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🇻🇳『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』きゃうとお知らせ

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🎌追加募集のおしらせ

『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』のお知らせ
京都 gallery main にて6月14日~6月25日で開催決定

写真界にゲリラ戦線を仕掛けて半世紀。
生誕から70年。
これを期にFCR kyoto のセイリー育緒とGallery main の中澤有基が大回顧展を企画いたしました。
膨大な作品を5つのテーマからセレクトし、撮影に使われたカメラと共に展示するという大規模展示です。

展示の詳細は後日またリリースさせて頂くとして
まずは『ボス 70th バースデーパーティー』のお知らせです。
6月17日(土)19:00-21:00
ホテルサンルート京都 10階イタリアンレストラン
参加費 7000円
(イタリアンビュフェ+ビールとワイン飲み放題)
40名の募集。どなたでも申込みいただけます。

トークショー形式ではなく、ホストのセイリーが皆さんのテーブルへとボスを引きずり回す(笑)超フレンドリーなパーティーです!

予約ご希望の方はこちらへ!!
https://www.film-cr.com/田中長徳パーティお申し込み/
フォームを送信して頂きますと振込先の連絡を差し上げます。
お待ちしてます!
ーーー

🇻🇳ギャラリーメインの写真展へのステイトメント

ご来場ありがとうございます。

今回の写真展『田中長徳×銀塩写真 50年の歴史展』は私の半世紀に及ぶモノクロシルバーゼラチンプリントの集大成です。

時代別に五つのセクションに分けたのはギャラリーデイレクションからの提案ですが、私の昔を5つ重ねた時間軸をうまくつかんだやり方だと思います。

長い写真家生活で1番痛感したのは、数十年前のいわゆるRC パーの登場でした。早くて便利なのですがやはり本気の
写真術には向きません。

その後にやってきたデジタルカメラのビックウエイブもシャープで便利なのですが、写真を長い時間軸で考えるにはどうも不適当です。それに無限に再現できると言う点でもマイナスです。
もしワルターベンヤミンが生きていたら、そこら辺を酷評するかもしれません。

京都と言う、歴史的文化的時間軸が東都よりずっと長いこの街で、私の半世紀を振り返ることができるのは大変な喜びです。

どうもありがとうございます。
田中長徳Img_3040
TOKYO 1968 LEICA M2 HEXAR 50 VINTAGE PRINT

2017年5月30日 (火)

カメラ毎日1966年新年号

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1966年1月無音のカメラ毎日に掲載された高梨豊さんの名作「東京人」は巻頭三十数ページの大作だった。
私は高校3年生で4月から日大写真学科に進もうと言う時期だった。
雑誌であるから12月の20日には書店に並んでいたわけである。

高梨豊さんは当時最大のスター写真家であった。日本デザインセンターで広告の仕事もしながら同時に自分の作品も撮っていたと言うのが素晴らしかった。

日本の高度成長期のスタートの時代には写真家としてそういう生き方が理想的だし可能だと思われていたのである。

私は憧れの日本デザインセンターに入ろうと決心して入学してからすぐに4年間就職活動のようなものをしていたに違いない。
何年生の時であるかすでに忘れたが「高梨豊論 」と言う拙い一文を書いて、それを日本デザインセンターの受付に届けた。高梨さんはそれを読んでくれたと言うのも優しい次第である。

約300倍と言うケタ外れな競争率であるにもかかわらず私は日本デザインセンターに入社できた。その時の二次面接の試験官が高梨さんであった。別に何かを聞かれたと言うわけではない。写真部長が高梨君何かありませんかと聞いたら高梨さんは、別に何もありませんと答えたのであった。

期待に胸を膨らませて日本デザインセンターに入ったら高梨さんは既に退社された後であった。

夢と現実と言うのはいつもかけ離れているということを最初に教えられたわけである。同じ時代に入った同期の仲間は1年で止め2年で辞めていったが、私はとにかく3年間はこの会社にいようと思った。それは私にとっての「生きた大学」のようなものだった。

それで3年我慢して1973年の5月5日と言う日に横浜から船に乗ってモスクワ経由でウインに行った。
これが日本に戻るまで7年と6ヶ月の長いハネムーンのようなものになった。

「東京人」は高校生の時に買ったものがあったがとっくにバラバラになってしまった。それで後になってから新品みたいなきれいな雑誌を求めた。
神保町のギャラリーで東京造形大学のグループによる写真展が開かれた。田村東京カメラクラブ代表のすがたもあった。高梨さんのお相手は島尾さん。

高梨さんにお目にかかるのは10数年ぶりだと思う。毎日コミニケーションズで以前高梨さんの本が出たときに私もよんでいただいて高梨さんと対談をさせていただいた記憶がある。

ひさしぶりに高梨さんの姿を拝見してびっくりしたのは32歳で東京人を撮影したあの時代とほとんど変化がないことである。染色体の不思議とでも言うべきであろう。

サインをしていただいて私の50年以上にわたる東京人の夢はこれで完成したわけである。実にありがたいことだ。

トークが終わって質問の時間に私はどうしてもお聞きしておきたいことがあった。これは我々ゼラチンシルバープリントを扱う人間としては絶対に聞いておきたい秘密なのである。つまりプリントのサイズは何でしたかと言うことなのだ。

高梨さんの答えは普通の8x10。
これであった。
膨大なプリントを千鳥ヶ淵にかつてあったフェアモントホテルの大きな部屋に並べた。
これが実にゴージャスであるなと感心した。

この後世に残る仕事をしたときの高梨さんはまだ若干32歳なのである。そのことも素晴らしいと思う。今では40歳でも新人に思われたりする。
何があの頃と今では違うのかな。
ウィリアムクラインが写真集の撮影で東京に来た時も若干32歳だった。

2017年5月29日 (月)

ストラッセを斜めに横切る1

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偽ライカ愛好会があたしの写真家半世紀を残念がって、まあたらしいライカエム2をプレゼントしてくれた。その好意に応えるために撮影に使ってみた。

ボロボロのライカはたくさんあるからいただいたらいいかを使う必要は無いのだが、それは感謝と言うものである。

傷をつけてはならぬと言う強迫観念があるので、純正の革ケースに入れて持ち歩いた。逆にその方が撮影に区切りがつくようである。

ものすごい日差しの日で曙橋の上に立ったら、まるでカサブランカの真昼にいるようであった。北に向かって歩いていくとその先に巨大なモスクがあってその先に大西洋の荒波があるのだ。そこからさらに1,000キロほど北に行くと私の好きなポルトガルのリスボンなのである。

橋の上から見ると直角に交差する下のストラーセは不思議なことに無人である。自衛隊に通じる道路なので戒厳令でも発令されたのかなと思った。
見ているとそこを女の人が斜め横断をしている。世界中で先進国の斜め横断はよく見るが私が見る男女別の確率では90%が女性である。それも自分に自信がありそうな綺麗な人が多い。どうもしぎなものである。

Facebookにその様子をアップしたら出雲在住の呑川さんのコメントでは10年ほど前に中学生がわざと社会に反抗するとかの理由で道を ななめに渡っていたりしたそうである。

それで私が思い出したのはカイロとかハノイの大通りの渡り方である。
あそこら辺は車は人が渡ろうとしても別に速度は落とさない。そのかわり車と人間がうまくシンクロしてその間の隙間をダイナミズムに積分計算をしながら歩くのである。

私のようなこういうクラシックな大都会に初めて来た人間は非常にびっくりさせられた。
でも彼らの道路の斜めの渡り方を見ていると車の動態予測をちゃんとやっているのである。それで私も信号機を使わないで大通りを通るときに最初は初心者だから彼らにくっついて道を斜め横断の練習をした。

1週間ほどこの訓練を受けるとちゃんと1人でも大通りを斜め横断できるようになる。

カイロの街の場合は何しろ数千年前から自然発生的にできた袋小路とか行き止まりとか私の好きなタイプの道がたくさんある。

そこにエジプトの近代化が押し寄せてきたときにえらいお役人がおそらく地図の上に定規でまっすぐに大通りの線を引いたのである。
そこで何が起こるかと言うと私が楽しんで路地裏のそのまた裏などで通行人や猫を撮影しているとその裏がいきなりストラーせになったりする。
普通の大都会のセオリーではこういう事は絶対に起こらない路地裏の裏が表通りと言うトリックがそこには存在する。

それで1世紀前にできた新しい道路を渡るときにはもちろん横断歩道なんかなかったりするから交通がかなり激しくても通行する車の動きを予測して斜め横断をした。

2017年5月28日 (日)

ライツ ライカカメラ および其の付属品定価表 昭和十一年十一月

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もう四半世紀前になるが四国かどこかのお医者様から貴重なライカの戦前の資料の寄贈を受けた。

その方はライカを買おうとしてすべてのカタログ等を取り寄せたが結局は買わなかったということであった。それでもう見ない資料を丸ごと私に送ってくださったのである。だからライカの雑文を書くときにはこの四半世紀以来非常にお世話になっているのはこれである。

昭和11年11月発行の定価表を眺めてみるに、 50ミリエルマー付きのライカD3は580円だった。
大変高価なカメラである。
当時の労働者の月給はちょっとわからないが林文子が同じ時代の小説で書いていたのを思い出す。その小説の中の働き手の月給が40円だった。昭和11年の月給40円が高給であったか安給料だったのかはちょっとわからない。

月給40円と言うのはそれよりもずっと前の時代つまり明治の終わり頃には正岡子規が自分の墓碑銘に書かせたのである。それも月給40円であった。だから明治の終わりと昭和の初めとでは貨幣価値がずいぶん違うと思うがどのような価値を持っていたのであろうか。

それでも当時のライカカメラは月給の15倍したわけである。
今の時代の勤労者の月給がいくらか私は知らない。でも仮に月給500,000とすると7,500,000円と言うことになる。それに比べればライカスズメが欲しがっている最新型のライカデジタルカメラ等は1,000,000円だから安いものである。
ライカの大衆化と言うのもここに至って極まったと言うべきだろう。

愚考するにライカカメラはそれがフイルムであろうとデジタルであろうと、やはり長い時間付き合うと言うのが本当だろうと思う。
周りの皆さんを見てみるとライカ最新型が出るとすぐ買い換えて下取り価格が良かったなどと喜んでいるがこれはライカ使いとしては誰かに精神を売ってしまったと言う感じがして残念だ。

私の知っている中で数少ないライカの精神がわかっている人にマンハッタンの怪人チョーセイさんがいる。彼が持っているライカは二台だけで10年ほど前に出たライカM8と父上が使っていたライカの戦前モデル。
これだけである。
チョーセイさんはそのデジタルライカに50ミリf 1.0ノクチルックスをつけっぱなしにしていて外には交換レンズを持っていないのだ。
まずライカ使いの鏡と言うべきであろう。

戦前のライカ関係のカタログは全てドイツで印刷されたものだ。
それでカタログの左下もしくは裏の角に印刷された年月と印刷数が表示されている。これは1936年11月に15,000部印刷されている。

2017年5月27日 (土)

オプラレックス愛好会 会員二名

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フォカというのはフランスの有名な光学機械メーカーであってフランス海軍がその35ミリレンジファインダカメラのアウトフィットを軍用カメラに指定したにもかかわらず、いまひとつ人気がない。思うにその存在が非常に際立っているので、ライカに飽きた人間が最後のわがままの行き詰まりでフォカに手を出すと言うようなことになるのである。

黒田慶樹さんがご結婚なさった頃であるから10年以上昔のことになると思うが
当時黒田さんから質問があった。フォカの1番明るいレンズオプラレックスと言うのはどういう描写なのですかと言うのである。

私は以下のようにお答えした。
レンズの描写に飛び抜けた進化と言うのはありません。オプラレックスがどのような性格の描写をするレンズであるのかということを考えるには、他社のレンズの時間的な歴史のスケールを考えること、もう一つはそのメーカーの時間スケールを考えることである程度想像することができます。でもベストアンサーは自分で実際に使ってみることだと思います。

簡単に言ってしまえばフランスのオプラレックスはズミタールレンズの後、同時にズミクロンレンズの手前と言う過渡期の描写をします。

その勢いがついて黒田さんとオプラレックスレンズ同好会と言うのを結成した。
会員は私と黒田さん2名のみである。黒田さんは超有名人であるし私はカメラメーカーのブラックリストに載っているような人間であるから、公安の偉い人がこの2名の通信記録を調べていてこの怪しい団体に興味を示しているかもしれない。
2名いればカメラレンズ等共謀罪構成要因になるのであろうか。

オプラレックス愛好会はそれ以来何の活動もしていないが活動していないと言う事は現在地下に潜伏していて、将来に向けてけしからんことをすると言うのでカメラ公安調査庁関係はマークしてるかもしれない。

フォカと言うカメラは初期型モデルがスクリューマウントであるから簡単にアダプターもできて他のカメラに流用できたが、ユニバーサルになってからは非常に特殊なバヨネットマントになってしまった。

私の知り合いのマウントアダプターの専門家がフォカユニバーサルのアダプタを作ろうとしてずいぶん苦労したが結局作れなかったそうである。思うにこれはフランスのエスプリとその頭脳が海外に流出するのを防ぐ手立てであったのであろうか。

であるからフォカのその優秀オプラレックスの描写を知るためにはオリジナルの本体を使う以外にはないのである。

フランス万歳!!

2017年5月26日 (金)

GR

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GRは歴史そのものである。
最初は28ミリのレンズが固定されたフイルムカメラとして登場した。
あれは 20世紀の末の話だったかしら。

実に大昔の話であって当時のフイルムのコンパクトカメラは各社申し合わせたようにパノラマ機能というのが付いていた。
単に画面の上と下をちょんぎるだけなのであるが、そういう意味不明テクニックが流行だったのだ。
今のデジタルカメラの時代の機能の流行も5年10年経ったらお笑いになるかもしれない。

開発のコンセプトは28ミリのレンズが優秀でそれは一眼レフの28ミリレンズと同等と言う目標があった。
私はそれがちょっと変に感じた。
28ミリレンズのスタンダードと言うのはライカマウントのものだと思っていた。だからどうせならライカマウントのレンズも出したらどうですかなどとリコーにサゼッションした。

その私のサゼッションを聞いてくれたかどうかは別として、実際にGR 1の28ミリレンズがそのままライカマウントで発売になったのだ。でも最初は紆余曲折があって試作品のスクリューがカメラにちゃんと入らなかったりした。何かネジのピッチをインチとセンチで間違えたと言うような関係者の話があったが真相はわからない。

当時はまだプロの世界でも特にドキュメンタリーの世界ではライカでフィルムというのがメジャーであったから限定と言うことも手伝って、このGR 28ミリレンズは非常によく売れた。
私の周囲の国際的なグラフジャーナリズムで活躍する写真家も愛用していた。

ブランドとしてのGRと言う名前をどういう理由でつけたのかということをリコーの偉い人に聞いてみた。これは企業秘密に属するだろうから私などには教えてくれなかったが愚考するにグレードリコーの意味ではないかと考えた。大昔のプロレスラーのリングネームみたいでなかなかいいと思う。

GRレンズと言うブランドは個性的である。やはり以降の生え抜きの人はリケノンと言う名前を使いたかったようであるが私がサゼッションしたのはリケノンだとアマチュアの大衆レンズのブランドが定着しているからそれは損ですと申し上げた。

コンパクトカメラそしてコンパクトデジタルカメラがプロの道具として認知されるようになったのはこれが最初であった。

フィルムカメラ時代には私はライカエム5を使っていたからそれと同じようにカメラ本体をストラップで縦につるのが良いのではないかなどとサジェスチョンした。それはその通りになった。

私の場合はそれからすぐにこういうカメラはポケットに入れてしまって外からはカメラが見えないようにするのは良いのではと考えた。

これがいわゆる「GRストラップレスアナーキスト同盟」の始まりである。
文芸評論家の福田和也さんなどが私のこの遊びに協賛してくれて歴史的に有名な「福田組あの写真部」などを作って東京じゅうを午前10時から飲み歩いていたのも今となっては懐かしい。

北京の新華通信社が主催して中国のプロの報道写真家のフォトコンテストの授賞式に審査委員長で出席したことがあった。非常に巨大なセレモニーであってびっくりした。私が選評を述べるとそれがすぐ中国語に翻訳されると言うような次第だった。

これは晴れがましい席に呼ばれて私も偉くなったなどと浮かれてうきうきしていたのであるが、それから数年後になぜ私があのような晴れがましい席に呼ばれたのかがわかった。

北京の公式行事では乾杯をしてマオタイのような強い酒を飲むのである。
同行した日本の会社の偉い人は紳士であるから強い酒は強くない。それで私はいわゆる人間の盾として使われたようなのである。つまり私がグラスを干すとその後にアルコールはあまり飲めない人が隠れるという具合である。

私はちっとも迷惑ではなかった。面白いのは北京などでは強い茅台酒のグラスを重ねるとこの男は立派な人物だということになるらしい。
吉田健一のエッセイを読んでいたらそれがソ連のレセプションでウォッカを立て続けに飲んだので認められたと言う話もあった。
どうも吉田健一さんの事は別として私の場合は単なる酔っ払いである。でもGRのことで20世紀末を思い出すとあの時の北京の新華社の茅台酒の連続暴れ飲みを思い出す。
やっぱりGRはいいと思う。

2017年5月25日 (木)

ギャラリーバウハウスの写真のある生活

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ギャラリーバウハウスで写真のある生活とタイトルされた写真展が今日から7月29日まで開催される。
バウハウスのレアなコレクションのほかに現存作家のプリントは即売で展示される。
入場料は徴収されるがコンビニでガリガリ君を買って食べるよりもはるかにあなたの頭脳はクールになるはずである。

展示写真家の中に私がザルツブルグのワークショップで写真を教えた吉村 朗が含まれているのが嬉しい。吉村は1980年にザルツブルグで最初に会った時は変な奴と言う印象だった。ザルツブルグ中央駅で迎えに行ったら初対面の私に英語で挨拶をしてきた。その後吉村はどんどん頭角を現して今の私の中の写真番付ではロバートフランクと同じクラスと認識しているのだ。

物故作家の中で私が思い出が深いのはジャックラルティーグである。
1985年であったと思うがカメラ雑誌の取材でパリのラルティングに会いに行った。奥さんが出てきてジャックは今散歩に行っているからと言われた。エントランスで待っていたらふかふかの白いセーターのジャックが戻ってきた。元気な彼は当時すでに80は超えていたであろう。

だから私の記憶は1985年の晩秋か初冬であったことになる。ライカについて話題が沸騰したのは私が取材ように持参したのが戦前のD2であったからだ。ジャックの写真を始めた時にライカは既にこの世に存在したであろうがそれは当時最新型のD2であったのだ。
その時使っていたレンズは今と同じジュピターの木星玉なのである。つまり私の機材が半世紀全く変わっていないと言うことになる。

撮影はすぐ終わって、彼の写真芸術の話をちょっとだけ聞いてそれから雑談になった。
実はこの雑談の小一時間が私にとって非常に貴重な体験となったのである。

ジャックは自分のアルバムを取り出してきて自分の幼少の写真を見せてくれた。そして私がその場で撮影したポラロイドSX 70のプリントをその写真の脇に置いて彼の右手の人差し指と中指でその2つの写真を指し示してくれたのだ。
こういうのは言葉などは必要ないから私はその場ですかさずポラロイドで写真を撮った。あと彼の居室に並んでいるクラシックな品物をたくさん撮らせてもらった。

1,982 ー3年頃であったか、某ギャラリーの企画展で神田神保町の質屋の蔵の中でグループ展をやった。それはもともと蔵であったのだが後に活版屋さんが活字を収蔵するところになったのだそうである。私は大きな額縁にラルティーグとの対談を10点位のポラロイドの作品で構成して展示した。
当時思い切って100,000円の値段をつけたのだが作品が売れなかった。私はだらしがないのでその作品をピックアップしに行くことがなかったので今はどっかに行ってしまって行方不明である。

カメラトークの後半でラルティングは私に彼が愛用のライカM2を見せてくれた。それは二台のクローム仕上げのボディーだった。一眼レフはペンタックスを使っていると言う話だった。

私はいろいろいいチャンスがあって世界的な写真家と会話を交わしたことが多くある。しかしこの時は雑誌の取材であったから写真芸術についておざなりの質問をしたけれども、それは本来立派な写真評論家のやることであろう。
本物の大写真家は皆さんシャイだから自分の写真芸術については語ることがない。
しかし彼らは好きなカメラの話になると止まることがなくなるのだ。

その意味でカメラのある暮らしも写真のある暮らしもどちらも同じ位大切なのである。


2017年5月24日 (水)

ニコンエスマウント5センチのF2いーな

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ライカエム型の場合ズミクロン50ミリのF2が業界のスタンダードと言うことになっている。
それより明るいf 1.4 は特殊レンズと言う趣がある。レンジファインダ時代のニコンはその逆であって当時のライツが 1番明るいレンズのエフ1、5の時代により明るいf 1.4を目指していた。

歴史的な名著である「明るい暗箱」などを読んでいると当時の開発者関係者はニッコールの5センチf 1.5無理矢理改良してf 1.4として世界で1番明るいレンズにした苦労話がある。それは冒険的であって非常によろしい。

しかし収差は取りきれていなかったようで逆に 1・4ニッコールは個性的なレンズであった。 5センチf 1.4のレンズを1メートルの最短距離で絞り開放でポートレートを撮るのである。収差が残っているから印象派めたなかなかいい画像になってそのマイナスポイントが逆に作用してこのレンズの人気を高めたのであった。

当時のコンタックスを見てもライカを見てもレンズのラインナップと言うのは標準レンズは明るさが2、8なのである。それでF2のレンズは明るいレンズでf 1.5とかf 1.4のレンズは最高の明るさを持つと言う市場構成になっていた。

ところがニコンカメラはそうではなくて明るさf 1.4を標準に据えたのである。これはすごいことであった。
ところがそれから60年以上の時間が経過して手元にある5センチF2のレンズを手に取ってみるとなかなか様子が良い。
まずフィルターが40.5ミリなのでコンタックスのゾナーなど共用ができる。
重さもやや軽量である。
絞りF2で室内をとってみたら当然のことながらちゃんと映る。これが明るいf 1.4になると私のような昔人間は構えてしまうのである。

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2017年5月23日 (火)

ウエルミーワイドの時代今も

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昭和30年代にレンズシャッターのシンプルなカメラに35ミリの広角レンズを装着したワイドカメラのブームがあった。当時のうたい文句は広角レンズ1本の値段で広角レンズ付きのカメラが買えると言うものだった。
これはかなりトリッキーな言い方であって正しくは交換レンズが使えるカメラを持っていてそれに広角レンズをつけるのが正しいやり方なのである。

でもこれから高度成長が起きると言う時代の背景であるからカメラは1台よりも二台のほうがゴージャスと言うポイントでこれが市場に訴えたのであった。

そのパイオニアはオリンパスワイドであった。その後各社が競争するようにいろいろなワイドカメラを出した。このウェルミーワイドはその戦線の1番最後に遅れてきたカメラである。
レンズはほとんど知られていない35ミリのエフ3、5であるしシャッターも初心者向きの300分の1秒まであるやつだった。
当時のアマチュアカメラマンは今のデジタルカメラおたくさんと似ているから、実際に使いもしないのに精工舎やコンパーラピッドは500分の1秒までないとダメだなどと言っていたのである。

私が最初にウェルミーワイドを求めたのは高田馬場の鈴木商会であった。値段は記憶していないが最初からキュリオシティーなカメラを買うつもりで手にしたのである。

1973年から80年までのwin滞在に出発する直前になんとなく気まぐれでウェルミーワイドをテストしてみた。テストしてびっくりしたのはその写りが異常に良いのである。といっても中心部がシャープなだけで周辺はレンズの性能なりに衰えていくのである。でもすごいと思った。

実際にwinに持参したのは明るさがf2のレンズがついたオリンパスワイドスーパーであった。それから何十年か経過して偶然の機会からウェルミーワイドを二台手に入れた。

数年前の偽ライカ愛好会の秋の撮影でこのカメラを持っていった。場所は千住の夏祭りというか秋祭りなのである。がらんとした路上にちょうちんが並んで空は初秋の雲が青空に浮かんでいる。簡単に言えば日本の懐かしい風景の原型を見たと言うわけだ。
その作品を日本カメラの連載に掲載した。

知り合いの一級建築士がこのカメラについてコメントしてくれたのが面白い。我々の世代だと何か奇をてらったキンキーなカメラデザインであると思っていた。ところがそれから半世紀以上経過してみると一級建築士の鋭い目はこのカメラのデザインを高く評価しているのである。

カメラとしては高級品では無いから部品の作りがなんとなく安っぽいと言うふうに半世紀前にを感じた。つまりあらものやで売っている鍋やブリキのちりとりの感じなのである。
ところがあれから半世紀経過して実際にカメラを手に取ってみると金属製であることにびっくりした。つまり周りのカメラがプラになってしまったので多少当時は仕上げの悪かった金属カメラが二階級特進アップグレードされてしまったわけだ。
赤瀬川原平さんが予言していた金属人類学入門が、ここに予言のとおり成就したわけである。

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2017年5月22日 (月)

偽ラの熨斗袋

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ライカ愛好会と言うのは最初に渋谷の東急文化センターか何かで私が教えていた講座の名前である。
建物が建て替えで会社が多摩川のほうに行ってしまったので、出かけるのがめんどくさいからその講座を止めたのである。そしたら有志が個人的に同じ講座を作ってくれた。しかし同じ講座では間違いが起きるので偽と言う文字を1文字加えたのである。そして既に10年が経過した。

毎月1回メンバーが世話役になって撮影会を企画するのである。だから東京の方々ありとあらゆる場所に撮影に行った。貴重な体験だった。

このところちょっとお休みしていたのであるが私の写真家生活50年と70歳の誕生日をメンバーが残念がってくれると言う企画があって、横浜の北部の海岸線を歩いた。
もとの海岸線で浦島太郎が亀を助けたポイントなど歴史的な重要ポイントを歩いた。
6年ぶりに撮影して歩いた。これは歴史的事実であって例えて言えばウォータールーの戦いでウェリントン将軍がどっちから来たのかと歴史学者が検証するのと同じことなのである。

JR大口駅のそばの無人のシャッター街でカメラ店だけが2店開店していて焼鳥屋だけが開いていると言うフェリーニの映画に出てきそうな場所も楽しんだ。

それで反町の真ん前にある中山飯店と言う中華屋さんで大宴会となった。
ライカM2の新品と山のようなトライエックス直期限切れをプレゼントされて70爺は大喜びであった。

ところが私を祝ってくれた偽ライカ悪の枢軸の面々には、法律が成立したばかりの共謀罪の疑いもあって上の証拠写真に示すようなのし袋をくれたのである。

意外な展開であったので嬉しかった。
これが羊羹の箱であったりしたら突きかえそうと思っていたのである。
のし袋のような形態の日本独特の包装を受け取ったのは思い返してみると1968年以来なのである。それはニッコールフォトコンテストの特賞を取ったので賞金ののし袋を授賞式の時にもらったのであった。

亡くなった佐藤明先生がニッコールクラブの重鎮であったので直接手渡していただいた。こっちは大学生であるから感激だった。その賞金の50,000円に18,000円を足して須田一政さんからフォコマートを購入したのである。
これが私が間違って写真家の第一歩を踏み出した最初の時点であった。
であるから実に半世紀ぶりにのし袋をいただいたと言うことになる。ありがたいのでお仏壇に飾ろうと思ったが家には仏壇がないので家人のピアノの上に安置した。

紙袋に装飾が付いていて中に何かが入っていると言うので思い出したのは南方熊楠の書いた民俗学的な1文で、「山の神おこぜを好む」というのがある。
これは紀伊半島のほうの伝説そして民俗学的なストーリーなのであるが山の神と言うのはおこぜをこのむ。で村人は山の神にお願い事をするときにオコゼを見せるからこれこれの願い事を叶えてほしいとお願いするのだそうである。
しかし山の神よりも人間の方がしたたかであるから、本物のおこぜは見せない。おこぜは干物にしてあってそれを奉書で包んであるのである。それで山の神に願いを聞き届けてくれたらこの紙を破って中のおこぜを見せてやると言うのだそうだ。それでオコゼを簡単に見られては困るので奉書を何枚も重ねて分厚い紙包ができてしまう。それが何百年も伝来されるのだからその真ん中にはおこぜが入っているかどうかもわからなくなるそうである。

その説話を思い出して面白かったのは私は写真家としての山の神である。
偽ライカ愛好会の皆さんは村人である。そして村人が私にもっと写真を撮ってくれと言う指示で紙に包んだオコゼを見せるわけである。

だからこの民俗学的な神と村人との契約関係ではのし袋を開けるとすべての契約が反故になると言うわけだ。そう思って見ると日本の伝承と言うのは何か旧約聖書と通じるようなところがある。これは契約なのである。
それで副賞としてもらったのが真新しいライカエム2のカメラとさらに大量の期限切れのトライエックスをいただいた。ライカと期限切れのトライエックスの出所は私も大体見当がついている。期限切れのフイルムは非常にありがたい。巨匠ヨセフスデクはわざわざ期限切れのフイルムをプラハの専門店で買っていたからだ。

2017年5月21日 (日)

天狗の団扇のつかいかた

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OROLFはライツの迅速にレンズ交換ができる3本ターレットの装置である。非常に巧妙にできていてライカの底蓋と交換して使う。装置の背面は三脚の蝶ネジの流用だと思われるが非常に似たものが付いていてそれを回転させてレンズ交換をするのである。蝶ネジをちょっと回転するとまずレンズのロックが緩んでターレットの全体が前に出もうちょっと回すと120度ターレットが回転する。そして蝶ネジを反対方向にしめると完全に固定されると言う、これはドイツ人にはかなり頭の良い人がいると言う証拠である。

その生産数がたった250個しかないにも関わらずライカ人類はこれに興味を示さない。私は2つ持っているがもちろんもうこれ以上増やすつもりはない。

当時のこの日本で言うところの、てんぐのうちわなのであるがそれの細かいインストラクションを見ていると使えないレンズが当時のものとしてもたくさんある。レンズの下の部分が直径が大きいとぶつかってしまうのである。さらに使えるレンズでも調整のために本社に遅れと言うなことが書いてある。

実際に使ってみると皮肉なことだが非常に使いにくいものである。だからこれに広角レンズ標準レンズ望遠レンズをつけるとそれが明るいレンズであったりするとレンズだけで大変な重さになってしまって持ち歩くのも嫌と言うことになる。

このターレットの1番正しい使い方と言うのは1つしかない。レンズを最小限にすることだ。例えば35ミリと50ミリとか、50ミリと90ミリ、さらには50ミリと135ミリそれもソ連製のアルミニュームの軽量なレンズが良い。

でもこの魅力的な付属品を完璧に使いこなすにはレンズ1本だけつけて使うのがベストなのである。そしたらレンズ交換をする意味がなくなってしまうではないかとあなたは言うかもしれないが、このデバイスの魅力というのはそのデザインにあるのだ。だからレンズは1本だけにしてデザインを楽しむと言うのが逆説的ではあるが1番正しい。じだいが違うけど南坊録に出てきそうな名物なのである。この使い方と言うのはもちろん私の個人的な意見ですよ。

«これからはこれが私流(主流)になる モメッタスーパーワイド

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
2017年5月
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