いた。

ぞの買い物袋がすり切れてきたので倉敷にある、、むし文庫で手作りの「むしバッグ」というのを買って使っている。
デリーで地下鉄に乗っているときに、となりのデリー大学の学生が、そのバッグにはいったい何と書いてあるのか、と質問してきた。

カタカナで「ムシブンコ」とあるから、これは解読不能な古代文字に見えたのだ。

内田百鬼園の「東京焼尽」を読んでいると、東京大空襲の当時「今日から出勤時に家内と同じ、布製の買い物袋を持って行く。おばさんの持ち物ときまったようなものなれど、今時そんなことは言っていられないなり」という意味の記述がある。

その布のバッグの実物は知らないが、案外に自分の持っている、ムシバッグのようなものではなかったか。

それ以前に内田百鬼園が、どのようなバッグを持って日本郵船に通っていたと思います?

おどろくべし、鉄兜(てつかぶと)の中にものを入れて、あごひもを手にしてぶら下げていたのだ。これでは重いし、第一、ものは沢山はいらない。(10:10)

2007年10月 2日 (火)

デジタル一眼レフよりコンパクトデジカメ

東京は雨。

同時に霞たなびく。寒冷にてヒルズの49fから東京タワーは見えず。

東京ミッドタウンも霞んで夢の如し。

★本日の画像

和幸ゴールデン ヒッツを「通りがかり」の坂崎さんから、いただきました。

これは先週金曜のお昼すぎ。@六本木ヒルズ49F

この後、カメラ談義で「荒れ」ました。

R1141108

「陰気な火曜の午前、ヒルズ49fから東京ベイ方面」
こういうモノトーンの風景を見ると、革命前の東ヨーロッパの視覚を思い出す。
視神経のノスタルジーである。
カメラはR7。

R1141180

★デジタル一眼レフよりもコンパクトデジカメ。

これが今日のテーマ。

普段、持ち歩いているのは、リコーのコンパクトデジカメ連である。これはGRDから始まり、GX100,そしてR7となっている。

GRDは、その前の世代のフィルムを使うGR-1の頃からのおつきあいである。それが理由なのだけど、当時のフィルムカメラのコンパクト化を思い出すに(これは10年以上前の話)普通のコンシュマー向けのコンパクトカメラが、あまりレンズがよくなかったせいで、コンパクトカメラは「軽く見られて」いたのである。

それが最初に京セラコンタックスTが優秀なレンズを装着して、コンパクトカメラは安物ではないぞ!という宣言をしたのだった。コンタックスはその後、T2にバトンタッチして、いわゆるひとつ上のクラスのデジカメで成功する。

ウインブルドンかどこかの見物の欧州の王族がコンタックスTをもっているのが、TV中継でちらっと見えた。こういうのは効果絶大。

ようするに、HISのエコノミーツアーの上のビジネスクラスのツアーというわけだ。

この手の高級デジカメは付加価値があるから、うまく当たると、メーカーへのキックバックも大きい。

リコーはそれまでは、「一般向けの安くてそこそこに写るカメラのメーカー」であったのが、いきなり高級デジカメ路線に進出した。今にして思うと実に良い度胸をした人が社内にいたものである。

リコーの高級コンパクトカメラ路線が成功したのは、その直後にGR-1に搭載のレンズをそのままライカマウントにして、供給したことにある。これも破天荒のことで、普通の新製品の開発計画ではそんな「大それたこと」は、まず企画段階で没である。

このライカマウントのGR28ミリレンズを、ライカ人類連中が高く評価した。

自分が坂崎さんらと、偽ライカ同盟を結成したのは1997年だから、ちょうどその時期と一致する。最初はライカにGR28ミリレンズをつけて満足していたのだけど、同じ描写なら、実際の撮影には、ライカよりもコンパクトカメラの方が携帯には向いているし、オートフォーカスだし、ずっと使いやすいので、そのまま、GR-1の人気が膨らんだ。

いうのも野暮であるが、カメラやレンズというのは、メーカーがいかに広告をうっても。ユーザーはそれは「広告」であるから、「広告のウソを知っているので、そこからプラスファクターをマイナス」しているのである。

広告の絶賛発売中とか、3秒に1本売れているシャンプーとか、そういうのがあまり信用できないのは、我々の知るとおりだ。

GR-1は、ほととんど口コミで広がった。しかも「通常の人がユーザー」というよりも、「スペシャリストがユーザー」という存在のカメラになった。これが大事なポイントである。

このGR-1の成功をそのまま、デジカメにシフトさせたのがGRDである。

すでに登場からまる2年が経過して、この秋には新型が出るという街の噂だ。

GRDのほかにGX100,GR7も使っている。ほかに目下、使っているのはニコンのクールピクス5100である。これは最近登場したコンパクトデジカメで、その前の5000に比較するとlかなり改良のあとが見られる。こっちは日本路地裏学会の公式カメラであって、会長の桃木女史は、先日はオレゴンまで、路地裏調査、その後、上海と杭州、西安にまで路地裏調査に行った。

目立つデジタル一眼レフよりも、コンパクトデジカメの方が路地裏調査に便利なのは言及するまでもない。

コンパクトデジカメをポケットに入れて、日本でも欧州でもぶらりぶらりと街歩きをするのが自分の方法論であるが、これには理由がある。

自分がデジタル一眼レフを使うのは、「純粋な仕事」の時だけだ。この前の上海行きでは、ソニーのα100を持参した。上海で助手をしてくれた紹興の人が、それを心配してくれた。「そんなアマチュア向けのカメラで大丈夫?」というわけだ。

何がアマチュアカメラなものか。α100で、3,8GBの撮影をした。

現地で活躍しているカメラマンのその人はちゃんとプロ用のフルサイズの一眼レフをもっていたのである。それを貸してあげましょうの雰囲気だったが、でもそれは仕事の沽券にかかわるので、α100で撮影して、すでに納品してギャラももらってしまったから、問題なし。

仕事にはなるべく軽量小型のデジタル一眼。

自分の写真にはコンパクトデジカメ。

これが自分のデジカメ方法論である。

デジタル一眼と、コンパクトデジカメの違いはいうまでもなく、その携帯性にある。うちの佃島の周辺では、われわれと同世代の皆さんが、重くてでっかいデジタル一眼レフをもって、休日などはひしめいている。さらに重い三脚とさらに脚立までもっている人もいる。

他人がどんなカメラを持とうが関係ないのは自明であるが、あれだけ機材の重いのを持つと、これは一種の筋力トレーニング、カメラのブートキャンプなのではと考えてしまう。

かのスナップ写真の巨匠で、この夏に東京は竹橋の国立近代美術館で一大展覧会(これは欧州の巡回展の流れだった)を開催した、アンリ・カルチエ・ブレッソンはライカの使い手として知られている。

生前にブレッソンは、「ライカより小型で、静かなシャッター音の、見えないカメラがあたら、それは自分の仕事にどんなにプラスすることであろう」という意味のことを言っている。

今のコンパクトデジカメなら、天国のスナップの天才にぜひ、使ってもらいたい。

デジタルコンパクトカメラはそういう写真界の巨匠によく似合う。

一方で、高級デジタル一眼は、、、、どうもね、、、、。

デジ一は、その存在感が「実用的すぎる」ところが損をしている。

エンブレムを見ないと、それがどこのメーカーのものか、わからないのも損である。

ニコンとキヤノンがしのぎをけずる、例のデジ一などでは、専門のメカニズムライターさんですら、「D40と40D,,,,どっちがどっちだったっけ、、、、、」などと言っている。

コンパクトデジカメの最大の問題は、それをそこらじゅうに置き忘れてくることだ。

小型軽量がアダになっているのである。

★昨日のココログランキング(おすすめサイト)で堂々の2位。

ご愛読ありがとうございます!

2位:

坂崎さんのフェド  from KCチョートクカメラ日記

、、、、それで、MJチョートクカメラ日記から、KCチョートクカメラ日記へのシーム...
2007-09-30 15:01  by チョートク

こっちは9位になっております。感謝!
9位:
リニューアルのごあいさつ  from KCチョートクカメラ日記
「KCチョートクカメラ日記」へようこそ! チョートクカメラ日記は最初は2001年...
2007-09-04 20:10  by チョートク

★ヒルズのライブラリで、ランチの時には、新着図書を見る。
Masterpieces of German Design (ダイヤモンド社)
ハイデルベルクスピードマスターの観音開きの画像を発見。これは嬉しい。
R1141182
中には各種のドイツ工業製品が紹介されているのだけど、この印刷機はぴか一である。
自分の写真集の印刷立ち会いに行く理由は、色校正ではなく、この印刷機が回転するところが見たいのだ。
このマシンが表舞台に出ることは珍しいのでは。
実はこのマシンを本気で欲しくなったことが自分にはある。
若い頃、仕事で同じくドイツのアリフレックスのそばに居て、それが欲しくなった。そのくだりは、近日刊行の「銘機礼讃3」の中に書かれている。
ハイデルベルクスピードマスターはまず買っても置き場がない。(12:47)

★上の写真集を見ていたら、ライブラリのメンバ−さんが、「ニコンサロンで個展中の知り合い石川君」のサイン入り写真集を見せてくれた。

MAOKI ISHIMAWA    NEWDIMENSION

http://www.straightree.com/
http://www.akaaka.com
である。
「この2年間、世界中に点在する先史時代の壁画とそこにいたる道程を撮影し続けてきた」
とは筆者のテキストだ。
テキストは全部で800wくらいしかない。これはうまい見せ方のテクニックだな。

そのカラー写真がとても良い。民俗学とか考古学の古い資料を見ていると、その中の「写真的な良い感じ」に感激することがある。
それは全体の資料写真のごく一部なのだけど、この撮影者の画像には、その写真の魅力を濃縮したようなところがある。

先史時代の場所の方が、21世紀の場所などより、ずっとモダンに見えるのが痛快だ。
最後のパタゴニアの風景が一番好きだ。
その中の一番最後、「振り向く牛」がいい。
R1141185
同時にタニオカ ヤスジの「タロ」(きせるをくわえた牛)を思い出した。(13:33)

今日は早めにヒルズを出て、銀座8丁目の中銀カプセルタワー、つまり「旧八丁庵」に行く。
今度でる、銘機3のカットで建物のカットが必要になったので、R7にて、数枚撮影する。

ハナマサで買い物。この所、家人の帯状疱疹で、自分が食事当番なのだ。
7か月ぶりに、銀座8丁目から、1丁目まで歩行する。
思えば、プラハのバーツラフ広場よりも、銀座通りの方が来訪することが希であるわけだ。

夜、仕事。上の振り向く牛のことを考えていたら、作者の石川直樹さんからメールあり。
これ幸いと、早速,著者に写真集を2冊注文。
アマゾンで買おうとしたら、ヒットしなかったのだ。
(22:48)

2007年10月 1日 (月)

嗚呼、赤い羽根

10月1日。

曇り。冷気野に満つ。

KCチョートクカメラ日記のスタート。

赤い羽根募金のスタート。

R1141167

昨日の午後3時のアップ以来、午前0時まで1310ヒット。0時から9時すぎまでで500ヒット。総計1810ヒット。ありがたいスタートだ。

冠スポンサー、駒村商会、ホースマンに敬意を表する意味で、駒村商会のカメラと自分とのかかわりを、チョートクカメラコラムで書いてゆく。MJチョートクカメラ日記のコラムと同様に、銀塩カメラと、デジタルカメラの2本立てで、これは臨機応変に展開。

銀塩コラムが月に3本。デジタルコラムが3本。これが基本だが、状況に応じて本数を増やす。現在、カメラ雑誌でも何本か、連載をやっているが、本ブログでは紙媒体には書けない、あるいは間に合わない話題でタイムリーな展開をして行く。

もともと新製品情報というのは、メーカーのプレス発表に肉付けをして書くものだし、最近ではそのままコピペもあるようだが、やはりなかなか個人的な印象はかけないような状況にある。こちらでは個人的な印象をメーンに書く。

以前の銀塩時代には、カメラ情報は紙の上の展開であったから、フォトキナ情報なども10月の初めの会期だと、原稿を積み残すと、それは12月号に掲載というのが普通で、それを誰も不思議に思わなかったものだ。

カメラの進化がゆっくりしていたよき時代であったわけだが、今の状況は説明するまでもない。新製品の発表があって、それが3月先の発売だと、その機種は発表会から1週間でまず忘れられる。

ユーザー(というより、デジカメファン)は、次々と登場する、新型デジカメの「床屋談義」をしているだけである。

3年前にデジカメの某アナリストがデジタル一眼レフの需要は2007年末で、すでに頭打ちになるというこjとを懸念していた。その3年が経過して、この秋はメジャーなカメラ雑誌ですら、新製品のテスト機がメーカーから貸してもらえないほどの、「貸し手市場」のようだ。

一説にはまだできていない機種もあるので、発表したのはよいが実働機がないという「うわさ」も聞いた。

古い話だが、コンタックスがセミ版の一眼レフを出した時、それの展示用モデルが遅れて、京セラの偉い人がハンドキャリーでフォトキナに持ち込んだ。

それを取材したのだけど、テスト撮影だけはご勘弁ということだった。この状況は今でも同じである。内覧会で見せられるカメラは、メモリを入れて撮影したものを持ち帰ってはいけないことになっている。

内覧会の最初に「念書」を書かされるのも、最初は異様な感じがした。この方面に四半世紀いる自分としては、昔は紳士協定にて口外しないのが普通だった。この20年で一番に変わったのは「相手を信用しなくなったこと」。これに尽きる。

ライカR4が登場したとき、当時のカメラ毎日が他誌をぬいて、1月早く掲載したので、当時のライカのスポンサーが広告を以降差し止めるという事件もあった。

現代のブランドカメラの状況を見ると、やはりコンタックスの名前がなくなったのがさびしい、そのことはこの前、東京で会った、ライカ社のリー社長も指摘していた。

L1030325

写真は右からリー社長、ローベイエガー財務責任者、一人置いてドクターチンマー技術部長。

「チョートククラシックカメラ展@六本木ヒルズ」にて2007年9月。

ブランド戦略では、ライカの独り舞台はむしろマイナスであって、好敵手のコンタックスがいないと、市場が活性化しないというのだ。

そのリーさんはライカのコレクションはかなりのもので、ヘビーライカユーザーであることがわかってうれしかった。彼はコンタックスも愛用しているという。こっちは何を使っているのか、興味があった。

戦前の1型とか、3型とかだったら、うれしいと思って聞いたら、アリアとAXであるという。これはこれでライカ社の最高責任者として立派なカメラ選びである。

今朝は新年度の初日というので、早めにヒルズに来た。

ろくろく広場の前のボーイスカウトの子供たちが、赤い羽根募金でかしましい。

こういうことには高校生の時は、好きな同級生の胸の赤い羽根に心をときめかせたものであったが、大人になってから、ピオネールではないのだから、そういうことには手を出さなかった、

今週は忙しくて、毎日、この「赤い羽根のがきの関所」を通過するのが面倒なので、100円投入して、羽根を手にした。

羽根は以前はピンであったわけだが、最近は接着するような構造になっている。これも2001年の9月から変わったのであろうか。(10:18)

ヒルズで仕事。

書き下ろしの単行本のプロットを製作。これが完成したので、後は頭の中の引き出しを開けて、それらのデテイルを観察するだけだ。

同時進行にて、銘機礼讃3の分厚いゲラを見る。書き下ろし分の章のキャプションを書く。

かなり時間がかかったが、終わって、タカザワさんに送る。タカザワさんは10月には家族でヴェトナムに行くらしい。5月末に出る予定だった、銘機3をこれ以上伸ばすわけには行かない。その前に校了は必須だ。

まさに「背水の陣内閣」じゃなかった、「背水の陣出版」。

それで、あっという間に、夕方。

これより、岩波書店の山口社長と懇談、その前に岩波書店で、「晴れたらライカ、雨ならデジカメ」にサイン。

岩波から凄い封筒に入った和紙の手紙が来たのでびっくりした。岩波書店の伝統と格式はすごい。(16:23)

今見たら、ココログの昨日の「おすすめブログ」アクセスランキングで第10位であった。

10位:
坂崎さんのフェド  from KCチョートクカメラ日記
、、、、それで、MJチョートクKCチョートクカメラ日記へのシームレスな移行という...
2007-09-30 15:01  by チョートク

こういうのはうれしいねえ。(16:40)

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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