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2017年8月20日 (日)

戦争写真家バローズのライカカメラ

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英国出身の戦争写真家ラリーバローズが移動中のヘリコプターで北ベトナム軍にラオスのジョークで撃墜された。同行の数人の戦争カメラマンもなくなった。

1971年のことであったが当時の日本でもわりと大きなニュースとして報道された。ラリーバローズの風貌を私は当時から知っていていつも不思議に思ったのは戦争写真家にはふさわしくないインテリジェンスな風貌だなと思っていたのだ。

にもかかわらず 3回のロバートキャパプライスを受賞している。我々が戦争写真家に対して持っているイメージはロバートキャパのような1種の鉄砲玉なのである。Khmer Rougeにやられた一之瀬にも似たような風貌があった。

ニューヨーク在住の調整さんがそのラリーバローズが持っていたメルトダウンしたライカの画像をメンションしてくれて私は言葉を失った。

これではライカの会社のポジティブな宣伝にはならないのである。ジェット戦闘機が数万フィートの上空をを飛行中に地上に落下したライカカメラが回収されてまた使えるようになったと言うのはポジティブなインフォメーションである。しかしこのラリーバローズのライカは完全に溶けて何か陶磁器のような感じになっている。サルバドールダリがイメージしたライカカメラでもある。ライカカメラが保存している飛行船ヒンデンブルク号の火災をくぐったライカカメラは米てはいるがこのような激しいダメージが見られない。

バローズの乗っていたヘリコプターは北ベトナム軍の対空砲にやられた。
私には皮肉な出会いがあった。
2000年のミレニアムの年に私はハノイから激戦地Hueを経由してホーチミンシティーまで旅をしたのである。そのハノイから当時の軍事境界線までのセクションはボロボロのハイエースで旅した。私はベトナム語はダメなので英語の通訳さんが同行してくれた。彼は1977年生まれだからまさにベトナムがアメリカに勝利した新人類なのである。

ハイエースのドライバーさんは聞いてみると北ベトナム軍の対空砲を担当する少年兵だったそうだ。
その人は運転中に闇夜でもちゃんと目が見えるのである。すなわちラリーバローズを撃墜した可能性のある対抗勢力と言うことになる。

塹壕のそばで休息しているバローズの写真を見ると彼は二台のライカカメラと二台のニコンカメラを脇に置いている。インドシナの土の上に直接カメラを置くと言うのは戦争写真家のルールだな。

彼はElmarit28ミリ愛用していた。 4台の1番左側にあるカメラがそれだ。ニコンの一眼レフには135ミリと200ミリがついているようだ。近代の戦争写真家の元祖ロバートキャパは50ミリレンズでがんばっていたが戦争が激しくなるとダグラスダンカンはそれに135ミリ200ミリの望遠レンズが加わった。

ラリーバローズも同じ時代の戦争写真のレンズの選び方をしている。

ラリーバローズのネガティブな噂としてはロバートキャパがノルマンディー上陸作戦で撮影撮影した数本のフィルムを乾燥中に事故で燃やしてしまう。これは事実無根のことであって実際にはダークルームの作業者がやってしまったことなのだ。
バローズはベトナム報道写真のスーパースターであったからそのようなやっかみの噂が生まれたのであろうか。

2017年8月19日 (土)

バルセロナのランブラス通り

バルセロナのランブラス通り仕事で1ヵ月近くバルセロナに行ったことがある。リッツホテルに宿泊していたと言うとびっくりされるがバルセロナのは系統が何か知らないが安いホテルである。不思議だったのは水道の水が塩辛いのでそれで毎朝飲むコーヒーが砂糖を加えると何かおしるこのような味になったことだ。今はどうなっているのだろうか?

日本の仕事が終わって別のクライアントの仕事を待つ数日間の間にランブラスのプロムナードを行ったり来たりした。ここは結構治安の悪い所で通の1番海沿いのところで女子大生に助けを求められた。置き引きにあったのである。パスポートの再発行で大使館に申請して身元保証人になってあげた。盗難の証明書などはその通に警察の大きなワゴンが止まっているからそこで発行できるのであるが何が便利すぎて気持ちが悪い。

海岸の方からラムグラスを上って左側winと言う名前の喫茶店があった。これはお店全体がステンドグラスでできているような不思議なカフェなのである。
毎日そこにでwin風と言われるミルクコーヒーを飲んだが本場のそれとはかなり違う。スペインとオーストリアはかなり離れているからそういうことも当然起こるのであろうと思った。ハプスブルグ家の頃はインターネットもないしね。

ある日の午後その店のカウンターに座ってコーヒーを飲んでいたらすぐ脇に座っていた若い男がいきなり立ち上がってすごい勢いで逃げていった。何が起こったのかと見ると彼は肘をついてカウンターのステンドグラスを壊したのである。

毎週水曜日と土曜日であったかランブラス通りの中ほどの広場で蚤の市があった。そこに100年以上経っているパノラマコダックで撮影したプリントが大量に売られている。それが欲しかったのだがその時は撮影のスタッフと一緒だからそんな馬鹿な事は言えない。

あのパノラマ写真を買い逃したのは今でも残念である。

バルセロナのランブラス通りでひどいテロが発生したのでそんなことを思い出した。写真は朝日新聞。Img_4040


2017年8月18日 (金)

北朝鮮の米

オーストリアウィーンに在住していた当時近くのいつも行っているスーパーで北朝鮮の米が登場した。それまではイタリア米を食べていたのであるが北朝鮮の米のほうが安いのでそれを食べるようになった。そのパッケージは今でもよく覚えている。

ただしこの米を食べる時はある儀式が必要であった。
1キロのパックの米をまず新聞紙の上に全部広げて混じっている石を拾うのである。

中学校の頃に学校の課外授業で池袋の映画館人生座で千里馬を鑑賞した。ああの国の米かと思った。

オーストリアウィーンでは普通に食べているのはインディカ米なの
である。だからちょっと懐かしかったが私は個人的にはインディカ米の方が好きである。

それから10年ぐらい後にウィーンに行く時にモスクワからの飛行機で隣に座っていた人がこれからwinの大使館に赴任する人であった。なかなか面白い人で飛行中よく話をしていた。その人は平壌の外交官なのである。

これは私が平壌の人と会話を交わした唯一の機会であった。

、私がオーストリアウィーンで味わったあの北朝鮮の米と言うのは金日成時代の米だ。
初代と弐代目が並んだ胸につけるバッチを私は持っている。それと外国から来たVIPに特別に配布する北朝鮮の歴史の絵画本も持っている。もっともこの2つはeBayで手に入れたものだ。

数年前ハノイの街を歩いてビー52が撃墜された地点の撮影に行った時たまたま北朝鮮大使館の前を通った。エントランスの掲示板には3代目のポートレートが飾ってあった。

あれからずいぶん時間がだったなと痛感したのである。Img_4015


2017年8月17日 (木)

ウィーン 薬局のこうのとりがスキ

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アイランドギャラリー私の個展ではたくさんの赤い丸をつけていただいた。感謝。 会場に行っていろいろな方から質問を受けたのは1番多いのは三脚は使いましたかと言うことだった。そんなの使いませんポケットに入れたコンパクトデジタルカメラで撮りましたと言うと皆さんびっくりしたようであった そのカメラはなんですかと聞かれて答えると皆さんまたびっくりするのである。 何か写真展の会場でやるようなちゃんとした作品はでっかいデジタル一眼レフでないと取れないと言うような先入観があるようだ。そんな事は絶対にありません。 このショットは40年以上いつも気にかけている薬局の看板のこうのとりである。この近くにもう一つの有名な天使薬局があるのだ。 私が歩き始めた40数年前にすでにこの鳥はこの定位置にいた。 だから今私が見ているこのこうのとりさんはおそらく新しい絵画に差し替えられたのか修復がされたのだ思う。 winにいるときは時間があるのでミュージアムでフェルメールなども見ることがあるがこのこうのとりの肖像画はそれに劣らぬ立派な絵画だと思う。 しかも年がら年中雨ざらしになっているのだからそれがまた大変な努力で偉いと思う。 リコーGRで撮影したがどのモデルかはよくわからない。GRの刻印がエングレービングされているやつである。あれは何と言うモデルだったかな?

2017年8月16日 (水)

スターリン印のバターケース

スターリン印のバターケース
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1,970年代オーストリアのウィーンに住んでいた時1番欲しいものはバターケースだった。カメラはたくさん買っているのにバターケースがないと言うのは不健全である。

アパートメントの裏手が広大な庭園であってその奥にアウガルテンの工場があった。バターケースを探したがアウガルテンと言うマークはあまりにも俗世間で嫌いなので探しに探してアウガルテンのマークがついていないのを発見してそれを使っていた。

日本に住むようになってからバターの消費量が激減しているから別にバターケースを使う必要もない。しばらく前にブダペストに行った時どこかでこういうスターリンの名前が入っているバターケースを見つけたのである。
クリスタル製でなかなか作りはいいし上のカバーのイラストがプリミティブでなかなか良い感じだ。

でも結局バターケースとして使う事はなくてカメラジャングルの奥のほうに押し込まれていたのをカジンガ先日発掘たのである。

家人には考古学的な才能があると見えて大昔板橋の関東ローム層の畑の中で靴の先で大地を引っ掻いていていたら出てきたのがおそらく江戸後期と思われる杯だった。
これは四半世紀ライカインコの水のみのコップに使っていたのだがライカインコ民主主義人民共和国がなくなったので最近この杯の見えなくなったがまた出てくるであろう。

私が使っているガラスの器は概ねな世界の航空会社のラウンジから出てきたものであるし後はヨーロッパの古道具屋出身のものだ。

2017年8月15日 (火)

トニーRayジョーンズの事

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1,960年代後半から1973年まですなわちオーストリーのwinに行くまでの間私の写真の海外情報と言うのはすべて銀座の明裕国際図書館でゲットしていた。

他に外国の写真集が見れるところは銀座4丁目からちょっと行ったところにあったJena書店だった。しかしこちらは本屋さんだから1日中写真集を手にしているわけにはいかない。

それで図書館に入り浸っていたのである。イギリスのクリエイティブキャメラというのが好きな写真雑誌であった。もっともあちらの写真雑誌は作品主体であって新製品のカメラレビューばかりと言うのではない。そこら辺が当時の私の価値観からしても何か真面目と言う印象があった。

トニーRayジョーンズのスナップショットに私は注目したのである。イギリスの寒いような夏のしかもあまり高級でないブライトンとかそういうところであったのだろうか寂しいバカンスを撮影したリアルな人間のドキュメントであった。

トニーRayジョーンズはあの世代で最も素晴らしいスナップ写真家であった。ニューヨークにも暮らしていてブロードビッチと関係もあったのだ。しかし30になったばかりで白血病になりアメリカの治療費はあまりに高いので故郷のイングランドに戻ってしばらくして亡くなった。

1973年に私がオーストリアのウィーンに行く前後に彼の訃報に接ししたのである。それは非常にショックだった。それまで私はロバートフランクの真似をしてライカのレンジファインダで撮影していたがトニーRayジョーンズの場合はニコンエフだった。レンズは広角レンズの28だった。踏み込んだスナップショットはライカカメラではなくて一眼レフでも撮影できるのかと感心した。

クリエイティブカメラの編集長は当時気鋭のエディターBill Jayであった。その理由は知らないがクリエイティブカメラの編集長を降りて新たにアルバムと言う名前の新しい写真雑誌を作ったのだ。私もそこに作品を出してくれと言う依頼があって早速送ったのだが結局新雑誌アルバムは世の中に出なかった。
結局幻の写真雑誌になってしまった。

私は1969年から3年間連続して銀座松屋眼鏡店の上のニコンサロンで開催した写真展の2番目のタイトルはAlbumになっている。

若くして亡くなった写真家トニーRayジョーンズのことを追悼するつもりでもあった
若くして亡くなった写真家で私の近くにいたのに戸田茂がいた。戸田も20代で白血病で亡くなっている。

2017年8月14日 (月)

ウィーン 天使薬局でリップクリームを買う

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古い都ウィーンの私の散歩道をテーマにした写真展が昨日千秋楽を迎えた。多数ご来場感謝お買い上げ感謝。 京橋のアイランドギャラリーで開催したにかいのトークショーやって最初のトークショーも満員であったが2度目のトークショーは超満員だった。 さして広いとも言えないアイランドギャラリーにあんなに人が入れるのかとびっくりした。座って話しているときは気がつかなかったがトークが終わって皆さん立ち上がったらなんというか新宿駅のラッシュの時の電車の混み方のようなのである。 でも混みすぎて人の頭しか見えないって感じの私の写真が見えないと言うことではなかったので一安心だった。 カイザーフランツヨセフがまだ若い頃に市内を散歩していてハンガリーの暴漢に襲われて間一髪で助かったしかし深い傷であったとかと言う話をした。当時は安全管理の認識がないから世界帝国のトップがたかだかお供を1人連れて散歩に出かけるなどと言うのは狂気の沙汰である。 カイザフランスヨセフは不幸な人であって奥さんはスイスでテロリストに殺されるし弟さんはメキシコで革命軍に殺されるし息子さんは愛人と心中してしまう さらに皇帝の後継者は夫婦で暗殺されてこれが第一世界大戦の発端になっている。 この街は皇帝から市民まで街をぶらぶらするのが好きであるがその理由というのが旧市街つまり昔のwin時代は街が狭かった住居の環境も劣悪であったから外に歩きに出ないとちょっとやっていられないと言うところがあった。 winは喫茶店の文化であるがこれもそうで狭い家でじっとしているより広いカフェでゆっくり新聞を読んだりした方が良いに決まっている。winの独特の文化散歩とかカフェ文化と言うのはそういう悪い環境から発生したのではないかと言う話をした。 winの皇帝のお城のエントランスのわりと近くにあるこの天使薬局は昔から好きですでに半世紀近くこれを見続けているがその間に3回大きな回収工事があった。 非常に美しいモザイクである。何十年も前を歩いて写真ばっかり撮っていて何も買い物したことがないのは我ながら申し訳ないと思ってこの前マイナス10度の冬のウィーンにで初めて店内に入ってリップクリームを1つだけ買ったのである。 これで長年の申し訳ないと言う気持ちがいくらか緩和されることになった。 エディターの具合が悪くて行を改めることができない状態になっています。すみません。

2017年8月13日 (日)

空港のエックス線検査の問題

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ギャラリーバウハウスの小滝さんがロンドンに到着した。
これは夏季休暇ではなくてもっとクリエイティブなことなのである。すなわちフイルムカメラによる写真の撮影なのだ。

彼のFacebookによるとパリの空港のセキュリティーの時に意地でもフイルムをエックス線で検査するのを拒否したらしい。

今のセキュリティーのレギュレーションでは検査を拒否した人は飛行機に乗せないと言うルーチンになっているはずだがさてどうなったか?

それで懐かしく思ったのは何か20世紀の話題に立ち戻ったような気がしたのである。1976年にヨーロッパを巡回した現代日本写真家展のときの話だが成田からチューリヒ経由で私はwinに戻った。

成田から大韓航空でソウルそこから大韓航空でチューリヒそしてスイス航空でwinと言うルートである。どこでやられたのかしれないがボレックスに装填されているコダクロームがしっかりかぶって青白い光が現像したら点々とついていた。

しかしその後検査の機械が大幅に向上してまず通常のフイルム感度なら全く問題ないと言うことになる。事実そのあと数え切れないほど数100本のフイルムを空輸したが1度も問題が起きた事は無い。

日本写真家協会が調査したところによると確かトランジットと言う想定で30回マシンを通過させても何の問題もなかった。

今にして懐かしいのは1,970年代から80年代の海外旅行と言うとパスポートを持つよりもあの鉛の袋にフイルムを入れると言うことが最初の重要な項目であった。

それとX線禁止の巨大なステッカーをスーツケースに貼るのである。そんな時代が過去のものになってしまってそれでも今フイルムのエックス線検査のことが話題になるのは何か懐かしい気がする。

私の場合は作品作りにわざと戦前のカメラなどを使っているからエックス線検査ではなくてシャッターやカメラからの光漏れのほうがはるかに気になるのだ。

2017年8月12日 (土)

ストラップのつかないカメラの方が実は かっこいい

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大竹省2先生は中国の北の川のほとりで良い風景を撮影してやれやれと思ってライカを元の位置に戻そうとしたらそのまま下の大きな川に落ちたそうである。

ライカカメラのストラップが付いていないモデルだったのでそういうことが起こったと言う話なのだがこれが先生ご自身の口から語られると実に素晴らしいエンターテイメントになっていた。ストラップのついていないカメラの逸話としては私がたくさん聞いている中ではこれが1番すごい。

ライカカメラは1932年に登場したライカ3からネックストラップアイレットがつくようになった
それ以前のカメラユーザがちゃんとカメラをしっかりしたケースに入れて使っていたのである。

だから私の少年時代にはまだ古い言い方が残っていて革ケースに入っていないカメラを使うのはカメラを裸で使うと言われた。
だから私の少年時代にはまだ古い言い方が残っていて皮ケースに入っていないカメラを使うのはカメラを裸で使うと言われた。何か兄ちゃんとか与太者のカメラの使い方で私の父などはそれが嫌いであった。

日本の戦後にすぐつくられたカメラにはまだネックストラップアイレットのついていないものがあった。このコニカカメラなどがそうである。

そういうカメラは専用の革ケースにつけて使うのが正統派ではあろうが何しろ70数年が経過しているので革ケースはボロボロになっていることが多い。カメラは金属であるからちゃんと保存されているが側の方がダメなのだ。でも少しも慌てずにリストストラップをつければ問題なく使える。

リストストラップのついたカメラで世界観が変わるのはこれを取ろうと言う時にトートバックの中から取り出すから撮影の意思がはっきりしている。言い換えればカメラの武士道がそこに具現化されているのだ。

裸のカメラをネックストラップに付けてぶらぶらさしていると言うのはカメラの武士道からすると何か剥き身の刀を持ってウロウロしているB級の辻斬りのような感じである。

大写真家桑原先生のように和服のたもとにストラップのついていないライカスタンダードを忍ばせて東京の街を忍歩くこと。

これなど本物のライカカメラ武士道と言うことだ。もちろんそれはコニカカメラにも当てはまるのである。

2017年8月11日 (金)

午前11時2分長崎の皿うどん

午前11時2分長崎の皿うどんImg_3982
東松照明さんが元気で長崎に住んでいた頃に長崎に行った。
思案橋のそばの思案橋カメラと言うところで古いコニカカメラを買ったりした。

東松さんのお宅の高台の上あたり歩いたりその丘の麓の古い市場をうろうろしたりした。

それが何の会話だったのか全て忘れているがマーケットのおばさんと話をしていた時に東松さんの話題になった。これはそのおばさんの口から出た会話だ。

おばさんの旦那さんが入院していた病院に行ったらそこにやはりおじいさんが入院していて後から聞いたらその人は有名な写真家であったと言うことなのである。
これはまさしく東松先生に違いない。

何とか橋と言う名前の終点からちょっと坂を上ったところにある食堂に入った。
天気は雨である。
注文した皿うどんとコップ酒を前にして私は東松さんの仕事について考えた。
外は雨が続いている。

長崎の原爆記念日の日に思い出して佃の家で皿うどんを作った。
外は猛暑の37度である。でも長崎のあの雨を思い出したきてコップ酒を脇に備えた。

唐松さんがキャノンカメラと仕事をしているときに大写真家から私に電話がかかってきた。
ベストなキャノンのレンズと言う質問なのである。
その当時私はキャノンのシステムを使ってたので50ミリの明るさが1.8のレンズが良いですと申し上げた。

東松さんは早速そのレンズで作品を撮影されたようであった。雨の皿うどんのコップ酒その翌日に長崎県立美術館に行って長崎曼荼羅を拝見した。
私のサゼッションした50ミリのレンズがたくさん使っているような気がしたのであった。

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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