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次回の長徳カメラ塾は1/25配信です。
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「ライカM10登場!
カメラは道具だ。カメラをお道具にしてはいけない」

2017年1月21日 (土)

雑誌のインタビューでプロ写真家にポートレートを撮ってもらった

雑誌のインタビューでプロ写真家にポートレートを撮ってもらった。Img_1560

ヘイルメリーマガジンというライフスタイルマガジンの取材を受けた。
そのインタビューの内容がミラーレスデジタルカメラなのである。私はデジタルカメラは創世記からずっと使っているからデジカメの土地の古老のようなものである。

取材スタッフはお二方である。
カメラマンはペリカンの大きなケースに目一杯機材を入れてきたのでちょっと持たしてもらったが私などは重くて持ち上がらない。

ミラーレスとかマイクロフォーサーズの話なのである。私は歳をとってきたからそういうのが軽くて良いと話しているのだが、カメラマンさんが持っているのはフルサイズの一眼レフである。だから私はその前後関係を説明した。

今は仕事はマイクロフォーサーズでも10分なのだが、ギャラが発生する撮影となると間に立つ広告代理店は高い請求書を制作するためにフルサイズのデジタル一眼デフでないと困るのである。

私も大手広告代理店の仕事をアマチュア用の小さなカメラでやろうとしたらフルサイズの一眼レフレフをレンタルしましょうかと営業の人が聞いてきたのでお断りしたこともある。

どのようなカメラを使うかと言うのは社会通念上の格付けというものである。それ以外ではないのだということがわかって面白い。

室内の撮影と物撮りが終わって私のポートレートを外で撮ることになった。タワーマンションを出れば目の前が隅田川なので撮影には便利である。

私は財界と言う経済雑誌の表紙等でたくさん会社のトップの男性ポートレートには慣れている。
それでカメラマンさんが撮影がしやすいよう自然にポーズを決めてしまうのは我ながらちょっと情けない。
それが撮影のプラスになったかどうかは別の問題である。

左側に立っているのは担当のインタビュアーの方であるがなかなか大人でカメラマンの三脚ケースをちゃんと背負っている。
こういうチームワークと言うのが雑誌作りには意外にに大切なのだ。

スタッフはいずれも30代の若人なので、まず最初お歳を聞いてそれからお話をした。それでないと話がちぐはぐになってしまうのである。

久しぶりに若い皆さんと話をしたので頭脳明晰となった。
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2017年1月20日 (金)

カメックスの研究

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40年前にwinで使った非常にクラッシックなフランス製のダブル8カメラ、カメックスの研究をしている。
研究というのは非常に良い言葉だ。宇宙開発の小型ロケットを研究してそれが失敗するのも、悪の枢軸の博士が何か世界陰謀の悪い研究をして失敗するのも、ともに世の中の役に立っていないと言う点では結果として役に立っていると思う。

中古カメラ市場の研究と言う言葉にはまた特別な意味があって、壊れたカメラには壊れていますとは書いてなくて、研究用と言うレッテルが貼ってある。これもなかなか日本語に幅があって良い。

それでこの研究用のカメックスは別に壊れているわけでは無いのだが、今手元にフイルムがないので結果としては研究用と言うことになる。
そこが奥ゆかしい。

win時代にこの1台のカメックスとズームレンズが二本、そしてプライムレンズが数本のセットがギャジットバックに入ったのを私は持っていた。
それで当時のそして今も最高のカラーフィルムダブルエイトのコダクロームで撮影をしたらその結果が良かった。

そういう記憶と言うのは大脳記憶の大事な金庫にちゃんと収められているので、今更その優秀さを再確認するという気は起きないのである。

でも自分は研究心が旺盛なので、それ用の資料をパリから取り寄せた。もっともパリから取り寄せたのではなくて、1960年にパリで出版された研究書をフランスのノルマンディーから送ってもらったのである。

カメックスの本体のほうはフランス南部ツールズに近い名前も忘れた田舎町から送ってもらった。それが3泊4日で東京の極東に到着したのにはびっくりした。
実は12月に半ばの事だがwinで注文したドイツのニッツオヘリオ真チックと言うカメラはフランクフルトから送り出したのに東京に着くまでに4週間かかっている。

これはフランスアエロポスタル社とドイッチエブンデスポストのの実力の差なのであろうか。
しかもサンテックスの大ファンである私はその愛機ライトニングでグルノーブル方面で消息をたった戦う操縦士を撃墜したドイツのメッサーシュミットがにくいと言うこともある。

到着した文献は単なるアマチュア向けのカメラの手引書である。それはフランス語で書かれているので私には非常に難解になる。だからこの場合、原書をひもといていると言い換えても良いわけだ。
ドイツ語のマニアルをすらすら読むのとは大変な違いである。


しかもその文献が学術的な自分をさらに鍛えてくれるのは、中のイラストが全部写真ではなく手書きであると言うことに尽きる。
アメリカ軍のマニュアルなどもそうだが説明するには写真ではなくてイラスト版の方が説得力がある。
一例を示すとこのカメックスにパンシナーの16ミリ用の巨大なズームレンズをつけたイラストなどが実に惚れ惚れする。

10数年間名刺を作ってないので・今度私は日本語と英語とフランス語でカメックス研究家と言う名刺を作ろうと思っている。

2017年1月19日 (木)

win時代の機材を思い出す

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20代の終わりから30代の中頃までwinで暮らしていたわけである。その当時の写真は手元にたくさんあるが、当時暮らしていたときの環境の写真というのがない。
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これはドナウ運河の広いアパートのなんにもない部屋で家人が楽譜を開いて暗譜をしているところである。ネガの前後からするとこの1本のフィルムはカロワイトでとられていたことがわかる。プロミナーは優秀なレンズだ。

モノクロームのトライエックスをスキャンしてみるとテーブルの反対側にライカらしいカメラが置いてあるのが見える。
カメラの下の部分が不自然に膨らんでいるのでこれは例のプロ写真家になりたがる連中が高いお金を投じるライカビットエムピーなのであろう。

その同じネガでテーブルの上を別のアングルで撮ったショットがあってそれを拡大してみたら正しくライカであった。
しかもライカビットMPがついている。もう1台はニコンエフである。ニコンエフを見るとニッコールのフラッシュガイドナンバーをコントロールするGN45ミリがついている。

ライカは距離計のついていないライカエム1なのだ。それに迅速巻き上げ装置のライカビットをつけている。今から見てもなかなか粋な使い方だなと感心する。これはそのままアンドwinの中古カメラ店から買った。固定式のズミクロン50もついていた。値段は忘れたが、私が買えるのだから高い値段ではない。

レンズはニコンエフマウントのニッコール2・1センチを自家製のマウントアダプターでライカにつけているのだ。

だから冷静に考えてみると半世紀前の自分が使っていた機材と現在に自分が使っている機材は全く変わりがないと言うことになってしまう。

テクノロジーがこれほど進化したのに機材の進化しないというのは情けないような気もするがでもそれで良いのだとも考えられる。

一方で半世紀前のデジタルカメラを今でも使っているという事は想像の外である。

2017年1月18日 (水)

祝!田中長徳に遭遇 ハンサム団のメモ

十数年前の事、当時流行りのネットサーフィンなるものをしていたら、いきなり私の名前が登場した。
これは当時のブログの走りなのではないかと思う。
タイトルが 「祝!田中長徳に遭遇!」

それを書いたのはハンサム団と言う人だ。思いついて検索してみたらハンサム団はたくさんある。
どのハンサム男だかわからない。

その内容が面白い。
川崎の関東カメラサービスに行った時にハンサム団さんは私を始めて目撃したのだ。
そのプロットはこんな感じである。メモを取ったわけではないのであくまで私の記憶によるものだが、多少の間違いがあるかもしれない。

ーーチョートクは早足で歩いてきて受付の女の子の前に大きな箱に入ったカメラをどんと置く。
受付の女の子曰く今日は遅かったのね。私曰く撮影が長引いてね。ーーー

ユーモアである。牛乳配達みたいだ。
これはハンサム団さんがその女の子に好意を寄せているということの証明である。
ハンサム団さんはうらやましいと感想を述べている。
これは彼が願望している「記憶の充足」なのだ。

実際にはそういう事実はなかった。
第一受付の女性の顔を私は記憶していない。社長と副社長の顔は記憶しているのである。ここら辺が証言の食い違いですね。

第一カメラの具合が悪くなって修理に行くときにそれが箱いっぱいと言う大変な数であるはずがない。
私は関東カメラサービスずいぶんいろいろお願いしたが、それはコンタレックスの改造であったりライカにストラップアイレットをつけてオーバーホールしてもらうような、そういう真面目な修理なのである。

ハンサム団さんが初めて私を見たときの印象だがこれが面白い。
想像していたよりもっとシャープな感じに見えたとある。そしてミッキーロークとかにもちょっと似ている書いているのである。
そのミッキーを知らないのでウイキで調べたら。同世代のプロボクサー上がりの俳優だそうだ。確かにごついのは似ているよな。

なぎら健壱さんのことを思い出した。
なぎらさんは本来シャープな感じの人で例えばカメラ屋さんに1人で入ってくるとテレビに出ているあのなぎらにはちょっと思えない。

いつだったか岩波書店の写真集でなぎらさんと対談した。写真が必要でカメラを向けたら彼はいきなり表情がが変わって「いつものなぎら健壱」になってしまった。


ハンサム団が私を観察した短いショットが非常に面白かったので、私は彼にお礼のメールを出した。
声をかけてくださればよかったのに残念です。と。

別に返事はなかった。
ハンサム団に呆れられたと言うところが掛け値なしの状況なのであろう。

2017年1月17日 (火)

押上カサブランカの左手

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この春にパリで写真展を中藤さんとやるわけだがそのための追加のプリントを押上のアウラ舎で制作した。 出来上がったプリントを取りに家からバスで押上に向かった。 メトロと違ってバスは周りの風景が明るく見えるのが良い。ダークルームはクリエイティブな部分があるがメトロの場合は単なる暗黒の移動手段である。 早めに押上に着いてみると非常に寒い日である。 しかし光がドラマチックだ。 亡くなった写真評論家の長谷川明と30年ほど前に東京の真冬の日差しが低いのでそれがいかにドラマチックな風景を作るかという話をしたことを思い出した。稲垣足穂も東京の真冬の朝の光を称賛している。 京島の細い道をジグザグに抜けて北に向かった。次々と新鮮な風景が私の眼前に繰り出されてくるのである。それをデジタルカメラで撮影した。 デジタルカメラは28ミリ相当の広角レンズが付いているので、私が初めて東京を撮影したときのライカに28ミリの広角レンズと自分の感覚は同一である。 路地の突き当たりに白い家が輝くように出現した。 つまり一昨年のモロッコのカサブランカと記憶と行動が二重になったのである。 反射的に自分の左手をかばおうとした。それは一瞬のことなのだが思わず苦笑いしてしまった。というのも2年前の今日に私はひどい帯状疱疹を発病してそれがようやく快方に向かったのが一昨年の秋のことなのである。 当時は左手は全くものを触ることもできないし、下げることすらできなかった。だからカサブランカ行きではキャリーバックエッチは常に右手で必要な時はものを持ち変えてやはり右手で操作するのである。 モロッコではそーゆー習慣が身についてしまったので、偽モロッコの押上のカサブランカの光景に遭遇したときに、私は思わず反射的に左手をかばったのだ。 シグムントフロイトの精神分析学でも左足を切断した人がいまだにそこに自分の左足がある感覚を感じているという一説があったがそれと逆の状況が私の左手上に起こったのである。 身体の記憶と言うのは非常に面白いと思った。 それで日曜日で休みのキラキラ橘商店街を歩いたらお店は全部閉まっていた。あいていたのが例のコッペパンのハトヤだけである。 あの撮影禁止で有名なお店である。私はもう十分にここは撮影したのでハトヤは無視してさらに北のほうに歩行した。 ちょっと遅れてアウラ舎に行ったら日曜日はカフェのお客さんで満員であった。プリントはまだできていなかった。私が日曜日と月曜日を勘違いしたのであった。それでまたバスに乗って佃に戻ってきた。

2017年1月16日 (月)

Wien 集合住宅 労働者が英雄は正しい

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winにいた70年代に私は大規模な集合住宅をよく見に行った。 1,920年代にwinは赤いwinと呼ばれている社会主義の国であった。それで大規模な住宅の不足を補うために主に街の周辺部に巨大な規模の集合住宅が作られた。 日本なら既に取り壊しになるほどの古い建物であるがwinのはもともと作りが良いのであろうか、そういうクラシックな集合住宅を今でもちゃんと使用しているのである。 これはとても偉いことだと思う。 1980年であったか世界中を巡回した大規模なウインにまつわる展覧会で「win夢と現実」と言うのがあった。その中で当時の集合住宅の代表格カールマルクスホーフの内容が紹介されていたが単身者用の住宅というのは恐ろしく狭いのである。 まさに刑務所の独房よりはちょっと広いと言うようなサイズであった。 日本人は狭い部屋に慣れているからその日本人の私の目から見てこれは狭いと感じるほとであった。でも家族用の住宅はしっかり広くてゆとりがあるように思えた。 20世紀の建築のほとんどのスタイルの基盤となっているルコルビジェの単身者用住宅も非常に狭い。つまり人間のサイズな縮尺のもとになっているのである。 しばらく前に黒川紀章さんの設計した銀座8丁目のカプセルタワーを仕事場に使っていたことがある。これはちょうど広さが10平米なのである。そこに金屏風を立てて座り机を置いて仕事した。 これは快適であった。しかしそこに宿泊した事は1度もなかった。 新しくできたwinの中央駅のあるあたりはwinの第10区でもともとは労働者街であった。そこの酒場に行って立ち飲みをワインでやりながら周りにいる人々のちょっとスラングのある会話を聴くのが好きだった。 1,920年代に作られた労働者用の住宅もこの辺にはたくさんある。そのエントランスのシンボルが労働を賛美するというデザインなのも非常に良い。 労働者が社会の構成要素に表現されているのである。今ではマンションのエントランスに派遣労働者とかパート従業員をデザインとして採用するようなことをする開発会社はいないであろう。 要するに「この差があの差」なのである。

2017年1月15日 (日)

カメフレックスとカメックスは別のカメラです。

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プロ用の映画機材と言えばフランスのエクレールのカメフレックスが有名だ。私は亀フレックスのコレクターなのである。ほとんどのアクセサリーは持っているつもりだ。持っていないのはサウンドステージで撮影するブリンプである。これは本体が70キロ以上あるのでちょっと手が出ない。でも昔が本気でそれを手に入れようと考えたこともある。

カメックスと言うカメラがある。亀フレックスと亀ックスは一文字違いなので最初は同じメーカーと勘違いしていた。カメフレックスはフランスのメーカー、クータンアンドエクレール社の製品だ。
カメックスは1950に世界で初めてミラーレフレックスのダブルエイトのカメラを発売した。その会社をERCSAMという。
当時の8ミリカメラはまだ不十分なものであってボレックスがハーフミラーの一眼レフシステムを出していた。それに遅れてボリュームはミラー式の一眼レフを出したが元祖はこのカメックスなのである。

Facebookで「ダブル8をドアストッパーにしないための市民の会」というのを作って遊んでいる。スーパーエイトは古くてホントはダブルエイトであるというひねくれ者のクラブである。

1973年から1980年まで暮らしたwinで私は膨大な映画を撮影した。それは16ミリもあるが多くはダブルデートとスーパーエイトなのである。最初はボレックスのエイチ8レフレックスを使っていた。

1,970年代の後半に私はボリュームのスーパー8を使っていた。ある日、ゆきつけの映画機材店、マリアヒルファー通りのムービーセンターでこのカメックスのアウトプットを発見した。アンジエニューのズームが二本とベルトレのプライムが数本付いている「プロ用アウトフィット,」だった。

当時はスーパーエイトがメインであるから今更ダブルエイトに戻るのは時代に逆行しているような気がしたが、10本ほどコダクロームで写してみた。素晴らしい色彩のコダクロームのおかげもあったのだがこのフーテージが素晴らしかった。

撮影したのは冬のwinで雪がぱらつくようなシーンである。主に室内から撮影した。この1連の風景を私は忘れない。

それから40年ぐらい経過してこの間ノスタルジーの影響でこのカメックスをフランスのツールーズに近い田舎町から手に入れたのである。

値段は非常に安かった。程度が非常に良くてアンジェニューのプライムレンズ12.5ミリとズームレンズ9ミリ× 36ミリがついていた。
そのレンズの明るさが1.4と表記されていたので私はこれはミスタッチだとばかり思っていて実際に到着したら本当に明るさが 1.4 なのである。

アマチュアの機材でズームレンズで全域が1.4 と言うのは当時としてもすごいことである。私の持っている数歩プロ用のアンジエニューズームレンズの中で1番明るいのは、これは特殊などっキュメンタリーのために撮影する17ミリから始まる2.5倍の明るいズームがある。
そのレンズは非常に大きくて重くて発売当時値段は1万ドルに近かった。1,960年代に1万ドルだからこれはすごい。それで明るさは全域 F1.1なのである。Tストップでは1.3である。

そういうプロ用機材はともかくとして1,950年代の初めの頃にアマチュア機材でこういう明るいレンズができたのは凄いと思った。名門レンズだから値段もすごかったに違いない。

家にダブルエイトのプロジェクターがあると思って探したらない。これは10数年前に岡山にあるチョートク固執堂に保管されている。
それでそれを送り返してもらおうと考えたが、考えてみれば手元にはiPhoneとかニセゴープロがあるからいちいち40年近く前の思い出のためにフイルムを手に入れて撮影をするのも面倒である。

アンジエニューのレンズは作りが異常に良くてレンズキャップなどにも手をぬいていない。それが改めてすごいと思った。
これは1,950年頃にパリのショーで撮影された会社のブースのスナップである。
映写機も作っていたようだ。このメーカーに関する情報は非常に少ない。

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2017年1月14日 (土)

ライカマイライフの表紙の候補だった街角

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「ライカマイライフ」と言うのは3年前に出した私のライカに関する遺書のようなものである。 その中で尊敬する沢木耕太郎さんとの対談が非常に重要なポイントでもあった。その時のことを思い出すに私はひどい熱であれば2月の頃だったと思うが、時間通り山の上ホテルに行って沢木さんと対談してそのことを覚えているのだが、さてどうやって佃の家に帰ったのかも記憶にない。 大変の熱が出てるときに自分の意思だけが私を山の上ホテルに運ばせたと言う感じだ。今でもよく覚えているのは沢木さんは10分ほど遅れてこられて、いきなりそこで対談が始まったのである。対談そのものは1時間45分ほどであったろうか。 担当編集の人がコーヒーにしますか紅茶にしてますかなどと聞く時間のゆとりもなかった。だから沢木さんは水を飲みつつ1時間数10分を話して対談が終わるとそのまま風のように去っていった。実にかっこよかった。 ウイーンで巨匠リヒターのオルガンコンサートを聴いた時はそうであってリヒターは舞台上に登場とすると何の衒いもなくいきなり演奏が始まるのだ。まったくあれと同じなのである。 そのライカマイライフの表紙というのは全部で3つのパターンがあって結局市販されたのはあの表紙なのだが、ここに掲載するショットというのはこの間winに行った時にwinの南の街外れて電車の中から見てあーそうだここが第二候補の表紙のショットであったなと言うことに思いついた。 私が好きなのは町外れの光景なのである。 かつてのwinの旧市街でそういうところがなぜ面白いのかというのを、一種の波に例えるのならば町外れというのは都会の文化の波打ち際なのである。 現代のwinはそれどころではなくてかつての旧市街の周囲にさらに新しい街がどんどんできているからこれを説明するならば、1,950年代までのwinの街の限界線にノスタルジーを感じたと言うのが正しい。 外側に広がった新市街が最後にここまで力を伸ばしてその南はwinの野原なのだ。

2017年1月13日 (金)

お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室

バウハウスの【ギャラリー・トーク】「お正月カフカ プラハ×アフリカ×病室」というのに行った。何か三題噺めいてどういう展開になるのか疑心暗鬼だったが、こういうカフカのパーテイもあるのかと感心した。
お三方は、頭木弘樹(カフカ研究者)×田中真知(作家・翻訳家・あひる商会CEO)×小瀧達郎というのである。小瀧さんの言い訳では大きな椅子は2つしかないと言うので館長は脇の小さな椅子に座っていた。これがまた舞台効果を上げていてよかった。

カフカはお正月の季語になることも今回判明した。

私は大脳の奥の右半分でコミカルで知的なカフカに関するお3人の会話を聞きながら、大脳の左半分で自分内のカフカのことを考えていた。

カフカとプラハとは非常に残酷な関係にあった。
カフカの生誕100年は世界中で祝福された。しかし当時のプラハは世界でただ1つカフカの生誕を祝福しないひねくれた街であった。

ビロード革命の後になってプラハはカフカ一色になった。カフカミュージアムなどは連日連夜長蛇の列である。それはそれで良いのだが非常に奇っ怪なことがカフカの顔のイラストがいわゆるユダヤ人差別の顔つまり耳がつり上がったようなそういう風貌にされているのだ。
シオニズムの関係者から文句が出なかったのであろうか。

カフカが住んでいたアパートは街の中心部であるがそのすぐ西側が巨大なゲットーだった。そこが今は名前だけが残されていて完全に新しい街並みになってしまった。私が言う新市街と言うのは百五十年前の時点での新市街と言う意味だ。

お三方のカフカの談義はほとんど無関係に見えてその実、不思議な連携性を浮上させる。それが良かった。
あっという間に二時間経過。

私は左脳で、カフカの時代のシオニズム運動とドイツ語が母国語のカフカのイーデイッシュ語はどれほど自分の言語化していたのであろうかということ、さらに関連してあの癖のある草稿のファクシミリが脳裏に浮かんだ。

いきなり小瀧館長からご指名で戦前のレンズに関して話すようにいわれた。どぎまぎして立ち上がったがその時、私はカフカが亡くなったウイーン郊外クロスターノイブルクのサナトリウムのことを考えていたのであった。

だからここの舞台はプラハなのに1938年製造のゾナーの話をしてしまった。大失敗だが、私にはウイーンのベルクガッセ19番地のフロイドの住居が眼に浮かんだのである。
その時のゾナーで私は前回のプラハの写真展の撮影をしたのだった。

お三方のベクトル方向が異なるので、結果としてお正月の三次元カフカ空間が構築された。


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2017年1月12日 (木)

ニコンエフヲモッタセルフポートレート

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この春パリで開催される中藤さんとの二人展のプリントが足りないので今セレクトしている。
その中で 1969年7月15日と記録されているネガファイルの中にこのセルフポートレートを発見した。
自分でシャッターをおしたのではないからセルフポートレートとは言えないと言う方がいるかもしれないがこれは私の指示で撮影したのだからこれもセルフポートレートになる。

この撮影場所は新宿駅西口の小田急百貨店の前の白い壁のスペースなのである。このショットは接近したものからロングショットまで10数カットある。だから私が誰かに依頼してこれをとってもらったわけだ。なぜそのようなことをしたのか?

1969年の8月末に私が最初の個展を銀座のニコンサロンで開催している。そのための案内葉書ようにこれを撮ってもらったと言うのが1番推理としては正しい。写真が面白いのはそういう使用目的等は50年近く経過すると完全に忘れ去られてしまってそこに単に写真が存在するだけなのである。

ところでニコンサロンの最初の個展が1969年でそれが1回目で1971年まで私は毎年3回連続でニコンサロンで展覧会をやった。
それから10年後ぐらいにいちどニコンサロンに応募したら、テーマ性がないとか言うのでボツになった。それ以来応募していないのですでに50年が経過している。
50年ぐらいたったらテーマ性がなくてもそろそろ写真展をやらせてもらえるかもしれない。

カメラを見るとこれはニコンのブラックに= 28ミリがついている。この画像を撮影したのはもう1台のカメラだからそれはライカである。
その1本のネガの下の方を見ていたら、今東京写真美術館で展示されている東京コレクションの中のいってんのショットが出てきた。
フォトむぜで展示されているのは当時の印画紙のテレビ用プロマイドと言うペーパーなのである。
この小さな女の子がすでに50代になっていると思うと写真はますます面白いと思う
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«ゴルゴンゾーラのマナー

ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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