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ロック ユー

🇻🇳CT70計画 6/10大集会 と 私家本ウインの写真集のこと

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2017年は私がライカを使いだしてちょうど50年にあたる。それ以前から仕事はしていたが写真の面白さに気がついたのは1964年の東京オリンピックの時である。
現在パリで5月5日まで開催されている私の写真展はタイトルが東京1966とあるのもこの時代の仕事である。

振り返ってみると半世紀写真を真面目にとっているのでその間、進路がぶれると言うことがないのは我ながら手柄だと思っている。

それで私の通っている唯一のカメラ店つまり四谷荒木町の我楽多屋さんの二代目さんが中心になって、悪の枢軸を結成した。
私の写真家生活半世紀を祝ってくれると言うのである。実にありがたい。
それで我楽多屋さんの常連さん、ばかりではなく何時もこのブログでお世話になっている皆さんとかそのお友達とかつまりあなたにぜひ来ていただきたいのでブログでご案内することになった。

期日は6月10日の夕である。詳しくは左のリンクをクリックしてください。

今回企画の中で1番面白いのは私家版の写真集を出すことにある。

私は今まで百二十五冊以上の書籍や写真集を出しているがそれらは取次店を通して流通しているものである。ところが今回はそうではなくて私家版なのだ。

私が仕事を認めている写真家の加納さんが私がアトランダムにネガの箱から掴み取った49本をチェックしてセレクトしてレイアウトして写真集を作ってくれることになった。

私家版と言うのはいろいろあるがその極北はニューヨーク近代美術館で見たロバートフランクの1連の私家版の写真集だ。
あれはオリジナルプリント張り込んだ限定の1部である。
フランクがあちらで学校を卒業する時恩師のアレクセイ ブロドヴィッチに献呈した写真集がある。まだ写真学生らしい初々しさが伝わってくる作品集だ。

フランクのその次の私家本の写真集は「ブラックホワイト&シングス」と言うやつだ。
ニューヨークの近代美術館で私はこの2冊をあまりに頻繁に借り出すのでミュージアムは不審に思っていたようである。どちらも稀覯本で鍵のかかるロッカーに入っていた。だからこの2冊のフランクの私家本写真集には私の汗とか指先の脂がわずかについているはずだ。

そういう大先輩を真似して今回の写真集はwinで撮影した未発表作品を加納さんが選んでくれた。
楽しみなの私もこの写真集は6月10日の本番まで見ることができないことにある。今まで自分の本は自分自分で構成していたので自分の作品集なのに見れないと言うところが何かワクワクする。
まあ、一種の生前葬だな。

それで思い出すのは60年代後半の伝説となった「プロボーク」のことだ。今は復刻版が出てオリジナルが天文学的な数字らしいが、これが出た頃は実は売れなくて私もこれを出版した写真家のシンパの人から売りつけられた記憶がある。確か値段は1,000円位だった。

森山大道さんの最初の写真集「日本劇場写真帳」は鎌倉書房から出ているがこれも出版当時は売れなくてこっちは森山さんのお弟子さんからかわされた記憶がある。
いずれの出版物も今では私の宝物だ。

winの写真集は今回の私家版が4冊目になる。しかし最初の写真集は売れに売れて40000部でさらに増刷がかかった。今回の本は100部くらいではないだろうか。
出来上がったばかりのwinの写真集を肴に四谷でいっぱいやろうと言う趣向である。

銀座八丁庵 店主敬白😎
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❤️
おかげさまで6/10のCT70計画は早々に定員に達しました。ありがとうございます。今日のコミッテイからの連絡ではホテルとの折衝で、会場をひろくしてもらい若干の追加募集をするそうです。どうぞよろしくおねがいします。

2017年4月24日 (月)

ギャラリーバウハウス稲垣徳文展でアジエに大接近

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土曜日の夜にギャラリーバウハウスで稲垣徳文さんの個展のトークがあった。私と野々宮さん、芦原さんも参加した。この3人はこの間パリで私の写真展であれやこれや言った連中だ。

野々宮は50年前のパリ製のダブル8のカメラ、カメックスを持参してそれでパリを撮影したのである。しかしフイルムが手に入らなかったのでものすごく期限切れのコダクロームで撮影した。今はコダクロームはモノクロなら現像ができるそうだ。
パリをモノクロで撮影するなどはいかにもクラシックで良いと思う。

芦原のほうは大判カメラを持参し、ものすごい距離を移動して撮影した。彼の撮影のスタンスは東京でも変わらなくてすごくエネルギッシュなのである。実に頭が下がる思いがする。

芦原の撮影は今回トラブルがあって1部のショットが二重露光になっていたそうだ。要するに初心者的な問題であって撮影済と未撮影のフイルムをダークバッグの中でごちゃごちゃにしてしまったのである。

私のような手練になるとそこら辺は絶対間違いはしないからダークバックの中の空間世界を最初から分離している。例えばダークバッグ世界の右では未撮影で左手は撮影済みと言うふうに頭脳の中で最初から世界を分離している。

しかし彼のアップした二重露光画像を見てみるとそんなに悪くは無い。
表現上で二重露光にしてそれを発表した事は私もあるがトラブルで二重露光になってしまったのが編集者の目に留まって、それが書籍の表紙になったものがある。
それは新潮社から出た「屋根裏プラハ」と言う本の表紙なのである。

話は戻って稲垣さんのトークは超満員であった。
日本経済新聞などに紹介がが出たようである。すごいことであると思う。なかなか力の入った講演会で100分ぐらいの長さがあったが退屈しなかった。

アジエの仕事の紹介をパリのそれぞれの街区に分類して1区から順に説明をして元の作品と自分が今回撮影したのを対比して見せてくれるのは面白かった。

要するにパリと言う街は100年ほとんど変わっていないと言うことがこれでわかる。身近なアジエであるが今年が没後90年になるそうだ。
パリの10区の仕事を紹介した。私は10区の大ファンなのである。泊まったホテルも十区であるし毎日通っていたサンマルタン運河もそうである。
アジエの作品を順繰りに見せてもらっていていきなりサンマルタン運河の先日あたしが毎日座っていたベンチからのショットが登場したのにはすごくびっくりした。

要するに私が座っていたベンチの数メートル先にアジエが三脚を立てて外で撮影したのである。運河から上流を見て眼鏡橋がある所のショットだ。最初は別の場所ではないのかと疑ったのである。その理由は両岸にマロニエの木がほとんどないか、小さいからであった。

しかし100年前に撮影された写真である。
マロニエとクロワッサンはマリーアントワネットと一緒にウインからフランスにもたらされたと何かの本で読んだことがあるが、そのマロニエは成長が非常に早いともあった。だから100年前にアジエがとったサンマルタン運河の写真にマロニエの木が小さくてもそれは何の不思議もないのである。

それ以前のパリを記録した写真家にマルヴィルいる。その作品はパリの通りを真正面から見据えたものでしかもカロタイプの非常に大きなカメラで撮っている。それに比較するとアジエの仕事は何か気楽にとっているような感じがしてその比較が面白かった。

稲垣さんは自分で制作した鶏卵紙の制作方法も話した。
卵の白身を大量に使うので卵の黄身が余ってしまう。それで仕方ないので残った意味でフレンチトーストを作った話はユーモアがあってよかった。

1983年に私がニューヨークで大型カメラでモノクロームでマンハッタンを撮影していた時に鶏卵紙プリントを作ろうと思い立ってコダックに問い合わせをしたことがある。当時コダックはまだ鶏卵紙を製品として作っていたのだ。
ところが最低のロットが一グロスであると言うので諦めた。1箱には50枚のペーパーが入っていてそれが12箱つまり600枚が1ダースである。さらにそれの12倍だからとても使い切れないと思った。

稲垣さんの講演を聞いて痛感したのは彼が何もノスタルジーに駆られて写真を撮っているのではないと言うことだ。その正反対であって学究的な感じがする。言い方を変えるとアジエが目指していた未来の時点が今ここにあるという見方である。

このフレキシブルな時間感覚の捉え方が良い。
そこにアジエの薄味がうまくついているというのが好ましい。
翻って極東のこの町について考えてみると、つまらないことに全てが昭和情緒とか江戸情緒と言うような安もんのテレビ番組のようなアイディアが下敷きになっているのは情けない。

いってみれば東京人よりパリジャンの方が風景論を持っているということだろうか。

2017年4月23日 (日)

1,950年生のパリのカメックスのカメラケースの不思議

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パリでの滞在中に泊まっていたホテルから徒歩10分位にかつてのカメックスを作っていた工場ERCSAMを訪問した。建物は今でも残っているし当時は産業は水運、つまり船が運ぶのが大事であったからサンマルタン運河もその場所のすぐ近くにある。

それでパリ訪問記念にカメックスの最初期モデルを買った。もっともパリで買ったのではなくてeBayでイタリアのジェノバからかったのである。それが数日前に到着した。

私はこれをクリストファーコロンブスのエステートであると勝手に命名しているが、到着したカメラはイタリア人の梱包の癖をはっきり表していてカメラの皮ケースをそのままプチプチで包んだ荷姿であった。

これはやられているのではないかなぁとドキドキしながら包装を開けてみたら皮ケースがしっかりしているので別に何のダメージもなかった。

その皮ケースを見て私は惚れ惚れしてしまった。
ライカのケースにしても50年代後半のやつはダメである。ボロボロに風化てくるのだ。

もともとカメラの皮ケースと言うものはそれが50年以上も使われると言う事は最初から想定外のことのようである。私が持っている数多くの皮ケースの中で1番しっかりしているのはイタリアのレクタフレックス用の革ケースである。これはまるで先月作られたと言うようなフレッシュさである。

このカメックスの最初期モデルは1,950年生だ。だからすでに70年近く経過しているのにその皮ケースはまるで去年の今頃作られたと言うようなフレッシュさなのである。

届いたダブル8-8ミリカメラで実際に撮影することがなくてそれはドアストッパーがわりに部屋の中に置いておくだけであるが、こういう立派な革ケースが一緒に来ると非常に嬉しくなる。しかもオリジナルの取扱説明書付。

2017年4月21日 (金)

38口径マグナムより45口径マグナムが良いそうです

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パリのインビツインギャラリーでフィリップと言う紳士にあった。写真評論家だ。
雑談をしていたらさっき日本料理店でランチを食べてきたがそれがいいから行ってみろと言うのでお店の名刺をもらった。「海」と言うお店つまり らメール である。その名刺の表のカリオグラフィーがいいなと思っていて記憶に残った。

東京に戻ってから家人に話を聞いたらドビッシーの「海」と言う曲のことをテレビでやっていて大作曲家がインスピレーションを受けた文字と言うのが私がパリでフィリップと言う人からもらった名刺の表面にある文字と同じであったそうだ。
こういう話は非常に面白い。

そのフィリップさんと写真芸術は語らなかったがパリの最近について雑談していたら、いきなり私に向かってナントカカントカをもっているが、今見るかと聞かれた。
外国人同士の英語だからそれが何かよくわからなかった。

立派な黒いナイロンケースから出てきたのが黒光りする38口径マグナムなのである。スミス&ウェエッソんか。
トリガーが引けないようにないように厳重なロックが付いていてそれを外して見せてくれた。
私はwin時代ちょっとだけ射撃の経験があるので、基本的ルールは知っている。
射撃場では実包が入っていなくても、銃口は絶対に人に向けてはいけないのだ。だからこのようなスタイルが定番である。

ちょうどラリークラークの傑作「タルサ」に出てきたレボルバーを持った青年を思い出した。こういう場合はオートマチックではダメでやはりレボルバーなのである。
稲垣タルホも彼の作品で、自殺する直前に赤ワインをいっぱい飲んでその脇には装填したレボルバーが置いてあると書いている。

それで、拳銃のいろいろな話に私の話したの小学校の行き帰りの交番で勤務中のお巡りさんにピストルを見せてもらったことである。
当時はそういうことができる時代だった。おまわりさんの持っているのは45口径のレボルバーでこれは軍用だから殺傷能力がありすぎて町中のポリスには実は向かないのである。
引き金を間違って引かないように小学生の持っている消しゴムのような形のゴムがトリガーの内側にぴったりはまるようになってそれで抑えられていた。

時代がずっと降って1,970年代の後半に山下洋介さんがトリオと一緒にwinに演奏に来たときに一緒にワインを飲む機会があった。その時に私のウインの友人でズデーテンドイツ人が拳銃のコレクターなので山下さんをそこにお連れしたら大変喜んでくれた。
そのドイツ人の持っているライセンスと言うのはポリスのようにピストルを外に携帯して持ち歩けると言う種類のものであった。物騒な話である。

いろいろな拳銃を見せてくれた後に最後にそのドイツ人はルガーの銃身だけと言うピストルを山下さんに見せた。
それはドイツ軍の将校がブーツの中に隠し持っていざという時に銃身を取り出していっぱつだけたまが出ると言うものなのである。これなどをエクストリームですごいなと思った。一枚どりライカだな。

後年日本に戻ってから山下洋輔さんの著作の中にその時の話が掲載されているのでびっくりした。

それでそんな話をしてからパリのフィリップさんに1番好きな銃はなんですかと聞いたら、これが45口径のマグナムなのだそうである。45のマグナムはウインの射撃場で隣の人が撃っていたがものすごい迫力で重厚
銃口の先に大きな花火が出るような感じなのである。まるで両国の川開きのようであった。

ピストルと言うものはカメラと同じで、やはり超高性能でライカのレンズでフルサイズでないとダメなのなのであろうかと、私は考えてしまった。


ミシガン1987

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20世紀後半に撮った膨大な大判カメラのスライドフィルムのストックを持っている。デジタル画像では無いからちゃんと手に取れる。これは私の重要な財産である。

これはちょうど30年前にミシガン州の商務省の仕事でミシガンを旅行したときのショットである。最初はデトロイトに降りてそこからずっといくつかの湖を越えてレイクの1番北の国境あたりまで行った。その旅程は3,000キロでは効かないからその話を地元の人にすると彼らもそんなにミシガンを旅行したことがないと言ってびっくりした。

これはそういう無数にある湖のほとりの街で撮影したワンショットである。午後の長い夕暮れの光の中にある寂れた商店のウィンドーには40歳の私が写っている。

カメラはエボニーワイドであってレンズはフジノン75ミリだったと思う。
三脚は小型軽量な大型カメラだからマンフロットのようである。実はこのショットは富士フイルムが画期的な新フィルムベルビアを出したときの仕事でもあった。
発表前のまだ秘密のフイルムでパッケージはフジカラーに偽装しているフィルムを膨大に持って旅行した。

このショットで私が興味を示したのは街角で撮った通りの斜め向かいにある白いガソリンスタンドなのである。それを写してから今度は店の角の反対側に回ってその白いガソリンスタンドが私自身と一緒に鏡の中に写っているのを撮影したという次第だ。

まぁどうでもいいことであるがそういう些細なカメラアングルの違いとか街のウィンドの映り込みなどが私の興味の中心なのだ。
わたしの好きな本、「ウォーカーエバンス@ワーク」を私が細かく見ている理由と言うのも実は写真芸術の大義名分をそこに探しているのではなくエバンスと言う撮影者の細かい撮影の癖に興味があるのだ。


2017年4月20日 (木)

マイクロSDの取り扱いに苦労する

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老写真家から老人映像作家に転向した。

と言うよりも今流行なのはいろいろなことができますと言うのを並べることらしい。
だからその意味では写真家で作家で映像作家でホーボーもやってますと言うことになる。以前あるカメラ
某メーカーの偉い人が私をさして「旅人ですね」と言ったがこの言葉は安いテレビの番組みたいで嫌いである。
旅人よりも徘徊者そしてホーボーになりたい。まずパリの10日間でメトロに乗らないという行動はその資格があると思う。
まあ、方々を見て歩けるわけです。

それで愛用しているのはもっぱらこの偽5プロである。使い方にかなり習熟してきたので面白い画像が撮れる。使い始めて10ヶ月になった。値段は5,000円で全部の付属品がついていた。すごいね。

最大の問題点はマイクロエスディーカードにある。

何世紀も前に伝書鳩を軍用で使っていたときにはいかに小さな文字を軽い紙に書いてそれを鳩に持たせるかが研究の課題であった。軍用の鳩は国策の重要なポイントであった。

10年以上前にその当時はパリでホテルのテレビを見ていた。これは中東情勢が沸騰していた時代である。その時にフォックステレビが中東で銃撃に合ったライブをやっていた。その隣のチャンネルを見たら伝統の伝書鳩の話でこれが面白かった。別に中東情勢で伝書鳩を使っているわけではありません。

メモリがこれだけ小さくなると膨大なデータが移動できる。マイクロSDメモリーを最初に目にしたのは6年ほど前にiPhone5を手に入れたときになぜか同梱でマイクロSDメモリーが入っていた。当時はそれを何に使うのかもわからなかった。

マイクロSDメモリは便利なのだがなくすリスクが非常に大きい。だから1番安全なのはデバイスに入れっぱなしにしておいてそこから出さないのに限る。

この偽)5プロの場合もカードスロットの内側にバネが仕込んであるらしく下手に取り出すとちょうど蚤がはねたようにカードが飛び出してどこに行ったのか分からなくなる。これを屋外でやったらまずアウトであろう。そういうわけでマイクロエスディーの保管場所と言うのは結局私の場合偽ゴープロの内部が1番安全なのだ。

蚤で思い出した。
蚤の市を日本でフリーマーケットというのが何故かわからない。とんでもない誤訳であろう。

2017年4月19日 (水)

神田川の時間に流れ行く風景

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子供の頃の私の行動半径は音羽通りから南に下ると江戸川橋がその限界だった。

小学校高学年になってから山吹町にある学習塾に通うようになったのでその範囲は少し広がった。さらに中学生になって行動が、さらに広がって新江戸川公園のあたりまでいけるようになった。

そっちの方面まで遊びに行くと言う形になって新江戸川公園のあたりにある肉屋でコロッケを買うなどと言う悪いことを覚えた。

この知らない街でコロッケを買うと言うのは、私の町歩きの基本になっているらしい。
例えばリスボンでも旧市街を歩いていてあの先にある川のそばのバーでコロッケをいっこつまんでやろうなどと考える。ただし少年の頃と違うのはそこにいっぱいのグラスのビールが加わることだ。
だから偉大な詩人フェルナンドペソアだって案外リスボンの旧市街を歩きながら3つ先の角にあるバーのコロッケのことを考えていない事は無いのだ。

先日、この辺つまり神田川の付近をうろうろしていて私は無意識のうちに少年時代にすでに失ったコロッケ店を自分の方向感覚として探していることに気がついて面白く思った。

この街角は私の知り合いの猫が住んでいるマンションの辺りである。茶猫横丁にも非常に近い。

知り合いの猫の兄弟は実際には会ったことがなくてFacebookで見ただけなのだがそれはそれで良い。知り合いの鳥とか猫とか犬などは実際に会っていなくてもFacebookであったような気になっている。いやそのように実際に会っているのである。

久しぶりにこの街角に立ったら自転車屋さんの手前の角地が売地になっていた。これは私の風景では大きな変化であった。そして私の好きな自転車屋さんを久しぶりに眺めた。この店には美学があってお店の日よけがほんのわずか左側に下がっているのである。
私がいつも提唱しているところの「左下りの日よけの美学」ですね。

でも親しみ馴染んだこの街角で私が1番びっくりしたのは、私が好きだったオブジェがなくなってしまったことである。
奥のほうに見える8階建ての新築マンションがそれなのだ。
かつてはボロボロの平屋建ての木造建築でそれを雨漏り防止のためにビニールでカバーしていたのだが、そのビニールが雨風によってバラバラにちぎれているのである。
その家の前に立って私はその風とシンクロして動くビニールのすだれを見るのが好きだった。これこそこの界隈の私にとっては重大な愛すべきランドマークだったのだ。
それは永久に失われてしまった。

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❤️2年前のショット。中田ぼたんかなさん提供。

2017年4月17日 (月)

パウリスタ

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友人の写真家の小松義夫さんが打ち合わせで銀座のパウリスタに行ってびっくりしたそうだ。
私もパウリスタのことを完全に忘れていたのである。今年で創業100何年とか言っているが実際には関東大震災の時に休養して再開したのが1970年である。私がパウリスタに親しくなったのはそのころのことである。といってもすでに40数年ですね。
芥川の短編にカフェパウリスタが出てくるのも思い出した。

佃島から歩き出して勝どき橋を渡って松坂屋の後に建て替えられた何とか言う、ブランド品ばかりうっている、しょうもないデパの前を通ってニコンサロンに行った。

銀座のニコンサロンはこれが移転して三つめであるが私はその 場所がわからなかったので確認に行ったのだ。
一旦銀座通りに出てパウリスタを探した。ラオックスの前は中国人のツーリストの人たちがいっぱいで北京の王府井に行かなくても済むと言うほどの混雑であった。

そのちょっと先にパウリスタはあったが実に存在が地味なので通り過ぎてしまった。
入ってみるとこれが完全に昭和40年代の純喫茶である。


客の中で私が若い人間に見えるのが面白い。隣のテーブルで話をしている先輩連中はメイドインおっぱいどジャパンの時代に仕事をしていて儲かったと言う話をしていた。それにダグラスのDC 3に乗ってアメリカに行った話などもしていた。こういう話が今聞けるのは非常にありがたい。

お店の内装の仕方はクラシックと言うよりか全然改装してないのであろうからまるで自分が20歳代に戻ったような錯覚がそこにもたらされる。
しかもコーヒーの値段がが安い。これはマークしておかなければならない。

10年近く前、銀座八丁庵、中銀カプセルタワーで仕事をしていて、銀座8丁目から中央通りをゆるゆる銀ブラをして銀座一丁目まで行きそこからメトロで家に帰ったこともあった。
しかしその時カフェパウリスタの事は完全に忘れていたのである。

佃ニュースの取材でニセ5プロで短いムービーを撮ったが、室内が静寂なのにびっくりした。銀座のど真ん中で何の音もしないのである。
これは現代では貴重だな。

2017年4月16日 (日)

時計の文字盤の読み間違いを防ぐ


プラハの時計屋さんが面白いのは初めてプラハに行った時に気がついたから1,975年頃の話だ。

プリムと言う名前のチェコ製の時計があった。シンプルな手巻きの機械式である。チェコの空軍が使っていた時計は国産のメカニズムではなくてレマニアを使っていた。だからかなり当時の貴重な外貨をスイスのメカニズムのために支払っていたのである。

それがビロード革命になってから軍用の時計も国産にしなければと言うので国内のメカを使うようになった。

実は時計を買うのは私の場合時計屋さんではなくて、昔、いや今もあるけれどもプラハ市内のあちこちにあるバザールと言う生活用品一式を売っている中古商品扱い店で買うのである。

この時計を手に入れたのは正確に覚えていないが、ビロード革命の前であったような気がする。値段も覚えていないが高価なものではない。

それを時計のガラクタの箱の奥のほうに発見して、この数年来これを使っているのである。別に手入れもしていないが機械が偶然良いものだったらしくクロノメーターなみの正確さである。

もっともスイスのクロノメーターと言うのはいくつか持っているが、私がそういう時計に親しみを感じているのはその時計が時間がずれてきたときに合わせるのが楽しいのである。
ところがこのチェコ製の時計はあまりに正確すぎてクオルツなみであるから、時間を合わせると言うことが最近ほとんどない。
これは面白くない次第だ。


旅行に行く時はオートマチックではなくて手巻きの時計が良い。朝目覚めて竜頭で時を巻くと言うのが良いのである。このチェコ製の時計はその意味で満足しているが唯一の問題点は文字盤が見えにくいことにある。

要するにトップの12と言うのが通常よりちょっと太いバーになっているから、飛行機の中なので見ると午前1時だと思うと深夜0時であったり、あるいはその逆であったりする。これは非常に困る。

それで小さなシールをこのように貼ってみた。全くデザイン的にはめちゃめちゃだが、実用の上では何の問題もない。これで時間を見誤ると言う事はなくなった。

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2017年4月15日 (土)

東京ラーメンタリー 非腕組み系

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私はラーメンの名店が嫌いである。
Facebookでも取り沙汰されているようならそこに行っただけで名誉であるとか何時間待ったとか自慢話をするのようなお店が嫌いである。

それで以前も書いたが街を歩いていていきなりであったラーメン屋に入ることにしている。
出会い系いきなりラーメンタリーです。

雑司が谷の宣教師館はどこのメトロの駅からも遠いところにあってなかなか行くのは大変である。
その雑司が谷宣教師館の隣に黒田さんと言うオタクがあってそこは普通の家なのだが奥さんがコーヒーやハンバーグを出してくれると言ういわゆる「奥様カフェ」なのである。

こういう自分の家の1部を片手間で喫茶店にしたようなものを東京中で以前探して歩いていたらその数は5本の指に満たなかった。
雑司が谷宣教師館の隣の黒田さんの家もまるで親戚の家にきたような感じで靴を脱いで上に上がるのである。

でも今ではそこはマンションになってしまった。
その工事に入る手前の右側にターキーと言う名前の中華屋さんががあった。この間歩いていたらそこが更地になっているのでアレと思った。
ところがそれは私の勘違いであって更地の隣にターキーはあったのだ。
そこでラーメンを頼んだ。値段は550円である。
この後550円と言うのは個人のお店で出すラーメンの上の価格の限界のようである。

私がラーメンを注文した直後に専門学校生らしい青年が入ってきた。彼はラーメンと餃子を頼んだ。ところが店の手順が悪いのかどうか知らないが、私が食べ終わってお勘定しようとする頃にようやく餃子が出てラーメンが出てきた。他のお客さんはいないのだからこれは手順が悪いと言うべきなのであろう。

他人の店の営業の手順を通りがかりの客である私が言っても仕方がないが、ラーメン屋さんで時間がかかると言うのはある意味で1つの貴重な体験なのである。

私の数少ない経験で1番時間がかかったのはしのばず通りの根津駅の近くにある角地のラーメン屋さんでこれはすごかった。注文してから30分ぐらいかかるのである。

視野を広げてこの半世紀ほどのラーメン屋さんに行ったそれほど多くない経験で1番面白かったのは東長崎あたりのラーメン屋さんで、入って注文したら、店主が水を沸かし始めたのである。これには感激しましたね。これが一番。

記憶で2番目にすごかったのは一年ほど前、渋谷区の私鉄の駅から降りてちょっと歩いたところにある中華屋さんでウィークデイのお昼過ぎと言うから普通は客で賑わっているはずなのに私が入ったときそれが最初の客のようであった。それで店主の顔見ると、あーめんどくさいなあ、、客が来たと言うような反応されたので、こういう店は通う価値があると思った。

2017年4月14日 (金)

サンマルタン運河のあたしのベンチ

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六本木ヒルズの仕事場を止めてから佃煮ヒルズの他には路上のベンチが私の仕事場になっている。

パリのサンマルタン運河の木のベンチもそのうちの1つだ。つまり世界中にいろいろな場所に私の椅子があるということです。

日本と比べてヨーロッパはどこも公園はパブリックなものだし、そこにすえられたベンチはさらにパブリックな存在と言う認識の歴史がある。
しかもエントランスにはちゃんとしたドアがあって公園の中と外を完全に区切っていると言うのは個人意識の表れというものであろうか。

このタイプのベンチはパリにあるベンチの中ではかなりスタイルが古い方である。その後になって構造がもっと簡単なものが作られたがやはり座りにくい。

アンリカルティエブレッソンの傑作の中でパリのチユイルリー公園でそれが誰だか忘れたが、作家が同じタイプのベンチに深く腰掛けてリラックスしているショットがあって、それが傑作だと思った。
その作家は長いレインコートを着て足をすっと伸ばしてリラックスしているのであるが、その人の属性が男性か女性かもわからないのである。
ただしその人がベンチの上でリラックスしていると言う事だけがわかる。

このベンチは 3マルタン運河の水門の前の1番背の高い眼鏡橋の前に据えられている。
だからここから運河の全部を見るとには非常にふさわしい。
考えてみれば3マルタン運河はダゲールが写真術を発明した以前から存在していた。だから風景画家シスレーが描いているのである。

シスレーの時代に座っているベンチがその当時あったとは信じがたいが、シスレーの油絵の中で似たようなアングルがあるから案外そこに座ったとは言えないにせよ、近くにシスレーがたっていたと言う事は理解できる。

今間のパリでの滞在ではここで仕事をしたと言うのではなくて、毎日決まった時間にこのベンチにやってきてそこでクラブエダムごっこをしたのであった。

このベンチはかなり貫禄がついていて、マロニエの大きな木の下にあるから鳥のフンで結構座る面が白くなっている。でもそれもカラカラに乾いているので別にその上に座って困ると言うような事もない。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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