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2007年10月

2007年10月31日 (水)

ハローウインと万聖節

「R1143068.AVI」をダウンロード ムービーはプラハ最後の麦酒。

木村伊兵衛先生の佐々木昆先生に言った「プラハの黒麦酒はうまいぞ」のそれである。

旧市街の文学者カフェ(と、直訳するととんでもないが)にて。

飛行航路は PRGCDNGO
目下、移動中。

PRGCDGはエアバスの310である。シート1A
CDGNGOは777−200でシート3K
なにしろ、欧州を3回往復して、Cクラスが一往復のアワードというのは、KL/AFのファンになってしまう。

エアバスの離陸音と空中感覚はなかなかハードで好きである。それに比較すると777は、大人の飛行機で冒険がない。
ただし、AFはドル箱路線であろうに、掃除もちゃんとしてないのか、この前、CDGPRG間では3日前に乗ったアテネ便の半券がポケットに入っていた。記念に持ち帰る。

この前、JALのアテンダントさんに聞いたら、セントレアの777−200はここをベースにして、パリとバンコックを往復しているそうだ。

朝10時発のAFでパリ。それから夕方5時のJALにて気に入っている、セントレア。
そこから、名古屋に出て新幹線で東京。
その途中の常滑をこの前、夕方に一瞬だけ見た記憶が良く保存されている。常滑という地名がシュールである。
今度、撮影に行きたい。
交通手段はやはり中央高速で、麦酒工場とか、競馬場をみつつ行くのが良い。

今日は日本とかアメリカでは、例のハローウインの馬鹿騒ぎか。
この奇習を初めて知ったのは、1984年頃に碑文谷にあった、城田稔さんの経営していた、ギャラリーMINで10月末になにかお祭りをするというので、それに呼ばれていったのが最初である。

城田館長が子供達を引率して、近所を回っておかしをもらったりしていた。
欧州では一日おくれて、万聖節がある。これは日本のお盆のようなもので、祖先のお墓に参詣する。

11月1日と言えば、欧州は万物枯れ果てて実に諸行無常を感知するには、良い季節である。
ハローウインの方は、もっぱら商業主義の見にくいとことが、正面に出ていて、何のことやらさっぱり分からない。
ヒルズへの通勤路に、「窓の中に東京タワーを飼っている花屋」(チョートクx六本木ヒルズ所載)がある。その前に例のでかカボチャが飾ってあった。
その値段を見て、肝を潰した。それは貴金属とか不動産のなみの価格なのである。

1974年であったか、クリステイン・ロスタとウイーンの中央墓地に万聖節のお墓参りに行ったことがある。

実際にはライカとニコンを持っての撮影であったのだが、ついでにクリステインの先祖のお墓に行ったわけだ。
第三の男ばりの暗い天気で、あの映画では同じ場所が登場する。

くだんの墓石はよく読まなかったが、なんでも彼女の父方はポーランド、母方はチエコとのことだった。
そんな出身地はウイーンでは当たり前だから、これも話題にならない。

それから、数年後であったか、何かのはずみで、彼女のパスポートを見た。そこにはクリステイン・ロスタではなく、彼女の本名、クリスタ・クロスタとあったからだ。
いきなり、スロバキアとスラブの地が騒ぐという名前なのである。

ちょうど、キャパが彼の本名を隠して、アメリカっぽい名前にしたのと、まずは同様な背景である。まあ、中国人がアンナとか、ジャックとか言うよりも名前としての実在感はある。
ながのり、がチョートクで、幸二が幸之助さんみたいなものか、、、、。

話を戻すと、クリステイン・ロスタは1970年代にはウイーンでは知られたフォトモデルであった。ただし、身長が171センチしかないので、ファッションモデルは諦めたという。

コパトーンの黄色いビキニの金髪美女がその彼女であって、これはTVコマーシャルで放映されていた。ただし、ウイーンの我が家のTVセットはモノクロだから、モノトーンである。

この春に、そのクリステイン・ロスタから、30年ぶりに個展の案内が来た。それもメールなので、どのように自分のアドレスを知ったのかも不明。

金髪モデルだった彼女はドイツボーグのカメラウーマンから、さらに偉くなって何かの回顧展をケルンのミュージアムで解散するそうである。まあ、それは年の功というやつだ。

万聖節というと、クリステイン・ロスタとウイーンの中央墓地に行った34年前を思い出すのが常だ。クリステイン・ロスタの当時の写真は「ウイーン・モノクローム70S」(東京キララ社)にも掲載されている。

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2007年10月30日 (火)

月光は値千金

R1142877 プラハ。
滞在最終日。
昨日の日曜は午後にやや天候回復。
それまでモノクロの世界であったのが、いきなり「総天然色」になったのだから、視神経は驚愕した。
初期の写真術で、カラーが登場した時もおそらくこんな具合であったのだろう。
自分は最初に手にしたカラー写真を鮮明に覚えている。
フジカラーというのであるが、それはプリントではなくスライドであった。しかもすでに存在しなくなった、コダクロームと同様な「外式」のフィルム現像なのである。
ペンタックスにそのフジカラーを入れて、少年時代に近所の護国寺を撮影した。小学生のがきが「古寺巡礼」をしていたのだから、半世紀の早熟であった。

その仕上がりの上がったフィルムをみて、「いいなあ、、、」とおもったのは、それに色彩が付いているというよりも別の所にあった。フィルムの膜面を斜めに透かしてみると、そこに現実の風景がミニチュアそのままにレリーフされているのである。

これは凄いことだと思った。
当時の外式のフジカラーはその未熟なせいであったのであろうか、やたらに膜面が厚かったのでこのような印象を残したのだけど、写真は現実の縮小であるという真理に少年はきずいたわけだ。

この2週間の天候は暗い日だが、今朝と昨夜は良い月夜であった。
午前2時頃にトイレに立って、上から何か光が射していることに気が付いた。
アトリエには、トイレもキッチンも同じ巨大な天窓がある。

はて、この建物の屋上にネオンなどないはずだが、、、と思った。
月であった。
この場合、お月様と言った方があたっている。そのお月様がアトリエをのぞき込んでいるわけだ。
天窓の窓枠で仕切られた月光の影がアトリエにくっきりと刻まれている。

それをベッドで見るうちに、不思議なことに気が付いた。
アトリエの居室の窓枠は合計6つある。それに平行に36万8千キロ(であったっけ?)から、この場合、平行な光が注がれているのだから、窓枠に落ちる月光の影は、それぞれに同一角度をとるのが理論であろう。

ところがそうではなかった。
お月様はすでに南中していたので、やや西側から光を降らしていたのだけど、その窓枠の西に近い方から、順番にその影の角度が異なっていたのである。

すなわち、アトリエの左端のお月様の影がかなり急角度であるとすると、アトリエの右端のその影はかなり斜めになっている。

こんなことはあり得る筈がないと思った。
しかしその影がそれぞれの窓枠に落とす影はそれぞれに違っている。
とても悠久の遠方からの光とは思えない。

唯一、考えられることは、お月様がこのニコリテスリーの屋根の上、70メーターほどに下ってくるのなら、その事実は説明できる。
その距離になれば、もはや月光は水平光であるとは言えないからだ。

その日の午後、モルダウ河で見たツーリスト相手の係留気球のことを思いだした。http://www.baloncentrum.cz/cs/fotogalerie

これはお一人様30ユーロかで、カレル橋の上に気球をあげて、観光をさせるのだ。係留気球はもともと、軍用であってその起源は古い。

その気球がお月様であるのなら、頭上70メーターあたりから月光を放射すれば、上のようなアトリエでの「非平行な月光の影は可能であろう。

それで今朝もお月様がどうなっているか、それを観察した。
冬時間になった最初の深夜の2時頃、よく見ると月光は昨夜よりも東から照射していた。つまりお月様は昨晩のことを気にして、遅く登場したわけである。

子細に観察したら、今度はアトリエの右端の月光の影が一番に急角度で床に影を落としている。それがだんだんと緩やかな角度になって、アトリエの右端の窓の影は斜めである。
前夜と逆だけどやはり角度は窓によって異なることが判明した。

午前4時頃に、お月様はどうなっているか、アトリエの窓から視た。
影が見えなくなったので、それを気にしたのである。空は一面の雲に覆われていた。

やはり、今朝と昨晩、深夜に見たお月様、あれは本物であった。カレル橋に係留されている、気球に化けたお月様が、深夜、夜回りをしているのであるという確信を得た。
だって、偽ライカじゃあるまいし、フェイクムーンなんてあるわけがないじゃないか。
ねえ。

あ、忘れたけど、撮影カメラは例によってキャプリオR7。

これで昨日は雑誌の連載の仕事も2本やりました。擦れ違う、世界のツーリストさんの方が自分よりずっと立派なデジカメを持っている。自分は実にらくちんだけど、他のツーリストさんは「オーバースペック」ではないのか?それが心配だ。

自分には当分はデジタル一眼レフはいらない。
あれは、どうもじじいむさい。第一、もともとじじいなんだから、これ以上じじいにはなりたくない。

デジ一持ってるとそこに「ライフワーク」を想起させるのが良くない。ライフワークは銀塩写真ににまかせれば良いのである。

Epsn2391 これが本日の撮影機材。

R7と、スパーブ。それとタイメックス。フォマパン200を5本。(そのうち1本はすでに装填してある)

スパーブは「自己増殖」して、スコパー付きとヘリアー付きの2台になっている。これはヘリアー付きの後期モデル。

でも、やはり猫耳のストラップアイレットの前期モデルがいいな。

これを撮影したのはエプソンR−D1Sだけど、ゾナー50ミリF1,5を付けたので、スパーブが後ピンだ。ときどきこういう間違えをする。

R1143126 いや、実に吃驚した。

撮影を終わって最後の夜をアトリエで楽しんでいた。

天窓から何気なく、東を見たら巨大なお月様が着陸しているのである。

なにかのイヴェントか、撮影であろうが、巨大な人工のお月様が目の前の広場を制圧していた。冗談で書いたことが本当になってしまった。


その人工のお月様のこと。

深夜に起きたら、本物のお月様も出て、競演ですごかった。やはり偽物の方が立派で本物っぽく見えるのは、これはカメラでもクルマでも人間でも同様な次第であろう。

R1143128 本物のお月様は迷惑そうであった。写真説明。右の小さいのがモンモノ。

これより(上の日記は予定校だから、こっちがリアルタイム)プラハ空港に行くのである。

日本の午後2時であって、プラハの午前6時だ。もうあのお月様は退場じたかと、窓から視たら、まだ煌々としている。

映画の撮影にしては時間が長すぎるし(昨夜以来だから)工事にしては時間が変だし、これはやはりアートのたぐいなのであろうか?

不明。

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2007年10月29日 (月)

プラハは夏時間から冬時間に

R1142722 プラハ。

霧。気温4度。体感気温も4度。

湿度100パーセント。この100パーセントという湿度はのどにやさしい。

プラハがマイナスであっても、佃のプラス10度プラス空っ風という方が寒く感じる。これは事実であって、昨年の春にスエーデンのヨーテボリで、日本によく出張するスエーデンはハッセルブラッドの偉い人と歓談していたとき、「日本の方がスエーデンよりも寒い」というのである。東京の空っ風と、普通の家屋のすきま風のことを思うと、これにはうなずける。

その時のヨーテボリの気温はマイナス15度。だもホテルの中ではTシャツ一枚。これはプラハのアトリエでも同じことだ。

今日は夏時間から冬時間に戻る。

以下はwikipediaからの引用
中央ヨーロッパ夏時間(ちゅうおうヨーロッパなつじかん、Central European Summer Time:略称CEST)は、中央ヨーロッパ時間夏時間のことである。

協定世界時(UTC)を2時間進ませた標準時で、中央ヨーロッパ時間より1時間進めた時間である。

3月の最終日曜日午前1時から10月の最終日曜日午前1時までの期間、適用される。

----------引用おわり。

たしかに最終日曜の午前1時というのは、もう過ぎたわけだがまだ変わっていない。冬時間になれば、日本との時差は8時間だ。

今朝、こっちの時間の午前2時に眼が醒めて、PCのタイムサーバーを欧州のそれにセットしたのだけど、別に時間は1時間マイナスにもなっていない。
これは明日、月曜の早朝に切りかわるのであろうか。

☆追記。日記を書いている間にPCの時刻をチエックしたら、1時間戻っていた。日曜の午前の10時40分が9時40分になっている。何か、日曜の朝を1時間余分にもらった感じがして、これは嬉しい。

20年ほど前、やはり秋の終わりにリスボンに滞在していて、日曜の朝に撮影に出たら、何時のと異なり、街が閑散としていた。
その朝に、夏時間から冬時間に戻ったのでああった、

ニューヨーク滞在中の四半世紀前に、冬時間から夏時間に移行したその朝に、1時間早く起きるのだから、眠くて困った。

今回、プラハは11泊12日である。
せっかくこっちの時間帯に慣れたのに、また来週から東京時間はちょっと憂うつだ。

画像の「プラハウオッチ三兄弟」は、左がレマニアの60年代もので、チエコ空軍の使用品。
右はジンでドイツ軍の使用品。(それぞれに刻印入り)レマニアのチエコ軍時計は7年ほど前にebayで購入。ジンは、モノマガジンのお=たさんにもらったもの。

中央は最新テクの「水晶発振器」を装備した時計。その存在を最初に知った小学生時代にはびっくりした。当時は水晶時計は巨大な掛け時計であったのだ。

犬Yの怪人、チョーセイさんが「マンハッタンの成功者はタイメックス」のフレーズを読んで、それなら、トウキョウの落伍者にも向くのではと、手に入れた。
普通のスイス製時計の値段で、これは100個以上は買える。

大昔は、ホテルマンは客がチエックインするときに、時計を見る、と言われて、それでIWC
など無理した買ったものだった。それはそれで良いとして、デジカメの命は蜻蛉のようだ。四半世紀前に買ったスイス製のメカウオッチはいまでもそれなりに価値があるのに、今、世の中で鐘と太鼓で大騒ぎの50万プラスのデジカメは5年経ったら、その名も記憶されていない。

「デジカメ諸行無常」とはこのことだ。

10月28日の「おすすめブログ」のランキングで拙ブログが堂々1位になった。
もともと、「競合ブログ」は開運やら、風俗やら、脳内やらで、最初からこっちがクラス負けしそうな優秀ブログばかりなのに、その中でよく頑張ったものと思う。
ご愛読に感謝!!

MJさんのスポンサーシップの当時は4年半長丁場の後半にコラムを有料にしたわけだが、有料無料にかかわらず、かかわらず沢山の人が読んでくれるのは嬉しい。
しかし、有料コンテンツで可能なのは、今時はH系だけであろう。
これもなさけないが。

要するに、デジカメの場合にはプレスレリーズのコピペをして、「あれも欲しいけど、これも欲しい」とか、「これは海水浴に良いとか、これは冬のスキー向けだ」とかいう「カメラの季語」とか、あらずもがなの意見をちょっと加えた内容(自分もメカライターの古株なのでそこらへんは良く知っている)なのは、これはライターさんに責任があるのではない。

これはダウジョーンズと同じで「世の中はそういう仕組みに出来ている」からだ。

そういうデジカメレビューブログと、その作例ブログでは出来ない、かゆいところに手の届く内容のブログにして行きたいわけだ。
よろしくごひいきに。

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2007年10月28日 (日)

足穂没後30年か、、、

R1142713 プラハ。
暗い曇り。
朝8時だけど、あたりは一面に光を失っている。
と、ほとんど昨日と同じ書き出しだ。

8時すぎに、白黒のやや大型の鳥が飛来して、広場の向かいの細い細いテレビアンテナの一番さきっぽにとまった。器用なやつである。あわててスケッチをする。すぐに飛び立って行った。

佃のライカインコのことを思いだした。家人からの報告によれば、ライカは相変わらず抱卵中。ただし元気。

日曜から冬時間に戻る。それで、現在の朝8時の暗さは、明日から朝7時の暗さになるから、そうなれば普通の欧州の冬の暗さである。

26歳の頃だから、1974年頃か、すでにウイーン生活にはいっていた。当時はインターネットなどあるはずもなく、日本の本に飢えていた。
日本書の個人図書館というか、これは商社の人が帰国する時に置いていった、本の集積なのである。

その中に新潮文庫の稲垣足穂の「一千一秒物語」を見いだしたのは幸せだった。
爾来、40年近くに亘って、足穂を読んでいるのである。

稲垣足穂(イナガキタルホ) INAGAKI Taruho (1900.12.26〜1977.10.25)

一昨日は没後30年であった。

自分は愛書家ではないが、足穂の初期の初版本などを集め出した。それと私信(この場合は葉書)も無理して買ったりした。
印税で買うのであるが、最近の印税は出版社が「節印税対策」を完璧にとっているので、そういう贅沢も出来なくなった。
再版したら、原稿料を払います。というのは良くある手だけど、これは悪質である。
まあ、そういう出版に関わらない方がいい。

しかし、足穂も述べているように、「印税、原稿料をあてにしていては、良いモノなど絶対的に出来ない」は真理であろう。

足穂の雑誌に掲載された作品なども手に入れるようになった。
さしずめ、新潮の昭和22年5月号などが好きだ。この月から新潮はカラーの表紙になった。それまでは雑誌の上の部分に、大きく「新潮」とあるだけである。
5月号はカラーでアゲハ蝶かなにかのイラストである。ただし、新潮のデザインとしては、イラストのない方が好きだ。この号の足穂の作品は「モンパリ」であったろうか。

当時の印刷用紙の割り当ての不足で、ページ減というのは、新潮のようなメジャーな雑誌でもよくあったことらしい。
編集長が薄い雑誌のお詫びと言い訳をしているのだ。

足穂の代表作は「稲垣足穂大全」(現代思潮社)の全6巻。それとユリイカ判の「稲垣足穂全集」がいい。読み込むなら前者だ。

面白いのは、初出と全集では当然ながら、異同のあることだ。
昭和6年頃に武者小路実篤が大塚に来た時、足穂もその例会の末席に座っているが、実篤をさして「あまり信用のおけない羅漢のような」と形容している。
この形容は痛快であるが、初出の新潮にはそこはカットされている。

文学ばメジャーであった、楽しみの少なかった当時は、この一節だけで、大騒ぎになったことであろう。

自分の足穂信仰は、新宿区横寺町に足穂の住んだアパート(の位置)を探し出し、その先の飯塚酒店への鍵型小路を歩ませ、さらに反対側の袖擦り坂から、眼下のトウキョウを望見させるほどになった。

足穂の棲んだ東京高等数学塾の上の2階の角部屋の六畳間には(そこには今でもアパートがあるので)棲んでみたいと思っている。

以前は魂の置き所を、銀座八丁庵、つまり中銀カプセルタワーにしていたわけだが、黒川さん去って、新方向を見付けることだ。

ああ、忘れていたが、このプラハのニコリテスリーも立派な「魂の置き所」である。
魂の置き所とは、詩人丸山薫が作品「蝙蝠舘」で標榜していることで、これは戦前に存在した、滝野川区南谷端2100番地中野アパートのことだ。ここには足穂やら、丸山やら、そうそうたる人類が棲んでいた。

そこは、西巣鴨交差点から、17号をちょっと下った左側の奥の方にあった。無論、今は残っていないが、時々その界隈を歩行している。

亀の子たわしの本社の近くだ。

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2007年10月27日 (土)

プラハの市電を乗り尽くす

R1142363 プラハ。

気温7度。体感気温5度。きり。湿度100パーセント。

風邪引き人間には理想の朝。
金曜。暗い日。

朝、8時前と言えば、2月前には目が眩しくて開けられないような明るい朝であった。
今、すべてが闇の中、グレースケールの中に沈んでいる。

それで写真の撮影向きではないのか、と言えば、これは逆である。
スデクの名作の中にも、雨の夕刻の自宅アトリエを撮影した作品とか、雪の夜の公園とか名作は多い。
ただし、モノクロの世界だ。

昨日、そのグルーミーなトーンが気に入って、あまり観光客の歩行していないカレル橋に行って、パノラマカメラで撮影した。
ところが、ノブレックス150のご機嫌が悪く、途中でドラムが停止してしまったりで焦った。
このパノラマカメラは10年ほど前だったか、坂崎さんと大阪に一緒に旅をした時に、大阪のデパートで開催されていた中古カメラ市で買ったのである。
そのまま保管されていたのを、今年の春に発見して、この8月からいきなりこれでプラハのパノラマを大量に撮影することになった。

調子が悪いので、サービスに出したいのだけど、このカメラの故郷はドレスデンである。日本で修理が出来るかどううか分からない。この前、ノブレックスの代理店をHPで調べたら、日本はその中に入っていなかった。
これだけ、デジカメ大国なのに、銀塩は切り捨てである。

まあ、滞在中にパノラマカメラが作動すればそれでよし、としよう。

先週の土曜以来、連日パノラマ撮影である。まるで、スデクの霊が背後に居るような気分で創作意欲は満々だ。
スデクのパノラマのシリーズで、街の南部の古生代の地層で、三葉虫が出たりする岩山があって、そこに先週の土曜には行ったのである。ここにはローマ時代の水道橋を思わせるクラシックな橋がある。

ところがそれは水道橋ではなく、本物の鉄道の橋だった。
この界隈に路面電車の空中楼閣とでも言える、天に一直線に伸びて行く、回廊がある。
番号は12番か20番である。
昨日、その路面電車に乗って、街の南西の終点まで行った。路面電車の高度がかなり高くなると、進行方向の右手に今のクラシックな鉄道橋をかなりの距離を置いて見下ろすことが出来る。

そこに単行にジーゼルが小さい貨車を1台だけつないで通るのを、パノラマカメラでキャッチした。
しかし、銀塩だし暗いし、当てずっぽうな露光だから写っているかどうかは、今の段階では分からない。
まあ、これが銀塩の楽しみでもあるわけだが、、、、。

自分の路面電車の研究はかなり進んだ。これはプラハ市の路面電車の全停留所のリストである。
http://doprava.cx/prahalin.php
これを読んで、希望のポイントに行けるようになったのだから、その勉強ぶりを誉めてもらいたい。R1142338

バーツラフ広場で、ハベルんの大型本が飾ってあった、
タバコを持ってポーズする姿は、1989年なら通用したであろうが、今では時代遅れである。

これはまずいなあ、、三流落ちの大根役者だ。

これは編集者の責任だ。完全なマイナスイメージである。
「わたしはタバコで健康を害しました」と言っているようなものだ。

他にタバコを持っていないカットというのはなかったのか?

その意味で、1960年代の文人は皆落第である。当時、かなりの数の文人を撮影した。

尊敬する渋澤龍彦さんを北鎌倉のお宅に訪問して、そのままウイスキーの酔いで一晩、ごやっかいになった。ただし、渋澤さんもカメラを向けると、タバコを持って「難しい顔」をするのである。2007年から60年代、70年代に撮影の文人のポートレートを見て、変に感じるのは、彼らがタバコと一緒に写っているからだ。

そのうち、ライカを手にして写真に収まると、変な人間に思われるであろう。

いや、もうそういう時代になってるか。

1991年だったか、大統領府に、大統領報道官のミハエル・ジャントフススキーさんを訪問した。

大統領報道官というのは、官房長官みたいな役か?日本の感冒長官には会いたくもないが、ロイター通信記者あがりのミハエルさんにはダンテイズムがあった。

仕事場はプラハ城の最上階のプラハを一望する部屋だった。
権力者の部屋としては、アメリカや日本などより格段に上である。

そのミハエルさんは、労働者のたばこ、スパルタを吸っていた。
日本なら、しんせいとか、いこい、のようなブランドである。
その取材で自分はそういう安タバコを吸っていることを誉めたのだけど、今にして思えば、あれは時代の距離感というやつだ。
今では、たばこを吸う権力者というのは信用できない時代だ。

タバコを吸わない、friskが好きなこっちは信用できる、坂崎偽ライカ同盟王子から、メールあり。
久しぶりに、某誌でカメラじゃんけんを再開することになった。

新年号の企画だ。

カメラじゃんけん、とは偽ライカ同盟の「伝統芸」であって、1000ページ本の「チョートクのぼくのカメラたち」(ワールドフォトプレス)ころから開始された。

自慢のカメラを持参して、それにじゃんけんんをさせるのである。まあ、カメラを使った二人羽織とか、闘八拳というような江戸の遺風のお座敷芸である。
「偽ライカ同盟入門」(原書房)でもこれをやったのである。

坂崎さんはきっとフェドのグーを出すから、こっちはオペマのパーで勝ってやろう!

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2007年10月26日 (金)

パンツ一丁

プラハ。
曇り。
気温5度。体感気温5度。霧。
R1142361
この霧がくせものである。
1989年2月であったか、家人と2人で昇天した、ハリネズミの供養でウイーンに行った。
日本なら、四国88カ所であろうが、ハリネズミは欧州の出身だから、そうなったのだ。これを「針供養」と称した。

アエロフロートはモスクワからウイーンに向けて飛行していたのに、勝手にプラハ空港に着陸してしまった。
これはハイジャックではない。
ウイーンが霧なので、ダイバートしたのだ。プラハに一泊して翌日、ウイーンに飛んだ。
そのように、晩秋のプラハで、特に早朝に日本に出発の時には霧が気になる。
そう言えば、この1月のプラハでは自分の飛行機の飛んだ後に、大雪になってプラハ空港は数日閉鎖されたそうだ。

今回はKLMのアワードチケットで、それはエアフランスの便で、さらにJALと共同運行なので、事実上はJALであることは書いた通りであるが、Cクラスだから荷物は30キロまでオーケイである。しかもようやく、エリートメンバーの最低クラスのシルバー会員になったので、プラス5キロはオーケイだから、35キロまでは預けることが出来る。

ところが今回、何か出発時から荷物がやたら軽いようで20キロもなかった。
プラハのアトリエに到着して、調べてみたら、替えのGパンを佃に忘れてきた。
アトリエには20年前の履き古しのコールテンのズボンがあるのだが、それには足を通したくはない。

我々の世代はパンツと言えば、下穿きのことを意味する。パンツがズボンとかスラックスの総称であることをなかなか理解しにくい。

写真集「ウイーンとライカの日々」の中にブダペストのセクションがある。
1983年の夏であったか、ウイーンの3区のアパート(ヨセフ・ホフマンが棲んでいた典型的世紀末建築でガイドブックにも出てくる)の向かいの、ベルベデーレ宮殿を歩いていたら、日本からの一人旅の女の子に会った。

これからブダペストに行くのだと言う。
ちょうど、自分はブダペストに帰郷する、オペラ歌手の車に同乗して撮影に行く予定だったので、その女性を後部座席に乗せてあげた。彼女はずっと車内で眠っていた。

ブダペストに走行中、彼女(もう名前も失念している)の持参の「地球の迷い方」を見ていたら、そこに「持参品のチエックリスト」というのがあって、そこにGパンは荷物になるから、穿いている1本だけで良い」とあった。

へえ、そういうものかと思った。
ブダペストに夜遅く到着して、民宿を探した。その女性と同じ民宿であった縁で、それから3日ほどブダペスト観光で同行することになった。

これは東西ドイツ統合前のことである。

ブダペストの駅の近くで、東ドイツから来た、家族(ドイツ人の名前の方はちゃんと記憶している。夫婦と女の子の三人家族でその名をユンゲニッケルと言った)と、知り合いになったりもした。この家族との交流の話にはまた面白い逸話があるのだけど、それは本題でないので省略。

民宿と言っても普通の労働者の家である。キッチンの冷蔵庫にはキャベツが1個入っているだけであった。冷蔵庫の中にだだ一個のキャベツ。これは現代アートを凌駕している。

ぼろぼろの集合住宅の5fで、目の前には列車のレールがあり、貨物列車がアパートを震撼させつつ通り過ぎる。そこをプラウベルプロシフトで撮影した。その関連のショットは、写真集「ウイーンとライカの日々」に掲載されている。

おっと、ここで言いたいのはその同行の日本の女の子(当時としては長身で身長1,72mのそこそこの美女)の方が、着たきり雀のGパンをその民宿で洗濯してしまったことだ。
それでどうしたか?
なんと、その家のおかみさんの巻きスカートを借りたのであった。

女性は実に強いなあ、、、と、感心した。
自分は自分の1本だけのGパンを洗濯して、宿のオヤジから代替のパンツを借りる勇気など最初から持ち合わせていない。

市内を散策中に彼女から身の上を聞かされた。
実家は地方の建築材料屋さんで、子供の頃から建築の資材現場で遊んだので、ブロック塀をみると無性に懐かしくなるという。これは良い話であった。

1970年代のカメラ毎日の「アルバム」という写真の投稿ページに「ゴムホース屋の娘」というのがあって、そのシュールさに感心したものだったが、「ブロック屋の娘」とは、これに匹敵できる。

これは写真家佐内某がブロック塀の風景写真をひっさげて華々しくデビューするずっと前のことなのである。

ブダペストの2泊3日で、その女性は洗濯の渇いたGパンでウイーン経由で颯爽とミュンヘンに旅立って行った。

話はそれで終わりになる筈が、実はその後日談があった。

彼女はその1年後に語学留学でロンドンに旅立った。ロンドンから何回か近況を知らせる手紙が来たのである。
よくあることだけど、その語学留学先の先生に惚れて、それでなんとかなりそうだ、、、という内容だった。これは楽しみだな、頑張ってというようなメール(当時だからエアメール)を送った。

最後にその女の子から来た手紙はちょっと悲痛な内容だった。

その目当ての先生は「同性愛者」なので夢ははかなくも破れたというのである。
これが彼女からの最後の手紙だった。
あれからすでに20年が経過している。

今回は自分もパンツ一丁。
この言葉が頭に浮かぶと上の記憶が呼び戻されるのである。

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2007年10月25日 (木)

KCチョートクカメラコラム167回

☆銀塩クラシックカメラ

「チエコ製ライカ、オペマのユニークさ」

オペマを最初に手にしたのは1970年代の半ばだ。それはウイーンのカメラ店で買ったのである。このチエコ製のRFカメラは当時はその評価が異常に低かった。
その理由は単純であって、「東ヨーロッパのカメラ」であるという、いわれなき偏見である。

R1142350 それで価格が安いのは、これは買う方にしてみればありがたい。45ミリと135ミリの2本のレンズで、当時、ウイーンの街を撮影した。フィルムはこれも安く手に入った、ロシア製のモノクロフィルムである。

その四半世紀前のオペマで撮影したモノクロネガを自分は瞬時に識別することが出来る。他の35ミリカメラなら、ライカでもエキザクタでもニコンでもその画面サイズは24x36だから見分けがつかないけど、オペマは24x34ミリで2ミリだけ短いからすぐに分かる。

自分の持っているRFカメラで同じ比率を持っているのは、ニコンSと初期のミノルタ35、それにオペマである。ニコンの一番最初のモデルが24x34の40枚撮りであって、ミノルタ35も同様だった。その理由は物資のない終戦直後にフィルムを倹約しようという意識があったようである。

オペマに関してはそのセオリーは成り立たない。このカメラの登場した当時はチエコはすでに社会主義国の優等生であった。
倹約サイズの画面というよりも、これは当時のドイツのライカに対抗して自社のユニークさを演出しようと思っていた公算が強い。

オペマのユニークさはそれだけではない。交換レンズのマウントの直径がライカより2ミリ小さな37ミリなのである。当然バックフォーカスも異なる。

実はライカマウントにしておいた方が、後で楽なのだけど敢えてそのルールに従わなかったのは、これも見識、見方を変えれば天の邪鬼である。

交換レンズは30,45,90,135,180ミリがあった。30ミリとか45ミリというのも、従来の交換レンズのシステムとは異なる。ライカタイプに普通に存在する35ミリのレンズがない、というのもある意味個性的だ。

オペマの特徴はビューファインダーがレンズの真上にあることだ。レンジファインダーはボデイの右端に寄せてある。その距離計には望遠鏡が仕込んであるので、視野の中にかなりのサイズで距離計の測距部分を観察できる。
だから、ピント合わせは楽だ。

オペマの凄いのは、フィルムの駒間隔が正確なことだ。信じられないかも知れないが、ライカの3cとか3f(これは同時代)より、ちゃんとしている。

そのデザインもチエコの精密工業生産物という感じがして、好ましいライカコピーである。直線と曲線を巧みに組み合わせたそのデザインは伝説のチエコの高級車、タトラを連想させる。

☆デジタルカメラ

「実はキュプリオR7だけ持ってプラハに」

リコーの銘コンパクトデジカメである、リコーGRが新形になったようだ。そのお披露目をかねて、この月末に横浜の美術館でイヴェントがある。あたしはその時刻には帰国途上でCDGに居るので間に合わない。同時にGRDの100人写真集が出るので、自分も1枚の画像で参加している。その画像は東京の上空8000メーターから見た都心風景。うちのタワーがその高度からでも見えるのだ。

GRDはユニークと書くと、またチョートクのリコー贔屓と言われるであろうが、自分の場合にはGR-1の頃からの10年来のお付き合いであるから、まず何と言われても困ることではない。

GR-1の登場でそれまでの写真家の選ぶカメラは激変したのである。森山大道さん、ロバート・フランク氏を見よ!
この「GR民主化運動」とでも言える、カメラ選択のシフトの意味は実に大きかった。

ところで、新GRDについてはその内容はまだ知らないのだけど、まずあそこまで作り込んだカメラだからこれ以上変わってもらいたくはない。余計な便利機構を付けると、キャプリオになってしまうからだ。
お顔綺麗モードも、ブレ防止も、GRDには不用である。
GRDはライカみたいな「伝統芸のカメラ」に昇華した。

それで今回も愛機GRDを持参したか、、、というと否である。

最近ではキャプリオR7の病気に感染してしまい、拙ブログでもほとんどこれで撮影している。そして画像設定はほとんどが、N-1260のサイズなのだ。自分の場合、ブログ専用カメラはR7だ。

10月から新スタートしたこのブログの画像は350kもあれば十分である。だからそれ以上の画質が必要な場合には、もう一台のエプソンR-D1sを使う。
このようにデジカメの守備範囲を分けて使った方が賢い。

プラハでこのR7を使っていると、プロ連中が興味を示してくる。その200ミリまでひっぱれる望遠サイズにしびれているようだ。何?そんなに安いのか、、、どこで売っているんだ!と、一騒ぎであった。ちなみにプラハではまだR6しか店頭にない。
事実、この望遠サイズのズームはかなり使える。R1142344

疾走する路面電車の中で目の前、2メーターのブロンド女性を望遠サイドで撮影した。ブレの防止機構が効いているのであろう。

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パベルの長征

暗い曇り。
気温4度。体感気温2度。
まだ朝の8時半である。
ようやく光がアトリエに降り注ぐ。

いつものことだが、プラハのアトリエから佃に戻って、何か変だな、と思うのは住居の広さの違いではない。
どっちも狭いけど、佃の方がプラハよりは広い。
問題は光のあり方なのだ。ここはもともと絵描きのアトリエだから、天空光を採り入れている。

この前、森ミュージアムで、コルビュジュエ展が開催された時、非常に懐かしく思った。
変な感覚だが、ミュージアムの中に造られたアトリエのモックアップの光が、プラハのアトリエのそれと酷似していたからだ。

天空光というのは、モノの存在が立ちあがるのである。

この場所では理想のライテイングが得られる。
もう出る筈の(編集部から見本の出来る日についてはまだ連絡なし)銘機礼讃3の表紙は、この1月にここで撮影した、プラウベルマキナ3なのであるが、光が実にきれいだ。
こういう撮影をスタジオで人工光で撮影しようとすると、かなり大きいスタジオが必要になる。
これは写り込みと光の廻り方の問題だ。

欧州の冬は光がないのは、よく分かっている筈なのに、日本からいきなり来るとやはり戸惑う。
カルロビバリからイタリアに脱出したドイツの文豪の気分が分かろうというものだ。

R1142332 旧友パベルは今日から1週間、フランスのアビニオン近郊の村にクルマで出掛けた。
片道1500キロ、往復3000キロの「長征」である。これがパベルの南仏のギャラリーのポストカード。
撮影は1967年、プラハの春の事件の前の年だ。カメラのデータはライカMPにズミクロン35ミリ。
今では300万円はする、ライカMPと例のレンズおたくの好む「8枚玉ズミクロン」である。
大体、8枚玉ズミクロンは過去のレンズだから、2007年の現代にこれに固執するライカ人類は例外なく、写真が下手という共通点がある。特にデータに「ズミクロン35ミリ8枚玉」と書く連中はだめだ。その伝で行けば、「トリオター85ミリ 3枚玉」と書くべきであろう。

当時は彼のようなジャーナリストでなくてもかなり自由に外国に行けた。それが68年の8月以来、チエコは長い冬の季節になる。

パベルは9月に開催した写真展が好評で、そのクロージングパーテイをするのにわざわざ出掛けたのだ。人口千人以下の小さい村のシャトーでの展覧会だ。

我々の感覚からすると、往復3000キロの一人ドライブは凄いと思う。
途中でチューリッヒに1泊するそうだ。
明後日の朝には南仏着である。これが1940年生まれの写真家の体力なのだから脱帽。

ただし話をしてみると、自分が東京を随時脱出してプラハに活路を見いだすのと同じように、パベルはプラハを脱出して、南仏に逃避するようなところがあることに気が付いた。

この美しい街、プラハもそこに棲んでいるプラハ人にとっては、なかなかに現実的過ぎる殺伐とした大都会なのだ。

風邪は大分良くなった。咳のせいでそこら中が筋肉痛だ。

R1142349 これよりパノラマカメラを持って、スデクのパノラマ旧跡を撮影する。スデクのパノラマ写真集の画像300点はエプソンP5000に入っている。ベッドで寝ながらそれを繰り返し視ているると、その撮影場所が大抵は分かるようになった。

このルナパークがどこなのか長年分からなかったのである。それが毎日通っている、メトロの駅への途中の広場だとは思わなかった。

これは大発見である。今は工業大学のキャンパスになっている。

スデクのパノラマ写真集を手に入れて四半世紀になる。ようやくこの写真集の面白さが分かってきた。(8:50)

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2007年10月24日 (水)

見失ったミノックスを発見

水曜日。雨。
暗い日。
R1142273
これが今朝の「目玉焼き日記」
ホテルもちょっとハイクラスのところに泊まると、朝、レストランで客の好みに応じて玉子を用意してくれる。
スタンダードなら、玉子2個である。まあ3個までは許される。
しかし4個の玉子を調理してもらうのは、ちょっと勇気が要る。
なにか、ライカの数みたいだ。

昨夜から風邪引きになって熱がある。
今年の東京のつかれが一挙に出たのであろうか。持参のパブロン服用。

それで、本日0時に公開する日記を今朝用意してあったのが、どこかに消えてしまっている。
書きかけのまま、他のサイトを見に行ったりしていたのでそれで消えてしまった模様。
あるいは、サーバーのバグであろうか。

それで、消えたテキストを思い出しつつ書き直す。

ミノックスは代表的なスパイカメラだ。
この前の誕生日に坂崎さんから、ブラックのミノックスBのセットで箱に入っているのを、もらった。これはもったいなくて使えないので保管してある。

いつも使うのは、1台のミノックスAである。これは最初のミノックス(ラトビア製)と同じモデルだ。
CIAのホームページには実際に使われているミノックスが紹介されている。
それはごく普通のメーターの付いたクロームのB型だ。

そのことが不思議に思っていたのだけど、簡単なことだ。本当のスパイさんはブラックのいかにもすぱい、すぱいしたミノックスなどは持つことは考えられない。
一般市民の持つ普通のミノックス。これで良いわけだ。

R1142274 自分のミノックスのうちの1台が行方不明になっていた。これが8月以来の失踪である。
今回、プラハで調査したら、持参のカメラバッグの一番奥に「引きこもって」いた。

ミノックスは目立たないカメラなので、仕舞いなくすとなかなか出てこない。
今回持参のキャプリオR7もそうだ。小形で便利なのだけど、昨日もどこかに忘れたと想った。
よく懐中をさぐったら、カモフラージュジャケットのポケットの間に入っていた。

デジタル一眼レフなら、そのような紛失の恐れはない。これがデジタル一眼が唯一、コンパクトデジカメより進んでいる点であろう。

風邪をおして市内。
来年に開催する、パノラマ3人展の会場の打ち合わせ。時期は春ということにした。

R1142303 それから、フォトシュコダにてフォクトレンダーの二眼レフ、スパーブを入手。数多くのカメラの中で、これはまだ手にしたことがない二眼レフだ。

いや、10年ほど前に、松屋のカメラ市で買いのがしたのだ。というより顔見知りのお店の人にそのカメラを予約しておいて、半時間して行ったら、その人が勘違いで他の客に売ってしまったという不思議な状況があった。
それで齢60にして、初めてスパーブを手にしたわけである。

明るいブルーとイエローのエンブレムが素敵である。

20年前だかに、日本のメーカーがCIとかいう戦略に騙されて、軒並み「お客様のニーズに合わせた明るい企業イメージのロゴ」になったのではらを立てていた。

とくにニコンがそれまでのハードはイエローとブラックのロゴが、空色のパワーダウンしたのになってがっかりだった。

このフォクトレンダーのライトブルーは同じ系統だけど、こっちには1930年来の歴史がある。だから優雅に見えても、パワーのないことは感じられない。R1142304

そのロゴのアップがこれ。


 



熱があるので、アトリエに引き籠もり。(17:25)

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2007年10月23日 (火)

インターネットが不通に

10月22日 プラハ 寒冷。R1142260

早朝に起きて、メールチエックしようとしたら、インターネットに接続できない。
アトリエにある、デスクトップも駄目。ということはプロバイダーに問題があるようだ。

今日はまたPBG4を持って、行きつけのセラピーカフェに行ってそこから接続をせねばならない。実に面倒なことだ。
LANは空気のような存在なので、普段はその存在を気にもとめないが、こういう状況になると面倒なり。

プラハも月曜で、一週間の始まりである。

アトリエの隣は長らく「普通の屋根裏」であったのが、この1月に新しい住居が出来た。
そこに人が住んでいるので、夜と朝にはシャワーを使う音がする。
それ以外は何の音もせず。

隣は何をする人ぞ
というわけだが、あまりの静けさよりも隣人の生活音がする方がなんとなく、落ち着くのは確かだ。

朝、8時すぎになってようやく明るくなってきた。
天候は晴れるような晴れないような、はっきりしない様子である。

もっとも、これが欧州の晩秋の天気だから驚くほどではない。そのようなモノクロームの世界が1年のうち、半年は続くのである。まだエルンスト・ハースが元気だったころ、東京は銀座で彼とウイーンの話をした。大写真家はウイーンの出身なのである。だから、ウイーン弁で会話をした。

ウイーンはモノクロの街か、それともカラーの街か?この問いに対して「そりゃ、ウイーンはモノクロの街さ、、、君は僕が戦後に撮影したウイーンのモノクロ作品を見たことがあるかね」と答えた。

これは戦争直後のウイーンを撮影した6X6のシリーズなのである。
ハースはカラーの魔術師と呼ばれたのは、一連のライフの「ぶれたカラー」によるものだが、モノクロの6X6の作品には良いものがある。

ただし、この作品は一般向けではない。
自分は当時、ウイーンで前衛芸術誌「プロトコーレ」に16ページだてだかで、モノクロ作品を何回かシリーズ掲載していた。

同じ号にはジョン・ケージが登場するような(これは1974年の話だ)硬派の雑誌だった。

その雑誌の別の号で、自分はそのハースの仕事を見ていたのである。

とりあえず、カラーはデジカメに任せて、自分は銀塩モノクロで仕事を遊ぶつもりである。(15:27)
そうだ、日本時間は生活時間に合わないので、以降、こっちの時間に切り替える。
だから(8:27)である。

インターネットの不具合のチエックで、パベル来。
となり近所がどうなっているか聞いてもらった。

このあたり、一面が「停電」であるそうだ。
復旧にはしばらく時間がかかるとのこと。
とりあえず、明日の日記をアップするのに、都心まで行き、同時にパノラマで撮影するということにする。

空を見ると、青く晴れ渡りそこを空港から離陸したマレブ(ハンガリー航空)の飛行機がくっきりと見える。青空には白い機体は実に似合う。
さっそく、この航空路をチエックする。(10:25)

インターネットようやく開通する。(10:51)

撮影。
この数年、閉じていたワーレンシュタイン宮殿と庭園を撮影。R1142242
ここには典型的なバロックの庭である、グロッタがある。渋澤龍彦好みのモチーフだ。

それにしても、黒川紀章さんは偉い。
女性はなにかにつけ、バロック的であるからだ。
そんなことをバロック庭園を歩行しつつ考えた。
でも、自分が女性を形容するのから、いっそ、バロックよりマニエリスムというところだ。

パノラマカメラで10本撮影。
午後1時にセラピーカフェでパベルに会う。
タルタルステーキ。

スデクのパノラマ写真のデータをエプソンp5000に入れたのを見つつ、スデクの撮影地に関して意見を交わす。

その写真集の中に、ルナパークがある。
これがどこなのか分からないでいたら、何時もそこを歩行して地下鉄の駅まで歩いている、工業大学の敷地の前が、遊園地であった。
これが1950年代の話だ。

そのように、ひとつづつプラハパノラマの謎が解けて行く。(16:20)

Epsn0133 上に登場のオペマ2の45ミリのベラレンズはM37であって、ライカにはつかない。
しかし、ライカマウントに「ひっかけること」はできる。

それで、エプソンRD1に付けて、目分量で距離を合わせて(無限で1メーターになる)撮影した。

フォトショでちょっといじったら、実に立派なレンズの描写になった。
今や、どんな酷いレンズでも自由自在な時代だ。

現行のツアイスブランドもライカブランドのレンズもこれでは立つ瀬がなかろう。

簡単に「スデクめかしたげーじゅつ画像」が出来てしまう現代。

これをメーカーさんは「便利」というのであろうが。

本当は、不幸な時代と言うべきであろう。(17:07)


004693

オペマには30ミリ、45ミリ、90ミリ、135ミリ、180ミリの交換レンズがあった。

この中で、一番、グラマラスなのが、この180ミリである。

その名をtelexというのである。

素晴らしいデザインである。

なにしろ、50年代のレンズだから、真面目に造られている。真鍮製で実に重い。

チエコの工業デザインのすばらしさは、プラハの技術博物館に行くと良く理解できる。

今回視たいものは、そのプラハのミュージアムでのカメラ展示。

それと、ナショナルギャラリーの

ベレニス・アボット」の20代の頃にモデルになった油絵である。

(17:37)

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2007年10月22日 (月)

スデクの眼と精神

プラハ。
三日目。
曇り、時々晴れ。午後には雹が降る。
昨日、日曜の行動。R1142157

ヨセフ・スデクの稀覯本、プラハパノラマに関しては、すでに1980年代から、アサヒカメラや日本カメラに書き、銘機礼讃にもそのことに触れている。

今年は3回もプラハに来たわけだが、そのうち、8月と今回は、主にスデクが撮影した1950年代のプラハの名所旧跡がどのようになっているのか、路地裏調査に来たのだ。
スデクのパノラマ本の後を受けて、現在のプラハをパノラマで撮影してこれを某出版社から写真集にしようという計画だ。
R1141956

プラハは日本から最近では団体さんが押し寄せたり、雑誌で特集をしたりで、ロンパリローマの後の有力な後継者である。

前回の8月の調査で、市内の路地裏、ならびに路面電車とメトロで行ける所は、ほぼ撮影した。カメラはスデクと同じパノラマコダックというわけには行かない。これは1枚ずつフィルムを暗室で入れ替えるのであって、自分のような気短には向かない。

これで撮影している人は自分の知る限りでは、スデクの他には土浦の写真家酒井某さんが居るだけだ。

今回は、それで自分は交通弱者なので、長年の友人のパベルに頼んで、持参したスデクの写真集のカット(実際の本は重いので、全300カットほどを、複写してエプソンp5000に入れてきた)を示して、その撮影場所を調査した。スデクの撮影した50年前のプラハ。それが今ではどうなっているのか、これが興味の中心。こんば場所はどうなっているか、それが楽しみだった。

結果から言えば、歴史的な名勝地はほとんど変わりがない。でも上のような市電の終点などは、驚愕の変わりようである。

R1141802 この画像は大昔に、スイスカメラのスデク特集で見て驚いた画像だ。世の中にこんな都会がああるのか、と思った。これが自分とプラハ(スデク)との最初の出会いだった。

これらの場所はいずれもクルマがないとちょっと行けないところなのだけど、1950年代にクルマを持っていなかったスデクはどのようにしてここまで来たのか、それが不思議であった。

この写真集ではスデクの「眼と精神」の効用がが最大限に発揮されている。

稀覯本なので、ニューヨーク近代美術館では鍵のかかる書架に入っていた。上の表紙のそれは1985年に出た復刻版だが、最近ではそれも見なくなった。

これを本歌取りして、2007年のパノラマ本を作ろうというわけだ。

プラハの南(プラハ5区)に一大奇観とでも言える岩山があって、そこから、三葉虫などの化石の出土する場所なのだけど、そこには岩山の間に池があって、それをスデクは撮影している。

スデクの真似をして、50年後にその場所を訪問した。
雨があがって、素晴らしい紅葉(というより黄葉)であった。R1142159

白鳥が2羽いたので、それを撮影していたら、そのうちの一匹が水からあがってきて、「なんだ、、おみやげはないのか、、、」と、言いたげな顔つきをしていた。
今月の7日に制定された「デブシロの日」を思いだした。

それからモルダウの反対側の丘の城の上からモルダウのパノラマを撮影した。
なかなか良い午前の仕事だった。

スメタナのお墓があったので、それをちょっと見た。墓石がなにか共産党の首領にような感じがしたのは、その墓石の真ん中の金色の大きな星のせいらしい。(0:00)

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2007年10月21日 (日)

プラハのカメラ在庫状況

プラハ。
気温2度。
体感気温はマイナス2度。R1142134

先週までは暖かかったが、今週は寒くなったとは、寒さに強い地元の人の発言だ。
昨日の行動。

例によって、午前11時頃からプラハのカメラ店巡りに出動。
本当の目的は、今回のプラハでのパノラマカメラでの撮影用のフィルムの調達だ。
とりあえずフォマパンの120の感度200を50本買う。

デジタル時代に「フィルムを買う行為は、なにか「蛮勇を奮って目的に突撃する感」がある。
あるいは。テキサスのダラスで、スナイパーが銃を組み立ててテストする感覚と言ってもよい。
その言い方が剣呑であるのなら、絵描きのギャンバスを張る行為にも似ている。

デジカメのつまらなさは、戦闘準備態勢への緊張感のないせいであろう。
実際にはデジカメは「備えよ常に!」の状態にあるのだけど、それが当たり前の状況だから、有り難さがなくなってしまう。

第一、今回の撮影では持参のR7(リコー)は、ウエブ用画像しか想定していないので(作品はR-D1)その画質はノーマルの1280に設定してある。
だから、2GBのメモリだと、5000枚も撮影できるので、これでは有り難さがないのは当然である。

だから、デジタル一眼レフの「習い事」の連中は、全部RAWで撮影して、それをHDに格納して安心して、そこから先には進まないわけだ。
これでは撮影する楽しみもなかろう。

少ないメモリと、いつあがるか分からない貧弱なバッテリーで苦労して撮影した、初期のデジタル時代のあったことを我々はすでに忘れているのだ。
これではいけない。

64MBのSDメモリで、24枚ごとにパワーブックに画像を吸い上げていた、つい6年前のことを忘れてはいけない。

本日、目についたプラハのカメラ店の在庫状況。
この前の8月に日本からチエコ製の二眼レフの買い付け団が来たので、それ関係は払底している。そのレポートは、アサヒカメラ11月号のあたしの連載に書いてある。

サンダーソンの組み立てカメラの13X18センチというのを初めて見た。自分の持っているのは、それの4X5なのだけど、これは珍しい。

スデク愛用の4番のコダックパノラマカメラもある。R1142131

デザイン誌アクシスの次ぎの号で、チエコ製のカメラのカメラデザインを書くので、その参考用に、チエコのライカコピーである、OPEMAを手に入れる。
このカメラのデザインは毅然としていて良い。ライカなどよりも程度は上である。
しかも安い。ただし、レンズマウントはm37で、サイズはニコン判と同じ24X34ミリ。

アトリエで午後の時間を過ごす。
今時が、時差が一番きつい時である。(0:00)

R1142111例によって、午前2時に目が覚める。

日本の朝の9時であるが、日本に居るのではないから、これではいけない。

また一眠り。

アトリエの深夜の静寂は好きだ。

シーーーん!

という「音」するのである。

この静寂の音は日本ではなかなお聞くことが出来ない。これがプラハのアトリエの名物である。

朝5時過ぎの始発の市電まで、しばしこの「シーン」という音を楽しもう。

あ、上の我総はトリックである。非常に急角度のエスカレータの角度に合わせて水平にカメラを構えた。それで人間が後方に反っくり返っているわけなり。

この長い長い、深い深いプラハのエスカレータはもともと、核シエルターの為に造られたという。東京の大江戸線の深いエスカレータを思い出すのが常だ。(9:37)

R1142151

今朝は気温は3度。体感気温は1度。薄曇り。
さて、7時間遅れのブレックファスト。 恒例の「今朝の目玉焼き」コーナー。 古くは、写真集chotoku x R-D1でトップに登場しているシーンがこの「毎朝目玉焼き新聞」である。 ベークドトマトも入れた。 このアトリエは20年近くになるが、10年ほど前から、すぐそばのプラハ工業大学の構内に24時間の巨大なスーパーが出来た。 この7週いない間に、そこが大手のスーパーBILLAに買収された。 それはそれで結構だけど、展開の品物の並びが完全に新しくなったので、かなりまごつく。 まあ、還暦を機に、いつも行くスーパーの展示が完全に変わった方が、脳内メーカーは良い方向に働くかも知れない。
欧州のトマトは実にうまい。
自分はトマト嫌いと思っていたのは、勘違いであった。日本のトマトがとんでもない味なのである。(15:25)R1142149

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2007年10月20日 (土)

プラハは氷雨、気温2度

NGOCDG
飛行時間11時間30分。
松本上空からいったん新潟に出て、通常のトランスシベリアコース。
持参のジエップセンの航空地図で飛行航路をトラッキング。
シベリアの部分の地図は持っていないが、これは退屈だから必要なし。ヘルシンキのあたりからは用意した航空地図でまたトラッキングする。
R1142067
パリ行きの航空路はUN872のようである。まさにパリまで一直線。これに並んでいるのが、UN850であって、どっちだか、最初は分からなかったのだが、「地紋航法」にて眼下の湖を見て、これが前者であることが分かった。

ついでに名古屋から乗るのは珍しいので、記念に航空地図にキャプテンとファーストオフィサー、ならびにアテンダントさんのサインをもらう。
キャプテンは熊崎、金沢両機長。FOは井上さんであった。

定刻にCDGに到着。
ターミナルバスにて、2Bに移動。
2Fのラウンジに入る。ここは数年前にやはりパリからプラハに行く時に使ったが、相変わらずきたないラウンジだ。
欧州に来て、いつも最初に痛感するのは、「全体がぼけーっとしていること」である。
ここらが欧州のアトモスフェアの一大特徴だ。
ここはビジネスラウンジなのだから、欧州を飛び回る切れ者ビジネスマンのメッカの筈なのだが、人間の存在感がぼーっとしているのは、それは「ゆとり」なのであろうな。
この最初の欧州の感覚は一晩経過すると、慣れてしまってそのことを忘れてしまうので、それを忘れないうちに、ここに記しておく。

それは8月のアムステルダムでも感じたことだ。そのぼけーっとした欧州をしっかり味わう。
プラハ行きの飛行機はまだ、1時間以上の待ち時間。(23:20)

パリ=プラハ。
飛行時間。90分。
到着したら、気温2度である。
7週間ぶりにアトリエ。
ストーブをたく。
氷雨が天窓をたたく。(5:29)

R1142103_3

熟睡。 現地時間の朝8時に目覚める。 午前3時にトイレに立って、天窓から見たら、北斗七星の柄杓が、逆さまになっていた。 この前の8月とは、星の様子が変わった。 天気は曇り。 一面グレーの光景の中に、アトリエ前の公園の枯れ葉のイエローが目に染みる。 万聖節は近い。 冬そのものであって、ウイーンに暮らした四半世紀前の季節感覚を思い出す。 一晩寝たら、自分の呼吸が実に深くなっているのに気が付く。 これも毎回のことだ。

朝の気温は2度。体感気温はマイナス2度。
例の如くコーヒーを淹れて、それを飲みつつ今度のプラハの本、それからプラハの写真集につき、思いを巡らす。(15:17)

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2007年10月19日 (金)

セントレアは悪くない

本日、10時05分のJAL AF にてパリ経由のプラハ。
今、空港内のホテルでこれを書く。
何を思いだしたかと言えば、2001年9月11日のことだ。実際にはその1日前であるが、関空からタイ航空にて、バンコック経由で、ミュンヘンに飛んだのである。

あの日は台風の余波で万一、乗れないと困るので、前日に関空に行った。
それで一泊したのが関空のホテルであって、夕日が海に落ちるのを楽しんだ。

セントレアもそれと同じ感覚があるのは、ランウエイが海の上の同じ方向を向いているせいだ。
昨日、東京から高速バスで中央道を通って中部国際に来た。

R1141984 すげー、山の中なので感激した。

ここにこそ極東の神秘がある。

東名より、中央。

R1142001 名古屋で名鉄に乗って驚いたのが、列車が2分置きにホームに入ってくることだ。
自分のような「外国人」は、完全にその状態に圧倒されてしまう。

特急と快速特急。
どっちが速いと思いますか。
これは後者なのである。その看板の色からして、「特」の方が速そうに見えるのだが、、、
これも勉強になった。

セントレアは、今回、初めてである。何時か、外国からの帰りに、関空を上空から見て、6分後にまた関空が見えたので、肝を潰した。
これは2番目に見たのはセントレアであったのだ。

それで一度は中部国際から離陸したいという夢が、今回実現した。
ここのオブザベーションデッキは、自分の知る限り、世界一である。
実に飛行機を楽しめる。R1142024_3R1142021
サテライトの上がそのまま、デッキになっているのでかなりランウエイの奥にまで、舞台がせり出したいる。
これが実に良い。

そのサテライトの突先にカフェレストランがある。
ホテルに一泊するので、そこでデイナーを、と思ったけど、チエックインしてシャワーを浴びるとそれも面倒である。
それなら、ホテルで晩餐と思ったが、それも面倒で、ホテルの前にあるサンクスで、焼酎とつまみを買ってきた。
結局、佃の立ち飲みとまったく変わらない内容であった。

それで今朝の出発に備えて、航空地図も用意。
しばらく前は、飛行機の上からメールもブラウズも出来たものだったが、最近、あれは止めになった。
飛行中くらい、何もせずにゆっくりしたい。

それと、セントレアホテルは空港内にあるホテルとしては、サービス内容が高い。1万円以下でちゃんとしている。

おしむらくは、バスタオルの質が貧弱なことだ。

これでしっかりしたタオルを提供すれば、あと5000円は余分にチャージできる。

タオルこそ、重要である。

ゲストがホテルを肌で感じるのは、バスタオルだ。舌などはアルコールの助けを借りるから信用が出来ない。世界のトップクラスのホテルを(バブル期にだけど)チエックした自分からの印象。(7:00)

まだ空港のラウンジ。 これからこれに搭乗する。 あ、間違い。これは767でした。パリ行きは777。 R1142029

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2007年10月18日 (木)

21日夜が観測チャンス=オリオン座流星群

画像は佃のしらさぎさん。

R1141595 しばらく、魚取りの妙技を見せてもらった。

こうして見ると、実に武蔵野である。カメラはR7

以下、ネットで拾ったニュース

★21日夜が観測チャンス=オリオン座流星群−国立天文台
(時事通信社 - 10月16日 11:06)
 毎年10月中・下旬に出現するオリオン座流星群が、今年は例年の1時間当たり10〜20個より少し多めに見られそうだ。国立天文台によると、天候が良ければ、21日午後10時ごろから22日午前5時ごろまでが観測のチャンスという。 [時事通信社]
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これは楽しみだ。
この8月もアトリエの天窓から観察した。これはアトリエの床に寝ころんで、双眼鏡で天を見るのである。
今回は前回よりも大きめの双眼鏡(キヤノンのスタビライザー付き)を持参する。

星を見るには、トウキョウの空の明るさでは問題にならない。
昨年の7月に山梨県の山奥に取材で行って驚いた。
降るような星空であった。
プラハの空は山梨の山奥ほどではないが、それでも星は見える。
今回はジャップセンの航空地図も何枚か持参する。これは星の間を夜間飛行するエアラインの航空路の番号をチエックするのである。

さて、これよりプラハ。
そのプラハへの行き方。
まず、リバーポイントタワーの前から、東京駅八重洲口行のバスにのる。
都バスでプラハに行く。これがちょっといい。

そこからヤンマー前に停車している。高速バスで名古屋。
セントレア空港に一泊。
金曜の午前10時5分のNGOCDGPRG。
この中で一番、興奮するのはやはり都バス、高速バス、それとセントレアである。
あとは、何時もの行程だから、案外に退屈。

チケットはKLMのアワードだから、AFなのは分かるが、これはコードシエアで、実は機体がJALなのである。それでちょっとがっかりした。以前、LHを利用していた時、NRTから機内に入ると即、外国である。この感覚がいい。

だから、機内でいきなり「外国」の方が好きである。
面白いのは「AFだと思ったら、その機材がJALのオペレーションなんですよ」と、こっちが残念という意味で言うと、「あ、それは良かったですね」と答えるのは、ヒルズのライブラリメンバーの人である。
まあ、これが日本の常識なのだろう。
新聞の広告などでも「安心のJALで」とか「機内でも日本語で安心」とかあるからな。

CDGからPRGはOK(チエコ航空)のオペレーションである。これもAFとのコードシエアである。

さて、これより、プラハにオリオン座流星群観察に出発。
これは日本路地裏学会の調査項目に入るのであろうか。
セントレアに一泊するのだけど、その空間感覚からすると、名古屋はプラハの郊外という感じだ。

ああ、持参のカメラだが、デジカメ(非デジタル一眼レフ)を3台。
遊び用にガンマ1台。それと今度のプラハのパノラマ写真集の撮影の為のノブレックス150。
(7:00)

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2007年10月17日 (水)

謎の極東大周遊

明日からプラハ。

8月以来だから、実に50日ぶりのプラハだ。

さぞかし変わったであろう。、、とは大げさだけど、プラハのお天気カメラで見る、カレル橋はすでに落葉が始まっている。

プラハの一番、美しい季節だ。
今回は今度出す「プラハのエッセイ本」の為の取材。

銘機礼讃はすでに最終校正を出したが、日本カメラからは何も言ってこない。
大丈夫か?

何時ものことであるが、欧州に出掛ける2日前あたりには、トウキョウを徘徊したくなる。

まず悪癖と言ってよい。
一時的に関係が切れる、自分の「居留地」が、本来の姿を取り戻すとでも言えよう。

たとえば、自分がマンハッタンを最初に見たのは、1982年の11月10日の現地時間で午後7時頃のことだった。
タクシーでアップタウンから、タイムススクエアのホテルに近付いて来たとき、「これはどうも剣呑な所に来たなあ、、」と、感心した。
ホテルエジソンの最初の夜、どこかで拳銃の発射音がした。

しかし、マンハッタンも1年も棲むと、それなりに慣れてしまう。でも最初の夕刻のマンハッタンが、あれは真実の姿を見せていたのでは、と、今でも思う。
慣れてしまうと、街は本当の姿を見せないものだ。

そういうわけで、プラハ行きの前に「トウキョウの本当の姿を見てやろう!」と、本気でそう思ったわけではないけど、そういう気分ではある。

まず、有楽町で55 stationに現像を出す。
これは日本カメラの12月号に使う画像である。
その足で、11前にはアキバの淀カメに行って、プラハ行きのフィルムなどを買う。今回はイタリアンライカのガンマを持参するので、それをダブルパトローネで使う必要から、フジの空のパトローネを20本買う。

8階で、例の刀削面。700円。
いったん北千住に出て、小菅を徘徊。
方向を転じて、北千住に戻る。
千代田線で綾瀬。
菖蒲園方面に歩行するも、雨降り出す。
周章てて、綾瀬駅に戻る。
京成バスの新小岩行きに乗る。こういう親切な案内がバスの中に出ている。R1141629
しかもバスの中で、傘を500円で売っている。日本のバスは凄い。稲垣足穂の小説で、昭和10年当時の回想で、その時点からさらに15年前に「食堂バス」というのがあったそうだ。それは「とんかつでもとってぼちぼちやっていれば、渋谷から浅草まで行ってしまう」のだそうである。
これは流行しそうだ。
新小岩まで行くつもりが、堀切菖蒲園の青木書店に行きたくなり、途中下車。
その前に青木書店の二軒手前の金子酒店にも長い間、行っていないので「顔つなぎ」に行く。カウンターでは地元の紳士連が「近所のパチンコ店の品定め」で沸騰している。

電車で町屋に出て、千代田線でまた北千住。乗り替えで、南千住。
今日は大林は火曜で休みは分かっているので、通過して、金太耬すし。R1141663
750円の1,5人分を2個、注文。

都バスで、いったん浅草。
銀座線で京橋。
55ステーションで現像をピックアップ。

その行程中、ずっと、リコーのR7で、あちこちスナップ。
実に曇り空のトウキョウの秘密を満喫できた、昨日のトウキョウ大周遊であった。(7:00)

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2007年10月16日 (火)

カナダの松茸とズミクロン

曇り。
もう秋だ。
R1141592 などと言わねばならぬほど、異常な夏の暑さであったわけで、その「おかげ」で家人は酷い帯状疱疹になった。
これは回復まで長い時間がかかる。
恐れ多いことながら(と、戦前にはかならずイントロをふったものだが)雅子さまのご苦労が良く分かる、この病気は長いとは、家人の実際になっての感想である。

それで、この1月ほどは自分が家事を手伝っている。
主に、夕食のコックをやっているのだけど、慣れるとなかなかに「実がある」楽しみだ。
第一、冷蔵庫の中の在庫を把握しているから、何を買うべきかが良く分かっている。

一方で、カメラジャングルの方は、暗黒大陸である。なにが生息しているのか、皆目分からない。

昨夕は年に一度の行事として、外国製の松茸を買った。
何もそのように断らなくても良いわけで、それしか買う選択肢がない。それでも2400円もする。

昨日のメニュー

ぼらの鱠
車エビ
松茸焼
フィレとアスパラガスのオイスターソース

外食したら大変な値段になりそうだ。

カナダ製の松茸は、カナダ製のライツの90ミリズミクロンレンズみたいな格好をしている。
だから、外見は松茸らしくないが、香りと味はちゃんとしていた。
さんまは目黒。ライカレンズと、松茸がカナダに限る。(8:35)

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2007年10月15日 (月)

チョートクカメラコラム166回

★銀塩クラシックカメラ

「ソ連製の安い50ミリレンズで遊ぶ」

50ミリの標準レンズはそれこそ山のように持っている。

普段使っている、エルマーとかゾナーなどのほかに、たくさんのソ連製レンズを持っている。いずれも50ミリレンズであるが、これは小さいレンズなので置場には困らない。

逆にいえば、手に入れたときに1本ばかりテスト撮影をして、そのままどこかにしまいなくしてしまうのである。

それが数年ぶりにカメラの箱とか引出のなかから発見されると、なにか非常に得をした気分になる。、もともと自分の所有するレンズだから、うれしいわけはないのだけど、もっていたことを忘れてしまったレンズは、実は所有していないも同様であるから、やはりうれしい。そのように発見された50ミリレンズを机の上のずらりと並べて遊んだりもする。

日本路地裏学会で路地裏を歩行していて物を拾ったなどということは一度もないが、佃のカメラジャングルから出土したレンズはこれはうれしい。

偽ライカ同盟会員の坂崎さんが前から提唱しているのが、ソ連製カメラのレンズの優秀さのことである。

自分も坂崎商店から、ソ連製カメラを数台買って、そのレンズの魅力にはまった一人だ。

ソ連製レンズの中で、コストパフォーマンスが最高なのは、ゾナーのコピーのジュピターであろう。50ミリレンズで明るさはF2が一般的であって、ほかにF1,5の明るいレンズもある。これは実に優秀なレンズだ。

とは云え、最新の50ミリレンズと比較してその性能がどうのとかMTFがこうの、と言う人とは実は話がしたくはない。これは往年のツアイスの黄金時代のレンズの良さと悪さがそのまま現代に持ち越されているという意味だ。

コンタックスと同じモデルに、ソ連製のキエフがある。そのレンズをライカ=コンタックスマウントアダプターに入れて、それをライカやら、エプソンにつけるのが最近の撮影の楽しみである。

★デジタルカメラ

「SDカードを偏愛する」

最初にSDカードに出会ったのが、2001年の秋のことで、これはパナソニックのルミックスの広告の仕事で欧州に行った時、機材と一緒に渡された。

それまではフルサイズのPCカードなどを使っていたのだから、その小ささにはびっくりしたものだった。

最近ではもっと小型なカードもあるが、あれは小さ過ぎてかえって紛失の恐れがある。その点、SDはちょうどよい大きさ(というか小ささ)である。

そのSDカードは今までのわれわれの物質の常識を完全に変えてしまったところがある。こんな小さいカードの中にどうしてあんなに多量のデータが格納可能なのか、いまだにわからない。

これは企業秘密なのであろうか。SDカードで検索しても、その中身がどうなっているのか、皆目わからない。

大昔なら、「中に小さな小人さんが入っていて、、、、」で済んだわけだが、今ではそうはゆかない。

「SDカードふぇち」である自分には、3年ほど前に有楽町のビックカメラの地下の入口にあったSDメモリの「等身大」のフィギュアが忘れられない。

これは人間と比較して等身大という意味だ。カードをそのまま人間のサイズにしてしまったところがすごいと感心した。そのSDカードフィギュアは、ミッキーマウスみたいな白手袋であった。記憶に新しいのは、そのカードフィギュアが512MBの胸番号を付けていたことだ。あんなSDカードのフィギュアなら、ひとつうちにあってもよいと思った。

SDカードさまのご利益なしでは一日も過ごせない我々であるからだ。どっかにSDカードの銅像でもできないか。和気清麻呂の像より尊敬されるであろう。

というのは2001年の秋にはまだ「最大の容量は64MB」であったから、実に大変な進化であると驚いた。

それが今では自分の持っているのは2GBだし、世間には4GBのSDメモリもある。

以前はメモリが足りなくなる時の用心に、もう一枚のカードを定期入れにはさんでいた。それが今では2GBはとうてい使い切れない。

フィルム代、つまり電子式フィルムの代金が空気みたいにただに限りなく近いというのも理想の時代のようであって、案外そうでもないのかも知れない。

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19ミリで有楽町を撮影

月曜日。

曇り。R1141582

木曜からまたプラハである。

1月半の東京出張という時間感覚だ。

プラハの気温を調べたら、早朝はすでにマイナス1度になったりする。マイナス5度以下用のコートは、アトリエに置いてあるが、それでは「暑すぎ」だから、普通のスモックを持参するが、問題はそれを日本国内で着つつ、空港にゆくまでに、汗だくなるであろうことだ。

一考を要する。

昨日の午後は渋谷にて、「ライカ愛好会」。

おなじみの顔も見られたが、参加者の過半数が女性である。

「女子ライカ部現象」は、いよいよ本格化。

この前、会ったライカ社の社長さんも言っていたが、普通の女性が好むブランド品は星の数ほどあるが、それらは「通俗的」である。

ライカはそのブランドパワーは、「超絶的」である。ここが異なるわけだ。

佃への戻りに、昨日のとり違いのフィルムを55 STATION 銀座泰明小学校前で受け取る。

これは新たに手にいれた、伊太利は羅馬製のライカコピー、ガンマのテストである。

はたして、ちゃんと写っていた。

Fh000032

このカメラが「格式が高い」のは、一度の撮影で36枚しか撮れないことだ。

1950年の製品で、そのデザインは「偽ライカ」の中では、一番美しい。(この下の方の画像参照)

イタリアデザインは大胆なもので、ガンマには巻き戻し機構がない。それで、普通の35ミリカメラでは普通に見られる、巻き戻しクランクはない。

これがデザインを「未来派」にさせているわけだ。ゆえに、1本撮影したら、そのまま家に戻って、ダークバッグでカメラの内部のフィルムを取り出して、全暗黒で巻き戻す。

この手間は大したものかも知れないが1本のフィルムで1日に36枚というのは、ある意味、理想のカット数である。

そういうかなり凝った撮影を楽しむことができる。

撮影中にダークバッグを持参すれば、何本でも撮影できるわけであるが、それはガンマの品格を貶めるのではないか。

上のはその作例。レンズは坂崎さん好みのキヤノン19ミリ。これはなかなか使いにくいレンズで有名だ。とんでもないゴーストが出たりする。暴れるイタリアンカメラにはぴったりだ。

偽ライカ同盟の公式メカニックである、良元堂さんみたいに、フェラーリのメカニックから、ある日、イタリア製カメラ(この場合はやはり羅馬製のレクタフレックス)の魅力に捕まった人もある。

自分のガンマ1型(今回手に入れたのは、2型)は、その良元堂さんに修理してもらった。

ところが、ガンマ1型は特殊マウントであって、55ミリのレンズがついているけど、交換レンズは発売されなかった。それが2型になって、ライカマウントになったので、自分のカメラジャングルに生息している、各種、キズものレンズが自由に使えるようになった。

ありがたいねえ、、、、。

(10:24)

仕事。

連載2本書いて、メールで送る。

以前は書いた原稿をもって、編集部に行って、編集者さんとお茶を飲んだり、天丼をごちそうになったりしたが、メールで納品になってから、2年も顔を見ないなどはごく普通である。

そのせいで、日本では喫茶店に入る機会はなくなった。

カフェと言えば、最近ではもっぱら。プラハのカフェのことを指す。天丼もいいけど、最近はそういう機会がないので、もっぱらタワーの6Fのアンパンのつなきゅうりサンド。

158円。

たまにお客さんが来ると、51Fの六本木ヒルズクラブの、百味庵にて「旬膳」というのを注文する。これが2000円しない定食なのだが、お値打ちだ。

4人を招待しても1万円。

家人の帯状疱疹のヘルプで、夕飯はあたしが制作している。ゆえに外食費はほとんどかからない。もっぱら、写真芸術に打ち込んでいるわけである。(一同爆笑!)

拙ブログはフリーという部門だから、ただであるが、その代わりスポンサーリンクというのがつく。

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