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チョートクカメラ塾ブログ

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[ブログカテゴリ] 写真/アート :1位 / 22646ブログ中Img_3313
PHOTO TOTSUGEKI

2017年6月29日 (木)

冷やし中華はじめました

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冷やし中華の季節になった。
しかし私は冷やし中華が好物というわけではない。

私鉄沿線の駅の周辺の謎めいた商店街の路地の入り口にある大昔からそこにありそうな小さな中華屋さんに張り紙が出て
冷やし中華始めました
というポスターなのである。

そのポスターをひっくるめた街の全体の風景が好きなのであって私は冷やし中華が好きと言うことでは無いようだ。

winで暮らしていた頃1,970年代の終わりだったと思うが日本でバリバリ活躍していた山下山下Yohsukeトリオがヨーロッパのジャズフェスティバルにやってきて各地で大活躍していた。

ウィーンの工科大学の大きなホールでトリオが演奏をした。ピアノはもちろんピアノ開始が貸し出したものであってそこの会社の社長は日本の有名なジャズピアニストが演奏してくれると言うので上機嫌だった。ピアノは シュタインウェイもしくはベーゼンドルファーだったか忘れたが多分前者であったと思う。
真っ白なフルサイズのグランドピアノであった。

ピアニストは鍵盤を肘で叩いたりして最初のセッションでピアノの弦を切ってしまった。それでピアノレンタルの社長が怒って帰ってしまったのである。それはびっくりするよね。

山下さんとワイン酒場を飲み歩いた。これ楽しかった。

その頃山下さんは日本で全日本冷やし中華連合会だったか何とか会というのをやっていて私をそのヨーロッパ支部長に任命してくれたのである。

その関係がどうか知らないがwinでよく暑い日には冷やし中華を作った何か冷やし中華っぽいポスターというのが必要だと思ってどっかで見たようなものを書いてみたがなかなか冷やし中華の気分が出なかった。

その理由をいろいろ考えてみるに理由は単純だった。冷やし中華は日本の夏の高温多湿の場所でないと気分が出ないのである。

それともう一つの問題点は当時のwinではラーメンなどによく入っているあの白いところにピンクの渦巻きもある鳴門巻きが手に入らなかった。

山下さんも彼の本の中で書いているがこの鳴門巻きと言うのは冷やし中華のブラックホールの入り口なのである。だからそれがないとお話にならない。

日本に戻ってから私の個展の時に山下さんが会場に来てくれたそうである。私はその時たまたま席をはずしていたのだが会場の係りの受付の人は山下さんの大ファンなので興奮していた。

いちど山下さんとゆっくり冷やし中華を食べたいものだと思っているうちに年月が経ってしまった。

いつだったか京都で講演会をやるので西に向かう新幹線で私と坂崎幸之助さんと東儀秀樹さんが馬鹿話をしていた。
私がトイレに立った時にグリーン車の10列位前に座っていた人が山下さんだったので20年ぶり位に挨拶をした。山下さんは冷やし中華ではなくて幕の内弁当を食べていたのだがそれは新幹線だから当然である。

2017年6月28日 (水)

オートバイはバロック彫刻と同じものであることに気がつく

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シティー70計画で悪の枢軸のうちの1人、加納満が編集した私家版写真集を見て楽しんでいる。
加納はかなり変な人でその視神経が常人とは異なっているようだ。
別に加納と親友になりたいなどとは思わないからそれでいいわけである。

大体写真家同士がきのおけないフレンドと言うのは薄気味悪い。

私家版写真集の見開きの中で秀逸なのがこれである。
それぞれの写真は別に面白くもなんともない。
そこら辺にありきたりのバロック時代のニンフの彫刻の下半身だし、もう一つはイタリアの何とか言うオートバイなのである。

ところがこの2つの画像が見開きで左右に分かれると、そこに想像もしなかったシンコペーションが展開するのである。
そこら辺が加納の目の力でそれを私は認めているのだ。

思うにバロック彫刻のニンフを横倒しにして、その両足を車輪にしたのがオートバイなのである。
だから若い衆が乗りたがる。
これは70年代の写真だからアライのヘルメットはつけてないし、ジーパンのちょんぎりで実にかっこいい。

学生の頃に日大の写真学科の同級生で南ベトナムのアメリカの親方ウェストもオーランド将軍の娘と結婚していると言う話のアメリカ人の同級生がいた。

日大写真学科の前の細いしかし長い通りで彼の川崎650ダブル1スペシャルのリアシートに乗った。

恐ろしい加速で魂が抜かれるのかと思った。

意外と我々が気がつかないのだが、バロックと言うのは実はものすごい速度に対する憧れと言うものもそこにあるのかもしれない。
これが加納のセレクションで今度教わったことだ。

とにかくバロック時代は1番速い乗り物が馬であったのだから。

2017年6月27日 (火)

新東京人撮影のカメラで苦労する

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新東京人の撮影を続けている。

正式にスタートしたのは5月17日からである。その日に私は東京都のシルバーパスをゲットしたからだ。

高梨豊さんの名作東京人を見直しているが、色々新しい発見がある。

私が高校3年生の時に見たこの作品は極めて未来的だった。
それが半世紀経って今見ると極めて回顧的である。

まぁこれは当然のことであって写真は半世紀経ってその内容は寸分も違わないわけだが、それを観察する我々の時間軸の視座が違うのだ。

撮影のカメラは何でも良いわけであるがやはりライカを使うことになる。

私は今回の撮影では新古典主義を標榜しているので、最初はライカエムモノクロームを使おうと思ったらやはり大先輩になぞらえてフィルムカメラで撮りたいと思った。

このカメラはライカエム4ピーである。大昔から家にあるカメラである。
この間偽ライカ愛好会からま新しいクロームのライカM2をお祝いにいただいたのだが、私は貧乏性だから使うのがもったいない。

それで安心して使える古いライカを選んだ。

しかしそれではまた新しいライカを下さった皆さんの善意を踏みにじるような気がして、ライカM2の底蓋だけをエム4ピーにつけた。

さらに6月10日のCT 70の大宴会の時に加納満がくれたハンドグリップをつけた。

それで新東京人の撮影に出かけるときは3本のモノクロフィルムをもっていくのである。
108枚である。
人間の写真の煩悩がそこに象徴されている。

win時代と同じように印画紙の現像液を希釈してそれをフイルム現像に使っているのであるが、希釈率を勘違いしていてすべてネガが真っ黒になっていた。

それが最近になってようやく昔の希釈率を思い出したのでいいネガに戻ってきたのはありがたい。

2017年6月26日 (月)

6月25日はフィルム式カメラの日

🇻🇳京都のギャラリーメインでの私のモノクローム半世紀展示は千秋楽。
ご来場感謝。

東京の北部西新井大師から近い、そこを私が勝手にそう呼んでいる「リスボン公園」という区立公園がある。
昨年の冬の初めに改修を始めてその間ずっと工事中であった。その工事が終わって竣工したらしいのでそれを見に行った。

東京駅北口1番バス乗り場からお昼過ぎ12時6分の荒川土手行きに乗った。

GLAYの梅雨空の湿度の高い街だがバスは乗客が少なくて冷房が効いているので逆に寒い。
それでいつも持ち歩いている我楽多屋のトートバックの中に入っている黄色いナイロンのくまもんバックを出して三枝腕に巻いた。
こうすると冷房の吹き出し口から出てくる冷気を防ぐことができる。

車内からいつものランドマークとそこを行き交う新東京人を撮影したバスは荒川を渡って荒川土手に着いた。

降りる時にバスの運転手さんが
「フィルム式カメラは珍しいですね。僕なんかデジタルカメラで楽をしています」と言った。

ごくまれにこういう会話ができるのは嬉しい。それは大抵路線バスとか路面電車の終点に限られるのである。

6ー7年前にプラハの路面電車の11番と言うのがあってその南の終点にあるのが奇妙な形をした鉄塔なのであるが、それを撮影に行った時やはり終点の路面電車の車内で運転士さんとカメラテクニックについて語ったことがあった。
これも私が持っていたライカエム5…つまりフィルムカメラの話なのである。

それで荒川土手の終点のバスの運転手さんと話した短い会話の中で、フィルム式カメラというのが非常に気に入った。

フィルムカメラではなくてこれからはフィルム式カメラと呼ぶことにする。

なになに式と言うのは機械学のダイナミズムがそこに感じられるからだ。

航空機にしてもそうだ。
それぞれの航空機はライト式、ファルマン式、ロッキード式、ボーイング式と呼ばれているではないか。そこにはアビエーションの冒険がある。

だから写真の冒険の場合はマキナに対してフィルム式カメラと言う認定をしても良いわけだ。

6月1日は写真の日であるが、6月25日はフィルム式カメラの日と命名しよう。


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私家版写真集CT70より


2017年6月25日 (日)

ZUG LUFT 列車風

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ZUG LUFT というのはドイツ語で走行中に窓から入ってくる風とかプラットホームで列車が走ってきたときに起きる風のことを言うのである。なかなか実存主義的な良い言葉で感心している。

以前からこれに相当する日本語がないと言うことが不思議に思っていた。

ところが先日メトロの三田駅のプラットホームの上にこのような大きな表示を見つけてうれしくなった。

列車の風であるからこれは非常にうまい表現である。その英訳がちょっと気に食わなくて強風と言うよりもこれはトレインウインドでいいと思う。

その列車風であるが私もいろいろ苦労した。

スペインのマラガに行った時現地でパナマ帽を買ってきたのである。
それが自慢であったがその新品のパナマ帽を列車の風でホームに落としてしまった。

私は少しもあわてずにもう一回階段を上って改札口にいる駅員さんにお願いしてそれをマジックハンドみたいな取っ手の長い道具で拾ってもらったのである。

私の住んでいる東京メトロの月島駅はこの列車風で有名なところだ。
何しろトンネルで隅田川をくぐるのである。だから気密性はかなり高いようだ。

上りのメトロと下りのメトロが出た直後などは1種のフイゴの運動のようになってしまって立っていられないほどの強風が起きる時もある。

駅ではそれを申し訳ないことをと言うふうに考えているらしくて、私の見たところ何の表示もないがこれは逆に町おこしに使えるのではないかと思う。

東京メトロ月島駅列車風の街。

2017年6月24日 (土)

縮刷 緑雨全集

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文士の斉藤緑雨が好きだ。
博文館が大正11年に出した彼の全集がある。
全一冊であって縮刷版とあるのだ。

値段は3円50銭であった。
緑雨が絶賛しサポートした樋口一葉の全集も巻末に広告が紹介されている。
それも3円50銭なのである。

当時の3円50銭は貨幣価値がわからないが35,000では多すぎるし3,500円では少なすぎる気がする。

私が知りたいのは斉藤緑雨が亡くなる少し前に今の深川森下町、当時の湯灌場大久保のお寺の南の汚いどぶ川の南側にあった棟割長屋で開催された雅の宴会のことである。

その内容は緑雨自身が書いているのだが、全集を探したが見当たらない。あるいは雑文なのでどこかに落とされているのかもしれない。

彼の親しい友人数人が集まって棟割り長家で宴会をした。
長屋の部屋は四畳半と三畳しかないから当時住んでいた愛人と彼女の母親は外に退散したとある。

刺身、膾の大皿を1つ。そら豆を一升。
近くの酒屋から酒を四升をとってそれでもたりないので後で二升追加したとある。
なかなか地味だけど粋で楽しい宴会であったようだ。こういう宴会なら自分も開催してみたいと思う。

斉藤緑雨全集には3,000円と言う値札が付いていた。さらに小型だけど分厚い本の真ん中あたりにエジプトのホテルの名刺が挟んである。だから10年前にこの本を持ってカイロに行ったことがわかるわけだ。

この本がかなり凝った作りでイントロダクションは作家の名前にちなんで緑色のインクで印刷されている。それが百年近く経っているので退色して非常に見にくい。

本文はちゃんと活版刷りであるからそっちの方が読みやすい。今のオフセットと違うから印刷の活字に押されて用紙がかすかに凹んでいるのも好ましい。

総ルビ。

2017年6月23日 (金)

なんとなくクリスタルグラス

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ニコン100周年と言うことでニコン1型のクリスタルグラスがスワロフスキーから出るそうだ。世の中では200,000円近いのが高いとか言っているけれども、エディションにもよるがこれは安い買い物ではないかと私は思う。

ただし考えるにカメラというのはクリスタルグラスにすると見栄えが悪いというのが残念である。
これが他のモチーフであれば光をうまい具合に反射して燦然と輝くのだ。

これはおそらく四半世紀前にwinの空港で搭乗直前に買ったと思うがそういう馬鹿な買い物は最近はしなくなった。これは年の功と言うやつであろう。

でもこのハリネズミのフィギュアと言うのは実にクリスタルグラス向けにできているのでびっくりした。部屋を片付けていたら偶然登場したのである。

光が半分逆光の時にクリスタルグラスはこのように素晴らしい輝きをする。

うちがハリネズミのはーくんをかっていたのは1,980年代後半であった。当時は獣医さんに連れて行くとまだ珍しいので、おう!ハリネズミですか!?
もっとよく見せてくださいなどと大人気だった。

最近はハリネズミも普及しすぎてちょっと面白みがない。その私のハリネズミの昇天した日が1988年の12月24日であった。この日は忘れない。
それで家人と一緒にハリネズミの針を持って翌年1989年の2月にwinに行った。
これを針供養と言うのである。

その時ウィーンの空港には濃い霧のため着陸できなかったので、ダイバーとしてプラハ空港に降りてそこで一泊した。その日はチェコの民主化のデモが最大限に沸騰した夜であった。その年1989年の11月にあのビロード革命は達成されたわけだがこの2月の寒い夜に既にすべての方向は決まっていたのだと言ってものだ。私は友人のプラハのジャーナリストと一緒にプラハのペンクラブにビールを飲みに行ったが非常にリラックスした気分であった。これもハリネズミのおかげなのであろう。

考えてみればこれはハリネズミのお導きによるものなのである。
アーメン!

2017年6月22日 (木)

なんとなくクリスタル

なんとなくクリスタルImg_3400
新東京人の撮影で東京の街をライカにインドスター50ミリをつけてとっているのだが。
前にも書いたが絞りと距離が勝手に動くので、とてつもなくオーバーになったりアンダーになったりする。

それでライカのインドスターにはテープを貼って固定して一安心した直後に、このクリスタルがカメラジャングルから登場した。製造番号から判断すると1961年生。いわゆるグレーハンマートン仕上げである。

この仕上げで最もレアなライカはM🐕Dの試作機であってそれは 20台ほど製造されたようである。そういうのは手に入らないから我々一般カメラ人類はこのクリスタルで我慢するわけだ。しかし当時のスペックからしてもこっちの方が一眼レフだし大変な進化だと思う。

最近では似たような仕上げを普通のラッカーで出来るようだが、

おそらくこれは1961年生まれであるからちゃんとしたプロセスで焼付塗装をしたのであろうか。

ソ連製のカメラであるから作り方のコンセプトが中途半端であってトップカバーはこーゆー仕上げだが、ボトムカバーは普通のクロームなのである。
それで馬鹿にしていたのだが考えてみるとスイスの超高級一眼レフアルパもそうであって、トップカバーはいろいろな仕上げがしてあるがボトムカバーはそれとは関係のない色であったりする。
それでゼニトの仕上げが上と下で違うのはけしからんと言っておきながらアルパは上と下で仕上げが違うのは趣味が良くて素晴らしいなどと言い出す私は一子のカメラ差別論者である。そういうのはいけませんね。

この一眼レフはマウントは旧型ゼニットマウントであるから、その直径はライカと同じ39ミリなのだ。特筆すべきはファインダーの見えが非常に良いことだ。
まだフレネルレンズを使う以前の段階なのでコンデンサーレンズをスクリーンに使っている。それでピントの頭が非常に見やすいのである。

2017年6月21日 (水)

桂一さん

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田原桂一さんが亡くなったのが6月の6日である。

私はその時文京区の白山あたりを歩いていて、偶然斉藤緑雨の墓所に行きあたった。
それで思い出すと言うわけではないが、しみじみした無常観をそこに感じてそれは6月の初めの空梅晴れであって、何やらフォトジェニックなのであった。

私は半分壊れたレニングラードを持って久しぶりに白山界隈を撮影していた。

それで夕方に佃の寓居に戻ったら桂一さんの訃報に接したのである。

最後に彼に会ったのは1985年の秋のパリであったから私は当時38歳で桂一さんは私より5歳年下だから33歳と言うことになる。

昨年の夏に四谷のギャラリーニエプスで写真展をやったときに、桂一さんが来てくださったと言うことを中藤さんから聞いた。

それでそのまますっかり忘れていたのだが、芳名帳を見たら桂一さんのサインがあった。
単にサインだけではなくて

長徳さん元気ですか?

とあるのだ。これには参ったなぁ。

何にやられたかと言うと彼の直筆の文字にやられたわけである。今の我々はメールのポストスクリプトの文字に慣れているから、そういう文字では何も感じないが、実際に彼の肉体で彼の時間の中で書き記したいきた文字列と言うのは効くのである。

何にやられたかと言うと彼の直筆の文字にやられたわけである。
今のわれわれはメールのポストスクリプトの文字に慣れているからそういう文字では何も感じないがたまらんが実際に彼の肉体で彼の時間の中で書き記した生きた文字列と言うのは効くのである。

やっている写真の方向が全然違うから桂一さんと一緒に仕事をした事はそれでも一回だけあった。
ニコンの一眼レフの広告で確か見開きページで右側が桂一さんで左側が私なのだ。

私の尊敬する唯一のファッション写真家リチャードアヴェドンは確かなくなったときはその前日にニューヨーカーの撮影の仕事でヒューストンかどっかに行っていた。

そこで客死したのである。
桂一さんの場合もほぼそういう客死に近いのではないかと考えている。

いわば壮絶な写真家の人生のエンドと言うわけだ。p

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レニングラード。ジュピター50ミリ

2017年6月20日 (火)

ヒゲは重要なフィルム乾燥の道具だ

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あちらこちらに書き散らしてすでに伝説化しているが、ウインの7年半の間に撮影した2,000本のフィルムのほとんどが現像液は印画紙のものを希釈して使っていた。

で今では現像液を買うのには困らなくなったが、5月の20日と言う日に偽ライカ愛好会の有志がお祝いをしてくれてその時にメンバーがライカM2と30本の白黒フィルムをくれたのである。敬老精神に溢れているな。

それがきっかけで今の東京をとろうと思い立った。タイトルは「新東京人」である。私は高梨豊さんの直弟子のつもりでいるのだ。

しかしせっかく撮影するのだからwinの時代を見習って印画紙の現像液でしようと思った。

希釈用の現像液を 1対20にー割って20度ちょっとの液温で15分ぐらいである。
こういうデータは変わらないものでちゃんとwin時代のあのちょっとクセのあるトーンカーブのちょっとねじれた調子のネガができた。

win時代には建築されて100数十年の古いアパートに住んでいて天井がやたら高かった。そこにレースの高いカーテンがぶら下がっていたので、そこにピンクリップをつけてネガ乾燥したのである。

今の寓居は天井は高くないからそういうやり方はできない。
それで普通のバスルームに乾燥すると言うやり方である。

水洗のあがったネガをスクイーズするときには両手が塞がっている。
だからバスルームからぶら下げたピンクリップを持つところがないのである。

ふと思いついてヒゲから六個のクリップをぶら下げてみた。これはなかなか調子が良い。

ピエールガスマンはあごひげがないのでそれはやってなかったと思うけど、アンセルアダムスだったらやっていたかもしれない。

それにしても非常に不思議なのは私のFacebookのアップした写真のクリック数である。1番クリックされているのはこの間、悪の枢軸さんが祝ってくれた私の古希の大祝賀会である。その時に作ったTシャツの図柄が、これはwinのアパートでの私の鏡に映ったセルフポートレートであるのだが1番人気だった。

それで不思議なのはFacebookのクリックされた写真の3番人気と言うのがしばらく前にアップしたバスルームに二本の現像済のネガがぶら下がって乾燥されているところなのである。

思うに現代人は忙しいしデジタルカメラでしか仕事をしないから、モノクロのネガの乾燥などは言い換えれば南フランスにバカンスに行くようなのと同じでちょっと洒落た生活スタイルになるのであろうか?

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ごあいさつ

  • 2016/6/30 フォトメンタリーさんとの契約が終了しました。ありがとうございました。
  • リニューアルのごあいさつ 本日より「冠スポンサー」にPHOTOMENTARYさんをお迎えして「PHOTOMENTARYチョートクカメラ日記」がスタートします。 オリンパスさんには長年のサポートまことに有り難うございました。 今後ともご愛読のほどよろしくお願いします。 2014年10月16日@@@田中長徳 ^^^^^^^^^^^^ チョートクカメラ日記は最初は2001年5月、月刊「カメラジャーナル」上の月一度の「紙の上の日記」としてスタートしました。 2003年7月から「MJチョートクカメラ日記」として本格的に始動し、総計650万ページビューを超えるオンラインカメラ日記に育ちました。 これも皆様のご支援のおかげです。 本日「冠スポンサー」が、初代メデイアジョイさん、二代目駒村商会さんに続き、オリンパスさんにバトンタッチして、新規のスタートをきりました。 デジタルカメラの未来と、銀塩カメラの未来を縦横に語って行く 「PEN PENチョートクカメラ日記」を 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 2009年12月17日 @@@田中長徳  
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